第五十八話 「流れ落ちる星」

黒い銛が水平に薙ぎ払われ、それを掻い潜った鉄色の虎が、伸び上がるようにして左の拳を繰り出す。

しっかり地面を踏み、脇を締め、蹴り足の勢いまで乗せられた左拳には、侵食破壊の光…ブラストの明滅が宿っていた。

仰け反るように首を逸らしたネビロスの顎先で、命中せずに空を切るアッパーカット。

しかしムンカルの攻撃は止まらない。伸び上がった体をそのまま捻り、至近距離からソバットを繰り出す。

分厚いライダーブーツに覆われた右足がシャチのたるんだ脇腹に飛び込んだが、しかしネビロスはこれを、太い左腕を下げ

て受け止めている。

さらにムンカルは止められたソバットの勢いそのまま、上体だけ回転を続け、至近距離でバックスピンの肘打ちを狙った。

仰け反った顎目掛けて飛んだ肘は、ネビロスが半歩退いた事でまたしても空振るが、折れていた肘がかくんと伸び、その眼

前にリボルバーの銃口を突きつける。

ガガガガガンッと、重苦しい金属音が河川敷に鳴り響いた。

シャチの顔の前に翳された銛が目まぐるしく動き、五発の弾丸を全て弾いている。

残弾数は一。ダメ押しの一発を放ったムンカルだが、今度はネビロスが巨躯を屈めてそれを潜り、踏み込んだ勢いを利用し

て鋭く銛を送り込んだ。

虎男の胸を狙うその銛は、突き刺さると同時に強烈な破壊プログラムを発動させ、目標を内側からズタズタにする。ミカー

ルの加護を得た飛行艇ですら一撃で破壊されてしまうのだから、ムンカルが生身で受ければひとたまりも無い。

しかし、これはムンカルの誘いであった。

頭部を狙っての五連発。さらに間をあけて一発放って印象付けたのは、布石である。

最後の一発を打つ事で、しつこく同じ箇所を狙う攻撃の軌道を避けて動きたくなるのは当然の心理。まんまと嵌ったネビロ

スは、ムンカルが好ましいと思う攻撃軌道へ誘い込まれていた。

待ち構えていたように振るわれたムンカルの左拳が、弧を描いて銛を側面から叩いた。

ブラスト現象を拳に乗せ、接触点を中心とした小範囲に留めるこの一撃は、ムンカルが人間だった頃に憧れていたチャンプ

のフックにあやかり、こう呼称される…。

「スージーQ!」

直後、接触点から半径1メートルの球状に、灰色の閃光が爆散する。

それは、範囲内に存在する使用者以外の全てを、実体も非実体も関係なく侵食する、破壊の球状空間であった。

この一撃により、強固かつ強力なエネルギー結晶体であるネビロスの銛が、ガラス細工のように砕け散り、破片まで食い尽

くされて塵になる。

だが、ネビロス自身は咄嗟に銛を手放しており、致命的な一撃はシャチを仕留めるに至らなかった。

「しってる。しってるぞ。「ぶらすと」だ。これ、「ぶらすと」だな?かんりしつちょうとおなじだ」

ネビロスの虚ろな暗い瞳の奥で、俄かに警戒の色が濃くなった。

妙な相手だと、シャチは思う。

目前の虎男からは強い力を感じない。せいぜい並の配達人以下のレベルで、管理人や執行人には及ぶべくも無い。

放たれるデータ圧縮弾も一発二発では致命的なダメージは負わない上に、パターンに乏しく防御が容易。さらに本人が纏う

