第五十二話 「反逆者の再誕」(中編)
疾走するバイクのハンドルを巧みにさばき、タイヤを鳴らして急旋回する。
それまで見通していたルートを急に変えたライザーは、何故自分がそのような行動を取ったのか理解できていない。
しかし疑問を持ってはいなかった。その選択が正しいと、若い兵士は直感的に悟っている。
周囲に響き渡るのは、叫びと悲鳴、怒号と銃声、放たれてテントをはむ炎の呟きや、逃げ惑う者、それを追う者の足音が織
りなす、殺戮の組曲。
難民達が逃げられないよう封鎖しているファランジスト達を、一人まともにバイクではね、強引に突破したライザーが踏み
込んだ時には、しかし既に時遅く、キャンプは蹂躙され始めていた。
兵士である。ライザーとて戦場の何たるかは目と鼻と耳と肌で、嫌になるほど学んできた。
だが、ここは戦場とは呼べず、この場で行われているのは戦争ではない。
いうなればここは処刑場であり、行われているのは一方的な虐殺に他ならない。
酸鼻極まるその中を、ライザーは歯を食いしばりながら疾走した。
途中で幾人もの難民の死体を見た。若い兵士は外側から内側へ、手前から奥へと進む殺戮戦線を追いかける格好で、キャン
プ深くへ突き進む。
兵士が殺し合う事には、特に異論は無い。どんな事情があってその場に立ったとしても、戦場に出た兵士が殺し合うのは、
仕事であり使命でもあると考えている。
自分もいつか戦場で死ぬかもしれない。それなりに高い死の確率は、ライザーにも解っている。
そして、そうなったとしても大して悔いはしないだろうとも思っている。
父と同じ兵士としての道を選んだ時に、祖国の為に死ぬ覚悟は決めているのだから。
だが、兵士がそれ以外の者を殺すのは納得できないというのが本音であった。
曹長の顔を立てて一度は飲み込んだ不満は、アジールの顔を思い出してしまった事で、もう押さえ込めなくなってしまった。
国に尽くす兵士としてではなく、個人的に理想とする兵士像に背きたくないが故に、ライザーは懲罰覚悟でこの行為に及ん
でいる。
(アジールを救い出す!難民全ては救える訳もなく、あの娘一人を逃がすので精一杯だろうが…、偽善でもいい!ここで引い
たら私の誇りが…魂が死ぬ!)
険しい表情のライザーが駆る、猛々しい唸りを上げて疾走するバイクのヘッドライトが照らす先で、建物の陰から武装した
一団が唐突に飛び出し、行く手を阻んだ。
それは、既に少なくない血を見て、使命感と虐殺の甘毒に芯まで酔いしれているファランジスト達であった。
彼らには、ライザーが自分達の仲間ではないと、バイクに乗っている事から確認できている。
ファランジスト側から警告の声は無いが、しかしライザーが難民ではないらしい事を確認して動きに変化があった。
どんな手を使ったのかバイクを入手し、逃亡を企てている異教徒の難民…。そう思って飛び出してみれば、軍服を纏う若々
しい兵士だったのである。動揺は少なからず生じる。
ライザーが何者なのか、何をしに来たのか判らないために戸惑いつつ、それでも銃を構えようとした男達の一人に視線を据
えて、若き兵士は銃を抜いた。
男達の手に握られているのはアサルトライフル。対するライザーは大型拳銃が一丁と、小型拳銃が一丁という軽装備。
セミ、フルの両オート機能を備えたライフルとまともに殴り合ってはいられない。ライザーは即座に考えを固め、覚悟を決
めた。
ごつく、重く、無骨な、まるで鋼鉄の塊のような拳銃が、照準を定めるや否や咆吼を上げる。
元々片手撃ちなど想定されていない拳銃である。片手でハンドルを握ったまま発砲したライザーの上体は、凄まじい反動で
斜めに傾きつつシートの上で後ろへ跳ねた。
強烈すぎてねじ伏せる事はできないが、散々撃ってすっかり馴染んだ衝撃である。
ライザーは無理に踏ん張らず、体を斜めに持って行かせるに任せ、拳銃が跳ねる動きに逆らわぬように腕を振り、反動をほ
ぼ完全に逃していた。
同じ拳銃を体格に恵まれた者が扱っても、反動を殺す事はほぼ無理である。下手をすれば跳ね上がった銃のトリガーガード
に指を極められ、関節を痛める。ライザーのその射撃方法は、狙いを定め直さねばならないものの、単発であれば無理なく発
