第五十話「イコン」(後編)

一度は跳ね飛ばされながらも再び掴みかかって行く死神や、発砲された死神の弾丸が、ジブリールに触れるや否や細やかな

白い粒子と化してパッと散る。

微細な粒子に分解されたそれらは、常識はずれのキャパシティを誇る北極熊の体に、速やかに吸引されていった。

そしてそれらは直ちに彼のエネルギーに転化、除幕状態の維持に使用される。

ジブリールの固有プログラム、ローランの剣の発動…。

狙っていたタイミングが訪れ、ここぞとばかりにアシュターが投擲した槍の先端で、猛毒のプログラムを仕込まれた穂先が

煌く。

黒く滲み出す光を撒き散らしながら、アシュターが投擲した槍は一直線にジブリールめがけて突き進んだ。

音の数倍にも達する速度で飛翔する槍は、進路上にあった死神の体を、その体に反動を与える事なく貫通した。

丁度正中線に命中し、胸のすぐ下の高さで背骨を砕かれた死神の体は、支えを失った上体が落下する前に、その骨格だけの

身を黒に染められる。

その直後、音より速い槍が飛び抜けるか否かの内に、槍に仕込まれたプログラムに蝕まれた死神の体は、黒い塵となって霧

散する。

ポワゾン。それはかつて、技術開発室に所属していた頃にアシュターが理論だけ完成させ、しかし不必要であった事から封

印していたプログラムである。

堕人も死神もまだ存在していなかった当時、システム側が武力を行使すべき相手はおらず、強力過ぎる殺傷手段などは、開

発できても無用の長物だったのである。

しかし、リーズンを見つけた彼女がシステムの在り方に疑問を抱き、アスモデウスと共に自ら翼印を焼き潰し、地上に舞い

降りたその時から、このポワゾンは再研究され、磨き上げられてきた。

そして、それから永い時が流れ去った今、彼女の独自研究によってポワゾンは完成している。

地上の因果に縛られない者達と人間にのみ作用し、他の地上のいかなる生物、物質にも作用を及ぼさずに貫通する、究極の

限定毒素として。

致命的な猛毒が仕込まれた槍が迫るその時、ジブリールは死神達の猛攻に晒されていた。

長時間異層に閉じ込められ、飢えと乾きが極限に達している彼らは、ジブリールの強靱な魂に惹かれ、実力差も顧みずに掴

みかかる。

その様子は、砂漠を彷徨う者が水を求める様にも、闇夜に舞う虫が灯りにたかる様にも似ていた。

しかし、記録に残る中では前代未聞の規模で死神達に取り囲まれながら、ジブリールの表情には焦りは無い。ただただ悲し

みが暗い陰を落としているばかりであった。

その目には、弾丸以上の速度で飛翔し、自分の胸めがけて突き進む槍も映っている。

(吸収範囲に入る…。仕留めた!)

