第五十九話 「胎動する謀略」
「何があったのかは判らないが…、ふふ…!ついている…!」
顔が黒い羊は、部下達と管理人を伴って現場に赴き、その男を見下ろしていた。
岩柱が林立するカッパドキアの奇岩風景。その中に横たわり、目をカッと見開き天を睨むその男は、屈強な体躯の黒い獅子。
黒い手槍で胸の中央を貫かれ、まるで地面へ縫い止められるような格好で仰向けになり、ピクリとも動かない。
多数の獣面人身に囲まれるその男は、システム側から最も危険な存在の一人とされて来た堕人、アスモデウスである。
「堕人同士で仲間割れでもしたのか?」
興味深そうにアスモデウスを見下ろした羊は、獅子の顔が真横を向くほど強く、容赦なく蹴った。
ごつっと音がなるほど強く蹴られても反応が無い事を確かめると、羊はニヤリと口元を歪める。
ドビエルが堕人迎撃に出ており、管理人の大半が手を離せない状況にある今、アスモデウスがこの状態で見つかったのは、
彼にとって実に好都合であった。
普段なら何かと反対され、横槍を入れられたところだろうが、今ならば好き勝手に振る舞える。そう、好き勝手に…。
彼の行動を制止できるだけの立場にある者が一人も居合わせていない今なら、アスモデウスを執行人に仕立て上げてしまう
事も可能だと考えていた。
例え独断の行動を咎められようと、現場投入による実効作用が見込める有力な執行人の誕生という結果を突きつければ、他
の室長も黙らせられるという自信がある。
「とりあえず緊縛して連れ帰るとしよう。管理人、周辺の警戒を…」
一人で大丈夫なのか?そんな思いから胡乱げな顔をする管理人や取り巻き達を手振りで追い払うと、羊は黒い顔を楽しげに
歪め、白衣の内側をまさぐり始めた。
「さて…、久々の強力な堕人だ。さっそく傀儡にしよう…」
「ネビロスにそうしたように、か?」
懐から注射器型ハッキングデバイスを取り出そうとしていた羊は、不意に聞こえたその声で、不思議そうに周囲を見回す。
見張りと捜索に散った管理人が戻ってきたのかとも思ったのだが、辺りには誰の姿も無い。
首を傾げた羊は、その足首をがしっと掴まれて硬直した。
恐る恐る下を見れば、黒い手が彼の足首をきつく掴んでいる。
カッと見開かれて天を睨んでいた両目は、今は黒顔の羊の目を睨んでいた。
「ば、馬鹿な!?機能停止して…」
「一時的に、な…。まんまと引っかかってくれたものだ。こうまで上手く行くとは思わなかったが…」
アスモデウスの胸で、貫通して地面まで突き刺さっていた槍がボロボロと崩れて消えてゆく。アシュターが施した、機能停
止偽装の為の手槍が。
あらかじめ手槍に仕込まれていたのは、アスモデウスの傍にある反応が一つだけになった時点で解けるという、特殊な機能
停止状態を引き起こすプログラムである。これにより黒獅子はシステム側に食い込む機会を作ろうと目論んでいた。
イブリースの元へ現場を引っかき回すサポート役としてネビロスを送り込み、彼らの行動が開始されてシステム側に位置が
確認されると同時に、アシュター達が陽動のために動く…。この騒動で手薄になれば、機能停止状態で発見された自分の元に
来る者は限られて来るはず…。
そこまで踏んでの体を張った芝居であったが、予想以上に都合の良い、期待通りの相手が引っかかった事にアスモデウスは
満足した。
「しかしこれは堪えるな…。欺くため、実際に機能停止に追い込んで貰ったが…、アシュターめ、もう少し躊躇してくれても
良さそうな物を…」
黒獅子が身を起こしながらぞんざいに腕を振るうと、体格でかなり劣る羊は軽々と飛ばされ、近くの石柱に叩き付けられた。
「がふっ!?」
石柱を倒壊させて倒れ込み、一度咽せた羊は、しかしすぐさま肉体の苦痛をシャットアウトして飛び起きる。
戦闘向きではなく、実戦経験が薄くとも、室長クラスのワールドセーバー。その技巧をもってすれば、中央管理室の精鋭以
上の力を発揮する。しかし…、
「何処だっ!?」
起きあがった時には、アスモデウスの姿は忽然と消えていた。
そして、姿を求めて素早く巡らせた視線がようやく上に向けられた時には、既に遅かった。
「鈍い…」
