第六十話 「綻ぶ絶対防衛」
「…!」
行く手に建つビルの少し上に、赤いコートを纏う白い巨躯を見つけ、ミカールの顔つきが険しくなる。
その視界内には、ビルの屋上に立つずんぐりした猪と小柄な白猫の少女の姿も収まっていた。そして…、
「ジブ…リール…!」
歯を噛みしめたミカールの目は、半透明の黒い球体の中で身を丸める、同僚の変わり果てた姿を映して見開かれる。
その白い巨体がもはや抜け殻となっている事は、遠目でも判った。
だが、ミカールはここまで接近して初めて気付く。
「…妙や…。ジブリールの匂いがしよる…」
翼を打ち広げて煽り、自分達の少し手前で急制動をかけたミカールを、それまで視線を向けていなかった猪が振り仰いだ。
「よぅ。久しぶりじゃのおミカール」
「テリエル!何でこないなトコ…いやそんな事後回しや!何が起きとる!?」
胸に手を当てて苦悶の表情を浮かべているイブリースと、古馴染みの猪を交互に見遣ったミカールは、次いで茫洋とした目
をしている白猫に視線を移す。
「アズライルが何かしよったんか?何がどうなってこうなっとる!?何で…、反応は無うなっとるのにジブリールの魂は存在
しとるんや!?」
その問いに、テリエルは難しい顔で黙り込んだ。一言で説明するには事情が込み入っている上に、ジブリールがこの保険と
も言える策略について同僚に話していなかった事も想定外だったのである。
ジブリールは消滅した。力の反応という意味では間違いない。それなのに、微弱ながら魂の拍動は感じられる…。
その異常な事態を、ミカールはここまで接近してようやく認識した。
そして気付く。あまりにも弱くて位置を特定し辛かったが、ジブリールの魂の拍動がどこから伝わって来ているのかに。
気付いてしまえば、すぐに判らなかった理由にも合点が行った。それは、あまりにも似た波形の中に紛れ込んでいる事で、
弱々しい拍動は半ばかき消されてしまっていたせいだった。
「…ジブリール…。イブリースの中におるんか…!?」
ミカールが悟ったと同時に、テリエルは頷きながら口を開いた。
「お前さんに話しとらんかったのは意外じゃったが…、まぁそういう事じゃな。ローランの剣を奪われる可能性について、ジ
ブリールはかなり高いと踏んどったらしい。そこで、「自分の魂をローランの剣に封じる」…というとんでもないトラップを
考えよった」
「どうやって…!」
「抜き取られる寸前に、自分の魂をローランの剣に吸収させたんじゃ。記憶から何から、おおよそジブリールを形作っとる全
ての要素をのぅ。つまりイブリースは…」
テリエルは苦しみ続けるイブリースを見遣り、ミカールもまた北極熊を見つめる。
「ローランの剣ごと、「ジブリール因子」とでも言うべき情報群まで取り込んでしもうた訳じゃ。…で、ローランの剣をイン
ストールしたと同時に、ジブリールの道徳観によって罪の意識が生まれた、と…」
とんでもない事を考えつくものだ。そう考え、ミカールは愕然とした
ローランの剣による分解吸収で、自らの魂をプログラム内に仕込む…。
分解吸収のプロセスとプログラム構造を熟知しているからこそ考えつける事だが、所詮ソレは理論上の物に過ぎない。
何らかの対策は練っていたのだろうが、もしかしたら魂すらも単純なエネルギーに変換されて、ただ自決するだけの結果に
なっていたかもしれない。
唯一無二の魂をかけて実験やデモンストレーションができる訳でもなく、今回のこれもぶっつけ本番だったはずである。
本人も消滅覚悟の策だったのだろうが、結論から言えばジブリールの策は成功した。
奥の手とはいえ、自らの存在そのものを有利な状況を作る要素、好機を生み出す為の手段とまで割り切ってしまうジブリー
ルに、ミカールは寒気に近い畏敬の念を覚えた。
(そこまでして守りたかったんか…。アズライルを…、地上を…)
判った気になっていながら、それでも過小評価していたと、ミカールは認めざるを得なくなった。
