第四十二話 「ロスタイム」(前編)
夕暮れ間近の歩道を、一台の自転車がふらふらと走行している。
そこそこ幅のある歩道は、格子状になった柵とその手前の植え込みを車道との境としており、広々としていた。
自転車に跨っているのは、年の頃なら二十歳前後。髪を明るい色に染めた青年である。
着飾ってはいるが気だるげな顔をしており、視線は行く手を見定めていない。
億劫そうな表情で見つめる先には、ハンドルに乗せた手で保持する携帯の画面。
メールを打つことに意識が向いているせいで運転は頼りなく、時折大きくふらついてはすれ違う者を脅かし、睨みつけられ
ている。
それは、この国では極々ありふれた光景であった。
だが、大きく視点を引けば、決してありふれてはいない物が、風景に紛れ込んでいる。
青年の行く手で道と交錯し、歩道を見下ろす陸橋。
その上の、港まで運行している貨物専用の線路に、黒いバイクが止まっていた。
本来乗り入れられないはずの位置でアイドリングしているバイクに跨るライダーも、バイク同様黒一色である。
黒革のつなぎに身を包み、顔を覆う黒い被毛を僅かな風にくすぐられているライダーは、人間の頭部をしていない。
耳は人間と違って頭頂部に寄っており、顔の下半分が前に向かって少しせり出している。
猫科の肉食獣…黒豹のそれである。
黒一色のライダースーツに黒い被毛と、どこもかしこも黒で染まったそのライダーは、夕闇迫る空を背負ったその状況では、
まるでバイクと一繋がりの影にも見えた。
異形ではあるが、ボディラインから女性である事がはっきりと判る。
丈夫な革のつなぎはバストが大きくせり出しており、ウェストはくびれて尻は理想的に締り、腿は程よい太さをしている。
出具合、くびれ具合、締り具合にそれらのバランス…、全てが完璧といえるほどのそのボディラインは、体にフィットする
丈夫なライダースーツ越しにも判った。
アズライル。それが黒豹の頭部を持つ、美しい半人半獣の名である。
以前は別の名もあったが、そちらは捨てて久しい。
今では与えられた名を名乗る事に、そして呼ばれる事に、違和感も疑問も覚えなくなっていた。
縦長の瞳孔を備えた漆黒の瞳は、ふらふらと蛇行する自転車に向けられている。
恐らくは乱れが生じるであろうと管制室が予測したポイント…。それが自転車に乗る青年であった。
予想時刻が迫っている事を、青年を監視しつつ確認したアズライルは、車道を正面からこちらに向かって走って来る大型ダ
ンプを目で、背後からこちらに走って来るバスを耳で、それぞれ捉える。
これから何が起こるか知っている黒豹は、祈るように目を閉じた。
その数秒後、ハンドルに乗せて携帯を弄っていた青年の手がずるりと滑って、自転車は制御を失った。
右手側へよろめき、サドルから尻を前に落とした青年は、慌てて足を地面につけるが、全ては遅い。
ハンドルに胸でのしかかるようになったその前のめりの姿勢では、咄嗟の制御は難しかった。
半ば右側へ転ぶようにして、植え込みと柵の切れ目から車道へ出て行く自転車。
気付いて急ブレーキをかけつつ、青年と自転車を避けようと反対車線側へ出て行くダンプカー。
しかし完全に避け切るには、自転車の動きはあまりに唐突で、制動のタイミングは遅過ぎて、結局、転ぶように頭と右肩を
車道側に向けて出て来た青年の頭部を、バンパーの角で跳ね飛ばした。
砕けるような音と潰れるような音と湿った音と重い音が混然となった、顔を顰めずにはいられない嫌な激突音は、クラクショ
ンとタイヤのスリップ音にかき消される。
そして左前輪に自転車を巻き込んだダンプは、対向車線を走って来たバスと、それぞれの運転手がお互いの顔にへばりつく