呟きと共に、アスモデウスは弓につがえていた矢を加重から解き放つ。
音もなく真っ直ぐに降下した矢は、羊の顔面を捉え、体内を通過し、股間から真下へ突き抜ける。
「………」
貫かれたにもかかわらず傷一つなく、絶句したまま立ち尽くす羊から、警戒と敵意の表情が消えた。
室長クラスとはいえ、現場に出るよりも本部内での研究に費やす時間が多かった羊は、永い時をシステムとの闘争に費やし
てきたアスモデウスとかなり実力差がある。故に簡単に死角を取られ、容易く一撃を入れられてしまった。致命的な一撃を…。
「もうどうでも良い事だと思うが、一応言っておこう」
羊の目の前へふわりと着地した黒獅子は、みじろぎもせず、惚けたように動かなくなった彼に告げる。
「今貴様に打ち込んだのは、かつて貴様自身がネビロスに投与した物に極々近いプログラムだ。自我を破壊し、傀儡にする為
のな…」
静かに、しかし憎悪を込めた声音で獅子は続ける。
「ネビロスを修復する過程が糧となり、アシュターによって手を加えられ、生み出されたプログラムだ。つまりもともとは貴
様の発案という事になる。もっとも、手間もかかるのでそうそう作れはしないが…」
無反応の羊を、アスモデウスはじろりと睨んだ。
「跪け」
その一言で、黒顔の羊は膝を折り、アスモデウスに頭を垂れた。
上手く効いている事を確認し、黒獅子は冷徹に、厳粛に、低い声音で囁きかける。
「貴様が弄り回したネビロスは…、かつてシステム側に属していたあの頃からアシュターのお気に入りでな。彼女は貴様をひ
どく憎んでいる。…いや、我らの派閥に属する全員が、貴様を憎んでいる。聡明で慈愛に満ちていたネビロスは…、今や自然
にも動植物にも何の感情も抱かなくなった。あれだけ真摯に世界を案じていたあの男が全てを忘却し、理想も理念も失い、今
では惰性と、我らへの義理だけで動いている…」
ギリリと牙を噛みしめ、黒獅子は声を荒らげた。
「ネビロスを壊した報いを受けよ!貴様には本部を転覆させる為の布石となって貰う!これは、ネビロスと我々からの意趣返
しだ。仲間を裏切りシステムを内から蝕む…、救い難きユダとなれ!」
街を覆うように展開した翼が、砕けて光の粒子になり、舞い散る。
その様子を損壊した飛行艇のコックピットから見上げ、ミカールは絶句していた。
「…嘘や…」
肌を刺激する程に強く感じていた、数百年ぶりに本気になった同僚の力。
その波長がぷっつりと途絶え、全く感じられなくなっている。
「そんな…、そんなはず…!」
わなわなと震えるミカールの口から、呻き声が漏れる。
直感したその事を、信じたくなかった。
(何だ…?何が起きた?)
ネビロスと交戦していたムンカルも、相手に注意を払いつつ、その異常に意識を向ける。
(旦那の力が感じられなくなった。終わったのか?…いや、それにしちゃ妙だぞ?)
察知能力にムラがあり、遠隔感知が得意ではないムンカルでも、イブリースの力はまだ感じる。にも関わらずジブリールの
存在は感じられない。戦闘中はしっかりと感じていたのに、唐突に途切れてしまった。
「おわった」
束の間動きを止めてムンカルと睨み合っていたシャチは、抑揚のない、感情が希薄な声音で呟いた。
「イブリースがかった。ジブリールはきえた」
「何だと?」
唇を捲りあげて牙を剥くムンカルの前で、ネビロスはしかし構えを解かない。
「でもまだおわってない。だからおまえたちはいかせない」
下された命令を忠実に実行すべく、ネビロスは戦闘継続の意志を見せる。
イブリースが何をしようとしているのかは聞いておらず、事の詳細は判っていないが、「群がって来るだろう連中に彼の邪
魔をさせるな」という命令はまだ遂行途中なのである。しかし…、
「退けや…、ネビル…」
周囲に走る微かなノイズに次いで響いた静かな声で、ネビロスはぐっと腰を落とし、ムンカルは総毛立つ。
反射的にコックピットを見遣ればもぬけの殻で、そこに居たはずのミカールはいつの間にかムンカルの脇に立っていた。
俯いた獅子の童顔は、伸びた鬣に隠れて窺えない。
除幕によって伸びた鬣は風になびくようにさわさわと揺らめき、生き物のように蠢いていた。