雌牛が命中を確信したその時、棒立ちだったジブリールの手がさっと動いた。

いかにも鈍重そうな肥満体の北極熊が見せた神速の動きと、予想外の光景に、アシュターは目を見張る。

ポワゾンを仕込んだ槍の穂先は、ジブリールのたるんだ胸の数センチ前で静止していた。

穂先のすぐ下、紐が巻かれた柄を、白く大きく分厚い手がしっかりと掴み止めている。

「これは…、自壊作用のあるウイルスの一種かい?」

音を超える速度で投擲された槍を素手で掴み止めるという、常識外れの芸当をいとも簡単にこなし、珍しい光を放つ槍の穂

先をしげしげと見つめるジブリール。

しかし、アシュターはその他の事にこそ驚いていた。

触れれば問答無用で吸収してしまうはずのローランの剣。それを発動しながら、ジブリールが掴み止めた槍だけは、死神達

の弾丸が分解吸収されている今も、吸い込まれずにあり続けている。

「…そんな…!?何故吸収されないのです…!?」

驚くアシュターに、ジブリールはかぶりを振って応じる。

「嫌な感じがしたからね、右腕だけプログラムを解除して、吸収は見合わせたんだ」

部分的にプログラムオンオフの切り替えができるなどとは夢にも思って居なかった雌牛は、この返答に絶句した。

もっと強く注意を他に引きつけられるならばともかく、死神の群れにすらビクともしないこの北極熊に、不意打ちでポワゾ

ンを注入する事は不可能。

勝算が極めて低くなった事を、アシュターは驚愕と共に確信した。

槍を吸収せずに分解消失させ、大きな翼を広げたジブリールは、哀しげな表情のまま足を踏み出す。

行く手を阻むように掴みかかった死神は、頭を鷲掴みにされてさらさらと崩れ落ち、射撃を試みた死神は、吸収した力を転

化して作られた超高密度データ圧縮弾を打ち返されて滅びる。

無人の野を行くが如く。決して速くはないジブリールの歩みは、死神が束になっても止められなかった。

薄ら寒くなるような、圧倒的性能差。同じオーバースペックでこうも違うものなのかと、アシュターは愕然とする。

そもそも、ジブリールは闘争…特に「攻め」に重点を置いた存在ではない。あくまでも「守り」に特化した存在なのである。

一切の戦闘技術を持たず、学ばず、会得せず、しかし死神や堕人を圧倒できるのは、その甚だしいまでに常識から逸脱した

個体性能の賜。

故に、その戦い方は洗練されておらず、今もなお滅ぼされ続けている死神達は、圧倒性能差による力押しで葬られている。

歩む速度を一切変えず、死神を無に還し、かき分け進むジブリールは、まるで己自身が苦痛を感じているかのように、辛そ

うな顔で口を開く。

「大人しく捕まってくれないかな?イシュタル…。オレは、友達を傷つけたくない…」

(この期に及んで、まだ我らを友達と言いますか…)

呆れと感心の混じった思いを抱き、昔の自分達の関係に思いを馳せかけたアシュターは、しかし激しくかぶりを振って気を

引き締めた。

まだシステム側に在席していた頃は、できるだけ意見をすり合わせた。可能な限り折り合いをつけようともした。

それでもなお、互いの意見は全く寄らず、堕ちてでも信念を貫く以外に術はなかった彼女達である。胸に抱いているのは、

説得に応じて降る程度の生半可な覚悟ではない。

「ジブリール…。貴方は優しい。けれど優しいだけでは救えない事もあるのです。優しいだけでは取りこぼしてしまう事もあ

るのです。判っているのでしょう?リーズンを…アズライルを失った貴方なら…、いえ、貴方だからこそ…」

アシュターは新たな槍を生み出す。その穂先が宿すのは、今度はポワゾンではなく、プログラム実行遅延作用のあるウイル

ス。ローランの剣の吸収速度を少しでも遅らせて、他の攻撃を有効にするための選択である。

投降するつもりが全く無いかつての友を、北極熊は青く澄んだ哀しげな目で見つめる。

「手荒な真似はしたくないんだ…。また話し合ってみよう?オレ達はまだ歩み寄れるはず…」

ジブリールの言葉が途切れ、アシュターは弾かれたように振り向く。

キャンプを挟んだ反対側で、ダミー空間が展開される気配があった。

「君自ら出たんだね、ミカール…」

「アスモデウス…!」

二人が同時に声を漏らしたその直後、空間が揺さぶられた。

遠く遠く、この層ではない世界から、くぐもった獅子の咆哮が漏れ聞こえて来る。

それが自らのパートナーの声である事に、アシュターは即座に気付く。

張られたばかりのダミー空間からアスモデウスが脱出しようとしている…。それはつまり、彼が劣勢に追い込まれている事

を意味していた。

「直ちに参りますっ!」

翼竜の如き形状の白い翼を広げ、アシュターは地を蹴って舞い上がる。

極度の肥満体であるジブリールは当然重いが、除幕したその翼はただ大きいだけでなく、他の追従を許さぬ高性能を誇る。

強固な盾としての防御能力だけでなく、その飛行能力も群を抜いて高い。

アシュターがいかに肉体に縛られない魂だけの存在であろうと、追いついて捕らえるのは難しい事ではなかった。

だが、旧友を止めるべく自らも身を屈めたジブリールは、飛翔直前に思いとどまった。

自分へわらわらと詰めかけていた死神達の内、数体が、ようやく現状を把握したのか、食い応えのある大物…ジブリールで

はなく、食い放題の小物…難民や包囲軍として群れている人間達の気配へ興味を向け始めていた。

「…さすがに放置はできないね…」

優先すべきは無力な人間達の保護。即座に考えを固めて追跡を断念したジブリールは、アシュターが飛び去る途中で空間跳

躍した事を確認すると、ひとまず自分から最も遠い位置に居る死神の背へ銃口を向けた。が、

「!?」

トリガーを引くその直前に、大きく目を見開く。

狙った死神の視線の先には、疾走してくるサイドカー付きのバイク。

アシュターに注意を傾けていたせいで接近を感知するのが遅れた事もあるが、ジブリールは他の異常さに気を取られている。

(どうして人間が…!?この辺りの因果は読んだ。あと三分以上は誰もこの付近を通らないはずだったのに…!)

