第四十四話 「ロスタイム」(後編)
「くっ…!」
声を押し殺して呻いた黒獅子は、脇腹を押さえて片膝をつく。
幅は無いのに背の高い、のっぽなアパート屋上にある、雨水タンクの陰。追っ手を警戒して身を隠したアスモデウスは、ひ
たりとコンクリートを踏むその足音を耳にし、ハッとして首を巡らせた。
そこに立っていたのは、乳白色の雌牛。
豊かなヒップに腰回り、そして豊満な乳房を、申し訳程度の虎縞模様の毛皮で覆い、両の手首足首には黒獅子と同じリスト
バンドを填めた雌牛は、黒獅子を見つめながら形のよい眉を顰めている。
「みっともない所を見せてしまったな、アシュター…」
どっかと腰を下ろし、目を伏せて呟いたアスモデウスに、乳白色の雌牛は心配そうな顔をしながら歩み寄った。
「一体どうなさったのアスモデウス?…先程ミカールの気配を強く感じましたわ…。もしや…」
「そのもしやだ。たまたま見かけた輝ける魂を追っていた所、気になる配達人を目にしてな…。ちょっかいをかけたのだが…、
あの女、三十年近く前に会った、ブラストを搭載した鉄色の虎と、ミカールの関係者だったようだ。…っぐ…!」
黒獅子は言葉を切り、苦痛を押し殺して低く呻く。
傍らに跪いた乳白色の雌牛は、彼の脇腹にそっと手を当てている。
そこから始まった修復処理によってシステムが急激に活性化したせいで、部分的にシャットアウトしていた苦痛も鮮明さを
取り戻していた。
「ここが痛みますの?アスモデウス…」
「いや、大丈夫だ…。済まぬが続けてくれ…」
気遣わしげな視線を向けた雌牛に応じ、黒獅子は気を紛らわせようとでもするかのように話を続けた。
「魂の方は問題無い。追って行く途中で気付いたが、どうやら死人だったようだ。じきに冥牢へ送られるだろう。人間の繁栄
に影響を及ぼす事無く…」
「それは何よりでございました。が…、貴方ももう少しご自分を大事になさって下さいな…。肉の体を用いない私達は、消耗
が過ぎれば存在維持すらままならなくなります…」
アシュターと呼ばれた雌牛は、黒獅子を気遣いながらも常軌を逸した速度で修復を進めて行く。熟練しているミカールやジ
ブリールのそれをも上回り、専門職である修理人ですら及ばない程の、正に驚嘆すべき手際で。
肉の体を用いずに地上で活動する彼らは、出力を意図的に制限して消費を抑え、人間の魂をエネルギー源として存在を維持
している。
いちいち分子融解や再構築による物質の通り抜けや、重力無視の手続きを踏む事無く機動力を得られるという利点はあるも
のの、彼らが地上で肉の体という器を持たない事は良い事尽くしでは決してない。それは正に、諸刃の剣とも言える滞在方法
であった。
システム側の使者よりも地上の理に縛られ難く、痕跡を残しにくいが、補給が途絶えて衰弱すれば簡単に消滅してしまうと
いうリスクも負っているのである。
「解っている…。そなたと共に新たな世界の夜明けを見るまでは、決して消滅せぬよ…」
「その後も、ですわ…。新たな世界を共に歩むのです。害獣たる人間の消え去った、新たな世界を…」
しばし言葉を切り、後の世界に思いを馳せた黒獅子は、ポツリと漏らした。
「アズライル…」
その小さな囁きに反応し、乳白色の雌牛は不快げに顔を歪ませた。
「アレと似た気配を持つ配達人と出会った。しかもアズライルと呼ばれていた。…だが、除幕もできず、脆弱そのもの…。お
まけにこちらの事が解らぬ様子だった」
「…では、同じ名をつけられただけの新人では?」
「誰がつけるというのだ?あの反逆者の名を…」
「例えば…、ジブリールですわ」
黒獅子は不快げに鼻を鳴らす。
