第五十七話 「終わりが始まる時」(後編)

人間達には認識されないまま、飛行艇は猛スピードで夜空を横切る。

その行く手に広がるのは、縦横無尽に飛び回る光と、その軌跡が絡み合い、まるでオーロラのように光の粒子を漂わせる幻

想的な光景。

「思っとったより静かな立ち上がりやけど…、激化するのも時間の問題や!無理矢理割り込んででも止めたる!」

ジブリールとイブリースの軌跡である光の帯がもつれ合って描き上げられた、凄まじい光景の夜空を見据え、ミカールはコッ

クピットで唸った。

僅かにだが、一方の動きが鈍っているようにも見える。

手元のレーダーには、留まるアズライルと激しく動き回るジブリールを示す光点。

強制的に空間跳躍させられ、大急ぎで戻って来ているムンカルを示す光点は、レーダーの隅ギリギリの位置にある。

ナキールを示す点は光帯の動く範囲内にあり、せわしなく移動している。

それを確認したミカールの目が、何故か焦りを浮かべた。

「ワシが止めなあかん!アイツらは戦わしたらあかん!ワシが…、ワシが責任を取らなあかんねや!」

苦渋に満ちた声と表情で漏らすミカールは、しかしすぐさま表情を緊張したものに変えた。

直後、彼の意志に従って急激に機体を傾けた飛行艇を掠め、黒い棒状の何かが飛び過ぎてゆく。

直撃は避けたものの、コックピット上部の外装がネズミに齧られたチーズのように欠け、窓が一部破損し、破れた箇所から

吹き込む高所の猛烈な風が、ガラスの破片を孕んでコックピット内を暴れ回った。

風とガラスから片腕を上げて顔を守りつつ、ミカールはザワリと鬣を伸ばした。

「イブリースやない…、他にも何かおる…!どこのどいつや!ワシの大事なフネに傷付けよってからに!」

怒声を吐き散らしながら除幕したミカールは、遥か前方で仁王立ちになって宙を踏み締め、翼を広げている影を、赫怒の眼

差しで見つめる。

「オドレかぁっ!ただじゃ済まさへんで!」

瞬時に飛行艇の両翼上面が水面のように波紋を浮かべ、召還されたアハトアハトがそこから生える。

だが、八十八ミリが反撃の照準を定めた瞬間、ミカールの顔が引きつった。

大きくなった瞳が捉えているのは、黒い翼を広げて宙に浮かぶ、青白い体躯…。巨漢のシャチである。

「ね…、ネビルっ…!?」

かつて、ジブリールや自分を兄のように慕い、のたのたとついて回っていた、おっとりした性質のシャチ…。

在りし日々の、控えめな照れ笑いが、幼げな眼差しが、からかわれても小首を傾げて考え込んでいたあどけない表情が、ミ

カールの中でフラッシュバックする。

だが今やその姿はすっかり様変わりしていた。

どこかぼうっとしていた優しげな眼差しは、いまや冷たく暗い物に代わり、かつて彼が広げていた青みを帯びた白い翼は、

まるでコウモリの羽のような形状に変化し、漆黒に染まっている。

以前身に付けていた黒い修道衣やトレンチコートに代わり、やや緩んだその身に纏っているのは腰を覆う褌のみ。まるで、

古い時代に素潜りで魚を獲っていた漁師のような出で立ちである。

二投目のモーションに入ったネビロスの姿を凝視しながら、ミカールは、

「……………っ!」

結局、撃つ事ができなかった。

これこそが、アスモデウスが同志の中からネビロスを選んで差し向けた、第一の理由であった。

かつてミカールやジブリールと親しかったシャチであれば、攻撃を躊躇される可能性は高い。

