第四十七話 「兆し」(後編)
「ま、まだか…!?」
銃を何もない空間に向け、意識を集中していたカワウソが呻く。
その横で、力尽きた雌鳥がどさりと石畳に倒れ伏した。
イブリースとドビエルの戦闘をダミー空間に閉じ込め続けている異形達は、その数二十五。しかし今ではその半数が疲労か
ら脱落している。
直径600キロメートルにも及ぶ超大型隔離空間を維持し続けている異形達は、内側での闘争の余波で破れそうになる境界
を支え、損壊を修復し続け、消耗し切っていた。
さらには、アル・シャイターンに加勢しようと、近隣に潜んでいた堕人達が組織だって襲撃を仕掛けて来ている為、管理人
など戦闘技術のある者は皆迎撃に動いており、これ以上の助力は見込めない。
あと数分保たせるのが限界。そんな有様であった。
その修羅場において、青い猪は動けなくなった仲間達に処置を施して回っている。
力の過剰放出によって倒れた者や、堕人に負傷させられた者など、メオールの手を必要とする者は刻々と増えて行くばかり
であった。
「ちっくしょー!てんで手が足りないってーの!」
額の汗を腕でぐいっと拭い、メオールは焦り混じりの声を上げる。
処置が必要な衰弱者が十名、動けない損傷を負っている者が四名、深刻な損傷を受けている者が二名、一度に一人で受け持
つ事が出来る限度は、既に超えている。
メオールにかかる負担は大きく、消耗は限界に近付いており、このままでは次々増える要治療者の中に、彼まで加わってし
まいそうであった。
滝のような汗を流しながら治療に明け暮れる彼がその手を止めたのは、さらに空間維持に当たっていた中の二人が倒れたそ
の時であった。
「…なんだいこいつは…?」
不意に感じた「何か」に反応し、顔を上げたメオールは、大きな鼻をフゴッと鳴らす。
彼だけではなく、その場にいる全ての異形が、同じ方向に顔を向け、耳を澄ませ、気配を窺っていた。
交戦していた堕人や管理人達も例外ではない。
体格の良い水牛を相手取り、互いの襟を掴み、取っ組み合っての原始的な肉弾戦を展開していた黒虎は、馬乗りにして組み
敷いている相手と共に、殴り合う手を止めて空を見上げている。
雌の狐と至近距離で相対し、互いの胸と額にそれぞれ二丁拳銃を向けあっていた雪豹も、毒気を抜かれたような顔で、その
方向を眺めている。
不安定になっていた隔離空間が弾けたのは、その瞬間であった。
ガラスが砕けるような音と共に景色に亀裂が入り、断層の破片が周囲に降り注ぐ。
その、美しくも落ち着かない不自然な光景の中で、突如現実空間に引き戻されたドビエルは、銃を構えたまま首を巡らせて
いた。
「これは…、まさか?」
「666システム…」
ドビエルに続いて声を発したのは、同じく相手に銃を向けたままのイブリース。
赤い瞳は強く、熱く、粘り気のある光を宿し、口元は僅かにカーブを描いて笑みを形作っている。
「目覚めたのかい?アズ…。最後のメサイアが消えた時以来だ…」
北極熊は熱に浮かれたような声音で呟いた。約二千年ぶりに感じる兆しに、期待を膨らませながら。
熱を帯びたイブリースの囁き声に、灰色熊はゾワリと被毛を逆立てた。
薄皮一枚捲った内側にたゆたう、イブリースのねっとりとした狂気が、その濃さを増したような気がして。
恋い焦がれ、求め続けていた物が、手を伸ばせば届く距離まで近付いて来てくれた…。
そんな狂おしいほどの欲求に突き動かされ、イブリースは銃を持つ手をだらりと下げ、肌や被毛や魂を刺激する、強く、異
質で、そして懐かしい波の出所へ向き直った。
優先すべき事態の発生を受け、北極熊はもはやドビエルにも興味を示さない。
「待ちなさい、イブリース」
トリガーにかけた指へ牽制するように力を込めたドビエルに、しかしイブリースは視線を向けようともせず、静かに告げる。
「今ボクの邪魔をするなら、見えている範囲全部、すっきりした眺めに変えてあげるよ?」
その、北極熊がさらりと口にした内容が、ジョークや薄っぺらなこけおどしなどではない事を、ドビエルは理解している。
イブリースであればそれが出来る上に、今ならば本気でやりかねない。
目くらましついでに周辺を更地に変える事など、彼の優先順位からすれば「何でもない事」なのである。