驚愕と恐怖の表情を確認できるほどフロントを重ねあった位置で、車両の悲鳴にも嘆きにも聞こえるブレーキ音を上げて激突
した。
歩道に佇む青年は、呆然とした面持ちで惨状を眺めていた。
交通整理する警官と、群がるやじ馬。
路面を埋める、ダンプが零した運搬途中の砂。
入れ替わり立ち代り、ひっきりなしにやって来ては走り去る救急車に乗せられ、そして運ばれてゆくバスの乗客達。
そして、ハンドルがすっぽりともげて、無残なスクラップになっている、見慣れた自転車…。
「酷い事故だな…」
ぼそりと背後で呟かれた言葉に、青年はビクリと身を竦ませた。
恐る恐る振り返れば、黒豹の顔をした異形の女がそこに立っている。
接近に全く気付かなかったが、青年から5メートルと離れていない歩道の植え込み脇にバイクを停め、ゆっくりと歩み寄っ
ている途中であった。
「な、な…!」
何だお前?そんな問いを発しようとした青年は、しかし感じ取っていた。
目の前に居る怪物じみた姿のソレが、どういった存在であるのかという事を。
それは、魂のDNAに刻まれているとでも言うべきか、肉の体を失い魂の体になると、地上の者の多くは、普段は認識すらで
きず存在すら知らない彼らの事を、瞬時に理解する。
思い出すにも等しい感覚と供に、その知識を甦らせる。
彼女が「何」であるのか悟ったらしい青年へ、アズライルはゆっくりと頷きかける。
「君に、旅の終わりを告げに来た」
何度と無く口にしてきたその言葉を、他の誰かが喋っているように自分の耳で聞きつつ、黒豹は考えていた。
ああ、まただ。と…。
案の定、青年は恐怖と憤怒の入り混じった表情を浮かべて泡を飛ばす。「死にたくない」「自分が何をした」などと、アズ
ライルが聞き馴染んだ台詞を。
似通ったタイプの人間は、どうしてこうまで似通った事ばかり言うのだろう?
あまりにも似通い過ぎているせいで、滑稽を通り越していっそ不思議であった。
「携帯の操作に夢中になり、事故を起こした…。度を超した不注意さは、旅の終わる理由としては十分だと思うが?」
黒豹の言葉に、青年は目を剥いた。
「だ、誰でもやってんだろこんな事!?何で俺だけこんな事で死ななきゃなんねぇんだよ!?」
受け入れられずに喚く青年を真っ直ぐに見つめながら、アズライルは静かに呟く。
「「何故こんな事で死ななければならないのか」…彼らもきっと、口がきければ同様の事を言うだろう」
首を巡らせた黒豹の視線を反射的に追った青年は、ぐっと声を詰まらせた。
ひしゃげていたドアがようやく撤去できたダンプカーから、血塗れの運転手が運び出されて行く。
ぐったりとしているその中年が既に事切れ、一足早く旅立っている事が、今や死者となっている青年にははっきりと判った。
「お、俺は…、まだ若い…!死ぬのは早過ぎるだろ?な!?」
アズライルが己の命運を握っている事を、顔色を窺い周囲にあわせる事に長けた世代の青年は、敏感に察知している。
だからこそ、どうにかして貰えるのではないかと期待をこめて弁解を試みた。
自分はそれほど悪くないと、いや、悪いかもしれないがたまたまの不注意が招いた事故で、悪意は無かったのだと、青年は
媚びるようにしてアズライルに訴えた。
が、黒豹は彼の長々とした、そして身勝手な言い分を、吐きたいだけ吐かせながら表情一つ変えはしない。
ただ黙ったまま考えている。因果管制室の予測は、今回も正しかった。と…。
冥牢に行かねばならない咎のある魂は、時に己の行く先を受け入れない。
そしてその場合、自然に開くはずの冥牢へのゲートが、本人の強い拒絶の意志によって出現を阻まれる事もある。
これは、咎を背負った自覚を持たない魂にのみ見られる傾向である。
