第五十五話 「終わりが始まる時」(前編)

「やあ、ご無沙汰」

唐突に北極熊がそう言ったので、取り巻きの猿とカラス、灰色の兎は、何事かと巨漢を振り仰ぐ。

港がほど近い、浜風を浴びる道。

車の往来はあっても徒歩の人間はあまり居ない、長くだだっ広いそこで、イブリースは足を止めていた。

傍らの小さな白猫もまた、北極熊が纏う赤いコートの裾を掴み、立ち止まっている。

その二人の視線を追って前に顔を向け直した三名は、ハッと顔に緊張を浮かべ、身構えた。

行く手を遮るように、不意に発生したノイズの中、十数名の人影がおぼろげな輪郭を顕しつつあった。

「久しいな、イブリース」

徐々に姿をはっきりさせて行きながら、人影の中の一人が口を開く。

それは、未開の地の原住民のような、衣類というよりは装飾品で身を飾った、屈強な体躯をした漆黒の獅子であった。

『アスモデウス!』

イブリースを案内していた堕人達は、それぞれが懐から拳銃を抜き、警戒態勢を通り越して臨戦態勢に移る。

一口に堕人と言っても、その主義主張は様々である。

彼らのようにイブリースを信奉し、旗印として仰ぐ者も居れば、アスモデウスの行動理念に共感し、理想実現に尽力する者

も居る。

無論何処にでも何にでも群れるのを嫌う者が居るのは常であり、堕人の中には完全に独立して動いている者も居るのだが。

イブリース信奉派は堕人集団の中でも群を抜いて大きい派閥だが、しかしアスモデウス派のように何らかの理想をもって活

動している訳ではない。この集団のそもそもの起こりは絶対的な力を持つイブリースを勝手に崇める者達が集っただけである。

基本的に、自由を求めて堕ちた者達で構成されているイブリース派は、集団として統制されてはいない。彼らに共通する意

志…、つまり、「アル・シャイターンの力になる」という点だけで繋がっており、組織だってシステム側に反逆するような真

似は、これまでにも殆ど成されていない。

対してアスモデウス派は、堕人集団の中でも特に危険視されている。

世界を延命させるために害悪たる人間を排除する。そんな主義主張を持って集った彼らは、量でこそ劣っても個々の士気に

おいてはイブリース派を圧倒し、行動内容も過激である。

そして、祭り上げる旗が異なる彼らは、同じ堕人でも関係が険悪であった。

故に、今現在自分達が警護役を務めていると自負している彼ら三名は、突然現れたアスモデウス達がイブリースに害を為す

のではないかと考え、力の行使も辞さない覚悟を決めている。

「じゃまだな。じゃまだよな。そいつら。ばらすか?ばらばらにするか?してもいいか?してもいいよな?」

黒獅子の隣に立ったシャチ顔の堕人は、手にした銛の石突きで地面を叩き、鋭い牙が並んだ口を大きく開く。

白布を褌状に腰に巻き、数珠状に獣の頭骨を首にかけたシャチは、大男と言えるアスモデウスよりもなお大きく、青白い体

躯はやや肥満体である。ギョロリと睨め回す目は模様に紛れて見え辛いが、奥に獰猛な光を灯していた。

その威嚇に、灰色の兎が不快そうに顔を顰めながら応じた。

「無礼な!貴様は今アルの御前に立っているのだぞ、控えろ!」

それを聞いたシャチは、ぎょろっと兎を睨むなり、外側にヒレを備えた腕を一振りした。

直後、兎の体が後方によろけ、彼は衝撃を受けた胸に手を当てる。

「…え…?」

胸の中央に突き刺さり、貫通している銛に気付くと、兎は目を丸くした。

直後、激痛が全身へ広がり、びくんと身を仰け反らせながら崩れ落ちる。

「貴様ぁっ!」

兎の脇でカラスが叫び、シャチは新たな銛を生成しながら不敵に口の端を吊り上げた。

双方が激突する口火が切られたかに見られたが、

「その辺にしてくれるかな?ボクに用事があったんじゃないのかい?」

「止せ。我らは話をしに来たのだという事を忘れたのか?」

同時に発せられた静かな声が、双方の殺気立ったメンバーを制止した。

正座するように崩れ落ちた兎は、しかしその腕を掴まれてぐいっと引っ張り上げられると同時に、苦痛が消え去った事に気

付く。

ふと見れば、腕を掴んで引っ張り上げているのは、彼が信奉する北極熊。

不思議な事に胸を貫いた銛は、いつの間にか跡形もなく消え去り、外傷が全く見あたらない。かなり重篤な損傷を受けたは

ずだったのだが、ダメージも痛みも嘘のように消え去っていた。