押さえ込まれた怒気は、静かに燃える熾火のように、傍に居るムンカルの肌を焼く。
「どかない。いかせない」
頑なに繰り返すネビロスだったが、しかし身を固くしている。
油断のならない相手が、ついにその気になった事を察して。
「退け…。お前とはやり合いとうないんや…。けど、どうあっても邪魔する言うなら…」
牙を噛みしめ、ミカールは苦々しく吐き出す。
「ワシはお前を…、消してでも先に進まなあかん…!」
引き抜いたルガーを握るミカールの手は、細かく震えていた。
獅子の脳裏に、遠い日々の記憶がまた蘇る。
素直すぎるが故にカードゲームでいつも皆に出し抜かれていたシャチが、それでも楽しんで笑っていた事…。
自慢の紅茶をシャチに勧めた際、味の良さが判らずに首を傾げられ、憤慨した事…。
地上への視察同行を認められた際、シャチがその嬉しさを一番に自分へ伝えに来た事…。
過ぎ去った日々の様々な思い出が、今はミカールを苦しめる。
かつて自分を慕ってくれた男は、今や職務の遂行を妨げる敵となった。
優先すべきは私情より職務とはいえ、やむを得ないと割り切る事が簡単にはできない。
「ミカール。行け」
肩を震わせる獅子の耳に、虎の言葉が忍び込む。
「こいつは俺が引き受ける。お前は旦那達のトコに行け」
「馬鹿ぬかせ…!コイツはオドレの手に余るやろが…!」
俯いたまま応じるミカールに、ムンカルはため息をついた。
「戦えねぇんだろ?アイツとはよ…」
心を見透かされたミカールが押し黙ると、ムンカルは舌打ちした。
「どおりでな…。おかしいとは思ったんだ。このデブは確かに強ぇが、ミカールや旦那の手に負えねぇってレベルでもなさそ
うだ。なのに、良いように飛行艇撃ち落とされた上にそんな傷まで負ってやがる…。昔のダチかなんかなんだろ?コイツはよ」
「…関係あらへん…!優先すべきは職務や…!」
「だな。優先すべきは職務だ。…だ・か・ら…。とっとと行け!」
突然声を荒らげると、ムンカルは片腕を上げて空を示した。
「こいつ食い止めるぐれぇ俺に任せて、職務を全うしろ!優先しなきゃならねぇ職務の中でも、優先順位ってモンがあるだろ
うが!」
反論できずグッと言葉に詰まったミカールに、ムンカルは少し声のトーンを落として続ける。
「何回も言わせんじゃねぇよ、さっさと行け。…たまには俺の事も信用しろ」
しばしの沈黙の後、やがてミカールはトーンを落とした低い声を発した。
「…いっぱしの口叩きよって…。オドレで言うた事に、きっちり責任持てるんやろな?」
「あたぼうよ!」
不敵に笑ったムンカルの横で、ミカールの姿がノイズに包まれる。
消えたと思えば瞬時に20メートル程上空に出現した丸い獅子は、ちらりとムンカルとネビロスを一瞥すると、背の翼を大
型化し、飛翔体勢に移る。
その姿を淀んだ目で見上げ、ネビロスは銛を投擲すべく身を捻った。
「いかさない、ミカール」
「てめぇこそ、させねぇよ!」
怒鳴り声と共に響いた銃声は、破壊現象を仕込んだ銃弾をネビロスの銛に叩き付けた。
手からはじけ飛んだ銛はきりきりと宙で回転しつつ、灰色の燐光に包まれて分解、消失する。
これまでのブラストとは何かが違う、一線を画した浸食破壊現象であった。
虎がここまでに見せなかった新しい攻撃方法に警戒心を刺激され、ネビロスはミカールから視線を離し、ムンカルに意識を
集中させた。
「まだ練習中だったんだけどな、まぁ仕方ねぇ…。っつぅかむしろこの場合は丁度良いぜ」
呟きながらムンカルは空を見遣る。ミカールは既に高速飛翔し、この場を離れつつあった。
「ブラスティングレイじゃ範囲がでか過ぎるからな、スージーQみてぇに範囲限定でブラストを発動できる、理想の飛び道具
を考えてたんだが…、今んとこまだまだ煮詰めが甘くて、加減が効き過ぎて一発で仕留めるほどの威力にならねぇんだ、こい
つがよ…」
そう独り言のように呟きながら、鉄色の虎はシャチへ視線を戻した。
「だから今は丁度良い。きちんと半殺しで止められるからな…!」
不敵に笑うムンカルの顔が、警戒を強めたネビロスの目に映り込む。
