第五話 「死記の配達人」

建物の壁面を走り、民家のブロック塀に乗り、電線の上を駆け抜けるバイクに揺られ、コウキは気分が高揚していた。

常識外れのコースを選択する黒豹と、同じく常識外れの走り方をするその愛車に、走り始めた当初こそ悲鳴を上げていたコ

ウキだが、ほんの十数分で生まれて初めて跨るバイクにすっかり慣れてしまった。いや、慣れるどころか魅了されてしまって

いた。

初めて乗るバイクはコウキにとって、想像していた以上に、そして期待していた以上に素晴らしかった。

黒豹が駆るマシンは、速く、力強く、まるで風にでもなったような気分を味わえた。

アズライルと名乗った黒豹が言うには、大跳躍、壁面や空中、水上走行などは彼女の持つ力によって物理的な法則の一部を

無視しているという話である。

「…だが、あくまでも力を添えているだけで、最高速度や旋回能力などはマシンそのものの性能に依る所が大きい。我々にとっ

て愛車選びは非常に大事なのだ。…とは言っても、選択の際に個々の好みが占める割合もまた大きいがね」

コウキがバイクに興味を持っている事を知ると、アズライルは彼に様々な事を話して聞かせた。

並走するようにずっと付き従う月と共に走る、真夜中のハイウェイ。

夜と朝が混在する、夜明け前後の時間帯の独特な空気。

夕陽と潮風を浴びながら走る、海岸線の潮の香り。

彼女が話してくれた様々な光景は、これまで幾度も夢想してきたコウキの胸を躍らせた。

二人を乗せた黒いマシンは、夜闇をヘッドライトで切り裂きながら、がらがらにすいた二車線道路を疾走してゆく。

「いつまでも走っていられるような、どこまでも続く長い長い道は無いですか?」

背中にしがみつくコウキが発したアバウトな質問にも、アズライルはきちんと答えた。

「世界中何処にでもあるさ。この国ならそうだな…、確か北海道とか呼ばれている場所には、快適な長い道が多い。この辺り

からなら北や南へ向かうハイウェイか。長くて見通しが良く、なかなか気持ち良い道だった。…渋滞さえ無ければな…」

そんな事を話している内に、コウキはやっとそのおかしな現象に気付いた。

猛スピードで疾走するバイクの上で、自分達は普通に会話している。

体を叩き、耳元で唸るはずの夜風が、走行速度に対してやけに弱い。その事を問うと、

「会話するのに不便だろうから、そういう風にしているのだ」

アズライルは説明になっていないそんな答えを返しながら、ブレーキをかけてバイクを停車させる。

「どうしたんです?」

問いかけるコウキに、アズライルは前方を指差す。

「赤信号だろう」

コウキは一瞬キョトンとした後、驚いて声を上げた。

「赤信号だから止まったんですか!?」

「当り前だ。公道の上では交通ルールは守らなければな。当然だろう?」

アズライルがそう答えを返して寄越し、コウキは口をパクパクさせる。

建物の屋根の上を跳び移って回り、電線の上を走っていたアズライルが、信号を気にするとは思ってもみなかったのである。

「…ヘルメットは?…ノーヘルはオッケーなんですか?」

「視えないが、私も君もそれに類するモノを装着している。頭だけでなく体全体にな。それが風を防ぎ、声を伝えている」

黒豹の説明にコウキが首を傾げている間に、信号は青に変わり、黒いマシンが再び咆哮を上げて走り出す。

「この国に来て知った言葉の中に、とても気の利いたモノがある」

アズライルは一度言葉を切ると、息を深く吸い込んでから口を開いた。

「『交通ルール 守るあなたが 守られる』…うん。名言だ…」

「…その言葉が…、気に入ったんですか?」

「ああ、いたく気に入っている」

頷く黒豹の背にしがみ付きながら、コウキは首を傾げ、そして微苦笑を浮かべる。

この黒豹は自分が思っていたほど、理解の外の存在ではないのかもしれない。そう感じて。

コウキはアズライルの事についていろいろと考えた。

何者なのかと尋ねたところで、配達人だとしか答えず、どんな人種なのか?どこから来たのか?そういった質問は「答える

必要の無い質問だ」として返答は得られなかったが、コウキは仮説を立てた。

アズライルは、彼女の言うとおり死神ではないのかもしれないが、それに類する、近い存在なのではないかと。

つまり、天使や悪魔のような、多くの人々が空想の産物と断じている存在なのではないかと。

