第五十四話 「収まるべき場所」
黒豹は、ある邸宅の庭に佇んでいた。
歴史ある石造りの立派な屋敷は、しかし人気が殆ど無い。
以前は使用人も多く、庭には常に何人かの影が認められたものだが、今は一人も姿が無かった。
老人二人、それも片方が病人であるため来客も少なくなっており、以前はたくさん居た使用人も、暇を出されて随分と減っ
ている。
石畳が敷かれた歩道を踏み締め、アズライルはゆっくりと進む。
黒い瞳が見据える先には、生まれてから何度も潜った入り口のアーチ。
薄暗い屋敷内へと通じる、ぽっかりと空いたアラビア風の玄関前で足を止め、アズライルは躊躇うように足下を見た。
「…違う…」
ぽつりと呟き、胸に手を当てる黒豹。
再誕してから一週間が過ぎた今日、晴れて配達人となったアズライルは、自分の生家を訪れていた。
飛行艇は今、次の配達区域に向けて移動している途中である。
最短距離からは方角が大きく外れており、少々遠回りする事になるのだが、でっぷり肥えた北極熊の要請を受け入れたぽっ
てり太った獅子が、わざわざルートを変えて寄ってくれた。
次にいつ来られるか判らない実家に、一度足を運ぶ…。それはジブリールが提案した事だったが、ライザーとして過ごして
いた自宅に帰ってきたアズライルは、想像していた物と違う感覚を抱き、困惑していた。
「…違う…。何かが…、違う…」
繰り返し呟くアズライルの胸には、数ヶ月ぶりに我が家に戻れたという懐かしさは無い。帰って来たという実感が全く湧か
ない。
今アズライルが抱いているのは、懐かしさを遥かに通り越したような感覚であった。
それは、以前立ち寄ってからあまりにも時が経ち過ぎ、存在自体を失念していた場所をそうと知らずに再び訪れた者が「そ
ういえば見覚えがある」と感じるのにも似ている。
ぼんやりと立ち尽くしているアズライルにはその原因が判らなかったが、原因は「物差し」の変更にあった。
死体を残しておく必要があった彼女は、再誕の際にワールドセーバーとしての肉体をゼロから構築されている。
そのスペックは初めから平均的なワールドセーバーに合わせられており、ロースペックからスタートして徐々にバージョン
アップを受けて感覚を馴らしていったムンカルとは違って、感覚から感性、思考形態に至るまでが、人間時に比べて劇的な変
化を遂げている。
人間とは比べものにならないハイスペックな肉体と魂を得た事に加え、頭脳と各種感覚が増強された事による、見る物、触
れる物の新鮮さは、逆に人間として過ごしていた頃の記憶を不鮮明な物へと変えてしまった。
人間だった頃の思い出は、ほんの数日の内に曖昧でぼんやりとした不確かな記憶となり果てつつある。
まるで、収まるべき場所を見出した代わりに、それまでの居場所を失うかのように。
それを哀しいと思うことも無く、彼女は急速に人間から離れ、よりワールドセーバーらしく変貌してゆく。
一度砕け散り、継ぎ接ぎされた魂を抱えた、欠落だらけで疵物のワールドセーバーへと…。
しばし立ち尽くしていた黒豹は、不意にその肩をぽんと優しく叩かれ、驚いた様子で振り返る。
最初に目に飛び込んで来たのは、丸みを帯びて突き出た大きな腹。
そのまま視線を上げれば、穏やかな表情で目を細めている、高い位置にある北極熊の顔。
「ジブリールさん…」
「どうしたんだい?キミの家だったんだろう?」
何を遠慮しているのかと首を傾げたジブリールが促すと、アズライルは意を決したように、ようやく足を踏み出した。
寝台には、痩せ細った老人が横たわっていた。
目を閉じている老人の顔には皺が深く刻まれ、長く太陽と砂にあぶられた肌は生来の褐色をより濃い物に変えている。
