第四十八話 「イコン」(前編)

象牙色の通路を、大柄な北極熊が行く。

ゆったりした白い修道衣の裾を翻し、やや足早に、表情を緩めて。

そんな北極熊の足がおもむろに止まった。

それは、横手の壁にぽっかりと穴が空き、見知った男が姿を現したせいである。

「やあ、ドビエル」

壁から出て来た大柄で屈強な灰色熊は、声をかけられて初めて気付き、北極熊に顔を向けた。

「おや?ジブリール、今日は休暇ではありませんでしたか?」

「うん。これからエデンサイドに行くところ。アズと待ち合わせなんだ」

微笑んだジブリールに、ドビエルも笑みを返す。

「イスラフィルはどうも、あそこは静か過ぎて性に合わないそうで…」

「ははは!昔から賑やかなのが好きだからね、彼女は。悪いけれど、今日一日管理室をよろしくね」

軽く頭を下げたジブリールに、ドビエルは困ったような苦笑いを向けた。

「重責ですが、お任せ下さい室長補佐。…いえ、もう次期室長殿とお呼びしておくべきでしょうか?」

「あはははは!よしてよドビエル!…それに…」

太鼓腹を揺すって笑ったジブリールは、不意に声を潜め、ドビエルに囁いた。

「…ここだけの話、管理室長への推薦は断わるつもりなんだ…。今日はその件についてもアズに相談したくてね…」

それを聞いたドビエルは眉をピクリと動かしたが、しかし完全に予想外だった訳でもないので、落ち着いた様子で頷く。

「…そうでしたか…。わたくしとしては、貴方以上の適任者は居ないと思っているのですが…」

「それはどうかな?むしろドビエル、キミの方が向いていると思うよ。ボクは室長なんて柄じゃないしね。…加えて、現在審

議中の議案が通ったら、新制度の発足に併せてそっちの仕事に移ってみるのも良いかと思っているんだ。アズと一緒にね…。

だから推薦を辞退したいというのもある」

ドビエルは「ふむ…」と頷き、顎に手を当てて思案する。

「「配達人」…ですか…。果たして本当に必要な職種なのか、わたくしはいまひとつ確信が持てずに居ます」

「じきに必要になって来るだろうね。いや、むしろシステムはより多くの人材をそっちに傾けざるを得なくなるはずだ。人間

達は増え続けているし、ついこの前開花したばかりだと思っていた彼らの文明は、もう随分と発展している。彼らは他の生物

とは違って因果の流れを乱しがちだから、調整専門の職種は必要さ」

「古くからメッセンジャーをして来た貴方の口から聞かされると、説得力がありますね。…しかし人間達については存在その

ものを疑問視する声も少なくありません。アスモデルやイシュタルなどは、人間達は本来出現すべき種では無かったのでは?