砲できる物であった。
一方で、巧みにさばかれたデザートイーグルから撃ち出された50AE弾は、狙いを外さず男の眉間に命中していた。
弾丸が顔面に潜り込み、頭部が一瞬膨張する。その次の瞬間には、男の頭は爆ぜ割れ、首から上が原型をとどめず粉々に飛
び散り、消失していた。まるで、血の詰まった袋が破裂するようにして。
ライザーが手にしている拳銃は、対人用などという生易しい範疇には無い。
兵器も車両も人間も選り好みせず破砕してのけるソレは、もはや小型の破壊装置と言える。
鮮血と脳髄、骨や肉の破片がシャワーとなって降り注ぐ中、男の左右に居た兵士達は、運悪く余波に巻き込まれていた。
爆ぜた男の頭部は爆弾に近い性質を付与されている。飛び散った骨片が周りの二名を巻き込み、顔面をずたずたにむしった。
先制攻撃を受けた事で、男達はろくに狙いも定めずに発砲を始めた。
しかしライザーは先手で稼いだ一瞬を無駄にせず、巧みに愛車を操って横合いの建物の陰へと走り込み、そのまま迂回ルー
トに入っている。
実に巧みなバイクさばきであった。かなり車体が寝た大型バイクを、速度を落としつつ己の足一本を支えに反転させ、ロス
を最小限に食い止めたクイックターン。
車体の重量がまともにかかれば折れてしまいそうな細い脚は、しかし絶妙な加減を弁えており、慣性とバランスを補助する
だけに止まっている。
衝撃の抜け切っていない手に拳銃を握り締め、ライザーはバイクを猛スピードで走らせる。
呼ばれているような感覚がどことなくあるのだが、しかしそれが何なのか良く判っていない。
良く判ってはいないが、それでもその感覚を頼りに突き進む。
ジブリールの「声」に導かれ、ライザーは悲鳴と銃声に満ちた闇の中をひた走った。
ジブリールが見下ろす路地の手前でバイクが止まったのは、数分後の事であった。
見えざる力に、聞こえぬ声に導かれ、迷う事なく辿り着いたそこで、バイクを降りたライザーは絶句した。
暗がりの壁に力なく背を預けてへたり込んでいる少女は、見間違えようもなく探し求めていた相手だったが、一見すると死
んでいるようにも見えたのである。
どこも見ていない眼差しは宙に据えられ、その身は鮮血で染まっている。
「おい!大丈夫か!?生きているか!?」
臓腑と血の臭いを発散させている少女に駆け寄ったライザーは、声をかけつつ少女の手を取り、ほっと息をついた。
生きている。まごう事なき生者の温もりが、取った華奢な手から伝わって来た。
若い兵士の前で呆然としているアジールを、そして、少女の前でかがみ込むライザーを、ジブリールは空からじっと見下ろ
しつつ、静かに口を開いた。
「これで、因果の修正はあらかた成った…。けれど、まだ乱れが拡散する可能性は高い…。このまましばらく見守らないと…」
北極熊の囁きは、眼下の二人には届いていない。
ライザーは正気を失っているアジールの頬を叩きながら、ひたすら呼びかけている。
今夜はサイドカーを外して来ている。これから荒っぽい運転で窮地を切り抜けるバイクでタンデムするには、少女にしっか
りして貰わなければならない。
やがて、ライザーの懸命な呼びかけに応じるように、少女の瞳に光が戻った。
ほっとしたライザーは、しかし自分に向けられたその黒い瞳が、苛烈な怒りを宿している事に気付き、困惑した。
「あなた達なの…?あなた達が…、ここで戦争を始めたの…?」
少女の掠れた声が、低く押し殺された声が、怒りで震える声が、ライザーの耳朶を震わせる。
動かない兵士に、身を起こしたアジールは猫科の猛獣の如き俊敏さで掴みかかった。
片膝立ちで屈んでいたライザーは、襟を掴まれて押され、尻餅をつく。
至近距離に顔を寄せたアジールの瞳からは、肌が焼かれそうなほど痛烈な憎悪が放射されていた。
「戦争をしたいなら、したい人達だけでやればいいんだ!」
叩き付けられたアジールの言葉が、ライザーの胸を深く抉る。
「返してよ!ねぇ返してよ!父さんを!母さんを!妹を!弟を!従兄弟を!友達を!先生を!返してよ!返してよ!皆を返し
てよ!」
