第五十三話 「反逆者の再誕」(後編)

星の輝く夜空の下で、鉄色の虎は小石を高く放り上げ、手の平で受け止める。

その顔には何故か得意げな笑みが浮かんでいるが、キッチンから呼び出されたレモンイエローの獅子は、対照的に不満顔で

ある。

「何や見せたい物て?ワシ忙しいんやさかい、とっとと見せぇ」

「まあまあ、すぐ終わるからよ」

応じたムンカルはニヤつきながら小石を握り締めた。

この場には二人の他にもう一名、少し離れた所に狼が屈んでいるのだが、こちらはムンカルとミカールのやりとりに目もく

れず、「これぞ自分のレゾンデートル」と言わんばかりの集中力を発揮し、黙々と石を積んでタワーを建造している。

「へっへっへ…!度肝抜いてやる…!」

呟くなり小石を宙に放ったムンカルは、放物線を描いたそれが、自分とミカールの視線が交わるその中間にまで落下した瞬

間、素早く右手を突き出した。

「時干渉!」

宙で落下速度を緩め、羽毛のようにゆっくりと落ちる。…はずだった小石は、何故かその場から消失し、ムンカルは目を見

張った。

「…あれ?どこ行った?」

首を傾げ、地面に視線を走らせて小石を探すムンカルは、ふと、ミカールの頭の脇でチラチラ光っている物がある事に気付

き、顔を上げる。

ミカールの頭のすぐ右側では、火の粉が宙を漂っていた。そして…。

「…ミカール?鬣が…、ほれ、ココんとこちょっとおかしいぞ?」

自分の右のこめかみを指差しながら言ったムンカルを睨み、ポッテリした短身肥満の獅子は肩を震わせながら口を開いた。

右のこめかみから側頭部にかけて、ゾックリと抉れたように鬣が消失したまま。

「あのなムンカル…。時干渉いうモンはやな…、ただ対象に干渉するだけやない…。空間の座標をきっちり指定して、そこに

流れる時間を引き延ばすモンなんや…」

何かを堪えるような、やけに静かなミカールの声に危機感を抱いたムンカルは、獅子が半歩退くと同時に消失したポイント

へ石が出現すると、そちらに目を奪われる。

「ダメっ子のオドレにも判り易いように説明したるけど…、ワシらが踏んどるコレ…、地球ってもんはやな、それ自体も回転

しとるし、太陽の周りをぐる〜って回っとんねや…。宇宙船地球号、判るか?この星自体が高速で宇宙を移動しとんねん。せ

やからうかつに単品に干渉するとな、その自転と公転から置いてかれてまう…。判るか?んんダメっ子?」

漂っていた火花の正体は、ミカールのこめかみから吹き散らされ、摩擦熱で発火した鬣の残骸であった。

ムンカルの未完成な時干渉によって時の流れから取り残された小石は、同時に地球の自転や公転などからも取り残された。

そしてその結果、相対的に超速度でこの場から離れて行く事になる。

ミカールは、視認不能な超高速で置き去りにされた小石にこめかみ付近を通過され、自慢の鬣をごそっと持っていかれてし

まっていた。

そして今、ムンカルの干渉限界が訪れ、本来の時の流れに引っ張られた小石は、置き去りにされた分を倍速で取り返し、こ

の場に戻って来たのである。

地面に転げた石からゆっくりと視線を上げたムンカルは、ビクリと身を硬くしつつ、全身の毛を針金のように逆立てた。

レモンイエローの獅子の鬣が、ざわざわと揺れながら逆立ち、少し伸びている。

「ま、まま待てミカール!ぶ、ブーツは!ブーツはマジで痛ぇから!」

感情の昂ぶりで除幕しかかっているミカールは、いつの間にかブーツを脱ぎ、それをグローブのように両手に填めていた。

ひたひたと、素足で地面を踏みながらゆっくり近付くミカールと、じりじり後ずさるムンカル。

