第五十六話 「終わりが始まる時」(中編)

ムンカルが強制的に飛ばされ、赤いコートの北極熊と、赤いコートの白猫に挟まれる形で屋上に取り残された黒豹は、呆然

とした面持ちで立ち尽くしていた。

自分に向かって差し伸べられた、白く分厚く大きな手を見つめながら、アズライルは混乱している。

自分がよく知る男の物と酷似した手…。

自分がよく知る男の物と酷似した声…。

自分がよく知る男の物と酷似した顔…。

否、酷似しているなどという物ではない。全く同じに見え、聞こえ、感じられる。

それなのにどういう訳か、目の前の北極熊からは、彼女がよく知っている同僚とは決定的に違う印象を受ける…。

(何者なのだ?このひとは…。この懐かしさは…。…そう、知っている…。知っているはずだ。私はこのひとの事を…)

まるで吸い寄せられるように、アズライルは足を踏み出した。

満足げに笑みを深くしたイブリースは、「永かった…」と静かに呟く。

「アズの欠片をいくら集めても改善されない訳だ。存在を構成する上で最も重要なピース…、魂の核が、こうして別に復元し、

別の人格を持って存在していたんだからね。まさか彼らに確保されて、手元に置かれていたとは考えもしなかった…」

ゆっくりと歩み寄るアズライルを前に、イブリースは呟き続ける。

「上手い囲い方だ。ボクが極力接触を避けるあのフネに匿えば、確かに目に触れにくい。ミカールの考えかな?それとも…」

かぶりを振ったイブリースは、目前で足を止めたアズライルを見下ろし、微笑んだ。

「いや、もうそれもどうでも良い…。こうして巡り会えたんだから」

その大きな手が黒豹の手を取り、やや強引に引き寄せて抱き締める。

むっちりと脂肪がついたふくよかな巨体に、包み込むように抱き締められる感覚…。それをアズライルは懐かしいと感じた。

かつて確かに、何度も味わったはずの感触…。その懐かしさが、以前のアズライルから引き継がれた断片によるものだと察

しながらも、黒豹は抵抗感を抱かなかった。

「やっと会えたね、アズ…」

イブリースの声が心地よく耳に響き、黒豹は身を震わせる。

「こうしてまた抱き締める日を、どれだけ待ち望んだか…」

身と同様、アズライルの魂も震える。

(こうして抱き締められる時を、私も心待ちにしていた…)

「こんなにも変わってしまって…」

(貴方も変わった。目の色もそうだが、魂のありようが変わっている…)

「けれど、不自由なのも終わりだ」

(不自由?確かに、いろいろと我慢もしたし、不自由ではあったかも…)

「余計な物は切り捨てて、身軽になろう…」

(余計な物…、もう余計なしがらみに囚われなくて良いと、そういう事か…)

「そして戻るんだ。以前の君に…」

(以前の…私に…。…以前の…)

「直してあげようね、アズ…。あの美しく聡明だった、かつての君に…」

(…?…)

恍惚の表情が一瞬で消え去り、強張った顔付きになったアズライルは、弾かれたように腕を動かしてイブリースの腕を振り

ほどくなり、その胸を突き飛ばして逃れる。

「どうしたんだい?アズ」

何故拒絶されたのか判らず、不思議そうに首を傾げたイブリースから、アズライルは後ずさって距離を取った。

「…違う…!私は…、私はアズライル…!今の私こそがアズライルだ…!」

またか。そう思った。

この懐かしい匂いがする大男も、自分ではなく別のアズライルを見ている…。

悔しい、哀しい、それらを通り越して恐怖すら覚える。

自分は何なのだ?皆が、仲間が、他の誰より慕った男が以前のアズライルばかり見るならば、自分は一体何なのだ?