その、頑固で厳しそうな細面の老人は、ライザーの父親であった。
厳格だが根は優しい、元軍人の父親は、三年ほど前に大病を患ってからというもの、後遺症で足腰がめっきり弱くなり、体
力も落ちた今では上体を起こす事も難しくなっている。
ベッドの脇に寄せた椅子に座っているのは、憔悴し切った様子の老女…ライザーの母親。
老いてもなお若かりし日の美しさを顔立ちに偲ばせる、理知的な眼差しが印象的な美人で、年を取ってからやっと授かった
一人娘のライザーを目に入れても痛くないほど可愛がった。
花瓶の水を換えているのは、主の看病役も務める、使用人頭である背の高い細身の中年女性。ライザーが生まれた時には既
にこの屋敷で働いていた、彼女にとっては第二の母親とでもいうべき人物である。
仕事が無いからと多くの使用人に暇を出しても、彼女だけは家族同然という事もあり、未だに屋敷に留まっている。
なにより、主人達よりよほど屋敷に詳しいので、居て貰わなくては困るような存在でもあった。
だが、三人は誰一人として気付かない。
戦地で逝ったはずのライザーが、新たな肉体を纏って帰って来た事には。
静かな室内で静かに横たわる、しばらくぶりに見る父親の顔を眺め、ひっそりとベッド脇に立ったアズライルは思う。
(父様…。少し見ない内に、またお痩せになられたな…)
親愛の情はあるものの、やはり父との思い出は印象が希薄になっており、アズライルは戸惑う。
そして、その戸惑いが改めて彼女に実感させた。
自分が、何に成ったのかという事を。
一人娘に先立たれ、憔悴している両親と、二人に尽くす馴染みの使用人を眺めながら、アズライルはため息をつく。
(私の元の体の埋葬には間に合わなかったが…、間に合ったとしても、見る気にはなれなかっただろう…。この憔悴具合を見
れば判る…、父様…、母様…、私の死を知って、いったいどれだけ落ち込まれたのか…)
両親の胸の内を思って瞑目した黒豹の耳が、不意にぴくりと動く。
涼やかな呼び鈴の音色が、開け放たれた寝室の入り口から四人の耳に届いた。
「あら、来客かしら…」
老婦人が呟くと、使用人頭は「ご用件を覗って参ります」と言い残し、背筋を伸ばして足早に玄関へ向かった。
その途中で、廊下に飾られた壷を子細に眺めて唸っている、巨大な北極熊の脇を通り過ぎるが、彼女には当然ジブリールの
存在は認識できていない。
無意識にその巨躯にぶつからないよう、少しだけ回り込む格好で迂回している。
「これは良い…。屋敷の主人の手作りか…、専門職にも負けない出来映えじゃないか…」
そんなブツブツと零される感嘆の言葉を認識できないまま聞き流しながら、使用人頭は客の応接の為に玄関へ出た。
そして、そこで目を少し大きくし、驚いたような表情を浮かべる。
訪問者は、見慣れた相手であった。
その恰幅の良い髭面の大男は、屋敷の主が現役の頃に部下として使っていた兵士であり、先日まではライザーと同じ部隊に
入っていた男である。
「ベングリオン様…!いつお帰りに…」
太鼓腹を突き出すようにして背筋を伸ばし、驚く使用人頭に敬礼すると、ベングリオン曹長は口を開いた。
「昨夜帰還しました。…もっとも、任を解かれて謹慎中の身だが…」
一度言葉を切ったベングリオンは、迷うように眉間に皺を刻み、後ろを振り返った。
そこに何かあるのかと、大男の巨体の向こうを横から覗き見た使用人頭は、その広い背中に隠れるようにしてぴったりと寄
り添い、服の裾を掴んでいる少女と視線を合わせた。
褐色の肌の少女は、整った美しい顔立ちに不安げな表情を浮かべている。
「大丈夫だ。知り合いの屋敷だから…」
ベングリオンが安心させようとそう声をかけても、少女は大男から離れようとしない。