「ワシのチャームポイントに何さらしてくれとんねや、このボケぇ…?いてまうぞごるぁあああああああああっ!」

「ぎゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

目を激しく光らせて飛び掛ったミカールは、身を翻して逃げようとしたムンカルの背にアタック。

体付きの頑強さでこそ敵わないが、ミカールはぼってり肥えており、ハイトとウェイトの割合からすればムンカルを上回る。

腰の少し上にタックルを仕掛け、見事うつ伏せに転倒させた。

さらにその背中へ馬乗りになるなり、即座に虎の後頭部へラッシュを繰り出すミカール。

ブーツグローブを填めた両拳で、間断なく。そして容赦なく。

「いででででででで!がががががががが!いででででででで!べべべべべべべべ!いででででででで!」

普段のスリッパアタックやクッションアタックのスパンスパンやボフボフという和やかな音とは比べ物にならない、トン単

位の加重も物ともしない厚底ライダーブーツのボガスボガスという重い打撃音が周囲に響き渡る。

地面と、間断なく繰り出されるブーツパンチの挟間で、ムンカルの頭はさながらバスケットボールの超低空ドリブルの如き

動きを見せた。

顔を顰めたくなるような打撃音がこだまする中、我関せずと言わんばかりに無視を決め込んでいる…否、二人の事などまるっ

きり眼中に無いナキールが、高さ1メートルを越えた石のタワーをなおも増築してゆき、時はゆるやかに流れて行く。

その、傍から見ればかなり愉快な動きを数分間続けた後、ミカールの鬣は縮んで戻り、半端な除幕が終了した。

地面にうつ伏せ大の字になって延びているムンカルを片足で踏みつけ、立ち上がったその時には、鬣の欠損もすっかり修復

されている。

「ったく…!余計な真似ばかりしくさって…!」

ムンカルの背中にブーツを乗せ、それに足を突っ込みながら、ミカールはブツブツと呟く。

玄関マットレベルの扱いをされているムンカルは、顎を地面に浅くめり込ませながらうーうー呻いていたが、やがてミカー

ルがブーツを履き終えると、顔を顰めて後頭部を擦りながら身を起こした。

「そもそも、何でオドレ時干渉の手法知っとんねや?」

「いや、こないだミックのアーカイブをちらっと…」

地面にあぐらをかいたムンカルの顔を見下ろし、ミカールは不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「また勝手に覗きよって…。ワシのアーカイブに入っとんのはオーバースペッククラスでしか満足に扱えへんスキルばっかや

て言うとるやろ。本部のオフィシャルアーカイブにリンクして勉強せぇ。あれハダニエルが編集しとるから、判り易いマニュ

アルばっかりやで?」

「ふん!マニュアル程度の事で、腕なんか上がんのかよ…」

小馬鹿にしたように吐き捨てたムンカルを見下ろすミカールは、その目に厳しい光を湛える。

「マニュアル程度…?」

「だろう?決まった形学んだってたかが知れてらぁ。そんなんじゃこないだのアイツみてぇなのには敵いっこね…」

「このダァホ!そんなセリフはマニュアル通りの事が完璧にこなせるようになってから吐くモンや!」

ムッとしたように見返すムンカルに、ミカールは続けた。

「オドレのようにな、やれ「マニュアル通りはダメ」だの、「マニュアル通りは嫌い」だの言うヤツ結構おるけど、ワシに言

わせればその九割がマニュアル通りの事すらできてへん半人前や。決まった形に縛られへん自分は、皆と違うててカッコエー!

