第五十一話 「反逆者の再誕」(前編)

簡易兵舎となっているテントで、狭いベッドに横たわったライザーは、空を塞ぐ天幕をぼんやりと眺めていた。

頭の後ろに敷いた手を組み直した後に、その口がポツリと言葉を紡ぐ。

「…ジブリール…」

聞く者の無い個人テントの壁に、その声は染み入って消えた。

昼間に出会った不思議な巨漢の事を思い出しながら、若い兵士は考える。

「ボクの事は、誰にも言わない方がいいよ」

去り際にそう言った北極熊は、ライザーの前で忽然と姿を消した。

旅の終わりが近い者にも認識できないレベルにまで迷彩を引き上げたのだが、それが判らないライザーには、本当に掻き消

えたように見えた。

言うも言わないも、誰にも話す気はない。というより、言ったら正気を疑われるのは確実なので話せない。

北極熊の顔をした巨漢を荒野の真ん中で見かけた…。そんな事を他者の口から聞いたなら、今朝までのライザーだったら一

笑に付すか、相手の頭を気の毒がる所であった。

今でもなお、あれはもしかしたら幻だったのではないかと疑いたくなる。

しかしそんな考えが浮かぶ度にそれを強く否定するのは、深く印象に残っている彼の言葉と眼差しであった。



「…始まるよ」

その時ジブリールは、ライザーの目を真っ直ぐに見つめ、厳かともいえる口調でゆっくりと告げた。

「もうすぐ終わりが始まる。キミの日常はもうじき終わり始める。もはや猶予は無いし止めようもない」

ライザーの目を静かに見つめるその眼差しは、哀れんでいるようでも、期待しているようでもあった。

「これは忠告だ。キミは選ばなければならない。やり直しの利かない選択だよ」

「選択…?」

眉根を寄せて問うライザーに、ジブリールはたっぷりした顎を引いて頷いた。

「そう、選択だよ。キミはこれから理不尽に立ち向かう事になる。遍く在る神の手も、調停者の介入も無い災禍の中で、キミ

は選ばなければならない」

一度言葉を切ったジブリールは、その場でくるりと身を翻した。

「何に抗い、何を守り、何を求め、何を諦めるか…。よく考えて選択しておくれ」

そしてジブリールは思い出したように、「ボクの事は、誰にも言わない方がいいよ」と忠告し、姿を消した。

一人その場に取り残されたライザーは、しばし呆然と佇んでいた。



「…幻…。とも思えないのが何とも…」

深く息をつき、ライザーは目を閉じる。

現実にせよ幻にせよ悪霊や悪魔の類といった感覚は受けなかった。あれだけ異形でありながら、それもおかしな物だと思う。

あの優しげで無害そうな雰囲気がそんな印象をもたらすのだろうかと思案し始めたライザーは、うつらうつらと、まどろみ

の中に引き込まれていった。



一方その頃、難民のキャンプ地の中では、風に傷んで角が丸くなった高い石壁の上に、丸くて大きな物が蹲っていた。

難民達が駐留している、イスラエル軍包囲網のど真ん中、既に倒壊寸前の廃墟となった、古びた背の高い家屋の上である。

その巨体の重みを受けて崩れても不思議ではないようなソコにあぐらをかいているのは、ジブリールであった。

肉付きの良すぎる幅広の巨大な尻は、幅が50センチほどの石壁から盛大にはみ出しているのだが、本人はその不安定さも

気にならないらしく、視線を下方に向け、熱心に何かを見つめていた。

薄い空色の瞳に映るのは、闇の中に灯る炎。

難民達が輪になって囲む暖かな灯火を、ジブリールは穏やかな瞳でじっと眺めている。

自分達を見下ろす巨漢の姿には、火を囲む難民達も気付いていない。

高レベルの被認迷彩を展開しているジブリールの姿は、死人でもおいそれと視る事ができない。旅の終わりが近付いている