「…捉えた…」

アズライルの呟きを耳にしたコウキは、彼女の正体について想像を巡らせるのを中断した。

直後、バイクは急加速し、コウキはガクンと首を仰け反らせる。

「ど、どうしたんですか!?」

声を上げ、必死になってしがみ付いて来るコウキに、アズライルは縦長の瞳孔を細め、囁くような声で応じる。

「先ほど回収した、「欠けた死」が呼ばれている…。本来あるべき所へ帰りたがっている…」

獲物を見据える獣の瞳で周囲を見回したアズライルは、行く手の歩道橋に目を止めた。そして急ハンドルを切り、バイクを

無人の歩道に寄せる。

突然荒々しくなった運転に悲鳴を上げるコウキを無視し、縁石の段差を利用して前輪を跳ねさせたアズライルは、マシンを

宙へと跳躍させた。

屋根つきの歩道橋。その屋根の上へ猛獣のように跳び乗ったバイクは、その傾斜を苦もなく駆け上り、加速をつけて屋根の

縁から跳ぶ。

「ちょ、ちょちょちょアズライルさぁああああんっ!?」

バイクが跳んだ先には垂直に切り立つビルのコンクリート壁。このままでは正面から激突する。が、絶叫するコウキとは対

照的に、アズライルは表情一つ変えはしない。

宙を駆けたバイクはビルの壁に猛スピードで迫り、そして激突する事無く、その中に吸い込まれた。

バイクを飲み込んだコンクリートの壁面は、水面のように波紋を浮かべてたゆたい、やがて元通りに戻る。

「へ?な、ななな!?何です今のは!?」

壁を突き抜け、薄いクリーム色のビル内廊下に侵入した直後、コウキは声を上げた。

壁を通過する際に感じた、液体の中に突っ込み、そして抜けたような感触を肌に残したまま。

「壊さずに通り抜けただけだ。それより、ここから先は少々起伏のあるルートを走る。喋るのは勝手だが、舌を噛まないよう

に気をつける事だ」

奇妙な現象を引き起こして壁を通過したバイクと二人は、そのままビルの内部の廊下を駆け抜け始める。

まだ仕事をしていたのだろうスーツ姿のOLが、廊下を疾走するバイクとすれ違うが、彼女は手にした書類が突風に煽られて

もなお、目を上げる事すらしなかった。

その気になっているアズライルの能力によって、バイクと二人の事は完全に認識の外である。

バイクはそのままビルの反対側へと付き抜け、電線を伝って別のビルへと向かうと、再びその壁面に飛び込む。

障害物無視の最短距離移動。アズライルが選択する常識外れな走行ルートについて、必死にしがみつくコウキはそう推測した。

求める相手が近いと感じたコウキは、唇を噛みながら気を引き締める。

肉食獣のようなマシンを駆るアズライルは、自分のウェストに回された手に力が篭った事に気付いたが、何も言わなかった。



「あれだな」

夜の県道を走りながら、アズライルは前を見据えたまま眼を細めた。

その肩越しに前を見たコウキは、遥か前を走る車のテールランプを見据える。

道に他の車は無く、前を行く車と二人を乗せるバイクの間には、遮る物は何も無い。

コウキの目には良く見えないが、アズライルの鋭い視覚は、前方を走る車が、真っ黒なワゴン車だという事を認めていた。

アズライルがアクセルをあけると、黒いマシンは雄々しい咆哮を上げ、標的となったワゴンに追い縋る。が、

「…勘が良いな…。接近を感じ取ったのか…」

呟くアズライルの視線の先で、ワゴンもまた速度を上げていた。

「どういう事です?もしかして、こっちに気付いてる?」

硬い声で尋ねたコウキに、アズライルは小さく頷く。

「私を認識できる君のような例は稀だ。あの連中もこちらをはっきりと認識している訳では無いだろうが、何となく気付いて

いるのだろう。死が自分の元に戻ろうとしている事を」

黒豹はさらに速度を上げつつ、呟くように続ける。

「生きている者にとって、死は必ず持っていなければならないものだ。だが、殆ど誰もが死を忌み嫌う」

真っ黒なワゴン車に迫ったアズライルは、ワゴンの右側に滑り込み、並走しながら運転席を覗き込んだ。

運転手の青年は、不快げに顔を歪ませていた。

何故かは判らないが、先ほど不意に感じた不安が消えない。

正体不明の不安から逃れるように、無意味にアクセルを踏み込む青年。

その、かつて同じ高校に通っていた先輩だった男の顔を、

(キジマ先輩…!)

