第四十六話 「兆し」(中編)
海の向こうでイブリース警報が発せられたのと同時刻、レモンイエローの飛行艇内、食堂では、
「何や…これ…!?」
ナキールの携帯を借り、画像を見ていたミカールが、呻くような声を上げていた。
「バザールの言葉を引用するならば、人気のある通りの人気のあるカフェの人気のあるパフェ、だそうだが」
「そうやないっ!」
事の重大さを認識できていない狼男が淡々と応じると、ミカールは大声を上げた。
「何でや…!何でバザールがコイツと一緒に写っとる…!?」
驚愕と焦り。ただならないミカールの形相に気付いたジブリールは、何が起きているのか問いかけようとしたが、突き付け
るようにして携帯の画面を向けられ、口を閉ざす。
北極熊の空色の瞳に、小柄な白猫の姿が映り込んだ。
「アズライルファントム…!どういう訳か知らへんけど、今バザールと一緒におる…!」
童顔の獅子は鼻面に皺を寄せ、噛み締めた牙をギリリと鳴らした。
「ミカール、すぐ本部へ連絡を。バザールの位置をただちに捕捉するようにと。ナキールはバザールと話をしておくれ。すぐ
にその子から離れるように…」
ジブリールは二人にそう告げ、目を細めて呟いた。
「そのまま傍に居ると、危ない…」
ミカールがあわただしく食堂を出て行くと、交際相手と連絡を取ろうとした狼男が呟いた。
「…バザールが出ない」
「回線が切れているのかい?」
「いや、生きている」
「なら呼び出し続けて。気付いていないだけかもしれない」
ナキールにそう指示したジブリールは、踵を返して出口に向かう。
「彼女がそこに居る…。なら、すぐ近くには必ず…」
青い瞳をすぅっと細め、ドアを潜ったジブリールの体を、電波障害のテレビ画面に走るようなノイズが覆う。
その一瞬後には、彼の纏う物は、普段着から黒革のライダースーツに変わっていた。
ナキールからのコールに、桃色の豚は気付かなかった。
建物の壁面、街路樹の幹、そして屋根の上。道を選ばず、見晴らしの良い位置をキープして疾走するムルティストラーダに
跨っている彼女は、携帯の微弱なバイブレーションを感じる事ができなかったのである。
白猫の姿を探す事と、堕人に対する警戒に集中している事もまた、気付けない要因の一部を担ってはいたが。
「どこですかぁ…!危ないからふらふら出歩いちゃ駄目ですよぅっ…!」
ハンドルを操作し、タイヤを跳ねさせ、的確な操作でマシンを操りながら、バザールは素早く首を巡らせ、視線を走らせ、
赤を纏う白猫の姿を探し求める。
そして彼女は見つけた。シャンゼリゼを行く小さな赤い後ろ姿を。
「いたーっ!」
思わず声に出しつつハンドルを切り、建物の壁面を真横に疾走し、バザールは白猫に急接近した。
行き交う人々の中、神業と言って差し支えないマシン制御で人間達の合間を縫い、白猫の真横にバイクを寄せたバザールは、
茫洋とした視線を向けてきた彼女に手を差し伸べた。
「そんな状態で不用意に出歩いちゃ駄目ですよぅ!今この辺りはとっても危険な…」
気配を感じたバザールは言葉を切り、ハッとして天を仰ぐ。
白猫とバザールの前方上空、夜空を背に、四つの人影が宙に浮いていた。
何もない空中を、あたかも地面であるかのように踏み締める者達の内、二名はスーツ姿の人身獣頭。雪豹と、黒い虎である。
残る二名の内、一方は白衣を纏ったトカゲ顔。もう一方は、レザージャケットにレザーパンツという出で立ちの、マズルに
すっぽりと被せるタイプのマスク型拘束具をはめられたチーター。
(管理人達に、執行人…。あの白衣のひとは技術部門関係のひとですかねぇ?)