この青年に関しても、冥牢行きを受け入れない可能性が大きかった。
それ故に近場に出向いていたアズライルに観察役が回ってきたのだが、案の定、青年を受け入れるゲートがいつまで経って
も出現しない。
青年の話につきあっているアズライルではあったが、しかし彼女には最初から問答するつもりなど無い。
そもそもこの青年が旅を終えた事は動かし難い事実であり、アズライルといえどもどうこうできる類の事でも無い。
それでも青年の並べ立てる言葉を浴びて佇んでいたのは、ゲートが出現するかどうかを見極めていたからである。
やがて、黒豹は片手を腰の後ろに回し、大型拳銃を引き抜いた。
「な、何する気だ?それ…、それどうするつもりだよ!?」
怯える青年の視線を浴びつつ、ジャカッと音を立てて上部がスライドしたデザートイーグルは、マガジン内に込められてい
た弾丸を咥え込み、発射準備を整えた。
「咎を洗い落として来るが良い。君の次なる旅に、幸あらん事を」
宣告と別れの言葉を一方的に投げかけ、アズライルはトリガーを引き絞る。
轟音と供に射出された弾丸は、後ずさろうとしていた青年の足元に着弾すると、波紋を広げるようにして円を作り出した。
瞬時に広がり青年を囲んだのは、黒い円。
そのぽっかりと空いた穴のような黒の中へ、青年の足がズブリと沈み込んだ。
恐怖に顔を引き攣らせた青年の体を、タールの沼のように波打つ黒の中からズボズボと生えて来た無数の腕が捕らえにかかっ
た。
腕に続いて現れたのは、タールがそのまま形を成したような黒い人々。
その姿は青年の咎の象徴、つまり、自分が引き起こした大事故の犠牲となったバスの乗客やダンプの運転手達を象っていた。
実際には、彼ら本人が青年を取り押さえている訳ではなく、黒い穴が映した青年の罪悪感がその像を結んでいるに過ぎず、
中には死亡していない者の姿も含まれている。
己の咎の意識が見せる幻像達によって、穴の中へ引きずり込まれてゆく青年を、アズライルは冷ややかに見送る。
彼女は、時々判らなくなる。
人間は、どうしてこんなにも過ちを繰り返すのか?どうしてここまで愚かなのか?
彼女が出会ってきた中には、共感を覚える愛すべき魂の持ち主も居れば、敬意すら抱くような高潔な魂の持ち主もあった。
愛する者の為に、社会的な罪を、そして魂に咎を背負う事を覚悟して、復讐を果たそうとした、か細く頼りない若者…。
愛した者の為に、己の魂を咎で汚す事も厭わず、凶悪な犯罪者となった身内を断罪しようとした、色白の太った男…。
己の死を受け入れ、最期一目会えた兄にすら何も告げずに堪えていた、気高き凄腕ライダー…。
アズライルから見ても、その決して長くは無い旅の間に高潔な魂や強靱な意志を持ち得るに至った、評価できる人間は居る。
だがそれはほんの一握りで、世の大半を埋め尽くす人間は、彼女にとって評価すべき点があまりにも少ない者ばかりである。
彼女の同僚である北極熊は、そんな疑問にも穏やかに答える。
地上の命が宿す価値は、多くの欠落を抱える自分達が見出せる物ばかりでは無いのだ、と。
彼がそう言うならばそうなのだろうとアズライルは思うが、それでもこうして時々疑問が頭をもたげる。
青年が無事に冥牢へ送られた事を確認し終えたアズライルは、そんな物思いを中断すると、拳銃を腰の後ろへ回し、ホルス
ターに戻してロックをかけた。
そして踵を返しかけ、しかし訝しげに眉根をよせて立ち止まる。
「…?気配が、まだ…」
呟いたアズライルの視線は、現場の確保を始めた警官達や野次馬の中を素早く巡り、やがてある一点に止まった。
進入禁止のテープをひらりと飛び越え、ツカツカと現場のまっただ中へ向かう黒豹は、しかし誰にも見咎められない。