さらに、本気で止めに行くならドビエルも加減はできず、ダミー空間の再展開が見込めない今、無理に止めようとすれば多
くの犠牲が生じる事は確実であった。
どう止めようと大惨事は免れない。また、止めなければ止めなかったで何が起こるか解らない。
感情と表情を押し殺し、ドビエルは冷静に計算を巡らせた結果、
「…総員、戦闘行為を中断して下さい」
千載一遇の好機とも言えるイブリースとの決着を諦め、苦渋の決断を下した。
「それで良い。やっぱりキミは賢いね、ドビエル」
イブリースは意識を他に向けたまま、気持ちのこもらぬ声でそう言い残すと、ふわりと宙に浮き上がる。
そのロングコートが、まるで生き物のように波打ち、背中に向かってめくれ上がり、深紅の翼を形成した。
「アズ…。今行くよ…」
コウモリや翼竜のソレを思わせる、どこか禍々しく、しかし不思議に美しい赤い翼を広げ、イブリースの巨体は夜空へ舞い
上がった。
「追わないで下さい」
追跡しようとした数名の部下を引き止め、ドビエルはイブリースを睨め上げる。
しかし、灰色の瞳が据えられたのも束の間、彼の上空にザザッとノイズを残し、北極熊は空間跳躍して姿を消した。
その様子を見上げていた黒虎は、ハッと我に返って真下を見下ろす。
マウントポジションを取って組み伏せていた水牛が、ノイズに覆われていた。
「なっ!?」
黒虎が声を上げた瞬間、本人も驚きの表情を浮かべていた水牛はフッと姿を消し、彼は短い距離腰を落下させ、どすっと地
面に尻餅をつく。
雪豹もまた、目を見開いて驚いていた。向き合っている雌狐がやはりノイズを纏い、すぐさまかき消える。
他の堕人も同様であった。
捕縛された者や行動不能になっていた者、戦闘に携わった全てが、ノイズを纏って姿を消す。
「相変わらずでたらめですね、イブリース。これだけの人数を、各々強制的に空間跳躍させるとは…」
ドビエルが呟き、黒虎は自分の耳を疑った。
「…嘘だろ…?三十以上は居たはずだぞ…?それを空間跳躍させた!?化け物って呼ぶのも生易しい!」
「それ故の、あの二つ名ですよ」
傍らに降り立った雪豹は、同僚に手を貸して立ち上がらせながら、畏怖すら込めて呟いた。
「アル・シャイターン(大いなる敵対者)」
時刻は、少し遡る。
戦闘区域からやや離れた位置、営業時間を終えて人影の失せたカフェのテラスには、白く小柄な姿と桃色の丸い姿があった。
車の行き交う音も近い、道に面したそのカフェテラスは、白いプラスチックの椅子やテーブルが無人のまま闇の中に浮き上
がっており、幻想的な景色を作り出している。
背の高い生垣で、灯りの落ちたカフェテラス内は道から見えず、内側からもまた、車のヘッドライトをある程度透かし見る
事ができる程度。
そのほぼ中央に空間跳躍して来た白猫は、周囲を見回した後、すぐ傍のテーブルに目を向けた。
直径150センチ程のテーブルは、片付けられて何も乗せられていない。
その事を確認し、何かに適しているかどうか値踏みしているようなその視線には、この白猫が普段見せている虚ろな濁りが
全くない。
はっきりと、意識してテーブルに視線を向けていた。
「………」
白猫は無言で桃色の豚に視線を移す。
傷口からの侵食は既に肩の付け根にまで達しており、結合が解けた肘下から指先までは、空間跳躍後に地面へ降りた際の僅
かな衝撃で粉々に砕け、塵になってしまっていた。
苦痛に呻くバザールの顔が上がり、自分をじっと見つめている白猫に向けられる。
「あ…、貴女…。一体…!?」
今にも意識が飛びそうなバザールへ無言で視線を注いでいた白猫は、不意に口を開き、涼やかな声を発した。
「私は亡霊。名残雪にして影。砕け散った魂の残響。力の結晶たるこの体に宿っただけの緩慢な慣性。主体性のない不確かな
存在」
バザールの問いに淡々と応じたその声は、どこか機械的にも関わらず、威厳に満ちていた。
天の高みから降るようなその声音に、バザールは自分でも理由が分からないまま萎縮する。
それは、己より遥かに高位の存在と相対しているが故の畏怖に根ざした反応なのだが、バザールはそこまで気付けなかった。
何故ならば、彼女が実際に知る自分以上の高位存在はオーバースペックのみであり、彼らと顔をあわせてもここまでの畏怖