「なんだ?なんなんだ?どうなってる?どうなってるんだ?」

しきりに不思議がるシャチの手から、銛が砕けて消えた。

「自重せよ。今日のところは小競り合いが目的ではない」

「わかった。わかったよ。わかったわかった」

動きすら認識させず、強制的に銛を破壊した黒獅子に凄まれ、シャチは少し反省したように半歩下がる。

「おれわるくない。わるくないはず。わるくないいつもなら」

「そうですわねネビロス。いつもなら…。けれど今日の所は我慢なさい?」

「わかった。するよ。する。うん。がまんする」

白い雌牛に諭されると、シャチはしょぼくれながらも頷き、大人しくなる。

平静を装うアスモデウスとアシュターだが、自分が無事でいる事を不思議がっている兎の姿を改めて確認し、内心舌を巻い

ていた。

何が起きたのか把握できた者は、この行為をおこなったイブリースを除けば、この場に二人しかいなかった。

兎を貫いた銛を分解吸収。それを補填する形で兎の損傷を瞬時に修復。それらの事を北極熊は瞬時にやってのけた…。

あの剣を手にしていたとしても、とうてい真似できる芸当ではない。黒い獅子と白い雌牛は改めてイブリースの底知れなさ

を確認する。

「それで、今日はどうしたんだい?わざわざ会いに来るなんて」

イブリースが眠たげな目をしながら興味の無さそうな口調で訊ねると、アスモデウスは相手から視線を外さないまま頷く。

「古馴染みのよしみで、伝えておいた方が良さそうな事があったのでな…」

言葉を選ぶようにして切り出す黒獅子の目は、イブリースの横に立つ小さな白猫に向けられている。

どこを見るともなく、茫洋とした目をただ前方に向けている人形のような少女は、先の騒ぎに際しても何の反応も見せてい

ない。

「その子の修復は、どの程度進みましたの?」

白い雌牛の問いかけに、イブリースは軽く肩を竦める。

「どうしてそんな事を気にするんだい?」

「いえ…、ただ、もしかしたら…」

意味深に、はぐらかすように言葉を切ったアシュターの後を、アスモデウスが引き取った。

「もしやその娘、症状は殆ど改善していないのではないか?」

イブリースはその赤い瞳を、アシュターとアスモデウスの間で静かに往復させる。

「何が言いたいのかな?」

「そこに触れる前にまずは問いたい。今ミカール達の船に乗っている顔ぶれを、把握しているか?」

「彼ら二人と灰色の虎はね。他にあと二人居るようだけれど…、なかなか大所帯だね。ミカールも腕の振るい甲斐があるんじゃ

ないかな?」

「では、黒い雌豹が居る事は把握していない訳か?」

「ん?…ん〜…、知らなかったね」

イブリースが頷くと、アスモデウスは「なるほどな…」と、自分の想定通りである事を確認して呟く。

そして打算と期待、他にも様々な物が混在した光を目に浮かべつつ、殊更にゆっくりと言葉を紡いだ。

「貴様の本当の捜し物はソレだ。アズライルの魂は、既にジブリールの手中にあった」

次の瞬間、その場に居た全員が凍り付いたように硬直した。

烈風に叩かれたような衝撃を肌身に、そして精神に感じ、魂が軋んで竦む。

「…どういう事だい…?」

静かな、そして低い声で囁いたイブリースの巨体から、濃密な憎悪と怒気、そして殺気が発散され、その場に居合わせた者

達を呪縛する。

かろうじて呑まれずに済んだアスモデウスとアシュターですら、イブリースに恐怖した。

その娘は残骸に過ぎない。本当の核は既にジブリールが保護している。

この場に来る前は、嘲り混じりにそんな言葉も付け加えてやろうという気にも半ばなっていたのだが、今はそんな言葉を吐

く度胸が無い。下手に言い過ぎて北極熊を刺激すれば、面白くない事になるのは目に見えていた。

「教えてくれるかい?アスモデウス…」

静かで、穏やかですらあるその口調に、アスモデウスは戦慄を禁じ得なかった。

だが、まだ密かな打算は巡らされている。

食い付いてきた事に代わりはない。自分の振る舞い次第でイブリースをけしかける事ができる。

親切心から教えてやろうと思った訳ではない。この情報を得たイブリースが積極的にシステムへ攻撃をしかけるようになる

事こそが、アスモデウス達の狙いであった。

(上手く誘導して見せる。じきに始める我らの総攻撃の際、こいつらも動いていた方が好都合なのだから)