て、悦に入っとるだけや大半は」

獅子は不快げに言い放ち、ずんずん足を進めてムンカルの前に立つ。

「基礎もこなせへん半人前の、言い訳混じりのカッコツケほどカッコワルイもんはそうそうあらへん!マニュアル、セオリー、

定石、何でこういうモンが廃れへんか判るか?答えは簡単、必要だからや。特にマニュアルなんか、いわゆる技術とコツの結

晶体なんやからな」

間近に立って見下ろすミカールを、ムンカルは反論もできないまま上目遣いに見つめる。

「マニュアルはな、それを要らんてほざくぺーぺーのダァホよりずっと出来るヤツが編集しとんねや。ず〜っと昔から何人も

が手ぇ加えて、何万年もの試行錯誤の末に進化してきたマニュアルと、誕生してから半世紀も経ってへん調子付いた小僧の思

いつき…、どっち取る言われたら、ワシならまずマニュアル取るわ。オドレはドビエルから何を教わったんや?ブラストの制

御方法かて、アイツが永い時間かけてコツコツ組み上げてきた一種のマニュアルや。オドレが見たワシの時干渉もマニュアル

に則ったモンや。そういうモンを軽んじるなら、それ以上のマニュアルをゼロから自分で作れなアカン。…先人の知恵を小馬

鹿にするなら、オドレにはそれがやれるんやろなムンカル?おうっ!?」

「…悪かったよ…」

耳を倒し、ボソリと謝ったムンカルを前に、ミカールは「フン!」と鼻を鳴らす。

「まずはマニュアル通りの事がこなせるように気張りぃ。その後は応用、そして改良、それから自分のオリジナルを模索する

んや」

体の向きを変え、ミカールは飛行艇に向き直りながら続ける。

「それが出来るようになったら、ワシの「トッテオキ」、全部教えたる」

立ち上がったムンカルがややしょげながらその後を追うと、ミカールは思い出したように足を止め、肩越しに振り返った。

「せや…。時干渉はな、オーバースペックでも完璧に制御するんは難しいモンなんや。上手く行かなくても恥かしい事なんか

あらへんで。発動させられただけで誉めたってもえぇぐらいや。…実用レベルで使いこなせるんは、今じゃワシの他に一人だ

けやし…」

「ミカールの他に、たった一人だけ…!?誰だ?先生か?それとも旦那?あ!姐御か!?」

「ドビエルもジブリールも使われへん。イスラフィルもや。自慢やないけど超高等技術なんやで?」

「んじゃあ誰が…」

困惑するムンカルに背を向け、ミカールは歩き出しながら口を開いた。

「テリエル…独立配達人や。ムンカルは知らへんやろな」

レモンイエローの獅子は空を仰ぐ。

オーバースペックでありながら全ての役職を拒否して地上を駆け回っている、自分達同様の変わり者の事を思いながら。

「今は、どこの空の下におるんやろな…」



「ふぁ…、ふぁ…!ぶうぇくしょぉいっ!」

突風に近い壮絶なくしゃみを放った男の横で、並んで歩いていた黒虎が「大丈夫ですか?」と顔を覗きこむ。

「誰ぞ、儂の噂話でもしとるんじゃろか…」

厳つい顔を顰めてそう呟いたのは、体格の良い猪であった。

全身を覆う剛毛は鮮やかな紺色。身長こそ並より少し高い程度だが、根本から先までが一様に太い四肢に、ドラム缶のよう

な胴。それに加えて文字通りの猪首と、頑強そうな体躯である。

やや肥えて腹が出ているものの、筋肉の量が半端では無い。そのせいか、見ている者に一塊の岩を連想させた。

配達人の仕事着を纏ってはいるものの、猪が着込んでいるライダースーツは、いささか通常の物とデザインが異なっている。

背中に白い翼を意匠化したエンブレムがついているのは通常の物も同じなのだが、筋肉で膨れて丸みを帯びた両肩の脇に、

漢字の「愛」の文字が真っ赤に浮かび上がっていた。

二人が並んで歩いているのは、壁、天井、床、全てが象牙色の通路である。

「で、審問会が始まってからどの程度経ったんじゃ?」

ライダースーツの胸元に手を突っ込み、懐紙を取り出した猪が鼻をかみながら訊ねると、黒虎はやや疲れたような表情で口

を開く。

「四十二時間が経ちました」

「おほぉ〜…!長引いとるのぉ」

「ケースがケースですからね、今回は…」

黒虎は軽く目を閉じ、目頭を押さえてため息を漏らした。

配達人ジブリールが、アズライルと思われる者だと称して見慣れぬ黒豹を本部へ連れて来たのは、丸二日前の事である。

アズライルという名は聞いた事がある。

当時まだ黒虎は発生していなかったため本人との面識は無いが、かつて前代未聞の大規模な因果の乱れを引き起こした反逆

者だという話を。

今回の審問内容は、彼女が真にアズライルであるのかどうかという事の確認。

そして、もしそうだと確認できた場合、どのように対処すべきかという方針決定である。

前者については既に確認された。

残っていたデータから、魂の波形がほぼ一致している事が判ったのである。

魂の波形は人間でいう指紋のような物で、個人ごとに異なる。黒豹の場合、やや変質はしているようだが、かつて存在した

アズライルの魂と一致すると判断された。

この確認までは数時間で結論が出ているのだが、時間がかかっているのは後者についての審問である。

力は殆ど失っているようだが、また以前と同じような暴走行為に及ぶ危険性がある。

審問会のメンバーは、その九割がそう主張していた。