は感じないため、萎縮原因が格の違いによるものだとは考えが及ばないのである。
逆にいえば、白猫はオーバースペック達が問題にならないほど飛び抜けて高位の存在なのだが、認識しようにもバザールの
視点が低すぎて全体像が把握できず、実感できない。
「あなた、可能性だわ」
白猫は言葉を紡ぐ。
心地良く響く声音に、感動に近い物を覚えながら聞き惚れているバザールは、自分の腕を犯す侵食が、極めて緩慢な速度に
なっている事に気付けなかった。
それだけではない。行き交う車の音が妙に低くなり、人間の歩行に等しい程度まで異様に速度が落ち、風はほぼ止まってい
るかのように緩やかになっている。
時干渉。時の流れに干渉し、制御する力。
オーバースペックでも、ミカールをはじめとする僅か数名にしか引き起こせないその超高等現象を、この白猫は会話しなが
ら発現させていた。
しかも、ミカール達が用いる限定空間や個体への部分的な遅延ではなく、その間逆、加速をおこなっている。
今は、バザールに関しては意識だけが、白猫については本人全てが、通常の時の流れから外れていた。
働きかける規模はミカール達の物と同じでも、限定範囲という同じ条件がついていても、白猫が引き起こしているソレは、
効果が劇的に違う。
遅延は、動き続ける世界に対して部分的に時の流れを遅らせるだけだが、加速は逆。世界を置き去りに、対象物だけが先の
未来に到達する。対象物以外の全てに遅延をかけるに等しい。
しかも、本来の時干渉ならば、解けた直後に対象物が時の流れに引き摺られ、反動で「早送り」が起こってしまうが、白猫
の時干渉にはそれが無い。
階段を登りきるには、足を止めても遅めても、いずれは昇らねばならないように、時の流れも留まったなら留まっただけ進
まねばならない。
だが加速は、終点へ向かうというベクトル自体は同じである為、時間の強制力、復元力による反動を受けない。進めば進ん
だだけ不可逆の目的地に近付くのみである。
だが、寿命を持つ存在ならばともかく、無限の時を持つ白猫やバザールにとっては、これは全くペナルティにならない。
この違いは、エスカレーターに乗っている状態にも似ている。逆行しようとしても流れによって運ばれてゆくが、先へ向か
う場合には反動が起こらないという点に限っては。
白猫はバザールに歩み寄ると、跪いて間近から顔を見つめる。
「稀に見る高い自由意志に、選択における自己保存の優位性に目を瞑って他者を護ろうとする判断力、そして、目前の絶対的
脅威に対し、臆しながらもある程度恐怖を制御して立ち向かう精神力…。極めて稀有な存在だわ、あなたは。まるで一部の人
間達のよう」
そう呟いた加速状態の白猫は、すっと手を上げてバザールの頬に触れる。
丸く張った頬に白く華奢な幼い手が添えられたか添えられないかの内に、二人の姿はその場から消え、少し離れた所に出現
していた。
しかも、体勢が直前までと違う。
何も無いテーブルの上に出現したバザールは、やや狭いテーブルの端から足をはみ出させる格好で大の字になって仰向けに
されており、見えないロープで縛られているかのように身動きが取れなくなっていた。
一方白猫はテーブルの脇に立っており、空を見上げている。
ただの空間跳躍とは違う。時間が、距離が、過程が切り飛ばされ、結果だけが生じているような、奇妙な現象であった。
身動きが取れないバザールは、しかし不可思議な現象と得体の知れない白猫を前に、恐怖を感じてはいなかった。
意識だけが加速された彼女の苦痛は、白猫が頬に触れた瞬間から消失している。
手で触れたそれだけで、肉体からの痛みの信号だけが強制的に遮断されたせいで。
修理人などが治療の際に用いる麻酔にも似たプログラムなどとも違う。本人の承諾もなしに強制的に効果を発揮するそれは
ハッキングに近い。
技術開発室ですら理論が組みあがったばかりで、特殊な手順やプログラム、ウイルスなどを用い、多くの制約の下でのみ実
現可能となるそれを、白猫は独力で、至極あっさりとおこなっていた。
空を見上げる白猫は、祈るように目を閉じる。
その頭上で空間から滲み出すように出現した燐光がわだかまり、光の輪を形作る。
「コネクト開始。オートチェックプログラム始動。システムオールグリーンを確認。ユビキタス666システムの起動シーク