もしや因果の糸を確かめ損ねたのかと訝るジブリールの目が、さらに大きく見開かれてまん丸になる。

「おーい!どこの難民だ!?これ以上は進むな!イスラエル軍がキャンプを包囲中だぞ!合流はできない!」

あろう事か、バイクを駆る若い兵士は、死神の姿を認識していた。しかも難民と勘違いしている。

(しまった!よく見ればあの若い兵士、もうじき旅の終わりが…!そのせいで認識者の素養が顕在化しているのか、盗魂者を

認識できている!)

予想外にさらに予想外が重ねられたような、希有なケースを目の当たりにし、ジブリールは珍しく慌てた。

「仕方がないね…。姿を見られる事にはなるけれど、盗魂者を排除した後、彼の記憶を消そう」

もうじき旅が終わる人間とはいえ、それより早く死神に喰われては因果が乱れ、その行く先も変わる。

魂を食われての最期は、旅を終えるのとは根本的に違う。転生のサイクルからも外れた、完全な消滅を意味するのである。

北極熊はぐっと身を屈めると、その大きな翼を水平に広げて力を注ぎ、発光を強めた。

「ごめん皆…。安らかに…」

囁くような詫びの言葉が終わるか否かの内に、ジブリールの巨体は爆発的な速度で飛び立ち、地面すれすれを前方へ飛行し

始める。

その光の翼に触れた死神達を瞬時に分解消滅させながら。



(…何だ?あの難民…、軍用バイクだと気付いていないのか?)

ゴーグル下で形の良い眉を訝しげに潜めたライザーは、接近しながら違和感を強めた。

難民と思っていたその赤いボロを纏った者は、両腕を覆う袖が異様に長い。だが、違和感の正体は、その奇妙でアンバラン

スなフォルムに抱いた物だけではなかった。

(何だろう?どうにも嫌な感じだな…。関わりたくないというか、近寄りたくないというか…)

相手が発する禍々しい気配と危険性に、本能レベルで漠然と気付き始めたライザーは、その背後で瞬いた光を目にし、マシ

ンに急制動をかけた。

赤いボロを纏う一団の向こうで白い光が瞬き、瞳に映り込んだせいで。

「…何だあれは?…美しい光…」

行く手から放射されたソレに見とれながら我知らず呟いたライザーの体が、パールホワイトの光で明るく照らされる。

大きく見開いた目に映る白い光は、音も無く、瞬く間に拡大した。

実際には拡大したのではなく接近したのだが、ライザーにはそう認識する暇も無い。

その気になったジブリールの飛行速度は、例えその姿が認識できていたとしても、人間の目でおいそれと捕捉できるような

速さではないのだから。

それでも、自分の居る方向へ飛来するその白を、ライザーの優れた視覚はかろうじて捉えた。

光の中におぼろげながら見える輪郭。自分が目にしたそれが何なのかと、じっくり考察する前に、

(砲撃か!)

リアリストのライザーはそう思い、すぐさま自分の考えに納得してしまう。

その真横すれすれを、片方の翼を上げる形で通過しながら、ジブリールは小型拳銃をライザーのこめかみに当てていた。

そして、すれ違いざまでトリガーを引こうとしたその刹那、ジブリールの目が大きく見開かれる。

(…この香りは…!?)

一瞬の戸惑いと郷愁の念に次いで訪れたのは、確信。

永き時を歩み続け、ひたすら捜し求めたソレが、手の届く所にある…。ジブリールはトリガーを引くのも忘れて兵士の脇を

飛び過ぎ、巨大な発光物体とすれ違ったライザーは弾かれたように振り向く。

(何だ?ロケット砲の一種か!?)

あまりにも速過ぎてしっかり見る事ができなかったライザーには、すれ違う瞬間のジブリールの巨体を、黒を纏う光の塊と

しか確認できていない。

だが、宙で反転して翼を広げ、急停止した瞬間は、その姿を確認できた。

黒い革のライダースーツでその身を覆う、でっぷりと肥えた巨漢…。

それも、北極熊の顔をし、背中に翼を生やすという、奇っ怪極まりない姿。

(…幻…だな、蜃気楼だ。うん。黒い繋ぎを着た太った大男、しかも妙な被り物をしている幻)

しっかり認識しながらもリアリストのライザーがしつこく否定したその瞬間、ジブリールの巨躯は再び高速移動に突入する。

衝撃波を撒き散らさないよう、細心の注意で音と波動を打ち消しながらライザーを飛び越えたジブリールは、残っていた死

神目掛けて鋭角に突っ込んで行った。

(見つけた…。見つけた…。見つけた…!やっと見つけた!)