自らの存在自体に疑いが生じかねないその自問は、彼女を酷く苦しめる。

そんな黒豹の様子を見つめ、哀れむように目を細めるイブリース。

「混乱しているんだね…。無理もない。不純物が混じり過ぎている。けれどそれらを切除して純粋な核に戻り、「力」と融合

すれば、そんな苦しみからも解放されるよ」

北極熊はゆっくりと足を踏み出し、再び手を差し伸べた。

「可哀相に、アズ…。すぐに直してあげるからね…」

「違う…!違う違う違うっ!私がアズライルだ!私は…、私はアズライルなんだ…!」

「その混乱を生じさせている原因も、魂に付着した不要な情報と記録だよ。切除してしまえば苦しみは消える。本当のキミに

戻れるんだ」

「本当の…?本当の私とは…、一体何だっ!」

頭を抱えて激しくかぶりをふるアズライルに歩み寄り、イブリースは困ったように眉根を寄せた。

「キミはキミだよアズ…。ただ今は正常ではないだけさ。…すぐに良くなるから…」

「正常ではない…?私は…、私はっ!…っ!?」

頭を抱えて俯き、呻いたアズライルは、突然声を途切れさせた。

そして目と鼻の先に突き出された白い手を、丸くした目で呆然と眺める。

豊かな乳房の間、谷間に潜り込んで、胸に突き刺さった手を。

「あ…、あ…!」

力が抜けたアズライルの手が頭から外れ、だらりと両脇に下がる。

出血は無い。だが、魂に直接接触され、蹂躙されてゆく黒豹は、身を引き絞られるような苦痛と恐怖で体を硬直させていた。

「思ったより不純物の付着率が高い…。洗浄するのは一苦労だね」

アズライルの胸に手首まで突き刺し、指先を細やかに動かしながら、イブリースは目を細める。

「綺麗にしてあげるからね、アズ…」

イブリースの言う不純物とは、今のアズライルが培って来た経験、記憶、思い出など、彼女を彼女たらしめている要素全般

の事であった。

処刑以前のアズライルを復元するためには、それらはむしろ邪魔になる。

よってイブリースはアズライルを一度分解し、混じり気のない純粋な魂だけの状態に戻す事にした。

何もアズライルが憎い訳ではない。彼にとって黒豹は、壊れて汚れた重要な部品であり、それを綺麗にして元に戻すのは、

むしろ当然の処置である。

一旦破壊し、組み直す。その浄化行為は、黒豹にとっては個としての存在を打ち切られるに等しいが、その作業工程を残酷

とも思わなければ間違っているとも思わない。

その行動理念は、間違いなくアズライルへの愛に基づいた物であった。

一般的な観念に比すれば大きく外れ、歪んではいたが、純粋な愛情をもっての判断と行動である。

アズライルの体内に潜り込んだ手がまさぐるような動きを止め、魂の核をしっかりと掴み直し、僅かに力を込める。苦痛の

あまり声も出ないアズライルは、仰け反って目を見開き、「かふっ…!」と絞り出すような吐息を吐いた。

だが、「彼女」と再び巡り会う、その「一時」の為に永い放浪を続けて来たイブリースに、今更躊躇があるはずも無い。

その指先に力を込め、魂にまとわりつく不要な物を、肉の体諸共塵に変えようとしたその時…、

「…きた…」

無言のまま、人形のように佇んでいた白猫は、不意に空を見上げて言葉を漏らした。

空をかき分け、しかし大気すら震わせず高速接近する、ソレの存在を察知して。

一瞬遅れてそれに気付いたイブリースは、顔を上げるなり素早く上体を屈め、アズライルの胸から腕を引き抜く。

そのすぐ上を、アズライルの頭を掠めるギリギリ、イブリースが直立していれば頭部を直撃する軌道で、パールホワイトと

黒に彩られた巨体が通過した。

かわされて空振った分厚い靴底は屋上の床に音もなく触れて着地し、すぐさま旋回した巨躯の重みを受けてぎゅりっと音を

立て、太い腕が腹横のポケットから小型拳銃を引き抜く。

それと全く同時に、お辞儀するように上体を屈めていたイブリースも素早く振り向き、懐に差し入れた手でデリンジャーを

掴み出す。

刹那にも満たない間で振り向きざまに伸ばされ、交差した太い腕が、互いの眉間に拳銃を突きつけ、静止した。

赤い瞳を見据え、北極熊は口を開く。

「久しぶりだね。オレ」

青い瞳を見詰め、北極熊は口を開く。

「久しぶりだね、ボク」

解放された黒豹は胸を押さえてよろめき、尻餅をついてへたり込むと、互いの眉間に銃口を向け合う北極熊二頭の姿を目に

し、息を飲んだ。

まるで除幕状態のジブリールと対を成すように、纏ったコートを瞬時に変化させた赤い翼を大きく広げるイブリース。

両者が持つ巨大な翼は、しかし一方は鳥類の物に似て、もう一方はコウモリの翼のようであった。

「ジブ…リール…?」

イブリースと向き合う彼女の同僚は、敵対者から視線を外さないまま口を開く。

「無事かい!?アズっ!」

その声に混じる焦りの残滓と安堵の響きを嗅ぎ取り、アズライルは困惑し、直後に後悔し、深く恥じ入った。

「良かった…!どうやらまだキミのままだらしいね?」

確かにジブリールは、黒豹を通して過去のアズライルを見つめていたかもしれない。だが、決して今の彼女を見ていない訳

ではなかった。

その事を、珍しく焦りを覗かせて、僅かながらも取り乱していた北極熊の様子から悟ることができた彼女は、一時でもジブ

リールに憤った己を情けなく思った。

ジブリールを見つめながら、全く同じ顔立ち声の北極熊が「何故だい?」と口を開く。

「アズの魂を確保していながら、どうして余計な物を付着したままにしておいたのかな?ボク」

静かに燃える赤い瞳に危険な兆候を見出しながら、ジブリールは青い目を細めた。

「それは違うよ、オレ…。余計な物なんかじゃない…、全ては、今のアズがアズでいるために必要な要素だ」

「それは裏切りだよボク。彼女に対する裏切りだ。本来の魂無くして完全な再生は有り得ない。アズを否定するつもりかい?」

「そんなつもりはないよ。けれど、今のアズを否定するつもりもない」

「答えになっていないね。つまり、アズを元に戻さず、紛い物のままにしておくつもりなのかな?」

「紛い物なんかじゃ決してないよ。今のアズもまた、本当のアズだ」

こんがらがりそうなほど奇妙なやりとりを眺めながら、アズライルは気付き始めた。

(もしかして…?いや、この二人は…?)

