第六十一話 「身中の害悪」

屈強な黒獅子と巨大な犀が、間合いを取って睨み合う。

半身に構えて弓に矢をつがえるアスモデウスに対し、相撲の仕切りにも似た、四つん這いの低姿勢で身構えるハダニエル。

ボリュームで言えばアスモデウスの二倍半。筋骨逞しい大柄な黒獅子が、この犀と向き合えば小柄に見える。

両者がきっかけを窺い緊張が高まってゆく中、雪豹は黒面の羊に銃を向けたまま、その動向に気を配りながらも生唾を飲み

込んだ。

彼はハダニエルが前線に出た姿など見た事がない。この本部を守護し、機能を司る支配人たる立場にある犀が現場に赴いて

いたのは、ラミエルが誕生するよりも前の事なのだから。

だが、上司であるドビエルから聞いている。

詳細までは知らされていないが、ハダニエルこそが現存するオーバースペックの中で、最も凶悪で最もえげつない力の持ち

主なのだと、彼の固有能力はブラスト現象にも匹敵する危険性を孕んでいるのだと…。

張りつめた静寂を破り、おもむろにアスモデウスが口を開く。

「…相変わらず優しいな、お主は」

その言葉に、褒める響きは微塵もない。深い蔑みすら宿っている。

「本部の中枢であるここ…心臓部において、敵の排除には確実な一手を取るべきであろう。支配人である以上、多少の被害を

出そうと、迷ってなどいられないはずだ」

「迷ってはいないさね」

短く応じるハダニエルの目は、黒獅子から一時も離れない。

「迷っておらんと?ふむ、なるほど…。お主は迷う事なく、本部と、些細な存在を天秤にかけて、後者を取るのだと?」

「おいらぁ欲張りなモンでね。どっちも取る」

そう言い終えるなり、ハダニエルが動いた。

ぐばっと立ち上がりつつ前へ出たその巨躯を覆うように、周囲では陽炎のように景色が揺れ、さらには薄く墨を流したよう

に黒ずみ始める。

体格でいえばハダニエルが圧倒的に勝っている。機動力でこそ劣るものの、室内では黒獅子もスピードを活かし切れない。

突進して来る犀めがけ、弓につがえた矢を放ち、間合いを保持すべく大きく横へステップするアスモデウス。

しかし矢を射放たれたハダニエルは避けようともしなかった。黒獅子を追うようにゆるくカーブしつつ、肩と胸の間に飛ん

できた矢を大きな手で無造作に払う。

雪豹はその様子を目にし、ぎょっとした。

ハダニエルが手で薙いだ矢が、跡形も無く消え去っていたせいで。

アスモデウスの弓に続く二射目がつがえられたその瞬間、間合いを詰めながらハダニエルは手を前方に翳す。直後、紫紺の

瞳が強い光を内側から滲み出させる。

「ディストーション!」

声と同時に、アスモデウスとハダニエルの間に黒い球体が発生する。

しかしそれは、視覚情報として黒く感じるだけであり、実際には色彩など無い。一切の光が無い場所へ繋がっているが故に、

ひたすら、何処までも黒く見えているだけだった。

射られた矢が、球体に接触するなり飲まれて消える。それは先にハダニエルが手で薙いだ矢が消失した現象と同じ原理によ

る物だった。

球体の正体は、世界の狭間たる深淵の闇に繋がる空間歪曲現象。別次元へ繋がる空間の穴である。

球体が消えたその時には、バックステップするアスモデウスと突っ込むハダニエルの距離はだいぶ狭まっていた。

三射目の矢は、空間歪曲現象を纏ったまま振るわれたハダニエルの右手に接触し、掻き取られるように消滅する。さらには、

勢い衰えず黒獅子に肉薄した犀の左手が、大きく振り上げられながら一層濃い闇を纏った。

先程の球体にも匹敵する顕現度合いで空間歪曲を腕に纏わせ、上体全てを捻る形で豪快にスイングするハダニエル。

触れた部位が問答無用でこそげ取られ、別次元へ持っていかれるその張り手を、アスモデウスはノイズを纏って空間跳躍す