だが、黒虎の上司たるドビエルや、その親友でもある黒豹の弁護者ジブリールは、そう思ってはいないらしい。

冥牢から出向いてきたマリクに到っては、おおっぴらに黒豹の弁護に回っている。

アズライルという名の女が上司の古馴染みだったという話は小耳に挟んでいたので、情が湧くのだろうとは推察できたが、

しかし黒虎はドビエルの本気の度合いを見誤っていた。

まさかあの規則遵守を絵に描いたような上司から、極秘にこの猪と接触し、審問会の席へ案内するようにと頼まれるなどと

は思ってもいなかったのである。

審問会に参加している上司の事を思いつつ、改めて周囲を伺った黒虎は、声を潜めて猪に耳打ちした。

「…テリエル様。くれぐれも、我々から接触があったという事は内密に…」

耳にかかった吐息がこそばゆかったのか、猪は耳をパタタッと動かして顔を顰める。

「判っとるわい。たまたま本部に立ち寄ったという事にしとけばええんじゃろ?」

「はい。一つ宜しくお願い致します」

腰を折って深々と頭を下げた黒虎を、猪は顰め面のまま見遣る。

「それと、いい加減に様付けは止めんかい。今じゃ立場はお前さんの方が上なんじゃ、呼び捨てにせんか」

「そのようにお呼びする訳には参りません!」

「呼び捨てが嫌なら、ふれんどりぃに「テルちゃん」と呼んでもええぞ?」

「…そのようにお呼びする訳には参りません…」

黒虎が繰り返すと、猪はつまらなそうに鼻を鳴らす。

「あの問題児がすっかり堅くなったもんじゃのぉ…。そんなんじゃあ恋人もできんぞ?」

「自分は恋ができる仕様になっておりませんので…」

「出会いは唐突に、らぶすとぉりぃは突然に、じゃ。仕様で恋ができんなんて話があるかい。お前さんにも、いつかビビッと

来るモンが現れると思うがのぉ」

猪がそう言うと、困り顔の黒虎は一瞬黙り込み、その後どこかほっとしたような表情になって前方を指差した。

「着きました。今回の議場はこちらです」

「うむ」

頷いた猪は、一見行き止まりに見える通路の突き当たりで足を止める。

その脇に控えた黒虎は、改めて恭しく一礼し、壁に向かって口を開いた。

「失礼致します!本審問に立ち会いたいと希望するお方がお見えですが、いかが致しましょうか!?」

通路に反響する朗々とした黒虎の声が消える程の間を置き、継ぎ目の見えなかった壁に、すぅっと縦の線が入る。

そこから壁が左右に割れると、猪は顎を突き出すようにして、堂々と中へ入って行った。



「俺ん時は、審問会って夜までだったよな?」

ヒミツの手段で機嫌を直させたミカールの顔を眺めつつ、訝しげに言ったムンカルは、ビールのつまみの生ハムを皿から素

手で数枚纏めて摘み、上を向いて大きく開けた口に落とす。

二人は夜食中だが、ナキールは石の塔の終わる事なき建造に明け暮れており、呼んでも飛行艇内に戻って来ない。

結局ミカールは呼び込むのを諦め、休日だからという事もあって今夜は放置する事に決めていた。

「せ…せやな…、丸二日もかかるんは珍しいわ。普通数時間やし」

オレンジジュースをジュルジュル啜っていたミカールが、まだ顔を火照らせたまま応じると、虎男は口をモゴモゴ動かしな

がら首を捻った。

「普通は数時間?俺ん時は長ぇ方だったのか…」

「まぁ、前例無いケースやったし…、何せブラスト搭載者やったしな」

「じゃあ今度は何で長ぇんだ?やっぱり、アズライルってあの女が元人間だからか?」

「う〜ん…。元人間言うたら確かにそうなんやけど…。お前ん時とはちと事情が違うとるんや。アイツは元々「こっち側」の

モンやったから…」

「あん?」

「話すと結構長くなるんやけど…、一応説明しとこ。ビジョン送るて手もあるけど、膨大な量になるから負担かかるし…、か

いつまんで言葉で伝えた方がええやろな…。…それと、今から話す事な、本人には黙っときぃ。…時が来たら自分から伝える

て、ジブリールも言うとったさかい…」

訳が判らず頷いたムンカルに、ミカールは何処から話すべきか少し考え、やがて口を開いた。

「アイツ…アズライルはな、ワシらと同じオーバースペックや」

「は!?いや待てよ!アイツ数日前まで人間だったろ!?」

「正確には、人間の皮を被っとったようなもんやけどな」

「皮!?皮ってなんだ!?包茎!?」

素っ頓狂な声を上げたムンカルはやや…いや、大いに混乱していたが、ミカールは構わず先を続けた。

「…ずっとずっと、ずぅ〜っと昔の話や…。配達人制度がまだできてへんかった頃…。人間が文明て呼べるモンをようやく築

いて、それを発展させてく途中やった頃…、アイツはワシらと一緒に本部務めしとった。そして…、その頃はまだ欠落が殆ど

無かったジブリールと、恋仲やった」

「…旦那と…?」

呟きつつも、虎男は落ち着きを取り戻して納得する。

あの黒豹を連れ帰ってから本部に行くまで、僅かな間しか見ていなかったが、ムンカルが知らないその女に対するジブリー

ルの態度は微妙に、しかし確かに普段と違っていた。

いたわるようなその態度は、不慣れな環境に不安を覚えているだろう黒豹を気遣っての物とも思えたが、改めて考えればそ

れだけではないような気もする。

(そうだ。目がおかしいんだ。アイツを見る時の旦那の目…、どっか懐かしそうで…、寂しそうで…)