者でも気付けはしなかった。

明日も見えない不安を打ち消すように、難民達は歌を口ずさんでいる。

家から、故郷から、国から焼け出され、ほうほうの体で逃げて来た彼らの荷物に娯楽品など殆ど無く、楽器とてその例外で

はない。

それでも、かさばらないが故に持ち出せたのだろう小振りな笛の音と、荷物が詰まった革袋を叩く拍子が、歌声に彩りを添

えている。

それは、失われた村の歌。もはや戻ることの叶わない故郷の歌。

作り手はすでにこの世になく、歌詞に謳われた景観も、争乱によって地上から消え失せた。

このままでは忘れ去られる運命にあるその歌を、明日も知れぬ難民達が口ずさむ。

長きに渡る放浪で疲れ切ってはいても、境遇に絶望し切ってはいない。

根強く、そして逞しく今日を生きる難民達の、慎ましい息抜きの様子を見下ろしながら、ジブリールはリズムに合わせて太っ

た身を揺すっている。

古い歌特有の牧歌的な歌詞とリズムは、北極熊の体に心地よく染み入り、自然と鼻歌を合わせさせた。

(気持ちの良いメロディだ…。イスラフィルに聞かせてあげたくなるね)

背を丸めたジブリールは目を閉じながら歌に耳を傾け、しばしの間ゆっくり体を揺すっていたが、やがてそっと瞼を開ける。

大人達が成す炎を囲む輪、その外の暗がりから、数名の子供達が灯りの領域に踏み入って来ていた。

その中の一人、黒髪と褐色の肌をもつ少女に、ジブリールの薄青い瞳が据えられる。

「…あの子が…」

小さく呟いた北極熊の目に、微かな哀しみが宿る。

目前に迫る強大なうねりを前にしながら、その少女は何も知らず、あまりにも華奢で、あまりにも弱々しく、あまりにも無

垢であった。

しかし今はまだ、ジブリールは彼女に祝福を与える事はできない。

どんな悲惨な現実が目前に広がっていようと、それが正常に流れる地上の因果の一部である以上、おいそれと手を出す事は

許されない。

「…始まるよ…」

日中にライザーへ囁いたのと同じ言葉を、ジブリールは再び口にした。

北極熊には、この地に広まりつつある因果の乱れが察知できている。

故に今日は飛行艇にも帰らず、兆しを見逃す事の無いよう、夜通し見守る事にした。

間もなく発生する因果の乱れ、その中心となるであろう特異点を抱えた、この難民キャンプを…。



「旦那、帰って来ねぇのか?」

いくらか調子もよくなり、食堂に顔を出したムンカルは、難しい顔でパン生地を捏ねているミカールに声をかけた。

「気になる事があるんやと。配達はおいおいやってく言うとったけど…」

言葉を切ったミカールは、キッチンに回り込んできたムンカルの顔を見上げる。

「や〜な予感がしよる…。アイツの勘は良くあたるんや。…いや、勘て言うより、因果察知に裏打ちされた推測て言うべきや

ろな…。結構曖昧なもんやけど、アイツはワシよりかなり先の事を感じ取れる」

「また堕人が出るとかか?」

「そんなんやったらアイツはあそこまで警戒せん。何か知らへんけど、デカい因果の乱れとか、そういったモンの気配でも感

じとるのかもしれん…」

まだ何とも言えない。ジブリールはフネに戻らないと告げた際に、ミカールにはそう語った。

彼がはっきり言えないというその事が、ミカールを落ち着かなくさせている。

「朝んなったらナキールに飯届けさしたろ。その時にでも詳しく聞いてみるように伝えとくわ。にしても…」

レモンイエローの獅子はぽってりした手をパンパン叩いて粉を落とし、肉の付いた両腰に当てて首を捻った。

(しばらくしたら、ワシの力を借りる事になるかもしれへんて?…ジブリールめ、何か面倒事でも見つけたんやろか…?)