とも言っていますよ。だから彼らのイコンは存在しないのだと…」

「確かに、イコンについては気になるところだけれど…。でもこれから出現するのかもしれない。まだまだ判らないさ」

「そうですね…。…おっと、お引止めして済みませんでした。どうぞアズライルの下へ…」

「有り難う。それじゃあよろしく」

軽く手を上げて別れを告げたジブリールは、ドビエルに見送られながら通路を進む。

そして、長い長いその通路を突き当たりまで歩くと、一見すると行き止まりに見えるその壁へ、大きな手をひたりと当てた。

直後、白い壁はすぅっと透き通り始め、その先に隠れていた、灯りの無い暗い通路が姿を現す。

高さ、幅、共に4メートルほどある正方形の口をぽっかり開けたその通路は、ジブリールが足を踏み入れると同時に天井や

壁面がぼんやりと光り出した。

そして北極熊の巨体は、足を動かしもせずに前へ運ばれてゆく。

床全体がスライドしている訳ではない。ジブリールが踏んだ床…その大きな足の裏に接している部分だけが前へと動き、床

の他の部分はまるで流動体であるかのように道を空け、後ろに回り、ジブリールが踏んだ部分だけを前へ押し出している。

速度は徐々に上がり、駆け足の速度から全力疾走する犬の速さへ、そして鳥が飛ぶような速さへ至り、やがて音の速さに達

した。

楽しい事を控えた子供のように明るい、そして穏やかな笑みを湛えたまま、ジブリールは複雑に入り組んだ通路を高速で運

ばれてゆく。

曲がっても加速しても、ジブリールの巨体は直立したまま微動だにしない。

地上とは異なる法則が空間を支配するここでは、慣性や重力に従うかどうかは彼ら次第。どんな不安定な動きも、どんな急

加速も、そうと望まなければ影響を受けずに済むのである。

そして、床は次第に減速し始め、徐々に速度を落とし、やがて目的地前でひたりと止まった。

通路に入った時と同様、一見白い壁にしか見えないそこへ北極熊が手を添えると、壁はただちに透けて、向こう側の景色が

薄紫の瞳に映り込む。

眩さに目を細めながら、ジブリールは草原へ足を踏み出した。

地面も見えぬほど密生した細い草が、風に撫でられさわさわと揺れている。

ゆるやかに盛り上がった低い丘の上には、雲一つ無い空と、何者にも遮られず輝く太陽。

だが、その景色には奇妙な点があった。

草も、空も、太陽も、色が無い。

薄い灰色の空の中央で、動かぬ太陽が白光で周囲を照らし、濃い灰色の草が揺れている。

見渡す限りのモノトーンの中、ジブリールは空間にぽっかりと空いた四角い出入り口の前で首を巡らせた。

その薄紫の瞳が、平原にただ一本だけ立つ林檎の木に据えられる。

その下には、太い木の幹に寄りかかる一つの白い影。

ジブリールは顔を緩ませ、灰色の草を踏み分けて林檎の木に歩み寄った。

「アズ!ごめん、お待たせ!」

北極熊の快活な声に、目を閉じて林檎の木に寄りかかっていた女は耳をピクリと動かし、ゆっくり目を開ける。

「ジブリール…」

ゆっくりと背を木の幹から離し、女は微笑んだ。

白く柔らかな被毛に覆われたしなやかな肢体。白い毛には極々薄い水色の斑紋が浮いていた。

無数のそれらは良く目を凝らして見れば、円に六芒星というデザインになっている事が解る。

ゆったりとした純白の修道衣も、その完璧なボディラインを残さず隠す事はできず、豊満な胸と腹部のくびれ、形の良いヒッ

プラインが見て取れる。

女は、美しいホワイトジャガーであった。

「待ったかい?ごめんよ」

歩み寄ったジブリールが頭を掻いて苦笑いすると、ジャガーはその太い胴にぼふっと抱きついた。

応じるようにジャガーの引き締まった背に腕を回したジブリールは、自分とは不釣り合いに細い恋人を軽く抱き締める。

50センチ以上も身長差がある北極熊の鳩尾に軽く頬ずりしたジャガーは、顔を上げて眉根を寄せ、咎めるような表情をし

てみせた。

「遅刻ですよ?ジブリール」

「ごめんね。出がけにミカールとハダニエルに捕まっちゃって…。試作品のクッキーを食べて行けって」

