第四十九話 「イコン」(中編)
「せやから、クッキーにはチョコや!」
『いいやジャムだね。これこそ至高!』
飛行艇の操縦席では、ケンケンと声高な主張がぶつかり合っていた。
モニターに映る犀と睨み合い、童顔の獅子は「何で判らへんかなぁ…」と唸る。
「ジャムも認めへんわけやないけどな、チョコよりはさすがに下やろ」
『な〜に言ってんだか。逆だよ逆!チョコのが僅かに下行ってるって』
「判ってへんなぁ〜…。スウィート&ビター!ジャムには真似できへんやろ?」
『それ言ったらさぁ、フルーティー&ヘルシー!これだってチョコには逆立ちしたって無理だ』
平行線をたどるチョコクッキーVSジャムクッキーの議論は延々と続く。
だがやがて…、
「…せやな、ストロベリーチョコとかもあるしな…」
『…うん…。合わせて食える組み合わせもあるな…』
ミカールとハダニエルは解り合った。
「って…、お前暇なんか?最近やたら通信入れて来よるけど…」
『暇って言えば暇?だってほら、おいらの仕事って何か議事が出た時の議長を除くと本部の維持管理だけだしー?トラブルで
も無い限りはうろうろ見回りしてるだけだしー?』
「…お前、今度こっち手伝いに来いや…。地上って名前の地獄見したるさかい…」
古馴染みとの通信を終えたミカールは、ぐっと背を反らして伸びをし、椅子を軋ませた。
背もたれに体重を預け、頭を後方にぶらんと垂らし、タンクトップが伸びてへそが出たその格好で逆さまに見える入り口ド
アを眺めながら、腹を膨らませてため息をつく。
「えぇよなぁアイツ…。責任は重大でも基本暇なんやから…」
しばらくそうしていた丸っこい獅子は、やがて通信機のビーッ!という呼び出し音に気付いて体を戻す。
『魂が抜かれた人間を見つけた!この辺りに死神か何かが居るみてぇだぞ!』
スピーカーから流れ出たムンカルの声を耳にするなり、ミカールは腰を浮かせた。
「盗魂者やと!?」
即座にコンソールパネルに指を走らせ始めたミカールは、ムンカルの現在地を把握すると、直ちに周辺の状況を探り始める。
「久々の面倒事やな…。まぁ、ムンカルやナキールなら、並の盗魂者と出くわしたトコでまずやられへんけど…」
そう呟いたミカールは、予想もしていなかった。
このすぐ後も同僚達が、盗魂者ではなく、自分の古い知り合いと遭遇するという事までは…。
その数分後…。
黒い矢が驟雨の如く降り注ぐ中を、灰色の狼は素早く正確な動きで抜け、乾いた大地を疾走して射手へ迫っていた。
正確な操作でマシンを駆り、黒獅子のほぼ真下まで走り込んだナキールは、二丁のリボルバーを頭上に向けて連射する。
「笑止!このような豆鉄砲で…!」
一笑した黒獅子は、手にした弓を下に向け、くるりと回転させる。
その軌道上に残った黒い光に接触するや否や、ナキールが放ったジャンクデータの圧縮弾は、ボシュシュッと音を立てて蒸
発した。
(極めて強力なプロテクトだ。それに…)
データ圧縮弾を再度装填しつつ見上げているナキールの視界に、灰色と黒が飛び込む。
「おらぁっ!」
加速を付けた愛車のシートを踏み台に、地上30メートルの距離まで一気に跳躍したムンカルの左手で、コルトパイソンが
火を噴いた。
距離を詰めつつ立て続けに撃ち込まれた六発の弾丸は、しかしすぐさま横へ向けられた獅子の弓が再び円を描き、跡形もな
く分解される。
(何という技能とキャパシティだ。どれほど強力なプロテクトならば、あんなにも一方的に弾丸を消失させられるのか…)
分析するナキールの視線の先、黒獅子と相対して宙に在るムンカルは、しかし攻撃の手を緩めない。
距離を詰めた発砲に続き、何もない空を逞しい足で蹴り、ほぼ真横に跳躍した。
「ほう…」
アスモデウスの口から感嘆の声が漏れる。再装填を試みずに肉弾戦を挑む鉄色の虎の判断は、弾丸が通用しない強力なプロ
テクトを肌身で味わいながら直接破壊しにかかるという、果断ながらも己の身を顧みない蛮行であった。
だが成功さえすれば、通用しない攻撃で牽制するよりも遙かに効率が良い。全てを託せる、後に続く仲間が居るこの状況な
らば尚の事。
(己が身を矛と成し、突破口を作る…。本部詰めのお行儀の良いボンクラ共にはできぬ真似だ。これはなかなか…)
行動を評価するアスモデウスの前で、まだ消えていない黒いシールドに右手を突っ込んだムンカルは、防護服たるライダー
スーツの袖が燃えるように分解され、消失してゆくのにも構わず、開いていた手を握り込む。
「むっ!?」
アスモデウスが気付いたその時には、シールドを力業でむしり取ったムンカルは、すぐさま飛び退きつつ、その欠片をナキー
ルめがけて放っていた。
「プロテクトの癖とか、確かめてくれナキール!」
「了解」
灰色の燐光でコーティングされたシールドの破片を、狼男が片手で掴むと、アスモデウスは口元を歪めた。
(果断!攻めると見せかけ、その実プロテクトのサンプルを得る事が目的か!この虎、戦い慣れてしておる…!なんとも野蛮
で猛々しく、そして何より生命力に満ち溢れておる…!配達人としてはどうか判らぬが、戦士としては実に優秀!)