イブリースはすぅっと目を細め、赤い瞳を輝かせる。

「まさか、他者ならともかく自分自身とここまで意見が合わないとはね…。失望したよ、ボク」

「哀しいけれど当然なのかもしれないね、意見が合わないのは…。何せ…」

ジブリールは寂しげな青い目で、憎悪の狂眼をじっと見つめ返す。

「魂を切り離されて、それぞれ生まれたんだから…」



一方その頃…。

「イブリースや!厳戒態勢に移行するよう、とっとと警報発令せんか!」

ミカールは飛行艇を飛ばしながら、無線機に向かって大声でがなり立てていた。

「あん!?やかましいわ!ちゃきちゃき避難させぃ!一人残らずや!一介の配達人なんぞには、間違っても手出しさすな!」

余裕のない表情で叫ぶミカールは、牙を剥いて唸る。

「最悪や…!最悪の事態や…!ジブリールとイブリースが接触しとる…!他ならともかくジブリール相手なら、イブリースの

暴れ方は今までとちゃう!「余裕のある」、「大人しいモン」や済まへん!この間同様、多重ダミーでも展開して空間隔離せ

んと、こんな島国跡形残らず消えてまう!おまけに、アズライルまでファントムと接触しとるのは間違いないし…!」

仲間の反応を示す点が重なっているレーダーを見つめ、ミカールはコントロールパネルを乱暴に叩いた。

どうあってもジブリールとイブリースを争わせる訳には行かない。そう決心し、事実これまでそうなるよう注意して来た。

だが今、ミカールが恐れていた事態が実際に起こっている。

「アズライルが保護できとるアイツにとって、残る探し物は一つだけ…」

唸るミカールの口元から、歯ぎしりの音が漏れた。

「…イブリースを見つけた今、刺し違えてでも止めるつもりなんやろ?ジブリール…!」



『アズ、下がっておいて』

全く同じ声が、全く同じ言葉を成す。

銃を突きつけ合う北極熊二頭の周囲では、パチパチと火花が生じては消える。

静止している二人は、しかし既に戦闘を開始していた。

互いの防壁を解除し、それを防ぎ、新たな防壁を展開し、さらに送り込まれたプログラムを送り返す…。

拮抗するその攻防は地味ながらも譲れない。両者とも、相手が隙を見せたその瞬間に一撃でねじ伏せる強力な攻撃手段、分

解吸収能力を有しているのだから。

切り札であるそれの勝負においては、僅かにでも劣った側の負けが確定する以上、障害になる防壁丸ごと分解吸収を試みる

訳には行かない。一枚でも多く相手の防壁を無効化し、分解に余力を持たせる必要がある。

「この日を待ち望んでいた…」

集中しながらも、ジブリールは静かに漏らす。

「アズを見つけてもなお地上に留まり続けていたのは、今この時の為…」

青い瞳は哀しいまでに硬い決意を湛え、赤い瞳をじっと見つめる。

「最悪にして最大の脅威…、アル・シャイターンを消滅させる、この日の為だった」

イブリースは「ふむ」と頷くと、抹殺宣言を受けながら全く動じずに応じる。

「流石と言うか何と言うか、やはり似通った所はあるらしい。ボクもこうして接触できる時を待ち望んでいた。アズの他にも、

どうしても欲しい物があったからね」

並のワールドセーバーであれば一瞬で丸裸にされるほどの、超高速、高度な攻防を行いつつも会話する、常識はずれの二人

を目の当たりにしながら、下がれと言われたアズライルは動けず、白猫もまたその場に止まっている。

導き出した答えを素直に受け入れる事ができず、混乱の極みにあったが、それでもアズライルは迷いを捨て、腰の拳銃に手

を伸ばした。

「ジブリール!援護する!」

勇ましく構えた彼女の、どちらの側に立つかを宣言するようなその声に応じるように、気付かれる事無く背後で空間に微細

なノイズが走る。