そう思い起こすムンカルの耳には、ミカールの話が滑り込み続けている。

「…けど、アイツはある事件で消滅してもうた…。その時に砕けた魂と力は地上に降り注いで、その頃絶滅するはずやった「

ある種」が生き延びるてゆう、観測史上最大の因果の乱れを引き起こした…。そのすぐ後やった。ジブリールが、制度ができ

たばかりの配達人に志願して地上に降りたのは。…ワシとイスラフィルも、その時に付き合って配達人になったんやけど…」

ミカールは一度言葉を切ると、小さくため息をついた。

「一昨日までは、心のどこかで信じ切れてへんかった…。あの時砕けた魂は消えてへん。地上に留まっとるはず。…そう主張

するジブリールの推測をな…」



「ちょいと邪魔さして貰うぞ」

そう断りながら議場に足を踏み入れた者の姿を目にし、審問会に参加していたメンバー達から小さくどよめきが上がった。

証言席に立つジブリールと、その脇で椅子にかけたままだった黒豹もまた、背後を振り返る。

「…テリエル…?」

訝しげに、そして懐かしげに目を細めた北極熊に、猪は厳つい顔に似合わず器用にウインクしてみせた。

(テルさん…?何で…)

議長の犀も、表情は変えぬまま驚いていた。

これまでの間、彼に相応しいであろう室長級の役職に就く事はおろか、本部務めになる事すら拒み続け、本部の方針に一切

口を挟まず、距離すら置いていたこの猪の態度を鑑みれば、審問会の場に姿を現す事などまずありえない。

だがハダニエルはすぐさま気付き、この審問会において自分に次ぐ席に着いている灰色熊をそっと横目で見遣る。

いつもながらのポーカーフェイスで感情も心中も読み取れなかったが、犀は確信した。テリエルが現れたのは、彼の差し金

だという事を。

(ちょくちょく口を挟んでは、のらくらと会議引き延ばすような発言を繰り返してたが…、狙いはコレかよドビエル?部下使っ

てテルさん連れて来させるまでの時間稼ぎか…)

一方、冥牢管理者席に着いている大柄な雌牛は、猪の姿を眺めながら、口元を緩めてニヤニヤしていた。

(またこっそり手ぇ回してたんだね?やってくれるじゃないかい、えぇドビエル?)