か細い手で胸をドンドン叩かれ、揺さぶられながら、しかしライザーは抵抗しなかった。
ライザーには負い目がある。一度は難民達への虐殺に目を瞑ろうとした負い目が。
そして今もなお、少女以外の難民については、助けられるとも、助けようとも考えていない。
それは、自分一人の力ではアジール以外の難民を助ける事がどう考えても不可能だからなのだが、もはや力不足を超えた所
にあるその理由を、自分の行為と考えを正当化する言い訳に使いたくはなかった。
一度でも、難民達が虐殺される事を黙認するという選択をしてしまった以上、もはやどのような言い訳も通りはしないのだ
という事を痛感している。
「…済まない…」
少女に詰られながら、ライザーは呟いた。
その、煤で汚れた頬を伝い落ちる透明な滴を目にして、逆上していたアジールははっと息をのみ、いくばくかの冷静さを取
り戻す。
「済まない…。君達を…、君の仲間や家族を…、助けられなくて…」
幼い激情に当てられたライザーは、とうとうと涙を流しながら少女の顔を見つめていた。
若き兵士は知った。否、知ってしまった。
己が耐えられる限界を超えてしまう、戦場の真実を、戦争の裏側を…。
兵士である自分が兵士と戦って死ぬのは構わない。
また、兵士でない者を傷つける事はしない。
そんな自分の主義主張、そして信念と覚悟は、張りぼてに過ぎなかったという事を理解してしまった。
自分がそうしなくとも、戦火はお構いなしに他の者も飲み込んで行く。
自分一人がそう在りたいと願ったところで、ライザーが参加した祖国のための戦争行為が、アジールのような難民を生み、
そしてその命を飲み込んでゆく。
戦場においてその状況を構成する歯車となる以上、自分は責を負わなければならない。
例え誰が「お前のせいではない」と言ってくれた所で、「責任はお前に無い」と言ってくれた所で、自分が荷担した行為が
一般人の死者を、住処を失い彷徨える者達を、次々と生み出しているという事実に変わりは無い。
アジールに責められた事でそう認識した今、ライザーはもう、兵士としての自分を誇りに思う事はできなくなってしまった。
戦争だから。仕方がない事だから。上官が決めた事だから。責任は上にあるから…。
それらの思考を麻痺させてくれる魔法の言葉は、もはやライザーには効果が無い。罪の意識から目を逸らせなくなっている。
「済まない…。済まない…!私は無力だから…、君一人しか救えない…!」
ライザーは両手を伸ばし、涙を見て困惑しているアジールを抱き締めた。
「赦しは乞わない…!憎んでくれて良い…!けれどどうか…、どうかお願いだ…!君だけは…、君だけはここから逃がさせて
くれ…!私の手でここへ戻してしまった君だけは…!」
すすり泣くライザーの腕の中で、アジールはやっと気付いた。
この兵士は違うのだ。この兵士は自分達の敵ではないのだ。少なくとも、今ここを攻めている者達とは違うのだ。と…。
「…ごめん…なさい…」
少女が発した弱々しくか細いその声は、折り悪く響いた銃声により、ライザーの耳には届かなかった。
そんな二人を見下ろしながら、ジブリールは小さく頷く。
「選択は為された…。これで「失う者」も「失われる物」も、正しい因果の内に戻る…」
そして少し困ったように目尻を下げ、鼻先を太い指でコリコリと掻いた。
「因果の流れ着く正しい先では、君達に別離が訪れる…。それが解っていながら、オレはそこへ導かなくちゃいけない…。つ
くづく思うよ。人間達にとっての本当の死神は、盗魂者達なんかじゃなくオレ達なのかもしれないね…」
アジールを背にしがみつかせたまま、ライザーはバイクを駆ってキャンプ内を走り抜けた。
入る時とは状況が違い、さらに悪くなっている。
中心部めがけて進んでいたのはライザーだけではない。ファランジスト達も同様であった。
アジールを連れて外側へ向かうライザーは、円を狭めるように進軍して来たファランジスト達が密集する中から脱出しなけ
ればならなかった。
きつく目を閉じ、必死になって若い兵士の背にしがみつく少女の耳には、断末魔の悲鳴や銃声、そして風の音が、一緒くた
になって流れ込む。
