第四十三話 「ロスタイム」(中編)
つがえられた矢。定められた狙い。
回避不可能との判断を下した黒豹が、ダメージを覚悟した次の瞬間、轟音が夜気を震わせた。
三発の銃声が重なり合った雷鳴の如き発砲音。
次いで、寸前に身を捌いていた黒獅子の眼前を一団となって駆け抜けたのは、鉄色の光をまき散らす弾頭。
すばやく視線を巡らせた黒獅子は、見覚えのある顔を見つけて唸る。
「貴様…、ミカールの…!」
渋滞でのろのろ走る車、その中でも一際高さのある保冷車の天井を、ファットボーイの太いタイヤがドシッと踏み、跳ねる。
大型バイクを宙に躍らせ、コルトパイソンを片腕で構えた鉄色の虎の、闘志を剥き出しにした猛々しい顔。
食い付きそうな獰猛な表情を浮かべる鉄色の虎を睨み返し、黒獅子は狙いを切り替えた。
「失せよ小童!」
「くたばりやがれアスモデウス!」
二者の怒号と射撃は、全く同時であった。
シリンダーに残っていた灰色の銃弾三発、つがえられていた十三本の黒い矢が、両者の中間、黒獅子寄りの位置で衝突する。
矢を打ち消し、勢いを弱めつつもなお突き抜けていったデータ圧縮弾を、黒獅子は首を傾けてかわす。
多勢に無勢で消し切れなかった矢がムンカルめがけて殺到するが、
「モードシフト、ブラスト限定解禁!」
即座にブラストモードに移行した鉄色の虎は、灰色の燐光を纏った左腕を眼前で振るう。
まるで空を掻き取るように、五指を広げて水平に振り抜かれたムンカルの手は、灰色の燐光を残滓として空中に残した。
手の軌道に残った灰色の帯に接触した矢は、ことごとくが溶けるように体積を減じて勢いを弱め、黒いライダースーツの上
に鉄色の燐光を纏ったムンカルに触れるなり、さしたるダメージも与えずにガラスのように砕け割れる。
立ち回りに向かない場所と判断し、非常階段から飛び降りて四階分落下した黒獅子は、しかし巨躯にもかかわらず足音も立
てず、ふわりと着地する。
その前方へムンカルのバイクが回り込み、アズライルへの射線をふさぐようにして間に割って入った。
ファットボーイが止まったのは、歩道の真ん中である。しかしムンカルの周囲には人の姿が無い。
認識されないはずのムンカルと黒獅子の周りでは、急に用事を思い出したり、携帯が鳴ったり、車の中の知り合いに気付い
たりした人間達が、急に進路を変えてエアポケットを作っていた。
「ここまで因果を手繰れるようになったか、小童…」
黒獅子の呟きを意図的に無視し、ムンカルは大きな動作で首を巡らせた。
バイクの上で身を捻り、体半分ごと振り返ったムンカルの視線の先には、路面に降りて停止している黒いファイアブレード
と、黒い雌豹の姿。
「アズライル!ここは引き受ける!配達相手連れて、とっとと離れろ!」
怒鳴ったムンカルは、加勢は不要とばかりにアズライルに背を向けた。
黒豹はしばし迷っていたが、ハッと前を向く。
「な、何だ…?映画の撮影?」
黒豹の前方では、普通の者には聞こえないはずのムンカルの銃声に気付いたハヤトが足を止めていた。
しかも、その後のムンカルのアクロバティックな動きと、非常階段から飛び降りる大男の動きを目にしており、さらには獣
の顔をした男達と黒豹の姿の異様さにも気付いている。
混乱して立ち竦むハヤトへ、意を決したアズライルが愛車で突進した。
「わ、わわわっ!?」
状況が判らないまま黒豹の形相を見て怯み、背を向けて逃げようとしたハヤトの左腕が、背後から飛んできた黒い手にがっ
しりと掴まれた。
「ぎゃあああああー!折ります折りますっ!今日からトイレットペーパー使った後ちゃんと三角に折るからっ!だから助けて
神様仏様閻魔様っ!」
「五月蠅い!大人しくしろ!」
細腕一本でスポーツ選手のハヤトを軽々と引っ張り上げ、バイクの後部に落としたアズライルは、
「まともな逝き方をしたければ、私にしっかり捕まっておけ!」
そう怒鳴るなり、バイクを駆って全速力で離脱しながら、携帯を取り出した。
「ジブリール!ミカール!ナキール!堕人だ!ムンカルが食い止めにかかったが…、嫌な感覚が消えない!」
同僚全員への強制通話で一方的に危急を告げて、アズライルは歯を食いしばった。
(無茶をするなよムンカル。巻き添えを気にせず立ち回れるお前ではないだろう?)
