第六十二話 「ミカールの悔恨」(前編)

「何処から話したもんやろな…」

ミカールはそう呟くと、居合わせた面々を順番に見遣る。

長テーブルの右手には、古馴染みの猪テリエルと、同僚の黒豹アズライル。

左側には、同じく同僚の狼ナキールと、鉄色の虎ムンカル。

上座に着いたミカールは、食堂に集った面々から外した視線を、自らの手元に落としてため息をついた。

飛行艇はネビロスに破壊されて離陸できない有様だが、不連続空間を繋げて維持している食堂や各自の部屋は被害を免れて

いた。

除幕によって拍動が解放された反動を受け、肉体にガタが来たナキールと、ネビロスとの殴り合いで消耗したムンカルは、

二人揃って濃い匂いが立ち上る薬湯を飲まされている。

テリエルが作ったそれは強烈な不味さだったが、効果は確かで、失われた力がかなりの早さで戻り、自己修復が進んでいる。

「何処からも何も、事の起こりから全部話してやるべきじゃろうな。前のアズライルが…」

そう切り出したテリエルは、ちらりと隣の黒豹を見遣ってから続ける。

「滅ぶはずじゃった人間を生き残らせたせいで、処刑されるに至った経緯から、全て…」

驚いたムンカルが口を挟みかけたが、今喋りだしたら話の腰を折ると考え、言葉を飲み込んだ。

ミカールはしばし黙り込んでいたが、やがてポツリと口を開く。

「最初は…、せやな、人間の件から始まった…。アズライルがそれを見過ごせへんかった。そしてあの行動に出て…、消滅処

理を受ける事になって…、そしてジブリールは…」

レモンイエローの獅子は俯き、小さくかぶりを振った。

「ワシが作ったんや…。誰よりも悲しい墜人を…!」

自分の名が出た事で気になっているのか、黒豹はミカールの言葉を待つ。

事情を察しているナキールは、静かに成り行きを見守る。

「…ワシがこれから話すのは、昔の事…。「配達人制度」ができる前の話や…」



白い豹は、夜空を見上げていた。

ただ、それを、夜空を見上げると言って良いのかは、正直難しい。

何せ彼女が佇んでいるのは、空気も無い高所。水平線がはっきりと丸みを帯び、大気圏外を越えた高み…本来は見上げられ

るべき空その物の中なのだから。

象牙色に輝く、大木とも塔とも取れる、地上の者達には見えず、存在すら感じ取れないソレの頂上。僅か直径20メートル

程の円形の床を踏み、雪豹は真上をじっと見ている。

美しい雌豹だった。純白の被毛にうっすらと水色の斑紋を持つ、整った顔と肢体を持つ、神々しい程の異形…。

見上げている空には何も無い。…ように見えるが、彼女の目には見えていた。

遙か遠い場所からやって来る、災厄の影が。

「アズ」

不意にかけられた声に振り向くと、白い床を水面のように波打たせ、見慣れた北極熊の巨体が、潜水艦が浮上するように姿

を現す所だった。

「ここに居たんだね?」

無言で頷いたアズライルは、横に並んで上を向いた北極熊に語りかける。

「貴方は、必然だと思う?」

「必然だとは思っていないよ」

即答した北極熊は、辛そうに目を細めた。

「定められた事が全て必然だとは思えない。上がどう言ってもね…。滅ぶべくして生まれて来る存在があるなんて、合理的に

説明できないし…、何より、心情的に受け入れ難いよ」

その答えに満足したのか、アズライルは微笑んだ。ただ、寂しそうな笑みではあったが。

「人間は…、何のために発生したのかしら…?彼らだけが選ばれたように滅ぶなんて、どうして…」

「竜の時代もそうして終わった。…と、長老達は言うけれど…」

ジブリールは一度目を閉じてかぶりを振ると、再び薄紫の瞳に空を映した。

「今回は、人間とその近親種だけだ」

その静かな目には、空の闇を裂いてこちらへ近付いて来る隕石の姿が見えている。

その巨大隕石が激突しただけでも未曾有の天変地異が起こり、生物の六割が死滅する。

だが何よりもこの隕石が特殊なのは、ある種の生物にのみ絶大な影響を及ぼす致死性ウイルスが内包されている事であった。

生物の六割が環境の激変により失われても、それらはかろうじて絶滅しない。

だが、蔓延したウイルスによって、この先20年と経たずに霊長類…特に人間の近親種はほぼ絶滅する。

他の種とは共存できるはずのそのウイルスは、霊長類とだけは相性が悪過ぎた。

それが地上に落ちるまで、あと一ヶ月も無い。

だが、ワールドセーバーの行動方針は、会議によって成り行きに任せる事に決まった。

環境激変で死滅する生物は、滅ぶべき種だったのだと決定付けられたのである。

「霊長類の一部は、ようやく文明を持ち得たわ。いずれは私達のような存在に成り得るかもしれないのに…」