興味を覚えたアスモデウスは、宙を踏み締めて身構えている眼前の虎を凝視した。
「我が名はアスモデウス。小童、貴様の名を聞いておこう」
「…ムンカルだ」
低く応じた鉄色の虎に、アスモデウスは弓を体の横に携え、戦いの構えを解いて視線を注ぐ。
「我らが知らぬワールドセーバーよ、貴様はこの世界に満ちる理不尽をどう捉えておる?」
「あん…?」
警戒は解かないまま、訝しげに眉根を寄せたムンカルに、アスモデウスは続けた。
「因果の糸はほつれ、乱れ、傷みきっておる。その原因が何か、考えた事は無いのか?」
「耳を傾けるべきではない、ムンカル」
黙って相手を見つめるムンカルに、地面に立ったナキールが声を飛ばした。
「…解ってらぁ…。で?臭くて黒いのよぉ、あんたはその原因ってのが何なのか、知ってるってのか?」
「無論。それを無くす為に我らはこの地上に身を置いておる。地上に満ちる理不尽を、不条理を、不平等を、そして、我が物
顔ではびこる害悪を取り除く為に…」
ムンカルの耳が、黒獅子の言葉にピクピクと反応した。
理不尽…。不条理…。不平等…。ムンカルが嫌う物事。そして、これからも目の前で起ころうとしている物事。さらには、
今回は黙認せよとも言われている物事…。
ムンカルの中に生じた迷いを、自分の言葉への興味を、アスモデウスは見逃さなかった。
「我らの元へ来い、若虎よ。我らと共に世界を変える為に。真なる平穏を地上にもたらす為に」
黙り込んだムンカルを、ナキールもまた黙して見上げている。
(…これまでそのような素振りは見せなかったが…、転ぶのか?ムンカル。そちらへ転ぶのならば…)
他の者とは毛色が違う配達人…ナキールは、ある密命を帯びている。
ムンカルの選択如何によっては、目前の敵である黒獅子だけではなく、同僚にも牙を剥かなければならない。
冷静に、冷徹に、私情も関係も一切考慮せず、監視対象として行為の判定を行おうとしているナキールの視線には気付かぬ
まま、ムンカルは口を開いた。
「…一応訊いとく。あんたさっき、害悪って言ったな?取り除く害悪ってのは、何だ?」
我が意を得たりと頷いたアスモデウスは、ムンカルの目を真っ直ぐに見つめながら手を下方に向け、伸ばした人差し指で地
上を示す。
「知れた事よ若虎。人間こそが全ての元凶!彼奴らが滅べば地上に平穏が訪れ、安寧は保たれる」
ムンカルの目が大きく見開かれ、その口から「何っ!?」と驚きの声が漏れた。
「正気かてめぇっ!?人間を滅ぼす!?何考えてやがる!」
「正気だ。狂っておるのは、むしろ現在のシステムよ」
言い放つ黒獅子を険しい顔で睨みつけ、ムンカルは囁くような声音を漏らした。
「何でだ…?何で人間が害悪で…、何で滅ぼさなきゃいけねぇんだ…?」
「気付かんのか?若虎よ。聞こえぬか?物言えぬ幾多の者共の怨嗟が!大地の嘆きが!因果の軋みが!人間という害悪の過剰
な搾取により、地上は荒廃の一途を辿っておる。もはや人間共の振る舞いを甘んじて受け入れるだけの余裕など、世界には無
いのだ!」
吠える黒獅子の声を浴びながら、ムンカルは次第に理解して行った。
「鳥の飛べぬ空!魚の泳げぬ海!虫の住めぬ土!獣の歩めぬ大地!誰が作った!?誰が広げた!?人間が生み出す物は、その
ほぼ全てが負の創造物!我らがどうにかせねば、いずれ人間に骨の髄までしゃぶられ、この星は死に絶える!」
かつて出会った堕人達とこの黒獅子の違いは、何もその禍々しい臭いだけではないのだと、虎男は察する。
求める物が違っていた。堕ちた理由が違っていた。