る事で回避した。

動作の一つ一つは単純で直線的ではあったが、張り手は勿論、巨体に空間歪曲を纏って突進し、接触した物を一切合切抉り

取って消し飛ばすハダニエルの攻撃全ては極めて凶悪である。触れただけでまずいのだから、下手に接近できない。

黒獅子の姿が瞬時に消え去り、ノイズが走る空間を腕で掻き取りながら急停止した犀は、ハエでも追うように頭上を払う。

空間跳躍して死角を取り、天井に逆さまに立って真上から矢を射込んだアスモデウスだったが、予期していたハダニエルに

は通じなかった。

腰を落として頭上を睨み、黒獅子にバッと掌を向けたハダニエルの瞳が、またも強い紫紺の光を放つ。

「ディストーション・フォルテ!」

掛け声と同時に、アスモデウスを中心に据えた巨大な球体が発生した。

直径10メートル近いそれはすぐさま急速収縮し、天井を抉り取りながら消失する。

球体が消えた後の空間には何も無い。仕留めたと感じた雪豹は、しかしハダニエルが急な動きを見せた事でハッとする。

仰け反るように上体を反らし、一歩後退したハダニエルの腹で、シャツが浅く裂けていた。

ギリギリまで待ってから空間跳躍をおこなったアスモデウスは、ハダニエルの懐に飛び込んで、それ自体が刃となる弓で横

に払うように切り付けている。

肌が横一文字に露出した腹部を一瞥しながら、引いた足で体を支えたハダニエルが腕を水平に振るう。

これをかいくぐったアスモデウスが、弓を横へ振り切った状態からなおも体を捻り、後ろ向きになりつつ足を振り上げる。

馬がバックキックする要領で放たれた蹴りは、ハダニエルの胸をまともに捉えたが、犀は僅かに上体を揺らしただけでこれ

を堪え、黒獅子は相手の胸を踏み台にする格好で飛び込み前転し、距離を取る。

その短く空いた距離を、瞬時につがえて放たれた矢が走った。

「ちっ!」

舌打ちしながら一歩踏み込み、矢を払い消したハダニエルは、前進させたその足を思い切り床に踏み下ろした。

「ホール・オブ・アビス!」

直後、アスモデウスの足下に黒い円が発生する。

影のようなその円に両脚が引き摺り込まれると、アスモデウスは躊躇無く弓を下げて回転させ、膝下の位置で自らの両脚を

切断した。

切り離された足は、そのまま沼に沈むように影の中に消えてゆく。アスモデウスの足を飲み込み終えた時点で円はすぼまり、

あっという間に消え去った。

「…いい判断だ。こいつは見せた事が無かったはずだし、今ので決めたと思ったのにな…」

悔しげに呻いた犀の前で、足を失いつつも空間に浮いている黒獅子がニヤリと笑う。

「現場を離れてかなり経っている割に、それほど衰えていないようで驚いた。相変わらず動きは鈍いが…」

「そいつはどうも」

まだ余裕が見えるアスモデウスに渋い顔で応じつつ、ハダニエルは天井をちらりと見る。

抉ってしまった部位に重要な機材は内包されていないが、ここまでして仕留められなかった事を少々悔やんでいる。なるべ

くなら本部内を傷つけたくないというのが彼の本音であった。

その様子を見て、アスモデウスは満足げに顎を引く。

「まだ動ける所を見るに、どうやら直接打ち込んだプログラムは無効化されたらしいな。戦闘に集中させ、あわよくば…と思っ

たのだが」

「ふん…!舐めて貰っちゃあ困るねぇ。単純な浸食系なら、戦いながらでも何とかなる」

荒い鼻息をついて応じたハダニエルをじっと見つめ、アスモデウスは再びニヤリと笑った。

「…だが、「もう一つ」には気付けなかったようだな?」

「何?…んっ…!」

眉根を寄せた犀は、直後に目眩を覚えて顔に手を当てた。

(何だ…?体の調子が急に…)