堕人かと警戒して銃を抜きかけていたバザールは、イブリース対策の為にやって来た一団であると一目で確信し、ホッと息
を吐き出した。
「あのぉ、お忙しいところ済みませんけどぉ、どなたかこの子の事をご存じ無いで…」
丁度良いので、この白猫に心当たりが無いか訊ねてみようかと口を開いたバザールは、
「ソレから離れろ!そこの配達人っ!」
黒い虎が発した厳しい口調の警告で、言葉を遮られた。
「はい?」
意味を計りかねたバザールが首を傾げるのと、白衣のトカゲがさっと白猫を指し示したのは、ほぼ同時であった。
その指が示す先を見つめたチーターの拘束具に覆われた口から、くぐもった、抑揚のない声が漏れた。
「排除対象、あざぜるト確認。コレヨリ執行スル」
先程から瞬きの一つも無い、どんよりと濁ったその目は、自分達には視線すら向けない白猫に据えられている。
「…え?」
漏れ聞こえた声を捉え、バザールが我が耳を疑ったその時には、ジジッというノイズ音と共にチーターの姿がかき消え、さ
らにその直後には彼女のすぐ傍に出現していた。
その両手は、ジャケットの袖の内から滑り落ちるように現れた二本のサバイバルナイフを握っている。
(空間跳躍!?は、速っ…)
思考すら完全な形を成さないその一瞬の内に、バザールは反射的に身を乗り出していた。
差し伸べていた手をさらに伸ばし、バランスを崩しながらも白猫を突き飛ばしたバザールの左腕、肘の内側のすぐ上が、鋭
い刃でスパッと切られる。
「わぎゃーっ!?」
自分も深く考えていない咄嗟の行動に出たバザールは、バイクから落ちて地面に這い蹲った状態で、ぱっくりと切れて口を
開けたスーツを凝視しながら悲鳴を上げた。
切れたそこから、パチパチと火花を散らし、何かのプログラムがスーツを蝕んで来る。
「いけない…!服を脱ぎ捨てなさいっ!」
上空で雪豹が叫んだその時には、黒い虎が「ちっ!」と舌打ちしながら、水に飛び込む水泳選手のような格好で急降下して
いる。
バザールの傍らに立った黒虎が、スーツの肩と袖を掴んで肩口の接合部から千切り、腕から引っ張り抜いたその時には、尻
餅をついた白猫の眼前に立ったチーターが、ナイフを逆手に握った両手を振り上げている。
「あわわわわぁっ!駄目ですぅっ!」
またもや、考える前にバザールは動いていた。わたわたと四つん這いで這い進み、白猫の足首を掴んでぐいっと引っ張る。
ナイフが振り下ろされるその寸前に、引っ張られた白猫はその真下を、顔面を地面にぶつけながら俯せになって潜り抜けた。
ゴッ!ゾリゾリッ!という、石畳に顔から落ちた激突音と、その上を引きずられる擦過音が続く物凄い音が響き、雪豹と黒
虎が思わず顔を顰めたが、当の白猫は痛みを感じていないのか、地面に擦られる顔は表情一つ変えない。
「な、ななななな何するんですかいきなりぃっ!」
白猫を引っ張り込んでギュッと抱きしめたバザールは、混乱しながら抗議する。
白猫の扱いを目の当たりにし、「お前が言うかお前が」と言いたくもなったが、呆気にとられた黒虎は声を出せなかった。
「は、排除対象って…!ななな何かの間違いでしょう!?この子は堕人なんかじゃないでしょう!?」
バザールは白猫を守るように、豊満な体に埋めてギュッときつく抱きしめている。
その目が僅かに横に動き、千切り取られたスーツの袖を捉えた。既にそれは黒い砂の山になり、ブスブスと煙を上げている。
技術開発室が作り出した殺傷用プログラムらしいと察し、もしも肌を掠めていたら自分はどうなったのだろうかと考え、桃
色の豚はぶるっと身震いした。
しかし、恐怖を覚えつつもバザールは白猫を放さない。
理屈ではなく直感で彼女は確信していた。
この白猫は堕人ではない。少なくとも邪悪な存在ではないし、咎を持つ存在でもない。誰かを傷つけるような存在ではない
はずだと。
そしてその直感は、ある意味正しかった。白猫は害意も敵意も悪意も持ち合わせてはいないのだから。