相手がただ者ではない。その上、この状況では確実に巻き添えが出るので、ムンカルは全力を出せない。
言い換えれば、己が宿すブラストモードの無差別さにより、人間達が盾に取られているような物である。
救援を求めたアズライルは、とにかく早くハヤトへの配達を済ませなければならないと心に決め、歯がゆさに耐えながら離
脱して行った。
黒い縁取りのある灰色の耳を動かし、アズライルが十分な距離を稼いだと音と気配で判断したムンカルは、黒獅子を睨みな
がら口を開いた。
「よぅ、久しぶりじゃねぇかアスモデウス…。ええ?」
虎男の唇がめくれ上がり、牙が剥き出しになる。
獰猛な笑みを浮かべる鉄色の虎を前に、黒獅子…アスモデウスは少し腰を落としながら目を細め、射抜くような強烈な眼光
をムンカルへ投げかけた。
「退け。小童」
「そうはいかねぇなぁ。…何十年ぶりだ?ありゃあ…そうそう、レバノン以来か…」
銃を握った右手を体の脇に垂らしたまま、ムンカルは左足を踏み出して半身になる。
ブラスト現象を纏う左腕が、相手の攻撃を阻む盾となる構えであった。
銃を相手の視界から消して構えたムンカルに対し、黒獅子は右手に握った弓を後ろに引いて水平に寝せ、開いた左手を前に
出して身構える。
それは、弓を棍にでも見立てたような、奇妙な構え方であった。
「今宵、あのザバーニーヤは共に居らぬか」
「あっちはあっちで仕事があるからな。それに、いつも一緒って訳じゃねぇ、あの時はたまたまだ」
「その「たまたま」で難を逃れた己の幸運を自覚できぬか…。愚かな」
「馬鹿で結構。自分でもおりこうさんだとは思ってねぇよ」
「重ねて問う。我が行く手を阻むか小童?」
「何度も言わせんじゃねぇよ。…それとも何か?ビビってんのかい?人類排斥派堕人の代表格ともあろうお方が…、生まれて
五十年そこそこの若造に怖じ気づいたってか?」
ムンカルの挑発に誘われ、黒獅子の口から獰猛な唸り声が漏れる。
「下でに出ておれば図に乗りおって…」
「いつ下でに出たよ?」
不敵に笑うムンカルの手は、いつでも発砲できるよう、適度な力で銃を保持している。
黒獅子の目から銃を隠したのは、圧縮データ弾の追加装填数を悟られないようにする為であり、その後の無駄口も時間稼ぎ
の為の物である。
ブラスティングレイは撃てない。まっとうな手段で応戦するしかないのだが…、
(死神の三、四体と同時にやりあった方がマシな相手だ…。さて、どこまで通用するか…)
ムンカルは、低い勝算を何とか上げるべく、頭をフル稼働させていた。
一方、離脱したアズライルの方は…、
「という訳だ。判れ」
一方的に状況を説明し終えるなり、即座に銃口をハヤトの眉間に突きつけた。
「わわわ判れって言われても!ちょ、ちょっと待った!人殺しぃいいいいいっ!」
悲鳴を上げ、助けを呼んだハヤトに、アズライルは顔を顰めてみせた。
「違うぞ。君は本来ならば既に死んでいるはずなのだから、殺すというのはいささかおかしい」
「んじゃ死人殺しぃいいいいいいっ!」
「それならばいくらか近いか。…おい君、自覚があるではないか!誤魔化すつもりか!?」
「あ、バレた…。ってか死んでても死ぬのやだーっ!」
「その言い方からすると、理解は半分か…。だが届ける!」
言い合う二人が居るのは、黒獅子との接触点からかなり離れた駐車場である。
立派な杉の木々に囲まれた公民館と隣接するそこは、解放時間を過ぎて入り口にチェーンが張られており、人も居ない。
その周囲からは木々が目隠しになっている駐車場で、ムンカルへの加勢が必要と感じて説明もそこそこに配達を強行しよう
とするアズライルに、ハヤトは反発していた。