獅子が思っていたよりもずっと、ジブリールの覚悟と信念は確固たる物だった。
「つまり、今のイブリースは…」
「何割かがジブリール。…って訳やな」
テリエルの言葉を遮り、ミカールは両手でしっかりと掴んだ銃を頭上にかかげ、銃口で天を指す。
「けど完全やない。まるで水と油…、同化せんで反発し合っとる。それは…、分割したモンでしか完全には戻せへんからや」
ミカールの鬣がざわりとうごめき、その身に纏うレモンイエローの燐光が輝きを強め始める。
「…責任を取る時が来たらしいわ…。ずっとずっと考えとった…。悩んどった…。そして後悔しとった…。「あの時ワシが分
断せぇへんかったら、こないな事にはなってへんかったんやないか?」と…」
太陽のように眩しい燐光が立ち昇るようにして、掲げられたルガーに集まってゆくその様子を、テリエルは目を細めて目映
そうに見つめる。
集まった光はルガーの銃身を軸にして真っ直ぐ上へ伸び、輪郭を整えて行く。
やがてそれは全長2メートル程もある、巨大な両刃の大剣の形を為した。
鍔は無く、装飾もない。細身の長剣であるプログラムデュランダルやローランの剣と比べれば酷く無骨で、まるで光の塊の
ようなそれは、しかしシンプルで力強いデザインとも言えて、黄金で作られているように目映く、神々しくさえある。
象徴化されたミカールの固有プログラムを目の当たりにし、イブリースは顔を歪める。
「…「あの時」以来だね、プログラムキャリバーンを見るのは…」
「そうや。「あの時」ワシは、ジブリールが墜ちる事を怖れた。せやから一時しのぎに、あの時生まれた憤怒、憎悪、悲哀…、
マイナスの感情を切り離した…」
「そしてまた切り離すのかい?ボクからすれば願ったり叶ったりだけれどね」
イブリースの言葉に首を横に振ると、ミカールは大剣の切っ先を下ろし、体の横で水平に寝せる形で構えた。
「今度は「分断」やない…、お前は知らへんかったな、このキャリバーンが本当はどういう物なのか…」
静かに呟き、ミカールはキッとイブリースを睨んだ。
「「分断と結合」…。それがワシのキャリバーンの作用や。今度はワシが、責任持ってお前を元に戻したる…!」
不格好な程に体に釣り合っていないサイズの剣を携え、ミカールは飛ぶ。
価値観が反発しあっている今の状態ですら満足に行動できないイブリースからすれば、ジブリールと再統一されるなど堪っ
た物ではない。下手をすればジブリールとしての価値観に主導権を握られてしまい、目的を果たす事ができなくなる。
迫るミカールから後退する形で距離を取り、振られた切っ先から逃れる北極熊には、余裕の色など見られなかった。
直接斬り付けなければ効果が無いらしい事は知っているが、おそらく効果発動条件は剣との接触であり、例え掠られてもア
ウトだろうと察しはついた。
防御も考えずに猛攻するミカールに対し、イブリースはただ回避に専念するという逃げの一手。
持て余すほど大きな剣を、全身を使ってスイングするミカールは隙だらけなのだが、ジブリールの呪縛が邪魔をして反撃も
できない。
テリエルが言ったように、今のイブリースは誰とも争えず、誰も傷つける事ができないのである。
「くっ…!」
回避に回避を重ねて逃れ続けたイブリースは、空間跳躍をおこなって距離を取る。
瞬時にビルの屋上…白猫の傍に現れると、その手を掴もうと手を伸ばした所で、ハッとなってテリエルを一瞥した。
「この状況になっても、みすみす逃がすと思っとるんかのぅ?」
ここまで介入の気配を見せなかった猪は、右拳を握り込み、左手を添え、ポキポキと関節を鳴らした。
おもむろにその手が伸ばされ、開いた掌が向けられると、イブリースはズシンと音を立てて床に這い蹲る。
まるで急激に体重を増やされたように、イブリースの下から床面にひびが入り、広がって行った。
「それが「愛の重み」じゃ。背負えんか?ん?」