使用人頭は首を傾げる。
この大男には確か妹は居なかったはずだし、結婚もしていなかったはず…。ではベングリオンと親しげなこの少女は一体誰
なのだろうか?と。
そんな彼女に、アジールに上着の裾を掴まれて困り顔になっているベングリオンが声を潜めて訊ねた。
「マハル様はご在宅ですか?…いや、お休み中でしたら奥方様でも…、お伝えせねばならない話が…」
夫の元部下であり、娘とも親しかった曹長の急な訪問を受け、ライザーの母親は驚いていた。
ライザーが命令を無視し、作戦行動中に勝手に隊から離れ、その挙げ句に命を落とした事は知っている。
その際に彼女を連れ戻そうとして隊を離れた大男もまた、監督不行届を責められて罰則を受けたとは聞いていたが、まさか
本国に帰還させられているとは思ってもいなかったのである。
そんな老婦人は、恰幅の良い大男が語った内容でさらに驚き、その横にちょこんと座る少女をまじまじと見つめた。
「では…、ライザーは…」
「はい。ただ違反を犯した訳ではありません。彼女はこの娘に害が及ぶ可能性に気付き、守るために隊を離れました。…軍人
としてではなく、命より大事な…、おそらくは彼女個人の誇りにかけて…」
キャンプ襲撃の手引きをしたのが自軍であるという事は流石に話せなかったが、ベングリオンは極力正確に状況を伝えた。
黙っておく事もできたが、それでは死んだライザーの名誉が損なわれたまま…。せめて両親には、彼女が命に換えても守り
たかったものが何だったのか、詳しく伝えておかねばならない。
ベングリオンはそう考え、命じられた謹慎を利用してこの屋敷に足を運んだのである。
大男は顔を横に向け、神妙な顔をしている少女に話しかけた。
「さぁ、アジール…。伝えたかった事があったのだろう」
「…はい…」
小さく頷いた少女は、改めて老婦人を見つめて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「私はアジール・バルバロッサ。一月の月が七度目の中天にかかる日に生まれたテアドの四番目の子。そして…、ライザー・
アルハバルから三つめの命を授かった娘です。アルハバル婦人」
彼女の喪われた集落の古いしきたりに則り、アジールは粛々と名乗り、そして礼を述べた。
今ではもう燃えて灰と崩れ、砂塵と混じって消えてしまった彼女の生地では、命を救われた者は、救ってくれた者に対し、
生涯に渡って親と変わらぬ敬愛を示す。
アジールは両親から貰った命を、初めは五つの時に地元の医師によって病魔から救われ、そして今回ライザーによって再び
救われた。
故に彼女は、ライザーを両親から数えて四番目の親とした。
だが、彼女の両親も、救ってくれた医師も既に亡く、ライザーに至っては自分を救うために死んでしまった。
この場にアジールが連れて来られたのは、ベングリオンが事情を説明するに当たり、少々酷だが引き合わせておくべきだと
判断したからだった。
だが、あの時は直接感謝を伝える事ができなかったアジールは、そのおかげでライザーの肉親へ溢れんばかりの敬意と感謝
を伝える機会に恵まれた。
涙ぐむライザーの母親は、目頭を押さえて俯く。
「救われました…。あの子が、最期まで真っ直ぐ生きたと知って…、救われました…」
母の涙声を間近で聞きながら、誰にも気付かれる事無く同席していた黒豹は、しかしこの家の娘としてこの光景を見てはい
なかった。
この屋敷の一人娘、ライザーとしてではなく、配達人アズライルとして、彼女は一部始終を見守っている。
感慨深い事は感慨深いのだが、既に人間としての感性が希薄になっているが故に、距離を置いた視点で、客観的に因果の糸