「あらら。朝から一体何をしているのでしょう?彼らったら」

そっと身を離したジャガーが微苦笑すると、ジブリールもつられて苦笑いを深くした。

「後ろ髪を引かれる思いで断ったんだけれど、結局料理の腕の上達ぶりについて長々と聞かされて…」

「ふふっ…!まぁ自慢したくなる気持ちは判るけれど…。熱心だし覚えも良いわ、彼ら。本当に教え甲斐がある生徒ですよ」

清楚さと茶目っ気が同居する白いジャガーは、ウィンクして続けた。

「それじゃあ、遅刻した埋め合わせに、お昼は試作料理の味見をして貰いましょうか?」

「あはは!喜んで!」

「…そう喜んで良いのかしら…?試作ですから味に保証は…」

「大丈夫。アズが作ってくれる物は、何でも美味しく食べられるから」

「あら嬉しい」

クスクスと笑ったジャガーは、ジブリールにくるりと背を向け、林檎の木にそっと手を当てた。

「ねえ、ジブリール…」

「うん?何だい?」

笑顔で問い返すジブリールに、ジャガーは背を向けたまま訊ねる。

「私の事を、愛していますか?」

「勿論だよ…」

「それなら…、どうして…」

気恥ずかしそうに顔を俯け、首の後ろをもそもそと掻いた北極熊は、違和感を覚えて顔を上げる。

景色が、一変していた。

足下の草原はいつの間にか雪原に変わり、どこまでも白い世界が周囲に広がっている。

「…あ…」

声を漏らしたジブリールの前では、林檎の木は白い十字架に変わっていた。

その処刑台に磔にされたジャガーは、眠るように両目を閉じて、全身を矢で射抜かれた壮絶な姿を晒している。

「…あ…、ああ…!」

変わり果てた恋人の姿を薄紫の瞳に映して、ジブリールは呻きながら、震える両手を差し伸べる。

内側から破壊し尽くされたジャガーの体は、あちこちに虫に喰われたような穴を生じさせ、がらんどうになった内部をさら

け出す。

中身の無い張りぼてとなったジャガーの首にも穴は生じ、支えきれなくなった首から、頭部がぼろっともげ落ちた。

「あ…、あああ…!あああああああっ…!」

差し伸べていた両手に落ちてきた恋人の首を、ジブリールは声を漏らしながら凝視する。

その震える手の上で、ジャガーの首はカッと両目を見開いた。

『ドウしテ助けテくれナかっタの?』



「…アズ…」

自分の囁き声で、ジブリールは目を覚ました。

白一色の四角い部屋の片隅、ベッドマットを重ねただけの寝床の上で。

スプリングの硬いベッドマットをギシッと軋ませて身を起こすと、北極熊はぼんやりと宙を眺めた。

甘美な思い出はいつものように、途中から悪夢に変じていた。

それは、かつて北極熊に欠落が無かった頃の記憶。

遥か昔、まだ配達人制度が無かった頃の記憶。

北極熊が中央管理室に居た頃の記憶…。

以前は豊かだった感情も、今となっては当時と比べようもないほど色を失い、あの頃は確かに持っていた恋愛感情も失われ

ている。

恋愛感情だけではない。憤怒に憎悪、嫉妬など、殆ど発露こそしなかったものの、それでも当時は一応備えていた物も、そ

の大半を無くしている。

聖人君子。そう表現する事もできるだろうが、ある意味人間味が薄いとも言える。

友愛の化身のような今のジブリールだが、実は、豊かな感情を大幅に失った成れの果てが、この状態であった。

「…アズ…」

再び漏れた呟きが、ベッドマット以外には業務用大型冷蔵庫と衣装箪笥しかない殺風景な部屋に染み入る。

何処か乾いたその声は、懐かしんでいるのか、悲しんでいるのか、それとも悔やんでいるのか…、響きだけでは判断できな

かった。



乾いた風になぶられながら、レモンイエローの飛行艇は、ベイルートの海岸に停泊していた。

砂浜につけられた後部ハッチから、大型バイクに跨った虎男が飛び出して行くと、そのすぐ後にオフロード仕様のバイクを

駆る狼男が続く。

格納庫の端に立って同僚達を見送るミカールは、不機嫌を通り越して怒り狂っているムンカルの事を思い、ため息をついた。

「理不尽をひっくり返す仕事じゃなかったのかよ!」