コウキはアズライルが駆るバイクの後部座席から、ギリリと歯を噛み締めて見つめる。

憎しみと恨みと、怒りと悲しみを宿した瞳で。

「…間違いない、届け先は彼だな。さて、少し離れるか…」

アズライルはそう呟くと減速してワゴンから遠ざかる。

「な、何で離れるんですか!?逃げられちゃうでしょう!」

「近付いてどうなる?飛び移るつもりででもいたのか?」

苛立たしげな声を上げるコウキに、アズライルは冷ややかに応じた。

そして「ぐ…!」と呻いて黙り込んだコウキに、静かに告げる。

「どのみちアレは間も無く自分から止まる。巻き込まれても困るのでな。それに…」

黒豹は目を細め、視線を少し上に向け、行く手の信号機に灯る黄色い光を見据えた。

「赤信号だ」

「え?自分から止まるって…」

聞き返そうとしたコウキは、甲高いスリップ音を耳にしながら目を見開く。

赤になるのも構わず交差点に侵入したワゴンは、左から出て来たバンに接触しかけた。

急ブレーキをかけたバンの鼻先をギリギリで抜けたワゴンは、速度を出したまま急ハンドルを切ったせいでスリップし、長

く尾を引くブレーキ音を上げながら交差点を斜めに横切った。

そして運良く車のなかった対向車線を横切り、交差点の角に建つコンビニの駐車場へ侵入し、看板を掲げる鉄柱に運転席側

から激突する。

衝撃で跳ね返り、左側を下にして横転したワゴンが上げる凄まじい音を耳にしながら、コウキは「うっ!」と声を漏らして

目を閉じた。

殺したいとまで思ったはずなのに、彼は気付けば何故か、ワゴンの乗員達の無事を祈っていた。

「先ほど言っただろう?」

横転しながら駐車場を滑り、奇跡的に他者を巻き込まなかったワゴンが止まると、信号を守ってバイクを止めたアズライル

が口を開いた。

「『交通ルール 守るあなたが 守られる』とな」



コンビニの店員や客が取り囲み、大騒ぎする中で、横転したワゴンの後部座席から二人の男が這い出して来た。

運転していた青年は気を失っているのか、シートベルトでぶら下がったような状態になったまま目を閉じており、運転席か

ら出て来ない。

駐車場に乗り入れられたバイクが人垣の外で止まると、アズライルとコウキはアスファルトの地面に降り立った。

「さて、約束は果たした。品物を渡して貰おう」

アズライルが手を差し出すと、コウキは頷き、ポケットから取り出したシルバーのチェーンをそっと手渡す。

「たぶんですけど、これの事?」

コウキが念の為に尋ねると、アズライルは頷きつつ懐に手を入れ、ヤエから抜き出した葉書の欠片を取り出す。

そして、その紙片を手の平に乗せ、チェーンと共に握り締めた。

握り込まれた手の隙間から、ボシュッという音と共に、黒い煙が流れ出る。

コウキが見つめる前で開かれたその手からは葉書の欠片は消え、代わりにシルバーのチェーンと、一発の50AE弾が乗って

いた。

「「中身」は確かに受け取った。これは返そう」

コウキの手にシルバーのチェーンを握らせたアズライルは、背中側に右手を回した。

腰の後ろに回された手が、角張ったフォルムの大型拳銃を取り出す。

かつて祖父の病室で見た時と同じように、弾頭の黒い弾丸を口に咥え、拳銃からマガジンを抜き取るアズライルを眺めなが

ら、コウキは上着のポケットに手を入れた。

小さな果物ナイフの柄を握り締め、そして視線を動かす。

運転席で宙吊りになっている若者、かつての先輩は、まだ意識が無い。

普段の状態であれば、ひ弱なコウキが正面から突きかかったとして、刺す事ができるかどうか判らない。むしろ、勝ち目は

薄かっただろう。

だが今、コウキにとって千載一遇のチャンスが巡ってきていた。

銃に弾丸を装填するアズライルから静かに離れると、コウキは足早にワゴンに近付く。

(助け出すふりをして刺す…。大丈夫、やれるはずだ…)

じっとりと汗をかいた手で果物ナイフを握り締め、ワゴンの正面に回ったコウキは、苦しげに顔を歪ませ、運転席にしばり

つけられている男の顔を見て、その歩みを止めた。

くもの巣状にひび割れたフロントガラスの向こうで気を失い、無防備な状態になっている、憎かったはずの相手。

頭を打ったのか、額に血の筋がついているその顔を見た途端、

(…なんで…)

コウキの中で、それまでブスブスと燃えていた憎悪が萎んだ。

(なんで…だよ…!)