エンスに移行。安定値32パーセントでの起動を確認。ダイレクトリンク開始。認証し服従せよ。我が名は…アズライル」
機械的な声が白猫の口から漏れ、カフェテラス内に無数の球体が出現する。
それは、白い球体であった。
空間に固定されているかのように、揺れもせずに浮遊する無数の白い球体は、くるくるとその場で回転し、それぞれ一箇所
ずつ浮いている黒い円を、全てバザールに向ける。
黒い円を持つ白い球体は、まるで眼球のようであった。
その眼球が様々な角度からバザールを観察し、白猫にデータを送っている。
「これ…は…?」
奇妙な光景をぼんやりと眺め、呟いたバザールの脇で、白猫は目を閉じたまま機械的に言葉を紡ぐ。
「分析完了。擬似ブラスト現象を引き起こすこのプログラムは不完全で、一定の体積、エネルギーしか分解し得ない。無効化
の可能性が90パーセント以上確保でき、なおかつこの場で早急に行える対応としては…」
目を開けた白猫は、バザールの顔に視線を向けた。
「食わせてやればよいでしょう」
その直後、バザールの口がグパッと大きく開く。
「???」
見えない両手で上顎と下顎を掴まれ、無理矢理開けられたような感覚に混乱し、バザールは目をまん丸にした。
その、大きく開けられた口めがけ、センサーとして活動していた無数の眼球の内、二十個近くが殺到する。
「んむっ!んもももっ!?」
目を白黒させているバザールの口に飛び込んだ眼球達は、喉元で分解され、粒子の流れとなって彼女の体に浸透していった。
そして、肩口まで這い登っていた擬似ブラストの侵食がピタリと止まり、何かに押されるようにして侵食範囲が後退する。
許容量を超えるエネルギーを喰らわされた擬似ブラストはただちに効果を失い、次いで、注ぎ込まれた内の余剰なエネルギー
がバザールの肉体を高速修復していた。
実時間にして三秒程度。加速状態のバザールや白猫から見ればほんの一瞬で、桃色の腕は指先までが一気に復元された。
「…あ…?」
命の濃縮液とでも言うべき高密度エネルギーの供給を受けたバザールは、我に返って身を起こす。
強い酒を飲んだ直後のような喉のひりつきを除けば、体調はどこも悪くない。
むしろ、注ぎ込まれた余剰エネルギーが体の隅々まで行き渡っており、先程よりも調子が良いほどであった。
「…こ、これは…?治った?修復されてる?」
狐につままれたような顔をしているバザールが、顔の前に上げた、復元されたばかりの手をまじまじと見つめていると、
「可能性が…、自由意志…、灰色…、豚…」
不意に言葉を途切れがちにさせた白猫は、すっと手をあげ、バザールの顔を指差した。
「忘れ…な……で…。あなた…、終わり…、立ち会…。因果は…、選…。重なり合…、二頭の…白…獣…。あまねく響くは…
獅子の…咆哮…。定めに抗う…虎の…屈服…。禊成す…狼の…散…」
頭上の光輪が明滅し、白猫の視線が徐々に茫洋とした物に戻ってゆく。
「え?え!?ど、どうしたんですか!?」
声が不明瞭になってゆく白猫の前で、バザールは慌てて腰を浮かせかけ、重みに耐えかねたテーブルごと地面に転倒する。
自分の足元に倒れ伏して「痛たたた…」と尻をさするバザールを見下ろし、白猫は明瞭さを取り戻した声で告げた。
「あなたもまた、終末の見届け人…」
その言葉を最後に、白猫の頭上から光輪が消え、瞳が意思の光を失う。
再び人形のようになってしまった白猫の前で、事態が飲み込めていないバザールは、
「あ、ちょ、ちょっと?どういう意味です!?って言うかどうやったんですこの修復!?…あ、あれぇ?ど、どうしちゃった
んですかぁ黙り込んで?」
ぼんやりとしている白猫の前で、やや動転しながらその細い肩を掴み、軽く揺さぶる。
「…あざぜる発見…。コレヨリ排除スル」
唐突に聞こえたその声に反応し、バザールは白猫の肩を掴んでいた手で彼女を押しやりつつ、振り向き様に素早く拳銃を引
き抜いた。
テラスの隅に重ねて高く積み上げられた、予備の椅子。
その一番上の椅子の背もたれに、チーターが片足立ちで佇んでいた。
空間跳躍の名残であるノイズも消えていないそこへ、バザールはピタリと銃口を向けている。が、
(あ、あれ…?あれれ?何だかちょっと変ですよぅ?)