昨夜投げつけられた怒声が、今も耳の中で反響している。

これは人間達の因果の内で生じる出来事。自分達は介入できない。

そう理屈を説いても、ムンカルは納得しなかった。

これから目の前で起こる酷い事に目を瞑れと言われて、素直に納得できるムンカルではない。ミカールもその辺りはよく理

解しているのだが…。

「大丈夫。ムンカルは気持ちの整理がついていないだけで、キミの言葉はきちんと聞いているよ」

「ならえぇんやけどな…。ところでお前、どうかしたんか?何や今日は朝から静かやで?」

「いや、特にどうとも…」

言葉を濁したジブリールは、獅子に聞こえないように「鋭いなぁ…」と小声で呟いた。

「それじゃあ、行ってくるよ」

「ああ。気ぃ付けてな」

ジブリールを送り出したミカールは、ハッチの内側から同僚を見送ると、ふと何かに気付いたように耳をピクリと動かし、

「ん?」と首を傾げながら踵を返した。

「これ、またハダニエルやな…。なんや最近世間話の通信多いけど…、もしかして暇しとるんかアイツ?」

通信が入っている気配が感じられ、足早に引き返すミカールは、しかしまだ気付いていなかった。

この日こそが、捜し物を求めて地上に留まり続けていた北極熊にとって、重大な転機となる事を。



乾いた地面に砂埃を立て、一台のバイクが行く。

いくばくかの火器と通信機を積んだ、サイドカー付きのごつい軍用バイクに跨る兵士は、ヘルメットとゴーグルを着用して

いる。

顔の露出している部位とゴーグルの中の眼差しを見れば判るが、まだかなり若い兵士であった。

均整の取れた体つきをしており、背筋が伸びて姿勢が良く、生命力に満ち溢れている。

兵士は簡易偵察任務中で、今し方同僚達と別れたばかり。上官の下へ単機で報告を持ち帰る途中であった。

バイクを快調に飛ばしていた兵士は、やがてゴーグルの中で胡乱げに目を細め、腰の横に吊した拳銃に手を当てる。

行く手の右方向、道沿いの岩塊の陰で何かが動いていた。

(敵兵か…?)

兵士は拳銃から手を放さぬままバイクの速度を落とし、やがて停車した。

そしてバイクを盾にして屈み、岩に拳銃を向ける。

若い兵士は、内乱が続くこの国に派遣されてからだいぶ経っており、「常識」に慣れている。

そこかしこに雑多な勢力が混在し、入り乱れている状況…、いかなる場所でも敵との遭遇は想定して然るべきであった。

緊張しながら様子を窺い、銃を保持していた若い兵士は、

「…なんだ…」

やがて、ほっとしたような呟きを漏らし、銃を下ろした。

兵士が構えている事にも気付かぬまま、岩陰から無防備にひょこっと姿を現したのは、一人の女の子であった。

地面に散らばる何かを無心に拾い集めている少女は、十歳前後に見える。

そのみすぼらしい衣類から、近くのキャンプから出てきたパレスチナ人難民であろうと、兵士には察しが付いた。

「おい」

銃を収めた兵士が声をかけると、女の子はやっとバイクと兵士に気付き、びっくりしたように岩陰に戻る。

「心配するな。何もしやしないよ」

なるべく優しい声を作ってそう呼びかけた兵士は、ゴーグルとヘルメットを外し、素顔をあらわにした。

岩陰から相手の若々しい顔を見た少女は、おどおどとした様子で両手を上げる。

「心配要らないと言っているだろう?撃たないよ。手は上げなくていい」

ライザーは肩を竦めながらバイクを回り込み、岩の横で立ち尽くしている少女に歩み寄った。

「私はライザー、軍人だ。君の名前は?」

「…アジール…」

女の子がぼそぼそと応じると、ライザーは笑みを浮かべて頷く。

「アジールか…、響きが美しい、良い名前だな。ではアジール。君は今、この辺りが危ない事は理解しているね?」

ライザーの言葉に、アジールは小さく頷く。

「両親にも言われているんじゃないのか?キャンプから離れてはいけないと…」

「お父さんもお母さんも、死んだから」

言葉を遮ったアジールの目に強い光を認め、ライザーは言葉に詰まった。

(…もしかして、この子の両親は我が軍が…?)