「…話は以上だ」

作戦本部となっているテントで、ライザーは眉根を寄せたまま上官の話を聞き終えた。

浮かない顔をしているのは、腑に落ちない命令を受けたせいである。

他にも数名の同僚達が同じような顔をしていたが、口に出して異を唱える者は居ない。

手入れの行き届いた口ひげをたくわえた、細面で精悍な顔つきの士官は、鋭い目でその場に集う全員の顔を睨め回す。

「各自、直ちに行動に移れ」

敬礼で応じた一同が足早にテントから出て行く中で、足を進めるライザーは考えを巡らせていた。

ライザーが所属する偵察を主任務とした部隊は、この夜半に緊急招集され、ある品をある場所に届けるよう申し渡されたの

である。

既に品が運び出されるのを待つばかりになっている事から、この作戦は少なくともしばらく前に決まっていた事が察せられ

た。にも関わらず、話を聞かされたのは今が初めてである。

実行部隊であるライザー達にもぎりぎりまで伏せられていたのか、それとも本来の予定は先だったのに急遽動かなければな

らなかったのか、どちらかは判らなかったが、若い兵士の胸中には暗雲が立ち込め始めていた。

(武装グループに我が軍の武器を与える…?まさか横流しではないだろうが…)

いくつもの任務を共にこなしてきた愛用のバイクに歩み寄りつつ、ライザーは馴染みの大男に声をかけた。

「曹長殿。今回の任務について、事前に何か聞かされておりましたか?」

「まあな」

そうぶっきらぼうに応じた、細身のライザーの二倍半は幅と厚みがある恰幅の良い髭面の男は、若い兵士をちらりと見遣る。

「直前まで伏せておく必要があったそうでな、話はワシら止まりだった」

やはり、と納得しつつも、ライザーは問いを重ねた。

「どのような狙いでしょう?味方や友軍という訳でもない相手へ武器を届けるなど…。前もって話がついているというのも驚

きですが…」

いつしか周りの同僚達も、二人の会話に耳をそばだてていた。

適当にあしらおうとしていた髭面の大男は、しかしライザーが食い下がる様子を見せたため、諦めて体ごと向き直る。

「難民キャンプの包囲維持に、日毎どれだけの消費が重ねられて行くか…、判るか軍曹?」

「い、いえ…」

暗に無知を咎められているような気がして、ライザーは恥じ入って俯く。

「難民達に混じり、敵対勢力が潜んでいる可能性がある。それ故の包囲だが…、もう誰もそんな可能性を信じちゃいない」

ライザーをはじめとする隊員達が思わず頷くと、髭面の大男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「だから包囲を解く事にした。だが上は「判断を間違ってました」と素直に認めたくはない。誰だって恥はかきたくないから