テリエルの問いかけにも、イブリースは答えられない。猪が架した強烈な重圧は、北極熊の強靱な肉体すらも難なく押さえ
つける程で、もはや身動きもままならない状態となっていた。
「テリエル!二秒でええ、そのまま押さえときぃ!」
宙で反転したミカールが叫ぶなり大剣を構え、突き刺す格好で刃先を下にし、急降下する。
が、千載一遇の好機を得たこの瞬間に、それは起こった。
ミカールが、テリエルが、そしてイブリースまでもが、異常を察した。ほんの一瞬だが感知できなくなった。
世界を取巻く因果の糸を。
世界が変質したその一瞬は、永い時を歩んできた彼らにとっても初めての物。
僅かに動揺したテリエルの力が弛むなり、イブリースは瞬時に身を起こし、白猫の手を掴んだ。
「しまっ…!」
ミカールが発した声は、剣がノイズを貫き、屋上の床面に突き刺さると同時に途切れた。
慌てて空を振り仰げば、白猫の手を引いて宙に立つ北極熊の姿。
「…これは…、事実上の敗北だね…。確かに「ここから」だったよ、ボク…」
苦々しい口調で呟くと、イブリースは再びノイズを身に纏う。
「させんぞ!」
テリエルが拳を固めて突き出す。が、その先で生じた「重さ」は、ノイズとともにイブリース達が消えた後の空間にかかっ
ただけであった。
「逃がしたか…。しくじったのう、面目ないわい…」
耳を伏せて顔を顰めるテリエルの横で、ミカールは剣を収縮させて身の内に収めながら首を振った。
「今のは仕方が無いわ…。ワシも気ぃ逸らしてもうた」
常に因果の存在を感知している彼らにとって、それを一瞬でも捉えられなくなるというのは、人間などでいえば、急に目の
前が真っ暗になって何も見えなくなったり、何の音も聞こえなくなるようなものに等しい。感覚の一つを奪われたような状態
になって動揺するのも仕方のない事であった。
「それにしても、何や今のは?すぐ戻ったけど…」
「判らんわい…。体感するのは初めてじゃ。…ハダニエルから前に聞いた事があったような…なかったような…」
「ワシは知らへんで?」
すぐに戻ったとはいえ、テリエルとミカールの表情は晴れない。
二人同時に体験したという事は、気のせいなどでは断じてない事を意味する。確実に何かが起こったのだが、何が起こった
のかが判らない。イブリースを取り逃がした事も含め、懸念が増えてしまった。
「イブリースは、すぐには何もできんじゃろうな。解決手段がない。しばらく引きこもってあれこれ試す気かもしれん」
「それにしても滅多な事はできへんやろ。中でジブリールが邪魔するさかい…」
黒い球体の中に浮かぶ同僚の抜け殻を見遣り、ミカールは呟いた。
「大したモンやで…。早いとこアズライルにも教えてやらんとな。アイツが根っ子から消滅した訳やないって事…」
一方、時間は少し遡り、河川敷に墜落した飛行艇付近では…。
「解け!これを解けナキール!ジブリールに…!ジブリールの所に行かなければ!」
自分を庇ったせいでジブリールが消滅したと思いこみ、半狂乱になりながら暴れていた。
その四肢を、気を付けの姿勢で縛っているのは青色の長い布。包帯のようなそれで自由を奪われたアズライルは、損壊した
飛行艇の脇に寝かせられる。
「しばらくそこで待っているように」
泣き叫ぶ黒豹には全く取り合わず、スィフィルは鋭い視線を虎とシャチに向ける。
ムンカルとネビロスの戦闘は、まだ続いていた。
空振った拳の勢いそのままに身を捻り、回し蹴りを繰り出すムンカル。
その足を脇に抱え込む形で捕まえ、強引に振り回して投げ、相手の体勢を崩すネビロス。
間が空いた途端にシャチの手から銛が、ムンカルの銃からハーフブラスト弾が飛び、両者の間で消し飛ぶ。
宙で身を捻り、大柄な体に似付かわしくない柔軟な着地を見せたムンカルは、胸中で舌打ちしていた。
(この野郎…。この短時間で近接格闘に順応して来やがった。何てセンスしてやがる…!)