「ライザーは、どこの軍人さん?」

アジールのそんな問いかけを受け、一瞬言葉に詰まったライザーだったが、誤魔化しても仕方がないと思い、正直に答える。

「イスラエル軍だ。…もしかして君のご両親は、イスラエルの兵士に…?」

「ううん。違う。お父さんとお母さんを殺したのは、レバノン杉…」

それは良かった。とはさすがに口に出さぬまま、ライザーはほんの少し安堵した。

しかしながら、神妙な顔は崩れない。

彼女の両親を殺したのが自分達でないとはいえ、難民達から見れば、自分達もレバノン杉もタイガーズも等しく「戦争屋」

でしかないのだという事を、ライザーは重々解っていた。

「…ところで、こんな場所で何を?何か拾っていたようだったが…」

ライザーに敵意が無いと察してか、それとも両親を殺した者とは別の軍隊の者だと知ったからか、アジールはいくらか緊張

を解いた様子でポケットに手を入れる。

土埃で汚れた小さな手が掴み出したのは、いくつかの空薬莢であった。

「キャンプの子供達…、おもちゃ無いから、鉄砲の弾の殻で遊ぶ。…でも、子供は多くて、鉄砲の弾の殻は少なくて、足りな

いから…」

「探しに来たのか」

言葉を引き取り、納得して頷いたライザーは、少しだけ口元を緩めた。

鉄砲の弾の殻。その表現は何とも子供らしく、微笑ましく思えて。

「もしかして、いけない事だった?鉄砲の弾の殻も、軍人さん達の物?」

「う〜ん…」

ライザーは口を真一文字に引き結んで唸った後、

「まぁ、落ちていた物は良いだろう。少なくとも私は拾い集めるように言われていないしな」

口元を緩めてウィンクして見せたライザーは、ほっとしたような表情を浮かべるアジールに釘を刺す。

「ただし、拾って良いのはその「抜け殻」だけだからな?中身が入っている物や、それより大きな物は爆発するかもしれない。

危ないから見つけても触らないように」

「うん…」

アジールが素直に頷くと、ライザーは小さくため息をついた。

この近辺はまだマシだが、酷い地域ではクラスターや黄燭燐などが制圧目的半分、実験目的半分でばら撒かれている。

見事なまでに蹂躙されたそれらの地区では、下手に動けば命にかかわる。

実際、ライザーが見てきただけでも、不発のまま落下、埋没していたクラスター弾が、地雷よろしく炸裂し、移動中の難民

キャラバンに多数の死傷者を出したケースがいくつもある。

(兵器の進化は目覚しい…。だが、効率を重視する余り、大事な物から目が背けられている…。何処へ行くのだろうな?そし

て、何をしようとしているのだろうな?我々軍隊は…、いや、人類という生き物は…)

束の間の感傷に浸ったライザーは、改めて目の前の少女の顔を見下ろした。

身なりも悪く、褐色の肌も煤や埃で薄汚れてはいるが、顔立ちは整っており、利発そうな黒い瞳が印象的であった。

砂埃や皮脂で汚れてだいぶくすんではいるものの、洗って地が出ればきっと美しいであろう漆黒の髪は、擦り切れて傷んだ

布切れによって頭の後ろに纏められている。

(普通の環境下であれば、この恵まれた容姿はこの子に幸福をもたらしてくれるだろう。…だが、この状況では…)

ライザーはこの国に来てから今までに、容姿が恵まれているが故に餌食となった女性を数多く見てきた。

民兵、正規兵、派遣兵、傭兵、火事場泥棒にどさくさ紛れの略奪者…。戦場という非日常では、どんな者がどんな異常行動

を取るか解らない。略奪と蹂躙を行わない軍隊など、悲しい事に歴史上では少数派である。

(せめてこの子は、そんな末路を辿って欲しくはないものだが…)

そんな事をしんみり思ったライザーは、気を取り直して少女に語りかけた。

「さて、私はもう行かなくてはならないが…、良ければ途中まで送ろう。これでもイスラエル軍の末席に名を連ねる兵士だ。

安全は保証するが…」

「まっせき?って、何?」

少女があどけない仕草で首を傾げ、ライザーは微苦笑する。

「つまりだな、下っ端だけれど、一応は軍の一員であるという事だよ」

説明されて意味に納得したアジールは、大きく頷き、次いで戸惑っているような顔をした。

(この兵隊さんは怖くない…、良い人みたいだけど…、でも良いのかしら?そこまでして貰って…)