「どういう事なのだ?一体…。ヤツがアズライルと名付けるならば、全くの無関係でもあるまい…。確かに見た目は少々似て
おったが…」
「アズライルといえば…、イブリースが今も連れ歩いている白猫も…」
「彼奴は単に狂っておるだけだ。滑稽で哀れな狂人よ…」
多くの堕人達に崇められている白い熊が主張する事を、しかし派閥の違うアスモデウス達は元から信じていない。
アスモデウス達が知る反逆者の物と、北極熊が連れ歩く娘の匂いは、あまりにも違い過ぎている。いや、匂いが無さ過ぎる。
何がどうなって生まれた存在なのかは解らないが、大きな欠落を抱えるどころか、心が壊れている人形のような娘…。
正気と狂気の狭間に足を置くあの北極熊は、願望が強過ぎる故に見るべき物が見えていないのだと、アスモデウス達は哀れ
み、蔑む。
だが、面と向かっては特にどうこう言う事はない。
過ちに、勘違いに、そして妄執に、囚われるならば囚われていて貰った方が、近々目的のために利用するつもりでいる彼ら
としては好都合なのである。
狂人であろうと傷物であろうと、強者である事には変わりないのだから。
「立てますか?アスモデウス」
「問題ない。が、少々疲れた…。場所を移し、渇きを満たすとしよう…」
雌牛の肩を借りて立ち上がったアスモデウスは、飢えた獣のような表情で呟く。
地上にひしめく害獣、人間。
アスモデウスが率いる堕人達は、彼らの絶滅を望んでいる。
地上にはびこる不要な物を排除する。その為に存在し続ける堕人達…。
しかし、今でこそ堕人とされてはいる彼らは、かつてシステム側が取っていたスタンスを踏襲しているに過ぎない。
世界を守る。
それこそが彼らの存在意義であった。
真のワールドセーバー達は、ノイズを残して姿を消す。
跳んだ先で害獣を刈り取り、その魂を喰らい、渇きを癒すために…。
「そう…。そう…!だからよ、ちっと休んで応急処置してから戻る」
携帯片手に不機嫌そうな顔をしていたムンカルは、テーブルにごとんと置かれた皿を見て表情を緩めた。
「あいにく、冷凍のお好み焼きですが…」
「いや良いって良いって!悪ぃなぁ、気ぃ遣わせちまってよぉ」
急に上機嫌になったムンカルは、「んじゃそういう事で…」と、ミカールとの通話を強引に終わらせた。
鰹節がゆらゆら踊る熱々のお好み焼きに鼻を寄せ、その香りを胸一杯に吸い込んだムンカルは、縞模様のある尻尾でタスタ
スと床を叩いた。
ムンカルが腰を落ち着けているのは、カドワキが三ヶ月間の出張で滞在している賃貸マンションのリビングである。
交戦場所からさほど離れていないそこに、迷彩が上手く使えなくなったムンカルは、カドワキの勧めもあって一時身を潜め
る事にした。
「耳、大丈夫なんですか?」
「ん?ああ、後で直すから問題無しだ」
無くなった右耳を撫で、ムンカルは軽い調子で応じる。
失った耳からは血が流れていない。断面は盛り上がった桃色の肉でふさがり、既に傷ではなくなっている。
「んじゃ遠慮無く食わして貰うぜ?」
待ちきれない様子でそわそわしながら、ムンカルは割り箸を両手で摘み、
「…ん?」
正に割ろうとしたそのタイミングで動きを止めた。
「どうかしましたか?あれ?温め方が足りなかった?」
訊ねるカドワキには答えず、ムンカルの視線は彼を通り越してテレビに注がれていた。
サッカーの試合が始まる直前、観客席を映すカメラが電光掲示板を映している。
その、黒い板のような立方体の上に、見慣れた同僚の姿があった。
「あんなトコで何してんだ?アズライルのヤツ…」
首を傾げたムンカルは、しかしある事にふと気付いた。