触れそうな程にすぐ傍を通り過ぎられた、屈み込んでいる中年警官も、野次馬を押し留めている若い警官も、取り囲む野次
馬達も、一人としてアズライルに注意を向けない。
やがて、接触事故が起こった地点から少し離れた場所、ダンプを避ける形で電柱に突っ込んでいるワゴン車の脇に立った黒
豹は、足下に落ちているそれをじっと見つめた。
「…死記が…。誰が落としたのだ?」
アズライルが拾い上げ、眼前に翳したそれは、サッカーボールをぺたりと潰して意匠化したような、楕円形の金属プレート。
中央にあしらわれた長方形の枠に名前が刻まれている、短い鎖が切れたキーホルダーであった。
しばし入念にそれを検分していたアズライルは、おもむろに手に包んで握り込む。
フォシュッと音を立てて握った手の隙間から黒い煙が漏れ、次いで開かれると、そこにはキーホルダーに加えて一枚の葉書
が出現しており、黒い手が開くのに合わせて開いて伸びた。
それは、一般的に死と呼ばれる終点を目指して旅する者達が必ず持つ、生の記録。
落とされたキーホルダーに宿っていたそれを、確認しやすいよう葉書に変え、そこに浮き出たアラビア文字を目で追ったア
ズライルは、
「どうやら、先程の救急車で運ばれた者のようだな…」
すぐに追いつけると判断しながら呟くと、葉書を懐に収めた。
因果の乱れに絡んで他の異常が発生する…。この程度の乱れの連鎖は珍しくない。
イレギュラーな事態に携わる事が多い死記の配達人をやっていれば、十数回に一度は遭遇するケースである。
だからアズライルも、それほど特別には受け止めていなかった。
たった今懐に収めた死記が、自分に、そして自分達のチームに、未曾有の変化をもたらすきっかけになるという事を…。
同時に、忙しいながらも満たされていた、仲間達との配達の日々に終焉をもたらす引き金になるという事を…。
アズライルは、夢にも思っていなかった。
若草隼人(わかくさはやと)は、開けたばかりの目に飛び込んできた白色の灯りと見慣れない天井に戸惑った。
「…あれ?」
日に焼けた色黒の顔を顰めると、すぐ近くで点滴を吊していた中年女性看護師が慌てて声をかけた。
「あ、だめですよ起きちゃ!もしかしたら頭を打っているかもしれないんですからね!」
「頭…?」
そっと手をやってみると、鉢巻きのように額に巻かれた包帯の感触を指先に覚える。
「オレ、どうしたんだ?」
首を捻って状況を確認しようとしたら、日々の激しい運動で引き締まった体が、ぎしっと軋んで痛みを訴えた。
「運が良かったですよぉ貴方。一番軽傷ですからねぇ」
「軽傷?」
痛みに顔を顰めたハヤトに、看護師は「先生呼んできますからね、じっとしてて下さい」と言い残すと、足早に部屋を出て
行く。
ベッドに寝たまま部屋を見回したハヤトは、そこが病院で、自分がいるこの部屋が診察室か待機用の部屋であるらしいと察
しを付ける。
「軽傷?運が良かった?何だっつーのよ一体?」
呟くハヤトは、しかし若干憮然としている。
(あのおばちゃん看護師、オレが誰なのか気付いてなかったっぽい…)
自分が誰なのか気付いて貰えなかった事が少々面白くなかったハヤトは、軋む体を起こし、きょろきょろと辺りを見回す。
全身に残る体の痛みは、同じ姿勢でクッションの悪いベッドに寝かされ続けていたのが原因だったのか、動かすとほぐれて
少し楽になった。
「…うおヤベ!」
壁掛け時計に目を止めるなり唐突に声を上げたハヤトは、顔を顰めながらベッドから降りた。
「こんな時間かよ!?試合に遅れちまうっ!」
携帯電話も見あたらず、荷物もどこにあるのか判らなかったが、ハヤトは点滴を引っこ抜き、包帯をかなぐり捨て、あわた