を分析しながら、黒豹はポツリと呟く。
「…そうか…」
アズライルは知らなかったが、ジブリールは彼女が旅を終えたその直後、傍に居た二人にある届け物をしていた。
ジブリール本来の仕事でもあったソレは、アジール・バルバロッサとテージ・ベングリオンへの吉兆の配達…。
その未来に向かって絡み合い、繋がってゆく因果の補正の結末が、ワールドセーバーとなったアズライルには漠然と見えて
いた。
「…そうか…。こういう事か…」
黒豹は口の端を僅かに緩め、静かに微笑した。
「あの時ジブリールさんが言った、選択とは…、こういう事だったのか…」
何を捨てるかというその選択で自分が捨てたのは、結果的に人間としての生や、兵士としての表向きの名誉であった。
だが、その代わりに損なわれずに済んだ物もあったのだと理解し、黒豹は踵を返して部屋を出る。
「さらばです。母様、曹長…。そして…、どうか幸せに、アジール…」
呟きながらドアを潜った黒豹は、後ろ手に扉を閉めながら、すぐ外で待っていたパールホワイトの巨漢に会釈した。
「お待たせしました。行きましょう」
「もう良いのかい?」
「はい」
頷いたアズライルに、ジブリールは気遣うような眼差しを向ける。
「悪いけれど、次はいつ立ち寄れるか判らないんだ。本当にもう良いかい?」
念を押されたアズライルは、迷う事無く再び頷いた。
自分が人間として成した最後の事が、今後どのように世に関わってゆくかをはっきりと確認できた今、心残りなど無い。
アズライルは毅然とした態度で深く頭を下げる。
「有り難うございました。ジブリールさん」
凛々しいその表情から何を見て取ったのか、ジブリールは軽く目を閉じて頷くと、体の向きを変えて歩き出した。
そして、すぐ斜め後ろに影のように従った黒豹に、殊更呑気そうな口調で話しかける。
「あ〜、お腹減ったなぁ…。この辺りで美味しい食事が食べられるお店、無いかな?」
その急な話題変更が、本心混じりとはいえ場の雰囲気を変えるためでもあると悟ったアズライルは、好ましげに巨漢の背を
眺めて口を開く。
「羊肉の壷煮やマトンローストが評判の店があります。羊肉がお嫌いでなければですが、如何でしょう?」
「とてもいいね。好きだよ、羊肉も」
首を巡らせて微笑みかけたジブリールと、笑みを返したジブリールは、連れ立って玄関を潜り、
「あの…、差し支え無ければ、ジブリールさんの好きな食べ物など、教えて頂けませんか?」
「良いけれど…、オレは食いしん坊だから沢山あるよ?」
そう言葉を交わしながら、陽光の中に姿を消した。
その数時間後、長々と腰を据えてしまった非礼を詫び、ベングリオンはアルハバル邸を後にした。
北極熊が黒豹を伴っていたように、彼もまた色黒の少女を伴って。
「…そろそろ、飯時だな…」
赤い空を見上げて歩を進めながら呟くと、ベングリオンは不意に足を止め、アジールを振り返る。
「羊肉は、嫌いじゃあなかったな?」
「え?はい…」
自分とは親子ほども歳の離れた少女が頷くと、ベングリオンは「それなら…」と続けた。
「この近くに、羊肉の壷煮が美味い店がある。今日の晩飯はそこで済ませよう」
返事も待たずに歩き出したベングリオンは、少女がついて来ている事を足音で確認しながら、ポケットに突っ込んだ手で小
箱を包み込んだ。
それは、小さな指輪が収まった箱。
いつか渡そう。そう心に決めて溜めた給金を注ぎ込んで買った、デザインはシンプルながらも美しい光沢を持つプラチナの
リングは、しかし結局、密かに想いを寄せた相手に渡す事はできなかった。
渡したらどんな顔をするだろう?迷惑がられるだろうか?それとも戸惑うだろうか?ひょっとしたら、少しは喜んでくれた
りするだろうか?