黒豹と向き合って説明を受けている内に、言葉以上の何かによって、彼は自分が死人である事を自覚させられた。
それでも、彼は死を受け入れられなかった。
死ではなく新たな旅路への再出発になるのだと、黒豹側の価値観を告げられたところで、彼にとってはそれが死である事に、
人生の終わりである事に変わりはない。
それに何より、今唐突に死ぬのはとても困るのだと、彼は主張する。
「今夜試合があるんだよ!大事な一戦が!」
「試合?」
アズライルは首を捻り、それから「ああ…」と納得したように顎を引いた。
「サッカーの選手だったな、君は」
「お?知ってるんだ?なら話は早い!」
ハヤトはちょっと気をよくしたように胸を張る。が、
「いや、君自身は知らない。経歴で知っただけだ」
「えぇっ!?テレビ出てるじゃんオレ!?あんたサッカー見ない派?プロ野球派?それとも意表突いてバスケ派!?」
「テレビ自体をあまり見ない。そもそもこの国に常駐している訳でもない。君の顔を見るのは今日が初めてだ。それと私はテ
ニスが好きだ」
淡々と応じるアズライルの前で、ハヤトはしょぼんと項垂れた。
「そりゃまぁこれまではずっと控えだったさ…。けど、今日からは違う。今日からはスタメン起用されてんだ…。これからは
ヒーローになれる。…はずだったんだ…」
ボソボソと呟くハヤトの言葉からは、徐々に元気が失われてゆく。
冷静さが取り戻されてゆく中で、少しずつ理解し始めていた。自分に「これから」などという物は無いという事を。
「…オレ、本当に死ぬのか…。いや、死んだのか、もう…」
「そうだな」
時間を気にしながらも、アズライルは頷く。
「あんた…、鎌は持ってないけど、ほらアレ…、死神ってヤツ?人間が言うトコのアレみたいなモン?」
「仕事の性質上良く言われるが…、失礼な。私は落とし物を届ける配達人だ」
ハヤトはしばらく黙り込んだ後、「あのさ…」と、くぐもった声を漏らした。
「その銃で撃たれたら…、死記だっけ?それが戻って、オレは今度こそ本当に死ぬんだな?」
「ああ」
「…ならさ…、それで撃つの、試合の後にして貰えない?」
アズライルは一度口を引き結ぶと、一拍おいてから首を横に振った。
「駄目だ。君は今、存在しているだけで地上の理を乱す存在になっている。長らく放置する訳には…」
「頼むっ!」
黒豹の言葉を遮ったハヤトは、その場で正座し、土下座した。
「大事な試合なんだ!初のスタメン出場ってだけじゃない!」
「お、おい…」
「今日二点以上の差で勝てば、リーグ昇格のチャンスが残るんだ!今年は…!初の…、初の昇格がかかってるんだ!」
戸惑うアズライルに、土下座したまま大声で請うハヤト。
「頼む!オレにロスタイムをくれ!一試合分の時間を…!頼むっ!」
口を横一文字に引き結び、アズライルは土下座しているハヤトの後頭部に銃口を向けた。
「………」
無言のまま、黒豹は首を横に振る。
中央を掴んで回転させられた弓が、屈んだムンカルの鉄色の毛を吹き散らした。
張られた弦はいかなる作用を持つのか、触れた被毛は刃物がかすったように切り飛ばされ、粉のようにパッと舞う。
突き出すように右腕を繰り出し、風車のように弓を回転させたアスモデウスへ、至近距離で銃口を向ける虎男。
しかし発砲直前に手首を膝で蹴られ、銃弾はあらぬ方向へ飛び去る。
「ちぃっ!喧嘩慣れしてやがる!」
舌打ちしつつ破壊現象を纏う左腕を振るい、顔面を鷲掴みに捉えようとしたムンカルの眼前から、飛び退く像を残して黒獅
子が消える。
ノイズを纏って跳躍した黒獅子は、途中で一度消え、かなり離れた位置に出現し、音もなく着地した。
(空間跳躍!しかも発動が早ぇ!限界距離はそう長くねぇらしいが、でけぇ図体してるくせに、ちょろちょろと厄介だぜ…!