計算を巡らせ、恐怖を押さえ込み、アスモデウスは口を開き、伝え始めた。

先日東洋の島国で見かけた、黒い雌豹の事を…。



出航した豪華客船をちらりと見遣り、猿はため息をついた。

「本当に、あれで良かったのか?」

傍らのカラスが肩を竦める。

「是非もない。アルがおっしゃる事は、全てに優先する」

「それにしたって、連中と一緒に行く事はないじゃないか…!」

兎が口惜しそうに唸ると、猿もまた肩を落とした。

彼らが見送った豪華客船には、乗船予定だったイブリースは乗っていない。アスモデウスらの言葉を受けて東洋の島国へ向

かう事になったのである。

今頃は最寄りの空港で別の堕人の案内を受けて、乗り継ぎ手順を確認しているだろう旗印の事を思い浮かべながら、三人は

身震いした。

イブリースのプレッシャーに当てられた衝撃は、まだ抜けきっていない。まるで悪夢のような体験であった。

あの北極熊が自分達とはまるっきり別物なのだという事を、彼らは改めて認識していた。



「どうした?ぼーっとしちまってよ」

ビルの屋上にバイクを停め、葉書を整理する手を長らく止めたまま、夜景をぼんやりと見つめていたアズライルは、そんな

馴染みのある声を受けても振り向かなかった。

「…ちょっと、考え事をな…」

明らかに元気のないアズライルの声を聞き、宙にバイクを静止させていたムンカルは首を捻る。

(数日前からこんな調子だが…、どうしちまったってんだ?一体…)