ベングリオンが幾度も想像した相手の反応は、しかしもう確かめようがない。
遅過ぎた告白は時期を失い、もはや決して届く事がない…。
どこか哀しげで寂しげな広い背中を眺めつつ後ろを歩むアジールは、その目を静かに伏せた。
顔は厳ついが心根は優しい。アジールはこの大男の事をそう捉えている。
ライザーにとってベングリオンが、ベングリオンにとってライザーが、それぞれとても大切な相手だった事を感じ取ってい
たからこそ、アジールは思う。
自分は、ライザーの分まで生きなければならない。そして…。
「テージさん」
「ん?」
常の仏頂面をやや苦労して柔らかく保とうとしながら、呼びかけられた大男は振り返る。
「好きな食べ物、教えて貰えませんか?」
アジールは笑みを作って、自分を助けてくれた片割れである大男に訊ねた。
そして、八年と幾ばくかの時が流れた。
「ただいま戻りました。父様、母様」
車椅子の父と、付き添う母の問いかけるような眼差しを受け、浅黒い肌の美しい少女は、安心させるように微笑んだ。
「兵役免除審査会で、主張を受け入れて貰えました。私の兵役は免除されます」
「まぁ…」
安堵したように表情を弛ませる母の顔を見つめ、娘は思う。
母は、始めて会った時よりもかなり老け込んでしまった。
痩せ細ってはいるが、以前と変わらぬ凛とした空気を纏い、切れ長の鋭い眼に厳格な光を湛えている老人に視線を移し、娘
は続けた。
「父様…、本当は良く思っておられないかもしれませんが…、アジールは、戦争に協力したくありません。例えどんな形でも、
武器を手に戦地へ赴きたくありません」
決然とした表情で、美しい娘は両親の前で己の意思を述べた。
あれからしばしベングリオン宅に身柄を預かられていたアジールは、その後アルハバル家の強い要望もあり、養女として引
き取られた。
壮絶な体験を経て成長したにも関わらず、アジールは優しい養父母の下で、利発ながらもしとやかな、誰からも好かれる少
女に成長した。
難民としての生活のおかげでスタートはやや遅れたものの、学校に通わされたアジールは、養父母や「命の親」である姉に
顔向けできないような事などしてたまるかと、難民生活でも彼女を支え続けた生来の負けん気を遺憾なく発揮し、程無く成績
は平均に届き、やがて追い抜き、学年屈指の優秀な成績で教師に誉められるまでになった。
学業に勤しみながらも親孝行したいと、使用人頭の仕事を奪うように家事を手伝い、彼女に喜んでいるような困っているよ
うな微妙な顔をさせる事もしばしばである。
キャンプで虐殺を目にした直後は、憧れてすらいなかった、願ってもみなかった、普通の娘らしい…いや、それ以上に恵ま
れた、幸福な生活…。
結果的に、何人もの恩人の手によって収まるべき場所を与えられたアジールは、日々感謝を忘れずに生きながら、胸に夢を
抱き続けていた。
その夢のために、この国で暮らす民には女性であっても義務として課せられる兵役を、どうしても回避したかったのである。
しばし黙してアジールを見つめていた父は、やがてゆっくりと目を閉じ、口元を微かに緩めた。
「…以前…、あの娘も私のような職業軍人になると言った時、今のお前と同じような顔をしていたよ…。まるで、挑みかかる
ような目をしてな…」
アジールは少し目を大きくし、やつれた父の顔を凝視する。
「…ライザーお姉さまも…?」
「このひともわたくしも、本当は反対だったのよ…。ライザーが軍人として生きる事には…。けれど反対は受け付けないと言
わんばかりの態度でね…、結局、こちらが折れてしまったの…」
養父母の口から始めて語られたそのエピソードに、アジールは胸を押さえて神妙な顔つきになる。
養父母がライザーの事を話してくれるようになったのは、つい最近の事である。
子供だからと思われていたからか、それとも養女への配慮からだったのか、養父母はライザーについてアジールが訊ねても、