ふとした弾みに状況を忘れてしまいそうな興奮の中、死神達のほぼ中央に着地し、仁王立ちになったジブリールは胸の前で

腕を交差させ、全身に力を漲らせつつ背を丸めた。その直後、大きな翼は爆発的な勢いで拡大する。

翼を肥大化させたジブリールは、その場でくるりと回転した。

同時に振るわれた翼の回転半径は、回りながらも伸びて200メートルにも達している。

その場に居合わせた死神全ては、パールホワイトの柔らかな光に撫でられて崩れ去り、細かな粒子となって翼に吸い込まれ

てゆく。

その幻想的な光景を遠目に眺め、ライザーは呆けたような表情で呟いた。

「…幻…か…?本当に…」

立て続けに生じた奇妙な光景を前に、さすがに目の錯覚というだけでは説明のつかなくなった若き兵士は、何度も瞬きしな

がら唸る。

例えこれが全て幻覚だとしても、目か脳がどうにかなってしまった可能性も否めない。

少し俯いて目頭を押さえ、眉間を揉んでみたライザーは、一つ頷いてから目を開け、顔を上げ、

「やあ、こんにちは!」

目を真ん丸に見開き、いつの間にか目の前に立っていて、快活に挨拶してきた相手を凝視する。

北極熊の顔をした、極度の肥満体の、見上げるような巨漢。

そんな異様な存在を瞳に映しながら、ライザーは反射的に拳銃を引き抜いた。が、

「………う…?」

どういう訳か、相手の胸の中央へ向けた拳銃のトリガーが、どうしても引けなかった。

指が動かない訳ではない。自由が利かない訳ではない。

だが、咄嗟に銃を向けてしまったものの、目の前の存在に危害を加える真似は避けなければならないと、本能よりもなお深

い部分が、ライザーに訴えている。

銃を向けておく事すら堪らなくなり、ライザーは拳銃を握った両腕を斜め下に向けた。

「…貴方は…、一体…?」

問いかける若い兵士の前で、既に除幕を解除しているジブリールは、目を閉じてスンスンと鼻を鳴らし、ほのかに香る懐か

しい匂いを確認する。

(…この気配…、希薄だけれど間違いない…)

「あ、あの…」

(やっと…、やっと見つけた…)

「もし?あの…」

(どれほど彷徨っただろう?ようやく…、ようやく掴んだ…)

「もしもしっ!?」

ライザーの声が大きくなり、ジブリールはハッと我に返った。

身を乗り出して鼻が触れる寸前まで顔を近付け、ライザーの髪が吸引されるほど匂いを吸い込んでいたジブリールは、身を

引いてコホンと小さく咳払いする。

「これは失礼を…」

一方でライザーは、袖を顔の前に持って行き、眉根を寄せながらスンスンと匂いを嗅ぐ。

(何だ?臭っているのか?そんな事は…)

気にしている様子を見せたライザーは、しかしすぐさま我に返り、目の前の巨漢へ注意を戻す。

にこやかに顔を綻ばせている北極熊は、異様な風体こそしているが、敵意や悪意は持っていないように思えた。

過度に恐れる必要は無さそうだが、しかしこのような正体不明の異形と不用意に接して良いはずもない。それなのにライザー

は、考えとは裏腹に全く警戒心を抱けなかった。

(何者なのだろうか?この大男は…。着ぐるみ?それにしてはやけにリアルな…)

極めて大柄な体躯に威圧感は無く、作り物とは思えないほど精巧な異形の顔には穏やかな表情。敵対する何かと判断するに

は、理屈を通り越して本能的な抵抗があった。

何故だかはライザー自身も解らなかったが、目の前の北極熊は、敵味方で判断できるような存在ではなく、第三者という立

場すら超越しているように感じられた。

(そう、人間の価値観や社会の原理から離れた、より高い所に立っているような…、そんな世俗との繋がりが希薄な感じが…)