全員の注目を浴びながら、審問を受ける側と助手を除けば唯一室長級でない猪は、しかし立場の優劣など意にも介さず、ズ

カズカと証言席に歩み寄った。

「たまたま戻って来てみれば、面白い事になっとるらしいのぉ?」

猪はそうのたまいつつ、椅子にかけて姿勢を正している、やや緊張気味の黒豹の脇に立った。

そして、困惑しているような彼女の視線を浴びながら、間近でじろじろと不躾にその姿を確認する。

「ほう…。見てくれ…特に毛色や目の色は変わったが、こいつは確かにアズライルだなぁ」

顎に手を当てながらしみじみと吐き出されたテリエルの言葉で、審問員達はにわかにざわつき始める。

「静粛に!静粛に!…独立配達人テリエル」

議長の犀はざわつきを制して声を上げると、次いで猪に視線を固定した。

「知っての通り、審問会に出席できるのは、証言者と助手を除けば室長級以上の者に限られる。貴方には…」

「判っとる判っとる。儂はこの会議に出られるほど偉くないって言いたいんじゃろう?」

ハダニエルの声を遮って言うと、テリエルは「フゴッ!」と苛立たしげに鼻を鳴らした。

「で、お偉くて賢い連中が雁首揃えて、何をだらだらぐだぐだ丸二日も話し合っとんじゃい?ええ?」

「口を慎みたまえ、独立配達人テリエル!」

猪がメンバーを見回すと、黒面の羊が不快げに声を上げた。

「貴方には危険度が認識できていないのかね?貴方自身も今言ったではないか!その女はアズライル…!反逆の…」

「出世はしても相変わらずじゃのぉ小僧?お前さん、オツムはすこぶる良いんじゃが、とことん馬鹿なのが玉に瑕じゃ」

テリエルは煩そうに顔を顰め、黒面羊の言葉を遮る。

「なっ!?ぶ、無礼な口を…」

「じゃかぁしぃわ、ちっと黙っとれぃ」

面倒臭そうにシッシッと手を振ったテリエルは、怒りで顔を真っ赤にしている羊にはもはや目もくれず、アズライルに視線

を戻した。

「久し振り…と言いたいトコじゃが…。嬢ちゃん。その様子じゃあ儂の事が判らんようじゃのぉ?」

問われたアズライルはこの猪の事は当然知らなかったので、戸惑いながら顎を引く。

「は、はい…。初対面だと思いますが…」

「ふむ、なるほどのぉ…」

頷いたテリエルは問いかけるような視線をジブリールに向け、北極熊は少し寂しげにかぶりを振った。

「自力で再構築された魂は、混じり気の無い純粋な状態になっていたらしいんだ…。今の彼女には、直前に宿っていた人間と

しての生活で得た記憶しか…」

「なるほどのぉ…」

繰り返したテリエルは視線を戻すと、困惑しているアズライルにニカッと笑いかけた。

厳ついながらも人好きのする、開けっぴろげで魅力的なその笑顔に、アズライルは懐かしさにも似た物を覚えたが、しかし

その感覚は捕まえる前に消え去ってしまう。

まるで、捕まえようとした海中の細やかな砂が、波にさらわれ指の隙間から逃げ、零れて行くように。

「不慣れな場所に連れてこられた上に、退屈な話し合いが長々と続いて飽きたじゃろう?ちょいと休憩して来るとええ。ジブ

リール。お前さんちょこっと連れて行って、かふぇーで何ぞ美味いもんでも食わしてやれ」

一瞬眉根を寄せたジブリールは、しかし疑問を口にする前にテリエルの意図を悟り、口元を緩めて微笑した。

「それじゃあ、お言葉に甘えて少し席を外させて貰おうかな。行こうか、アズ」

「え?あ…、は、はい…」

黒豹が戸惑いながらも腰を上げると、流石に見兼ねたハダニエルが口を開いた。

「テリエル。勝手な真似をされては困ります」

「まぁまぁ議長さん、そう硬ぇ事言いなさんな」

悪びれもせずにニヤニヤしながら応じたテリエルは、目礼したジブリールがアズライルを連れて部屋を出ると、すぅっと笑

みを消した。

「さてと。単刀直入に訊くが…、ハダニエルよぅ。今はあの「生まれたてのアズライル」の処遇について話し合ってるって事