何よりも脅威であるオーバースペック二人に対し、少しでも有利に任務を遂行できるネビロスは、派遣にうってつけの人材

であった。

『人間って、本当にぼくらが守らなきゃいけないんですかね?結構逞しいと思うんですけど。…むしろ、守らなくちゃいけな

いのは…』

在りし日の、純真な子供のようだったシャチが首を傾げながら投げて寄越したその問い掛けが、ミカールの耳の奥で蘇った

次の瞬間、飛行艇のコックピット前面でガラスが残らず砕けた。

投げて寄越された物は、今度は言葉ではない。

ネビロスが投擲し、黒い流星の如く飛翔した銛が、飛行艇のコックピットを直撃した。

黒い銛はそのまま機体を貫通し、後部ハッチに風穴を穿って破壊し、後方へ突き抜ける。

直後、機体内から黒い針が無数に飛び出し、飛行艇を内側から串刺しにした。

ハリセンボンのようになった飛行艇からは、すぐさま立て続けに爆発的な勢いで炎が噴出す。

一瞬で徹底的な破壊を受け、制御を失った飛行艇は、ネビロスの手前で失速。外装を離散させながら、墜落の軌道に移る。

かつて捕らえられた際、過酷な拷問によって心と同時に記憶も破損してしまったネビロスは、躊躇無く飛行艇を撃墜しての

けた。

操縦席に姿が見えたレモンイエローの獅子が、かつての友人だと知らないまま…。

「まだだ。まだ。はいじょする。はいじょ。てっていてきにはいじょ。だれにもじゃまさせない」

確認できる形で完全なトドメを刺すべく、ネビロスは宙で身を翻し、翼を煽って急降下。火の尾を引きながら落ちてゆく飛

行艇を追う。

向かう先は都市部を横断する河川。飛行艇はその川面めがけて降下して行った。



何も見えない闇の中で、声が響いた。

「ミカールさんは、アズライルさんと親しいんでしょう?」

「ん〜…、せやなぁ。まぁ腐れ縁やけど…」

「それなら!今度地上を査察しに行く時、ぼくも連れてってくれるように頼んで貰えませんか!?」

「は?何やお前?地上なんかに用事あるんか?」

「いいえ、特に無いんですけど…。興味あるんですよ、地上!いろんな姿の動物がいっぱい居るんでしょう!?海にはぼくみ

たいな顔の動物も居るって!」

「そらまぁ誰にでも似た動物はおるけど…。そんなにおもろいトコやないで?」

「けれど、人間っていうぼくらに似た動物も居るって!見てみたいなぁ!」

「いや、ぜんっぜん似てへんで?アレは」

「え?だって、二本足で歩いて、道具も使うって…」

「…ん?言われてみればちょっとだけ似とるか…?」

「ほらー!やっぱり似てるんだぁ!」

そんな、エコーのかかった声に続いて、暗かった視界が開ける。

気付けばミカールは砂浜に立つシャチの背中を目にしていた。

背に翼印が浮き出たトレンチコートを羽織って佇む彼が見ているのは、大きな海棲ほ乳類の死骸と、それにロープをかけて

運ぶ、船乗りのような人間達。

ステラー海牛。確か人間はこの海獣にそんな名前をつけていたはずだと、ミカールは思い出す。

外敵が居なかったが故にのんびりと暮らせていた彼らは、人間に発見された事で絶滅に至った。美味な肉と上質な皮のため

に、絶滅するまで乱獲されたのである。

「…また一つ、未来が消えて行きます…。…いつまで…こんな事が…」

震えるシャチの声に、しかしミカールは返す言葉が見つからなかった。

(あの頃からやったか…。人間に好意的だったネビルが、少しずつ変わって行ったんは…)

