第四十五話 「兆し」(前編)

激しい夜風が、エトワール凱旋門の上を吹き抜ける。

宵の口、行き交う車も人も多い賑やかなパリの夜は、その一角に重苦しい闇を抱えていた。

赤いコートを風になびかせ、凱旋門上端に立って街並みを睥睨している巨漢は、物憂げな表情を浮かべてはいるものの、そ

の赤い瞳を爛々と輝かせている。

その頭部は人間の物ではない。北極熊のそれである。

上に高いだけでなく、厚みも幅もあるその体は、極端な肥満体型。

全身の白い被毛と、アンダーウェアの黒と、外套の赤が、鮮やかとさえ言えるコントラストを成していた。

赤い瞳にパリの夜景を映していた北極熊は、鋭い牙を備えた口を僅かに開き、

「…困った…」

弱々しい声で呟いた。

「困った。困ったぞ。これは困った」

ブツブツと繰り返す北極熊は、おもむろに振り返ると、急に屈み込んで土下座し、顔面を床に叩き付けた。それも力一杯。

「困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った」

うわごとのようにボソボソと繰り返し、狂ったように何度も何度も頭部を床に叩き付ける、どこからどう見ても錯乱してい

る北極熊の様子は、その表情に乏しい顔がアンバランスなせいで鬼気迫る物がある。

「どこに行ったんだいアズ?困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った困った」

平坦な声で延々とつぶやきながら繰り返し額を床に叩き付けている北極熊に、周囲でおろおろとしている数名が声をかける。

「お、お気を確かに!」

「目下、総動員でお探し致しております!」

「すぐにも無事に保護される事でしょう!」

声をかけたのは、北極熊同様に赤いコートを纏う、それぞれ兎と狸とカワウソの頭を持つ三名…、いずれも堕人である。

初めて見るイブリースの取り乱し様に困惑し、やや引き気味であった。

北極熊が常に連れ歩いている白猫の少女は、数時間前から行方不明となっている。

昼頃に妙な兆候はあった。

何かに気付いたように急に立ち止まり、空の一点を見上げて動かなくなり、音でも聞こえているように耳をピンと立ててそ

ばだてたまま、しばらくの間イブリースの呼びかけにも反応しなくなったのである。

白猫が反応したらしい、微かな波となってパリにまで及んだ、ある配達人が起こした力の伝播。

それはイブリースにも感じられたものの、白猫がそうまで反応する理由が解らなかった。

「どうしたと言うんだい?アズ…。一体どこへ行ってしまったんだい?」

額を床に打ち付けるのを止め、天を仰いでイブリースは呟く。

卵の黄身のような色の半月が、湿り気の多い空に滲むようにして浮かんでいた。



「こ、これ下さいっ!」

長らく財布と相談した後、ブランド物のハンドバッグを店員に指し示した若者は、結婚を前提とした交際の申し込みを決意

していた。

その少し後ろ、銃口からたなびく紫煙にふっと息を吹きかけて散らした桃色の豚は、銃をホルスターに収めながらニッコリ

と微笑んだ。

むっちり太ったピンクの体をピッチリした黒革のライダースーツに押し包んでいるその豚は、独立配達人バザールである。

「ファイト!ですよぅ」

配達物、「縁」を若者に撃ち込み、本日最後の仕事を終えた彼女は、踵を返して高級ブランドショップの外へ出る。

「まぁ、特別欲しいとも思いませんしぃ、催促するなんて大それた真似もできやしませんけどぉ…。もしも貰ったら、あたし

もきっと喜ぶんでしょうねぇ…」

店前の明るい街灯が光の傘を広げる下で、夜空を見上げてバザールは呟く。

