第六話 「配達人はパールホワイト」(前編)

ミリア・ノートンは、鏡に映った自分の顔を眺めて呆然とした。

一ヶ月前とは別人のようにやつれた顔は、まるで死人のそれに見えた。

下に濃いくまが浮き出た目は落ち窪み、頬はこけて頬骨が浮いている。

乾ききって血色が悪くなった青白い肌に、血の気が失せている唇。

(とてもじゃないけど、25には見えないわね…)

ネグリジェを纏った骸骨。彼女は変わり果てた自分の容貌を鏡越しに眺め、そんな感想を抱いた。

青ざめた顔に自嘲気味な笑みを浮かべたミリアは、かさかさに渇いたその唇に、色を誤魔化せる真っ赤なルージュを引く。

長く続いた眠れぬ夜と、ちっとも沸いてこない食欲が、彼女の体から気力と体力を奪っていた。

肩まで伸ばしている、ややくすんだ金色の髪を後頭部で結わえたミリアは、のろのろと化粧を終え、もたもたと着替えを済

ませ、つい二ヶ月前に住み始めたばかりの真新しい部屋を出る。

清掃の行き届いた廊下を歩き、階段を降り、マンションを出たミリアは、まだ住み慣れていないマンションの外観を見上げた。

車の往来の激しい、騒がしい大通りに面しているせいで静かとは言い難いが、おかげで快適な部屋の間取りとは裏腹に価格

が安かったマンション。

しかし、ここに移り住んでからの幸せな日々は、あまりにも短かった。

疲れた足取りでトボトボと歩き始め、ミリアは地下鉄乗り場を目指す。

陰鬱な表情を浮かべ、引き摺るような足取りで目的地に向かう彼女とは裏腹に、本格的な夏が近付いたブルックリンの街並

みは、今日も活気に満ちあふれていた。



『ごめんごめんミリア!まだ終わってないのよ!』

待ち合わせ場所である駅前に着いたミリアは、携帯にかかって来た友人の言葉に、困ったように表情を曇らせた。

「何か、問題があったの?」

『あ、違うの違うの!病院の方で手違いがあったみたいでね…』

予約を入れていた時間に病院を訪れた友人は、受け付けのミスで間違った時間を設定され、少々待たされるハメになってし

まったらしい。

少し待っていてくれと済まなそうに謝る友人に、

「良いわ。ここからならそう遠くないし、そっちに行って待つわね」

強い日差しが照りつける中、外で待っているのも辛いし、一人でカフェに入るような気分でもない。病院の待ち時間ぐらい

何でもないから付き合おう。そう主張したミリアは、駅前を離れて友人が通っている病院へと向かった。

そこで、これから奇妙な男と出会う事になるとは知らないままに。



「ごめんね?歩かせちゃって…」

「良いのよケイト。ほら、病院の中の方が、クーラーが利いていて涼しいし…」

待合室のベンチに並んで腰掛け、申し訳なさそうに謝った友人に、ミリアはやつれた顔に精一杯の笑みを浮かべて応じた。

サーフィンが長年の趣味で、日に焼けている赤髪の友人は、そばかすだらけの顔に少し硬い笑みを浮かべる。

わざわざ足を運ばせた事を気に病んでいるのかとも思ったミリアだったが、ケイトのどこかぎこちない態度は、それだけで

は無いような気がした。

少し考えた後に、ミリアは思い至る。

ここ、産婦人科に来る事で、自分が嫌な思いをしているのではないかと、ケイトは考えているのだろうと。

(気を利かせたつもりだったのに、逆に気を遣わせちゃったわね…)