「自己紹介がまだだったね。オレはジブリール。君は?」

にこやかに微笑みながら、低く落ち着いた声で訊ねて来た北極熊に、ライザーは我に返って黙考を中断し、背筋を伸ばして

名乗り返す。

神の身ならぬ若き兵士は、当然気付いていなかった。

難民キャンプの少女との出会い…、そしてこの不思議な巨漢との邂逅…、その二つの巡り会いが、自分に何をもたらすのか

という事までは。

ライザーの人生における最後の数日は、指折り数える段階に入った。

そしてその人生における最後の奇跡は、この日から始まっていた。



白い腕がきりきりと回転し、舞い踊る砂塵の向こうに消えた。

顔を蒼白にしたアシュターがよろよろと二歩後退し、肘のすぐ先からすっぱりと切断されてしまった左手を見つめる。

「アシュター!」

吼えるアスモデウスは、しかしすぐさま気配を察知し、お辞儀するような格好で素早く頭を下げた。

その後頭部で、鬣が一房切り取られ、風にさらわれてゆく。

頭を下げたアスモデウスを飛び越した青い影は、しかしその姿をさらしたのも一瞬の事、着地の刹那に残像だけを置き去り

に、再度見えなくなる。

「うかつだった…!配達人として見覚えもなく、さして力があるようにも見えなかったが…、まさかこの男が「こうだった」

とは…!」

「貴方ですら気付けないのも道理ですわ…。一際厚いヴェールを被り、配達人に成りすましていたのですもの…」

瞬時に腕を再生させつつ、アシュターは呻く。

「ナンバーゼロの清掃人…!話には聞いていたが、よもや地上に浮き出ておったとは…!」

苦々しげに呟いた黒獅子の手が、目にも止まらぬ速さで矢を連射する。

機銃の掃射にも等しい速度で放射状に放たれた矢は、しかし高速で横へ疾走する狼を捉えられない。

駆けるその後ろに矢を次々と射込まれながら、青を纏った狼男は、両手の得物の一方…右手に握った草刈鎌を、身を捻りつ

つぐっと引いた。

直後、大気を抉り抜く勢いで捻った上体から、高速回転する鎌が放たれる。

矢と同等の速度で飛んだ鎌は、アスモデウスの弓の上端に接触し、先端を切り飛ばす。

そして飛び過ぎて行った鎌の行く先には、丁度回り込んでいた狼の姿。

投げた鎌を自分でキャッチするという神速の動きを見せる狼に、アスモデウスは驚愕を禁じえない。

除幕し、仮の姿を捨てた狼…。額にゼロの刻印を浮き上がらせ、最古の清掃人スィフィルとしての姿を取り戻したナキール

の戦闘能力は、通常の状態のアスモデウスとほぼ互角のレベル。手負いの黒獅子と、消耗に加えて負傷したアシュターでは、

二人がかりでも手に余った。

空間跳躍したアスモデウスを追い、アシュターとの合流を見届けてもなお、ナキールは怯まなかった。

アスモデウスはブラストモードのムンカルから手痛い攻撃を受け、まともな戦闘ができないほど痛めつけられている。上手

く立ち回れば、二対一の勝負でも、片方を捕縛か消滅に至らせる事は十分に可能だと判断したのである。

そして実際に、スィフィルに戻った狼男は、アスモデウスを庇うアシュターを翻弄し、簡単に腕を斬り飛ばしてのけた。

単純な力や技巧比べであれば遅れは取らないのだろうが、青を纏う狼の速さは肉体を持たない二人と比べてもなお上を行く。

捉える事が容易ではない上に、決して深追いしようとせずに攻撃と離脱を繰り返すため、捕まえる隙が無い。

おまけに、アシュターとアスモデウスは、ミカールやジブリールの参戦を懸念しており、戦闘だけに意識を集中できない。

その精神的な隙を突いて、スィフィルは二人のほぼ中央に駆け込んだ。

「またアレが来るぞ!」

「はい!」

申し合わせたように真上へ大きく跳んだ二人の足元で、灰色の円が広がった。

両手に握った鎌を一回転しながら振るったスィフィルを中心に、空間の断層が直径200メートル程まで一瞬で拡大、そし

て即座に消える。

先にジブリールが別の場所で披露した物にも似た、鎌によって断ち割られた空間に生じたそれは、冥牢への強制転移ゲート

である。ただし、規格外に巨大ではあったが。

アスモデウスやアシュターのレベルならば、余力さえあれば脱出も可能なのだが、冥牢に落とされずともゲートに囚われれ

ば動きが止まる。この神速の狼相手に一瞬でも無防備になれば、瞬時になます斬りにされてしまうのは目に見えていた。

しかも、まかり間違って冥牢に落とされてしまえば、現在のマリクであるオーバースペック、境界破りのイスラフィルと、

彼女に率いられた19名のザバーニーヤによって、袋叩きから捕縛という有り難くないフルコースを味わわされてしまう。

断層が消えた中心で、宙にある二人を見上げたスィフィルは、胸の内で呟いた。

(誤算であった。よもや彼らの咎がこれほどまでに軽いとは…)