だしく部屋を出て、忙しく行き交う病院関係者や患者の中に紛れ込み、出口へ向かった。
衣類も汚れておらず、額の擦り傷も目立つ程の物では無かったので、誰もハヤトを見咎めない。
おまけに、事故関係者として事情を聞くべく待機していた警察官すら、この時偶然にもトイレに立っており、ハヤトの脱走
には誰も気付けなかったのである。
こうして、死者4名、重体6名、軽傷17名にも及ぶ大事故に巻き込まれながらも、奇跡的にほぼ無傷だった男…。死記を
失ったプロサッカー選手のハヤトは、こっそりと病院を抜け出した。
「…匂う…。どうやら近いようだな」
アイドリングしているバイクに跨ったまま、アズライルは病院の搬入口を見つめて呟く。
救急車の邪魔にならないよう、ロータリー脇の歩道にバイクを乗り上げている黒豹は、おもむろに右手を胸に当てる。
懐に収めた葉書形の死記もまた、脈動するように微かに蠢き、持ち主が近い事を彼女に知らせていた。
アズライルは気配を嗅ぎ分ける事で、いくつかの病院に分けて搬送された事故の怪我人達の中から、迷うことなく配達先を
特定している。
以前は他の気配…、因果の乱れなどと混じり合う事で見失ったりもしたが、経験を積んだ今では惑わされる事も殆ど無い。
エンジンを止めてバイクを降り、救急隊員達があわただしく出入りする搬入口に向かって足を踏み出したアズライルは、し
かし五歩も進まない内に足を止めた。
気配が移動している。それも、自分から遠ざかるように…。
悟ったが早いか踵を返したアズライルは、バイクにひらりと跨ってエンジンに火を入れる。
死記の接近を無意識に感じ、これまた無意識に遠ざかろうとする者も、時には居る。
死記が手元になければ旅を終える事ができない。つまり死ぬ事ができない。
殆どの者にとって死は忌むべきものである以上、気配を察する事ができれば遠ざかりたくもなる。
死記の配達先が自分から離れてゆくというこの現象を、数え切れないほど経験して来たアズライルは、慌てる事もなくバイ
クをスタートさせた。
対象は、今見えている病院裏手とは反対側にある、面会者用出入り口から外へ出たらしい。
タクシーを拾ったのか、やけに早い速度で離れてゆくのが黒豹には感じられている。
タイヤ止めでバイクを跳ねさせ、垣根を跳び越えて駐車場に侵入したアズライルは、
「っ!?」
その、異常な気配を察知してハンドルを切り、バイクを横滑りさせて急激に角度を変えた。
けたたましいスリップ音を響かせ、駐車場の中央にある植え込み、その木陰に愛車を滑り込ませた黒豹は、既に銃を抜き放っ
ている。
総毛立った身体を緊張させ、油断無く周囲を窺ったアズライルは、銃口を空に向ける格好で握った拳銃を、右手で顔脇に保
持したまま、素早く携帯を取り出す。
いつの間にか、確かに感じたはずの嫌な気配は消えていた。
『どないしたアズライル?随分早いけどもう終わったんか?』
「いや、まだ配達途中だ。…ミカール、訊きたいのだが…、現在この近辺をうろついていそうな…、盗魂者の発生情報はない
だろうか?」
『はっ!?何っ!?すぐ調べるさかい待っとれ!』
驚いているらしい同僚の声に続いて訪れた沈黙を、アズライルは周囲を観察しながら潰す。
気配はもう無い。だが気のせいだったとも考え辛い。
敵意にも似た物を捉えたその感触は、体の芯に微細な棘が刺さったように残っている。
(何かに見られた…。間違いない。何かが私を見止めた…。それも、敵意を抱く何者かが…)
抜いた銃はそのままに、アズライルがじっと待っていると、
『今のトコ情報は無いし、センサー類も動いてへんな。けど、感じたんか?』
そんなミカールの怪訝そうな声が携帯から流れ出てきた。