ちょっかいをかけても反応が悪いので、何となく張り合いがなく感じられている。

ジブリールの様子も少しおかしいのだが、それらの事についてミカールに訊ねても「そっとしといたれ」の一点張りで、説

明は一切無い。

珍しく喧嘩でもしたのか?とも思ったが、そういう雰囲気でもなく、二人はきちんと話をしている。だが、どことなく距離

が開いているような気はした。

これまで通りにアズライルは北極熊を慕っているように見える。だが、決定的に違う点もどこかにあるような気がしてなら

ない。それはきっと外から窺える事でなく、内面の変化によるものなのだろうと、ムンカルは察しを付けていた。

そして実際に、アズライルの中では変化が生じ始めている。

内密にと釘を刺されてはいたが、黒豹はジブリールとミカールによって、自分がかつてアズライルという名で呼ばれていた

オーバースペックの生まれ変わりのような物なのだと、以前から聞かされていた。

その古きアズライルがどんな女だったのかは良く知らないが、ジブリールとミカールからは誰よりも親しい友人だったのだ

と説明されている。

だが、自力での除幕と、アズライルオリジンの記憶の一部を垣間見た事を機に、彼女は数日前ついに、ジブリールからかつ

ての自分について聞かされた。

その話によれば、アズライルオリジンは今の自分とは全く違う性格をしていたらしい。

外見は色を除けば良く似ているそうなのだが、表情はもう少し優しげで柔らか、振る舞いは清楚ながらも茶目っ気があった

という。

自分のことなのだと言われてもピンと来ないアズライルは、ジブリールが懐かしそうに語るアズライルオリジンの話を、嫉

妬すら感じながら聞いていた。

共に過ごした日々や、職務の事、古馴染みの皆との交流、そして別離…。

懐かしそうに、幸せそうに、そして少し哀しそうにそれらについて語ったジブリールに、アズライルは初めて、恋慕以外の

感情を抱いた。

判ってしまったのである。

慕い続けて来た北極熊の目が、いつでも自分を通り越して、遥か昔の友人を見ていた事が…。

アズライルオリジンこそが、ジブリールが想いを寄せていた、そして今も想いを寄せている存在なのだという事が…。

何より堪えたのは、ジブリールは言及しなかったが、彼が自分にアズライルオリジンの姿を重ねていた事もまた判ってしまっ

た事である。

それらの事にアズライルは憤り、嫉妬した。

それは自分を見てくれていないジブリールに対して覚えた憤りであった。そして過去の自分への嫉妬とでもいうべき感情で

あった。

ジブリールがどう見ようが、人間としての記憶によって人格が変容してしまった彼女自身にとって、アズライルオリジンは

全くの別人であり、自分自身では決してない。言うなれば親か先祖のようなイメージを抱く存在である。そんなものと自分を

重ねて見られていたと悟っても困惑するだけであった。

(彼が私に親切にしてくれたのは、あくまでもかつての想い人の面影を重ねての事で、私自身に対して好意を持ってくれてい

たからではない…。劣化コピーに過ぎない私は、結局昔のアズライルとは別物なのに…)

一方的に熱を上げていた自分が滑稽で、哀しかった。

同時に、幻影を眺め続けているジブリールが哀れでもあった。

ため息をついたアズライルの背後で、バイクを屋上に下ろしたムンカルは難しい顔をして黙り込んでいる。

ミカールもジブリールも理解できていなかったが、今アズライルは彼らが思っているよりもずっと重篤な精神状態にあった。

その事を理解しかけているのは元人間のムンカルだけなのだが、ミカールはこの件については虎男を軽んじて外してしまっ

ている。信頼関係にひびが入りつつある事を、察知できていないのである。

(こりゃ、結構重傷なんじゃねぇのか?)

心配するムンカルは天を見上げた。二人の間に一体何があったのかと、あれこれ想像しながら。



一方その頃、飛行艇のコックピットでは、

「アズライルの態度、ちっと変わったんやないか?」

「ん?そうかな」

ぽってりしたレモンイエローの獅子がレーダーを睨みながら呟き、パールホワイトの北極熊が首を傾げていた。

「処刑された事については今回初めて話したからね。ショックだったかもしれない」

「そか、まぁ無理もないわな」

微妙にずれた位置に結論を落ち着かせてしまいながら、両者はレーダーを観察し続ける。

「…なるほど、確かにそうだね」

「けったいやろ?綺麗過ぎるわ」

ミカールの言葉通り、ジブリールにはレーダーの反応が綺麗すぎるようにも見えた。

異常が無い。それは結構なのだが、見慣れたノイズも殆ど無い。

察知しやすくて歓迎すべき所なのだが、ミカールはそこに違和感を覚えたのである。

「何やコレ、理想の波形プリントアウトでもして、レーダーに貼っ付けとるようで…、綺麗過ぎて落ち着かんわ」

「上手い事言うねぇ。確かに、毎回こうだと理想的な監視環境なんだけれど…」

そんなジブリールの言葉に頷き、しばし黙り込んだミカールは、ふと思い出したように呟いた。

「技術開発室な…、ワシらの知らんヤバい技術もこっそり開発してキープしとるやないか。ハールとマールの件で盗み出され

とった、アレっぽい技術とか…」

「ああ、あったね、そういうのも」

頷いたジブリールは、思慮深い眼差しをレーダーに固定している。

「そん中にな、レーダー誤魔化す技術もあったりして…」

「あり得るかもね、そういうのも」

両者の間でしばし会話が途切れる。

やがてぽつりと声を発して沈黙を破ったのは、ミカールの方であった。

「ドビエルがゆうとった、えぇと、「技術開発室の踏入調査」やったか?アレ、まだ始まってへんのか?」

「まだだね。いつまでも不当に拒否なんてできないから、もうじき強制執行されるだろうけれど…」

再びの沈黙。今度はやや長かったそれは、ジブリールの呟きで終わりを告げた。

「少し出て来る。ミカールは最も近いチームか独立配達人にレーダーの調子を確認してみて。取り越し苦労だと良いけれど…」

ジブリールは皆まで言わずに言葉を切り、ミカールは苦虫を噛み潰したような顔になる。

何者かが高度なジャマーを使用し、こちらのレーダーを誤魔化している…。そんな構図が頭に浮かんでいた。

アスモデウスとの交戦からたったの数日、諦めていない事もありそうに思える。

(アズ…。ちょっと様子がおかしい今、彼女が敵対勢力と接触するのはまずい…)