咎持つ者に対して特効能力を持つスィフィルの鎌は、しかしアスモデウス、アシュターの両者には、通常の堕人や死神に対

して使用した際と比べ、あまり効果を発揮しなかった。

行いはともかく、黒獅子と白雌牛の行動原理は一概に咎められる物ではない。

それ故に、ザバーニーヤの清掃具といえども、一撃で致命的なダメージを与えるには至らなかった。

裏を返せば、それはアスモデウスとアシュターが、ザバーニーヤの基準に照らして完全なる悪とは言えない事を意味する。

「座標設定、完了しました!」

「うむ。口惜しいが、この場は退くしかあるまい…!」

宙を踏み締めたアシュターとアスモデウスが言葉を交わし、その姿がノイズに包まれる。

長距離空間跳躍を試みる二人を見上げながら、しかしスィフィルは追撃しようとしなかった。

予想外に手間取ってしまったため、除幕状態で居られる限界時間が近付いてしまっている。

強過ぎる魂の拍動によって肉体や周囲の物質に影響が出始めるまで、もはや数秒しか余裕が無い。

追撃を断念し、構えを解いたスィフィルを睨みながら、アスモデウスは牙を剥いた。

「その顔、忘れぬぞ…!」

「その言葉に、ムンカルは確か「顔よりも名前を覚えろ」と応じておったな…。あまり良い返事も思い浮かばぬ事だ、同じ言

葉をそなたに返そう」

二度の敗走を自覚させられるスィフィルの返答によって、黒獅子の顔が憤怒と羞恥で歪んだ。

ザザッと、耳障りな音が走り、ノイズごと二人の姿が消え失せると、スィフィルは草刈鎌を消し、小さく息を吐く。

その全身から青が剥離し、つなぎは従来の黒へと戻る。

「大口を叩いた割に取り逃がしてしまったな。…ふむ?この気持ちがいわゆる「面目ない」なのかもしれないな。また一つ学

んでしまった」

口調や中身までいつも通りの状態に戻ったナキールは、納得した様子で腕組みし、しきりにうんうんと頷いていた。



「い、痛ぇっ!いでででででっ!」

「当然やダァホ。重傷なんやでお前」

身長差のあるミカールの肩を借り、アンバランスな姿勢でえっちらおっちらベッドに歩み寄ったムンカルは、綺麗に整えら

れたシーツの上に尻を乗せつつ呻く。

苦痛と披露で顔を歪ませつつベッドに横たわったムンカルの分厚い胸に、ぽってりと肉付きの良いミカールの手が乗り、ジッ

パーを引き下げてライダースーツの前をはだける。

そして獅子は「じっとしとれ」と声をかけつつ、発達した逞しい胸筋で張っている虎男のシャツを摘んで首元まで捲り、露

出した胸部を覆うきめ細かな被毛に手を当てた。

ミカールが危惧していた通り、腕を切断した際に流し込まれたのだろうプログラムによって、いくつかの機能に損傷が生じ

ている。

「ご丁寧に余計なモンまで仕込みくさって、アスモデウスのヤツ…」

ミカールは口をへの字にして呟いた。自己修復の阻害もされていたので、それらの異常を取り除いてから本格的な修復に取

り掛からねばならない。

「なぁミカール。人間のインコって何だ?」

ベッドに横たわるムンカルが顔を顰めながら発した問いで、ミカールは「は?」と素っ頓狂な声を上げ、その顔を覗きこむ。

「…いつも通りに見えとったけど…、お前、頭まで…。思った以上の重篤な損傷やな…」

「違うっつうの!あいでっ!いででででで…!あ、アイツだ…!あれ、あの黒いライオンが言ってやがったんだよ。人間はイ

ンコがねぇとかどうとか…」

「それひょっとして、人間の「イコン」て言うたんやないか…?」

少し考えたムンカルは、思い出しながら「かもな…」と頷く。

「で、イコンって何だよ?」

訊ねた虎男に、ミカールは難しい顔をしながら問い返した。

「お前…、人間の顔した同業者や堕人、今まで見た事あるか?」

「ん?いや、ねぇな…」

「せやろな。ワシらの中には人間の顔した者はおらへん…。おかしいて思うた事あるか?」

「ねぇけど…、言われてみりゃあ何だか引っかかるな…。獣、鳥、魚…、他の動物の面ばっかだ」