そっとため息をついたミリアは、気を取り直してケイトに尋ねてみた。

「それで、あとどれくらい待たされそうなの?」

「え?あ、そろそろだと思うんだけど…」

尋ねられて思い出したのか、ケイトは急にソワソワとし始める。

ケイトとその夫、ミリアの大学時代からの友人である夫婦は揃って子供好きで、自分達の子供を望んでいる。

だが、夫婦は結婚後三年が経った今でも、子宝に恵まれていなかった。

昨年の始めの事である。思い切って病院で検査を受けてみたケイトは、自分が妊娠し難い体質である事を知った。

それ以来ずっと不妊治療を続けてきたケイトだったが、経過はあまり芳しくなく、妊娠する気配が一向に無い。

今日も検査を受けに来ていたのだが、結果の事を考えると落ち着かなくなった。

気遣うように友人の横顔を見遣ったミリアは、視界の隅、病院の正面玄関から伸びている通路で何かが動いたのを捉え、何

気なく顔を向けた。

直後、ミリアは訝しげに眉を顰め、通路を凝視する。

ミリアが視線を向けているのは、リノリウムの床を踏み締め、真っ白な通路を歩いてくる、ライダースーツを身に纏った極

めて大男である。

身に付けている艶のある黒革のつなぎとは対照的に、その男は白く、おまけにかなり変わった顔立ちをしていた。

顔の下側、鼻と上下の顎が前にせり出しており、耳は顔の少し後ろ上、普通の人間よりもやや高い位置にある。

つまり、ミリアがその男の姿を見て眉を顰めたのは、その男が人間の顔をしていないからであった。

(ポーラーベア?)

目をしばたかせたミリアは、ゆっくりとこちらに歩いてくる奇妙な巨漢をまじまじと見つめた。

ジッパーを鳩尾まで下ろして胸元を大きく開けているその男は、見間違いでも何でもなく、かつて動物園で見た北極熊そっ

くりな顔をしていた。

突き出たマズルの先についた鼻がくっきりと黒いのが、真っ白な毛に覆われた顔の中でやけに目立つ。

顔だけでなく、黒革のつなぎから露出している分厚い手も、太い指も、大きく開けた胸元から覗く胸や首周りも、暖かな色

合いの白い被毛に覆われていた。

7フィート半はあろうかというその巨漢は、背が高いだけでない。その体躯はかなり幅と厚みがある。

かなりの肥満体で、無理矢理押し込んだ大きな腹が、革のつなぎをはち切れんばかりにパンパンに張らせている。

北極熊の顔をした巨漢は、手にしたポスタルカードに薄い水色の瞳を向け、顔を少し俯き気味にして歩いていた。

病院関係者には勿論見えない。だが、熊男とすれ違ったナースも、ちらりと視線を向けただけで、特に何も話しかけなかった。

ミリアは少し考え、それから「ああ…」と納得したように小さく声を漏らした。

この病院には、かなりの規模の小児病棟がある。

おそらくこの熊の仮装をした奇妙な人物は、病院の計らいで子供達を喜ばせるべく、そちらを慰問していたのだろうと考えて。

(何かの番組か、アニメのキャラクターなのかしら?確かに子供達は喜びそうね)

最初は奇妙な姿に思えたものの、そう考えてから改めて眺めると、大きくて太っている北極熊の姿は、なかなかに愛嬌があ

るようにも見えた。

ミリアがそんな事を考えている間に、待合いスペースに入った熊男は、顔を上げて周囲を見回し始めている。

誰かを捜しているようなそのそぶりに、

(慰問が終わって、病院の担当者に会いに来たのかしら?…それにしても、マスクぐらい取れば良いのに…。あぁ、子供の夢

を奪わないために外さないのね。それとも、素顔は子供達が怯えそうなくらい恐いのかしら?)

少しだけ唇の端を上げ、ミリアは久し振りに穏やかな微笑を浮かべる。

キョロキョロしている太った北極熊の姿を見ていたら、沈んだ心も少しだけ和んだ。

やがて、北極熊は鼻をフンフンと鳴らすと、ミリア達の方に顔を向ける。

その時点で、ミリアはさすがに違和感を覚えた。

熊男の鼻や口元、耳までが、まるで本物のようにリアルに動いている。

おまけに、待合室に居る人々の中で、自分以外の誰もが、北極熊にはあまり注意を払っていない。

奇異の視線ぐらいは向けられても良さそうな物だと感じたが、皆ちらりと見るぐらいで、ミリアのようにじっと見つめたり

はしていない。

(もしかして、この病院の名物だとか?皆見慣れているのかしら?)