プロテクトも脆弱でお粗末。しかし手抜きをしているようでもなく、真面目にやってこのレベルなのだという事も窺えた。

左手に纏わせるブラスト現象は脅威だが、銛が一撃でも当たればそれだけで終わる相手だと確信している。

だが、妙に手強い。

自分の攻撃は回避され、しかし相手の攻撃はなかなかに避け辛い。

力にはかなりの差があり、ネビロスが圧倒的に上回っているというのに、ペースを握っているのはムンカルの方であった。

「ふん!動けるデブかよ。なかなかフットワークが良いし、勘も悪くねぇ。…結構厄介だな…」

鼻面に深い皺を刻み、獰猛に唸るムンカルを見つめ、ネビロスは僅かな困惑を覚えた。

スペック上は大した事のない相手のはずなのに、何故か手強い。いや、明らかに強い。しかしそれが何故なのかが判らない。

ネビロスは気付いていないが、それはムンカルが非常に喧嘩馴れしているせいであった。

力のぶつけ合いになりがちな彼らの闘争では、肉弾戦は重視されず、いわゆる遠距離からの砲撃戦や、プロテクトの削りあ

いがメインとなる。

戦闘においては多くの者がそう動く中、イブリース戦を想定しているミカールや、機動力に特化した執行人、そしてザバー

ニーヤを除けば、肉弾戦が得意な者は殆ど居ない。まるっきりできない訳ではないアスモデウスにしても、やはりメインは弓

での遠射になる。

つまり彼らワールドセーバーには、肉弾戦に特化した相手と戦う機会はそうそう無いのである。

仮に、ネビロスが空を飛んで高空から銛の絨毯爆撃でも仕掛けたとすれば、ムンカルにとっては厳しい戦いになるのだが、

シャチはその選択肢を捨てた。

強敵と認識しているオーバースペック…ミカールが居る事から、下手に間合いを離せないのである。

本当は童顔の獅子が迷っている事など気付いてもいないシャチは、ミカールの長距離攻撃を警戒し、ムンカルと接近してい

る方が望ましいと感じていた。そうすればミカールも仲間諸共に吹き飛ばすような攻撃は仕掛けられないと踏んで。

だが今、ネビロスのそんな計算も読めていない当のミカールは、悩んだ末に迷いを断って苦渋の決断を下し、死にかけの通

信機を操作していた。

変わり果てた旧友との再会で動揺してしまっている事も手伝い、ミカールは珍しく気後れし、弱気になっている。

おまけにその旧友と同僚が目の前で潰し合いをしているのだから気が気でない。

プライドは傷付き、忸怩たる思いに胸が苦しくなったが、一切合切飲み込んで自己解決は諦めた。

ジブリールとイブリースの事は気になるが、ムンカルとネビロスを放って行く訳にも行かない。手に余る状況を改善すべく

通信機を叱咤し、援軍を求めて中央管理室との交信を試みていた。

イブリースとジブリールの戦闘にも介入できる数少ない男、システム側最強の存在、ドビエルに助けを求める為に。

しかし…。

「ドビエルがおらへん!?何で…!」

『地上でアシュターと交戦中です!一時間ほど前に堕人の一派が配達人のチームを襲撃して…』

「ええい!最悪のタイミングで!…いっつ!」

声を大きくしたせいで苦痛に顔を顰めたミカールは、ふとある考えが頭を過ぎり、一度言葉を切る。

「…連中…、示し合わせたんとちゃうやろなぁ…!