黒獅子はこれまでにムンカルが見てきた多くの堕人達とは決定的に違う。
私利私欲の為に翼印を欠いたのではない。世界へのその想いが、あまりにも誠実で、あまりにも純粋で、あまりにも強過ぎ
るために、堕ちざるをえなかった。
信念と大義。その二つを抱える気高き堕人を前にし、ムンカルはこの時初めて理解した。
システムから弾き出された者達が、一人残らず私利私欲に目が眩んだ悪党な訳ではないという事を。
だが、ムンカルは一定の理解を胸に抱きながらも、黒獅子の考えに賛同できなかった。
「…人間を滅ぼす以外に…、あんたの目的は達成できねぇのか?」
ムンカルは静かに訊ねる。その瞳には一切のぶれが無く、黒獅子の姿を真っ直ぐに捉えていた。
「システムが目指す物は世界の安定だ。あんたの目的と完全に食い違っちまってる訳じゃねぇだろう?」
「システムの手ぬるい対応では、加速してゆく世界の疲弊を止められはせぬ。人間共は元々生まれるべきではないイレギュラー
なのだ。故に、彼奴らのイコンだけが無い」
「…インコ…?」
眉根を寄せたムンカルに、アスモデウスは頷く。
その仕草は一見すると噛み合っているようで、しかし両者の意図するところは違う。
眉をひそめているムンカルは、システム内でもほとんど用いられる事がなくなったイコンという古い言葉を知らなかった。
もっとも、例え念を押して聞かされた重要な事でも、興味が無ければ綺麗サッパリ忘れてしまうムンカルである。聞いた事
があっても覚えているかどうかは別問題なのだが…。
一方、それがまだ一般的に使用されていた頃にシステムから離反したアスモデウスは、もはやその言葉が廃れてしまい、若
い世代には通じ難くなっている事などつゆ知らず、相手も知っている物として話の先を続けている。
「貴様も人間のイコンなど見た事はあるまい?それが、人間共がイレギュラーである何よりの証拠よ」
(人間のインコだと…?どういう意味だ…?インコ…。手乗り?手乗りサイズの何かの隠語か?)
壮絶に聞き間違いながらもかなり真面目に悩んだムンカルは、やがてかぶりを振った。
考えるのが面倒くさくなったのもあるが、ある確信が、これ以上の議論は無意味だと彼に告げている。
「言い分はだいたい判った。…が、そっち側につく気はねぇ」
きっぱりと言ったムンカルは、プロテクトにねじ込んだせいでスーツの袖が無くなり、肘から先の腕が剥き出しになってい
る右手を顔の前に上げ、拳を握った。
「実は俺もイレギュラーでな、…性なんだろうなぁ…、どうしようもねぇ、ろくでもねぇ奴らばっかだって思ってもよ、人間
の肩を持ちたくなっちまうのさ」
自嘲気味に呟いたムンカルは、
「モードシフト、ブラスト限定解禁…!」
そう低く唸ると同時に、右手に灰色の燐光を灯す。
見覚えのあるその光を瞳に映し、アスモデウスはムンカルの顔を凝視した。
「ブラスト現象だと!?貴様、ブラストモード搭載者か!」
アスモデウスの宿敵にして、現在のシステム側最高位…中央管理室長ドビエルのみが宿していたはずの異質な力。それを目
の前の若虎が腕に纏わせている。
驚きを隠せないアスモデウスに、ムンカルは告げる。
「俺ぁ相当変わりモンでな、何せ元人間だ。いっぺん死んで、この姿で生まれ直したのさ」
「何だと!?」
さらりと告げられたムンカルの言葉に、アスモデウスの驚きが増す。
「戯言を…、そんな事がある訳が…」
「実際そうなんだから仕方ねぇ。言ったろ?俺はイレギュラーだってよ」
(…嘘…いや、嘘を言っている様子は無い。そもそもそんな嘘をつく理由が無い。…まさか本当に…?)