アズライルの背任事件もあって絶滅を免れた人類が、知恵をつけ、文明が進歩して行く様を見て、ネビロスは喜んでいた。

念願の監視人になり、おおまかな因果を監視しつつ地上を飛び回る彼は、幸福の絶頂にあった。

…だが、彼の希望は、期待は、そこから徐々に崩れてゆく。

人間が、他の種を生活環境ごと脅かすようになってしまったせいで。

因果を読み、種の絶滅を知りながら、しかしシャチは何もできなかった。

勝手に干渉する事は許されない。世界の存続に支障をきたす可能性がある以上は…。

憧れてやまなかった監視人としての職務は、やがてシャチには辛い物になって行った。

滅ぶ者達の定めを知りながら何もできず、傍観し、耐えるだけの日々は、シャチの中にしこりを生んだ。

彼がただ、耐え、見続けるだけの日々を過ごす間にも、刻々と種の絶滅は進み、自らのイコンに重なる種を人間に絶滅させ

られた者の内、少なくない数が墜人となり、アスモデウスの主張に賛同した。

ミカールが思い起こしているこの光景も、そんなある日の事である。

そして不意に場面は変わり、葉が落ちて痩せた木々が立ち並んだ景色が獅子の眼前に広がる。

貧相な木々と対照的に、うっそうと茂った下生えの緑が鮮烈なその場で、トレンチコートに覆われた背を丸め、シャチは屈

み込んでいた。

並べられた青白い大きな手の平が乗せているのは、一羽の小さな鳥。

「リョコウバトって言うんです…。空を覆うほどの集団で飛び回る鳥でした…」

跪いたシャチの背が、哀しみからか、それとも怒り故か、小さく震えていた。

「たくさん居たから、何羽撃っても減らないと思っていたんでしょうね、人間達は…」

(ああ、せやった…。こんな事があったわ、確か…)