観客席の様子がおかしい。何かがちらちらと観客の頭の間に見える。
眼を凝らしたムンカルは、それが黒い球体である事を確認した。
ピンポン球ほどの大きさの小さなそれは、よくよく見れば観客一人一人の頭の傍に浮いている。
しかもソレに、盛り上がる観客達は一人も気付いていない。
「…なんだ…?こりゃあ…」
ただならぬ何事かが起きている。
そう悟ったムンカルは、腰を浮かして素早くテレビに近付こうとして、ソレに気付いた。
「何ですか?え?あれ?どうしたんです?怖い顔をして…」
訊ねるカドワキの後頭部を、ムンカルは息を止めて見つめていた。
テレビの向こうで観客達につきまとっている黒い球体が、いつの間にかカドワキの真後ろにも出現している。
「何だ…?何だこいつはっ!?」
いつ出現したのか解らなかったそれは、カドワキの頭のすぐ後ろに、まるで見えない支えで固定されているかのように浮か
んでいる。
危険な香りはしないが、正体不明で気味が悪い。
ムンカルは片手で拳銃を握り締めつつ携帯を取り出し、大急ぎで再びミカールを呼び出した。
「何や?この気配…」
パチンコの大型電光看板の上で、ディオに跨ったミカールが呟いた。
その手には、先程ムンカルと通話したばかりの携帯が握られたままであった。
目を大きく見開き、ピンと耳を立てた彼は、街全体を覆うようなその気配に慄然としていた。
気配だけではない。自分達オーバースペックや各室長、最上位の堕人にも匹敵する強烈な力が、この街のある一点から全方
位に広まっている。
さざ波のように静かに、しかし確実に、広く遠く伝播してゆくその力は、ミカールには覚えのある物であった。
「アズライルや…。これ、アズライルの気配がしとる…。どうなっとるんや…?」
呟いたミカールは、聞き馴染んだバイクの音に気付いて首を巡らせた。
「ミカール、これは一体?」
童顔の獅子のすぐ後ろ、狭い看板の上に、垂直に駆け上って来たバイクがタイヤを据える。
声をかけた灰色の狼は、ミカール同様に耳を真っ直ぐに立て、全身の被毛を逆立てて気配を探っていた。
「ワシにも解らん…。けど、アズライルが何かしとるのは確か…」
言葉を切ったミカールは、振動し始めた携帯を持ち上げ、画面を確認してから顔に当てた。
「おう、ワシや。…ああ気付いとる、アズライルの事やな?…ん?球?黒い?いや見てへんけど…。何?テレビ?サッカー場
やて?判った。これから行ってみるわ。お前はそのまま大人しゅうしとれよ?」
通話を終えたミカールは、ナキールに目配せした。
「サッカー場やな。アズライルはそこに居るらしい」
「この力の発信源も、位置的に競技場だ」
「ああ。何が起こっとるのか判らへんけど…、とにかく行くで!」
ミカールはディオを宙に躍らせ、ナキールがそれに続く。
やがて彼らは伝播してゆく異常が形を成し始めている事に気付いた。
非常識なルートで競技場を目指す彼らの周りでも、携帯などでサッカーの情報をチェックした者達の頭の傍に、黒い球体が
浮かび上がっている。
それに気付いたミカールは、丸顔を驚愕に歪めた。
「「眼」やと!?アホな!アズライルはもう666システムとリンクしてへんはず…!いや、システム自体、処刑の時にワヤ
んなってもうたはずや!」
「666システム?それは一体何かね?」
「ヤバいモンや!」
「ヤバい?…自分には咎の気配は感じられない。悪い物とは思えないのだがね?」
バイクを並べたナキールが問うと、ミカールは一度歯を噛みしめた後、低く抑えた声で応じる。
「そらそうやろな…、システムだけなら良いも悪いも無いし、悪意を持って使われとる訳でもないやろ。…あれは古いシステ