しばし黙り込んだアスモデウスは、弓を構え、ムンカルを睨んだ。
その瞳からはムンカルへの興味が失せ、変わりに強烈な殺意と憎悪の光が宿っている。
人間を憎むが故に、認められなかった。
下等な魂がシステムに属する存在へ昇華する事など、あってはならなかった。
でなければ、彼が今まで憎んできた物が、喰ってきた物が、そして滅ぼそうとしている物が、同胞と成り得る可能性を持つ
存在だったという事になってしまう。
アスモデウスの評価は一変し、ムンカルという存在を全否定する。
弓を構えるアスモデウスと、右腕にブラストを纏わせるムンカルを見上げ、ナキールは観察を止めた。
常々ミカールから言われていた事だが、やはり可能性は極めて低いように感じられた。
(ムンカルは、やはり堕ちないか)
胸の内で呟いたナキールは、意識をアスモデウスの挙動に向ける。
狼男の手には、二人のやりとりの間に簡易解析が済んだプロテクトの断片。その一欠片を灰色の手が握り込み、開いた時に
は弾丸に変えている。
それは、対アスモデウス用にアンチプロテクトプログラムを仕込んだデータ圧縮弾であった。
プロテクトの書き換えを行っても、そこには個々の癖が出る。このアンチプロテクトならば、100パーセントとは行かな
いまでも、数割は貫通するはずであった。
サンプルが入手できた事が大きかった。本来ならば手合わせしながら時間をかけてプロテクトの性質を解析するところを、
短時間で解析を終えて即座に応用した弾丸を生み出せた。
射撃タイミングを窺うナキールと、ムンカルの視線が一瞬だけ交錯する。
「行くぜぇっ!」
固めた右拳を脇に引き、ムンカルはフェイントも交えず正面から突っ込む。
「遅い!甘い!手ぬるい!」
距離がないその間合いから、アスモデウスは素早く弓を引いていた。
銃を主武装とするシステムに、伊達や酔狂で弓を手に歯向かってきた訳ではない。黒獅子の腕前は神弓の域にあり、相手が
トリガーを引く間に弓を番えて引き絞り、放つまでやってのける。
黒い三本の矢が同時に放たれたが、内一本はムンカルが振るったブラストを纏う腕で分解され、内一本は首を傾けてぎりぎ
りでかわされている。
残る一本は、ムンカルが胸元に上げた左手、そのリボルバーで弾かれた。
「Ashes to ashes…。食らいやがれっ、スージーQ!」
間合いが詰まった両者の間で、灰色の燐光を纏ったムンカルの右手が唸りを上げた。
ブラストを纏う渾身の右フックは、灰色の燐光を一瞬だけ増大させる。
拳そのものはプロテクトで防げても、それが纏うブラスト現象は障壁を浸食貫通する。軌道上に居ては上半身を持って行か
れかねないと判断したアスモデウスは、仰け反る格好で際どく避けた。
鬣の先が掠め取られそうになるほどに、危険領域ぎりぎりに身を残す…。その最小限の回避行動で、反撃は容易になる。
アスモデウスの手が翻り、弓が刀のように振り下ろされた。
それ自体が鋭利な刃物であるかのように、振り抜いたムンカルの右腕は、弓が薙いだ肘の上からスパッと切断された。
切り口はガラス詰めの断面標本であるかのように綺麗で、骨、血管、筋肉などの断面がはっきりと見て取れるが、血の一滴
も流れ出て来ない。
苦痛に顔を歪めてはいるが、ムンカルの対処は素早く、消耗を食い止めている。
「終わりだ、小童!」
アスモデウスの声に、しかし腕を失ったまま身を捻っているムンカルは、ニヤリと口元を歪めて応じた。
「忘れちゃ困るぜ?あんたの相手は俺一人じゃねぇぞぉっ!」
ドパパパパッと、一繋がりの銃声が響いたのは、アスモデウスの視線が地上に向く直前の事であった。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおぉっ!?」
苦鳴を上げるアスモデウスを、紫煙を吐き出す二丁の銃を真上に向けて翳すナキールが見つめている。