平衡感覚が鈍り、立っていられなくなったハダニエルの巨躯が大きく揺れる。

やがて、顔の半面を手で覆いながらずしっと片膝をついた犀を見据え、アスモデウスは目を細めた。

「お主が支配人になったのは性質や性格を鑑みて当然と言えよう。だが、こちらにとっても都合が良い事だった。なぜならば、

支配人として本部内に留まり続けなければならなくなったお主は、もはやその力を存分に振るえる舞台で戦闘を行う事がほぼ

無いからだ」

「…ふん…。知った風な口を…」

応じるハダニエルは強がりながらも、自身を蝕む異常が致命的である事を悟っていた。

(まずいぞ…!腰に打ち込まれたヤツは無効化したはずなのに、アレとは別だ!何処から、何時入れられたんだ!?くそっ!

気持ち悪ぃ!目が回る!力が抜けてく!こんなんじゃアスモデウスとやりあうなんて無理だ!)

何らかのプログラムに蝕まれている事は確実なのだが、何時、どのように打ち込まれたのかはおろか、その正体すらも判ら

ない。

「支配人…!」

ラミエルは相対する両者と羊との間で視線を動かしていたが、ハダニエルの劣勢を確実視すると、与えられた命を破る事に

決めた。

「やはり、加勢します!」

「駄目だ!目を離すなラミエル君!」

叫ぶハダニエルの視界の隅で、それまで棒立ちだった羊が動く。

考えている暇は無かった。己を叱咤して巨体を動かし、駆け寄って来る雪豹の手を掴んで引き寄せたハダニエルは、そのま

ま抱え込むようにしてその背に左腕を回す。

直後、スパンッと音を立てて、丸太のような腕が宙に舞った。

黒顔の羊が深々とお辞儀をするように、頭を垂れている。

その背から伸びた黒い翼が、巨大な刃物となってラミエルを背後から襲っていた。

「な…!?」

ハダニエルに抱き留められながら振り返った雪豹は、宙をキリキリと舞う太い腕の向こうに羊を認め、愕然とした。

殺気など感じなかった。攻撃の意志などまるで感じられなかったのに、その動きは機械のように正確で迅速。ハダニエルが

引っ張りつつ左腕を両者の間に入れなければ、雪豹は後頭部から股下までパックリ二つに分割されていた所であった。

「し、支配人!」

「問題ない。かすり傷っ…!」

我に返って声を上げたラミエルに短く応じたハダニエルだったが、打つ手が無くなりきつく歯を噛みしめた。

切断された部位から噴出している粒子を止め、犀は悟る。

自分の体を蝕む謎のプログラムが、アスモデウスと相対する前に、既に侵入を開始していたという事を。

「本部システムに何か…流したな?さっき因果が…読めなくなったのも、そのせいか…?」

もはや抵抗を諦め、雪豹を守るように抱き締めた犀の問いに、黒獅子は軽く目を閉じて答える。

「いかにも。常時リンクしているお主なら、膨大なデータに紛れて入り込む異物への対応も遅れると考えた。そこの男がこれ

見よがしにプログラムを打ち込もうとしたのも、気を逸らす為だった」

「くそっ…。土俵に上がる前に一服盛られたってかい…。まんまと…、してやられた…」