ミリアが首を傾げ、こちらに顔を向けている北極熊を眺めていると、

『62番でお待ちの方、三番診療室へどうぞ』

との放送を耳にしたケイトが、「あ、私だわ」と腰を上げた。

「ごめん。ちょっと行ってくるわね?」

「え?え、えぇ…」

頷いたミリアの前を横切り、診察室に向かおうとしたケイトは、十歩ほど歩いた所で「あっ!」と声を上げ、カクンと右膝

を折った。

ヒールの踵が折れ、右後方へと体勢を崩すケイト。咄嗟に腰を浮かせるミリアだったが、しかし手を伸ばした所で届く距離

ではない。

口を丸く開け、目を大きく見開き、ビックリした表情のまま倒れ掛かったケイトの体は、しかし斜め45度前後まで傾いた

所でカクンと止まった。

倒れかけたケイトのくびれた腰には、太い腕が回されている。

いつの間にそこに来ていたのか、目をまん丸にしたミリアの視線の先では、黒い革のつなぎを着た北極熊が、ケイトの体を

腕一本で軽々と支えていた。

仰け反っているケイトを、その腰の後ろに左腕を回して、やや前屈みになった北極熊が支えているその姿は、ミリアにダン

スのワンシーンを連想させた。

「大丈夫かい?」

低く穏やかな声で尋ねた北極熊の顔を、ケイトは相変わらずビックリした表情を浮かべたまま見上げる。

「え、えぇ…」

返答を聞いた巨漢は、瞑っているように見えるほど目を細め、熊の顔に微笑みを浮かべる。

獣の顔ではあるものの、その表情の変化が微笑みである事は、二人の姿を横から見る形になっているミリアには、何故かはっ

きりと判った。

熊男は支えていたケイトの体をすっと起こし、真っ直ぐに立たせる。

その右手は、先ほど覗き込んでいたポスタルカードを持ったままである。

身を起こしただけで、太鼓腹が押し込まれたライダースーツの腹部が、窮屈そうにギュウっと音を立てる。

かなりの肥満体であるにも関わらず、北極熊が見せた一連の動きは、まるでダンスのように優雅に感じられた。

「ありがとう。たすかっ…きゃっ!」

礼を言おうとしたケイトは、ヒールが折れた事には気付いていなかったのか、北極熊が手を離した途端に体勢を崩す。

咄嗟にヒールが折れた方の足を大きく後方に出して踏ん張ったケイトだったが、今度は斜め前にぐらりと体を泳がせた。

「おっと…、気をつけなくちゃ」

自分の方に倒れ掛かってきたケイトを抱き止めた北極熊は、優しげな笑みを浮かべたままケイトの顔を見下ろした。

「あぁごめんなさい…、またまたありがとう」

そばかすだらけの顔に照れ臭そうな笑みを浮かべたケイトは、手の平の感触が気になってふと視線を落とす。

そして、自分が北極熊の体に手をついている事に気付くと、その手で触れている太鼓腹を見つめた。

「立派なお腹ね?赤ちゃんでも居るみたい」

北極熊の大きな腹を平手でポンと軽く叩きながら、ケイトは苦笑いを浮かべて照れ隠しのジョークを飛ばす。

「ははは!同僚からも良くからかわれているんだ」

太鼓腹を左手でポンポンと叩き、快活に笑いながら応じると、北極熊はケイトを再び真っ直ぐに立たせた。

そして、パンパンに張っているつなぎの腹部にあるポケットに、ギュリっと分厚い左手を突っ込む。

そのままでは窮屈なのか、直前に「ふぅっ」と息を吐き出し、腹を引っ込めている様子がユーモラスで、ミリアは顔を綻ば

せる。

(安物の被り物じゃなく、特殊メイクだったのかしら?映画でも見るけれど、最近の物は凄いわね…。笑顔まで作れるし、口

元から目元から、本当にリアルに動くんだ…)

微笑を浮かべ、少し感心しながらそんな事を考えていたミリアは、しかし一瞬後に表情を強張らせた。

ポケットから引き抜かれた北極熊の左手には、やけに小さな拳銃が握られていた。

美しい白檀がはめ込まれたグリップと、銃口が二つ縦に並んだ短いバレルを持つそれは、古くから形状と仕組みが変わって

いない、ダブルデリンジャーと呼ばれている小型拳銃である。

手の平に隠し持てる程に小さいそれは、バナナの房を思わせる熊男の巨大な手の中では、なおさら小さく見えた。

(え…?え…!?)