コウキは唇を噛み締める。憎かったはずの相手、怪我をして意識を失っているその男が、今は憐れに見えた。

「怪我人相手に復讐はできない、か…。優しい事だ」

背後からかけられた声にハッとして、コウキは振り向く。音も無く歩み寄っていたアズライルは、コウキの瞳をじっと見つ

めていた。

「気付いて…いたんですか…?いつから…」

「君が自分を同行させるようにと、私に条件を出した辺りからだ」

静かに黒豹が答えると、コウキは顔を伏せた。

「君は、彼女の復讐を果たし、そして命を絶つつもりだった。違うか?」

アズライルの言葉に、コウキは肩を震わせた。

黒豹は考えた。コウキが自分を認識できる理由。それは彼が自らの生を終わらせる覚悟を決め、生者と死人の挟間に身を置

いているせいなのではないだろうかと。

ヤエの復讐を果たす。そしてヤエの今後の為に、事件の事を知る者は残さない。加害者も、そして自分も。

自らの命を捨てる覚悟を決めたのは、誰かを殺める責任を取る為でもあったが、殺害の動機を黙っていられる自信が無かっ

たからでもある。

加害者を始末し、自分もまた命を絶つ。それが、コウキが決意した復讐の形であった。

「…止めるんですか?」

「実行するのであればそうしなければならなかったが…、今はもうその必要はないな」

俯いたコウキの横で、アズライルはひび割れたガラス越しに拳銃を向け、意識の無い男に向かって口を開く。

「死を、届けに来た」

その宣告と同時に黒豹は躊躇い無く引き金を引き、普通の人間には聞こえない轟音がコンビニの駐車場に響き渡った。

大型拳銃から発射された弾丸は、今にも砕け散りそうなフロントガラスを突き抜け、男の胸に命中し、傷も残さずに消える。

「配達完了…」

そう呟いて腰の後ろのホルスターに拳銃を収めたアズライルは、俯いたまま立ち尽くしているコウキに視線を向ける。

二人の存在と一連の行動は、周囲の人々には認識されておらず、お構い無しに騒ぎが続いている。

「…情けない…。覚悟を決めてきたはずなのに…、先輩の顔を見たら…」

ポロポロと涙を零し、コウキは肩を震わせる。

「ごめん、ヤエ…。君が言ったとおり、僕はやっぱり度胸がないよ…!…あんなに憎かったのに、先輩達を殺せない…!」

「それで良い」

声を震わせ、袖で目を擦るコウキに、アズライルは静かに声をかけた。

「君が自らの死を汚す必要は、どこにもないのだよ」

ヤエだけでなく、他にも何人かを犠牲にして来た男達が背負い込んだ報いの重さを、アズライルは感じ取っていた。

近い内に彼は巡り巡った報いを受け取る。その結果彼らがどのようになるのかも、彼女には視えている。

「…先輩が…、死ぬって、事ですか?僕が何もしなくとも?貴女にはそれが判るんですか?いつ死ぬのかが?」

手を出す必要が無いと聞いたコウキは、キジマが近い内に死ぬのかと黒豹に問うが、アズライルはそっけなく応じた。

「死を見れば判る。が、彼の死の内容については、君に教える必要のない事だ」

「僕がいつ、どんな死に方をするかも…、判るんですか?」

「…さてな…」

怖がっているようでも、興味を持っているようにも見えるコウキの問いに、アズライルは短く応じる。これもまた、答える

べきではない問いだとして。

生を終える時が近い者の事は判る。だが、遥か先の事など彼女にも判らない。