違和感を覚え、バザールは戸惑っていた。
銃を引き抜く腕が、振り向く体が、目標へ向けられた銃口が、普段よりも素早く、かつスムーズに動いていた。
白猫が治療ついでに施した機能拡張と最適化は、バザールを格段にバージョンアップさせている。
来たる終末に向けて白猫によって強制進化させられた彼女は、まだ扱いきれていないものの、今やエリートたる管理人達に
も匹敵する機能を有していた。
ぐっと身を屈めたチーターが消え、またも空間跳躍されたその直後、
「…あ!そこですかぁっ!?」
ぼってりした腹肉と豊満な胸を揺すり、ぐりんと振り向きつつ伸ばしたバザールの腕が、握った銃のバレル上部で、白猫め
がけて振り下ろされたサバイバルナイフを阻止する。
切っ先をバレルで受け止める素早さと精密さ、そして押し負けない力強さが宿った肉体の変化に戸惑いつつも、バザールは
空いている手で白猫の襟を捕まえ、力任せに引っ張る。
その鼻先すれすれを、横に薙ぎ払われたサバイバルナイフが通過する。
次の瞬間、バザールが握る拳銃が、ナイフと擦れてカリュッと音を立てつつ角度を変え、チーターの顔面に照準を合わせた。
銃声と金属音。発砲直前で払われたバザールのコルトディフェンダーは、圧縮データの弾丸を夜空へ打ち上げる。
その軌道すれすれで慌てて身を翻した者を目にし、バザールは声を上げた。
「止めて下さいよぅ!この子は、悪い子じゃありませんっ!」
擬似ブラスト現象に蝕まれたはずのバザールがぴんぴんしている事に、駆けつけたばかりのトカゲは驚愕した。
「馬鹿な…!?一体どうやって中和を?それともプログラムに欠陥が?…いや、今はそれどころでは無いな…!」
トカゲは黄色い目をギョロリと動かし、白猫とバザールを睨む。
「イブリースと近しいソレは、審問抜きでの消滅刑を処して問題が無い存在だ!邪魔立てするな配達人!これ以上執行を妨げ
るならば、反逆罪に問われるぞ!?」
見上げて言い返そうとしたバザールは、しかし口を開けたまま硬直する。
「どうした?…ふむ、やっと理解できたのか?そう、そやつを庇う事は反逆行為だ。判ったならソコを退きたまえ。上に報告
されたくなければな」
ようやく納得したかと安堵し、バザールに警告するトカゲは、しかし気付いていない。
バザールの視線が、自分の僅か後方に向けられている事にも。
彼女が硬直する直前に、自分の背後に走ったノイズにも。
自分のすぐ後ろに、何かが居る事にも。
反応したチーターの尾がピンと立ち、腰を落として身構え、自分の方へ視線を固定したその時になって、トカゲは初めて気
がついた。
サワサワと背中を撫でるような濃密な気配と、チリチリと肌を焼くような殺気に。
「堕人、いぶりーすヲ確認」
チーターの声がくぐもって響くのと、顔色を失ったトカゲが振り向くのは、全く同時であった。
振り向いたトカゲの目が、眼球が飛び出さんばかりに見開かれる。
その黄色い瞳に映るのは、口角を吊り上げ、牙を剥き出しにし、鼻面に深い皺を刻んだ、憤怒の表情を浮かべる北極熊の顔。
激怒し、パールホワイトの被毛が逆立って体積を増している巨人の如きその男を前に、トカゲは全く動けなくなった。
緩慢。そう言って良いほどゆっくり伸ばされた大きな手が、強烈なプレッシャーに当てられて身動きできないトカゲの頭を
鷲掴みにする。
「ぎひぃっ!」
悲鳴のような声が発された次の瞬間、白く太い指が、まるで粘土に潜るように、トカゲの頭部に沈み込んだ。
バシャッと音をたて、トカゲの頭部が瞬時に握り潰され、爆ぜる。
破壊された肉体の破片と砕けた魂やプログラムが、入り混じって赤い雨となり、カフェテラスに降り注ぐ。
パタタッと顔にかかった肉片と血液、魂などの残滓たる燐光の塊を浴びながら、目を見開いたバザールは一歩も動けない。
(ジブリール…さん…?え?どういう事です…?)