ムや…。今のワシらの体制が出来上がる前…、配達人制度が組まれる前…、人間がまだ、他の獣と区別されてへんかった頃、
あるオーバースペックが作った…、本部その物にも匹敵するデタラメなシステム…!」
獅子は一度言葉を切り、苦々しい顔付きで呟く。
「できてへんねや!アズライルの肉体は、アレとのリンクに耐えられるようには造ってへんねやっ!急いで止めへんと、取り
返しがつかん事になってまう!」
時刻は、少しさかのぼる。
競技場の前でバイクを止めたアズライルは、後ろに乗るハヤトを振り返った。
「これから現場でチェックする。出場できるかどうかは、私が確認した後だ。…もう判っているだろうが、駄目だったら大人
しく諦めるのだぞ?」
「ああ。わがまま聞いて貰うんだからな、ジャッジに従う。約束だ!」
神妙な顔で頷いたハヤトは、アズライルと一緒にバイクから降りると、混雑している正面口から堂々と侵入し、トイレに身
を隠した。
まだ肉体を持ったままの死人であるハヤトは、アズライルから離れると被認迷彩の効果が切れて、周囲から認識されてしま
うのである。
素直にトイレにこもったハヤトが、チームの皆は自分がぎりぎりになっても現れないせいで慌てているだろうなと心配し始
めた頃、会場に侵入したアズライルは、観客や関係者や警備員の前を堂々と通過し、タラップを昇り、巨大な電光掲示板の上
に立った。
そこからは会場が一望できるが…、
(…まだ足りない…)
アズライルは胸の内でそう呟き、鉄の足場に片膝をついた。
(観衆…、選手…、関係者…、それだけでは駄目だ!テレビカメラ、新聞記者、そこから発信される情報に触れる、数多の人
間達全ての行く先を見定めなければ…!)
祈るように両手を胸の前で組み、アズライルは大きく見開いた目に競技場を映す。が…。
(駄目だ…!駄目だ駄目だ!これでは駄目だ!私の視覚走査では捉えきれない!せいぜい見える範囲…それも数週間分しか探
れない!ジブリールやミカールのような広範囲深部走査でなければ…!)
同じ配達人でも、ミカールやジブリールと彼女では、大幅な性能差がある。
そもそも、オーバースペックと呼ばれる彼らは、基礎性能から魂の強靱さまでが、一介の配達人とは一線を画しており、基
本的なスペックしか持たないアズライルでは及ぶべくもない。
目に頼る限界を確信したアズライルは、逆に視覚を捨てた。
目を閉じ、感覚での走査に切り替えた黒豹の表情が険しくなる。
苦痛に耐えるように硬く引き結んだ口の端が、きつく瞑った目の端が、ピクピクと痙攣し始める。
走査範囲の拡大と、走査深度の延長により、アズライルが受診する因果情報は数万人規模の膨大な量となる。
その中からサッカーの試合に影響を受ける者とそうでない者を選別しつつ、黒であれば遙か先の未来まで予測する…。
その、オーバースペックですら補助も無しに行うことはなるべく避ける、凄まじい情報量との格闘は、アズライルには荷が
重すぎた。
「ぐっ…!」
彼女のキャパシティでは処理が追いつかなくなり、呻いた黒豹の鼻からつつっと鼻血が滴る。
それでもなお、時間的余裕も無いので走査を中断せず、焦りを募らせるアズライルは、苦痛にも負けず精神を研ぎ澄ませ、
因果を手繰り続ける。
それは、意地でもあり、憤りをぶつける行為でもあった。
ハヤトの想いを遂げさせてやりたいと願う心。
黒獅子に圧倒され、ムンカルに頼らざるを得なかった自分への憤り。
そして、約束した以上半端に投げ出せないという意地…。
渾然となったそれらが、アズライルを突き動かしている。