首を捻るムンカルに、ミカールは珍しく何か思い悩んでいるような表情を見せた。

伝えるべきか、伝えないでおくべきか、決定的な言葉を告げる直前になって、レモンイエローの獅子は躊躇していた。

この事について他の者と話すとしても躊躇いはしない。それは、相手が他ならぬムンカルだからこそ、彼が元人間だからこ

そ生じた躊躇いであった。

「ワシは、獅子のイコンを持っとる」

しばしの沈黙の後、ミカールはそう呟いた。

「ジブリールは北極熊の、ナキールは狼の、ドビエルは灰色熊のイコンを、それぞれ持っとる」

「…うん?持ってるって?そのイコンってのは物か何かなのか?やっぱ手乗りサイズのインコぐれぇの?…ってかよ、獅子に

熊に狼のイコン?何だ一体?まぁ面は確かにライオンだし熊だし狼だけどよ…」

眉根を寄せて考え込むムンカルに、ミカールは自分の胸に手を当てながら続ける。

「そう、この面や…。面とか尻尾とか、そういった要素や…。この姿、これをイコンて呼ぶ。…「アイコン」て呼ぶ事もある

けどな…。ワシは獅子のイコンを宿しとるから、獅子の特徴が部分的に顕在化した姿になっとる。そして…」

ミカールはムンカルの目をじっと見つめ、顎をしゃくった。

「…俺に宿ってるのは虎のイコン…、そういう事か?」

察したムンカルがそう訊ねると、ミカールは小さく頷いた。

「なるほど…、あの黒獅子が人間だけイコンがねぇって言ってたのは、そういう事か…。人間の面したヤツは居ねぇもんな…。

で?何かまずい事なのかそりゃあ?あの野郎は人間はイコンがねぇからイレギュラーだとか、生まれるべきじゃなかったとか、

あの野郎何かムカつく事言ってやがっ…いででっ!」

「熱くなんなや!じっとしときぃダァホ!」

「いでえあおぅっ!も、もももっとソフトタッチでっ…!」

ムスッとした表情で身を起こしかけたムンカルは、甦った激痛に声を上げ、ミカールによってベッドに押し倒される。

「イコンは…、今でこそ殆ど意識されんようになって来たけどな…」

誤魔化そうとしてもムンカルは食い下がるだろう。そう判断して覚悟を決めたミカールは、パイプ椅子に腰をおろし、話す

体勢になる。

「イコンはつまり、地上の生命が辿るはずの、進化の可能性なんや」

「あん?」

眉根を寄せたムンカルの手を、ミカールはギュッと握る。

「ワシらは地上の命の指標、進化の行き着く先の存在や。…昔はそう言われとった…」

神妙な口調で語るミカールの顔を、ムンカルは不思議そうに見つめた。

小難しい話になりそうだったが、ミカールが口にした、自分達が地上の命の進化の行き着く先だという言葉には納得できる。

寿命を持たず、その気になれば地上の法則にも縛られない彼らは、地上のあらゆる生物と比べても、個体としての存在強度の

桁が違う。

「何でそういう話が出たか言うとやな、最初こそ単細胞生物ばっかりやった地上の生物が、永い時をかけてワシらの姿に似た

形に変わって来たからなんや。その頃にこの考えが生まれた。地上の生物はその進化の先で、ワシらと同じようなモンになる

て…」

「解るような解んねぇような…」

「せやろな…。けど、イコンは全部が全部の可能性を示しとる訳やない。かなり複雑化した生物のイコンしか存在してへん。

せやからゾウリムシの配達人とかアメーバの配達人はいてへん。けど…」

「複雑なのに…、人間の姿の仲間は居ねぇ…?」

小声でのムンカルの問いかけに、ミカールは深々と頷いた。

「文化、知性、社会生活、そして欲…。魂は未熟ながらもワシら以上に複雑な精神形態を持っとる人間は、けどイコンが無い。

そして…、イコンが確認できとる他の生物の生活圏を脅かし、種によっては絶滅させた…。実際に、ワシらの仲間がイコン持っ

とっても、地上の種その物は滅んでもうたケースもある…」

それを聞いた虎男の表情が変わる。

黒獅子が言った言葉の重みが、今になって実感できた。

彼からすれば人間は、進化の先に至る可能性が確認できていない種にもかかわらず、他の可能性有る種を侵略し、駆逐し、