倒れた母親が、その亡骸にすがって泣く子供が、妻の亡骸を背負って逃げる夫が、棒きれを手に取り絶望的な反撃に出る男
が、地獄を絵に描いたような光景の中、等しく銃弾を浴びて倒れてゆく。
歯を食いしばって目を閉じているアジールは、何度か衝撃を味わった。
バイクが跳ねたり、ライザーが発砲したりする衝撃を。
そして、永遠にも思える長い疾走の末、少女は耳よりも、密着した体を伝わって先に届くその声を聞いた。
「もうすぐだ!もうすぐ抜けるぞ!」
ライザーのその声に、しかし苦痛の色が浮いている事をアジールは悟る。
バイクが走り出してから初めて、アジールは目を開けた。
そして、風に叩かれて麻痺している自分の肌を染める生々しい赤に気付き、目を見張る。
ライザーの左肩から流れた鮮血が、弟の血で染まった彼女の腕を上塗りしていた。
若き兵士は肩を撃たれていた。前から後ろへ貫通し、左腕はだらりと体の脇に下がっている。
そして傷ついたライザーが向かう先には、キャンプから出ようとする難民達を阻むべく設けられた、ファランジスト達の最
終包囲線。
夜明けが遠いように、自由への境界は険しい。
片腕でバイクを制御するライザーは、もはや反撃もできない有様であった。
デザートイーグルには、残り一発の弾丸。しかしそれすら撃つ事は叶わない。
「首を縮めて!頭を低く!大丈夫…!君だけは必ず、私が救って見せる!」
意地と使命感。兵士としてではなく、自分自身の行いに対する誇りを最後に残った拠り所とし、ライザーは断言した。
何があってもこの少女を守る。それが、知らなかったとはいえアジールをキャンプに戻してしまった自分が果たさねばなら
ない責務。
そしてその行為は、この虐殺に間接的に荷担してしまった事への、ささやかな償いにもなる。
そのように信じているライザーの決意は固く、その黒瞳は悲壮なまでの強い意志の輝きに彩られていた。
脱出しようとするライザーが難民ではないと察したものの、発した停止警告に従う素振りも無い事から、ファランジスト達
は発砲を開始した。
土嚢を積んだ向こうから睨みを利かせて来る、二十名から成る封鎖線。そこへ突っ込むバイクは当然弾丸の雨にさらされる。
バイクのボディが弾丸に撫でられて火花を上げ、ヘルメットが勤めを果たし、こめかみの斜め上を叩かれて割れる。
脳が揺れたが、ライザーは奇跡的に意識をつなぎ止めた。
破片で額を切ったライザーの頭からメットが飛び、バンドが切れた防塵ゴーグルが外れ、後方へ置き去りにされる。
直後の強い衝撃に震え、のけぞるように背筋を伸ばしたライザーの背後へ、流れるような美しい黒髪がメットを失った頭か
らこぼれ出て、アジールの顔を覆った。
一瞬、やや上向きになった顔の中で、大きく目を開いたライザーは、微かに口を動かした。
「…ああ…。そうか…」
何かを理解したようなほのかな笑みが、その口の端を歪めた次の瞬間、ライザーは顔を前に戻し、キッと前方を睨み据えた。
「退けぇえええええええええええええええええええええええええええええええええっ!」
尾を引くように長い黒髪を後方へなびかせ、手負いの兵士は褐色の肌を風に叩かれるまま咆吼を上げる。
その気迫に押され、信仰心という鉄壁のアルゴリズムに精神を守られているはずのファランジスト達が怯む。
それは、人という獣が放つ魂の咆吼にして、命の鳴き声。
今に至る進化の過程で人間達から失われた、獣としての叫び。
時として人は、原始のソレを呼び覚ます。譲れない何かの為に。奪わなければならない何かの為に。
その原始の叫びに揺り起こされた、原始の敬虔な畏怖の前には、延々と受け継がれて来たとはいえ、たかだか数千年規模の
信仰など薄紙一枚に等しい脆弱な物である。
脈々と受け継がれて来た大いなる命の流れの前には、文明や信仰など、激流に弄ばれる木の葉に等しい。
竦み上がって手が止まってしまったファランジスト達は、しかし直後に現実へ引き戻された。
連続する、一繋ぎとなった発砲音。
ライザーの後方から掃射されたサブマシンガンの銃弾は、硬直したファランジスト達をあっけなくなぎ倒していった。
「ライザー!!!」