「……………ろ…、…………しろ…、………りしろ…」
やがて、苦痛に呻くように、彼女の口から声が漏れた。
「……かりしろ…、…っかりしろ…!しっかりしろ…!」
己に言い聞かせるようなその呟きに呼応するように、アズライルの背中、ライダースーツの白い翼のエンブレムが明滅し、
やがて光の粒子が滲み出始めた。
まるで見えない手で押し留められているように、遠くまで飛ばずに背中にわだかまる光の霧。発熱した機械が自己冷却し、
蒸気を吐き散らすように、アズライルの背から溢れていたその光は、
「しっかりしろ…!しっかりしろ…!しっかりしろ!お前は「アズライル」なのだろう!?」
その、絞り出すような黒豹の言葉と同時に、爆発的に噴出した。
バキィンッと、硬い何かが砕けるような音が響き、アズライルの頭上に光の輪が浮かび上がる。
一方で、一気に噴出した光は徐々に左右へ広がり、明確な形を成す。
それは、一対の翼であった。
体を覆う被毛とは対照的に、どこまでも白く、眩しく、美しい翼は、長さが片翼だけでアズライルの身長ほどもある。
鳥類の翼を思わせる、たたまれた翼を背負い、頭上に光の冠をいただくアズライルは、相変わらず苦悶するような表情を浮
かべていた。
だが、跪き、頭を垂れ、祈るかのようなその姿は、神々しく、そして美しい。
変化はアズライル本人だけに留まらなかった。
翼と輪の顕現と同時に、会場には無数の黒い球体が出現している。
「…視える…」
呟いたアズライルの口の端が、僅かに緩んだ。
「視える…!先まで、遠くまで…!これならば…!」
全ての黒い球体に、白い円が浮かんだ。
黒と白が逆転した目玉のように変化したその球体は、紛れもなく、眼球としての役割を果たしている。
アズライルの「眼」は自己判断で分裂、増殖、転移し、瞬く間に拡大して行った。
これから行われるサッカーの試合に、直接、あるいは間接的に関わる全ての人間に対し、「眼」の観察が行われる。
ハヤトが出場した場合にどんな影響があるのか?
残される資料によって後世にどのような影響が与えられるのか?
因果管制室が本部システムを利用し、メンバーを総動員しても難しいであろう、数百年先まで見通すその走査と予測は、当
然、アズライル個人での処理限界を超えていた。
顕現した翼は端から崩れ始め、肉体が熱暴走する。
「あと…少し…!あと少しだけ…!」
呻く彼女の肉体が耐久限界を迎えようとしていた、正にその時であった。
無理を続けるアズライルの頭上で、巨大な、純白の翼が翻ったのは。
高速で飛来したその巨体は、質量に反して音も無く電光掲示板の上、アズライルの横に舞い降りた。
「アズ!」
声をかけつつ伸ばしたジブリールの手は、しかしアズライルの肩に触れる寸前で、バチッと音を立てて弾かれた。
引っ込めた手は指先が焼け焦げ、炭化した被毛と皮膚がはがれ落ち、桃色と白からなる肉が露出している。
ジブリールは僅かに目を向けて状態の確認だけすると、高速復元で手を元通りに復元した。
「…そうだった…。666とのリンク中は、強力なファイアウォールが余計な接触を排除するんだったね…」
呟いたジブリールは、自分が駆けつけた事にも気付いていないアズライルの横顔を窺い、既に危険な状態に陥っている事を
改めて確認する。
黒豹は666システムを制御できていない。
今や主従関係は逆転し、彼女の方がシステムのパワーに引きずられる状態となっていた。
(呼びかけてリンク解除させるのは無理か…。肉体の五感を廃して666経由の情報処理に全てを傾けている…。このままだ
と肉体どころか、アズの魂まで壊れてしまう…!)