嘆息したアズライルの肩を、ジブリールの太い腕が抱く。

心情を推し量り、無言で慰めてくれる恋人に、アズライルは身を委ねた。

衣類越しに感じられる、体を覆う被毛と脂肪。その温かさと柔らかさを、アズライルは気持ちを落ち着けながら噛み締める。

太く大きな恋人に、寄りかかる形で身を預け、アズライルは空を見遣った。

そして、胸の中だけで呟く。

(ごめんなさい…。ジブリール…)



「殺人ウイルス?」

ムンカルが上げた疑問の声に、ミカールは頷く。

「霊長類特効の、な。遙か遠く…星の海の彼方で生まれた鉱石生命体だったんや。ワシらの把握しとる範囲外からの来訪者や

から、今でも詳しい事は判ってへん。けど…」

「当時でも確実に判ったのは、地球に落ちれば瞬く間に広まり、霊長類を根絶やしにするって事じゃった」

テリエルが後を引き継いで説明すると、ムンカルは鼻面に皺を寄せて唸った。

「つまり…、それが落っこちてたらよ、今の人間社会は無かった…って事なのか?」

「そういう事じゃのぉ。地球も人間の手でここまで傷付く事は無く、アスモデウス達が望むような、動植物の楽園になっとっ

たかもしれん…。堕人の中でも奴ら一派だけは、理想を追って堕ちる事も無かったかもしれん」

テリエルが顎を撫でてしみじみと頷くと、鉄色の虎は黒豹を見遣った。

現在のアズライルは当時の記憶を持ち合わせていないため、自分の名が出てくる昔の話に、不思議そうな面持ちで耳を傾け

ている。

「先、続けてもええか?」

ミカールは一同が頷くのを確認してから、再び当時の状況について語り出した。



「反応離れて行きます!駄目です!追いつけません!」

「馬鹿な!?テリエルやジブリールでも追いつけないだと!?」

「追走中のメンバーは追いつけそうにありません!」

「他のオーバースペックは!?迎え撃てる位置関係に居る者は…」

「既に七名が接触しましたが、いずれも沈黙させられました!現在二名が交戦中…あ!行動停止!と、突破されたようです!」

管制室のモニターには、高速で移動する赤い点と、それを追うように動く白い点がいくつか映し出されていた。

固唾を飲んでそれを見守る異形達は、地上のある一点目指して動いている赤い点を止めようと、策を尽くしていた。

「オーバースペック九名が、いずれも数分と保たずに蹴散らされただと?化け物かアズライルは…!」

苦々しく呟いた黒獅子…アスモデルの横で、白い雌牛が呟く。

「666とリンクし続けているようですね…。あれは支部三機以上のスペックを誇ります。単純な処理能力支援に加え、あれ

は支部や本部とは違って個人の私物…彼女は望む限りのエネルギー供給を受けられますから、同じオーバースペックでも支援

無しに競り合うのは厳しいでしょう。…けれど、あの状態はアズライルの身にも致命的な負担が…。早く止めなければ彼女自

身が危険です…!」

それまで黙って成り行きを見守っていた白い獅子は、顎鬚を撫でながら口を開いた。

「アズライルは、フォールダウンしたと見なす」

部屋の中が一斉にざわめき、灰色熊が「お待ちください室長!」と声を上げた。が、獅子は構わず先を続ける。

「現時刻を持って彼女を討伐対象と認定。識別名称は「アザゼル」。追跡中の各員に通達、「何としても食い止めよ。結果と

して消滅させても問題ない」と…」



巨大な翼をほぼ垂直に立てて後ろに流し、高速飛翔を続けていたジブリールは、頭の隅に入り込んだ本部からの連絡を確認

し、顔を強ばらせた。

「アズが堕人指定…!?そんなっ!」

北極熊は本部への問い合わせを試みようとしたが、すんでの所で思い止まる。

抗議したとて、状況が状況。判定が覆るとは到底思えない。時間だけいたずらに浪費してしまう。

アズライルがやろうとしている事を止め、事情を説明すれば、きっと恩赦が降りる。そう考えてジブリールは通信の時間す

ら惜しんだ。

(アズはこれまでいくつもの事案を解決した。世界の維持に貢献してきた。大丈夫だ、今回の事を止めさせさえすれば…)

そう自分に言い聞かせるものの、焦りが消えない。

彼が骨子を組み上げ、アズライルがデザインしたシステム…666は、しかしジブリールからはリンクできない。あくまで

も彼女の為に作り上げた物なので、元々自分用にアクセスキーを作らなかったのである。

それでも、産みの片親であるが故か、ジブリールにもシステムの稼働状況が判る。フル稼働中の666が、アズライルの身

が危険な程の強力なサポートを強いられている事がはっきりと感じられている。

(アズ…!止めるんだ!そんな事を続けたら君の身が保たない!)