先生が五回も仕留め損なったってのも、頷けるなこりゃあ!)
胸の内で呟くムンカルは、右耳が根本から消失していた。
ここまでの短時間で負ったダメージは、あまり小さくはない。
左肩と右の太腿には芯だけとなった矢が刺さったまま残っており、左腕の肘のすぐ上には骨まで達する切り傷を負っている。
いずれも傷口付近の細胞活動を停止、凍結させたせいで出血は無いが、動きには支障が出始めている。
矢と、弓の弦。この二つが黒獅子の武器であった。
本来は発射装置であるはずの弓自体が近接戦闘用の武器となっているため、アスモデウスは矢を射放した後も無防備にはな
らない。
おまけに、ブラストには触れるだけで危険という事を、経験豊富なアスモデウスは重々承知している。
ムンカルを新参者と見下してはいても、ブラスト現象の方は決して侮っていない。
それ故に油断が生まれないので、捕まえて実力差をチャラにしたいムンカルには、なかなかチャンスが巡って来なかった。
ドビエルと幾度も戦闘し、それでもなお今まで捕縛も消滅もさせられなかった、トップクラスの悪名高き堕人アスモデウス。
ムンカルから見れば遙かに格上の相手である。
以前はナキールとの共闘という条件の良さと、ブラストモードが全力で使えるという位置の良さもあり、なんとか痛み分け
に持ち込んだが、今回は状況がまるで違う。
巻き添えを出さぬよう枷がはめられた状態で戦わなければならないムンカルは、ほんの少し気を抜けば狩られてしまう劣勢
にあった。
「哀れな…。人間共が気になり、力を奮えぬか」
「誰かさんほど、人間に絶望しちゃあいないんでね…」
嘲るような黒獅子の言葉に、ムンカルは不敵な笑みを浮かべて応じる。
「多少は間引いた方が、貴様らも管理し易かろうに」
「自惚れてんじゃねぇ!俺達は人間を管理する為にある訳じゃねぇだろ?」
数本の矢と同時に飛んだアスモデウスの言葉を、怒声と同時に放ったムンカルの弾丸が迎え撃つ。
「如何にもその通り、しかし実情はどうだ?貴様らが管理せねばまともに存続すらできぬのが人間ではないか!?」
「そいつはまるっきり勘違いだぜ。本当はより良くなって行くように転がってくのが人間の社会だ!たまたま乱れた因果を調
節してやってるだけで…」
「それが管理だと言うのだ、解れ小童!」
獅子の怒号と共に殺到した矢は、しかしムンカルには全て撃ち落とす事ができない。
精製スピードに差があり過ぎ、撃ち漏らした分は左手に纏わせたブラストで破壊する。
だが、出力を限定した制御の下では、破壊浸食の速度もブラスティングレイとは比較にならないほど遅い。
破壊し切れなかった矢の破片はそのままムンカルの体に降りかかり、徐々にシステムを犯してゆく。
もしもこのままシステムエラーを起こし、万が一ブラストが暴走したならば、周囲の人間達が数万単位で消滅する事になる。
ある程度ダメージを受けたらモードシフトを解かなければならない事を念頭に、ムンカルは計算し始めた。
この状況であとどれだけ黒獅子を足止めできるか…。決して楽観視できない、答えが半ば以上解っている計算を。
「…保って二分…、ってトコなんだが…」
呟いたムンカルは、不意に顔を顰めた。
「そこまで保たせる事もねぇか…」
その言葉が終わるか終わらぬかの内に、びぃぃぃいいいいいいん…、と、やや高いエンジン音が聞こえて来る。
同時に、黒獅子の表情が変わった。
「この湿っぽい汗の香りのような不快な気配…!ヤツかっ!?」
「実際真夏はそうなんだが…、そこが良い」
ぼそりと呟いたムンカルは、ブラストモードを解除するなり大きく息を吐き出し、数歩後退して街路樹にもたれかかった。
矢の破片をしこたま浴びたダメージもあるが、何よりブラストの繊細な制御で神経をすり減らしている。ある意味、全力を
発揮するよりも消耗は大きい。
「よう。逃げるんなら今の内だぜ?」
ニヤリと意地悪く笑ったムンカルの言葉尻に、いよいよ高くなったスクーターのエンジン音と、威勢の良い声が被せられた。