ミカールは記憶の奔流に浸りながら、ぼんやりとその光景を再体験する。

恐らくは史上最多の個体数を誇ったであろうリョコウバト。彼らが絶滅した原因も、間違いなく人間であった。

数の多い彼らを滅ぼすのは、実はとても簡単だったのである。

その全体数に比して、リョコウバトは生殖能力が低かった。繁殖期は年に一度、しかもタマゴは一度に一つ。鳥類史最大規

模の群れを形成していた彼らは、その圧倒的個体数をもって種を存続させていたに過ぎない。

大きく数が損なわれてしまうと、個体数を盛り返すには、並大抵の時間では埋められない。

散々殺戮した後に人間達が気付いた時には、既に時は遅く、保護活動も間に合わずに彼らは絶滅した。

そしてまた場面は変わり、象牙色のテーブルについて茶を啜るミカールの前に、今度は紺色の猪が姿を現す。

肩に愛の文字がペイントされたライダースーツを身につけた猪が椅子につくなり、記憶の中のミカールは声を上げる。

「どうやった!?」

「間違いないようじゃの。ネビルめ、墜ちよった…」

一瞬言葉につまったミカールは、テーブルの上のカップをひっくり返しながら身を乗り出し、猪の襟首を掴む。

「そんな訳あるかい!アイツほど優しい、大人しいモンをワシは知らん!何かの間違いや!」

「落ち着かんかいミカール」

猪は獅子の手を掴んで宥めながらも、厳しい眼差しを返す。

「銃を置いて、翼印が消えた衣装を残し、姿をくらました…。これがフォールダウンでないなら何だ?えぇ?」

「ありえへん!ネビルに限って、そんなんありえへん!」

頑として聞かないミカールに、猪は何かを堪えるような、沈痛な顔で言い聞かせる。

「優し過ぎたんじゃ、アイツは…。優しいからこそ黙っとれんようになったんじゃ。…もう少しちゃらんぽらんなら、あそこ

まで悩まず済んだんじゃろうが…、感情が豊かだった事が、逆にあだとなったのう…」

猪は言葉を失ったミカールの手をほどき、立ち上がる。

「見つかるかどうかはらんが、行って来る」

疑問を孕んだ獅子の視線を受け、猪は小さく頷いた。

「ワシにも討伐命令が下ったわい。オーバースペックでないとはいえ、アイツは生真面目じゃったから技術も力も研鑽で高まっ

とる。並のモンじゃ歯が立たんからの」

「待てや!」

椅子を倒して勢いよく立ち上がったミカールは、猪を睨み付ける。

「テリエル…!ネビルを消滅さしたら、いくらあんたでも絶対に許さんで!絶対にっ…!」

猪は踵を返して背を向け、肩越しに軽く手を上げながら応じた。

「肝に銘じとくわい」

立ち去る猪を見送り、ミカールは項垂れる。

体の横で握り締められた両の拳は、小刻みに震えていた。

「感情なんて…、邪魔なだけやないか…!いらん…!ワシはこんなのいらへんのに…!こんなんさえ無かったら、ジブリール

も斬らんで済んだのに…!」

そして追憶の画面は、不意に暗転した。



「…ネビル…」

自分の呟きが、復旧途中だった意識を覚醒させる。

コックピット正面から侵入し、後部へ突き抜けた銛の軌道。そこをなぞるように残った黒い柱から生えた無数の針が、コッ

クピット横の壁面にミカールを磔にしていた。

左肩と右胸、そして腹の中央に右の腿、そして右腕の肘付近。

計五カ所も貫通されながらこの程度のダメージで済んだのは、接触流入する悪性プログラムが、ミカールの地力だけでねじ

伏せられたからに他ならない。

だが、動揺していたとはいえ、除幕したミカールの防壁をも貫く、凶悪な破壊力を秘めた一撃は、ザ・へリオンを一時的に

とはいえ行動不能にしていたのである。

我に返ったミカールは状況を再確認し、すぐさま脱出を図る。

手足は自由が利かず、代わりに鬣を伸ばしたミカールの周囲で、レモンイエローの光に触れた針がボロボロと崩れてゆく。

程なく半端に崩れた針を折って、体に何本か突き刺さったまま磔から脱出したミカールは、痛みに顔を顰めながらよろける。

地上において魂のエネルギー漏出を押し止めてくれる肉の体だが、リンクしているが故にダメージのフィードバックは魂に

及ぶ。また、地上の因果に縛られた存在から大きな影響を受ける事は希なものの、魂だけの状態とは違って物理法則を完全に

無視する事はできない。

「ネビルのヤツ…、肉の体を持ってへんかった…。アスモデウスどもと同じか…!」

腹の傷を押さえながら呻くミカールの体が、内部からレモンイエローの光を放ってうっすらと発光し、たちどころに傷口が

収縮して行く。

指がすっぽり入るような穴がすぼまり、やがて被毛の中に見えなくなると、ミカールは発光を収めて荒く息を吐いた。

リンクしていた飛行艇が大破した事で、ミカールには多大なダメージが残っている。ハリセンボンのようにされた飛行艇の

損傷を、我が身のダメージのように受け止めてしまったせいで。

いわばミカールは、体内から無数の針で串刺しにされる感覚と、実際に肉の体と魂が負ったダメージの、ダブルパンチを受

けていた。

よろめきながら破れた窓へ向かうミカールの耳が、気配を察してピクリと動く。

残らず割れた窓の向こうに音もなく降下して来たのは、白地に青白いカラーリングの体躯をした、巨漢のシャチ。

(ネビル…。ワシは…、ワシはお前とやり合わなあかんのか…!?)