足早に部屋を出たジブリールは、格納庫に待たせていた愛車に跨り、すぐさまスタートさせる。

嫌な予感がしていた。

そしてそれは、程無く的中する事になる。



「気が乗らねぇのか?調子悪ぃならミカールにそう言って、戻って休んだ方が良いぜ」

物思いに耽り、そのままいつまでも動き出せずにいるアズライルを気遣い、ムンカルはそんな事を言う。

心配ではあるが、彼自身も配達が済んでおらず、いつまでもアズライルの様子を見守っている訳には行かなかった。

「ああ…、大丈夫だ…」

半ば上の空で相槌を打った同僚を眺めながら、虎男は「大丈夫に見えねぇぞ?」と口の中で呟く。

どうにも職務に身が入っていないアズライルが気になるが、しかし自分の配達を滞らせるのもまずい。仕方なく配達に戻ろ

うとしたムンカルは、ふと、視界の隅に白と赤を認め、首を巡らせた。

全国チェーンの飲食店が入った小さなビルの屋上。人も上らないそんな場所の隅に目立つ色彩の物が置いてあるという違和

感と、さっきからそんな物があっただろうかという疑問を抱きながら動かされた鉄色の瞳孔が、ソレを捉えて拡大する。

「お…、お前…!?」

見覚えのある顔であった。

忘れられない顔であった。

ムンカルの瞳に映っているのは、かつて彼が人間だった頃に出会った時と全く変わりのない姿をした、白い小さな猫頭人身

の存在…。

驚きのあまり言葉も出なくなったムンカルの方を見ながら、白猫はすっと手を上げた。

伸ばされた人差し指があの時同様に自分をさしているのかと一瞬思った虎男は、しかし指の示す方向が微妙にずれているの

を見て取り、はっと振り返る。

白猫の指が指し示しているのは、彼女の出現に気付かないまま、手元の葉書を見つめている黒豹であった。

「みつけた」

そのか細い声が、街の息吹きたる喧噪に紛れながらも、アズライルを反応させた。

まるで大きな音に驚きでもしたように、バイクに跨ったまま素早く首を巡らせたアズライルは、自分を指さす白猫の姿を映

した目を、皿のように見開いた。

無意識にバイクから降り、アズライルは強い驚きを持って、距離を置いてソレと対峙した。

妙な感覚であった。旧知の間柄の誰かと、あるいは使い馴染んだ何かと、永い時を置いて巡り会ったような感覚…。

それなのに、その名前が出て来ない。

知っている。コレを知っている。なのにソレを指す言葉が見つからない。本質を理解しているのに、言い表す事ができない。

見つめ合ったまま微動だにしなくなった二人の間で、ムンカルは急に表情を険しくし、鋭い視線を周囲に走らせた。

理由が定かではないまま危機感を覚えている。それは、魂の警告であった。

この場に今、自分では歯が立たないほど強烈強大凶悪な脅威が接近している。持ち前の闘争本能が刺激され、全身の被毛が

ぶわっと逆立った。

この白猫が以前誰と一緒にいたか?思い出せば近付いてくる脅威の正体も察しがつく。

だからこそ、何故恐怖に近い警戒心を煽られるかが理解できず、他の何かが迫っているのではないかと勘ぐり、判断に迷い

を生じさせていた。ムンカルにとって、アレは敵と言い切れない存在だったから。

だがこの時ムンカルには、接近している何者かが例え予想した通りの人物だったとしても、深刻な問題にはならないだろう

という意識があった。

だが、言うなればそれは、油断と驕りであった。

ムンカルは知らない。人間の時に出会ったきりだったので、その本質を知りようもなかった。

かつて自分が人間だった頃、選択を迫り、道を示した存在が、本当はどういったモノなのかという事を、彼は誤って認識し

ていた。

やがてムンカルは気配を探る事を諦め、白猫に視線を固定し、口を開く。

「おい。お前がここに居るって事は…、「あの旦那」も近くに居るのか?」

予想通り白猫は答えなかったが、もうムンカルは確信していた。かつて会ったあの北極熊が、今日も近くに居るのだろうと

いう事を。

虎男は改めて白猫を見つめながら、懐かしさで胸を高鳴らせた。