苦しげに呻く犀の目が半分閉じられ、雪豹は慌てて「支配人!」と呼びかける。

「大人しくさえしておればすぐには消さぬ。支配人が居なくなれば本部自体が異常をきたすからな。だが…」

黒獅子は険しくした視線を、犀に抱えられている雪豹に向ける。

「そちらは邪魔なだけだ。ラミエルとか言ったな?若造…。お主はこの場で消しておこう」

処刑宣告を受けた雪豹は、しかし実力差を自覚しながらも気丈にその視線を跳ね返す。

「支配人…。隙を作りますので、お逃げ下さい…」

小声で呟き、雪豹は哀しげに眉根を寄せた。

「庇って頂き、有り難うごさいました…。そして、済みませんでした。お怪我までさせてしまって…」

銃を握り締め、犀の腕を退けようと思ったラミエルだったが、その太い右腕がぐっと自分を抱き寄せた事で困惑する。

「ガタは来てるが、全く無理ができないって訳でもない」

犀は重い瞼を努力して上げながら、雪豹を守るようにしっかり抱き、黒獅子を睨み付ける。

「ラミエル君を始末するってんなら、こっちにも考えがある…」

アスモデウスはこの発言を空意地と取り、鼻で笑う。

「ふん…。その状態で何ができると…」

「この場でエンド・オブ・ワールドぶちかます!」

ハダニエルの一言で、アスモデウスは笑みを消した。

彼が吐いた単語が何を意味しているのかは、この場では当人とアスモデウスしか理解できていない。

「…できる訳がない。本部諸共我らを消すつもりか?」

「場合によっちゃ…だけどな。ただやられて、本部を乗っ取られるぐらいなら…、「一切合切持って行く」ぜ?」

ハダニエルが浮かべた猛々しい笑みを見つめ、アスモデウスは小さくため息をついた。どうやら本気らしいと察して。

犀の奥の手でもあるソレは、この場で使わせる訳にはいかない。直径50キロに及ぶ空間の歪みは、間違いなく本部を消滅

させてしてしまう。

「…相変わらず無茶な行為を考えつくものだ…。責任のある役職について丸くなったようでも根っ子は変わっていないらしい

な、「ベヒーモス」よ」

「ミカールやお前さん程じゃあないと思うがね。…とにかく、草食系男子をあんまり追いつめない方が良いぜ。でないと…、

何かの拍子に踏みつぶされるぞ?」

「クッキーが主食の悪食が草食を語るな。…まあ良い。昔馴染みのよしみで、その若造はお主と共に幽閉しよう」

アスモデウスが手を翳すと、その掌から伸びた黒い包帯のような物がぞわっと、大量に流れ出る。そしてそれらはまるで蛇

のように自発的に動き、ハダニエルとラミエルに絡みついた。

「こ、これはっ!?」

「緊縛用プログラムだ。これだけなら害は無いさ」

慌てるラミエルに小声で告げたハダニエルは、言う事を聞かない体が雪豹を抱えたその格好のまま縛られてゆくのを見なが

ら、どうした物かと考え込む。

(世界の存続はさすがにおいらの存在より重いからなぁ…。ああは言ったものの、本当に本部内でエンド・オブ・ワールドな

んて使う訳には行かないし…。さて困ったぞ…)