だが、浮かんだばかりのその考え…、ある疑念を、「まさか」と否定する。

イブリースの方はともかく、アスモデウスやアシュター達は彼を危険視すらしている。協力して同時に事を起こすなどあり

得ないと決め付けて。

「ドビエルおらへんねやったら…、くそぅ…!打つ手あらへん!」

『転送準備はもうじき終わります。せめてダミー空間に隔離を…』

焦るミカールとは対照的に、通信を受けている管理人の雪豹は動揺を押し殺し、なすべき事をなし、有効を思われる手段に

ついて手配を済ませている。

その態度が獅子に少しばかり落ち着きを取り戻させた。

「せやな…。とにかくダミーに隔離せんと何やらかすか判らへん…。頼んだで?」

『お任せ下さい!』

歯切れの良い返事をした雪豹だったが、しかしにわかにその背後からざわめきが上がり、騒々しくなる。

途切れ途切れに入る音声で眉根を寄せたミカールは、そのざわめきの中に「アスモデウス」という名を聞き取った。

「何やっ!?今度はアスモデウスが出たんか!?今日はアシュターと一緒やないんかアイツ!?」

思わず声を大きくした途端に鳩尾に痛みが走り、ミカールは呻きながら腹を押さえ、コンソールに突っ伏した。

『あ、いや…。確認されていないだけで一緒だと思われていましたが…、どうやら別行動だったようです。…ミカール?もし

や…、負傷していますか?』

気遣うような雪豹の声に、ミカールは顰め面に不敵な笑みを浮かべて応じた。

「ワシは小僧に心配されるほどか弱くないで?…で、どないしたんや?どこに出よったんやアスモデウス?」

黒獅子と遭遇したのはほんの数日前である。この近くに現れている可能性が高いと踏んだミカールは、しかし雪豹の答えを

聞いて仰天した。

「カッパドキア!?何で…。ま、待て待て!アシュターはどこにおんねや!?ドビエルは何処に行っとる!?」

『モロッコです…』

ミカールは愕然とする。

これだけ離れていては連携どころではない。が、連携がきかないのはこちらも同様。疑念は一層強くなった。

「おかしいで…?うかつに動くなや!」

『え?いえしかし…、アスモデウスは…』

戸惑っているような雪豹の声は、続く言葉でミカールを呆然とさせた。

「機能停止状態で…発見されたやと…?アスモデウスが!?」



「スィフィル…」

輝く無数の光を見上げるジブリールは、背後の狼に声をかけた。

己と同一の存在…大いなる敵対者、イブリースと至近距離で睨みあったまま。

「少し、頼むよ」

言うが早いか、北極熊の背で三対に分離していた翼が再結合し、一対の翼と化す。

見る間にジブリールの巨体の数倍まで大きくなった翼は、光の粒子を凄まじい勢いで噴射し始めた。

ジェットのように光を噴射するジブリールは、せめぎあっていたイブリースを一気に弾き飛ばすと、青い瞳を一瞬だけ夜空

に向けた後、下降軌道に移る。

そして、付近で最も高い建造物の天辺よりも僅かに上の高度で静止し、背中を丸め、その翼を畳み、さらに巨大化させた。

畳まれた翼は見る間に拡大してゆき、まるでドームのように街を覆い隠す。

それはまるで、外界から雛を守る親鳥の、守護の翼のようでもあった。

パールホワイトの翼は、しかし中心となるジブリール自身をカバーできていない。

空からの爆撃を防ぐために無防備になった北極熊を庇うべく、その真上にスィフィルが滑り込み、草刈り鎌を握った両手を

交差させた。

ジブリールは人間達を守る。そしてスィフィルは彼を守る。

眼下の町を盾に取るという、避ける事の許されない凶悪な一手に対し、彼らは二段構えの防御が必要となり、一瞬で数のア

ドバンテージを失ってしまった。

一方、ジブリールにはじき飛ばされたイブリースは宙で翼を打ち広げ、急制動をかける。

そして焦る様子も見せず、投げやりな視線で二人を見下ろすと、さっと隻腕を上げた。

「さあ落ちて、ボクの流星達…」