ジブリールは鳩尾まで下ろしているつなぎのジッパーを摘むと、息を吐いて腹を引っ込めつつ、一気に下腹部まで引き下ろ
した。
「なりふり構って…いられないね…」
呟きつつデリンジャーを引き抜いたジブリールは、ジッパーを下ろしてあらわになった、真っ白い被毛に覆われた太鼓腹、
そのへそ上の辺りにバレル上部を押しつける。
「…っく…!」
微かな苦痛の呻きと共に、離された小型拳銃に引きずられ、ズルリと、ジブリールの腹から何かが抜き出された。
それは、空色の光であった。
デリンジャー上部から、先に押しつけた腹部の一点が、明るい水色の光で繋がっている。
光が腹から引き出されて行くに従い、ジブリールの瞳から青が失せ、黒色に濁ってゆく。
やがて完全に引き出された青い光は、デリンジャー上部から真っ直ぐに伸びた一本の棒となった。
デリンジャーがグリップとなった、刃渡り50センチ程の青い光刃を持つ剣…。
普段は体内に宿しているプログラムを引き抜き、具現化させた剣を、ジブリールは黒く染まった瞳で子細に検分し、二重顎
を引いて頷いた。
「少し手荒になるけれど…。ごめんね、アズ…」
小声で詫びたジブリールは、片手に軽く握った剣をすっと突き出した。
直後、凄まじいスパークが生じ、アズライルの周囲を卵形に覆っていたファイアウォールが、その形状をあらわにする。
真っ白い卵に接触した剣は、それを分解、吸収し、己を御するジブリールにエネルギーとして送り込む。
ローランの剣。
そう呼ばれているこの特殊なプログラムこそが、ジブリールの強大な力の正体である。
普段収納しているこのプログラムが起動されていれば、黒獅子の弓と矢も、盗魂者の弾丸も、彼にダメージを与えるどころ
か、逆にエネルギーを与えてしまう。
無論、流れ込むエネルギーを蓄える事ができなければ無意味であるため、桁外れのキャパシティを持つジブリールでなけれ
ば満足に使いこなせないが、ブラストなどの特異な現象を除けば、このプログラムで分解吸収できない物は無い。
いかなる攻性障壁であろうと、ウイルスであろうと、物体であろうと、一切合切飲み込んでエネルギーに変換してしまう、
底なしの大食らい…。それが、オーバースペック・ジブリールが持つ固有プログラムであった。
接触から程なく、ファイアウォールの修復速度が、ローランの剣の吸収速度を下回った。
綻びが生じ、円形の穴が開いたのを見計らって、ジブリールは卵に手を伸ばす。
穴は小さく、ジブリールの太い腕がやっと通る程度の大きさだったが、ライダースーツの袖が、己の被毛が、そして皮膚と
肉が、焼き焦がされて削ぎ落とされる事にも一切怯まず、顔色一つ変えず、北極熊は強引に腕をねじ入れた。
焦がされながらもファイアウォールの内側に腕を侵入させたジブリールは、感じている苦痛を顔には僅かにも浮かべず、ア
ズライルの頭上に輝く光の輪に手をかけた。
その直後、ガラスが割れるような音を立て、光の輪は砕け散った。
ファイアウォールを突破した白い手が送受信機を握り潰し、666システムとのリンクが強制切断されたアズライルは、力
尽きたように後ろへ倒れる。
北極熊はローランの剣を握ったまま、その背を太い腕の内側で抱き止めた。
ほぼ全ての機能が停止しているアズライルの体は、熱暴走を起こして異常な熱気を発散している。
心身共にぼろぼろの危険な状態だったが、幸か不幸か、今ジブリールの中には666システムから奪い取ったばかりの膨大
なエネルギーが蓄えられていた。
「アズ!しっかり!」
ジブリールは呼びかけながらも、即座に復元した左手をアズライルの胸に当てる。
そしてファイアウォールを分解して得たエネルギーを用い、疲弊し切った肉体とアズライルの魂を、同時に修復し始めた。
やがて、徐々に冷えてゆくアズライルの体が呼吸を再開し、僅かに痙攣した瞼が薄く開く。
「…ジ…ブ…リール…」
「良かった…。気が付いたかい?アズ…」
安堵の表情を浮かべた北極熊の顔を、しばし呆然と眺めていたアズライルは、自分の豊かな胸に大きな手が強く押し当てら
れている事に気付き、顔を再加熱させた。
「驚いたよ…。もうあのシステムは動いていないと思っていたし、いかにキミでもアクセスできるとは考えてもみなかったか
ら…」
ジブリールは言葉を切ると、アズライルの体温が再度上昇している事に気付き、眉根を寄せた。
「…あれ?修復が上手く進んでいないのかな?」
呟いた北極熊は、豊満で柔らかな乳房に添えた手にさらに力を込め、より深くきつく密着させる。
「あっ…!」
「ちょっと苦しいかい?でもごめん、我慢しておくれ…」
アズライルが上げた声を勘違いしつつ、ジブリールはより慎重に修復を進める。
(…ああ…!ジブリールが…!ジブリールが私の胸に手を…!)