な。だから、面目を保つために、包囲が必要なくなる状況を作る事にした」

意味が判らないライザー達に、大男は一層不機嫌そうに続ける。

「今夜、俺達が武器を運んだすぐ後に、連中は進軍を開始する。夜に紛れて開けた包囲の穴から、その内側へ…キャンプ目指

してな」

「な!?連中は、武器を受け取ったらそのままキャンプを!?」

「そうだ。急襲、殲滅する。我が軍の黙認の元でな」

戸惑いが怒りに変じたライザーは、大股に一歩踏み出し、上官に食い付いた。

「何故です!あそこには敵対勢力が潜伏している可能性は低いのでしょう!?間違いを認めたくないからといって…、やりす

ぎです!」

「潜伏している可能性は、依然としてゼロじゃない。だから上は「念のため」にキャンプをきっちり始末しておきたいのさ」

「そんな…!」

憤怒で顔を真っ赤にしたライザーが言葉につまると、大男は「ふん!」と鼻を鳴らした。

「こっちがやるのはお膳立てだけ…。あとはファランジスト共が始末してくれるって寸法だ。手を汚しもしなければ、兵士も

死なんし疲れない…。ムカつくほど末端思いの上層部だと思わんか?ええ?」

「酷すぎます!」

大声を上げたライザーは、肩をいからせ荒い息をつく。

「名誉あるイスラエル正規軍の行いではありません!上層部に意見を…」

「やめておけ。その名誉を守るために難民キャンプを潰すと決める上の人間が、お前の意見に耳を貸すと思うか?粛正される

のがおちだ」

「しかし曹長!」

「やかましいっ!」

なおも食い下がろうとしたライザーは、しかし大男の怒声で口をつぐむ。

「軍曹。お前は今期限りで交代要員と代わり、帰還予定だったな?親父さんの具合、あまり良く無いんだろう?お袋さんも看

護に疲れてらっしゃるはずだ。そこへ、せめてお前が元気に帰ってやらなくてどうする?」

言い含めるような大男の言葉に、ライザーは胸が詰まった。

「けれど…、けれど…!父はきっと、私がこんな事をしたと知れば、もっと悲しみます!何の咎もない、故郷を追われた哀れ

な難民達を虐殺したなどと知ったら…、自分が現役だった頃は、絶対にそんな真似はしないと嘆き、怒ります!」

「馬鹿野郎が!」

再び上がった大男の怒声が、ライザーの体を竦ませる。

「お前はお前の意志では軍を動かしていない。ただ上からの命令に「従わされている」だけだ。「お前が殺す訳じゃない」、

自惚れるな。それに…、「極秘任務」だ!身内にも喋ってはならん。親父さんにも黙っておけ!」

怒鳴りつけられたライザーは、大男の視線を真っ直ぐ受けられなくなり、その軍服を押し上げる太鼓腹に目を落とした。

「これより任務を遂行する。なお、個人的理由による命令不履行は、これを一切禁じる。命令だ。…そして、これから言う事

を復唱しろ」

一度言葉を切った大男は踵を返すと、全員に聞こえるように声を大きくした。

「命令に従って生じた全ての責任は、その命令を発した上官のみが負う。…復唱どうした!?」

張り上げられた銅鑼声に鼓舞され、ライザー達はしぶしぶ復唱する。

(いつもこうだ…。このひとは…)