「逃がさへんでぇえええええええええっ!」
雄叫びに重なる発砲音は、ビルの上からであった。
身を捌いて回避した黒獅子が向けた、睨め上げる視線のその先で、スクーターが一台、ビルの屋上から手すりを乗り越え宙
に躍った。
心機一転。先日塗装を終えたばかりでピカピカになっているディープブルーのディオに跨るのは、ぽってり太ったレモンイ
エローの獅子。
普段腰まで脱いでいる彼にしては珍しく、きちんとつなぎを着込んでいる。
「アスモデウス、オドレぇ…!ワシの舎弟に何さらしとんじゃゴルァアアアアアアッ!」
月光色の鬣を風に激しくなぶらせる童顔の獅子は、憤怒の表情でルガーのトリガーを立て続けに引き絞る。
舌打ちをしたアスモデウスは、弓を体の前で構えるなり、ぐるりと一回転させた。
直後、弓の軌跡をなぞるように黒い円形の障壁が発生し、殺到した弾丸を防ぎ止める。
黒獅子を護るべく発生したシールドと、プロテクトを食い破ろうとするミカールの弾丸が、ギシシシシッと耳障りな音を上
げてせめぎ合う中、ミカールのディオが電線を踏み締めて止まった。
「大事無いかデイブっ!?」
珍しく、焦りと心配で上ずった声を上げたミカールの目には、損傷の激しい同僚の姿が映り込んでいる。
「この通り、ビンビンだぜ」
明らかに活きが悪いものの、それでも強がって見せたムンカルの様子を確認すると、ミカールはホッと小さく息を吐き出し、
引き締めていた顔に安堵の色を浮かべた。が、
「邪魔やから退いとけや、駄目っ子の足手纏い」
すぐさま殊更にぶっきらぼうな口調で言い放つと、アスモデウスへ視線を向ける。
「二対一では、流石に無理できぬな…」
憎々しげに呟いた黒獅子へ、ミカールは「フン!」と鼻を鳴らす。
「自惚れんなやボケぇ、ワシ一人でもツリ貰わなあかんトコや。けどまぁ、指折って数えてみぃ?二対一とか、何処見て数え
とんねやオドレ?」
双眸を一瞬細くした黒獅子は、ハッとして振り向いた。
ミカールとムンカルへ無防備に背中を晒す事も厭わず、素早く向き直った黒獅子の目は、たっぷりした白い二重顎を捉える。
「やあ。久しぶりだね、アスモデル…」
空色の瞳が哀しげな光を湛えて、黒獅子の顔を映していた。
白い巨大な体躯の後ろには、背のエンブレムから吹き出す粒子が形成する、鳥のそれを思わせる形状の大きな白い翼。
「ジブリール…!」
自分よりもさらに大きな北極熊を間近で見上げ、黒獅子は鼻面に皺を寄せた。
ミカールの接近に気を取られるあまり、バイクを用いずに迫っていたジブリールには気付けなかったのである。
黒獅子は素早く弓を脇に構え、まるで槍でも繰り出すようにして北極熊に突きかかった。
見ていたムンカルが声を上げるいとまも無い、あまりにも素早いその突きを、ジブリールは無防備に受ける。
弓の先端から五十センチ程が、ジブリールの腹にドスッと潜り込んだ。
「うっ…!」
苦しげに呻き、腹を押さえてやや前屈みになったジブリールの前で、しかし黒獅子の方が驚愕していた。
引き抜いてみれば、ジブリールに突き刺さったかに見えた弓は、刺さったと思えた分だけ、潜り込んだように見えた分だけ、
欠けて短くなっている。
反対に、突かれた胃の辺りを押さえるジブリールの背では、力を得たように翼の光量が増している。
食われていた。
刺さったと思った弓は、しかし実際には接触した傍から分解されて、逆にジブリールの力に変換されてしまっていた。
その現象を引き起こす特殊なプログラムの存在に思い至り、同時にジブリールの二つ名を思い出し、アスモデウスは歯ぎし
りする。
「ちっ!「ローランの剣」か!配達人に成り下がったとはいえ、力は衰えていないようだな、プレデターオブホワイト…!」
吐き捨てるなりじりっと後ずさりしたアスモデウスは、大きく膝を曲げると、次いで垂直に跳躍する。
跳んだと思えばその姿はノイズを伴って消え、遙か上方、地上80メートルの高みに出現していた。