「そいつを放せ、配達人!ソレは危険な存在だ!」
黒虎が苛立ちと戸惑いの混じった声で警告するが、バザールはブンブンと首を横に振った。
「危険じゃないです!例え危険だったとしても、問答無用で排除するなんて酷いですよぅっ!基本的に、降った堕人には犯し
た違反や咎に関わらず、弁明の機会が与えられる規則じゃないですかっ!」
バザールに抱きしめられた白猫は、抗弁する彼女の襟を握ってキュッとしがみついた。
そのあまりにも頼りなく弱々しい、保護衝動をくすぐられる仕草は、向き直った執行人の禍々しい視線を跳ね返すだけの勇
気をバザールに与える。
「そもそもこの子は今、話もできない状態です!誰かに危害を加える事だってできません!なのにいきなり消滅させようだな
んて…」
「存在自体が害なのだ!」
その叫ぶような声は、それまで沈黙していた白衣のトカゲの物だった。
黄色い瞳孔をギョロリと輝かせ、トカゲは続ける。
「ソレはイブリースが連れ歩いている女だ。我々はアザゼルと呼称しているが、名前程度は君も知っているだろう?配達人よ」
バザールはギョッとして目を剥き、自分にしがみついている白猫の顔を覗き込んだ。
イブリースの影、アザゼル。
バザールも知っている。堕人の中でも特に危険とされる、その存在の名前は…。
ドアを潜った北極熊は、その正立方体の部屋の中央を見据えた。
ジブリールの空色の瞳が見つめる先、部屋の中央でパチッと火花が散る。
彼の意志に反応して生まれた小さな光の点は、急速に、急激に拡大し、やがて直径3メートル近い球体を形成した。
太鼓腹でパツパツに張ったつなぎのポケットに手を当て、そこに収められた拳銃の感触を確かめたジブリールは、
「…?」
足を踏み出しかけて、その瞳を大きくした。
形成させた超長距離跳躍用のゲートが明滅を始め、輪郭を崩し、直後に霧散する。
一瞬でゲートが消失したその様を見届けた北極熊は、天を仰いで嘆息する。
「ミカール…。また邪魔をするのかい…?」
エネルギー供給が強制的に絶たれたのが、ゲート消失の原因であった。
この飛行艇を支配しているレモンイエローの獅子は、本部へ連絡を入れながらも、機内の警戒をおろそかにしていなかった。
ジブリールがゲートを利用しようとする事も予測の内で、起動を察して即座に妨害したのである。
「どうあっても、オレを行かせたくないようだね…」
呟いたジブリールは、踵を返して部屋を出た。
バザールは、アザゼルと呼ばれた白猫を抱いたまま、その顔を覗き込んでいる。
「判ったなら離れろ。執行に巻き込まれるぞ?」
白衣のトカゲがそう警告し、待機中のチーターが指を蠢かせてナイフを握り直す。
「で…で…、でもっ…!でもやっぱり、審問も抜きに消滅処分なんてっ!」
バザールは、白猫を一層きつく抱きしめた。
実際に目にするのは初めてだが、自分の腕の中に居る白猫は、言われているほど危険な存在ではないような気がした。
いかにも恐ろしげな物として聞いていたが、具体的にどんな悪事を働いたのかは解らないし、知らされていない。
少なくともバザールには、自分にすがりつくその白猫が、弁明の機会も与えずに消滅させなければいけないほど邪悪な存在
とは思えなかった。
「判れ!ソレは存在その物が危険なのだ!イブリースがどんな目的を持って連れ歩いているのかまでは判らないものの、アレ
が手元に置き続けているだけで危険性は疑うべくもない!」
トカゲは怒鳴るが、バザールは引き下がろうとしない。
母性本能にも近い「守らなければ」という衝動が、論理的な意見を口に出来ないまま、バザールを突き動かしている。
無言で首をブンブン横に振る桃色の豚に、待機時間と執行の優先順位を天秤にかけ続けていたチーターが、抑揚のない声で
告げた。
「放置及ビ保留ニヨル危険性ヲ計測シタ結果、コレ以上ノ待機ハまいなすト判断。コレヨリ執行ヲ開始スル」
一方的な通告が終わると同時に、チーターが動いた。