後方から張り上げられた、聞き馴染んだ銅鑼声で、ライザーは誰が自分を援護してくれたのか悟った。
「何故来てしまったのですか…、曹長…!」
哀しげにも、少し嬉しそうにも見えるライザーの顔は、「仕方がないなぁ」とでも言いたげであった。
世話焼きの…いや、お節介な曹長の援護射撃を受けながら、ライザーは直進した。
原初の咆吼に当てられ、さらに掃射で仲間をなぎ倒され、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆくファランジスト達の中央を抜
け、無人の荒野に向かって。
「馬鹿な真似をする」
恰幅の良い曹長は分厚い胸の前で腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔をしながら、停めた愛車に寄りかかって地べたに座
るライザーを見下ろしていた。
「例え馬鹿な真似でも、これだけは譲れなかった…。そういう事です」
微苦笑を浮かべてライザーが応じると、曹長は組んでいた腕を解き、ため息をつく。
「あの娘…、知り合いだったのか?」
顎をしゃくった先には、二人から少し離れた所で、所在なくぽつんと膝を抱えているアジールの姿。
ライザーは頷くと、かいつまんで事情を説明し、曹長に懇願した。
「あの娘は何も知りません。ファランジストと我が軍の間でどんな取り決めが為されたのかも、何故自分達があんな目に遭わ
されたのかも…」
「…だから見逃せ、と…?」
曹長が仏頂面で後を引き取り、ライザーは申し訳なさそうに頭を垂れた。
「……………」
しばし黙ってライザーを見下ろした後、曹長は深いため息をついた。
「何とか言い訳を考えてみるか…。放浪していたところを任務中に拾ったとか…、本人にも口裏合わせはせんといかんだろう
がな…」
「ありがとうございます…。曹長…」
嬉しそうに目を細めたライザーは、何故か遠い目をした。
曹長を通り越した向こうに、何かが居るかのように。
大柄な曹長の背後へ向けられた瞳には、彼よりさらに大きな巨体が映っているのだが、しかし曹長はそれに気付けない。
静かに佇むジブリールの姿は、ライザーにしか見えていなかった。
北極熊は空色の瞳に、透き通った哀しげな光を滲ませながら口を開く。
「悪いけれど、もうそろそろ限界だ…。これ以上は引き延ばせない」
曹長にもアジールにも聞こえないその声に、ライザーは顎を引いて小さく頷いた。
そして、疲れたようにふぅっと息を吐く。
その、肺の中の空気を絞り出すように深い息の終わりは、咳に続いた。
コフッ、コフッ、と繰り返し咽せるライザーの前で、曹長は出っ張った腹が窮屈そうな体勢で屈み、心配そうな顔をする。
「大丈夫か?咳き込むだけで傷に響くだろう、無茶しおって…」
普段は滅多に覗かせない、大男の本音が混じったその表情は、しかしすぐさま硬く凍り付いた。
咳き込むライザーの口の端から、すーっと、赤黒い滴が零れ、とがった顎先から滴り落ちる。
「ライザー!?お前っ…!」
驚愕する曹長の前で、ライザーの尻の下に血溜まりが広がっていく。
いつからそこに空いていたのか、何故今まで気付かなかったのか、大きく見開かれた曹長の目には、ライザーの胸の真ん中、
軍服の布地を濃く染めた血の輪が映っていた。
「お前まさか、胸を撃たれて!?」
慌てて軍服に手をかけ、慎重な手つきでボタンを外した曹長は、ライザーの胸の中央…豊かな双丘の間から止めどなく流れ
出る鮮血を目にして愕然とした。
「…済みま…せん…」
ごぽごぽと込み上げる血が、ライザーの声から明瞭さを奪う。
「ば、馬鹿な!?今の今まで何ともなかったのに…!」
顔色を失っている曹長の背後で、ジブリールは神妙な顔つきで目を閉じる。
ヘルメットが砕けた直後に受けた一発の弾丸は、彼女の胸の中央にめり込んでいた。
生命活動の停止を免れない致命的な損傷は、見られないまま追従していたジブリールによって停滞処置を施されている。
被弾した直後、措置を施すパールホワイトの弾丸が後頭部に飛び込んだその時から、ライザーは理解していた。自分がもう
助からない事と、僅かな猶予を与えられたという事を。