囁きとともに振り下ろされる腕。その動きに呼応し、空中で瞬いていた無数の光弾が地上めがけて降り注ぐ。

冷たく白い流星群が降る光景は、ミカールのそれとはあまりにも印象が違う。まるで白く凍結した雹が落ちているようにも

見える。

落下するというよりは、殺到すると表現するべきか。凄まじい数と勢いで地上を襲うそれらを、ジブリールは広げた翼で防

ぎ止める。

流星群を受け止める為に吸収能力を使用するという手もあったが、同じ力を持つイブリースを前に、うかつに先出しはでき

なかった。

攻防一体の強力なプログラムではあるが、連続運転時間には限りがあり、ジブリール自身の受け入れ許容量にも限度がある。

仮にこの流星群を吸収した後、まだローランの剣が使えたとしても、相手は腕を一本失っても未だに余力を残しているイブ

リースである。彼の力を吸収し切れずにパンクしてしまう可能性が高い。

どちらの選択もリスクが高いが、ジブリールは防壁を犠牲にし、切り札を残す決断を下した。

光弾は何発かがジブリールめがけて落下して来たが、それらは狼男が迅速に割り、斬り、砕き、掠らせもしない。

それでも、街一つ丸々襲う広範囲攻撃を受け止めるジブリールの表情は、苦痛と負荷のために硬くなる。

イブリースとの削り合いにおいて、慎重に、大事に維持してきた防壁は、翼に乗せて防御に使っているため、あっという間

に壊れ、剥がれ、失われてゆく。

宿敵を前にしながらも、形勢が不利になる事を承知の上で、人間達の為に力を割くジブリール。

彼にとって人間達は、以前アズライルがその身を捧げてまで守った、未来への大事な種である。

一方、宿敵を前にして、優位に立つ為に手段を選ばず、躊躇無く人間達を盾に取るイブリース。

彼にとって人間達は、アズライルに救われたからこそ、彼女の為に犠牲になるべき種であった。

元は同一の存在だったにも関わらず、二人の価値観と考え方は大きく食い違う。

誰よりも近しい存在でありながら、二頭の北極熊は水と油であり、光と影…、不倶戴天の敵であった。

「…スィフィル…!まずい…!」

やがて、ジブリールは顔を顰めて同僚に訴えた。

数発立て続けに着弾した箇所で防壁が破れ、翼に風穴が空いてしまった。

「オレの方はいいから、あの穴をカバーして!」

翼に穴を穿たれた苦痛を堪え、ジブリールは懇願する。だが…、

「承諾しかねます」

リスクを度外視したその提案を、スィフィルは冷静に、一言で却下した。

彼とて人間の事がどうでも良いとは思っていない。だが、今ジブリールにもしもの事があれば、イブリースを止められない

だけでなく、街全体が流星群に破壊されてしまう。

大のために小を殺す。それが、狼男なりに苦しんで出した結論だという事を汲み、ジブリールは二度までは要請しなかった。

苦悶するように歪んだ顔が、哀しみすら湛えてイブリースを見上げる。

「どうして…。どうしてアズが守った物を大切にできないんだ…!」

「大切にしているとも。けれど例え何人が旅を終えようと正当な犠牲だよ。アズが守ったからこそ、アズの為に犠牲になるの

は正しい。これこそ因果の正しい回帰だ」

そう淡々と応じたイブリースは、不意に口元を緩め、微笑んだ。

「さて…、チェックメイトだよ、ボク」

イブリースの言葉が終わるか否かの内に、その巨体はノイズに包まれた。

「しまった!」

意図を察したジブリールが声を上げたその時には、大いなる敵対者は姿を消し、翼の屋根の下…、ジブリール達より地上に

近い位置に出現している。

そしてその位置は、空を見上げる白猫と黒豹に、彼らよりもずっと近かった。

その事に気付いたジブリールの顔から一気に血の気が引き、背中に冷や汗滲む。

(狙いは、避けられない流星群を受け止めさせてこっちを弱らせる事じゃない…。真の狙いはアズライル!流星群でオレ達を

纏めて足止めするのが目的だったのか!)