人の行いによって因果は常に生まれ、消滅し、結び付き、そして離れ続けている。

確実な未来など存在せず、それを完全に読み解く事は彼女にも叶わない。

コウキのゆく先は、今はまだアズライルにも視えなかった。

「さぁ、引き上げよう。君は彼女の所に戻って、傍に居てやるべきだろう?…それとも、やはり復讐してゆくのか?」

コウキは一度、横転したワゴンの運転席に目を向け、それから脱出した二人の若い男に目を向け、顔を俯けながら首を横に

振った。

「いえ…。僕がすべき事は、アズライルさんの言うとおり、ヤエについていてやる事かもしれませんから…」

アズライルは小さく頷いてバイクに向かって歩き始め、コウキは最後に一度だけワゴンを振り返った。

「………」

無言のまま復讐を諦め、コウキは踵を返す。そしてワゴンを取巻く人々のざわめきを背中で聞きながら、黒豹の後を追った。

「おっと…、帰る前に…」

黒豹はバイクに跨ると、思い出したように声を漏らして携帯を取り出す。

そして、少し申し訳無さそうに口の端を下げながら呟いた。

「…また借りを作る事になるが…、仕方あるまい…。お願いしてみるか…」



ヤエの病室のドアを開けたコウキは、彼女の両親が椅子に座ったまま眠っている様子を目にし、首を傾げた。

「ああ、気にしないで良いよ。ちょっと眠ってて貰ったんだ」

低く、そして穏やかな声を耳にしたコウキは視線を動かし、そして息を飲んだ。

ヤエのベッドの向こう側、両親が座っているのとは逆側に当たる窓側に、天井に頭がつきそうな巨漢が立っているのを目に

して。

コウキ四人分ほどもボリュームがあるその巨漢は、身長は軽く2メートルを越え、おまけに熊の顔をしていた。

アズライルと同じく、黒革のライダースーツを着込んだ巨漢はかなり太っており、無理矢理腹を押し込んだつなぎの胴回り

は、つつけば弾けそうなほどパンパンに引き伸ばされている。

熊型の顔は白い毛に覆われ、前を大きく開けた胸元からも、毛足の長い暖かな白い被毛が覗いていた。

「ずいぶん早かったのだな?」

コウキの後ろから中を覗いたアズライルは、白熊の姿を認めると、少し驚いたように目を大きくする。

「まぁね。悪いけれど、待たないで先に済ませたよ」

巨漢はアズライルにそう応じると、ベッドを回り込み、入り口で立ち尽くしているコウキの前に立つ。

「へぇ…。本当にオレ達を認識してるんだねぇ…」

口をあんぐりと開け、目をまん丸にして見上げているコウキの顔を見下ろし、白熊は面白がっているように片眉を上げて呟く。

自分が出口を塞いでいる事に気付いたコウキは、慌てて後退して道を譲った。

白熊は廊下に出ながら目を細め、優しげな水色の瞳でコウキを見つめながら「ありがとう」と礼を言う。

「安心して良いよ。彼女は何も覚えていないし、今回の事じゃ妊娠はしない」

白熊はコウキにそう笑いかけると、キョトンとしている彼から視線を外し、アズライルの顔を見下ろした。

白熊に向かってペコリと頭を下げ、アズライルは口を開く。

「手間をかけてしまい、済まなかった…」

「どうって事ないさ。それじゃあアズ、オレは先に出ているからね?」

「ああ。急な呼び出しに応えてくれて、ありがとう」

「ははは!なんのなんの!」