遠慮すべきか、しかし好意に甘えるべきか、若いライザーは軍人といえどもあまり怖くはないらしく、アジールは警戒心を

緩めて考え込む。

結局、ライザーが強く勧めた事もあり、アジールはしばし迷った末、バイクのサイドカーに乗り込む事になった。

「君のキャンプはどこなんだ?」

生まれて初めて乗せられるサイドカーに、戸惑いながらも興味津々なアジールは、ライザーの問いに「シャティーラ」と短く答えると、目を真ん丸くしてサイドカーの内側や外装、そしてライザーが跨るバイク本体をしげしげと見つめ始める。

「シャティーラ難民キャンプか…」

少女の様子を横目で見ながら呟いたライザーは、

(「敵対勢力潜伏の怖れ有り」…との事で念の為に包囲されていたはずだが…、包囲部隊も、子供だからアジールの行動を大

目に見たのか?…いや、さすがにそれは無いだろう、ただの怠慢か…。実際に千人からの敵対勢力があのキャンプに潜んでい

る事など有り得ない。本当だとしたら大半が敵対勢力になってしまう。デマなのか口実なのかは知らないが、包囲部隊の面々

も、有り得ない事に警戒しろ…というナンセンスな命令に、嫌気がさして来たんだろうな…)

そう、同じ軍に所属する者達の心境を分析した。

誰もがこの戦争を歓迎している訳ではない。

イスラエル軍の中にも、上層部が掲げているこの戦争に介入する大儀に対して疑問を抱いている者も多い。

国外からの反応は当然芳しくはなく、国連からは非難決議まで出されている。

(まぁ国の利権には関わる事なんだが…。せめてイスラエル(神の勝者)の名に恥じぬ戦争ならば、納得もできるのだがな…)

サイドカーに慣れていないであろう少女を気遣い、バイクはゆったりスタートする。

そのサイドカーの中、揺れ始めると同時にアジールは顔を上げ、流れる景色をきょろきょろと見回し始めた。

(やはりサイドカーは初体験らしいな)

ライザーはそんな事を考えながらアクセルを開け、徐々に速度を上げて行った。



そんな二人を、ハーレーに跨る黒ずくめの白い巨漢が、かなり離れた荒野の中央から見つめていた。

「…なんてことだろう…」

呟いた北極熊は、相手側からは視認不可能な程の距離を置いて、じっと視線を注いでいた。

目を大きく見開き、口を僅かに開いて。

驚いているというより、呆気にとられてぼんやりしてしまっている…。そんな表情であった。

「まさか…こんな所で…こんな風に…」

薄い水色の瞳が、心なしか潤んで揺れたように見えた。

その大きな手がグリップを強く握り、軽く動いてギアを入れようとしたその瞬間、彼の腰に吊されていたホルダーからビー!