ジブリールは焦る。常の落ち着きを失い、注意と意識がアズライルに集中した。

「アズ!」

ジブリールは翼をパージし、その場に残して落下する。

力と防壁の大半を注ぎ込んだ翼を切り捨てて流星群封じの為に残し、その代わりに新たな翼を生やして。

しかし、間に合わせで新しく形成した翼は、彼の巨躯を運ぶには不釣り合いなほど小さく、ジブリール自身も防壁を大幅に

削って弱った状態となっている。

「お待ち下さいジブリール」

冷静さを保つスィフィルの制止も、しかし今の北極熊には届かない。

その青い瞳には、自分の全てをかけても守り抜きたい、この世で最も大切な存在…、アズライルだけが映り込んでいる。

一度消えたイブリースの姿を見失っているアズライルは、飛翔して迫る赤と白の巨躯には気付かないまま、高速落下して来

るジブリールを怪訝そうに見上げていた。

「アズ!逃げて!」

ジブリールの口から悲鳴に近い声が上がるのを、初めて聞いた。

そしてそれは、彼女にとって最初で最後の経験となる。

何を言われているのか判らずに困惑する黒豹は、一瞬遅れて気が付いた。

夜闇を裂いて高速接近する、最愛の男と瓜二つの姿をした、もう一つの巨体に…。

「くっ!」

間に合わないと悟ったジブリールは、小さな翼を切り離し、爆散させた。

背面に爆風を受けて、体勢を崩しつつもロケットの如く加速したジブリールと、滑空するように迫ったイブリースが、アズ

ライルと白猫にほど近い空中で激突する。

舞い散る光の粒子を瞳に映し、黒豹は呆然とその光景に見入る。

「じ…、ジブ…」

名を呼びかけた口が、途中で止まる。

空中で静止した両名の姿…。その一方、自分を庇って飛び込んで来た同僚の大きな背中が、アズライルには見えていた。

その背に浮かぶ、力と光を失ってやや黒ずんだ翼印の中央にある、場違いな異物も…。

降り注いでいた流星群が止み、不気味なほどに静まりかえった空の下、街を守っていた巨大な光の翼がパールホワイトの粒

子へと分解し、霧散してゆく。

「そ…うか…。…これが…、狙いだったとは…ね…」

途切れ途切れに言葉を吐くジブリールは、抱え込むようにして受け止めたイブリースの顔を見下ろす。

その鳩尾に、敵対者の右腕は肩まで埋まっていた。

体の中央を背中まで貫かれたジブリールの体から、まるで蝶の羽から鱗粉が落ちるように、光の粒子が離散してゆく。

特に貫かれた部位からの離散は激しく、まるで鍋の蓋を押し開けて蒸気が漏れるように、止めどなく噴出していた。

ジブリールはようやく悟った。

人間を盾に取ったのも、アズライルに奇襲を仕掛けるような素振りを見せたのも、全てイブリースの芝居だった事に。

本気で町を潰そうなどとは考えていない。阻まれる事は承知の上。

本気でアズライルに害をなそうとは思ってもいない。止めに入る事も判っていた。

彼の本当の望みは、なるべく力を削いだ上でジブリールを仕留める事…。狙いは初めから「最大の敵の排除」という一点に

あった。

大きく見開かれた黒豹の瞳が、両者の姿を映し、細かく震える。

「じ…、ジブ…リール…!?」

目にしている光景が理解できず、受け入れられず、一時惚けたようになっていたアズライルは、

「ジブリール…!ジブリールっ!ジブリールぅううううううううううううっ!!!」

絶叫しながら銃を抜き放ち、屋上の床を蹴った。

その背から灰色の粒子が噴射され、輪郭がはっきりしない翼を形成する。

「来ちゃ…、だ…、だめだ…。アズ…、逃げ…て…」

途切れがちな言葉を吐き落とすジブリールだったが、逆上した黒豹の耳に懇願の声は届かず、アズライルは止まらない。

愛するジブリールと、彼を串刺しにするイブリースめがけ、一足飛びに宙を裂いて迫る。

しかしその道程の半ばで、不意に下から跳ね上がった何かが彼女の首元に当たり、喉を捉えた。

「げぅっ!?」

喉元を片手で押さえるアズライル…、彼女に喉輪をしかけて動きを止めたのは、先に斬り落とされたイブリースの左腕であっ

た。

肘から下だけでもなお大きいその手が、黒豹の喉を締め上げる。

アズライルがどんなにもがいてもその手はいささかも緩まず、しかし不必要な苦痛を与える事もなく、彼女を空中の一点へ

固定していた。

ジブリールを串刺しにしたまま、イブリースはちらりと彼女に目をやり、僅かに眉尻を下げて済まなそうな顔をする。

「ゴメンね?アズ…。本当は手荒な真似なんてしたくないんだ。少しの間そこで我慢していて」

斬られた腕すら遠隔操作する、自分が知る者達とは大きく隔たった存在を前に、しかしアズライルは不気味さも恐怖も感じ

ず、怯みもしない。

今彼女の中にあるのは、激しく燃え盛る嚇怒の炎だけである。

大切な者を傷つけられた怒りは、ジブリールと良く似た北極熊への最初の印象すら消し飛ばし、純粋な憎悪で彼女の体を満

たす。

「…よくも…。よくもっ…!よくもよくもよくもよくもよくもっ!赦さない!赦さないぞ!私のジブリールを傷つけたな!?

殺してやる!殺してやる!殺してやる殺してやる殺してやるっ!!!」

愛する者の成れの果てである黒豹…、その憎悪の視線を受けて、イブリースの顔が僅かに曇る。

だが、気を取り直すようにかぶりを振って、彼は胸の疼きを抑え込んだ。

大事の前の小事。今は憎まれても仕方がないと、自分に言い聞かせて。

そんな彼に、動きを封じられながらもアズライルは吼えた。

「汚い!汚過ぎる!正々堂々と戦うことすらせず、無関係な人間まで盾に取って、犠牲も厭わないなど…!この卑怯者めっ!