黒豹に気取られないまま間合いの内側へ空間跳躍して来たのは、青白い肌をした肥満体のシャチであった。

気配を察したアズライルが振り向くより早く、襲撃者の太い腕が、チョークスリーパーの格好で彼女を捕らえる。

「なっ!貴様っ!?」

驚きながらもがくアズライルは、しかしその剛力でしっかりとホールドされ、逃れられない。

「ネビロス?」

「ネビル…!」

訝しげな声を漏らすイブリースと、驚きながら昔の名で呼ぶジブリール。

「うごくなアズライル。うごかないほうがいい。うん。うごくなうごくな」

シャチはぼそぼそとアズライルの耳元へ警告し、ちらりとイブリースを見遣った。

「アシュターねえさんのめいれいだ。めいれいだな。イブリースのしようとすることに、じゃまをいれるな。いれるなといわ

れた。いわれた」

この発言を聞き、何を狙っているのかと思案するイブリース。

一方ジブリールは、哀しげにシャチを見つめている。

「随分変わってしまったね…、ネビル…」

無言のまま見つめ返すシャチの目には、ジブリールの記憶に残るかつての光は無く、暗く濁っていた。

「一度管理人に捕縛されたそうでね。その時に仲間の居場所を聞き出すべく拷問されたそうだ。幸いにも近場にいて危機を嗅

ぎつけたアシュターに救出されたそうだけれど、それでもちょっと手遅れで、心が少々壊れてしまったらしい。ある意味ボク

や執行人に近い、半自動状態と言えるね」

「拷問?心が壊れる?まさか…、管理人達がそんな真似をするはずが…」

「何を知っていると言うんだい?ボク。お互い長く本部から遠ざかり、中で何が行われているか殆ど把握できていないじゃな

いか。実際に、アスモデウス達が盗み出したいくつかのプログラムの存在も、中身も、知らないんじゃないかな?」

「…何の話だい?」

「ボクが考えてもいないほど、技術開発室はこっそりとエゲツない事をしているという話さ」

黒豹がシャチに捕らえられた上に聞かされた、イブリースの揺さぶりをかけるような言葉で、ジブリールの集中が僅かに乱

れる。

その乱れが、防壁の削り合いに僅かな差をつけた。

力が拮抗している相手との戦闘では、僅差とはいえ差がつく事は重大な意味を持つ。珍しく冷静さを欠いたらしいジブリー

ルは、僅かに足を浮かせるなり、力強く踏み下ろした。

途端に両者の足下に光の円が広がり、炸裂する。

床や周囲には何の影響も及ぼさず、その円から直上へのみ、垂直に吹き上がったパールホワイトの光は、二頭の北極熊を宙

へと跳ね上げた。

しかし両者とも、未だに残る強固な防壁によって直接的なダメージは受けていない。

諸共に宙へ跳ね上げられて僅かながら間合いが開き、互いの眉間に向けられていた銃口が逸れたその状況で、申し合わせた

ようにジブリールとイブリースが動いた。

ジブリールの背で大きな両翼にそれぞれ二本の筋が入り、三対の翼に分割される。

同じくイブリースの背でもブチブチと歪に千切れた羽が形を整え、六枚の翼に変貌を遂げる。

それぞれが主翼、補助翼、スタビライザーの役目を果たす、大きさの異なる三対の翼を広げ、二人はもつれ合うように旋回

しながら、光の帯を螺旋状に引いて急上昇して行った。

その軌跡には防壁破りの痕跡である光点が無数に残され、さながらクリスマスツリーを飾る電飾のように明滅する。

幻想的な光景の中、しかし響き渡るのは発砲音と金属的な軋み、そしてガラスが砕けるような音が織りなす不協和音。

光の帯は急上昇に次いで急降下、しかし勢いが僅かに違うせいで、軌道は途中から横へ捻れ、立ち並ぶビルの上を掠めるよ

うに水平移動に切り替わる。

僅かな差の巻き返しを図るジブリールが、しかし劣勢にある事を感じ取り、アズライルは焦る。

(加勢どころか足手纏い…!下がれと言われたあげくにこれか…!)