「ところで、ハダニエルよ」

アスモデウスの声に、ハダニエルは考え事を中断して億劫そうに顔を上げた。

「「ネビル」が今どうしているか、知っているか?」

あえて昔の呼び名を使って問いかけた黒獅子に、犀は投げやりに応じる。

「…相変わらずお前さんのトコで環境保護活動中だろ?いいヤツだったのに、変な事吹き込みやがって…!」

「あれは彼自身の意志だ。我らが吹き込んだ訳では…、まあ良い。知らぬという事だな?」

黒獅子の言葉と態度に違和感を覚え、犀は目を細くした。

「何を言いたいってんだ…?ネビルがどうかしたのか?」

「ネビルはもうおらぬ」

即答した黒獅子は、その言葉を頭から信じていない旧友に告げる。黒面の羊を見遣りながら。

「そこの男に捕縛され、執行人にされかけた。独断でな」

「…何だって?」

ハダニエルの顔に動揺の色が浮かぶ。そもそもネビロスが捕縛されたという話を一度も聞いた事がない。その上、審問会も

無しに執行人化措置を施されたなど信じられなかった。

「信じようと信じまいとお主の勝手よ。だが、ネビルはもう居ない。心が壊れ、記憶も失った。あの気の良いシャチは、もう

何処にも居らぬ…」

ハダニエルは、彼が嘘を言っていないと確信し、打ちのめされた。

黒獅子もまた、かつてのシャチの言い分や平和的な解決方法模索を少々手ぬるいとは思いながらも、全否定はしていなかっ

た。そんな彼の神妙な顔つきと態度は嘘偽りの無い物で、ハダニエルに話を信じさせるには充分過ぎる説得力を伴っている。

「支配人ですら、部署の責任者の行いを把握できていない。そんな歪んだシステムが世界を管理するとのたまう事は傲りに過

ぎないと、何故気付かぬ?」

苦悶するような顔つきで黙り込んだハダニエルの胸で、

「支配人…」

ラミエルは申し訳なさそうに、気遣うように声をかけながら、泣きそうな顔をしていた。



「感度良好。因果不検知現象は落ち着いたようです。しかし原因は不明との事。目下第七技術判が調査続行中です」

上層部での騒ぎが露見せず、通常通りに動いている本部内の転送ゲート前で、白鷺が陸亀に報告する。

「では、転送再開といきましょう。急ぎ、ドビエル室長達に加勢を送ります」

亀がそう応じた途端に、居並ぶ転送待ちの列の後方で声が上がった。

何事かと見遣れば、並んだ異形達をかき分けるようにして、背の低いずんぐりしたピンク色が暴れながら前に寄って来る。

「何事ですか?あの騒ぎは」

亀が首を捻ると、白鷺も「はて?」と目を細める。

「通して下さい!通してっ!お願い、通して下さいっ!」

黒革のつなぎを身に付けている事から配達人だと判る桃色の豚は、文句を言われながらも列に並ぶ同胞達を押しのけ、強引

にゲート前までやって来た。

「順番を守って下さいね?レディ」

亀が厳かに告げると、息を切らせたバザールはペコッとお辞儀した。

「済みませんです!でもお願いです!行き先は別になりますけれど、先に転送して下さい!」

訳がわからず顔を見合わせた白鷺と亀が、今はアシュター率いる堕人陣討伐の為に援軍の転送を優先しなければならないの

だと説明すると、

「アル・シャイターンと交戦しているチームが居るんです!急いで行かないと!」

バザールは焦りの表情を浮かべながらそう訴え、必死になって頼み込む。

亀と白鷺は困った。テリエルからイブリース逃走の知らせが届いたのは数分前。下手に人員を送るなとも通達があった。先

程第一陣として数名の探索要員を派遣したが、相手が相手なので腕利きしか送らない方針になっている。

しかし、そう事情を説明しても桃色の豚は聞き入れようとしない。

「お願いです!行かなきゃいけないんです!…きっと、「行く事になっている」んです…!」

バザールには予感があった。

使命感にも似た、嫌にはっきりしているその予感が、イブリースと相対した際に身と心に刻み込まれた恐怖を凌駕する。