当たり障りの無いような事しか教えてくれなかった。
「お父様やベングリオンさんに憧れていたような所があったから…、「私も国を守ります」と言って聞かなくて…。まぁあの
娘は前々から女の子らしくない所はあったけれど…」
「女らしくないと言うよりは、男勝りだったと言うべきだろう」
珍しく微苦笑を浮べた父は、妻の言葉を訂正すると、改めてアジールの目を見つめた。
「私達に気兼ねする事はない。…そして、ライザーにも…」
厳かに言葉を紡ぐ父の顔を、アジールは背筋を伸ばして真っ直ぐ見つめる。
かつて彼女の命を救った女兵士が、この父と相対していた時のように。
「お前の人生はお前の物だ。旅の終わりに後悔しないよう、好きに生き、好きに往きなさい。医師になりたいというその願い
は、素晴らしい事だと私は思う」
静かに、ゆっくりと、そして深々と頭を下げたアジールは、胸の内でライザーの事を想う。
彼女は、旅の終わりに満足したのだろうか?と…。
しかしその遠き姉への追想は、涼やかな呼び鈴の音で中断させられた。
「お嬢様、ベングリオン様がいらっしゃいましたよ」
「あ、今すぐ…!」
予期していた訪問者の、しかしやや早い到着に少し慌て、廊下に向かって使用人頭へ返事をしたアジールは、両親に視線を
戻すと、二人の笑みを受けてお辞儀した。
「済みません、父様、母様…。行って参ります」
身を翻し、その急く心が背中に透けて見えるような、さすがに走らないながらも足早に部屋を出て行く娘の後姿を見送り、
老夫婦は顔を見合わせた。
「ケージ君は、アジールの事を憎からず想っていると見たが…、どう思う?」
「あら、わたくしにはアジールの方こそ首っ丈に見えますけれど?」
「ふむ…」
老人は髭が真っ白になった顎に手を当て、難しい顔つきになる。
「もしかして、あなたは反対なのですか?彼とアジールは、確かに親子程も歳が離れていますが…」
「いや、そこは問題ではない。ただ…、大事なアジールを戦死して先立ってしまうような夫と一緒にさせる訳にはいかん」
鋭い目つきになった老人に、婦人は心配そうな顔を向ける。
「軍人と一緒にはさせられないと…?」
「そうではない。戦死されなければそれでいいのだよ」
(…相変わらず紛らわしいですわあなた…)
胸の内で呟いた婦人に、老人は続ける。
「もう少し、長生きせねばならんな…。テージ君は生き方からして不器用だ。娘一人口説くのも一苦労だろう。行く末をきっ
ちり見届けるには、まだまだ頑張らねば…」
「それを言うなら、アジールもそうですわよあなた?我家の娘ながら身持ちがすこぶる固くて、親しい男友達の一人も居ない
のですから」
そうして、老夫婦はいつまでも、いつまでも、自慢の娘の将来にあれこれと想いを馳せ、話し続けていた。
「お待たせしました」
手早く着替えを終えたアジールが玄関に現れて会釈すると、以前よりさらに恰幅の良くなったベングリオンは、目を細めて
美しいその顔を見つめた。
テージ・ベングリオンは、当年とって39歳。
かつては曹長だったが、今では大尉となり、中隊規模で指揮を預かる立場にある。
現場叩き上げの厳しい士官として知られているが、無愛想ながらも面倒見のよい上官として、あの頃と代わらずに下から信
頼されている。
ライザーと共に軍務についていた頃は、生来の面倒臭がりな部分も手伝って、それまでとは背負う責任が比べ物にならない
士官への道には全く興味を持たず、万年曹長としての立場を満喫していた。
だが、あのキャンプ虐殺事件とライザーの死、そしてその折に戦災孤児となったアジールとの出会いがきっかけとなり、彼
は考え方を改めた。
前線に立ち続けた所で、仲間を救えるとは限らない。
前線に立ち続けた所で、防げない死はいくらでもある。
理不尽な指令で人死にが出るのが嫌なら、自分が指令を出す立場に立てば良い。