驚きのあまり硬直しているミリアの視線の先で、上向きにされた短いダブルバレルがカシッと反り返り、デリンジャーは喉

を反らしているような格好になって、弾丸を受け入れる体勢に移る。

一方で、北極熊の右手はポスタルカードを広い手の平に乗せ、グシャリと握り潰していた。

握り込まれた右拳の隙間から、ボシュッと音を立て、白い煙が漏れる。

再び開かれたその手の上には、一発の銃弾が転がっていた。

ゴロリと太い、ずんぐりとしたフォルムのその弾丸は、光沢のある黒いジャケットに、真っ白な弾頭を持っている。

黒い薬莢の表面にはびっしりとアラビア文字が刻まれているが、文字一つ一つがあまりにも細か過ぎるせいで、まるで模様

のようにも見えた。

手品でも見せられているような気分でその一連の動作に見入っていたミリアは、北極熊が拳銃に弾丸を装填するカチンとい

う音で、ハッと我に返った。

小さな拳銃を大きな左手で、薬指と小指でグリップを握り、真っ直ぐ伸ばした人差し指を銃身に沿え、中指をトリガーに当

てる熊顔の巨漢。

北極熊が抜いた拳銃には、待合室の中の誰も、目の前に立っているケイトですらも注意を払っていない。

その異常さにミリアは気付いたが、悲鳴を上げて皆に知らせる前に、パンッと、乾いた破裂音が鳴り響いた。

ケイトの腹部に押し当てるようにして、手の平にすっぽり隠れた銃を発砲した北極熊は、先ほどまでと変わらない穏やかな

笑みを浮かべたまま口を開く。

「赤ちゃんの為にも、高いヒールはよした方が良いと思うよ?」

「あはは!そうね!でも、なかなか、ね…。今日こそ良い結果が出ると良いんだけど」

ミリアは目を丸くして、口をパクパクと動かした。

撃たれたはずのケイトが普通に話をしている。笑顔すら見せて。

それどころか、目の前の熊が自分に拳銃を向けた事にも、さらには発砲した事にも、気付いていない様子であった。

ケイトだけではない。待合室に居る他の人々も今の発砲には全く気付いていないらしく、雑誌や新聞を読んだり患者同士で

話をしたりしながら、先ほどまでと同様、思い思いに待ち時間を潰している。

混乱しているミリアの視線の先で、北極熊は分厚い胸に手を当てながら頷くようにすっと頭を下げて見せた。

なんとも優雅な、洗練された動作で一礼した熊男は、にこやかな笑みを浮かべながら、

「それじゃあ失礼。お気をつけて、レディ」

そう低く穏やかな声で告げ、道を譲るようにしてケイトの傍を離れた。そして、

「………!」

不意に首を巡らせた熊顔の巨漢に視線を向けられたミリアは、ピクッと身を強張らせ、硬直した。

無言のまま、薄い水色の瞳を自分に向けてくる不審な白熊。

彼が向けてくる静かなその視線で、ミリアはまるで射竦められたかのように身動きできなくなっていた。

まるで、心の内まで全て見透かされてしまいそうな、そんな透明で静かな眼光。

穏やかで、静謐な、澄んだ水色のその瞳でしばしミリアを見つめていた北極熊は、口の端を微かに上げ、口元に持っていっ

た右手の太い人差し指を立てた。

しーっ。

そんなジェスチャーを見せた北極熊は、くるりと踵を返し、やって来た廊下へと足を向ける。

立ち去ってゆくその広い背中には、ライダースーツの黒革とは対照的な白で、一対の翼を象ったエンブレムがプリントされ

ていた。

その後ろ姿を呆然と見送っていたミリアは、ハッとして友人に視線を向ける。

慌てて席を立ち、屈みこんでハイヒールを脱いでいるケイトに歩み寄ると、

「だ、大丈夫なのケイト!?」

友人の脇に屈み込んだミリアは、大きく目を見開いた。

「うん、大丈夫よ。幸い、足を捻ったりとかはしなくて済んだわ」

応じるケイトの腹部、薄手のブラウスには、血痕も、穴も、残ってはいない。

(空砲だったのかしら?あの拳銃、パーティーグッズだったの?)

きょとんとした顔を通路に向けたミリアは、既に白熊の姿が見えなくなっている事に気付いた。

「…ねぇ、ケイト?さっきのひとだけれど…」

「ああ、助かったわぁ!…にしても、凄いおデブさんだったわね?大きい割に結構俊敏だったけれど」

可笑しそうに笑ったケイトは、再び待ち番号をコールされると、「いけない!」と表情を変えた。

脱いだヒールを手に持ち、診察室へと足早に向かった友人の背を、ポカンと口を開けて見送ったミリアは、改めて待合室を

見回した。

誰も…、そう、奇妙な巨漢が拳銃を発砲した事には誰もが全く気付かなかったかのように、待合室は平穏そのものであった。

(あれは…、一体何だったんだろう…?)