回避から反撃、そこからさらに追撃を狙うアスモデウスの体勢は、主張と立場上存在を認める事のできないムンカルへの敵
愾心の強さゆえに、回避を顧みない物になっていた。
そこへ真下から放たれた十二発の銃弾は、プロテクトに削られながらも貫通し、黒獅子の足裏を、腿を、ふくらはぎを、股
ぐらを、満遍なく叩いたのである。
腕を失ったムンカルは、しかし満足げに目を細めていた。
「…ったく…!憎々しい程、俺の考えを読んでくれるぜ…!」
ナキールが目前の危機に食い付いて射撃タイミングが早まれば、回避された可能性が高い。しかし狼男はムンカルの腕が切
断されてもなお動かず、絶好の機会をじっと待った。
自らを囮として注意を引きつつ、腕一本くれてやるという大盤振る舞いでアスモデウスを引っかけたムンカルは、確かに慣
れていた。
戦いそのものだけでなく、負傷を顧みない、手段を選ばぬ潰し合いに。
傷口からの出血が無い迅速な肉体操作という対処は、あらかじめ腕を斬らせるつもりだったからこそ可能だった。追撃はナ
キールが阻止すると信じて、ムンカルは無茶を試みたのである。
一方で、ムンカルの腕一本の代償としてアスモデウスが負ったのは、真下から股ぐら…それこそ睾丸から肛門に至るまで弾
丸に蹂躙されるという、壮絶な苦痛と恥辱と少なからぬダメージ。
魂だけの存在であろうと、痛い箇所は痛い。肉体がなければ苦痛が無いという訳ではない。
肉体がそもそも魂に合わせて作られているのだから、魂が剥き出しの状態でも、害を与え得る物が股ぐらに飛び込めば、男
である以上最上級の苦痛が約束される。
「どうやら自分は、いつの間にかムンカルと息を合わせるのが上手くなって来たらしい」
しれっと呟いたナキールに憎悪の視線を向けたアスモデウスは、「おのれ小童…!」と怨嗟の声を漏らした。
「へっ!良い格好だぜ黒いの…!」
腕一本失ったムンカルは、しかし覇気の衰え一切見せず、アスモデウスに獰猛な目を向ける。
股間を押さえて前のめりになっている黒獅子は、恥辱と怒りに肩を震わせているが、集中力を欠いて弓を消失させてしまっ
ている。
黒いシールドもそう出せそうになく、プロテクトも強固さを維持できてはいないと踏んだナキールは、弾丸を装填し直した
二丁の銃を頭上に向け、しかし引き金を引く事無く不意に首を巡らせた。
狼男の瞳に映るのは、空間に走るノイズと、その中に佇むずんぐり丸いシルエット。そして、そこから広がる色違いの領域。
切り落とされ、荒れ地に落ちたムンカルの逞しい腕を、両手でそっと静かに抱き上げたレモンイエローの獅子は、
「ムンカル!「発砲許可」や!」
瞬時に直径4キロクラスのダミー空間を形成し、頭上を睨んで声を上げた。
そこそこ長距離の空間跳躍に加え、強引にダミー空間を展開、自分達だけを閉じ込めたミカールの疲労は大きく、一気に吹
き出た汗で白いタンクトップが体に張り付く。
ふぅふぅと荒い息を吐きながら自分を見上げる獅子に、ムンカルはニヤリと口元を歪めて見せた。
「…み…、ミカールだと…!?」
己と同格の相手が出現し、アスモデウスは動揺する。
万全な状態ならいざ知らず、負傷している上に邪魔者が二人も居る。非常に旗色が悪い。
「ちっ!口惜しいが、ここは…」
アスモデウスは天を仰いで咆吼する。
その凄まじい雄叫びでダミー空間の一部にひびが入り、ミカールは目を見張った。
「まずった!やっつけ仕事やったさかい、いつもより脆かった!」
「…さすがに硬い…、もう一発か…!」
呻いたアスモデウスが息を吸い込もうとしたその時、
「させねぇよ」
ドスの利いた声が、彼の耳朶をくすぐった。
空間のひびに向いていた黒獅子の視線が動き、その目が大きく見開かれる。
ミカールの許可を得て、灰色の燐光を全身から発散させ始めたムンカルは、肘の上までしかない腕を前に翳した。