「いや…、盗魂者だという確証は無いのだが、嫌な感覚があった。気配としては似ていたような気もして、そうかもしれない
と思ったのだが…」
盗魂者…、死神とも呼称される同類のなれの果てとの遭遇経験が、アズライルにはあまり無い。
だが、数度の接触ではっきりと感じた、自分達への敵意の波動にも似たそれをたった今感じたばかりの彼女は、正体は分か
らないが妙な感覚がある旨、ミカールに説明した。
『良う判らへんけど…、とにかく「まっとうやない何か」がおるって事やな?』
「正体については明言できないが、間違い無く」
確信を込めてアズライルが告げると、ミカールは喉の奥で唸った。
『判った。今さっきムンカルが戻って来たとこや。ちょっと見回り行かしとこ』
「済まないが頼む」
通話を終えたアズライルは、今一度周囲を確認してから銃をホルスターに戻した。
そしてソレは、走り去るアズライルとバイクを、気付かれる事無く見送る。
病院の窓辺、病室の内側から。
「…あれは…」
煌めく黒瞳に駐車場の街路灯を映し、目を細めて低い声を発したソレは、屈強な体躯の大男である。
身長が軽く2メートルを超えているその大男は、人間ではない。
全身を覆うのは、艶やかな光沢を持つ漆黒の被毛。背中側や手足の外側は色が濃く、腹や胸、腕の内側などはやや薄く、灰
色に変色している。
頭部は顔面以外が長い鬣に覆われており、その中から突き出した耳は、今は窓の外に向けられている。
引き締まった尻からは、先端に黒い房のついた尾。それが、うるさい虫でも追い払うかのように、不快げに空を切って揺れ
ていた。
黒い被毛と鬣を纏う大男は、獅子の頭部を備えた異形である。
そして、姿と同じく、その出で立ちも異様であった。
なめした豹柄の毛皮に太い紐を通した腰巻きと、手首足首に巻かれた革の帯。胸には首から吊した編み紐が三重に下がって
いる。
手首足首のバンドは、南国の鳥のものであろう赤青橙の色鮮やかな大きな羽を飾りにしており、胸に垂れた編み紐の首飾り
には、長さ5センチ程の獣の爪と、3センチ程の獣の牙が、交互にいくつも連ねられている。
衣類といえるのかどうか、半裸の黒獅子は極めて露出の多い服装で、鍛え抜かれ、無駄がそぎ落とされた肉体を誇示するよ
うに晒している。
それら衣類とは別に、太い紐を右肩から左脇腹へたすきにかけており、背負った矢筒を固定していた。
右手には、下端を床に着けて保持した全長2メートル程の木の弓。
ニスでも塗ったように艶やかな表面が印象的な、色深い黒木でこしらえてあるその弓は、中央付近には滑り止めとして帯状
に加工した革が巻かれており、弦は緩めに張られている。
黒獅子は携えた弓でトンと軽く床を叩き、不快げに喉を鳴らす。
雷鳴を思わせる低い唸りを発した獅子は、鼻面に皺を寄せて憤りの表情を作っていた。
「この匂い…、姿は大きく異なるが、あの女の物と酷似しておる…。どういう事だ…?」
聞き取り難いほど低い、地を這うような自問の呟きは、怨嗟の響きを伴っていた。
「…反逆者アズライル…。いや、当人であるはずもないが…、確かめねば…」
黒獅子は踵を返す。
立ち去るその病室に、事切れた女性看護師の遺体を残して。
患者の居ない病室に並ぶベッドの間、外傷無く床に横たわっている中年看護師は、先程目覚めたハヤトと会話していた女性
であった。
この後、心不全として処理される事になる彼女の本当の死因が、強引に魂を引き剥がされた反動…一種のショック死であっ
た事は、人間達には判らず終いとなる。
一方その頃、ハヤトは…。
「あと三十分!アップ代わりにゃ丁度良いってかぁ!?」
その速度からタクシーなどを利用したと考えたアズライルの予想を見事なほど裏切って、商店街の歩道を全力疾走している。