優位に立てていた近接格闘戦でペース維持ができなくなり、ムンカルは歯噛みする。これほど学習が早い相手を相手にする
のは初めての事であった。
「加勢して進ぜよう」
唐突な言葉に横を向けば、青いつなぎを着込んだ同僚の姿。
「ナキール…、いや「その前の方」か…。ちょいと悔しいが、タイマンに拘ってられる状況でもねぇかな…」
「ただし、戦力として全面的に当てにする事は推奨せぬ」
加勢を受け入れかけたムンカルは、直後に発されたスィフィルのそんな言葉で胡乱げな顔つきになる。
「彼には咎が無い」
「あ?」
狼の発言に、鉄色の虎は眉根を寄せた。
「精神的主体性が無い。…とも言えよう。自我が極めて希薄で、善悪という概念すら持ち合わせていないらしい。さらに言う
ならば己という存在にすら固執しておらぬ。その行動に主体性が無く、欲も無く、悪意も無いが故に、いかなる行動にも咎を
負わぬ。咎が生まれるとすれば命じた者の方にであろうよ。その点においては極めて執行人に近い」
「判り辛ぇ!もっと簡単に!」
「端的に言えば、彼はザバーニーヤの基準に照らし合わせれば「悪」では無い。空っぽで透明なのだ。つまり…」
スィフィルはうんうんと頷き、先を続けた。
「彼にはザバーニーヤの洗浄は全く効果が無い。心が壊れているが故に純粋なのだ」
「…お手上げ宣言が早過ぎるぜおい…?けどまぁ何となく判った」
ムンカルはネビロスを見遣る。
その目には、先ほどまでには見られなかった、同情にも似た光が宿っている。
「…ミカールは…、動揺してたんだな…。知り合いが敵に回ったっていう単純な話じゃねぇ…。心が…ぶっ壊れちまってたん
だもんな…」
対するネビロスは相手が増えた事でも動揺を見せず、値踏みするようにムンカルとスィフィルを眺めている。
相手が増えようと手強かろうと関係ない。彼からすれば状況の変化など些細な問題で、例え消滅する事になろうと、与えら
れた使命を遂行するだけであった。
それまではその姿勢を、怯まず退かない闘志の表れと取っていたムンカルだが、スィフィルの言葉でネビロスの状態を知っ
た事により、全く違う物に見えて来る。
哀れだと思った。
このシャチは、自ら価値や理想を見出してこの場に立っている訳ではない。そう考えると闘志が急激に萎えて来た。
現象に過ぎない存在の盗魂者ですら、自己の維持という目的を持って魂を食う。消えたくないという意志を持ってこの世に
しがみついている。
それなのにネビロスは、希薄とはいえ自我を持っていながら、何一つ自分の為の行動をせず、存在を維持するという最低限
の欲すらない…。
「…ちくしょう…!やりあいたく無くなっちまったぜ…」
吐き捨てるムンカルを、スィフィルはそっと横目で窺った。
その目が少し嬉しそうな、優しい物になっている事に、しかし虎男は気付けない。
ムンカルのこういった所が好ましいと、スィフィル=ナキールは思っている。
ただ妄信的に目的を遂行するのではなく、そこに自分なりの意志や考えを持ち込み、よりよい状態と結末を模索する。ムン
カルのそういったスタンスは端から見れば確かに効率が悪いのだが、もしかしたらその姿勢も正しい物なのではないかと、最
近の狼男は考え始めていた。
「話を戻すが、洗浄は効果がないので浄布での緊縛を試みる。それでも構わんかね?」
「オーケーだ。とっつかまえて話し込むか…!」
再びやる気を出したムンカルに、スィフィルは「話し込む?」と、オウム返しに尋ねる。
「空っぽなんだろ?こいつはよ。だったらとことん語り合って、みっちり中身入れてやる!」
己の意志も無く邪魔をするだけの相手と喧嘩するのは、ムンカルにとって気分の良い物ではない。主義主張のぶつけ合いに
すらならない闘争などまっぴら御免であった。