灰色の燐光が失われた腕に集い、本来のシルエットを象って義手となる。そしてその義手の手の平には、クイックリロード
用のマグナムカートリッジ。
「まさか…、貴様も「アレ」が撃てるのか!?」
腕を素早く交差させたムンカルがシリンダーに六発の弾丸を詰め終えるのと、アスモデウスが叫んだのは同時であった。
「お休みの時間だぜ?ブラスティングレイ!」
返答代わりに放たれたのは、万物を破壊する灰色の閃光。
銃口から溢れるなり瞬く間に拡大し、太い柱状の光帯となった鉄色の閃光は、アスモデウスの体を至近距離で飲み込んだ。
背のエンブレムから冷却中の機械のように、あるいは反動を相殺するように、鉄色に輝く光の粒子を放出しているムンカル
の大柄な体躯が、発射の反動で後方へ跳ねる。
暴れる銃身を左腕と義手で押さえつけ、ムンカルは残りのブラスト弾を連続射出する。
「遠慮しねぇで、全部貰っとけ!」
そんな虎の大声をかき消し、灰色の奔流の中から咆吼が上がった。
次いでガラスが砕けるような音が響き、ダミー空間の一角、宙に立つムンカルから見てさらに上部の空に穴が空く。
「ちっ!」
目を細めて見上げたムンカルの瞳に、現実空間への穴を背に、ノイズを纏って出現したアスモデウスの姿が映り込む。
途中で離脱したとはいえ全身へまともに浴びたはずなのに、ブラストの浸食破壊作用が見られない。その事を疑問に思った
ムンカルは、黒獅子の体表からパラパラと粉のような物がこぼれ落ちている事に気付き、目を丸くした。
(ありゃあ脱皮みてぇなもんか?野郎、ブラストを浴びた表面だけ切り離して、破壊の連鎖から逃げたのか!あれだけ撃って
表面しか削れねぇって…、割に合わねぇ!どういう化け物だよコイツは!)
こんな手で逃れられようとは考えた事もなかった繊細かつ高度な芸当に、ムンカルは目を剥いた。
「…その顔…、覚えておくぞ小童…!」
「顔より名前を覚えやがれっ!」
吠えるムンカルは、しかし次のブラストカートリッジを用意しながらも、不用意に撃てない状況にある。
超長射程に加えて地上の因果に縛られた存在でも関係なく吹き飛ばしてしまうブラスティングレイは、下手に外界めがけて
撃つ事ができない。
小窓のような穴が空いただけのこの状態では、外の現実空間の状況がムンカルからは見えないし感知も出来ない。撃ってし
まうのは簡単だが、もしも破壊範囲に航空機でも入り込んでいたなら…。
(くそっ!位置が悪ぃぜ!)
舌打ちするムンカル、そして睨め上げるミカールを順に見た黒獅子は、
「次に会ったなら覚悟しておけ…!その首、矢襖にしてくれる…!」
そう言い残し、ノイズを纏って消え去る。
「負け惜しみか…。堕ちるトコまで堕ちよったなぁ、アスモデウス…。このワシがみすみす逃がしたるとでも思ったか!」
ミカールはそう呟きつつ背を丸め、その身に力を漲らせたが、
「待ちたまえミカール。追撃は自分が」
ナキールにそう声をかけられ、試みかけた除幕を中断する。
「ムンカルが重傷だ。見てやって欲しい」
「…むぅ…!」
唸ったミカールは、両手で胸に抱えている逞しい右腕と、頭上のムンカルを交互に見遣る。
アスモデウスは手傷を負って弱っている。長らく敵対してきた相手を捕らえる、千載一遇の好機であった。
だがナキールの言うとおり、ムンカルは負傷に加えてブラストモードを使用し、消耗も尋常ではない。宙を踏み締め仁王立
ちしている鉄色の虎からは、纏う燐光が今にも消えそうになっている。
「…済まん…、頼む…」
結局ムンカルの安全を取ったミカールは、最優先事項に私情を挟む自分を恥じ、珍しく申し訳なさそうにナキールへ訴えた。
「けど、無理はあかんで?ヤバイ思うたら逃げてええ、アイツはワシらと同じくオーバースペックや」
「加減するつもりは、無い」
案ずるミカールに、狼男はきっぱりと応じた。