大慌てで病院を飛び出した彼は、財布も携帯もどこかへやってしまっている事に気付いたが、あれこれ手だてを考える手間
を惜しみ、信頼している商売道具、足に物を言わせる事にしたのである。
驚くべき速度と持久力を見せ、行き交う通行人を華麗に避けつつ駆けるハヤトは、混み合う道路で発進と停止を繰り返しつ
つゆっくり進むタクシーよりも平均速度が早い。
これでは車などに乗っての追跡は難しい。が…、
「見つけたぞ」
立ち並ぶ店の壁面や看板を路面に見立て、マシンを垂直に立てて走るという、重力法則をねじ曲げた非常識極まりない走行
方法とルートで、アズライルはハヤトに迫っていた。
「なんとも非常識な男だな…。これだけの距離をこの短時間で、自分の足で走って移動したというのか?」
自分の事は棚に上げ、呆れたようにのたまう黒豹。非常識なのはお互い様である。
それどころか、非常識さで言えばハヤトはアズライルほどではない。
懐から取り出した葉書を握り込み、ボシュッと音を立てて50AE弾に整形したアズライルは、素早く引き抜いたデザート
イーグルからマガジンを引き出して装填する。
手放しの状態で壁面を走行しつつ、両手で銃を構えた黒豹は、ハヤトの背に狙いを定め、
「っ!?」
即座に片手を銃から離し、ハンドルを取って急制動をかける。
バイクの前方、僅か30センチ先の壁面に黒い影のような棒が打ち込まれ、吸い込まれて消えた。
ブレーキが僅かにでも遅れていれば、アズライル本人かバイクに突き刺さっていたところである。
矢。一瞬見えたそれをそう認識したアズライルは、角度から導いた射手の方向へ視線を向ける。
壁面を駆けるアズライルから見て頭上。車道を挟んだ向こう側の証券会社ビル。その雨ざらしで錆びが目立つ非常階段に、
異形の男が佇んでいた。
弓に矢をつがえて構える黒い体躯は、同僚の虎男よりも大きく、北極熊よりは小さい。
鍛え抜かれた筋肉のラインが被毛越しにも判る、頑強そうな体躯の黒獅子を、アズライルは目を細めて睨む。
(堕人か?それにしても、異様な格好だが…)
配達人が黒いつなぎをユニフォームにしているように、堕人達にも衣類に共通の傾向が見られる。
黒豹が見てきた中で最も多いのはハーフやロングのコートで、好まれているのか赤色が多い。
だが、おそらくは堕人であろうその黒獅子は、未開の地の原住民のような原始的な格好であった。
観察中に二射目を放たれたが、アズライルは回避するのが精一杯で、反撃まではできない。
配達直前だった今、彼女の銃には死記の弾丸が込められており、黒獅子に向かって撃つ事ができないのである。
黒獅子の手の中に滲むようにして現れる、実体の無い黒い矢が立て続けに打ち込まれ、アズライルは商店街の壁面を蛇行し
ながらそれを避け続ける。
遮蔽物の無い頭上の好ポジションを取られた上に、牽制すらできない状況。
(配達を優先し、終えてから反撃するか?それとも一旦配達を諦めて身を隠し、データ圧縮弾に装填し直して対処すべきか?
えぇい!こうも激しく射かけられては離脱も難しい!)
アズライルが迷う中、黒獅子の顔には疑念の色が浮かんでいた。
(この不利な条件下でも除幕せぬのは一体何故だ?いや、除幕せぬのではなく、できぬのか?…やはり別人なのか、あの女と
は…)
これ以上試しても無駄。そう考えた黒獅子は、位置関係上射線がきつくなってきている事もあり、焦らすのを止めて仕留め
る事にする。
黒い手の中に滲み出るようにして現れたのは、十三本の矢。
それらをやや開いた扇のようにしてつまみ、弓につがえる。
黒獅子が狙いを定めた先では、振り返ったアズライルの驚愕の顔。
(避けられない!)