無愛想でぶっきらぼうで強面の堅物のくせに、どうしようもない時には助け船を出すし、皆が精神的に追いつめられた時に

は、自分の立場と存在を隊員の論理感の逃げ道として用意する。下っ端の取り纏め役として、憎まれ役を進んで買いながら…。

こうして何度救われたか、今ではもう判らない。

いつか恩返しをしたいとは思い続けているが、しかしなかなか機会がない。

帰国している間も、休暇中も、結局は他の仲間達と同様に、自分は奢られる側である。

暗澹たる気分は相変わらずだったが、それでもライザーは準備に取りかかった。

任務に従事するのも嫌だったが、これ以上曹長を困らせるのも嫌だった。

ならばせめて、避けられない方の「嫌」に目を瞑ろうと考えて。

…だがしかし、この時ライザーは、動転していたのですっかり忘れていた。

昼間出会った少女の事を。彼女と交わした会話の事を。

ライザーがその事を次に思い出したその時には、事態はもう、行く末を決めてしまった後となっていた。



寝ずの番を決め込んだジブリールは、誰にも見咎められる事なく、難民キャンプの中を歩き回っていた。

感覚的に察知できる因果流転現象の歪みは、次第にその気配を濃くしている。

首筋の毛が風もないのにフワフワと撫でられているような感覚を味わいながら、太った北極熊は半ば倒壊した家屋の前で足

を止め、中を覗き込んだ。

家族的な相互関係にある難民達は、血の繋がりがないままに数人一組で疑似家族を形成する。

この家屋に身を潜めているのも、そんな集団の一つであった。

毛布にくるまり壁際に寝転がる者や、位置に構わず床の真ん中で寝る者。あちこちに転がる十名近い難民達を誤って踏むこ

とのないように、時に迂回し、時に跨ぎ越し、ジブリールは奥へ進む。

途中で見かけた幼い男の子が、寝相が悪くて毛布を剥いでしまっている事に気付くと、ジブリールは微笑しながら身を屈め、

その大きな手でそっと毛布を直してやった。

やがて、濃い闇の中でも鮮やかに浮き上がる薄い空色の瞳が、目当ての人物を捜し当てる。

体の左側を下にして、首元まで引っ張り上げた毛布にくるまって眠る少女…。

アジールの砂埃で汚れた顔をじっと見つめたジブリールは、少女の傍らへ静かに腰を下ろした。

その頬についた煤を、北極熊が太い人差し指でそっと拭ってやっても、少女は目を覚まさない。

目を細めたジブリールは少女の寝顔をしばし見つめていたが、やがて何かに気付いたように耳を動かした。

首を巡らせると同時に音もなく立ち上がった巨体は、闇を押しのけて足早に外へ出る。

夜空を見上げ、鼻をヒクヒクと動かし、ジブリールは物憂げに呟いた。

「…始まった…」

遠く遠く、申し合わされて解かれた包囲の一部を抜け、ソレはキャンプへ迫っていた。

潤沢な火器を得て万全に武装した、殺戮者達の群れが。

かくして、二つの難民キャンプを蹂躙する、長い人類史上でも希な程に陰惨で残酷な、虐殺の三日間は始まった。



届け物を済ませ、仲間達と一団となってバイクを走らせていたライザーは、次第に膨れ上がる奇妙な感覚で胸を苦しくさせ

ていた。

後部に山積みにして来た武器も下ろし、サイドカーも外してあるバイクは、しかし普段より遙かに重く、鈍重に感じられる。

(忘れているような気がする…。何かを…、大事な何かを…)

落ち着かないライザーは、無意識にホルスターへ手をやっていた。

支給された物とは異なる大型拳銃が、そこには吊されている。

その50AE弾を使用するオバケ拳銃は、

「お前は細い上に顔の作りが優しいんだから、舐められないようにこれでも持っておけ」

と、昨年の誕生日に曹長からプレゼントされた物であった。

ごつくて重くて大きなその銃を、比較的細身のライザーは当初こそ持て余したが、

「撃てると期待はしていない。所詮お守りだ」

との憎まれ口に対抗心を燃やし、鍛えに鍛えた結果、今では何とか扱えるようになっている。

はっきり言って極めて扱い辛い上に応用も利かないこの拳銃は、そうそう出番が無いのだが、ライザーは曹長に言われた通

り、お守り意識で肌身離さずこれを持ち歩いていた。

そのお守りを弄りながら、ライザーは50AE弾について考える。

この特大弾丸の用途が、どこかにあったような気がしてならない。

何故今そんな事を気にするのか判らないまま、ライザーは考える。考える。考える…。

そして、弾丸ではなく薬莢が要り用なのだったと気が付くと、堰を切ったように日中の事を思い出していた。

空薬莢を、子供達用のおもちゃとして集めていた少女の事を。

(アジール!私は、私は何故今の今まで忘れていたのだ!?キャンプにはあの少女も…!)

思い出しはしたが、しかしもう遅い。

前日に知っていれば警告もできたし、キャンプまで送らずにそのままどこかへ逃がしていただろうが、ライザーは今日の昼

間に、そうとは知らずにあの少女を、彼女達難民の処刑場にされるはずのキャンプへ送り届けていたのである。

(知っていれば、知っていれば救えたのに…!)