声ではなく、言葉ではなく、弾丸を介して送り込まれたジブリールの思念によって、己の状態とその死期を悟ったライザー
は、そのままアジールにも曹長にも気付かれないよう、今まで振る舞って来たのである。
しかし、ジブリールが吹き込んだ力が肉体の崩壊を止めるのも、もはや限界となっていた。
「曹…う…、最期まで…迷惑………かけ…」
「喋るな!良いから喋るな!」
怒鳴りながらも、その分厚い手をライザーに胸に押し当て、出血を止めようとする曹長。
しかしその手の隙間から、命がこぼれ落ちるように、温かい血は止めどなく滴り落ちてゆく。
「馬鹿野郎っ!馬鹿野郎!馬鹿野郎…!」
曹長の罵声は次第に弱々しくなり、その顔は徐々に俯いてゆく。
異常に気付いたアジールは、腰を上げて二人に歩み寄ると、ライザーの有様を目にして息をのんだ。
両手で口元を覆う少女の顔から血の気が失せ、その見開かれた目には、口元を真っ赤に染めた女兵士の、満足げな、美しい
微笑が映り込む。
立派で誇り高い軍人だった父と、優しい母の元で過ごした幼少期。
父への憧れから軍人を目指し、年頃の娘が興味を示すような物事に一切目を向けず、世間知らずになってしまう程に己を鍛
える事にのみ全てを傾けた青春時代。
軍に入り、力不足を思い知らされながらも精進した、思い起こせば充実していた日々。
めくるめく記憶の奔流が、ライザーの頭を埋め尽くす。
(救われた…。これまで目を背け続けてきた現実を思い知らされ、それでもなお救われた…。アジール…。生きて欲しい…。
どうか君は幸せに生きて欲しい…。私にこんな事を願う資格など無い事は解っている…。それでも願わずにはいられない…。
アジール…。幸せに…。君は生きて、私には掴めなかった、女としての幸せを…。…そして…、曹長…、済みま…せ…)
呼吸に続いて鼓動が止まり、ライザーの意識は途切れた。
微笑みを浮かべたまま事切れたライザーの前で、胸の穴を両手で押さえながら、曹長は号泣した。
アジールの目から涙がこぼれ落ち、顔に残る乾いた血と煤を洗い落としてゆく。
意志と生命の光を失ったライザーの目は、しかしそれでも、自分が繋いだ未来…ここから先へ続いて行く旅路を歩むアジー
ルの泣き顔を映したまま、曇った宝石の如き風情をたたえていた。
「見届けたよ。立派な旅だった…」
ジブリールは静かに目を閉じると、背から伸びた巨大な翼を広げた。
暖かなパールホワイトの光が周囲に満ちてゆき、その上方へレモンイエローの飛行艇が飛来する。
「頼むよミカール…。これから、彼女を再誕させる」
再び開かれたジブリールの目には、微笑んだまま事切れているライザーの姿が映り込んでいた。
「…んまに良かった…か?封印して…うて…」
「…いよ。扱えてしまう方が危険だと…う…。何せ今…彼女は赤子…同じだか……」
「…か…。せやけど………ったいない気も…」
「…いおい封は解く…。彼女に……が戻っ……ね…」
遠く聞こえる声が、途絶えた意識を再び目覚めさせた。
しかし心地よいまどろみと現実の狭間で、意識は頼りなくフワフワと揺れる。
「しかし…、ほんまにこれ、アイツなんか…?」
「永らく人間の体に宿り続けていたせいなのか、それとも完全ではないからなのか、魂の形がだいぶ変わってしまっているね。
けれどそれも無理はないよ。一度は拡散してしまったんだから…。こうして自力で再結集、再構築していただけでも驚きだよ」
「驚くて…、予期しとったんやろ?せやから探しとったんやないか?」
「欠片…、という形でならね、見つかると思っていた。…けれど僅かにも見つからなかった訳だよ。おそらくはずっと昔に集
結して、人間に宿っていたんだからね」
「そこがよう解らへん。転生できんやろワシらは?何で人間に生まれとんねや?ムンカルやあるまいし…」
「肉体に刻まれた履歴を確認してみたけれど、ライザーという女性は、胎児の状態で一度死んでいる。これは因果から外れた
死だった。しかしどういう訳か実際に彼女は生まれ、今日まで生きていた。そして、結果として因果は乱れなかった」
「へ?は?ほ?何?何やそれ」