湿っぽい空気を大きな鼻から吸い込んだ彼女は、雨が降り始める時刻が近付いている事を思い出し、歩道の隅に止めていた

愛車に跨った。

車道の流れに混じり込み、遅くもなく速くもない進み方で街をゆくバザールは、ここ数日宿泊している安宿に向かう前に、

夕食を済ませる算段を立てた。



一方その頃、遠く離れた島国で配達業務に従事している、レモンイエローの飛行艇では…。

「修復は終わったよ。思っていたより酷かった」

パールホワイトの北極熊がドアを潜り、食堂に陣取っていた二名の同僚に告げていた。

午前二時。ジブリールは修復が必要となったアズライルを治療していたのだが、損傷は根深く、かなりの手間をかけさせら

れた。

「そらまぁそうやろな…。アズライルの肉体は、666の負荷に耐えられるようにはできてへん。それ以前に、まだ解除キー

も持ってへんのに無理矢理除幕したせいでガタガタやろ」

ミカールが応じると、向かい合って座っていたナキールが、アイスティーのカップをテーブルに置きながらジブリールへ訊

ねた。

「解除キーも持たずに強制的に除幕を行うのは、危険なのではないのかね?」

北極熊は腰を下ろしながら頷く。

「危険だね。それにかなり難しいよ、内側から無理矢理こじ開けるのは」

言葉を切ったジブリールは、ミカールに視線を移す。

「本部への報告は、さっき上げたよ」

「そか。…本人はどないしとる?」

「今は眠っているよ。…アズライルは、666とのリンクで、おぼろげだけれどアレの全体像と本質を掴んだらしい。説明は

休んだ後にすると諭して寝かせたけれど…」

言葉を切ったジブリールは、「忙しくなりそうだ」と呟いて広い肩を竦めた。



「おーい…。風邪ひくぞ?」

右耳が欠けた鉄色の虎は、口元に両手を寄せてメガホンにし、控えめに声をかけた。

が、机に右頬を押し当て、突っ伏す格好で眠っている太った男は、呼びかけにも全く反応しない。

机の上にはビールとチューハイの缶が何本か転がっており、冷凍食品オンリーの食事に利用した空の皿が、汚れたままいく

つも乗っている。

アスモデウスとの戦闘で負った損傷により、迷彩機能が上手く働かなくなったムンカルは、帰還が遅れる旨の連絡をミカー

ルに済ませた後、許可を得てカドワキの部屋に潜伏し、機能の修復と休憩をおこなっていた。

ところが、予想以上に話が弾んで、勧められるままについつい酒まで飲んだムンカルは、気付けば日付が変わってもなお部

屋に居座っていた。

耳は欠けたままだが、既に修復の方はほぼ済んでおり、おそらく被認迷彩も問題なく機能する。

時間も時間なのでさすがにそろそろおいとますべきだとは思うのだが、迷彩を実験しようにも相手が酔い潰れている。

ため息をついたムンカルは、おっくうそうに腰を上げると、ぼりぼりと頭を掻きながら別室へ入って行った。

やがて戻ってきた彼の手には、ベッドからむしって来た掛け布団。

起こさないようそっと背中にかけ、腕と脇腹の間に押し込み、くるむようにして覆ってやり、さらにあぐらをかいた足の下

にまで押し込み、熱が逃げないようにしてやる。

テーブルの下の腹側には、おまけとして座布団を押し込んでやったムンカルは、相変わらず眠りこけているカドワキの傍ら

で、立ったまま腕組みし、首を捻った。

自分のその行動に、懐かしみにも似た物を覚えて。

やがて、その懐かしさの原因を思い出し、鉄色の虎は口元を歪めて苦笑した。

ずっとずっと昔、もはや記憶も鮮明さを欠いた、彼がまだ人間だった頃…、これと同じような事を確かにしていた。

まだ彼が成人しておらず、他の孤児達と共に、シスターの元で暮らしていた頃…、自分を慕う弟分が、夜更かしに付き合っ