「もしや、既にお忘れであろうかミカール殿?自分が何処から来た何者であるかという事を」
口調が変わったナキールを凝視し、パチクリと瞬きしたミカールは、次いで決まり悪そうに苦笑いした。
「せやったな…。任せたで?最古の清掃人!」
「委細承知」
顎を引いて頷いた狼は、ダミー空間が解除されたと同時に愛車のアクセルを全開にした。
砂埃を上げて駆け去る同僚を見下ろしたムンカルは、怪訝そうに首を傾げたが、
「…うっ…!」
低く呻くなり、全身に纏った燐光を消し、ゆっくりと下降し始めた。
臨時の右腕を構成していた燐光も消え去り、ブラストモードが完全解除された虎男は、地面に足裏が接するなり膝を折り、
屈み込んだ。
「ムンカルっ!」
彼の腕を大事そうに抱えたミカールは、丸い体を揺らして大急ぎで駆け寄った。
「無茶しよって…!教えた事あったはずやで?「黒獅子には気ぃつけんとあかん」って…!」
「ああ…、そういやそんな事言われたっけ…。そうか…、アイツがそうだったのか…。半端じゃねぇなぁ、ありゃあ…」
消耗が激しいムンカルの声には張りがない。だが、拾った腕を接合しようとしている心配そうな獅子には、空元気で笑みを
向けた。
「けどよ、目一杯痛ぇ思いはさせてやったぜ?」
「ダァホ…!腕落とされて何言うとんねや!」
「落とされたんじゃねぇ、落とさせてやったんだよ」
「偉そうに何ぬかしとんねやダァホ!格上や、アイツはお前よりずっと格上や!ケンカ売るなら相手選ばんかい!」
「例え格上相手でも、譲れねぇし退けもしねぇ場合ってのがあるだろうが。男にはよ…」
強がるムンカルは、繋げられた腕から流れ込んでくる活力と、接合部を押さえているミカールの手の温もりを感じながら目
を閉じた。
いつもそうだった。自分では上手くやったつもりでも、負傷が多いムンカルは、いつでもミカールに心配をかけてしまう。
自分には馴染みの相手が殆ど居ない。反面、ミカール達には馴染みの相手が多い。
だからこそ、ムンカルは体を張る。ミカールやジブリールに、かつて仲間だった者やその残骸とケンカさせたくないからこ
そ、体を張る。
(いつになったら、こいつにこんな顔させねぇで、上手くやれるようになるんだろうなぁ…)
胸の内でため息をついたムンカルは、心地よい感覚に身を委ね、ミカールに詫びた。
「…悪かったよ…。だから、そんな顔すんな…」
一方、銃を抜いて佇むジブリールは、太い首を巡らせて、ゆっくり周囲を見回していた。
彼の周囲には、赤を纏った無数の人影がひしめいている。
赤いぼろぼろの長衣を纏うその六十を下らぬ数の影は、獣の骸骨。
盗魂者…死神とも呼ばれる、ワールドセーバーの成れの果てである。
「キミは…、盗魂者を使役できるのかい?」
「使役とは、ちょっと違いますわね」
死神の群れの後ろから、白い雌牛はジブリールに応じる。
「ただ、旅の途中で見かけ、異層に閉じ込めておいた盗魂者を解き放っただけです」
「その割には、彼らはオレしか見ていないね。キミには危害を加える意思がないようだ」
北極熊の指摘に、雌牛は微かに笑って頷いた。
「私は、彼らに感知されないように魂の色彩と波長を調節していますので」
「へぇ。それじゃあ本当に味方につけた訳じゃなく…」
「ええ、単に彼らの目に映る獲物は、貴方だけだという事です。…もっとも…」
アシュターは笑みを深くした。
「すぐ近くに人間達が群れていますから、そちらへ行ってしまうかもしれませんが…」
彼女の言うとおり、死神達はアシュターが操っている訳ではない。敵対する存在としてジブリールを獲物だと認識し、特殊
な迷彩技術を使用しているアシュターを認識できていないだけである。
死神達の攻撃対象となるのは、そこにたまたま居合わせた全て。
だが彼女にとっては、死神の動きが制御できない事など問題ではない。人間達に被害が出るのは望むところなのだから。