もがくアズライルの頭を鬱陶しそうに見下ろし、シャチは囁く。

「おとなしくしろ。してろ。してればひどいことしない。しない」

言い聞かせるようなその言葉が耳をくすぐり、不快げに顔を顰め、一層激しくもがくアズライル。

その暴れ具合が抑え込むにも手に余る、自らの首が折れる事も構わないような激しい物だったため、シャチは仕方なしに腕

を緩め、羽交い締めに移行しようとした。

が、激しくもがくアズライルを逃がさないように注意を払って動かした手が、スーツを押し上げる豊満な双丘を、たまたま

鷲掴みにする。

それは不慮の事故であった。

ビクッと身を震わせたきり硬直したアズライルの胸から、ネビロスは「あ。ごめ」と唸りつつパッと手を離す。

「殺すぞ貴様ぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

叫びつつ身を捻ったアズライルが繰り出した、踵を打点とする射抜くような蹴りが、褌でのみ覆われたネビロスの股間を直

撃した。

「あ…!う…!お…!」

眼球が零れ落ちんばかりに目を見開き、白黒させるネビロス。

魂だけの存在であろうと、同類であるアズライルの直接攻撃は有効。急所に当たれば当然ながら激痛が約束される。

「た…、たま…!たま、めりこんで…!めりこんだ…!うまった…!おごごごご!なんてきょうぼうなんだ?きょうぼうだ。

きょうぼう…!」

「やかましい!死ねデブシャチっ!」

苛立ちが収まらなかったのか、股間を押さえて床に突っ伏し、うーうー呻いているネビロスの弛んだ脇腹へ、容赦なく爪先

を蹴り込むアズライル。

が、すぐさま顔を上に向けると、光の帯の行く先を目で追った。

「くっ…!ジブリール!今加勢するぞ!」

ジブリールに力添えする為、愛車に駆け戻ったアズライルは、しかし跨ったところである事に気付き、ハッと手元へ顔を向

けた。

ハンドルを掴む右腕に、白い小さな手がそっと乗せられている。

いつからそこに居たのか、いつ触れられたのか、全く判らなかった。

白猫が、アズライルの顔を見上げている。

だが、見ているのかどうかははっきりしない。

何故なら白猫の視線は焦点がアズライルの顔に据えられておらず、遥か遠くを見るように茫洋としているのだから。

何故この白猫の事が目に入らなくなっていたのか、アズライルには判らなかった。

何故この白猫の事を半ば忘れてしまっていたのか、アズライルには判らなかった。

何故この白猫の事に意識が向かなくなっていたか、アズライルはようやく悟った。

自分の一挙手一投足に、常々注意など払わない。正常であれば。

だが、痺れて感覚を失った手足が正常な手足に触れた場合、時には意図せぬ位置にあったその存在を改めて頭で認識し、過

剰な違和感を覚える…。

アズライルは漠然と悟る、自分と白猫の今の関係は、そんな物なのだと。

「いってはだめ」

白猫の口がそう言葉を紡いだ時には、アズライルは耳で聞くより早く、その言わんとする事を悟っている。

行ってはいけない。今はジブリール達から距離を取っておくべきだ。でなければたちどころに良くない事が起きる。

触れた手から流れ込んできたソレは、アズライルにはそう捉えられた。

「…しかし…」

黒豹は迷う。この白猫が何なのか、触れている今は何となく理解できる。

敵ではない。少なくとも彼女にとっては。白猫は自分にとって、誰よりも近い、片割れのような存在である…、理屈抜きに