て眠ってしまった時など、よくこのように毛布などをかけてやっていた。

「よくもまぁ覚えてるもんだ…。我ながら感心するぜ」

ムンカルはテーブルの横側にどすんと腰を下ろし、苦笑いしながら頬杖をつく。

そうして、霞がかかったように明瞭さを欠いた、しかし懐かしい気分に浸りながら、カドワキの様子を見守り続けた。



「あっちは今頃真夜中ですよねぇ?もう寝ちゃいましたかねぇ…」

携帯を構えたバザールは、カメラのズームを調節しながら、装飾も美しいガラスの器に盛られたフルーツパフェを、ファイ

ンダーに収めている。

色とりどりのフルーツできらびやかに飾られたそのパフェは、多くの旅行客が訪れるというこのカフェにおいて、別格扱い

の名物となっている。

味にも量にも満足できた夕食は、特製トマトケチャップが美味なキノコ入りの大型オムレツにフライドポテト、パンという

取り合わせ。

バザールは既に満腹になっているが、甘い物は別腹という法則により、フルーツパフェが入るだけの余裕はあるらしい。

交際中の狼男に送るメールへ添付する写真を撮影しようと、角度や距離を慎重に調節しているバザールは、不意にファイン

ダー内に出現したソレに気付き、

「ぷぎっ!?」

驚いて妙な声を漏らしつつ立ち上がり、両手を万歳の格好で上げ、携帯を宙に舞わせた。

バザールから見てパフェの向こう、テーブルの縁に手をかけてひょこっと下から顔を出した者があった。

白い猫の顔をした少女…。明らかに人間ではないソレの、前置きのない出現に驚いたバザールは、きわどいタイミングで我

に返ると、放り上げてしまった携帯を、白刃取りするように頭上でキャッチした。

「び、びっくりしたぁ…!何ですかぁ貴女?配達人…?」

胡乱げに首を傾げたバザールに、しかし白猫は答えない。無言のまま目と耳を彼女に向け、ひくひくと微かに鼻を動かして

いる。

赤いコートを纏った少女を見つめ、バザールは首を傾げる。

堕人の一派が赤い装束を好んで纏う事は知っていたが、目の前の白猫がそうとは思えなかった。

堕人ならば彼女達に間違いなく向けて来るであろう敵意が、悪意が、白猫からは全く感じられない。

突然の出現には驚かされたが、彼女に何かしようと思えば、気付かれずに接近できた時点で何らかのアクションを行ってい

るはずである。

「ん〜と…、貴女、お名前は?」

バザールがそう問いかけても、白猫は口を開かなかった。

そして桃色の豚は気付く。自分を見つめていると思っていた少女の視線は、しかし焦点が合っていない。バザールを通り越

して遙か彼方を眺めているような、茫洋とした視線であった。

(…もしかしてこのひと…、機能障害を起こしてるです…?)

桃色の豚は胸の内でそう呟き、改めてその考えを吟味した。

考えれば考えるほど、そうではないかという思いが強まる。

魂にまで至る重大な損傷が生じて機能障害を起こした仲間が、同じような症状に陥った事を、バザールは思いだした。

人形のように無表情になり、話しかけても反応せず、遠くを見るような無気力な眼差しになる…。

(あれって、こういう感じでしたよねぇ確か…。やっぱりこのひと、どこかで酷い損傷を負ったんでしょうか…?)

考えてもみれば、目の前の白猫の肉体は幼くて小さい。

基本的に魂の形に合わせて造られる彼女達の肉の器は、成人の姿で構築されるのがスタンダードである。彼女達の魂が幼子

の形をしている事は無いので、これは肉体の構築が上手く行っていないように思えた。

(魂にまで及ぶ機能損傷で、肉体も壊れた…。それで、自己保存プログラムに基づいて無意識に肉体を構築したけれど、完全

では無かった…って事ですかねぇ?)