傍に居た黒虎が制止の声を上げるのも間に合わないほど素早かったその動きに、しかしバザールはかろうじて反応する。
逆手に握って振り下ろされた二本の刃は、その鋭い先端で地面を浅く抉った。
かなり際どかったが、バザールは白猫を抱いたまま横に身を投げ出し、石畳を転がって振り下ろされた刃の切っ先をかわし
ている。
浅く傷つけられたブロックがグズグズと崩れて砂になって行くその上で、チーターは上体を振り回すようにして、柔軟な動
きで揃えた両腕をバザールと白猫へ振るった。
ガインッ!という金属的な甲高い衝撃音。
体勢を僅かに崩したチーターは、スイングさせた上体を腰の上で真っ直ぐに戻し、弾かれた得物を構え直す。
白猫を左腕でしっかり抱きかかえ、右手で銃を構えたバザールは、中腰の姿勢のまま、たなびく紫煙越しにチーターを睨む。
「邪魔立てするつもりか!」
トカゲが目を剥き、雪豹が表情を険しくする。
「よしたまえ!執行人は君が歯向かえる相手ではないし、その猫は極めて高い危険性故に即時処分の必要がある!」
その警告にも、バザールは従わない。
感情を含めて極限まで無駄が排除され、機能特化処理が施されている執行人に、自分が勝てないのは言われるまでも無く判っ
ていたが、それでもなお引き下がらない。
独立配達人として活動するバザールは、他の配達人と比べても人間寄りのスタンスで物事を考える。逆にいえば、その性質
故に縁の配達人に任命されている。
そしてその考え方は、人間達に寛容であるという意味で人間寄りであるだけでなく、違う意味も持ち合わせている。
自由意志。それが、恋愛すら可能となっている彼女の心の根幹を形作っている。
その自由意志こそが、規則に盲目的に従ったりはせず、規則と道徳、そして自分の心情全てをひっくるめて物事の判断に当
て、システム側から一歩離れた立場での思考と決断を可能にしている。
そして今バザールは、執行人と管理人達の行動を、「正しくない」と判断していた。
それ故に、彼女は今銃を抜き、執行人の邪魔をするという罰則物の行動に走っている。
「障害ヲ排除スル…」
チーターの無感動な声が、バザールの背筋をゾワリと冷やす。
牽制の一発が刃物を弾いたのは、たまたまである。
バザールは闘争に長けた配達人ではなく、チーターの動きは肉体の損傷を度外視した規格外の代物、まともに抗っては到底
勝ち目は無い。だが…。
「…届けましたよぅ…!」
バザールの呟きが終わるか否かの内に、彼女達の頭上でギガッと、耳障りな軋み音が響いた。
見上げる黒虎と見下ろす雪豹、そしてトカゲの目が、止め具が外れて斜めに傾き、道路側へと倒れてゆく大型の看板を映す。
看板の速度は遅い。執行人は目も向けずに、その下を潜ろうと前に出た。が、
「何だ!?」
異変に気付いた黒虎の驚きの声と同時に、看板は倒れる角度を変える。
風にあおられ、まるで見えない手によって導かれるように、看板の角はチーターを追った。
振り向いたチーターは真上に跳躍し、斜め後方から突っ込んできた看板をかわす。
縁。より正確に言えば、品物に関わる縁。それが、バザールが司る因果法則である。
地上の因果に縛られない自分や同類達の因果には、どんなに優れた配達人でも干渉できないが、「物」となれば話は別。
システムが、技術開発室が、同類が生み出した品とはいえ、所詮は物品。バザールの「縁結び」はその効果を遺憾なく発揮
する。
看板は風の助けを借りて、縁が結び付けられたチーターのナイフを追尾したのである。
しかもその動きは人間達を避けており、路面に落ちて砕けてもなお、破片も粉塵も人間達に害を及ぼさない。
宙で身を捻ったチーターは、眼下のバザールと白猫を再び視界に収め、空間跳躍で間合いを詰めようとしたが、しかし真下
から跳ね飛んできた看板の大きな破片が邪魔をした。
衝突したところでダメージにならないとはいえ、邪魔は邪魔。打ち払う事で空間跳躍の発動を妨げられたチーターの下で、
バザールは愛車の方へ転げるように近付く。