身の危険すら顧みず、システムに反旗を翻した彼女が何を望んでいるのか、ジブリールには判った。

アズライルは、隕石の衝突を食い止めるつもりだった。

人間という種を、霊長類を、世界の一部であり一員であると認め、彼らを守るために本部の決定に背いたのである。

ジブリールにしても本部の決定を全面的に支持できていない。おかしいとも思う。しかし、隕石衝突を食い止めた後の世界

と因果の変転は、彼らといえども管理できる規模ではない。

もしも隕石が落ちなければ、かつてない規模で因果に乱れが生じる事になる。

彼らが今見通せている未来と大きくずれた世界を、今後も現体制で支えて行ける可能性は非常に低い。

世界の維持を取るか、霊長類の可能性を取るか、比べ難い選択だった。



「オーバースペックを蹴散らしたぁ?」

素っ頓狂な声を上げたムンカルに、テリエルが頷く。

「一口にオーバースペックっつぅてものぉ、性能差はピンキリじゃ。特に戦闘に関しては向き不向きもある。ジブリールやア

ズライルのような万能型は、機動力、処理能力、戦闘力と全部が高い水準にあって、並のオーバースペックでは歯が立たん。

対処可能なワシやミカールは戦闘特化型と言っても良いが、処理能力特化の室長達…、つまりデスクワーク向きのオーバース

ペックになると、当時のアズライルには手も足も出んのぅ。特に、666にフルサポートされとったらほぼ無敵じゃろう」

説明を聞いたムンカルの視線を受けた黒豹は、ふるふると首を横に振る。

現在のアズライルも一度はあのシステムにリンクしたが、意図的には接続できない。そもそも力量で言えば今の彼女は並の

配達人と遜色がないのである。

だからこそこうして話を聞いても、過去のアズライルの事を自分と同一の在だとは到底思えなかった。



「止まれ!」

青い空を漂う雲の中、巨体の白象が怒声を上げ、行く手に立ちはだかる。

一抱えほどしか無い小さな翼をすぅっと広げ、アズライルは目を細めながら軌道を変えた。

接触回避させてくれる事を願ったが、白い象は回り込むように行く手を塞ぐ。

「通して!でなければ力尽くで押し通ります!」

警告するアズライルだったが、象は聞く耳持たず、進路を阻んだ。

その大きな両手には、高密度に圧縮された浸食プログラム。致命的な機能障害を引き起こす事になろうと、強制的に停止さ

せるつもりである事がアズライルにも判った。

象は右腕を振るって球体状になったプログラムを射出したが、音の数倍にも至る速度で飛翔する白い豹は、それを難なく避

ける。

回避がてら軌道を変え、横を抜けようと試みたアズライルだが、象は読んでいたように回り込みをかけ、左腕を振るって球

体を飛ばした。

今度は両手を前に出し、真っ白な円形のシールドを作り出してそれを弾き散らすアズライル。

渾身の一撃を難なく防がれた象は鼻白んだが、しかし使命感が彼の背を押した。

距離は充分に詰まっている。おまけに防御で一瞬動きを鈍らせたアズライルは、直接的接触でなんとか捕らえられる位置関

係にあった。

体格に物を言わせて捉え、捻り上げてやろうと考えた象が掴みかかったが、白い軌跡を残して腕をすり抜けたアズライルは、

相手の太い腰に手を添えつつ背後に回り込み、腰帯を掴んで腕に力を込める。

「せぇえええええええええええええええいっ!」

アズライルの口から声が上がり、か細い腕が象の巨体をぐらつかせた。

そしてそのまま、野球のボールを投げるようなモーションで、アズライルは象を真下へ投げ落とす。

何が起きたか全く判らないまま、象は音速の数倍で落下し、海面に打ち込まれる。

盛大な水柱を上げて数百メートル下の海中に送り込まれた白い象は、強靱に作られた肉体の機能が海面との激突で麻痺し、

行動不能となった。

肉弾戦なら…と考えた自分が間違っていた事を、象は意識が途切れる寸前に自覚した。

「ごめんなさい…!」

荒れた海面を一瞥しつつ、高速飛翔を再開したアズライルは、目的の座標が近い事を確認する。

同時に、自分を追って来る恋人や古馴染みの存在を感知する。

今の短い接触での停滞でも、かなりの距離を詰められていた。

「…ごめんなさい…」

哀しげに顔を曇らせてくり返したアズライルは、やがて目的の座標が自分の空間跳躍の射程距離に入った事を確認する。

(…作業完了までに接触されそうな距離には誰も居ない…。これなら間に合う!)