首を捻りつつ、バザールはそう推測して腰を下ろした。そして困り顔で白猫を見つめる。

独立配達人として単独活動している彼女は、通常の配達人達が持つ以上の知識と技術を広範囲に渡って習得している。チー

ムとして活動し、知識や技術を分担する通常の配達人と違い、一人で何でもこなさねばならないためである。

しかし、マシンの修理からカスタムに始まり、プログラムや肉体に関する構築、改善技能など、長期単独活動を支える技能

はあっても、専門家では無いため、魂まで損傷した同類を治療するのは難しい。

救命講習や応急処置を学んだ一般人と、専門の医師が全くの別物であるように、一介の配達人と専門の修理人とでは、どう

しようもない技術的隔たりがある。つまり彼女では、真に重篤な魂の損傷を修繕できない。

「ん〜…、あたしが下手に弄って変な直り方しちゃっても困りますよねぇ…。ここは修理人にお任せした方が…」

相変わらずじっと自分を見つめている白猫の様子を子細に観察し、バザールは眉根を寄せ、困ったように呟いた。

しばし考えた後、バザールはパフェの器を両手で挟み、白猫の目の前にトンと置き直した。

「ごちそうしますよぅ。とりあえずそこに座って、食べてみて下さい。美味しいって評判なんですからぁ」

ニッコリ笑って白猫に告げたバザールは、手を上げてウェイターにアピールし、自分のパフェをもう一つ追加オーダーする。

白猫が手を付けていないパフェは、まだ若いウェイターにも認識されているので、彼は「何故二つも?」と小首を傾げたが、

やがてすぐに納得顔になり、伝票にオーダーを追加した。

印象がぼやけてはっきりしない不思議な客が、丸々と肥えている事だけは、何となく感じられている。

よく食べるから太っているんだろう…。

被認迷彩に邪魔され、事象の中心に注意を向ける事ができないウェイターは、思うともなくそんな事を思い、疑問を自己解

消していた。

しかしバザールはそんなウェイターにも注意を払わず、一向に動こうとしない白猫を見つめて怪訝そうな顔をしている。

(…意思疎通は、ほぼ無理なんですかねぇ…)

桃色の豚は腰を上げ、テーブルを回り込んで白猫の傍に立った。

その動きを追った白猫の目は、相変わらず茫洋としており、何を考えているのかさっぱり解らない。

「さ、遠慮しないで良いんですよぅ」

そう言って微笑みかけたバザールは、椅子を引いて白猫を座らせてやろうとした。

が、少女にはやや高いその椅子に、手を掴んだバザールが軽く引っ張り上げてやろうとしたその途端、白猫は前置きもなく

唐突に動いた。

「…ん?」

バザールは、自分の袖口を軽く摘む華奢な指を見て、次いで白猫の顔を見る。

白猫は変わらず無言だが、バザールはその動作を不安の表現と解釈した。

「大丈夫ですよぅ。傍に居ますからぁ」

微笑みを深くしたバザールは、白猫を椅子に座らせ、自分はその傍らの席へと移った。

そして白猫の手に長いスプーンを握らせ、自身はテーブルの上に放り出していた携帯を手に取る。

「どうぞぉ?」

バザールにそう促された白猫は、ようやくパフェに視線を向け、スプーンをのろのろと動かし始める。

そんな白猫を横目で眺めながら、バザールは携帯を操作して電話帳を呼び出した。

「…確か彼が、去年からこの街に赴任して来てたはずですよねぇ…。ラッキーでした」

魂の修繕も可能な古馴染みの番号を呼び出している、おっとりした桃色の豚は、まだ気付いていなかった。

自分と隣り合って座っているソレが、最強最悪の堕人、アル・シャイターンの宝物だという事に…。



「ムンカル、たぶん朝帰りになるて」

携帯をぱたんと閉じたミカールは、同席しているジブリールとナキールにそう告げた。

「そんなに具合が悪いのかい?何なら迎えに…」

「いらんいらん。単に長居しとるだけや」

ジブリールの声を遮り、童顔の獅子はムスッとした顔で応じた。

事情を知っているだけに早く帰って来いとも怒鳴れず、イライラを表に出せない。

ムンカルに「その気」でもあれば別なのだが、正体に気付かぬままカドワキに接している虎男を、強引に呼び戻すのも気が

引けた。

(そうそう機会も無いんやし…、今日だけは我慢したろ…)