かつて人間だった頃、最後の夜に言葉を交わしたあの巨漢が、維持システム側から見れば敵である事は聞かされている。

だが、虎男個人としては恩義に近い感情も抱いていた。

あまり語りたがらないが、たった一度だけミカールが零したのである。

ムンカルの身柄を引き受けるに当たり、あの北極熊からもよろしく頼むと念を押されたのだという事を…。

ザザッと空間にノイズが走り、ムンカルは素早く振り返る。

同時に、それまで凍り付いていたように動きを止めていたアズライルも振り返り、ノイズの中心点を凝視した。

「…やっと見つけた…」

低く穏やかな声が虎男と黒豹の耳朶を打つ。あまりにも聞き慣れたその声は、うっかり誤認しそうになるが、しかし同僚の

声ではない。

ノイズの中で赤いコートを翻し、白い巨体が一歩踏み出した。

「今度ばかりはアズに訊かなくても判る。見ただけでボクもはっきり感じるよ。キミが…」

ノイズが微弱になり収まってゆく中で、見上げるような巨躯の北極熊は、赤い瞳に黒豹の顔を映して微笑む。

「キミが、アズの魂か…」

トクンと胸が高鳴るのを、アズライルは確かに感じた。

「ジブリール?…いや…」

呟いたアズライルは即座に悟った。ソレが、自分が知るあの巨漢ではないという事を。

だが全く知らない訳でもない。むしろよく知っている。白猫同様にこの巨漢の事も深く知っている。確実に、かつて知って

いたはずであった。だが、やはり何と呼べば良いのか判らない。

戸惑うアズライルを見つめながら、北極熊は目を細める。

「ジブリール、か…。懐かしいね、確かにボクもかつてはそう呼ばれていた」

言葉の意味をはかりかね、戸惑いに混乱を上乗せするアズライルの横に、ムンカルがすっと踏み出して並ぶ。

「…やあ、久しぶりだね。見違えたよデイヴィッド」

笑みを消して視線を向けて来た北極熊に頷き、ムンカルは首筋の毛を逆立てる。

今ならば判る。感覚が曖昧で精度の悪かったあの時は実感できなかったが、近いステージに上った今なら、目の前の巨漢が

どれだけ桁外れなのかがはっきりと認識できた。

下手をすればミカール以上。ムンカルの目には、イブリースはそう映っていた。

「…一応俺は、あんたとは敵対する立場に居る訳なんだが…」

「おや奇遇だね?実はボクもそうなんだ」

緊張しながら囁きかけたムンカルに、イブリースは眠たげな無表情で頷き、何ともずれた言葉を返す。

「けどまぁ、あんたには恩義もある。…何か用なんだろう?事情は聞くぜ?」

ムンカルは後方の白猫に視線を向け、思案するように目を細めた。

「また、何かあるんだろ?あの白猫は、俺の時にもあんな風に声をかけてきた」

「察しが良いね。けれどボクは話をしに来た訳じゃない。取り戻しに来たんだ」

イブリースはそう言うと、困惑の表情を浮かべたまま自分を見つめているアズライルに、手を差し伸べた。

「さあ行こう、アズ。永い放浪もこれで終わりだ。キミはあるべき姿になり、来たる終末を乗り越えなければいけない」

半ば無意識に、半ば望んで、アズライルの足が一歩踏み出す。

が、その前に進み出たムンカルが横に腕を伸ばしてアズライルを静止する。

「待てよ旦那。ちんぷんかんぷんだ。何がどうなってんだ?何の話だ?」

北極熊はムンカルに視線を向け直し、彼を見つめた。

どこか投げやりな、どうでも良いような、そして興味がないような、感情に乏しい目で…。

「邪魔をしないでくれるかな?デイヴィッド」

その言葉が終わるか否かの内に、ムンカルの周囲にノイズが走る。

「な…!?」

何をされたのか悟って驚きの声を上げたムンカルは、その直後にノイズと共に消失した。

虎男を強制的に空間跳躍させ、邪魔を排除したイブリースは、

「ムンカルっ!?…おい!ムンカルをどうしたんだ!?」

戸惑いつつも彼を敵と認識し、拳銃を抜いて身構えたアズライルに、優しく微笑みかけた。

彼女が知る白い巨漢と見た目は全く同じで、しかし中身は決定的に違う、狂おしい程の熱が潜んだ笑顔で…。

「おいでアズ。ボクがキミを「直して」あげよう」