伸びた鬣がざわめく。まるで動揺が表れているように。

オーバースペックといえども肉の体の制約を受けている以上、魂が剥き身となった本来の状態にある相手に対し、圧倒的優

位とは言えない。

ミカールは基本スペックで優っていても、枷がはめられた状態。さらに決して軽くないダメージを抱えている。完全に自由

なネビロスは、普通に考えても手強い相手であった。

それでも捻じ伏せる事は可能である。その気にさえなれれば…。

迷いがミカールの動きを止めさせている。しかしネビロスはミカールの事などもう覚えておらず、攻撃する事に躊躇いも迷

いも一切ない。

牙を噛み締めるミカールを暗く淀んだ目で見据え、ネビロスは両手を胸の前でバツの字に交差させる。

その握られた手から染み出した黒霧が上下に伸び、黒い銛が形成された。

交差した腕の上で交差した銛。その菱形の隙間からミカールを見遣りながら、ネビロスは口を開いた。

「じゃまさせない。おまえじゃまそうだから、じゃましそうだから、けしてやる」

「ネビルっ…!ワシの事も許せんのか…?話しあう事もできへんのか…!?お前はあんなに穏やかやったのに…、何があった

んや!」

ミカールの悲痛な叫びで、ネビロスは不思議そうに目を細める。

「おまえなんだ?おれをしってるのか?おまえだれだ?おまえなんてしらない。じゃまだな。じゃま。けそう。もうけそう」

自らの言葉に頷きながら、ネビロスは半身になって体を捻る。

先ほど飛行艇を撃墜した銛の投擲。そのモーションに移ったシャチを睨み、ミカールは喉の奥で呻く。

「やらなあかんのか…、お前と…!」

迷いを抱えたまま翼を形成し、戦闘態勢に移ろうとしたミカールは、

「待てコラぁあああっ!」

大気を奮わせる怒声を耳にし、虚を突かれて硬直する。

投擲体勢だったネビロスは、首を捻って何を見たのか、即座に腕を引き戻し、横手に向かって防御姿勢を取る。

彼が構えた二本の銛が、ガギギンッと、けたたましい音を立てながら素早く回り、跳ね上げられ、飛来したデータ圧縮弾を

粉砕した。

目を細めたシャチが自分を無視して横を向き、構え直す様子を見ながら、ミカールは確信した。誰が駆けつけたのかを。

「てめぇか…?フネ落としやがったのは…」

現れた何者かの姿はコックピット内のミカールからは見えないが、いやに静かで、いやに低く、いやにドスの利いた地を這

うような声が、彼の耳にも届いた。

「ミック!無事だろうなっ!?」

半ば怒声と化している同僚からの問いかけに、

「何とかな…。ムンカル、お前なんでこんな早く…」

獅子は複雑な表情を浮かべながらそう応じた。飛ばされた鉄色の虎が予想以上に早く戻って来た事に驚きつつ。

「飛行艇が落ちてくのが見えたからな。大慌てですっとんで来たぜ。電車の屋根に飛び乗って無賃乗車したり、タクシーの上

にお邪魔したり、タイミング計って乗り継ぎしてよ。…さて」

ムンカルはネビロスを見据え、鼻面に深い皺を刻み、獰猛な唸り声を上げた。

「よくもまあやってくれたじゃねぇか…。えぇ?ひとん家壊してただで済むと思うなよ、この魚野郎!」

「おまえばかそうだな」

ムンカルの挑発に対し、ネビロスは何故か胸を張る。

「シャチはな、ぎょるいじゃないぞ?おれものしりだからしってる」

「馬鹿はどっちだ?馬鹿にして魚呼ばわりしてんだよ!」

「シャチはな、はちゅうるいだ。はちゅうるい。…たしかそう。うん」

「…お前馬鹿そうだな。何で自分の事にそんなに曖昧なんだよ…」

ムンカルはぽつりと呟くと、苛立ったように声を荒げる。

「シャチは両生類だろうがっ!」

「正解は哺乳類や…、ダァホ…」

呟いたミカールの声は、しかし小さすぎて両者に届いていない。

先ほど直におこなったやりとりで疑問を覚えた獅子は、今のムンカルとネビロスの会話で確信した。

(ネビルがこんな事も判らんはずない…。ワシの事も知らんて言いよった…。それに口調もおかしい…。まさか…、まさかこ

いつ…、人格や記憶に、重大な損傷でも負ったんか…!?)