「さぁて…、かかって来やがれデブ!第二ラウンドだ!」
「いやっ!いやぁああああああああああっ!ジブリール!ジブリールぅうううううううううっ!」
半狂乱になって叫ぶアズライルの首元で、その喉を掴んでいた白い手が、スパッと真っ二つになった。
黒豹は途端に自由を取り戻し、北極熊が消えていった建物の隙間へと急降下し始める。
だが、彼女の体を後ろから抱えるようにして捕まえた者があった。
イブリースが遠隔操作する腕を切り壊したスィフィルは、暴れるアズライルを捕まえつつ草刈鎌を投擲し、なおも動く気配
を見せた白い手を四分割にして沈黙させ、やや上空のイブリースを一瞥する。
直後、狼は地を蹴るように宙を蹴り、残像をその場に留めて高速移動した。
ジブリールの言いつけ通り、スィフィルはアズライルを連れて逃走を開始したのである。
一対一では敵わない。スィフィルはそう確信していた。
彼がジブリールから抜き取った物が何なのかは判らないが、それによってさらなる力を得るであろう事は推測できた。
(ジブリールは先ほど、イブリースめは己と同質の存在である旨の発言をしておられた。同時に奴もまた、ジブリールは自分
自身であるかのように言っておった。その言葉を裏付けるように魂の波形も極めて近い…。推測の域を出ぬが、彼の二人は何
らかの事情により分裂したと考えるべきであろう。そして、イブリースめがジブリールから奪った物は、おそらくはオーバー
スペック特有の固有プログラム)
ビルの壁面に着地し、そこを蹴って跳躍。さらに加速して跳ね回り、建造物を使ってイブリースの目に止まらないよう、死
角を通るルートを選ぶ。
跳弾のような立体的な軌道で高速反射移動しつつ、スィフィルは考える。
抱えたアズライルが上げ続ける悲痛な叫びに応じている余裕は、今の彼には無い。
(思うに、分裂した彼らはその固有プログラムすらも分かち合う事になったのではなかろうか?つまり、強力無比なジブリー
ルのローランの剣でさえ、今までは不完全な状態にあったのでは?)
考えれば考えるほど状況の悪さが実感できて来る。それでもスィフィルは絶望していなかった。
何故ならば、彼には聞こえていたから。
ジブリールがイブリースに反論した「ここからだ」という言葉が…。
一方イブリースは、
「…焦る事はないか…。とりあえず目当ての物は手に入った。アズはいつでも取り返せる」
遠ざかるスィフィルとアズライルを見送りながら、そう呟いていた。
その手の中にはジブリールから奪った力…ローランの剣が、光の球となって握られている。
「アズ。もうすぐ全てが済むからね…」
眼下のビルに立つ白猫を見下ろしたイブリースは、しかし一度柔和になった目つきをすぐさま鋭い物に変えた。
「…おやおや。まさか貴方までお出ましとはね…」
呟く北極熊の瞳に珍しく警戒の色が浮かぶ。白猫のすぐ後ろにいつのまにか立っていた、ずんぐりしたシルエットを映して。
それは、ライダースーツに身を包む、猪面人身の異形。
常々物憂げなイブリースに緊張を強いるその男は、ドビエルと並ぶ、自らに抗し得る存在であった。
両肩に「愛」の文字が浮かぶ黒革の繋ぎを身に纏い、どこもかしこも太く頑丈そうな鮮やかな紺色の体躯を持つ猪は、静か
に北極熊を見上げながら口を開いた。
「久しいのぅ、お前さんも、そしてアズライルも…」
配達人テリエルは白猫に視線を向けると、懐かしむように目を細めた。
「アズに近付かないで貰おうか、テリー」
殺気混じりの声を発したイブリースに視線を戻すと、テリエルは口元をニヤリと歪める。
「お前さんはまだテリーと呼ぶか。…ふむ。確かにジブリールが言っとったように、部分的にはお前さんの方が「オリジナル」
の色を濃く残しとるらしいわ。アズライルの事となると見境がなくなる辺りとか、のう…」
「何が言いたいのかな?」
白猫に何かされる事を警戒し、ピリピリとプレッシャーを放つイブリースだが、テリエルはその重圧を涼風程にも感じない
様子で、ひょいっと肩を竦めて見せた。
「別にな〜んにも?…さて、用事を片付けるか…」
テリエルがパチンと指を鳴らすと、その傍らで空間が黒く染まり、球体が生まれる。