頭を下げたアズライルに、快活に笑いながら軽く片手を上げて応じると、巨漢は二人に背を向け、廊下を歩いて行った。

歩き去るその広い背中を見遣ったコウキは、そこにアズライルのものと同じ、白い翼を象ったエンブレムがある事に気付く。

「あのひとは私の同僚だ。彼も今言ったが、彼女の記憶を部分的に消しに来て貰っていたのだ」

アズライルがそう呟くと、コウキは「えっ!?」と声を上げて振り返る。

「死の届け直しに伴って因果に乱れが生じていた。彼女の記憶はそれに拍車をかける可能性があったので、修正しなければな

らなかったのだ。死の一部を他者に押し付けるなど、本人の意図せぬ偶然とはいえ、本来あってはならない事なのでな」

アズライルは用意していた言葉を並べたが、実際には少々違っていた。

死の一部が他者に移っていた今回の一件で因果に若干の乱れが生じたのは確かだが、本当は、ヤエの記憶まで修正する必要

は特に無かったのである。

同僚に頼んで記憶を消して貰ったのは、彼女なりに考えたアフターケアであった。

「そんな事が…、できるんですか…?」

「可能だ。…もっとも、私には因果や事象等の抹消能力は無いので、今のようにそれができる者に頼まなければならないが…」

そう応じたアズライルに、コウキは戸惑いながらさらに尋ねる。

「僕の記憶は、消さなくて良いんですか?」

「最初は考えていたが、どうやらその必要は無いようだ。因果の乱れを感じない。おそらく、君がこの件に関わる事は必然だっ

たのだろうな…。奇妙な縁だ」

意味が良く判らず、首を傾げたコウキだったが、ふとある事を思い出して、さらに問いを重ねた。

「死は、チケットみたいな物だって言いましたよね?あれはどういう意味だったんですか?」

「死には、その命が歩んだ道、行いが記録される。その内容により、次にゆく先が決まるのだよ。重要なのは長さではなく、

内容の方だ。全ての生き物は、死に自分の歩んだ道を記し続ける…。そして、いつかその生を終えて、死に記された内容に従っ

て次の旅へと出る…」

「次の行き先?次の旅?」

「どんな国…、あるいはどんな世界で、どのような存在として旅をするのか…。…まぁ、私の管轄外の事だし、今まだ旅路の

途中である君にとってもあまり関係の無い事だ」

アズライルの言葉を聞いて首を傾げたコウキは、不意にある事を思い出し、再び質問した。

「あの、僕のおじいちゃ…祖父は?祖父も死を何処かに落としてしまうか、誰かに渡すかしてしまっていたんですか?」

アズライルはコウキの顔を見て、それから少し目を大きくした。

「…そう言えば…、以前君と会ったのもこの病院内での事だったな…。つくづく奇妙な縁だ…」

周囲を見回しながら呟くと、アズライルはコウキに視線を戻す。

「君の祖父は、この病院に搬送された際に、救急車両の中に死を落として来てしまっていたのだ。ごく稀にだが、そういう風

に死を何処かに落とし、死期が狂う場合がある。実は、私の仕事の多くはそういったケースへの対応で、今回のようなケース

は稀なのだ」

その言葉を反芻し、納得したコウキは、もう一つ気になっていた事を尋ねた。

「祖父は、貴女が銃を向けた時に何か言っていたように覚えているんですが…、何を言っていたか、判りますか?」

アズライルは記憶を手繰るようにしばしの間目を細め、それから口を開く。