唇を噛みしめて悔やんだ若き兵士は、しかし後悔する己を殴りつけたい衝動に駆られた。

偽善だ。ライザーはそう思う。

たまたま知り合った少女に対して同情をよせてはいるが、彼女らを殺そうとしている連中に、殺すための武器を、たった今

届けてきたばかりなのだ。

苦悩したとはいえ、結果的にライザーが難民キャンプの行く末に目を瞑った事は事実である。

その諦めにも似た決断は、殺される難民達が、顔が見えない相手だったからこそ成された物だった。

だが今、黒く塗り潰された群衆の中に見知った少女の顔が紛れ込んでしまうと、一度固めたはずの決意は容易く揺らいだ。

銃火の中を逃げまどう、牙を持たない難民達…。

次々と倒れ、捕らえられ、殺されて行く疲れ切った人々。

男はすぐさま殺され、女は慰み者にされ、悲鳴と呪詛がキャンプに蔓延し、死体と共に積み上げられてゆく…。

その、雑然と、荷物のように積み上げられた死体の中に、虚ろな目を見開いている少女の顔が紛れているイメージが浮かん

だ途端、ライザーの中で何かが切れた。

「う…!ううう…!ううううううううううううううううううううううううっ!!!」

歯をきつく噛みしめ、獣が唸るような呻き声を漏らした若き兵士は、急ハンドルを切った。

「うわっ!?」

「お、おいこらっ!」

「何してんだライザー!」

仲間達の悲鳴と怒声の中、バイクを急ターンさせて列から離脱したライザーは、単機で闇の中へ走り込む。

「何処へ行くライザー!止まれ!止まらんか!」

恰幅の良い曹長が上げた焦り混じりの怒号も、しかし今回はライザーを止められなかった。

大男は顔を顰めて舌打ちすると、皆には先に行けと命じた上で、自らもバイクを列から離した。

(何を考えているんだライザー!頼むから早まった真似はしてくれるなよ…!)