「なるほど了解した。興味がそそられるので、その折には是非とも混ぜて貰わねば」
「…勝手にしろ不思議っ子…」
呆れ混じりの苦笑を浮かべたその時、ムンカルは異常に気が付いた。
同時にスィフィルも周囲を窺い、警戒する。
ネビロスはぼんやりとした視線を宙に向け、「…ん…」と喉を鳴らした。
「すんだ。すんだな。イブリースもかえった。おわりだ。かえる。かえろう」
ネビロスが呟く間も、一瞬因果が感知できなくなるという奇妙な現象を味わったムンカルは動揺し、スィフィルは何者かの
手による何らかの攻撃を受けているのかと、感覚を研ぎ澄ませて周囲を探る。
この場では、事前にこれが起こると聞かされていたネビロスだけが、この現象が何を意味するのか知っていた。
空間にノイズが走り、それに気付いたムンカルがネビロスに銃を向ける。
「またな、トラ。おまえ、ばかっぽいしへんだけど、ちょっとおもしろいぞ」
「あん?」
意表を突く言葉を投げられ、ムンカルは眉根を寄せる。
その直後、シャチの巨体はノイズの向こうに消えた。
「ぬぐあっ!?好き勝手して消えやがったぞあの野郎っ!次に合ったら縛り上げて褌脱がして逆さ吊りにして一晩語り合って
やる!」
「興味がそそられるので、その折には是非とも混ぜて貰わねば」
「…勝手にしろ不思議っ子…!」
憤るムンカルの横で、スィフィルは除幕を解除し、ナキールに戻る。
限界が近付いていたという事もあるが、ひとまずこの場での騒動は終わりだと、狼男は本能的に悟っていた。
「…面白い、と彼は言った」
おもむろに言ったナキールを見遣り、ムンカルは首を傾げる。
「空虚なはずの存在に興味を持たれる…。君は何処までも興味深い男だ」
「そりゃどうも。お前に興味を持たれるぐれぇなんだから、そうなんだろうよ」
「…ふむ?確かに…」
投げやりに答える虎男と、納得顔になる狼男。ムンカルも「納得するのかよ!」とは、疲れるのであえて突っ込まない。
「…ところで、ナキール」
表情を改めながら銃を収め、口を開いたムンカルは、しかし珍しく迷うような素振りを見せた。
すぐに先を続けなかった同僚に、ナキールは視線で先を促す。
「旦那に…、何かあったのか…?」
ようよう言葉を吐き出した虎男に、こちらも珍しい事だが、ナキールは即答しなかった。
「ジブリールは…」
何と説明すればいいのか。狼男には判断がつかなかった。
ムンカルも何となく嫌な予感はしている。拘束されたままもがき、未だに泣き叫んでいるアズライルの様子を見れば明るい
事態など考えられない。それでもはっきりさせたい虎男は、同僚の目をじっと見つめた。
「ジブリールは…」
「ちょいと外出しとるだけじゃ」
繰り返した狼男の声を遮ったのは、ムンカルが聞いた事のない声であった。
警戒しながら素早く首を巡らせれば、川面の上にノイズが走り、ずんぐりとした体躯の猪と、同僚の獅子が姿を現した所で
ある。
強制的に空間跳躍させられた時から、あの屋上に置いたままになっていた愛車…ファットボーイを支えて押して来るが、ム
ンカルには見覚えがない顔であった。
その脇ではミカールが、屋上に放置されていたアズライルのバイクを立てて支え、同じように川面を歩いて押して来る。
獅子と一緒に居る事から、敵では無いと判断して緊張を解いたムンカルは、ナキールの様子を見て首を傾げた。
「お久しゅうございます。テリエル様」
跪き、恭しく頭を垂れている狼男は、テリエルに対して厳かに、スィフィルとしての言葉で声をかける。
「…誰だよおい?知り合いか?」
「こいつはテリエル。独立配達人や。一時期冥牢でマリクをやっとったさかい、ナキール…、つまりスィフィルから見れば元
上司って訳やな」
小声で尋ねるムンカルに、歩み寄っていたミカールが応じた。