そこからさらに空間跳躍を試み、離脱しようとしている黒獅子を見上げ、瞬時に除幕して鬣をぶわっと伸ばしたミカールが
吠える。
「「落とす」でジブリール!しっかり受け止めや!」
「任された」
頷いたジブリールは、翼をあおって重力のくびきから逃れ、巨体をふわりと舞い上がらせる。
一方でミカールはルガーをリリース操作し、弾倉をするりと足下へ落としていた。
右手がマガジンをリリースすると同時に、上向きにして開いた獅子の左の手の平に、渦巻き状に光が収束してゆく。
光が集って形を為したのは、カタツムリの殻を思わせる特異な形状のドラム型マガジン…、ルガー用多連弾倉スネイルマガ
ジンであった。
ユニークな形状のマガジンを挿入したミカールは、次いでルガーの先端を撫でる。
その手の動きに導かれるようにバレルが前に向かってするりと伸び、次いで撫でられたグリップからストックを伸ばし、ル
ガーはその形状を狙撃に適したものへと瞬時に変えた。
ストックを肩に当ててしっかりと保持し、伸びたバレルを頭上のアスモデウスに向けたミカールは、目にもとまらぬ速度で
トリガーを数十回引き絞った。
一繋がりの光の線となり、レモンイエローの弾丸が黒獅子めがけて駆け上る。
光線の如きその攻撃に対して、アスモデウスは背を丸めて全身に力を込める。
「ぬぅっ…!アンヴェイル!」
黒獅子の咆吼と同時に、その背中からズルリと漆黒の翼が伸びた。
ただし、それはミカールやジブリールの物とは大きく異なり、コウモリの翼のような形状をしている。
同時に伸びた漆黒の鬣は、背面を完全に覆い隠すほどの量になる。
まるで蓑のようになった鬣の中から、黒い翼が生えている…、背後から見ればそのような状態であった。
黒獅子が翼を体の前面で交差させると、その表面に接触した弾丸の列は、黒い巨体を跳ね飛ばして空へと駆け上って行った。
プロテクトがかなり破壊されたが、本体へのダメージは無い。上手くやり過ごしたと思ったアスモデウスは、しかし射手の
姿を見て訝しげに目を細める。
全弾撃ち尽くしたミカールは、銃を握る右手を体の脇にぶら下げ、左手を高々と頭上に上げ、そのぽってりとした手の平を
天へ向けている。
「「流星群」か!」
悟ったアスモデウスが再び翼を折って全身を守ると同時に、
「星と一緒に流れ落ちぃ…、アスモデウスっ!」
吼えるミカールの手が、素早く振り下ろされた。
その直後、一列になって天へと駆け上って行った弾丸達は、急激に角度を変えつつ十倍以上に分裂、レモンイエローの流星
群となって地上へ殺到し、進路上に滞空していた黒獅子を飲み込んだ。
無数の星に全身を叩かれながらも、必死になって宙に踏み止まるアスモデウス。
その下方では、滑り込むように真下へ移動したジブリールが、その大きな翼をさらに拡大させ、傘のように広げてこぼれ落
ちた星を受け止めている。
星一粒で管理人一人が機能障害を起こすほどの、強烈極まりないその攻撃は、ただの一発たりとも道行く人間達に落ちる事
は無い。
人間が触れれば魂が砕けてしまう程の圧倒的な量のデータの塊、破壊の流星群は、しかしジブリールという最高のサポート
役を得て、巻き添えを一人も出す事無く、アスモデウスの防壁を削り落としてゆく。
アンヴェイルしながらも防戦一方のアスモデウスは、降り注ぐ流星群の切れ目を狙い、空間跳躍をおこなった。
黒獅子の姿がノイズを残して消えたのは、流星が降り始めてからたったのコンマ数秒後だったが、与えたダメージはそれな
りの物となっている。
「緻密な設定をする余裕は無かった。そう遠くまで「跳べ」てはいないはずだけれど…」
翼を元のサイズに戻し、ジブリールはひくひくと鼻と耳を動かす。
「当然追うで。とっ捕まえてぼてくりまわしたる!」
鼻息も荒く言い放ったミカールは、眼下のムンカルに視線を向けた。
「休んどけやムンカル、追撃はワシらに任しときぃ」