恥を知れっ!」

「犠牲は出ないよ。出るはずがない。何故ならボクの流星群は、一発たりとも人間には届かないから。逆に言えば、犠牲を出

すつもりで相当頑張っても難しいんだけれどね」

激しい罵声を浴びせられながらも肩を竦めるイブリース。

人間を盾にして罠に填めながらも、彼は確信していた。ジブリールが絶対に流星群を防ぎ止める事を。

しかしその事を説明した所でアズライルが納得しないだろう事は判っていたので、あえて詳しく語る事もしない。

「…妙なところで…、けふっ!信用…されたものだね…」

噎せ返ったジブリールの口から、パールホワイトの燐光が霧のように漏れ、宙に消える。

「勝敗を分けたのは覚悟の差だよ、ボク。人間もアズも大事だなんて考えるから、こうして後れを取る。本当に大切な物の為

に他の全てを踏みにじる覚悟がないから足下をすくわれる。そしてどっちつかずのまま、どっちも守れず失う羽目になるんだ」

「それは…、違うよ、オレ…」

苦しげに浅い呼吸をしながらジブリールは何とか言葉を紡ぎ、反論した。

「たくさんの物を…背負う覚悟が…無いから…、重さに…堪える自信が…無いから…、他の物を切り捨てている…だけだ…。

少なくとも…強者の言い分じゃない…」

「けれど勝者の言い分ではあるよね」

皮肉で応じつつイブリースが腕を少し引くと、ジブリールは呻きながら身を反らす。

背中まで突き抜けていた腕は傷も残さずにジブリールの体内に消え、いまやイブリースの手はその腹中にあった。

「ここまでだ、ボク」

厳かとすら言える声音で囁いたイブリースに、しかしジブリールは、

「いいや…、ここからさ…、オレ…」

何故か、口元を微かに緩めて笑みすら浮かべて応じる。

その震える両手が、弱々しくイブリースの腕を掴んだ。

「止められるのは、何もオレだけじゃない…!まだ希望は残っている…!」

力を振り絞って言葉を吐くと、ジブリールは天を仰ぐ。

「アズを連れて逃げるんだスィフィル!一秒でも早く!一歩でも遠く!」

イブリースへ奇襲をかけるべく急降下していたスィフィルは、一瞬の躊躇の後、その軌道を変え、動きを止められているア

ズライルへ向かう。

そちらにちらりと目をやったイブリースだったが、すぐさまジブリールの顔に視線を戻した。

「何と言おうと負け犬の遠吠えさ。言っただろう?チェックメイトだって。見ればいい、自分の状況を。消滅寸前で、この通

り腕を押さえつける力すら残っていない」

「う…ぐ…!がう…、あ…!」

体内に潜り込んでいるイブリースの手が蠢き、ジブリールの巨躯がガクガクと痙攣する。

「ジブリール!ジブリールっ!止めろ貴様!ジブリールを放せ!」

激高したアズライルの怒声にも表情を変えず、イブリースは何かを探すようにジブリールの腹中を探る。

先に言ったように、彼にもまたアズライルの他に探し物があった。それは…。

「…ここか」

呟きと同時にイブリースの手が動きを止め、何かを掴んだように力がこもる。

身を仰け反らせたジブリールが「がうぁっ!」と声を漏らし、激しく喘いだ。

その腹からゆっくりと引き出されたイブリースの手は、彼の体内から抜き出した、青い光の塊を握っていた。

「ローランの剣…と、今は呼ばれているようだね。この、プログラムデュランダルの片割れは…」

腕がずるりと引き抜かれるなり、力尽きたようにがくりと項垂れるジブリール。

その瞳が、光を失って暗く濁る。

「用は済んだ。さよならだ、ボク」

イブリースが囁いた直後、ジブリールの巨体は支えを失って落下を始めた。

「ジブリール!いやぁああああああああああああああああああっ!!!」

首を掴む腕を引き剥がそうともがきながら、アズライルが悲鳴を上げる。

ビルの屋上に立った白猫が、茫洋とした目で落ちて行く北極熊を追う。

急降下してゆくスィフィルが、横目にそれを確認して僅かに顔を歪ませる。

三人の視線を浴び、弱々しいパールホワイトに輝く光の粒子をまき散らしながら、ジブリールはビルの隙間に口を開けた細

長い暗がりへと、光の尾を引いて消えて行った。

程なく、寒気がするほど重苦しい、どしゃっという音が遥か下から響き、居合わせた者達の耳朶を震わせた…。