「ま、五年も保たんかったがのぅ。あそこは静か過ぎて向いとらんわい」
マリクだった事があるとすれば室長クラスのはずだが、それが今は何故配達人をしているのか?そんなムンカルの疑問を表
情から読み取り、テリエルはニカッと笑う。
「ミカールやジブリールと同じじゃ。上で真面目にお堅い仕事をするのは性に合わん。…ほれ、今はお前さんのなんじゃろコ
イツは?相変わらず良いマシンじゃ。大事に使われとる」
歩み寄ったテリエルは、ムンカルにバイクのハンドルを預けると、改めて虎男の姿を眺めた。
そして、爪先から頭の天辺まで往復させた視線を顔で止めると、「ふむ!」と、満足げに唸る。
「いい面構えをしとる。ミカールが入れ込むのも納得じゃ」
「入れ込んでへんわいダァホ!」
バイクのスタンドを立ててアズライルの元に向かっていたミカールは、振り向きざまに怒鳴った。が、テリエルは怯む様子
もなく、ニヤニヤと笑いながら「照れんでいいんじゃぞ?」とからかう。
「ったく…!疲れるわホント、あのオヤジ…!」
ブツブツ言いながらミカールが黒豹の横に屈み込むと、アズライルは涙を溜めた目で獅子を見つめた。
「ミカール!ミカール!あ、あのひとが…!ああ…!あのひとがっ!ジブリールがっ!私だ…!私のせいなんだ…!私があの
ひとを逝かせてしまった!何て事を…!私は何て事をっ!」
「…アズライル…」
「行かせてくれ!せめてあのひとの亡骸だけでも連れて帰らなくては!行かせて!い、行かせてくれ!行かせて!お願い…!」
「アズライル…。ええからまずは落ち着いてワシの話を聞け…」
「ごめんなさい…!ごめんなさいミカール…!私は取り返しの付かない事を…!」
「大丈夫。大丈夫や。ええか?まず落ち着こうな?」
動転しているアズライルを、珍しく優しい口調で諭しながら、ミカールはどう切り出すべきか少し考え、
「ジブリールはな、まだ消滅してへん」
結局、説明は後回しにして結論をぶつける所から始めた。
一度は何を言われているのか判らず、泣き続けたアズライルだが、
「まだおるんや。この世に」
そうミカールが繰り返した事で、ようやくミカールから言われている事が尋常ではない事に気付く。
「繰り返すで?ええか、ジブリールはまだ消滅してへん。アイツはまだこっちにしがみついとる」
ドスドスという重い足音が、本部上層の通路を慌ただしく通り抜けて行く。
それを軽い足音が小走りに追い、それらが入り交じって通路内に反響していた。
「感じたかラミエル君?今の…」
「はい。でも判りません…。何でこんな事が?因果が感知できなくなるなんて、初めてです…」
顔を顰めながら尋ねる巨大な犀に続いて走りながら、雪豹は首を傾げていた。何が起きたのか判らない。判らないが尋常で
はなく、そして悪い予感がする。
だがハダニエルには心当たりがあった。
遙か昔、比較的若い世代であるラミエル達が生まれて居なかった頃、一度だけ、この本部内限定で似たような現象が発生し
た事がある。
その時ハダニエルはまだ本部の支配人ではなく、支部を一つ預かる立場にあったが、システムトラブルに起因した現象だと、
後の定例会議で聞いた。
だが今感じた異常は明らかに当時の物とは規模が違っていた。本部だけでなく、各支部でも異常がモニターされた事が、基
本的にシステムと常時リンクしている犀には感知できている。
(あの現象を経験したのは、当時本部に居たか、システムにリンクする役職についてたヤツだけ…。現役のワールドセーバー
ではおいらとドビエルだろう?後は誰が経験してたっけ?…えぇい!とにかくシステム異常の可能性がある!意見聞いてる暇
なんて無いし!異常らしい物は何も感じないのに、一体どうなってんだよぉ!?)