正直なところ少々面白くないのだが、ミカールはその想いを飲み下した。

そんな複雑なミカールの心境をよそに…。

ちゃーちゃーちゃー、ちゃーらら〜、ちゃ〜らら〜…。

ナキールの携帯がメールを受信し、メロディを奏でる。

「何やこんな時間に?」

不機嫌そうに眉根を寄せたミカールに、狼男は、

「バザールからのメールのようだ」

と応じつつ携帯を開く。

「…何で着メロが帝国のマーチになっとんねん…」

ぼそりと呟くミカールの前で、メールの内容と添付された画像を確認したナキールは、微かに眉根を寄せた。

高々とそびえるパフェを前にしている自分を、バザールが自らの手で写したその画像に見入りながら。

『変わった子、見つけましたぁ』

との文が入っているそのメールに添付されていたのは、傍らの小柄な白猫の肩を笑顔で抱く、交際中の桃色の豚。

「………?」

そのかなり重要な画像は、しかし白猫の事を知らないナキールには、目にしたところで重大さが解らない。

見慣れぬ白猫が孕む危険性を、狼男はまだ、認識できはしなかった。



一方その頃、エトワール広場では…。

「…あれは…!?」

ヴェスパに跨ったリスが、街路樹に頭をがんがん打ち付けている巨大な北極熊と、それを取り囲んでオロオロしている堕人

の集団を遠目に視認していた。

「お、堕人!?しかも群れ!?おまけにあの白くてデカいのは…!?」

リスは大あわてでUターンし、携帯を取り出して警告を発信した。

「イブリース一派を発見!イブリース一派を発見!注意されたし!座標は…」



「誰このひと?」

土産のドーナツをくわえた青い猪は、太い眉毛の間に皺を寄せた。

腰を折って前屈みになり、間近に顔を寄せて白猫を観察しているが、見られている本人は青猪の遙か後方に焦点を据えてお

り、彼を見ていない。

その華奢で小さな手は、傍らに立つ桃色の豚のぽってりした手をしっかり握っている。

「解らないんですよぅ。お話もできないんですから」

バザールは白猫を見下ろし、「ね?」と語りかける。

声につられるように彼女の顔を見上げた白猫は、ぴったりと体を寄せた。

「おやおや、懐かれちゃって」

その様子を見た青い猪は、厳つい顔を綻ばせる。

三人が居るのは、工場とオフィスが五分五分の割合で入り混じったような、渾然とした部屋であった。

整備中のバイクが七台並んでいるかと思えば、その隣にはパソコンが三台並んで乗ったスチールデスク、そのすぐ傍には溶

接機具に簡易寝台、さらには銃を分解整備する為の作業台が設けられている。

改造人間でも造る場所かと疑われそうなほど混沌としたその部屋こそが、修理を専門の職務とし、マシンから魂まで修繕す

る修復とカスタムのエキスパート、修理人メオールの作業場である。

メオールはバザールをそのまま少し大きくしたようなずんぐり猪で、機械油などの黒ずんだ汚れが取れなくなっている灰色

の作業着を身につけており、露出している部位は全て青い剛毛で覆われている。

被毛は動物的な色ではなく、竜胆の花を思わせる、染め上げたような鮮やかな青。

腹が出ているビア樽のような体型ではあるものの、肩と腕は筋肉隆々、手は分厚く大きく逞しい、いかにも職人然とした男

であった。

この猪とバザールは、同時に職務適正を計られ、研修を受けた同期であり、付き合いは長い。

「まぁ座んなさいな。報告がてらデータも照合するから」

メオールは二人に丸椅子を勧め、パソコンのデスクに歩み寄って行く。

「すぐに直して貰えますからねぇ」

バザールは椅子にかけつつ、自分から離れなくなった白猫に優しく語りかける。

自分の知っている配達人では無いと思うが、少女の姿となっているこの白猫は、一体誰なのだろう?