「止めろ!これ以上の妨害は重大な違反になる!罰則が科せられるぞ!」
黒虎の警告にも、バザールは耳を貸さない。
自分は罰則程度で済むが、白猫はこのままだと消滅処分になってしまう。
我が身可愛さという物を度外視し、公平な天秤にかけてそう考えているバザールには、もはや管理人達の忠告や警告も届か
なかった。
しかし、特性を生かし、機転を利かせたバザールの立ち回りも、そこまでだった。
伸ばした左手がハンドルに触れようとしたその時、真上から一直線に落下した何かが、袖をむしられて剥き出しになってい
るバザールの腕、肘のすぐ下を刺し貫いた。
「あぐっ!」
悲鳴を上げたバザールの手が、ハンドルを掴み損ねる。
「あ…!うぎぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
バイクを押し倒す格好で白猫もろとも転倒した桃色の豚は、腕を掴んで悲鳴を上げた。
チーターが投擲した、縁の弾丸を当てられていない方のナイフが、バザールの腕を貫通している。
傷口から煙が上がり、蝕まれ、バザールの桃色の腕が灰色に、そして黒に変色し、表面から細かな塵になってはらはらと崩
れてゆく。
変色は見る間に範囲を拡大し、傷口はぽっかりと空いた穴となって広がり、ナイフがするりと通り抜けた。
左腕を押さえた右手も変色し、煙を上げて塵を散らし始める。
「まずい!」
黒虎は焦りの声を上げて近付いたが、しかし転げ回るバザールを犯すプログラムへの対処方法が判らず、トカゲを見上げた。
「無理だ!それは古い設計に基づいた試作プログラムで、停止コードまでは復元されていない!」
「何だと!?」
黒虎は目を剥き、トカゲの傍に浮いている雪豹が大声を上げた。
「どういう事です!?開発室長からは、「完成したプログラム」を搭載した武器を持たせたと聞いていますよ!?」
「し、知らんっ!室長がどう言ったかは知らんが、とにかくあれは…!実用段階にようやく達したばかりで…!そもそも私も
今回は試験運用だと聞かされている!そちらにもそう通達されているとばかり…!」
言い合う二人から視線を外した黒虎は、バザールに視線を戻した。
「冗談だろう…?停止させられないだと…!?」
愕然としながら呟いた黒虎は、バザールの腕、先端は既に指先に達し、根元は肩付近まで及んでいる変色を見つめる。
もはや苦痛は声も出ないほどなのか、大きく開けられたバザールの口からは、音を伴わない息だけが吐き出されていた。
バザールに抱えられて、もろともに歩道に転げた白猫は、その茫洋とした眼差しを苦悶の表情を浮かべるバザールの顔に向
ける。
じっと見つめるその瞳に、唐突で劇的な変化が起こったのは、その時であった。
「…疑似ブラスト現象。しかし、破壊効率も浸食解除の自由度も「そのもの」には及ばない。対処方法は…」
白猫の口から漏れたのは、成人女性の声であった。
焦点をバザールの顔に当てた瞳は理知的な輝きを帯び、紡がれた言葉は聞く者が身を引き締めるほど威厳に満ちている。
そのさほど大きくもない声で、管理人達も、トカゲも、ピタリと動きを止めていた。
畏怖。
強大な存在を前にした、原初の恐れ、畏敬の念、そして衝撃。
言葉の響きが耳朶を揺すったそれだけで、三者は身動きできなく…、いや、身動きすら忘れ、声の余韻に聞き入っていた。
白猫はそっと手を伸ばすと、バザールの右腕を掴む。
その直後、ザザッと空間にノイズが走り、白猫とバザールの姿がかき消える。
はっと我に返った三名は慌てて周囲を見回すが、空間跳躍した二名の行方は解らない。
「くっ!追え!」
トカゲの声を受け、チーターはナイフを回収するなり宙高く飛び上がった。
そして周囲を見回し、微かな気配を感じ取ると、その方向を見据えて空間跳躍をおこなった。
繰り返し使用した事で肉体が悲鳴を上げ始めているが、チーターは苦痛を苦痛と感じないように調整されており、レッドア