謹慎中に思い悩み、そう結論付けたのである。
それからの彼は、歴戦の軍人であるかつての上官、ライザーの父にしてアジールの養父マハル翁に教えを乞い、自身も熱心
に勉強して士官を目指した。
軍務にもそれまで以上に真面目に打ち込み、あらゆる骨を惜しまず、ひたすらに邁進した。
そして謹慎開けから一年で少尉へ昇進し、数年がかりで中尉へ、そして大尉へと昇進する際にあげた前線での目覚しい戦果
により、「南レバノンの河馬」という異称で近しい者や部下達から呼ばれるようになった。
もっとも、本人はこの呼ばれ方についてあまり格好良いと思っておらず、やや不満げではある。
それでもアジールは、時に家を訪れる父の知り合いである軍人達から初めてこの話を聞いた際に、鈴のように軽やかな笑い
声を漏らした。
戦地ではどうだか良く判らないが、自分と過ごす時に大男が見せる気だるげで優しげな態度と、その恰幅の良い体格からす
れば、河馬に例えられるのは何とも似つかわしく思え、一時に気に入ってしまったのである。
以来アジールは大男の事を時に冗談めかして「カバさん」と呼ぶようになり、大男に渋い顔をさせている。
そのカバさんは、日に日に美しくなってゆくアジールの顔にしばし見とれた後、気を取り直すように「コホンっ」と咳払い
した。
「例の店で、新しいミントティーを始めたそうだが…」
「ええ。まだお試しになってはおられませんの?」
「ああ、まだ…」
頷いた大男は、しかし本当はミントティーが昔から好きではない。
アジールが好むので話をあわせるべく、健気に好きな振りをしているだけである。
もっともこれはライザーが傍に居た頃も同様なので、好きにはなれないものの、既に苦手さは克服されていた。
アジールと連れ立って歩き、庭を抜けて通りに出ながら、大男は上着のポケットに突っ込んだ手で小さな箱を弄ぶ。
かつてライザーに渡せなかったそれを、大男は今でもお守りのように持ち歩いていた。
いつからそうなったのかは判らないが、彼は自分を慕ってくれるアジールに、今では恋心を抱いている。
二十歳にもならない娘相手に、もうじき四十に手が届く自分が恋をするのは如何なものかと自問もするが、しかし気持ちに
嘘がつけるほど器用でもない。
もうこれを突きつけてイエスでもノーでも返事を貰い、楽になってしまおうか?…そう考える事も時にはあるが、しかし踏
ん切りが付かない。
そもそも、ライザーに渡そうと思って買った指輪をそのままアジールに渡すのは少々失礼ではないだろうかとも思う。
しかし恰幅の良い大男は、全く知らない。
突き出た腹の脇で窮屈なポケットに長らく押し込んでいるそれを買う時、自分の背に桃色の弾丸が撃ち込まれていた事も。
彼を狙撃した誰にも見えないピンク色の豚が、アイドリングするバイクに跨ったまま「お幸せに」とウインクした事も。
そのリングは、ライザーに渡すべく買った物ではあったが、しかし別の女性の指に填められる事が定まっていた。
八年前のあの日に因果の歪みが修正された以上、指環はいずれ行き着く先に自然と収まる。
指環はその時を、大男の手の中でじっと待っている。
そんな事は勿論、指環の存在すらも知らないアジールは、今はただ、慕っている大男と共有する一時を噛み締め、整った顔
に穏やかで恥かしげな微笑を浮かべ、弾む心を抱えて足を進める。
そんな、仲睦まじく連れ立って歩く二人を、ひっそりと見つめる影があった。
砂塵が舞う乾いた道の端にバイクを停め、通りを行く二人の背に視線を固定しているのは、精悍で美しい黒豹であった。
物思いに耽るような、そして遠い昔を懐かしむような光を双眸に湛え、アズライルは二人を見送りながら、小さく呟いた。
「お元気そうで何よりです曹長。…いや、大尉…。…そして、幸せそうで何よりだ、アジール…」