一時的に記憶が飛んでいる黒豹は、せっかく救って貰っておきながら昇天してしまいそうな喜びの中で、
「ああああああああああああああああっ!」
自分がそれまで何をしていたのかという事と、トイレで待機させていたハヤトの存在を思い出した。
「痛むかいアズ?」
「い、いやそうではない!済まないジブリール!す、すぐに行かなければ!試合が始まる前に伝えなければ!」
前後の状況が判らないジブリールは、それでも、必死に訴える黒豹に頷いた。
「判った。けれどまだ立てないだろうから、オレが連れて行くよ」
「…消えた…だと?」
銃を抜いて構えていたムンカルは、訝しげに眉根を寄せる。
「え?消えたって…。えっと…、私の後ろの球が…ですか?」
正座して緊張しているカドワキの横、膝立ち状態のムンカルは、首を捻りながら銃を下ろした。
球の出現の後、ミカールに連絡を入れたムンカルは、当事者のカドワキにも事情を説明したが、彼の目には球体は見えてい
なかった。
ムンカルも初めて目にする物であり、危険かどうか、排除して問題ないかどうかも判断できないため、危険そうなら即座に
破壊できるようにと、とりあえず銃を向けて待機していたのである。
「…今のは…、アズライルに関係があるのか?一体何だったんだ?」
難しい顔をしてブツブツ呟くムンカルの前で、何が起きていたのか判っていないカドワキは、
「あ。お好み焼き冷めたかな…。暖め直して来ましょうか?」
思い出したように、呑気にそんな事を訊ねた。
「なんか増えてっし!」
待機させられていたトイレの中、ハヤトは目を丸くして声を上げた。
彼の前には、先程の黒い雌豹。と、彼女をお姫様抱っこしている、とんでもなく肥えたとんでもなく大きい北極熊。
呆気にとられているハヤトに、ジブリールはニッコリと微笑みかけた。
「こんばんは。初めまして。貴方の活躍は時々スポーツ新聞などで見ていましたよ」
熱暴走を起こしながら硬直しているアズライルに代わり、丁寧にお辞儀したジブリールが、試合に出ても大丈夫である事を
伝えると、
「おっしゃーっ!…って、え?今何て言った?あんたは知ってんの?」
一度ガッツポーズを取ったハヤトは、やや遅れて胡乱げな顔をする。
「新聞は色々と読みます。貴方の事も、入団からずっと知っていますよ」
にこやかに丁寧な口調で応じたジブリールは、「写真で見るよりずっと男前ですね」と付け加えて、ハヤトを喜ばせる。
「では急いで下さい。我々も、貴方の活躍をこっそり観戦させて頂きますね」
俄然やる気になったハヤトは、
「おう!きっちり見ててくれよな、豹のひと、熊のひと!掛け値なしの極上飛びっきり!最後の大ハッスルだ!」
吹っ切れたような、清々しい笑顔で力こぶを作って見せた。
「事情はだいたい判った。…あぶないトコやったなぁ…。ワシらだけやったら間に合わへんかった。そんなナリしとるクセに、
相変わらずフットワーク軽いやないか」
試合も終盤、駆け回る選手達と盛り上がる観客を眼下に、観客席を覆う屋根の上でミカールが呟く。
「これはどうも」
その脇には、仰向けに寝せられて熟睡しているアズライルと、足を投げ出して背中側に手をついて体を支え、寄り添うよう
に座るジブリールの姿。
乱れは多少生じるが、悪い方には転ばない…。それが、アズライルの判断であった。
ハヤトが出場しても欠場しても、結局チームは勝つことになるというのが、彼女が見た未来の可能性。
皮肉にも因果本来の流れでは、ハヤトの死を知った同僚達が奮闘し、弔い合戦の意気で試合に臨み、快勝するという事になっ
ていた。
いずれ生じるであろう乱れは、ハヤトの最後のプレーを見て、知って、聞いて、サッカー選手を目指そうとする数名の少年
が現れる事だったが、それも、世界を悪い方へ転がす重大な乱れとはならない。