アズライルは邪魔が入る範囲内に誰も入っていない事を確認するなり、跳躍準備に移った。

高速飛翔しながらノイズを纏いつつ、時干渉で自己加速を行い、雪豹は空中で姿を消す。

そして次の瞬間には、地表から遙か離れた高空…大気圏を越えた、もはや宇宙空間と呼べる位置へ出現した。

そして彼女は地上に背を向けた後、一度だけ背後を見遣る。

おそらくは、もうこうして眺める事は叶わないだろうと覚悟しながら、無限の可能性が息付く愛しい大地を…。

彼女が寂しげに、しかし限りない慈しみを込めた視線を地上に向けていたのは、実時間にすればゼロコンマ数秒にも満たな

い一瞬だった。

それでも、守るべき物を一瞥した事で、僅かに残っていた迷いも吹き飛ぶ。

青い星を背にして暗い虚空を睨み、アズライルはすっと手を上げる。

「666、強制解放!」

呼び声に応じて異層から現世へ転送されて来た白く、長く、巨大なソレが、地表に根を張り大気圏を貫き、アズライルの横

へ先端を到達させた。

それは、召還主のように真っ白な、いくつもの枝を持つ大樹のようにも見える、巨大な塔であった。

本部を模して構築された巨大なシステムは、フォルムは歪でありながら神々しく、美しい。その主同様に、異形の美とでも

いうべき美しさを体現していた。

「目標捕捉!砲撃準備開始!」

アズライルの命が下ると、塔はその頂上にスッと黒い穴を空けた。

その中心めがけ、周囲から粒子が吸い寄せられて行く。

雪豹自身の体からも白い粒子が吸い取られるように吹き出し、塔の頂上に飲み込まれている。

己の存在自体をエネルギーに変換して666に与えながら、アズライルがひたりと視線を据えて睨む虚空の先には、今もな

おこの星を目指して進む、滅びの岩塊の姿。

彼我の座標を入念に確かめ、666の準備が整った事を確認し、アズライルは上げていた手を前へ振り下ろす。

「撃てぇっ!」

雄々しい声に答え、666が光を吐き出した。

一条の閃光となって虚空を走った純粋な高エネルギーは、瞬時に途方もない距離の闇を貫き、隕石を跡形もなく消滅させる。

直後、過負荷によって666はあちこちで爆発を起こし、粒子を地上に撒き散らしながら倒れて行った。

アズライルもまた、力尽きたようにぐらりと揺れ、引力に捕まって降下を始める。

「アズ!」

肉声が聞こえるはずのない真空の中、落ちてゆく雪豹は、心でその声を聞いた。

聞き馴染んだ、愛おしい男の声に続いて、太い腕が彼女の体を抱き止める。

「アズ!アズっ!」

もはや答える気力も残っていないアズライルは、泣き出しそうな表情で自分の顔を覗き込む北極熊に、申し訳なさそうな、

哀しそうな、弱々しい笑みを向けた。



「…つまり、あれか?アズライルは…」

「そうさなぁ、人類の救済者…とも言えるじゃろうな」

呟いたムンカルに応じたテリエルだが、ミカールは首を横に振った。

「けど、システム側から見れば、未曾有の因果禍を引き起こした史上最悪の堕人って事になっとる…。霊長類…特に人間が存

在し続ける事になったせいで、その後の世界予想図は激変しよった。おまけに、因果の乱れはその後も拡大を続けてもうて…」

ミカールは一度言葉を切りながらちらりとアズライルを見たが、彼女は自分の事と捉え切れていないようで、戸惑っている

様子だった。

とりあえず今の不用意な発言でショックを与えなかったらしいと判断し、ホッとしたミカールは先を続ける。

「それから少し経った後の話になるけどな、因果の乱れは、もうちょくちょく出向いて対処するだけでは手が回らん程になり

よった。それで、発案当初に考えられとった以上に大規模化した、現行の配達人制度が発足したんや…」

そこまで喋った後、ミカールはテリエルの視線に気付いて顔を顰めた。

「判っとる…。大事な話は省かへん…」

咳払いした後、童顔の獅子は話を戻す。

「隕石を破壊して力尽きたアズライルは、ジブリールに保護されて本部に戻って来よった。単純な消耗とは訳が違う、自分の