何故だか判らないので理由は説明できないが、あのチームとイブリースが接触する場に、白猫が居る場所に、どうしても自

分が行かなければならないような気がしていた。



「これは…、困った事になった…」

胸に手を当て、コンクリートの壁に背を預けながら、北極熊が呟く。

テリエルとミカールから何とか逃げおおせたものの、下手に動けない彼は、取り壊しを待つ廃ビルに身を潜めていた。

自分の中に異物が混入しているのが、落ち着いてきた今でははっきり判る。

ジブリール。元は自分と同一人物であり、最大の敵になった男。その魂が今は身の内に入り込んでいる。

それは返しがついた釣り針のような物で、深く食い込んで切り離せない。

致命的な部位…すなわち自らの魂に食い込む形で寄生しているため、下手にパージを試みれば、最悪の場合、相手諸共消滅

してしまう。

胸がシクシクと痛む。ジブリールに影響されて発生した慈愛の心が、これから彼が為そうとしている事について責めている。

「罪悪感とは、こういう物だったのか…。まったくもって邪魔だね…」

力無く呟いたイブリースは、少し離れた位置に佇み、自分を見つめている白猫を見遣った。

表情の無い白猫は、何を考えるでもなく茫洋とした視線を保護者に向けている。

「アズ…。君を二度と喪わない為に、ボクは今日まで存在してきた…。けれど、この状態ではもう、望む世界を作る事なんて

できそうにない…」

静かに囁くイブリースの目には、珍しく迷いが浮かんでいた。

「このままだと、妥協するしか無さそうだ…。今の世界に生きる者達にとっても、ボクにとっても不幸な事に…」

アズライルを取り戻す。そして彼女を二度と喪わないよう、共に在り続け、守り続ける…。それがイブリースの存在理由で

あり、望みでもあった。

だが、ジブリールの魂に邪魔されて、他者に害を為す行為に及べなくなった今、その望みは実現が難しい。

ジブリールの能力を奪い、天敵を排除すると同時に絶対的な力を手に入れたものの、その力を振るう事ができない。それを

滑稽に感じたイブリースは、力なく口元を歪めた。

「手が見つからなければ、一か八かの賭けに出るしかないか…。成功しようと失敗しようと、ボクはもう二度と、アズを抱き

締める事ができなくなるだろうけれどね…」



「…もう、充分でしょう…」

息を切らせた白い雌牛は、周囲の状況を確認しつつ呟く。

彼女の前方には、5メートルと離れていない位置で、剥き出しの地面を踏み締めて立つ灰色熊。

一対一での継続交戦時間57分20秒。善戦したと言えるが、アシュターはもう限界が近い。

超広範囲に及ぶダミー空間での戦闘は、町並みを荒野に変えている。

なだらかだった地面はあちこちで谷を作り、所々で歪に隆起していた。

「アシュター。帰って来て下さい」

銃を相手に向けたまま、ドビエルは訴える。

「貴女は、わたくしと一対一の戦闘を行う事に固執し過ぎた。それがご自分にとってどれだけ不利に働くか承知の上で。それ

はひとえに…」

灰色熊はちらりと周囲を見る。管理人達と戦闘を繰り広げている、アスモデウス派の堕人達に。

「仲間をわたくしに倒されない為でしょう?自分ならば持ちこたえられると考え、貴女はわたくしを一人で抑えようとした…」

ドビエルは哀しげに目を細め、息を乱しているアシュターに訴える。

「貴女の優しさは昔と変わっていない。わたくし達はまだ分かり合えるはずです」

「分かり合おうと努力した結果今に至っていると、どうして理解できないのですかドビエル?」

「以前はともかく、今のわたくしは諦めが悪いのですよ。簡単に諦めると、イスラフィルにどやされますので」

アシュターは小さく笑う。昔からこの灰色熊は、黒い雌牛に頭が上がらなかった事を思い出して。

だが、同時にこうも考えた。あの穏やかな時間の中で自分達が笑いあえる日は、二度と来ないのだと。

「…撤収します!総員準備を!」

突如上がったアシュターの声で、堕人達は戦闘を中断し、牽制に入る。