ラミエルから聞いたいくつもの事案…、ジブリールの反応消失の件といい、アスモデウスが機能停止状態で見つかった事と
いい、多数の墜人がまとまった妨害活動を行っている事といい、異常事態が立て続けに起こって頭がこんがらがりそうだった。
支配人という立場上、優先すべきは本部の機能維持と判ってはいるが、他の事も内容が内容なので気になって仕方がない。
とにかく管理室か中央管制室に行き、事態を把握するのが先決だと判断したハダニエルは、他の区域とは違って、安全面か
らショートカットができない構造になっている上層を駆け抜け、急ぎ階下へ向かう。
だが、その途中で見知った相手を見かけ、以外に思いながら歩調を緩めた。
巨体の犀の後ろから覗くように顔を出し、先を見た雪豹は、階段に通じる殺風景なエントランス脇で黒顔の羊が屈み込んで
いる事に気付く。
「どうかしたのかな?」
足を緩めたハダニエルが声をかけると、羊は顔も上げずに「ああ…、支配人…」と、掠れた声を出した。
「異常が…感知されまして…。それで…、ね…。簡単なチェックを…。この上層は…、特に大事ですから…、最優先で…ね…」
「ああ、今しがたの…。ご苦労さん!頼みましたっ!」
頷いたハダニエルはラミエルと共にその脇を駆け抜けようとしたが、「ところで支配人…」と、羊に呼び止められる。
「何でしょう?」
今は急いでいるのにと、少し困りながら応じた犀に、羊はぼそぼそと続けた。
「体調不良など…、ありませんか…?どこか痛んだり…」
「…?いや、これといって何も…」
突然何だ?とハダニエルが訝しむと、
「それは…」
「良かった」
続いた言葉は途中から、異なる者の声となった。
反射的に身を屈め、傍にいたラミエルを押し倒す格好で床に身を投げ出したハダニエルの上を、黒い線が高速で通過し、壁
に黒い穴を穿つ。
同時にハダニエルは腰横に痛みを感じ、スーツを貫いて刺さって来た針のような物を摘み、抜いて放り捨てた。
「んなっ!?」
考えるよりも先に回避行動を取っていた犀は、階段下から躍り上がって来た黒い獅子の姿を認め、顔を強ばらせる。
「アスモデウス!?」
先にラミエルから聞かされた、機能停止状態で見つかったという男。それが何故ここに居るのか理解できなかった。
見れば、押し倒されて身を起こしているラミエルも、訳が判らずぽかんとしている。
身構えるよりも、この状況のあまりの以外さと異様さで呆気にとられてしまっていた。
「どうやってここに…」
「室長クラスであれば、上層の一部には許可無く侵入できる。通路とエントランスだけならばな」
犀の言葉を遮り、弓に次なる矢をつがえながら黒獅子は言い放った。
「そこの男が役に立った。まったく、良い傀儡を得たものだ」
ハッとしたハダニエルは、黒獅子の隣に歩み寄る羊を見遣る。先ほど自分に向かって麻酔銃のような器具で針を放った、味
方であったはずの男を…。
まるで黒獅子に従うように傍に控えた羊は、感情を窺わせない濁った瞳で犀を見据えた。
その瞬間にハダニエルは悟る。この羊が、正気の状態には無い事を。
「準備が…整いました…。じきに…効果が…」
「よし。では…」
羊にぼそぼそと告げられた獅子が弓を引き、犀は顔を顰める。
「目撃者を始末して口封じってかい?果たしてそう上手く行くもんかねぇ…」
のっそりと立ち上がったハダニエルは、ポンポンと胴回りを払うと、スーツの上着を脱ぎ捨ててワイシャツ姿になる。そし
て引き抜くようにシュルッとネクタイを外し、宙にぱっと放り投げた。
そのネクタイがふわりと床に着くまでに、犀は屈んで前傾姿勢を取り、拳を床につける。
それはまるで、立ち会いに臨む力士のような格好であった。
それを見た雪豹がスーツの懐に手を突っ込み、銃のグリップを握りながら口を開く。
「管理人ラミエル、及ばずながら加勢致します!」
「いや、有り難いけどラミエル君はちょっと下がってて。むしろあっちを見張っててくれないかねぇ?何やらかすか判ったも
んじゃないし」
勇ましく名乗りを上げた雪豹に、しかし犀は目線で促した。羊から目を離すな、と。
言いつけ通りに羊に視線を据えた雪豹は、「失礼します室長」と断りを入れつつ、引き抜いた銃をそちらへ向けた。
その様子を横目で確認したハダニエルは、前屈みの姿勢のまま黒獅子を睨む。
「舐めて貰っちゃ困るねぇ、アスモデウス。これでも支配人なんだぜ?おいらは」
口の端を上げて肩をいからせ、威嚇するように鼻を鳴らした犀に、
「舐めてはいない。むしろ警戒している。お主の力はドビエルの力と同程度にえげつないからな。…だからこそ、最優先でこ
の作業を行わせたのだ。お主を排除する為に」
アスモデウスはそう応じつつ、相手の額に狙いを定める。
誰にも知られないまま、本部の主導権を巡る争いが、心臓部とも呼べる位置で勃発しようとしていた。