回避の為の急制動をかけた直後で、愛車の状態が悪い。
重力の作用方向を捻じ曲げているとはいえ、転倒する時は転倒する。
ビルの壁面に投げ出される格好で転倒しても、配達人たる彼女の体は致命的なダメージまでは負わずに済むが、マシンから
放り出されてしまえば、その後の回避は絶望的になる。
追い詰められたアズライルの脳裏に、不意にあるヴィジョンが浮かんだ。
真っ白な世界。
一面が真っ白な大地と、同じく白一色の空。
天地の境界がはっきりしない、無限の広がりを持つその白い光景の中、舞い降りてはその身に触れる雪を跳ね飛ばし、白い
熊がもがいている。
両脇から屈強な黒い犀と、白い象に、両腕を掴んで白い地面に跪かせられる格好で取り押さえられ、北極熊は絶望と哀しみ
に顔を歪めながら、喉も裂けよと悲痛な雄叫びを上げていた。
白い体と同色のゆったりとした修道衣は、激しく動いたせいで着崩れている。
その光景を、彼女は見ている。
自分を遠巻きに取り囲んで矢を番えた弓を引き絞り、今にも射放たんとしている、白い貫頭衣を纏った無数の異形の中央で。
「言い遺す事はあるかね?」
その声は、彼女の傍らから発せられた。
雪のように白いゆったりした衣を纏い、雪のように白い鬣を顎下で結い、鳩尾まで垂らした真っ白な獅子が、彼女に問いか
けている。
「人間達は、そう捨てたものではありません」
その声が自分の喉から発せられた事が、アズライルには一瞬判らなかった。
間違いなく無く自分の声でありながら、何故かそれは、すぐには自分の物だと気付けなかった。
白い獅子は小さくかぶりを振ると、ため息をつくようにか細く呟く。
「…残念だ、アズライル…」
白獅子は踵を返して彼女に背を向け、ゆっくりと遠ざかる。
その時点で、アズライルは気が付いた。
自分が真っ白な十字架に、水色の斑紋を持つ白く柔らかな被毛に覆われた手足を、金属の杭で貫かれる形で磔にされている
事に。
「では、これより刑を執行する」
白獅子が重々しく宣言したその直後、ビシィッと、体の芯に響くような音が白い世界を震わせた。
次いで、ガラスが砕け散るような耳障りな破砕音が響き渡り、白一色の世界に黒い欠落が生み出される。
界面を強引に粉砕突破した大柄な黒い雌牛が、空間を破った豪腕を突き出したその格好で雪の大地を踏み締めると、その後
に数人の人影が続いた。
筋骨逞しい灰色熊と、背が低くて太っているレモンイエローの獅子、そして巨人の如き体躯の犀が、雪を踏み散らして前に
出る。
「お待ち下さい室長!」
「アズライルっ!」
灰色熊とレモンイエローの獅子が、黒い雌牛を追い越しながら、口々に声を上げる。
だが、刑場への乱入者を無視して白獅子の手がすっと上げられ、白い十字架に戒められた彼女に狙いを定めたまま、異形達
が弓を引き絞った。
「アズ!」
北極熊の悲痛な声が、彼女の耳をくすぐった。
そして彼女は笑いかける。
誰よりも親しく、誰よりも頼りにして、誰よりも愛していた男に、誇り高さと申し訳なさを半々に宿した微笑で。
「…ありがとう…さようなら…」
その言葉が終わらぬ内に、無数の矢が彼女の体を貫いた。
その身に食い込んだ分解プログラムに、生きながら解体させられていく耐え難い苦痛にも負けず、彼女は微笑み続けた。
凍りついたように動きを止め、目を大きく見開き、絶望に染まった顔で自分を見つめている愛しい北極熊に、
(さよう…なら…。愛して…います…)
何度どれだけ伝えても、とても全てを伝え切れなかった愛を込めて、消滅するその瞬間まで、微笑み続けた。
「あ…、ああ…、あああああああ…!うわぁあああああああああああああああああああああああああっ!!!」
力を緩めた象と犀を左右へ跳ね飛ばして立ち上がり、むせび泣きながら彼女に駆け寄る北極熊の慟哭が、舞い落ちる雪とゆ
るやかな風を震わせる。
しかし、伸ばされた手が触れる寸前で、彼女は完全に分解され、光の粒子となって宙に散った。
視界がシャッフルされるような感覚と供に、アズライルは我に返る。
謎のヴィジョンは、彼女をほんの刹那の間捕らえていただけで、把握している時の流れはほぼ途切れずに繋がった。
記憶にはなかったが、やけに生々しく、そして実際にこんな事があったような気にさせる、奇妙なヴィジョンであった。
動揺と疑問を抱えるアズライルは、しかし目前の危機に対処すべく、意図的に集中力を偏らせた。
「さらば…」
呟いた黒獅子の手が、矢の角度を僅かに調節した。