機銃の掃射音と手投げ弾の爆音によって、耳がバカになっていた。

もつれそうになる脚を必死に動かし、幼い子供の手を引いてアジールは走る。建物の影に向かって、広い場所に背を向けて。

何が起こったのかは判らないが、自分が今、また誰かが始めた戦争の中に放り込まれている事だけは判った。

アジールが正確な状況を把握できないのは無理がない。何が起こったのか、大人達も解っていなかったのだから。

突然の砲撃と銃撃、そしてなだれ込む武装者達…。そのあまりにも速やかな奇襲から、包囲していたイスラエル軍が動いた

のかと、多くの難民達は考えた。

だが、キャンプに侵攻して来たのは、どうやってイスラエル軍が包囲するここへ現れたのか判らない、所属不明の軍隊だっ

たのである。

イスラエル軍とは比べものにならない、民兵のような統率が未熟な部隊であったが、しかしその事が、難民達にとって最大

の不幸となった。

ファランジストと呼ばれる彼らは、ここともう一つのキャンプに身を寄せ合う難民達を異教徒と見なしている。

正規軍程の戦力は無く、統率も良くない彼らは、しかし代わりに有り余る情熱を持っていた。

彼らは正義と善行の御旗の下、徹底的に、容赦なく、邪悪な異教徒達を虐殺して行った。

異教徒であれば人ではない。人でなければ手心も要らない。

たがの外れた熱狂がファランジストを突き動かし、記録的な虐殺を可能とさせた。

彼らの情熱は疲れを知らず、虐殺が一応の沈静化を見るまで、結果的にはこの夜から丸三日を要する事になる。

後の世に語られる、シャティーラ難民キャンプ虐殺事件の勃発であった。

「泣いてちゃ駄目!静かにしてなくちゃ!見つかっちゃう!」

物陰に駆け込んだアジールは、泣きわめく男の子を叱咤する。しかし、彼女の忠告は実を結ばなかった。

耳をつんざく連続した轟音と同時に、アジールの前を何かが駆け抜けた。

直後、無数の弾丸に蹂躙された男の子が、ばしゃっと、袋のように爆ぜ割れる。

機銃掃射によって目前で解体された男の子の血や肉片にまみれ、アジールは尻餅をつく。

無数の弾に蹂躙されて原形を留めぬほど破壊された男の子は、しかし冗談のように、アジールが握った右手だけを、無傷で

残していた。

肘と手首の中間で千切れたその手を握ったまま、アジールははかはかと浅い呼吸を繰り返す。

ショックのあまり瞳孔が痙攣し、息も満足に出来ない。

そこへ、アサルトライフルを手にした男が二名、足取りも荒く迫る。

へたり込んだまま動けないアジールを見つけた彼らは、一方がそのこめかみに銃口を当て、もう一方が品定めするように顔

を覗き込んだ。

血まみれで生来の魅力は損なわれていたが、それでもアジールは彼らの眼鏡にかなった。

下卑た笑みを浮かべた男の手が、アジールの首元に伸びる。

しかし、襟を掴んだその手が衣類を乱暴に引きちぎろうとしたその瞬間、男の手は引き下ろした勢いそのままに空を切って

いた。

きょとんとした顔を見合わせる男達は、しかし気付いていない。

自分達のすぐ脇に立ち、血まみれの少女をその太い腕で抱き上げている、見上げるほど巨大な北極熊の存在には。

パールホワイトの被毛に覆われた手を、少女の体から滴った鮮血で染め、ジブリールは静かに立っている。

男達には、ジブリールに抱かれたアジールもまた視えていない。

超高レベル迷彩の影響下に引き込まれたアジールは、ジブリール同様に認識されない存在となっている。

少女を救った北極熊は、男達を哀しげな目で見つめていた。

身に宿した不寛容で無慈悲な略奪の力とは裏腹に、ジブリール本人は寛容さと慈愛を併せ持つ。

その慈悲の目に、憎く映る存在は皆無。

罪を犯すことを、咎を背負うことを、過ちを繰り返すことを、哀れみ、許容し、赦す。

今もなお、陰惨極まりない殺戮の災禍を前にしながら、ジブリールは怒りを抱かない。

殺される側だけでなく、殺す者達すらも、彼から見れば哀れむべき存在であった。

正気を失っている少女を大事そうに抱えたまま、ジブリールは右手を動かし、デリンジャーの銃口を順番に男達の頭部へ向

けた。

重なり合う二度の銃声と共に、男達の頭からアジールについての記憶がすっぽりと抜け落ちる。

直前まで何をしていたのか忘れてしまった男達が首を傾げながら去ってゆくと、ジブリールは胸に抱いたアジールの顔を覗

き込み、小声で呟いた。

「ごめんね…。今はこれが、干渉できるぎりぎりのラインなんだ…。男の子は、助けてあげられなかった…」

因果を乱さないために、男の子の死に様をすぐ傍で眺めながらも手を出せなかった。

乱れの災禍を広げない為には仕方がなかったとはいえ、見殺しにしたという罪悪感が、ジブリールの胸に重く居座っている。

北極熊は足取りも重く、少女を抱えたまま路地の奥へ進む。

些細な変化で因果の乱れは拡大してしまう。どうにかしてここで防ぎ止めなければならない。

しかしその根源となる特異点をいち早く確保しながら、ジブリールはまだ打開策を見いだせていなかった。

路地の奥まった場所へ引っ込み、放心状態の少女を壁に寄りかからせて座らせると、ジブリールはその顔を、大きな手でそっ

と拭ってやる。

しかし血まみれの顔はそれだけでは綺麗にならない。

まるで魂が抜けてしまったように身じろぎ一つしない、血化粧に彩られたままの少女の顔を映した青い双眸を、北極熊は悼

ましそうに細める。

しばし少女の前で屈み、彫像のように身じろぎ一つせずにその顔を見つめていたジブリールは、やがて前置きもなく耳をぴ

くりと動かした。

「…来たようだね」

立ち上がった巨体が闇を押し除け、静かな呟きが暗がりに響く。

薄く青く、空のように澄んだ瞳は、黒い帳を見透かす。

建物を、銃火を、悲鳴を怒号を絶望を通り越して、近づいて来る若き兵士の姿を視界に収めると、北極熊は再び少女に視線

を向けた。

「それじゃあね、しばしのさよならだ…」

スーツをパンパンに張らせている太鼓腹が窮屈になるほど体を曲げて前屈みになり、慈しむように優しい手つきでアジール

の黒髪を撫でたジブリールは、背中の翼印を発光させ、翼を生み出す。

少女を残し、狭い路地から垂直に飛び立つと、キャンプ上空100メートル程の高さでふわりと静止する北極熊。

翼を広げて宙に浮かぶ彼は、凄絶な虐殺が繰り広げられているキャンプにバイクを乗り入れた若き兵士を見遣る。

「…おいで…、ここに居るよ…」

ジブリールのその呟きは、音としてではなく感覚として、遠く離れたライザーに伝わった。