「あの時は…、「やっと迎えに来てくれたな、キミエ」と…。確か、先立った奥方の名だったかな?」

コウキは目を少し大きくしてから、微笑みを浮かべた。「ああ、そうか…」と、納得すると同時に、黒豹の顔が何故か滲ん

で見えた。

腕を上げ、袖で目を擦ったコウキを眺め、アズライルは笑みを浮かべた。

黒豹が初めて見せたその笑みは、実に優しげで、慈愛に満ちており、コウキは思わず息をするのも忘れて見入る。

「君は君で、自分の旅路を精一杯歩め。時に躓き、時に転び、時に迷う事もあるかもしれない。それでもたくさん楽しみ、た

くさん寄り道して、それから次の旅へと出れば良い。他者を殺し、自分を殺す覚悟が一度はできた君だ。最後まで歩き抜くの

は、そう難しい事ではあるまい」

コウキは戸惑ったように黒豹の顔を見つめ、それからおずおずと口を開いた。

「…買い被りですよ…。結局僕はできなかった…、ハンパ者です…。クラスでも、ゴーストなんてあだ名がつけられてるし…」

「ゴースト?死人だと?」

「あ〜…いや…、空気みたいなヤツっていう事で…」

コウキの言葉を聞いたアズライルは、面白がっているように笑みを浮かべ、頷いた。

「なるほど。君はクラスで、無くてはならない存在なのだな」

「へ?」

キョトンとしたコウキの前で、アズライルは笑みを浮かべながらウンウン頷く。

「空気は生きて行く上でかかせないものだからな。なるほど、上手い事を言う友人達だ」

ポカンと口をあけたコウキは、思わず小さく吹き出した。

アズライルの勘違いが、これまでに聞いたどんな冗談よりも面白く、そしてどんな励ましの言葉よりも優しいものだったから。

「変な事を言ったかな?」

「あ、いえ、努力してみます」

そう応じて笑いを収めたコウキは、アズライルの言葉を噛み締め、それからおずおずと尋ねた。

「…あの…。死を配達するって…、辛くないですか?」

アズライルは、少し哀しげに尋ねてきたコウキの瞳を見つめる。

「死が大事な物だっていう事は判りました。…でも、ほとんど皆が死にたくないって思ってるはずです。…届けて歩くのは、

辛くないですか?」

一体彼女はこれまでにどれほど死を届けて、死の中身を覗いて来たのだろう?そう考えてしまったら、コウキは尋ねずには

いられなかった。

「辛いな」

答えて貰えないかとも思ったが、思いもよらずアズライルが素直に答えたので、コウキは少し驚き、次いで「やっぱり…」

と哀しくなる。

「…だが、辛いと思える者こそ、真にこの仕事に向いているのだと、以前同僚が言っていた。…最初は意味が判らなかったが、

今では私もそう思っている。…まぁ、対象に情をかけ過ぎてもいけないのだがね」

アズライルは微苦笑を浮かべると、コウキの脇を歩き抜けた。

「断っておくが、今回の件は他言無用だ。私は困らないが、口にすれば君が正気を疑われるぞ?」

「え?あ…、はい。誰にも言いません。…って、もう行ってしまうんですか?」

立ち去ろうとするアズライルの背に、コウキは声をかけた。が、黒豹は歩みを止めぬまま、半面だけ振り返る。

「夕食の約束がある。さっきの同僚が外で待っているのでな。では、元気でな」

顔を前に戻したアズライルに、コウキはなおも声をかけた。

「あの…!また、会えますか!?」