故に、黒豹からその説明を聞き、信用した北極熊は、アズライルの独断を責めず、ハヤトの行動も阻まなかったのである。
「666システム…、生きとったんやな…」
「うん…。計算外だったよ…」
応じたジブリールは、屋根の縁に立って試合を観戦している狼が何か問いたそうに振り返ると、小さく頷いた。
「666というのはね、異層に構築された超巨大複合システムなんだ。それこそ、今の本部の全システムに匹敵する規模のね。
…既に壊れたものだと思っていたんだけれど…」
「存在する層がどこかも判らへんし、アクセスキーも失われとったし、確認のしようが無かったんやけど…、今日、まだ動い
とる事が確認された訳や」
後を引き取ったミカールは、「存在は一部でしか知られてへん。他言無用やで?」と、ナキールに釘を刺す。
「判った。ところで…」
頷いた狼男は、不思議そうに小首を傾げる。
「ムンカルはカドワキの所に居るそうだが、良いのかね?呼び戻さなくとも。自分が迎えに行っても良いが…」
童顔の獅子はこの問いで、微妙な顰め面になった。
規則に厳しいミカールが、以前ムンカルがカドワキを配達に連れ回した事件の際にも、不思議とそれほど怒らなかった。
今日もまた、再接触したあげくに彼の住処へ転がり込んだムンカルに、すぐ戻って来いとは言わなかった。
その事がナキールには引っかかっている。どうにも、普段のミカールらしくないと感じて。
「…良くはない…。けど、今夜は放っとき…」
童顔の獅子はそう応じると、夜空を見上げて目を細めた。
「……イツがニ……や…かったら…、あんな勝手…、させへんねやけどな…」
ミカールのその呟きは、誰の耳にも届かなかった。
童顔の獅子以外の同僚はもちろん、あまり勘の良くないムンカルも、カドワキ本人も、その事には気付いていない。
両方と面識のあるミカールだけが、カドワキとムンカルの間に横たわる、配達人でさえ見えない因果の糸の存在を確信して
いる。
その時、大歓声が下から吹き上がり、彼らは揃って試合場を覗き込んだ。
ガッツポーズを決めたハヤトが、ゴール前から観客席前まで両手を広げて走って行く。
「あっちゃー!見逃したわ!アイツが入れたんか?」
「うん。見事なヘディングシュートだったよ。惜しいねぇ…、これからの選手なのに」
ジブリールがしみじみ言うと、ナキールが考え込むように目を細めながら呟いた。
「「これから」というのは…、殆どの人間に言える事ではないのかな?」
「言えているね。人間達は可能性の塊だから」
「お前らの人間評価、時々無茶苦茶甘いで…」
鋭いホイッスルが鳴り、三名は会話を止める。
試合終了。ハヤトがその生涯で最後に決めたゴールは、チームを昇格させる決勝点となった。
「おはよう。体調はどうだい?」
翌日の朝、食堂に顔を出したアズライルに、ジブリールは笑顔で挨拶した。
アズライルが眠りについてから今朝まで、北極熊達は別件でかなり忙しい事になっていたのだが、疲労の色すら窺わせない。
「おはよう。迷惑をかけたが、もう大丈夫だ」
「それは何より。…はいこれ」
まだ気だるさが残っているアズライルは、北極熊が差し出したスポーツ新聞を受け取る。そして一瞬怪訝そうな顔をした後、
「ああ、昨夜の…」
そう呟き、柔らかな微笑を浮かべた。
どこか困ったような、照れているような、何とも優しげで穏やかな微笑みを。
「…キザな事を言うな、あの男は…。そして、今時珍しいほど潔い…」
新聞の一面には、昨夜の試合後、ロッカールームで急死した若きサッカー選手の写真が載っている。
その最後のインタビューでの一言が、ゴールを決めた直後の笑顔の写真の脇に、やや斜めに大文字で踊っていた。
『最後の一点は、ロスタイムをくれた女神に!』