その半透明の黒い球の中には、膝を抱えて丸くなった、白い大きな熊が浮かんでいた。
「用事というのは…」
呟いたイブリースに、テリエルは頷く。
「ほっぽっても置けんだろうよ、ジブリールの体を。こいつも地上で随分長い事働いてくれた…」
眠っているように目を閉じている、もはや抜け殻となった北極熊を見遣ると、テリエルは労うように目を細めた。
「頑張ったなぁ、お前さん…。頭が下がるわい…」
テリエルのそんな心情が完全には理解できず、イブリースはしばし言葉もなくその光景を見下ろしていたが、やがて猪が自
分の邪魔をする気はないらしいと察すると、おもむろに手を動かし、掴んでいた光球を目の前に翳す。
そして大きく口を開けると、上を向いて光の球を口に落とし込んだ。
喉が動き、力の塊が嚥下される様を見届けると、テリエルは胸の内で呟く。
(流石…、と言うべきじゃろうな…。あの時は冗談半分に聞いとったが、まさか本当に、こうなる事を見越して準備しとった
とは…)
分割されていた力の残り半分をその身に収めたイブリースは、味わうようにしばし閉じていた目を、やがてゆっくり開いた。
「…思い出した。この感覚だ…。今まで何て不自由な状況だったんだろう…」
全身に漲る力は濃度を倍にし、これまでよりも感覚が研ぎ澄まされている。
接近するミカールや、そちらへ凄まじい速度で逃げてゆくスィフィル達の正確な位置までが、手の届く範囲で見ているかの
ように、姿勢や息づかいまで細やかに把握できる。
イブリースは己の半身を倒し、ついに完全な力を取り戻した。
かつて最も強力なワールドセーバーとして、システムの頂点に立つ事を望まれた男の力を…。
「おめでとう、とでも言っとくべきかの」
茶化すようなテリエルの言葉に、イブリースは微かな笑みを返す。
「余裕だねテリー。もう貴方でも、ドビエルでも、ボクを止められないっていうのに」
「ま、止めるのは仕事に入っとらんし、その気も無いからじゃが…、一つ質問じゃ」
テリエルは探るように目を細め、イブリースに問いかける。
「思い出したのは、全盛期の力の感覚だけかの?」
「何を言って…、う…?」
応じかけたイブリースの言葉が、呻きで途切れた。
胸に手を当てた北極熊は、苦しむように顔を歪める。
その様子を確認すると、テリエルは大きく頷いた。
「どうやら思い出したようじゃな、あの頃のお前さんの心を。…ジブリールが狙った通りに…」
テリエルの言葉にも、イブリースは応じられない。彼の胸の中にはかつてない苦しみがあった。
それは、己がこれまでに為してきた行いに対する、懺悔の心情である。
「ジブリールは、もしかしたら自分が負けて、お前さんに力を奪われるかもしれんと踏んどった」
苦しむイブリースを見上げたまま、テリエルは独白するように口を動かす。
「もしもそんな時が来たら、「自分の考え方」や「道徳観」も一緒に押しつけてやったら効果的じゃろうなぁ…と言っとった。
おそらく何よりも強力な妨害になるはずじゃと考えての。どうじゃい?かつてお前さん方が一人だった頃の、誰よりも強く、
誰よりも賢く、誰よりも優しかったあの頃の気持ちを思いだした気分は?…いいや、あの頃以上か。頑固者のジブリールは、
あれからずっと、ただただ優しく、慈悲深くあろうと、己を磨き続けて来た…」
テリエルは言葉を切ると、罪悪感と後悔という不慣れな感情に翻弄され、強烈な苦痛にさいなまれているイブリースを、哀
れむような目でじっと見つめる。
「ジブリールの呪いとでも言うべきか…。お前さんはもう、誰も傷つけられんじゃろう」
そして、宣告するように言い放った。
「お前さんの負けじゃ。堕人イブリースは、もう何者とも争えん」
レモンイエローの翼を広げて高速飛翔していたミカールは、不意に急制動をかけた。
翼に引き留められる形で体が足側から前に泳いだ獅子は、直後に眼前に出現した狼と、彼に抱えられた雌豹の姿を認めて僅
かに安堵する。
「ナキール…いやスィフィル!アズライルも無事やったか!」
空を踏み締めて急制動をかけ、ミカールの眼前で停止したスィフィルは、しっかりと捕まえたままの、ジブリールの名を呼