「悪ぃな、そうさせて貰う」
軽く腕を上げたムンカルは、ジブリールが夜空に舞い上がり、ミカールのディオが走り去るのを見届けた後、胸に手を当て
て顔を顰め、大きく息を吐いた。
消滅させられなかったいくつかの矢の欠片が、今も体内で疼きを発し続けている。
右耳の欠損に腕の深い裂傷、さらに太腿を射抜かれ、重大な損傷ではないものの、かなり堪えていた。
熱っぽくだるい、疲労が重しになって体にまとわりついているその症状は、重篤ではないが、とにかく動くのがおっくうで
あった。
「とりあえず、アズライルに連絡入れねぇとな…」
携帯を取り出したムンカルは、気だるそうな手つきで同僚を呼び出し、とりあえず危険は去った旨を手短に伝え、通話を終
えた。
そしてバイクに戻ろうとするが、目眩を覚えてふらつき、街路樹にもたれかかって俯き、額に手を当てる。
「くそっ…!調子悪ぃ!」
不快げに呻いたムンカルは、不意に横手で上がった「あれ?」という声に反応して顔を上げた。
鞄を提げたスーツ姿の男が、ムンカルを見つめていた。
「…あれ?…え?…あれっ…?…ああああああっ!?」
驚きの声を上げる、でっぷり太ったその男は、四十も半ばを過ぎている。
人の良さそうな目尻の下がった細い目に、二重顎と丸い顔。
ムンカルの知っている相手であった。
「お前…?何でこんな所に居るんだ?…って、また見えてんのか?俺が!?」
見知った相手を前にして驚きの色を浮かべたムンカルの顔は、しかし盛大に引きつった。
「やっぱりそうだ!お久しぶりですムンカルさん!」
驚き混じりに顔を綻ばせたその男に、虎男は怒鳴る。
「だぁーっ!何で見えてやがんだお前っ!?まさかあれか!?リストラとかされてまた路頭に迷ってんじゃねぇだろうなカド
ワキっ!?」
「え?そ、そんな事は…!」
詰め寄られてのけぞったカドワキから顔を逸らし、ムンカルは周囲を見回した。
物珍しそうな視線がいくつか、ムンカルに注がれている。
「…やべぇっ、原因は俺の方か?迷彩維持できねぇ程不調なのかよ!?ひでぇモン打ち込みやがってあのライオンめ…!」
被認迷彩が綻び、正常に使えなくなっている事に気付いたムンカルは、顔を歪ませて脂汗を流し始めた。
ほっとしたような顔で携帯をしまい込んだアズライルは、目の前の若者に視線を戻した。
ハヤトは真っ直ぐにアズライルを見つめている。
その瞳に宿るのは、真摯な懇願の光…。
ムンカルが人間の示す情に惹かれるように、アズライルには人間の気高い精神に惹かれる傾向がある。
自分の為、そしてチームの為、その先が無くとも大事な試合に臨みたい。
わがままではあったが、ハヤトの心行きはアズライルの興味を惹くだけの強い物であった。
旅立つ若者へ、せめてもの手向けに最後の望みを叶えてやりたい…。
黒豹はそう思ったが、叶えてやるには大きな問題があった。
サッカーの試合などに出れば、死記を失った者が干渉する対象者の数は、爆発的に増加する。これは前代未聞の規模である。
一体何万人、何十万人、何百万人の観衆が、直接、あるいは間接的に観戦し、結果を知る事になるのか…、少し考えただけ
では判らない。
死人であるハヤトが試合に出てしまうと、とんでもなく巨大な因果の乱れが生じかねないのである。
「…判断は、保留する」
アズライルはそう言うと、ホルスターに銃を収めた。
「君が試合に参加すれば世界は大きく歪む事になるかもしれないのだ。生じる乱れの規模を見定めなければ、イエスともノー
とも言えない」
最大限の譲歩を示したアズライルは、驚き、そして喜び、期待に目を輝かせたハヤトを促し、踵を返した。
「まずは試合場に行く。見定めるには最も適した場所だろう」
「あ、有り難い!恩に着るぜ猫のひとっ!」
「私は豹だっ!!!」
勢いよく振り返り、キシャーッ!と牙を剥いたアズライルの剣幕に押され、
「お、おぉぅ…!ごめんよ豹のひと…!」
ハヤトはたじろぎ、軽くのけぞった。