で良いんだな?」

「…そうです」

互いの立場を鑑みての物ではなく、プライベートな口調になっての問いかけに、犀は仕方なく頷いた。

「で、ここまでにどんな意見が出とる?」

「多数出ましたが、ここまでに絞られて残り二つ。まず、保護観察付きでの職員配置案。ジブリールが自ら保護者役を買って

出ています。賛成者は三名」

問いを重ねた猪に、ハダニエルはかいつまんで状況の説明を始めた。

「いまひとつは…、こちらが多数派ですが、危険性を鑑みての消滅処分…」

「ねぇなソレは」

犀の言葉を遮ったテリエルは、証言席のテーブルにでんと尻を据え、全員をねめ回す。

その尊大を幾分通り越した行儀の悪さに、今やハダニエルも注意をしようとは思わなかった。

「決まっとるじゃろう、消滅処分はねぇ。どんだけ馬鹿揃いなんじゃあ?室長ってなぁよぅ。えぇっ?」

「テリエル!口を慎み…」

「慎むのはお前さんじゃ小僧。ちっと考えれば判る事じゃろうが…。消滅処分は危険性がデカ過ぎるわい」

黒面羊の言葉を静かに遮り、テリエルは鮮やかな濃紺の剛毛に覆われた頭を太い指でガシガシと掻く。

「お前さん達…、性懲りも無くまたイブリースを作るつもりか?」

その呆れたような口調で吐き出されたある者の名が、その場にいる全員の身を固くさせる。

極めて剛胆なイスラフィルや、この場で最大の戦闘能力を有するドビエルですら、僅かながら肩に力が入っていた。

忌むべき名を自ら口にしながら、ただ一人だけ表情一つ変えなかった猪は、全員の顔をゆっくりと見回しながら口を開いた。

「以前とは状況が違うんじゃ。あの時のアズライルの行いが間違っとったかどうか、まだ答えは出とらんじゃろう?当時の状

況をまんま真似て審問した所で何になる?…それに、本当は皆も判っとるんじゃろう?アズライルの有能さはよぅ…。力の大

半は失われとるようじゃが、またこっち側で働いて貰えれば世界の為になるのは間違いなかろうて」

猪の話を黙って聞いていたドビエルは、どうやら皆の気持ちが動き始めたらしい事を察し、胸中で安堵の吐息を漏らした。

(やはり、テルさんに来て頂いて正解でしたね。問題が問題なのでわたくしはおおっぴらに擁護論を述べられませんし、イス

ラフィルもかつて親友だった事で、何を言っても私情を挟んだ意見と取られてしまっていました…。やれやれ…、後で何か、

きちんとした形でお礼をしなければいけませんね、これは…)



数分後、巨大なホールの一角で、ジブリールはトレイを手にして椅子とテーブルの間を歩き抜けていた。

幅があり過ぎる体を捻ったり、横向きになったりと、ユーモラスにも見える動きで向かった先のテーブルには、姿勢を正し

てついている黒豹の姿がある。

「お待たせ。チョコサンドとピーナッツサンドとブルーベリージャムがあるけれど、嫌いな物は?」

「あ…、いいえ。大丈夫です」

緊張気味のアズライルは、トレイの上に乗った大皿を彩るサンドイッチの山を見つめ、呆気にとられたような顔をした。

「ミルクティーにしたけれど、他の物が良かったかな?」

大きな手でティーポットを掴み、甘い香りのする紅茶をカップに注ぎながら訊ねるジブリールに、黒豹は首をふるふると横

に振る。

どういう訳か、顔が火照っている。胸が軽く弾んでいる。

まだ会って二日しか経っていないはずの巨漢は、どこか懐かしい香りがしていた。

全てがこれまでと違っていて、戸惑いばかりが連続する奇妙な環境ではあったが、それでもこの北極熊が傍に居れば不安は

消えた。

親しかった曹長と体型が似ているから親近感が湧くのだろうかと最初は考えていたが、しかし性格に口調、物腰と、何から

何まで違うと判った今でも、感じている親しみは薄れない。

(恩義を感じているせい…かもしれないな…。アジールを救う手助けをしてくれたし、何より、私自身もこうして救って貰っ

た訳だし…)