びながら泣き叫ぶ黒豹を見遣った。
「しかし、ジブリールは…」
最後まで言われずとも、ミカールには言葉の続きが判った。
だが、察しはついても到底受け入れられる事ではなく、その先を続けさせないよう言葉を遮って声を発する。
「…行けや、スィフィル。アズライルは遠くに離しときぃ。ワシは…」
地上に赴き、配達人として永い時を共に歩んだ親友にして戦友…。ジブリールがどうなったのか、自分の目で確かめねば気
が済まない。
「確認せな…あかん…」
千々に乱れる感情を無理矢理押さえつけ、ミカールは低い声で吐き出した。
「支配人!支配人っ!」
一見壁にしか見えない象牙色の通路の行き止まりを、白い豹がドンドンと叩く。
ここは本部の最上層。中枢とも呼べる重要な部位に通じる、室長クラスでも立ち入りが制限される区画。そこへ駆け込み、
慌てた様子でノックする管理人の顔には、常には見られない焦りの表情が浮かんでいた。
本部の機能を司る支配人…ハダニエルは、時々この中にこもって瞑想する。
本当は瞑想しているのではなく、誰にも邪魔されない環境で縫いぐるみを作成しているのだという噂もあったが、雪豹が彼
の直属の上司であるドビエルから聞いた話によれば、何者かと「対話」しているとの事だった。
が、それ以上詳しく教えては貰えず、「対話」なる物が何なのかは良く判らない。
だがはっきりしている事もある。一度ここに入ったハダニエルは、短くて数時間、長ければ丸一日以上もこもりきりになっ
てしまう事は経験上判っていた。
「非常事態です支配人!…は、反応が…!ジブリールさんの反応が途絶えましたっ!」
必死に声を上げる雪豹は、力任せに扉を叩き続ける。
「ドビエル室長もアシュターと交戦中で、現場の援護ができません!このままだと…、このままだと…!」
しばしこうしているのだが、どれだけ呼びかけても一向に反応が無く、雪豹は声と肩を震わせながら壁に腕を押しつける格
好で体を預け、項垂れた。
その直後、彼が叩いていた壁が左右に音もなく割れ、雪豹はぽっかり開いた四角い空間に倒れ込む。
出かかった「わ」という声は、重量感のあるどっしりとした何かに顔から突っ込んだ事で途絶えた。
通路をほぼ埋めてしまうほどの巨躯を持つ、固太りした大柄な犀は、倒れ込んできた雪豹を腹と手で抱き留めると、その肩
を掴んで顔を起こさせる。
「…今…、何と?どうしたってラミエル君?」
大柄なドビエルやジブリールよりもなお大きい、巨人と表現するのが適切に思える巨漢は、巨躯に比して小さいつぶらな目
を瞬きさせ、まじまじと雪豹を見つめる。
「し、支配人っ…!」
雪豹は泣き出しそうに顔を歪め、巨大な犀を縋るように見上げた。
「じ、ジブリールさんが…!数分前にイブリースと交戦状態に入りまして、それから…」
「それから!?」
掴んだ肩を一度揺すって雪豹を促したハダニエルは、しかしハッとしたように顔を上げ、天井を見上げる。
何か感じ取って神経を研ぎ澄ませる犀の前で、彼の緊張を感じ取ったラミエルは口を閉ざし、警戒するように耳をピンと立
てた。
「…何だ?…何か異物が本部内に入ったような…」
パタタッと耳を動かしたハダニエルは、しかし一瞬感じた異質さの詳細を掴み損ねた上に、ラミエルが持ってきた報告が重
要な事もあり、すぐさま意識と視線を雪豹に戻してしまう。
「…いや、今はまず話を聞かないとな…。ラミエル君、詳しく!あとなるべく手短に!」
同時刻、本部の転送ゲートには、拘束服を着せられて担架に括り付けられたアスモデウスが、黒顔の羊によって運び込まれ
ていた。
機能停止を装うアスモデウスは、コントロール下にある黒顔の羊を利用する事によって、難攻不落の本部へ侵入を果たした。
イブリースのアクションに合わせて、システムを内と外から切り崩す…。
ネビロスの件を期に発案された、システム側の技術を逆手に取った奇襲計画は、ついに長年の準備を終え、実行に移されよ
うとしていた。
因果応報。
この作戦にこれ以上ふさわしい名は他にあるまいと、厳重な警備体制の元でラボへと運ばれてゆくアスモデウスは胸中で呟
いた。
作戦の成功を確信しながら。