と音が鳴った。

取りかかる寸前だった操作を急遽中断し、ジブリールは大きな手でホルダーから無線機を抜き取る。

警報にも似た響きの、緊急呼び出しのブザー。ただ事ではないと察しながらごつい無線機を顔に寄せたジブリールは、

『魂が抜かれた人間を見つけた!この辺りに死神か何かが居るみてぇだぞ!』

同僚の虎男が、近辺のワールドセーバー全員にそう注意を呼びかけているのを聞くと、

「…なんてことだろう…」

口元を微かに動かし、先程と同じ言葉を繰り返した。



「見るが良いアシュター。人間共はまた憎み合い、殺し合っている」

砂埃混じりの乾いた風の中で、黒獅子は呟いた。

「ええ。ある意味希有な存在と言えましょうね。単純な生存競争からここまで離れた事で互いをこれほどまでに憎悪し合える

生物など、地上には他に居ないでしょう」

アシュターと呼ばれた白い雌牛は眉をひそめ、軽く首を振って応じる。

未開の地の部族が纏うような露出の高い衣装を身につけている、黒と白の対照的な二人は、天の高みを踏み締めて、難民の

キャンプと、それを包囲する軍隊を睥睨していた。

時に頭上を見上げる者もあるが、誰も彼らを認識できない。

そこに居る存在のちょっとした気まぐれで、自分達は旅の終わりどころか魂の終焉を迎えかねないのだという事を認識でき

る者は、一人も居なかった。

「潰しあって数を減らしてくれるのは好都合だが…、いささか小腹が減ったな…」

「あら…、先程兵士をつまみ食いしたばかりではありませんか?」

「腹の足しにもならぬ弱き魂…、歯にも引っかからぬ凡愚であった。兵士といえども、勇ましいのは弱者をいたぶるその時だ

けよな」

軽蔑しきった様子で吐き捨てた黒獅子…アスモデウスは、ふと目を細めて首を巡らせる。

「どうかなさいまして?」

「あのバイクだが…」

アシュターは黒獅子の視線を追って首を巡らせ、キャンプへ、そしてそれを包囲している兵士達へ近付いてゆくサイドカー

付きのバイクを眺める。

「…変わった波動の魂ですわね?」

「人間供の牽引者となり得る魂を持つ者かもしれぬ…。丁度良い。喰らうとしようか」

黒獅子は牙を剥いて獰猛に笑い、白い雌牛はその傍らで静かに微笑む。

「これでまた一つ、人間という忌まわしい種が存続する可能性の芽が消えますわね…」



通信機を乱暴にポーチに押し込み、ムンカルは愛車のアクセルを全開にした。

「嫌な臭いだぜ…、胸が悪くなる…!あそこまでぶっ飛ばす!頼むぜ陸王!」

吠えるような声でマシンを叱咤し、鉄色の虎は荒野を駆ける。

むらが大きいものの、時にはミカールでも驚くほどの嗅覚を発揮し、遠距離から盗魂者を捕捉できるムンカルは、今日この

時も異様な気配を感じ取り、位置を特定した。

フルスロットルで砂塵を巻き上げ突き進む虎男の横に、すっと影が並んだのは、ムンカルが道のりの三分の二を踏破した頃

であった。

「極めて異様な気配だ。本当に盗魂者だろうか?」

「だろうよ!こんなけったくそ悪ぃ気配…、魂喰ってるヤツに決まってるぜ!」

問いかけるナキールに大声で応じ、鉄色の虎は険しい表情を作る。

「ただでさえ納得行かねぇってのに、次から次へと…、畜生っ!」

競うようにマシンを走らせる両者は、やがて軍の陣と、それに包囲される難民キャンプの全貌を瞳に映す。

「あの中だろうか?」

「だとしたら食い放題だな…。突っ込むぜ!」

速度を落とさず直進したナキールとムンカルは、しかし程なく同時にブレーキをかける。

乾燥した土と砂利を跳ね飛ばしながら横向きになり、急停車した二台のバイクから、二人の異形は天を見上げた。

まるで、空に生じた破れ目か穴のよう…。それが、ムンカルの第一印象であった。

「何だよ…アレ…?死神じゃねぇ…、堕人か…?いや、それにしたってこの異様な臭いは…」

空をいびつな人型に切り取ったかのような、黒。それが宙を踏み締め、二人を見下ろしていた。

その男を、破れ目か穴のようだとの印象で捉えたムンカルの感性は、ある意味鋭い。

かつて誰よりも世界の維持に真剣に取り組み、世界を愛し、世界の為に身を捧げていたその獅子は、まさにシステムの綻び

を、破れ目を浮き彫りにする形で、極めて哀しい堕ち方をした存在なのだから。

元、因果管制室所属特別巡回人アスモデル。

彼は今やアスモデウスと名を変え、イブリースと同じく、極めて危険で強大とされている堕人の一人となっている。