そんな疑問と興味を抱えたバザールは、損傷が致命的になる前に白猫を修理人の元へ連れて来る事ができたと思って安堵し

てもいた。

白猫はバザールの顔を見上げながら、依然としてその手をしっかり握っている。

バザールは知る由もないが、これは極めて珍しい事であった。

イブリース以外に興味らしい反応を示す事も希で、一時的に身柄を預けられた堕人に対しても、ここまで寄り添う事は無い。

その原因はバザール自身も気付いていなかったが、かつて彼女が接触した、ある配達人の気配にある。

白猫は、他の誰も気付けないほど微かにしか残っていないソレに、敏感に反応している。

数時間前に彼女が浴びた、遙か彼方より伝播した気配は、すぐさま拡散して消えてしまった。

程なく、それとは別に同じパターンの気配を察知し、導かれるようにしてイブリースから離れてしまった白猫は、休憩中の

配達人に接触した。

それが、先に浴びた気配と同質の残り香を持つバザールであった。

懐かしい。

心が壊れてしまっている白猫は、それでもなお、漠然とそんな感覚を抱いている。

バザールの体から感じる微かな気配の残滓に、強く惹きつけられながら。

「あれ?ちょっと重いな?少しかかるかもしれないから、そのまま待ってておくれ。…何だ一体?混線してるっぽい?」

パソコンとにらめっこしているメオールからそう声をかけられたバザールは、携帯を取り出し、待ち受け画面を表示した。

「あ、そうだこれこれぇ。ちょっと見て下さいよメオール!」

桃色の豚は腰を浮かせ、古馴染みに交際相手の画像を見せに行く。

椅子に座ったままその様子を眺めていた白猫は、不意に耳をピクピク動かし始め、音もなく立ち上がった。

「…アル…」

口の中で転がされたそのか細い呟きは、のろけ話を開始したバザールと、仰天しているメオールには聞こえていない。

「こ、交際って…、あれかい?バザールには恋心ってのが理解できたって、つまりそういう…?」

「ですよぅ。ハンサムでしょお!?ナキールさんって言うんですよぅ。配達人です」

自慢げに画像を見せていたバザールは、急に顔を逸らしたメオールにつられ、パソコンのモニターに視線を移す。

真っ黒い画面に黄色い文字。モニターに映し出された緊急警告は、やや遅れてバザールの携帯にも届く。

「えぇと何々?「複数の堕人を確認、目下掃討作戦を展開中。以下の区域では…」わぁお!ここ警戒区域に入ってるっ!」

メオールは目を丸くして声を上げると、顔を顰めつつ腕まくりした。

「怪我人も出るだろうし、こりゃあ行った方が良いだろうなぁ…」

「あらら…。あたしもお手伝いに行った方が良いですかねぇ?」

バザールがそう言った途端、メオールはピタリと動きを止めた。

警告文を追っていく目が、北極熊の顔マークと供に表示されている不吉な文章を捉えたせいで。

バザールもそれに気付き、二人は揃って声に出す。

『…熊出没注意…』

直後、青い猪は頭を抱えて仰け反った。

「うそおおおおおおおっ!?赴任先でイブリース警報出るの四度目なんだけどおおおおおっ!?」

「あららぁ〜…。よっぽど縁があるんですねぇ。あたしリアルタイムで見るの初めてですよぅ」

直に目にした事が無いため、危険性の認識が今ひとつできていないバザールは、「こわいですねぇ〜」と他人事のように呟

きながら首を巡らせ、気が付いた。

「あれっ!?あの子が居ないです!」

振り返ったメオールも、白猫が忽然と姿を消している事に気付いた。

半開きになったドアの向こうでは、夜の通りを行く人間達が、部屋とドアの存在に気付かないまま右に左に歩き過ぎて行く。

「ありゃ?出て行ったらしいなぁ…」

「まっずぅ〜いっ!」

バザールは慌てて踵を返すと、ドアに向かってバタバタと走る。

「探して来ますぅっ!また来ますからぁっ!」

白猫のあの状態では、堕人と出会っても危険性を認識できない。簡単に狩られてしまう。

そう判断したバザールは、歩道に駆け出るなり愛車に飛び乗り、危険も顧みずに警戒警報が発令されている街に飛び出した。

桃色の豚を背に乗せたムルティストラーダは、鉄の嘶きを上げてパリの道を疾走する。

事情を把握している者から見れば、それは実に滑稽な行動であった。

真に危険なのは白猫の方ではなく、それを探そうとするバザールの方である。

なぜならば白猫は今、配達人から見れば最悪の敵対存在…、自らの保護者たるアル・シャイターンの元へ戻ろうとしている

のだから。

だが、そんな事など全く知らないバザールは、

「どこ行っちゃったんですかぁ…!今この街は危ないんですよぅ!」

白猫の身を案じながら、必死になってその姿を探し求めた。