その間にも余裕がある者はまだ助かる負傷者を捕まえ、その瞬間に備えた。因果が読めなくなったあの一瞬を、全員が確認

している。

それは、アスモデウスが計画を半ばまで成功させた事を意味していた。

「イシュタル!考えて下さい!まだ手を取り合える可能性は残って…」

何を狙っているのか察したドビエルが、思わず昔の名を口にしながら声を上げたが、アシュターは不敵な、女司令官として

の笑みを浮かべて一瞥を返しただけであった。

「跳躍開始!」

宣言に次いで、ダミー空間内に無数のノイズが走る。生き残っている全ての堕人が、アシュターの手による強制空間跳躍に

移ろうとしていた。

直後、白い雌牛の全身が眩く発光し、光柱が立ち昇る。

光に貫かれた空…偽りの天蓋が吹き飛ぶようにしてダミー空間の空が割れ、条件が整った墜人達は次々に姿を消した。

無理な力の行使で翼が消え去ったアシュターは、最後に自ら空間跳躍を試みる。が、

「うっ…!?」

注意が散漫になっていた彼女は、それを避け損ねた。

乳房の上、透き通るような白い体に、ぽっかりと穴が空いている。

「イシュタルっ!」

信じられない物でも見るように目を見開いたドビエルが、悲鳴に近い声を上げる。

ドビエルとの戦闘で消耗している上に、器具も使わず無茶な集団転送を試みたアシュターにとって、その銃撃は致命的な物

だった。

「…え…?」

逃がすまいと発砲した黒虎は、上司の反応に戸惑う。自分は間違った事をしたのだろうかと、厳つい顔に不安が広がった。

よろめきながら二歩後退したアシュターは、何とか踏み堪えると、胸を押さえて肩を落とす。

「…く…、くくっ…!背伸び…し過ぎたかしら…?避け損ねるどころか…、狙われているのにも気付けないなんて…」

そんな呟きの直後に、アシュターの体はノイズに包まれて消え去った。

しばしその場に立ち尽くしていたドビエルは、

「室長…。自分は、間違えたのでしょうか…?」

後ろに歩み寄った黒虎から不安げにそう問われ、小さくかぶりを振った。

「いいえ、間違っていませんよ、ベリアル君…」

応じた灰色熊の背は、黒虎の目には、いつものように広くは見えなかった。



暗い海の上に、ノイズが走る。

だが、空間跳躍のノイズにしては普段と少々様子が異なる。

空の一点に出現した球状のノイズは、細かな稲光を周囲に走らせ、パチパチと青白い火花を散らし、遙か下方の海面を激し

く明滅させている。

それが一分近くも続いた後、やっとノイズは安定し、稲光が収まった。

直後に現れた白い雌牛は、眠っているように目を閉じており、力無く、海面へ逆さまに落下して行く。

その白い体が黒い海中に没するその直前に、夜風より早く飛来した大きな何かが彼女をさらう。

夜の波がゆったりゆれるその海面すれすれでアシュターをキャッチした大男は、翼を広げて宙に静止し、腕に抱いた雌牛の

顔を見下ろした。

「…ネビ…ロス…」

シャチは無言で頷くと、翼を広げて夜空に舞い上がる。

「ここ…は…?」

「にほん。とうきょうわん。あんたをかんじて、とんできた」

ネビロスがそう応じると、アシュターは驚いたように耳を立てる。

必死だったが故に距離が伸びたのか、それともイレギュラーが発生したのか、ほぼ地球の裏側から飛んで来た事になる。い

つもの自分では考えられない長距離跳躍だった。

「あんたはねてろ。うん。ねてたほうがいい。あとは、おれがやる。がんばるから。アシュターはやすめ。やすんでたほうが

いい」

ボソボソと囁きながら、ネビロスは空を征く。

たまたま近くにいた自分がたまたま誰よりも早く彼女の出現に気付けた。

だが、イブリース探索に赴いたシステム側の存在が、今の異常な空間跳躍に気付かないはずがない。

恩人を安全な所に運ばなければならない。そう考える彼は、周囲に油断無く視線を走らせている。

それは、許可のない戦線離脱であった。

彼が与えられた使命に背くのはこれが初めての事だったが、悪い事とは思わなかった。