ミリアは通路を見遣ったが、白い熊はいつの間にか姿を消している。

彼が歩き去ったはずの通路を眺め遣り、ミリアは呆然と立ち尽くしていた。



「嘘みたい!」

ケイトは興奮冷めやらぬ表情で、まだ目立っていない腹を擦った。

「おめでとう、ケイト…!」

病院近くのカフェで席を取った二人は、テーブルを挟んで向き合い、笑みを浮かべた。

長らく不妊治療を続けていたケイトは、今日の検査で妊娠している事が確認された。

やっと努力が実った。やっと子供に恵まれる。そんなケイトの嬉しさが伝染したかのように、ミリアもまた彼女の喜んでい

る様子を見ているだけで、久し振りに幸せな気分になれた。

「…ところでね、ケイト…。ちょっと訊きたいんだけど…。えぇと…」

「うん?」

ミリアはしばし躊躇った後、ずっと気になっていた事を思い切って尋ねてみる事にした。

「あの、貴女のヒールが折れた時に支えてくれたあのひと。何で熊の被り物なんか被っていたのかしら…?」

「熊の被り物…?」

不思議そうな表情で呟いたケイトは、小さく吹き出すと、カラカラと笑い始めた。

「やだミリアったら!そんな妙な格好してなかったでしょう?」

「え…?」

絶句したミリアの前で、ケイトは可笑しそうに笑い続ける。

「そ、それじゃあ、どんな顔に見えた?」

「え?えぇと…、改めて言われると…、あれ…?普通の顔じゃなかったかしら?特にこれといった特徴も無い…。あらいやだ、

顔が思い出せないわ!凄く大きくて太っていたからかしら?体型の方ばっかり印象に残ってる!」

困り顔で笑い続けるケイトの前で、ミリアは声を出せなくなっていた。

ケイトには、あの巨漢の異様さが判っていなかった。顔は思い出せず、太ってはいたが普通の男だと言う。

(…何なの…?一体、何だったの?あの男は…?)