ラートを無視して力を使用している。
本来の性能を越えた能力使用は、自己を消耗品として扱う事で発揮されていた。
二人を追尾して消え去ったチーターの反応を手繰り、トカゲが飛翔する。
管理人二人もその後に従おうとしたが、雪豹が携帯に連絡を受け、同僚と共に踏み止まった。
「…はい。え?西側!?判りました、急行します」
通信を切った雪豹は、険しい表情で黒虎に視線を向けた。
「室長がイブリースと交戦を開始しました!隔離空間を展開したものの、現場の人員だけでは保ちそうにないそうです!」
「マジで!?いきなり頂上決戦かっ!?」
黒虎は顔を引きつらせ、スーツの背中から翼を展開させる。
「堕人も妨害に集まっているそうです!とにかく人手が欲しい!協力者に呼びかけながら急行します!」
「了解!」
対処優先順位に基づいて目標をイブリースに切り替え、二人は夜空へ舞い上がった。
白く輝く弾丸が宙を裂き、灰色熊は素早く伏せてそれをやり過ごした。
灰色熊はその低い姿勢から身を起こしつつ、銀色に輝くリボルバーのトリガーを二度引き絞る。
銃口から迸った灰色の閃光は、街並みを飲み込み、削り飛ばして塵に変え、瞬時に地平線の彼方まで達する。
これがダミー空間でなければ、間違いなく大惨事となっている。
大地に深い爪痕を刻んだ二条の閃光は、しかし標的を仕留める事はできなかった。
ノイズを纏って、灰色熊の後方へ背中合わせで出現した北極熊は、赤いコートを翻して振り向きつつ、デリンジャーの銃口
を素早く後頭部へ向ける。
反動で跳ねる小型拳銃からは、しかし弾丸は発射されていない。
が、灰色熊の後頭部から数センチ手前で灰色の光が瞬き、突如出現した弾丸を消滅させる。
バレル内で弾丸に空間跳躍を施しての奇襲であったが、灰色熊はそれを見越して浸食破壊現象の障壁を生み出していた。
灰色熊は顔も向けずにバックハンドで発砲し、閃光が迸る直前に北極熊は姿を消す。
灰色の奔流は半分残っていたエトワール広場をごっそりと抉り、すり鉢状の大穴を出現させた。
接触から僅か30秒余りで、二者が闘争を繰り広げるダミー空間は、見えている範囲の七割以上が焦土と化している。
酷い所では地平線まで一直線の更地ができあがっており、削れた箇所に海水が流れ込んで真っ直ぐな川が出来上がっている
場所まであった。
中央管理室長、絶対矛盾ドビエルと、大いなる敵対者イブリースの戦闘は、通常空間で行われれば見渡す限りに大破壊をも
たらす。
ブラストモードを完全制御しているドビエルであっても、相手がイブリース級の堕人となれば細かな加減をしている余裕は
無い。
よって、複数人でやっと構築される広大なダミー空間内で戦闘を行わなければならない。
今度は頭上に出現したイブリースに顔を向け、ドビエルは銃を持っていない左手を真上に翳す。
イブリースの手には、デリンジャーを柄にして赤い光が凝縮して形を成した、輝く剣。
その危険で強烈なプログラムを、ドビエルは灰色の光を纏った左手で受け止める。
「プログラムデュランダルですか…、変わらぬ冴えですね」
ドビエルは無表情に言葉を紡ぐ。
イブリースが持つ分解吸収能力でも、ブラスト現象を吸収する事は出来ない。
ブラストは単純な破壊現象であり、エネルギーに転換できる類の物では無いのである。
だが逆に、ブラストを持ってしても、イブリースのプログラムを破壊する事は難しい。
剣の形に凝縮されたそれは、ブラストですら簡単には浸食破壊できない強固さを持つ。
軋み音を上げて反発し合う剣と手を挟み、イブリースとドビエルは無表情で睨み合う。
その周囲では、二の手、三の手として繰り出されている防壁破壊の余波が、火花となって咲いては散り、二人の体を不規則
に照らしている。
「今日こそ捕らえてみせますよ。イブリース」
「今ボクは忙しい。邪魔をするなら、例えキミでも消滅させるよ?」
システム側最強の破壊能力を誇る灰色熊と、堕人側最凶の北極熊の激突は、次第に熾烈さを増していった。