「死産になっていたはずの胎児は立派に成長し、そこに彼女の魂が宿っていた…。これは推測だけれど、因果から外れて死産
になった人間の胎児に入り込む格好で疑似転生しながら、彼女は長い時を彷徨って来たんだと思う。結果的に因果の乱れを食
い止めながら」
「因果の綻びを埋める格好で…か?なら、こいつ意識は…」
「いや、たぶん無いだろうね。無意識の内にそうしてきたんだろう…。彼女らしいよ」
「けど、今回は因果の乱れを引き起こす原因になっとったんやろ?」
「そうだね。出会うはずのない場所でアジールというあの少女と出会い、危うく死なせてしまう所だった…。「ライザーとい
う兵士が自身の手で少女を救い出す」事で、どうにか因果の乱れを自分の手で精算させる事はできたけれど…」
「できたけど?」
「こうも思うんだ。因果の乱れを無意識の内に食い止めていた彼女が、自由の利かない人間の肉体に宿っていたとしても、こ
んな凡ミスをするものなのかなぁ?って…」
「…わざとやったて言うんか?こいつが…」
「いや…、ニュアンス的には「やらされた」と言った方がより近いかもしれない…」
「やらされた?誰に?」
「…遍在せし、見えざる手…」
「…なるほどな…。タイミング的にはバッチリや。丁度良く旅が終わったおかげで、こうしてお前に回収されたんやからな。
…おっ?気付いたらしいで?」
耳をくすぐっていた二人のやりとりが途切れ、訪れた沈黙が逆に覚醒を促す。
耳に馴染んだ風の音すらない静寂の中、ゆっくりと目を開けると、まず視界に飛び込んで来たのは白い天井であった。
頭の芯が痺れているような感覚と、たちまち周囲の情報を拾い集め始めた全身の鋭敏な感覚がギャップを生む。
自分の状況を認識しようと、意識のピースをつなぎ合わせ、覚醒の瞬間に手をかけた彼女の眼前に、ぬっと、パールホワイ
トの被毛に覆われた大きな顔が突き出される。
ベッドの上に仰向けで寝ている彼女を上から覗き込む格好で、澄んだ空色の瞳でじっとその顔を見つめながら、北極熊は優
しげに、そして懐かしげに微笑んだ。
「気分はどうだい?」
人間だった頃より感度を増した魂が、その声に反応した。
知っている。
この白い巨漢を、自分は知っている。
懐かしくて暖かい、優しくて力強い、その眼差しを、声を、心を、自分は知っている。
「…はい…」
ライザーだった者が小さく顎を引いて頷くと、被さるようにして覗き込んでいたジブリールは身を引いた。
ふわふわと落ち着かない感覚はあったが、それでも彼女は身を起こそうとする。
しかし精神と感覚と新たな肉体はまだ完全に噛み合っておらず、その動きは弱々しく、おそるおそるといった様子が覗えた。
おぼつかない動作でベッドに手をつき、のろのろと身を起こした彼女の背を、大きくて暖かい北極熊の手がそっと支える。
ゆっくりと顔を上げ、視線を向けてきた彼女に、ジブリールは優しく微笑みかけた。
「…おかえり…、アズ…」
一瞬戸惑った後、彼女はおずおずと口を動かす。
「…ただい…ま…」
ジブリールとミカールが持ち得る全ての知識と技術を駆使し、魂に合わせてゼロから構築された彼女の肉体は、人間として
生きていた時に纏っていた肉体同様、女性として完璧と言えるプロポーションを備えていた。
ただし、その身には豹のイコンが顕現しており、人と豹が融合した半人半獣の黒い異形と化している。
この再会に一縷の望みをかけて地上に留まり続け、そして今ようやく待ち望んだ再会を迎え、穏やかに喜ぶ北極熊。
一方、かつての記憶は既に無いながらも、戸惑いつつ懐かしさを噛みしめる黒豹。
しかしミカールは、二人の様子を眺めながら、表情を消して考え込んでいた。
ジブリールも知らないある事を、彼は知っている
(こいつがアズライルやったら…、せやったら、アイツが連れとるのは何なんや…!?あのちんまい白いのは…、一体…?)
時は1982年9月。国ごとの欲と理想と大儀を胸に、列強ひしめく激動のベイルート。アズライルはこうして再誕の時を
迎えた。
かつて反逆者として処刑され、魂が地上に霧散して以降、永い時を経て再統一された魂が、人の輪に紛れて地上をさすらっ
た末の事であった。