ミカールは自らが導き出したその推測で納得した。それならば旧友の変わりようにも頷ける。

だが、流石にその原因までは特定できなかった。

一度捕らえられたネビロスが、他の堕人の情報を得ようと考えた技術開発室長の手で執行人を造る時と同様の処置を施され、

人格を半ば以上破壊されてしまったという事には。

たまたま別件で潜り込んだアシュターに救い出されたおかげでフォーマットは完了せず、操り人形にはならずに済んだもの

の、ネビロスはこれが原因で、慈悲深く思慮深かった人格も、地上の生物に関する膨大な知識も、併せて失ってしまったので

ある。

「無事に帰れると思うなよブタシャチぃ…!ブラスト限定解禁だ!」

リボルバーに素早く弾丸を再装填したムンカルの左手が、薄っすらと灰色の光を帯びる。

「おまえもじゃま。じゃまだな。じゃまだからけす」

弾丸を弾いた銛にできた僅かな凹みなどの損傷を瞬時に修復したネビロスは、二本の得物を脇に挟み、左右へクワガタ虫の

顎のように突き出して構える。

痛む体を引きずり、窓際へにじり寄ったミカールは、ムンカルに制止の声をかけようと口を開いたが、

「む…、ぐ…!ううぅ…!」

苦悩の表情を浮かべ、言葉を飲み込む。

ネビロスの力は、ミカールが知っていた頃よりも高くなっていた。ムンカルに下手な事を言って気を削いでしまえばどんな

事になるかは、考えるまでも無い。

しかし自分はネビロスと戦えない。まだその決心ができていない。

選ぶ事ができないまま、ミカールは苦悩する。

かつての友人と、今の相棒…。相対する両者は、ミカールの目の前で今まさに潰し合いを始めようとしている。

(どうすればええ…?どうしたらええんや?ワシは…!)