そう理解できている。

「おわりがはじまった」

白猫は続ける。黒豹の顔をぼんやり眺めて。

「わかれたものはひとつにもどり、おおきなひかりがきえる。それは…」

囁くように抑揚のない口調で話していた白猫の瞳が、不意に焦点を合わせて輝きを宿し、アズライルの瞳を見つめた。

「それはもう、私では止められない。原因は確かにアズライルであっても、決着は他者の手に委ねられる。傍に可能性はあっ

た。その可能性に託す他、事を収める手段はもはや無いわ」

たどたどしかった白猫の口調が、それまでとは打って変わって唐突に大人びて、はっきりとした物になり、アズライルは戸

惑う。

だが、少女が語る漠然としたその内容が真実である事は、理屈抜きで確信できた。

「お前は…、私なのだな?以前のアズライルだった時、私達は一つだった…」

静かに頷いた白猫から視線を外し、アズライルは空を見上げる。

パールホワイトの破片が光の帯から剥がれるように落ちて、地上へ落下して行くのが見えた。

それは、肘のすぐ下で焼き切られた、太い真っ白な腕…。

息を飲んで、どちらの物か判別できないソレが落ち行く先を一瞬目で追った黒豹は、もつれ合って飛翔する光の帯に、祈る

ような眼差しを向け直す。

「そして彼ら…、いや、彼も…、元々は一つだった…」

事の真相に気付いたアズライルが、己の半身と寄り添いながら空を見上げるその後ろで、亀のように丸まってうーうー呻い

ていたシャチがゆっくりと身を起こす。

四つん這いになったまま、脂汗で濡れた蒼白な顔を床に向けてしばし項垂れていたかと思えば、急にハッとしてぺたんと座

り込み、褌を引っ張って作った隙間を覗いて自分探しをした後、ほっとしたようにため息をつく。

そんな、緊迫した場にそぐわぬ動きを見せたシャチは二人のアズライルに視線を向け、与えられた痛みを思い出して一度は

怯えたような表情を見せたものの、すぐさま与えられた使命について思い出し、素早く周囲を窺う。

「イブリースの思うように事が進むよう、事態の進行を補助せよ。そして、何があってもアズライルに害が及ばないように気

を配れ」

アスモデウスからの命令は、そのような物であった。

故に彼はジブリールとイブリースの争いにアズライルが巻き込まれないようにと、先程は力ずくで止めたのである。

彼らの派閥からすれば、アズライルは人間という種を存続させ、地上を荒廃に向かわせた諸悪の根源に当たる。

何故そんな存在を守るような真似をしなければならないのか?

ネビロスからすれば甚だ疑問なのだが、彼らの頭であるアスモデウスから命じられた大切な任務である。疑問はあっても背

くつもりは毛頭無い。

「じゃまはさせない。じゃまをいれない」

アズライルは動く気がなくなったようだ。そう判断しながらぶつぶつと漏らし、周囲を警戒するネビロスは、動かしていた

視線を宙の一点で止める。

そこには、まだ遥か遠くで点にしか見えない、レモンイエローの飛行艇の姿。

夜空をバックに星に紛れる飛行艇が、今自分達の頭上で繰り広げられている激戦に介入すべく全速力で飛んで来ている事を

確認し、ネビロスは背を丸める。

肉付きの良い丸みを帯びた背から、滲むように黒が湧き出し、霧のようにたゆたったかと思えば瞬時に凝縮、凝固する。

「じゃまはさせない。じゃましてやる」

コウモリや翼竜を思わせる、骨組みに翼皮が張られた一対の羽を広げ、ネビロスは飛び立った。