『…覚えの無い顔だな…。袂を分かった後に生じた者達か…』

アスモデウスのその言葉は、かなり距離のあるムンカル達の耳元に届いた。

囁きが近くで聞こえる…、何らかのプログラムによって干渉を受けているのかも知れないと警戒を強めたムンカルは、

「今の声は念話だった。彼はどうやら肉の体を纏っていないようだ」

傍らの狼の言葉を聞き、眉を上げた。

「おいおいおい。じゃあアイツ、剥き身の魂だってのか?そんな馬鹿な事が…」

「理屈は解らないが、おそらく間違い無いと思われる。本来、地上では存在を維持するだけで消耗して行く魂のみの状態で、

あれだけ安定して在り続けている…。とんでもない男だ」

二丁の銃を抜いたナキールに続き、ムンカルもまた素早くリボルバーを引き抜く。

『失せよ小童共。邪魔だてせぬなら見逃してやろう』

再び大気を震わせない声が届くと、ムンカルは不快げに顔を顰めた。

「大きく出るじゃねぇか、えぇ?堕人と死神の中間みてぇな、鼻が曲がりそうなくっせぇ臭いがする黒いのよぉ?」

そんな同僚の言葉で、ナキールは僅かに目を細める。

「堕人と盗魂者の中間…」

呟いた狼男は、納得して頷いた。

「地上において、魂だけの状態で存在を維持するためには莫大なエネルギーが必要…。他者の魂を喰う事で、存在維持のエネ

ルギーをまかなっているのか…」

「やっぱり喰ってやがんのかよ畜生めっ!」

ブワッと被毛を逆立て、爆発寸前になったムンカルは、しかし同僚の声で踏み止まった。

「気をつけたまえムンカル。肉の体による制限を付与されていない彼は、地上の物理法則の干渉を我々以上に受け難い。つま

り、慣性、加速、重力、そして障害物といったファクターを、プログラムなどを使用せずに思いのまま無視できる」

「地味に嫌らしいな、そいつは…」

言葉を交わす二人から交戦の意志を見て取ったアスモデウスは、腕を前方に翳し、黒い弓を形成させた。

「邪魔だてするなら、容赦はせぬ…!」

声に出して呟いた黒獅子は、空いた手に矢筒を形成し、腰に吊して数本引き抜いた。



一方、ムンカル達とは反対側から包囲網に接近していたライザーは、包囲部隊の顔見知りにかいつまんで事情を説明し、陣

を抜けてキャンプ付近までバイクを寄せ、アジールを無事送り届けた。

自分達がある者達に狙われ、そしてある者に救われた事には気付かぬまま。

「運が悪いですね…。まさか貴方がこの地に来ていたとは…」

キャンプを包囲する陣の外側。つい先程ライザーとアジールを乗せたバイクが駆け抜けて行った道に佇んで、白い雌牛は呟

いた。

その10メートル程前方では、彼女が二名を襲う事ができなかった理由がバイクに跨っている。

「久しぶりだね。イシュタル」

どこか哀しげにも見える表情で挨拶し、ジブリールは訊ねる。

「まだ、人間達を滅ぼすつもりでいるのかい?」

「愚問です。それこそが私達の悲願なのですから」

北極熊は跨っていたバイクからのっそりと降り、アシュターは言葉を続ける。

「貴方こそ、まだ人間達を擁護するのですか?人間という種が発生しなければ、貴方の愛しいアズライルも消滅せずに済んだ

というのに…。復讐の対象として見る事もできるのでは…」

「それは違うよ、イシュタル」

相手の言葉を遮り、ジブリールは静かに言う。

「アズは人間という種を存続させるために犠牲になった…。だからこそオレは、彼女の意志を尊重して、人間に肩入れをする

んだ」

「他の全てを犠牲にしても?」

即座に切り返したアシュターに、ジブリールはかぶりをふった。

「そうじゃないよイシュタル…。きっとどこかで折り合いは付けられるはずなんだ…」

「貴方は優しいですわ、ジブリール…。けれど、世界は貴方ほど寛容ではありません」

白い雌牛はそう呟くと、強い光を込めた瞳で北極熊を真っ直ぐ見つめた。

「そうやって適当な落とし所を探している内にも、世界は苦痛に喘いでいます。システムは本当に世界を維持するつもりでい

るのですか?害悪以外の何者でも無い人間達を、我が物顔でのさばらせながら!」

アシュターの周囲で空間がひずみ始め、キリキリという不快な不協和音がジブリールの体をくすぐり始める。

北極熊は哀しげにかぶりを振り、きつい腹のポケットに手を押し込み、デリンジャーを引き抜いた。

かつては友でありながら、今では相容れぬ主張をぶつけ合う関係となってしまった二人の間で、主導権を巡って互いのプロ

テクトへ干渉しあっている痕跡…火花が、散発的に舞い始めた。