噛み締めたミカールの歯が、キリキリと擦れて音を立てた。

力が足りない。

あれだけ力に自信を持っていたのに、いざという時に力が振るえない。

自らの不甲斐なさに、悔しさと憤りすら覚えるミカールは、苦渋の決断を下した。

瀕死のコンソールパネル上でただ一つ、かろうじて機能を保っている通信機器に、その手が伸びる…。



都市上空で幾度もすれ違い、掠めあい、もつれあっていた光の帯は、ぶつかっては離れてを長い事繰り返した後、間合いを

取って勢いを付け、正面からぶつかり合った。

パールホワイトの翼を広げて踏ん張るジブリールと、白い粒子を噴射している赤いコウモリのような翼を広げ、同じく宙に

静止するイブリース。

両者の間では、突き出した右手に握られたデリンジャーが、光の玉を発生させた銃口を接触させている。

重なり合った光玉の正体は強力な破壊プログラムである。防壁を破壊すべく互いにゼロ距離射撃を狙い、しかし結果的にお

互いの射出を封じあう格好で力比べに入った両者は、近距離で顔を見合わせる。

「まさか、ミカール以外に介入できる者がいるとは思わなかったなぁ…」

そう零したイブリースの左腕は、肘のすぐ下でコートの袖ごと切断されていた。

「防壁無効…。これは、ボクらとは成り立ちが異なる存在の力じゃないかな?」

「ご名答。オレは優秀な同僚に恵まれていてね」

破壊の光をせめぎ合わせる両者のすぐ傍、ジブリールの背後に、真下から跳ね上がった灰色狼が姿を見せる。

青い清掃衣を身に纏い、額にゼロの刻印を浮き上がらせた狼は、両手に草刈り鎌を保持していた。

「ナンバリングゼロ…。なるほど、キミが最古にして最強のザバーニーヤか…」

自分を見据える慈悲無き、静かな瞳を、イブリースはジブリールの肩越しに見返す。

咎人が恐れる獄卒の眼差しすら彼を萎縮させる事はできず、北極熊は怯えに縛られる事はない。

「ナキール。…いや、スィフィル」

ジブリールはイブリースを押さえ込みながら静かに呟く。

「構う事はないよ。オレごと消して。…できるだろう?キミはまだ、万が一の時にムンカルを消滅させるため預かった武器を

返上していないはずだ」

高速戦闘中のイブリースに一撃加え、腕を切り落とせたのは、投擲した鎌がたまたま命中したに過ぎない。

スィフィルのスピードをもってしても最大戦速のイブリースを捉える事は難しく、途中から僅かに動きが鈍った所を狙って

も、十数発中たった一発が命中しただけである。

だが今、イブリースはジブリールとの力比べに全力を割き、下手に動けない。千載一遇の好機であった。

アズライルを確保した今、ジブリールにとってイブリースの駆逐こそが最大の目的。例え刺し違えてでも、消滅させられる

なら構わない。ジブリールにとっては、彼が消えさえすれば勝利といえる。

ミカールでは駄目。ドビエルもまたイブリースを消滅させる事はできない。

力不足なのではない。両者とも、心情的にイブリースを消滅させられないのである。

だが自分ならば、そしてスィフィルならば、それができる。

「早く…!」

懇願するようなジブリールの言葉に、狼は顎を引いた。

その気配でほっとしたように表情を緩めた北極熊は、同僚に詫びる。

「済まないね…。嫌な役目を押しつけて…」

「いや、詫びねばならないのは自分の方だ、ジブリール殿」

ザバーニーヤとしての口調に戻った狼がそう応じると、ジブリールは僅かに眉根を寄せる。

「済まない。自分はザバーニーヤ失格だ。情というものを理解しかけているせいだろう…。自分のこの手は、貴方を傷つける

事はできない」

「…っ!」

予想外の答えに絶句したジブリールの前で、イブリースが嗤う。

「困った物だね。あちらを立てれば情を得られず、情を知ればあちらが立たず、か…。我ながら詰めが甘いね、ボク。そのま

まにしておけば良かったのに、大方不必要な事まで教えて、感情を植えつけてしまったんだろう?…余計な物は全て切り捨て、

排除する…。そのくらい覚悟ができなければ、世界を敵になんて回せないし、アズを取り戻す事だってできやしないのに…」

嘲笑する自らと同じ声、同じ顔に、ジブリールは言い返す事すらできなかった。

「その点、ボクは手段を選ばない。最終的にはアズ以外の事はどうでもいい」

「急に饒舌になったね、オレ…。腕を失った不利を忘れたのかい?」

「不利?不利だって?この程度は許容範囲なのに?本当に不利なのはどっちか、気付いていないんだねボク?とても滑稽だよ」

冷たく燃える赤い瞳が、ジブリールから僅かに逸れ、眼下の街並みに向けられた。

日が落ちたとはいえ、まだ多くの人々が活動する街は、車のライトが流れ、歩道を人が行き交い、電車が走り、日中同様の

賑やかさを留めている。

「…不思議だねぇ…。同じ存在でありながら、ボクの考えていた事が判らなかったらしい。こんなにたくさん居る人質を、無

視するとでも思っていたのかい?」

イブリースの言葉に、ジブリールは総毛立った。

「…何を…。何をしたんだ…?何をするつもりだ!?」

珍しく声を荒らげたジブリールを、大いなる敵対者は嘲り嗤う。

「良いよね?ミカールのアレ…流星群。綺麗だし、範囲は広いし、効率的な殺戮には実に向いている。真似したくなる気持ち、

判るかいボク?」

ハッとして顔を上げたジブリールは、自分達の周囲のみならず遥か上空でも煌めいている、飛行の軌跡に残った光の粒子を

瞳に映す。

「…まさか…!」

唸るジブリールと同じく見上げたスィフィルは、鋭く目を細めて口を開いた。

「残滓の継続活動を確認。無数の攻性エネルギー体形成中。…この規模は、ミカールの流星群の比ではない。もしも落ちれば、

都市が丸々塵と消えましょう」

イブリースは目を糸のように細め、ジブリールを見つめながら笑みを深める。

「あれを仕込むせいで集中が散漫になったけれど、上手く行きさえすればおつりが来る。腕まで持っていかれたのは二つの意

味で痛かったけれど、狙う価値はあった」

ハメられた。遅まきながら悟ったジブリールは不明を悔やむ。

途中からイブリースの動きが鈍った事は察していたが、疲労による物だろうと決めてかかっていた。宿敵に集中するあまり

視野が狭まり、策を見抜けなかった。

「気付かなかった。それが敗因だよ」

笑顔のまま冷たく言い放つイブリースの頭上で、無数の光の玉が形成されて行った。