ライザーとしての人生を終えた自分に「その先」を用意してくれた白い巨漢は、しかしまだ詳しい事を話してくれない。

よって黒豹は今、再誕の際にインストールされた最低限の情報により、自分が何になったのかを漠然と把握しているに過ぎ

ない状況である。

審問会においても何が何だか判らず、ただ黙って椅子に座り、議論の決着をぼうっと待っている有様。

それでも判るのは、どうやら自分はあまり歓迎されていないらしいという事。

そして、白い巨漢をはじめとする数名の偉そうな異形達が、自分を弁護してくれているらしいという事。

だからこそ彼女は感覚だけでなく頭でも理解している。この巨漢が、間違いなく自分の味方だという事を。

幸せそうな顔でピーナッツサンドにかぶりつく北極熊を眺めながら、アズライルはおずおずと口を開いた。

「あの…」

「うん?」

「甘い物が好きなのですか?」

ジブリールは少しの間黙り込み、やがて「うん。好きだね」と、微笑を浮かべて頷いた。

その微笑みに巧妙に隠された一抹の寂しさに、アズライルは気付けない。

仕方がないと判っていても、ちょっとしたやりとりで思い出され、この数日間というもの、ジブリールは時折寂しさを覚え

ていた。

かつて誰よりも親しく、近しかったパートナーが、もう自分の事を全く覚えていない…。

探し、求め、彷徨った、永い永い旅路の末に待ち受けていた残酷な結末は、予期していたとはいえ厳しい物であった。

それでもジブリールは、生まれ直してくれた、また巡り会えた、それだけで十分なのだと自分を納得させる。

恋慕の情が欠落してしまった彼には、あの頃のような恋心をかつてのパートナーに抱く事ができなくなっている。そうでな

ければショックはさらに酷い物だったのかもしれないが、幸か不幸か、抱えた欠落が今は緩衝材となっていた。

「いつまで休憩できるか判らないから、そう硬くならないで。ほら、リラックスリラックス」

寂しさや哀しさを腹の奥へ呑み落とし、ジブリールは肩を回して見せながら微笑む。

つられて口の端を僅かに吊り上げたアズライルは、しかし不意に北極熊から目を外し、テーブルへ歩み寄って来る者に視線

を向けた。

「どぉも。お久しぶりですジブリール」

そう声をかけてきた相手を見遣り、北極熊は笑みを深くした。

「やあメオール。しばらくだね」

作業用つなぎを身に纏うずんぐり体型の青猪は挨拶を終えるなり猪首を捻り、北極熊の向かいに座っている黒豹を見遣った。

見慣れないどころか初めて見る相手なので、興味を覚えたのである。

「ああ、彼女はアズライル」

その名前を耳にした途端、青猪の顔に胡乱げな表情が浮く。

どこかで聞いた事のあるそれは、確か大罪人の名ではなかったかと訝ったメオールは、「一昨日発生したばかりなんだ」と

のジブリールの言葉を受け、「へぇ〜」と納得したような顔で頷いた。

(ふむふむ、たまたま同じ名前ってだけか)

胸の内で呟いた猪は、気を取り直して会釈する。

「どぉも、メオールです。その格好からすると配達人だねアンタ?こっちは専門で修理人してるんで、ご利用の際はヨロシク」

手を差し伸べ、握手を求めた猪の手を、戸惑いつつも立ち上がって握り返し、黒豹は「よろしくお願いします…」と頭を下

げる。

「実はまだ本決まりじゃないんだ。一応ライダースーツを着せているだけでね」

「ありゃ、そうでしたか」

ジブリールから補足説明を受けたメオールは、「あ、そうそう…」と思い出したように話題を変える。

「さっきお師匠見たってヤツが居たんですけど…、見ませんでした?」

「ああ、今ちょっと室長会議をしていてね、そこに顔を出しているよ」

「おや珍しい…」

「その内降りて来ると思うけれど、見かけたら伝えておく?キミが探していたって」

「あ、済みませんけどそうして貰えれば助かります。…何せお互い外勤めなもんで、なかなか会えなくて…」

首後ろをモソモソと掻きながら済まなそうに頭を下げたメオールは、

「ジブリール!議長がお呼びです!」

ホールに突然響き渡った朗々とした声に、「おっ!?」と素早く反応した。

テーブルの間を歩きながら探していた北極熊の姿を見つけた黒虎も、青猪に気付くと「あ…」と声を漏らして足を止めた。

「おひさ、べっちー」

「珍しいなメオール。何故本部に…って、べっちーゆーな…」

「来週から赴任先変わるから、今日から三日本部で待機」

「そうだったのか。それで今度はどこだ?」

「カザフスタンさ」

「ほう…。次はあそこで熊警報が出るのか」

「…もうゴメンだって…」

「二度あることは三度ある…と言うじゃないか。…おっと…」

旧友との再会で一瞬勤めを忘れかけた黒虎は、ジブリールに向き直って背筋を伸ばした。

「お二人の不在中に決まりました。審問結果について議長より申し渡されますので、席までお戻り下さい」

「決まった?」

北極熊は目を丸くし、腰を浮かせた。

「やれやれ…。そろそろだろうと思ってはいたけれど、離席中に決まるとはね…」

ジブリールはアズライルを促して歩き出したが、ふと思い出したように首を巡らせ、「どっちだろうね?」と黒虎に訊ねた。

「議長より直接お伝えされますので」

決まり切った返事を口にした黒虎は、しかしほんの少し口元を緩めて付け加える。

「では、自分は新人用の装備一式を用意しに行かねばなりませんので、ここで失礼を…」

北極熊はそれを聞くと、突き出た腹を揺すって快活に笑った。

「有り難うベリアル。さあ、戻ろうかアズ」

黒豹を従えて歩き去る北極熊の揺れながら遠ざかる広い背を見送りながら、一人だけ事情が飲み込めていない猪が首を捻る。

「何何?何の話?」

「世間話だ」

好奇心を覗かせた目をくりくり動かして訊ねるメオールを、ベリアルはすげなくあしらって踵を返す。

「では、自分は仕事があるのでこれで」

「うっわー!ヤな感じー!いけずー!」

黒虎は肩を竦めて歩き去り、一人だけ取り残された青猪はふてくされた様子で直前までジブリールが座っていた椅子につく。

が、「あれ?」と、すぐさま不思議そうに首を捻った。

ジブリールが席を立つ瞬間まで山ほど残っていたはずのサンドイッチは、いつのまにか消え失せていた。

「…分解吸収…?相変わらず力を無駄遣いするねぇあのひと…。いや、食い物を無駄にしないというべきか…」