アズライルは足を止めると、再びコウキを振り返った。

「死の断片に触れた影響はそろそろ消える。また会ったとして、私がそうとは君も気付くまい。…あるいは、君が死を手放し

てしまった場合は、また会う事になるかもしれないが…、そうならない事を祈っているよ」

黒豹は目を細めて微笑むと、顔を前に向けて軽く右手を上げ、コウキに別れを告げた。

「君の旅が実り多き、良き物である事を…」

その言葉を最後に、アズライルはコウキの認識から消えた。

「…あ…。アズライルさん…?」

目を凝らしても、周囲を見回しても、廊下の端まで走っても、今のコウキはもう、あの黒豹が何処に居るのか判らなくなっ

ていた。

辿り着いた廊下の端、階下へ続く階段を見下ろしたコウキは、

「…ありがとう…ございました…」

深々と頭を下げ、呟いた。

そこに居るのか居ないのかも判らない、自分とヤエを救ってくれた恩人に、心からの感謝を込めて。



翌朝、目覚めたヤエは自分が何故病院に居るのか、その前夜に何があったのかも全く覚えておらず、しきりに首を傾げていた。

両親にこっぴどく叱られたものの、自分が何故あんな真似をしたのかも判らなくなっているヤエは、謝りながらも釈然とし

ない様子であった。

そんな幼馴染の姿を確認したコウキは、その日も学校を休み、ヤエに付き添って一日を過ごした。

アズライルから返されたシルバーのチェーンは、全て自分の心の中にしまっておくという意思の現れとして、その日の夕刻

に河へ投げ捨てた。

ヤエが事件にあった川原から、アズライルが駆け抜けた川面へと。

そして、三年の歳月が流れる。



「おっはよぉ!」

「おはよう、ヤエ」

ようやくボーイッシュな印象が薄まり、大人の色香を漂わせ始めた幼馴染に、バイクを磨いていたコウキは笑みを返す。

垣根越しに庭を覗き込んだヤエは、日焼けした幼馴染が逞しい腕でバイクを磨いている様子を眺め、苦笑を浮かべた。

「相変わらず大事にしてるのねぇ。ちょっと妬けるわ」

かつてのひ弱で頼りない雰囲気が消え失せ、スーパースポーツタイプの愛車が良く似合う逞しい青年になったコウキは、ヤ

エの言葉に思わず吹き出した。

あの事件の後、コウキは両親を説得し、バイクの免許を取った。

それまで通りに勉強をして成績を維持する傍ら体を鍛え、アルバイトをし、大学に入ってからも努力を続け、ローンを組ん

で念願の愛車を手に入れた。

選んだのは、生産年こそ違うものの、あの晩黒豹に乗せて貰ったものと同じバイクである。

空気のような存在。

アズライルが勘違いして述べた感想は、しかし何がどう影響を与え合うか判らないもので、あれからのコウキの心の支えに

なっていた。

押し付けがましくなくそこに居て、それとなく誰かの力になれるような存在。

控え目な性格はそのままに、コウキは皆の中に溶け込みながら、それとなく親切をやいてやれる青年に成長した。

そして今は、両親の期待に応えるという目的だけではなく、自らそうと望んで、教師を目指して勉強している。

勿論、アズライルとの約束は守り、誰にもあの夜の事を話しはしない。これまでも、そしてこれからも。

「終わったら少し川沿いを流してくるけれど、ヤエも行くかい?」

「もっち行く行く!」

満面の笑みを返した恋人に、コウキは日焼けした顔に笑みを浮かべて頷き返した。