ミリアは軽く混乱しながら、立てた人差し指を口元にあて、微笑んでいた白熊の顔を思い出していた。



イーストリバーを跨ぐ雄壮なブルックリンブリッジを一望できる、川沿いを走る広い通りで、

「認識していた?」

眉根を寄せて問いかける黒豹に、白熊はホットドッグの袋を開けながら頷いた。

眺めの良い川沿いの道に面したファーストフード店の前。

太いタイヤが印象的な低重心の大型バイクと、攻撃的なフォルムのいかにも速そうなバイクが、街路灯の下の石畳に並んで

停めてある。

白熊はバイクに跨ったまま、黒豹はバイクに軽く寄りかかる格好で、それぞれ遅めの昼食を摂っていた。

白熊と同じデザインのライダースーツを着込んだ黒豹は、しかし顔を覆う毛の色も、体型も、白熊とは正反対である。

炎天下で地面に焼き付けられる濃い影のように艶の無い、黒い毛皮を纏う豹が着込んだライダースーツの胸は、曲面を描い

て大きく膨らんでいる。

ウェストはくびれており、黒革のつなぎ越しにも形の良いヒップが強調されている。

長い尻尾を優雅にくねらせる黒豹は、見事なまでに整ったボディラインを有する女性であった。

「どういう女性なのだろう?例えば、死に触れたとか…」

黒豹が問い掛けると、

「ん〜…」

大口を開けてホットドッグにかぶりつき、一気に半分ほど齧り取った白熊は、ムグムグと咀嚼しながら首を小さく横に振った。

「そんな気配は無かったねぇ…。少し顔色は悪かったけれど、死期が迫っている訳でもなかった。もちろん死者でもなかったし」

「…では…、生きる事を諦めている…。あるいは生に絶望している…。その類だろうか?」

思案するように顎に手を当てて考え込む黒豹に、白熊は「冷めちゃうよ?」と、彼女のバイクのシートに乗せてある紙袋を

指し示す。

「たぶんキミの想像通りだろうね。でも、妙な点がある」

促されて紙袋を手に取った黒豹は、白熊の言葉を聞くと、開けようとして袋にかけた手を止めた。

「妙な点とは?」

黒豹は僅かに首を傾げ、ホットドッグの残りを口に押し込んだ白熊の顔を見つめた。

むぐむぐと口の中の物を噛み砕いて飲み下してから、白熊はいそいそとハンバーガーの包みを開けつつ先を続けた。

「ちょっと見た限り、彼女自身にはオレ達を認識できそうな要因が無いんだ。さらっと因果を読ませて貰ったけれど、結婚し

たばかりの旦那さんと二人暮らしで、関係は実に良好。ラブラブって言って良いだろうね」

「不幸な状況には無い?」

「うん。見積もった限りの数年向こうまでは、不幸が舞い込むどころか、極めて幸福な日々が続いていくはずだよ。未来に絶

望するような状況には無いはずなのに…」

紙袋の中からラップにくるまれたフランクフルトを取り出し、ビニールを剥がしてケチャップとマスタードをかけていた黒

豹は、思案するように目を細めながら、途切れた言葉の後を引き取る。

「なのに、貴方をその姿で認識していた…。確かに妙だ」

「妙だよねぇ。…まぁ、オレ達を認識できる時点で十分過ぎる程妙なんだけれど」

手元のハンバーガーをじっと見つめながら呟くと、白熊は小さく頷いた。

「…オレ達からは幸福に見えても、本人がそう感じているとは限らない…。人間の心はとても深くて複雑だ」

思慮深げな表情で呟く白熊に、黒豹は何かを問うような視線を向ける。

「客観と主観では、物事の捉え方は大きく変わる物なんだよ。衣食住に不自由しない状況でも不幸と感じている場合もあれば、

その日その日をなんとか食いつなぐような生活でも幸福と感じている場合もある」

白熊は苦笑いしながらハンバーガーにかぶりつくと、口に合ったのか、幸せそうに眼を細めた。

「それで、その人物には何もせずに放置したのか?貴方にしては珍しいが…」

「ひとまずはね」

「本人にとっての危険や、我々の職務にとっての不都合は無い、と?」

黒豹の意外そうな呟きに、白熊は口の中の物を飲み込んでから応じると、ニィッと口元を綻ばせた。

「無いと思う。まぁ、配達期限が近い物が済み次第、改めて会いにゆくよ。匂いは覚えたからね」

「では、今日は遅くなるのか?」

尋ねた黒豹の顔には、いささか残念がっているようにも見える微妙な表情が浮かんでいた。

「うん。帰りは遅くなるって、さっき連絡しておいた」

応じた白熊は、少しばかり済まなそうに顔を曇らせた。

「ニューヨークは初めてだったよね…。今日のノルマが済み次第、色々な所を案内してあげたかったけれど…、ごめん」

「いや、良いんだ!」

白熊の表情を見た黒豹は、少し慌てたように首を横に振った。

「私の事は、別に良いんだ…」

俯き加減でぼそぼそと言った黒豹の後ろでは、バイクの上に乗った長い尻尾が、タシタシと落ち着き無くシートを叩いている。

そんな様子にも気付く事無く、白熊は不意に「そうだ」と声を漏らすと、名案でも思いついたように、太い指を器用にパチ

ンと鳴らした。

「名所巡りの案内をしてくれるよう、ムンカルに頼んでみるよ。彼はニューヨークの地理に詳しいから…」

「結構だ!」

思わず語気を荒げた黒豹は、少し驚いているらしい白熊の顔を見遣ると、ハッとしたように口をつぐんで少々わざとらしく

咳払いする。

「…いや…、彼の事だ、恐らく今回も忙しいだろうし…、その…、貴方の都合に合わせてくれれば結構だ」

「そうかい?」

白熊は首を傾げながら、少し俯いている黒豹を見つめると、気を取り直すように口を開いた。

「それじゃあ、手が空いた夜にオレが案内しようかな?ここは一説にはホットドッグ発祥の地ともされていてね、とにかくファ

ーストフードのお店が多いし、バリエーションも豊富なんだ。…って…」

白熊は言葉を切ると、困ったように頬を掻いた。

「オレのお勧めスポットを回ってたら、ただの食べ歩きになっちゃうかな…。少し見所を考えてみよう」

「私はそれでも構わないのだが…。貴方の手間にだけならないようにして欲しい」

控えめな声で囁いた黒豹に、「いやいや、せっかくなんだからさ」と、白熊は笑みを浮かべながら応じる。

「とりあえず、今日の所は悪いけど無しで。また後日」

「判った。気を付けて。…それと」

頷いた白熊に、黒豹は袋から取り出した紙ナプキンを、少し目を伏せて差し出した。

「…その…。口の周りが、ソースとマヨネーズだらけになっている」

「え?あぁ、ありがとうアズ。…ここのバーガー美味しいけれど、バーベキューソースとマヨネーズ、やけに多いね?」

アズライルが差し出したナプキンを受け取ると、白熊は決まり悪そうな苦笑いを浮かべつつ、口周りの汚れを拭き取った。