知っている配達人と、背丈、体型、顔立ちまで瓜二つの北極熊の姿を目に、バザールは軽く混乱した。
纏う衣と瞳が赤である事を除けば、一点をおいて違いが無い。
(…違う…!ジブリールさんじゃないっ!)
しかしその決定的に違う一点に気付いたバザールは、巨漢の北極熊が知り合いとは別人であると確信した。
北極熊が浮かべる憤怒の形相と、肌を刺すような怒気と憎悪…。
怒り、憎しみ、妬み、そして敵意が欠落しているジブリールには、そのような気配を発する事も、そのような表情を作る事
もできはしない。
「るるっ…るるるるるっ…」
めくれ上がった唇と、剥き出しになった牙。その奥から漏れるのは喉を震わせる音。
制御者を失ったチーターは、最優先目標であるイブリースめがけて地を蹴った。
さらに、跳躍の最中でノイズを纏い、空間跳躍での接近を試みる。
が、その行動は完了しなかった。
ノイズが広まり全身を包むその前に、それ以上に速く転移を終えた北極熊が目前に出現し、その右手がチーターの喉を鷲掴
みにしていた。
即座に喉仏が、気管が、動脈が、ひとまとめにぐしゃりと握り潰され、チーターの首が前半分を失う。
頸骨と筋肉だけで頭部を支えるチーターが、しかし苦痛すら感じず腕を振るい、イブリースの腕、肘のすぐ下辺りにサバイ
バルナイフを二本とも突き立てた。
感情がいくらかでも残っていれば、チーターは会心の笑みを浮かべたかもしれない。
致命的な一撃、擬似ブラストを送り込んだのだから。少なくともそう見えているのだから。
だが実際には、柄の付け根まで突き刺さったように見えるサバイバルナイフは、イブリースの腕に潜り込んだように見える
分だけ、ぞっくりと削られたように消失している。
傷つけた瞬間に発動する擬似ブラストプログラムは、しかし宿す本体が先に破壊されてしまえば発動のしようもない。
プログラムデュランダルによってサバイバルナイフを分解吸収したイブリースは、右手でチーターの喉を捉えたまま、空い
ている左手で、柄だけのナイフを握ったままの右腕を掴んだ。
ブチブチブチッという嫌な音を聞きながら見上げるバザールは、しかし目にした光景が何を意味しているのか理解し兼ねた。
チーターの右腕が伸びている。最初の印象はそうだったが、筋肉が、腱が、皮膚が、まとめて引き延ばされた腕が肩口から
千切れると、ようやく事態を飲み込めた。
力任せに引っこ抜いたチーターの腕をぞんざいに放り捨てたイブリースは、赤い凶眼に憤怒の炎を灯しながら、天を仰いで
咆吼を上げた。
「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
その凄まじい咆吼に大地が震え、大気が揺れ、バザールは萎縮する。
ゴッ!という音が響いたのは、その咆吼の最中の事であった。
きつく握り固められたイブリースの左拳がチーターの顔面を捉え、右半分近くを陥没させている。
「るおおおおおっ!あるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる!!!」
喉を震わせ雄叫びを上げながら、イブリースはさらに喉から放した右手の拳を、さらに左拳を、さらに右拳を、交互に何度
も繰り出し、チーターの顔を、首を、胴を、めったやたらに殴りつける。
まるで見えない壁に貼り付けにされているように空中に静止させられているチーターの体がひしゃげ、潰れ、歪み、砕ける。
間断なく浴びせられる雪崩のような無数の拳と、見えない壁の間で、チーターの体は瞬く間に潰れて引き延ばされて薄っぺ
らになってゆく。
空間に固定されたそこへ衝撃の全てが集中しており、後退などの反動になって逃げる事もない。
「あるるるるるるるるるるるるるるるるるるおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
大きく右腕を引いたイブリースは、五指を広げたその手の平で、扁平になったチーターの中心を突いた。
強烈な突っ張りが命中したその途端に、空間にひび割れが生じ、既に残骸となっているチーターは界面の断片ごと異層へと
叩き込まれる。
押し込んだ腕をイブリースが引くと、空間の亀裂が瞬く間に閉じ、チーターは存在の痕跡すら残さず消滅した。
「あ…あわ…!あわわわわ…!」
恐怖のあまりガタガタと震えだしたバザールの視界の中、北極熊はゆっくりと首を動かし、その凶眼を彼女に据える。
次の瞬間、瞬時に空間跳躍して来たイブリースの手が、今度はバザールの顔面を鷲掴みにしていた。
片腕で吊り上げられたバザールは、自分の頭がミシリと鳴る、不快な音を聞く。
一切の慈悲も、一切の容赦も、一切の許容も無い、殺意と嚇怒と憎悪の塊のような眼光を前に、バザールはもがく事すら忘
れている。
(何で…、何でこのひとはこんなに怒ってるんでしょう?何でこんなに、私達を憎んでるんでしょう?)
そんな疑問が、恐怖と同等の割合でバザールの胸の内を占めている。
逃れる事も叶わない状況のバザールの目を見つめ、先程のトカゲ同様に握り潰すべく手に力を込めたイブリースは、しかし、
不意にすぅっと瞳の激情を薄れさせた。
そして首を巡らせ、背後を確認する。
彼が急に後ろを見た理由は、バザールにも解った。
いつの間にかイブリースのすぐ後ろに立っていた白猫は、彼のコートの裾を握っており、その顔をじっと見上げている。
「どうしたんだい?アズ」
傍にいるだけで皮膚が焼けるような強烈な怒気と殺気にフードを被せ、北極熊は連れに訊ねる。
白猫は無言のままイブリースの赤い瞳をしばし見つめ、次いでバザールを見た。
凍り付いたように動けなくなっている桃色の豚を見つめた白猫は、掴んでいる保護者のコートの裾を、ぎゅっと自分側に引っ
張る。
「…うん…?」
イブリースは眉根を寄せて白猫から視線を外すと、バザールの頭を鷲掴みにしている手、その人差し指と親指の間から覗け
る、恐怖に見開かれた瞳をじっと見つめた。
「珍しいね。アズが意思表示するなんて」
観察するような目で、身動き一つできなくなっているバザールの瞳を覗き込んでいたイブリースは、白猫の意志を尊重し、
バザールの頭から手を離す。
どさっと地面に落ち、尻餅をついたバザールをしげしげと見つめた後、殺気と怒気をすっかり霧散させたイブリースは、
「止めておこう。どうやらアズは、キミを消滅させたくないらしい」
軽く肩を竦めつつそう呟いた。
呆然としているバザールの前で踵を返し、白猫の手を取ったイブリースは、
「行こうアズ。また兆しが見えている…。今度こそ、キミを取り戻そう…」
優しげな声音で白猫に告げ、ノイズを残して消え去った。
消え去る直前に白猫が一瞥し、バザールの顔を見たが、しかし彼女は気付かない。
その一瞬だけ、茫洋とした視線が再び定まり、しっかりと自分を見据えていた事には。
白い二頭の獣が消え、一人だけ取り残されると、腰が抜け、へたり込んだまま動けないバザールの体に震えが蘇って来た。
「あ、ああう…!あああああああっ…!」
歯の根が合わず、半開きの口は意味のない声を漏らしながら、ガチガチと音を立てる。
初めて実際に目にした、大いなる敵対者。
その圧倒的な力と凶暴性、そして零れ出た狂気の片鱗に触れ、バザールは打ちのめされていた。
永きに渡ってシステムと敵対しながら、何故今まで捕らえられなかったのか?何故誰にも消滅させられなかったのか?