抹殺している存在なのだ。

「こらあかんて思い始めたその頃には、人間達はほぼ世界中に分布しとった。ささやかながら精神性の高かった文化は、効率

と化学で削られまくって…、それからたったの数千年の間に、人間は海を渡って世界を一繋ぎにしてもうた。未踏の地は次々

無くなって…、元々そこに住んどった、そこでしか生きてかれへんモンの内、少なく無い種が絶滅してもうた…」

「………」

沈黙するムンカルに、ミカールは取り繕うようにその手をギュッと握り、語りかける。

「何もお前を責めとるわけやない。お前が生まれた時には、もう全部終わっとったんやから…」

「判ってる…」

応じたムンカルは、苦虫を噛み潰したような顔になっていた。

「最後のメサイアが生まれる、三千と数百年前の事や…。人間は滅ぼすべきやて、方針が固まりかけた事が有る…」

獅子が口にした予想外の言葉に、ムンカルは目を丸くする。

自分達システム側の存在は、人間を守護する者達だとばかり思ってきたムンカルにとって、ミカールが暴露したその話はか

なり衝撃的な物であった。

「人間が他の種を滅ぼしても、地上の因果の内の出来事やった。けど、因果を遵守し過ぎたせいで世界が綻ぶんやないかて意

見が出てな…。人間は駆除すべきやて、半数以上がそう考えたんや。…結局、人間が滅びかねん災厄が起きそうになったんや

けど、直前になってある女がそれをおじゃんにした。そのおかげで人間達は滅びんかったんやけど…、納得できんかったモン

らが、まとめてシステムから離反しよった。その内の一人が…」

「あの黒獅子か…」

ムンカルが口を挟むと、ミカールは重々しく頷いた。

「人間はどんなに時間が経っても、ワシらのようには絶対になれへん。しかも、進化の先に行きつけるかもしれへん他の種の

存続を脅かしとる。…アスモデウスはそう言うてな、自ら翼印を潰して、システムを見限ったんや…」

レモンイエローの獅子は語り終えて一息つくと、背もたれに体重を預け、白い天上を仰ぎ見た。

「余計な事まで話したけど、おおまかにはこんな感じや…。別に隠しとった訳やない。イコンの話は集団離脱事件にも関わっ

とるから、暗黙でタブー視されとってな…。あの後に発生した若い仲間達はほとんどがこの言葉も事件も知らへん。お前も触

れる機会なんか無いて、知る必要も無いて思うとったから、教えへんかったんや…」

「…だいたい判った…」

ムンカルは静かに頷き、ミカールはそんな彼を少し意外そうに見つめる。

元人間故に、この話を聞かせたらムンカルが激昂するのではないかと思っていたのだが、ミカールの予想に反して異様に静

かである。

もう人間ではなくなったと踏ん切りが付き、ワールドセーバーとしての自覚が芽生えて来ているせいで、冷静に受け止めら

れたのだろうか?

そう考えたミカールは、しかしそれが思い違いであった事を、すぐさま思い知らされた。

「ミカールはどう思ってんだ?」

「ん?」

「人間は、生まれちゃいけねぇ種だったのか?」

苦悩しているような顔の虎男からその問いを投げられ、ミカールは一度返答に詰まった。だが…、

「自分の事やけどな…、気付いてへんのか?お前」

片方の眉を上げ、微苦笑しながら告げた。

「お前が示したんやで?人間の、違う形での進化の方向性を…」

「あん?」

眉根を寄せたムンカルに、ミカールは肩を竦めて見せた。

「判らへんねやったらそれでもええ。さ、治療続けるで?」

釈然としない様子で頷いたムンカルは、確かに気付いていなかった。

アスモデウスが自分に対して抱いた強烈な敵意の正体にも、自分が物理的な現象では無い進化の結果として、今の姿となっ

ている事にも。

ムンカルとミカールがイコンについて話し合うのは、この後数十年間、一度も無かった。

ミカールがイコンについてある事に気付き、改めてムンカルにその話を伝えるのは、堕人達との戦争の最中での事となる。