ジブリールはちらりと視線を飛ばし、難民キャンプを包囲している軍を見遣る。
(あの中には、旅の終わりが近付いている人達も居る…。下手に接近させると盗魂者が「見えて」しまうかもしれない…。あ
まり悩んでもいられないね…)
胸の内で呟いたジブリールは、長い腕を伸ばし、のろのろと包囲の輪を狭めてくる死神達を見回した。
手前側の、頭部が馬の頭骨となっている死神に、純白の毛並みと金色の鬣を持つ馬の快活な笑みが重なる。
その隣の、頭部が犬の頭骨となった死神に、美しいライトブラウンの毛並みが自慢だった細身の雌犬の微笑が重なる。
その後ろの、牛骨の頭部を持った死神に、豪快で面倒見が良くて自信家だった逞しい雄牛の太い笑みが重なる。
そこから少し視線を下げた低い位置、狸の頭骨が頭部となっている死神に、ずんぐりと短身で肥満体だった狸の、人懐っこ
い笑顔が重なる。
「イクタール…、シュミール…、アルハベル…、エルドル…」
ぼそぼそと呟きながら、ジブリールは背中を丸めた。
その広い背中に描かれた真っ白な翼印から、パールホワイトに輝く光の粒子が噴出し始める。
「アリエル…、ミシェラエル…、カマール…、ユベリオル…」
呟き続けるジブリールの、俯けたその顔は、深い悲しみに彩られている。
そんな彼の巨体に、無防備だと感じたらしい死神達が殺到した。
瞬く間に赤いボロを纏った骸骨達に群がられ、北極熊の巨体は赤と白の中に沈む。
(好機!)
間合いを取ってその光景を眺めていたアシュターは、その手を頭上に翳し、広げた手を軽く握り込む。
その、筒状に空いた握り拳の中から、左右へ伸びるように棒が出現した。
白樺の木のような暖かみのある白さを持つその棒は、先端に石がくくりつけられていた。
打製石器。打って欠けさせ形を整え、棒の先端に紐で固定されているそれは、石の穂先である。
黒曜石のような光沢を帯びた黒い石は、内側から光りが滲み出るように、怪しく明滅していた。
全長2メートル程にも及ぶ原始的なデザインの槍を、アシュターは逆手に握って腰を落とし、低い声で唸る。
「アン…ヴェイル!」
深く、きつく、絞るように全身を捻った雌牛の体は、その輝きを強めつつ、背中からバシュッと翼を生やした。
除幕に伴い、コウモリか翼竜のソレを思わせるデザインの白い翼を出現させ、アシュターはその目を鋭い物に変えた。
(ローランの剣の性能は重々承知しています。が、吸収からエネルギー転化という性質には、このプログラム「ポワゾン」は
天敵です)
アシュターが精製した黒い石の穂先は、いわば猛毒であった。
どんな物でも分解吸収してしまうジブリールの固有プログラム「ローランの剣」と接触すれば、吸収性能の高さが災いし、
たちまちの内に使用者を蝕んでしまう。
死神に群がられたジブリールが堪らず宝刀を抜いたならば、その瞬間に足止めもろともに滅ぼす。アシュターの計略はほぼ
ズレが無く進行していた。
投擲姿勢に入ったアシュターは、しかし仕上げの一撃を放るその寸前で、一塊となった死神の中から、何かが聞こえている
事に気付く。
「フルール…、メイヨール…、ジルベール、カダフエル…」
死神達に覆われたジブリールがなおも呟き続けていたのは、残響たる彼らが生じた元の存在…かつての仲間達の名であった。
ジブリールは覚えていた。歪んだ残響となった彼らの「元」が、正常に存在していた頃の姿を、声を、人柄を…。この場に
居る死神達の元となった仲間、全員を…。
「…皆…、ごめん…」
その呟きに次いで、パールホワイトの光が広がった。
内側から膨れあがった白い巨大な翼は、死神達を跳ね飛ばし、耐久力の低い者はそのまま消滅させる。
「相変わらずの化け物ぶりですね…、ザ・プレデター…!」
呻いたアシュターは、翼を広げて立つジブリールに狙いを定める。
次の瞬間、切り札を仕込んだ渾身の一撃が、雌牛の腕から放たれた。