その理由が、バザールにはようやく理解できた。
腕が立つという事は当然だが、逃げる事と身を隠す事に長けているのだろう。彼女は今まで漠然とそんなイメージを抱いて
きたが、それがまるっきり勘違いだった事に気付いた。
強過ぎるのだ。管理人数名ですらまるで歯が立たないほど、でたらめな力を有している。
捕らえようにも、消滅させようにも、単純に力が及ばない。
あれほどの存在がその気になって牙を剥いたなら、自分など濁流に呑まれたアリに等しい。
例え近辺の配達人や修理人、システム側の存在が総出で束になってかかったとしても、多少時間が延びるだけで、消滅とい
う結果は変わらない。
骨身にしみて、その事が理解できた。
腰が抜けて立てないバザールは、やがて駆けつけた管理人の一人、黒虎によって保護された。
外傷こそ無かったものの、彼女はしばらく、自力で立つことすらできなかった。
一方、戦闘区域跡地では負傷者の修復作業が進んでいた。
だが、負傷し、疲労している参加者の殆どが、口には出さないものの、こう思っている。
何故ドビエルはイブリースと徹底的に交戦しなかったのか?
人間をある程度犠牲にしても、イブリースをどうにかすべきだったのではないか?
皆のそんな不満を感じながらも、雪豹は上司の気持ちを理解していた。
冷静で計算高いドビエルは、しかし必要以上に冷徹ではない。
彼らからすればほんの一瞬の生しか持たず、旅を繰り返す人間達も、その時その時のその人生を、一回限りの物として生き
ている。
システムの最高位に立ち、世界維持の大局を見据えながらも、しかしドビエルは、大事の前の小事だからと簡単に、安易に、
人間達の営みを切り捨てられない。
そうすればどんなにか楽だろうと、事あるごとに雪豹は思うのだが…。
「動ける方、手の空いている方は、危険な状態の方を率先して手当して下さい。不慣れな方は応急手当で構いませんので、宜
しくお願い致します」
声をかけながら自らも傍で倒れている者を抱き起こし、ドビエルは先程の波の出所…今は気配が消えたその方向へと視線を
向けた。
(アズライルと666システムとのリンクについて、ジブリールから報告を受けて間もなくこれですか…。繋がっているのは
666システムだけではない…、という事ですかね、やはり…)
灰色熊がそんな事を考えていたその時であった。
作戦に参加していた執行人とトカゲを探しに行ったはずの黒虎が、そのどちらでもない配達人を伴って帰還したのは。
見知ったその顔を目にし、ドビエルは訝しげに眉根を寄せた。
「…バルタザール?」
酷いショックを受け、俯いている彼女には、普段のおっとりとした柔らかさが見られない。
よほど怖い目に遭ったのだろうと考え、一言かけて励まそうとしたドビエルの接近に気付いたバザールが、顔を上げて視線
を向ける。
「大丈夫ですか?バルタザ…」
「どういう…、事なんでしょう…?」
ドビエルはバザールの囁きで、言葉を切った。
「イブリース…。初めて見ましたけど…、ジブリールさんにそっくりでした…。それに…、あの白猫の子…。急に雰囲気が変
わって…」
ボソボソと考察しながら呟くバザールの脇で、頼りない彼女を支えてやっている黒虎が怪訝そうな顔をする。
「「我が名はアズライル」…そう、言っていました…。どういう事なんですか?これって…」
桃色の豚はドビエルの目を真っ直ぐに見つめ、灰色熊もまたバザールの瞳を見つめ返す。
黒虎は困惑顔で二人の顔を交互に見遣り、やがてドビエルはバザールの視線に屈したように、硬い口を開いた。
「会ったのですか…?あの白い亡霊に…」
小さくため息をついた灰色熊は、
「君は確か、アズライルとは友人でしたね…。亡霊と出会ったのも、あるいは神の見えざる手の導きによる物なのかもしれま
せん…」
自分を納得させるような口調でそんな事を呟くと、バザールから視線を外し、周囲を見回した。
「この事は一部でしか知られていない事ですが…、君は知っておくべきなのかもしれません。作業が済み次第、場所を変えて
お話ししましょう」
真っ直ぐ見つめてくるバザールに視線を戻し、ドビエルは小声で告げた。
「魂の双子とでも言うべき二頭の熊と、アズライルファントムについての全てを…」