八年の内に配達人として成長し、それと同じくして人間だった頃の思い出や感性を希薄にして来た彼女だったが、遠い昔の
日々を老人が追想するように…、あるいは、霞がかった向こうの景色を覗き見るように…、両親や大男、そしてアジールの事
を時折思い出す。
あの頃とはすっかり変わってしまい、もはや別人と言える程に人格はワールドセーバー寄りになったが、それでも彼らへの
想いは、形を変え、薄れはしても、消えずに残っている。
二人の背中が小さくなった頃、アズライルは配達を続けるべく愛車のハンドルを握り直し、
「何だ何だ?熱い視線を注いでると思えば…」
唐突に真横から声が聞こえ、ビクッと背筋を伸ばした。
いつからそこに居たのか、正面に気を取られていたアズライルの横にチョッパーカスタムの大型バイクが停車し、跨った虎
男が通りを遠ざかってゆく二人を眺めている。
若干気まずそうに耳を倒し、視線を逸らしたアズライルの横で、ムンカルは納得したように言葉を続けた。
「ほほぉう…?旦那みてぇな体型のおっさんか…」
鉄色の虎は思案するように目を細め、次いで口元を下品に歪める。
「やっぱアレか?ああいう体型が好みか?柔っこい感触が好きか?それともボリューム感か?それともアレか?贅肉にムニーっ
と沈み込む感じが良いのか?しっかし根っからのデブ専だなぁお前も。がはははっ!」
ジャガィインッ!
「む、むむむムンカル貴様ぁあっ!ジブリールと大尉を侮辱するかっ!!!」
抜き放ったデザートイーグルの巨大な銃口を同僚の眉間にビタッと据え、黒豹は頭から湯気を上げつつ憤怒の怒声を吐き散
らす。
「取り消せ!彼らはデブではない!断じてデブではない!ひとより少し…、ほんの少し太ましいだけだ!即、今の暴言を撤回
しろ!取り消せ!そして死ね!ダメっこ動物っ!」
「おわーっ!?待て待て待て撃つなっ!死記とか入ってんじゃねぇだろなソレっ!?」
「安心しろ。データ圧縮弾だ」
「それなら良…良くねぇっ!タンマタンマ!」
殺気立つアズライルを前にたじたじになり、手にしていた葉書を楯にするという、配達人にあるまじき行為に出るムンカル。
露骨に舌打ちしながら銃を下げたアズライルは、その銃をくれた大男と、自分が未来を繋いだ少女の背に視線を戻す。
その様子で流石に察したらしいムンカルは、口調を改めて同僚に訊ねた。
「知り合いなのか?」
「…ああ…。昔の、な…」
応じたアズライルに、ムンカルは続ける。
「なら挨拶ぐれぇ…、…って、できねぇんだっけか、お前の場合…。死んだ事になってんだからな…」
ムンカルは顔を顰めてガリガリと頭を掻き、その横でアズライルが首を横に振る。
「良いんだ…。例え挨拶ができる境遇だったとしても、私はきっと、声をかけたりはしないだろう…」
アズライルが漏らした神妙なその声に、ムンカルは眉根を寄せる。
「…甘えてはいけないのだ。優しい思い出には…。思い出が思い出でしかないからこそ、決して手が届かないからこそ、私は
前へ進めるのだから…」
そう呟いたアズライルの表情からは、人間だった頃への未練は全く感じられず、むしろ安堵しているようですらあり、どこ
か晴れ晴れとしていた。
「さて、配達を終わらせなければな…。ジブリールと外食の約束があるのだ。絶っっっっ対に!遅れる訳にはいかない!」
黒豹がいつもの調子に戻ったのを見届けると、ムンカルはニヤリと口元を歪め、太く頑強な足を使ってチョッパーをその場
でザスッと180度反転させるという荒業を披露する。
「今度こそ捕まえとこうぜ?お互いによ」
「ん?」
言葉の意味が判らず、首を巡らせて問いかけるような視線を向けたアズライルに、ムンカルは口では答えず、軽く手を上げ
てマシンをスタートさせた。
「…捕まえる…?何をだろう…?」
怪訝そうに呟きながら虎男を見送ったアズライルは、気を取り直して前を向く。
懐かしい二人の後姿は、いつしか見えなくなっていた。