存在そのものを削ったアズライルは…、力の大半を失っとった…。そして…」



真っ白な世界が、そこにはあった。

一面が真っ白な大地と、同じく白一色の空。

天地の境がはっきりしない無限の広がりを持つ白い光景は、現実味が極めて薄い。

空から降りてくる雪は、ゆるやかな風に音も無くふわふわと舞っている。

その中を、枷が填められた手を見下ろしながら、周囲をオーバースペック達に固められたアズライルは、十字架に向かって

しずしずと進む。

アズライルの力を惜しんだ者、あるいは彼女の人柄からまだ公正の余地が有ると判断した者などはかなり多く、反対の声は

大きかった。

だが、管理室長である白獅子は、管理の観点から言っても、見せしめとしても、断固処刑しなければならないとして消滅処

分を決定し、こうして強行したのである。

処刑を目前にしながら、アズライルの顔に怯えの表情は無い。

ただ、寂しげな微笑は浮かんでいた。

自分が為した事を悔いてはいない。満足さえしている。

だが、恋人の事は気掛かりであった。

アズライルの消滅処分が決まった後、強行に反対し、彼女を救い出そうと実力行使まで試みたジブリールは、取り押さえら

れて役職を剥奪され、幽閉された。

あの穏やかな北極熊が、同僚を傷付けてでも自分を救い出そうとした事が、嬉しいと同時に申し訳なかった。

(ジブリール。できれば一目会いたかったけれど…、今の私がそれを望むのは、あまりにも身勝手ね…)

ジブリールと共に在り続ける未来より、地上の子供達の可能性を選んだ。そんな自分が今更ジブリールに縋るのは、胸の内

だけでも勝手過ぎると感じている。

「アズ!」

アズライルは目を閉じて苦笑する。会いたいあまりに幻聴まで聞こえるようになったのか、と。しかし…、

「止まれジブリー…」

「アズっ!」

「うわっ!」

その声と、続いて感じられた騒がしさが現実の物だと察し、驚いて振り向いた。

会いたかった恋人が、そこに居た。

止めに入る管理人達を跳ね飛ばし、掴んでは投げ、殴り退け、一直線に彼女を目指し、駆けて来る。

普段の穏やかさは一体どこへ行ったのか、荒れ狂う猛獣のような猛々しい顔つきになり、必死の形相で妨害をねじ伏せるジ

ブリールは、ただ真っ直ぐに、アズライルだけを見つめていた。

例え世界に背こうと、自分は君の隣に居る…。

言葉にならないその決意が、哀しいほどに一途で純粋な心が、アズライルの胸を打った。

そこまでして貰う価値など無い、その純粋な気持ちを裏切ったとさえ言える自分を、彼はこうまで好いてくれる…。

(…ああ…。ジブリール…)

アズライルは確信した。自分はきっと、この男に愛されるべきでは無かったのだと…。

「そこまでだ、ジブリール」

白い獅子が厳かに囁き、その手をゆっくりと上げる。

その直後、幽閉に際してジブリールの喉、両腕、両脚に填められていた黒革のベルトが、ズシッと重量を増しながら彼の力

を奪った。

「ぐぁうっ!」

緊縛されたジブリールは、好機とばかりに躍りかかった白い象と黒い犀にたちまち組み伏せられた。

舞い降りてはその身に触れる雪を跳ね飛ばし、必死にもがくジブリールだったが、力の一割も出す事が出来ず、常ならば簡

単に跳ね退けられるはずの相手から逃れられない。

両腕を掴まれ、地面に跪かせられる格好で取り押さえられた北極熊は、絶望と哀しみに顔を歪め、

「離して…!頼むから離してくれ…!離せぇええええええええええええええええええええええええええっ!!!」

喉も裂けよとばかりに悲痛な叫びを上げ、慟哭する。

白い体と同色のゆったりとした修道衣は、激しく動いたせいで着崩れ、填められた拘束具が容赦なく力を奪い取る。

悲痛な声を背に聞きながら、アズライルは十字架の前に立ち、そして吊し上げられた。

その四肢が、表面がなめらかな光沢のある金属の杭で、十字架に縫い止められる。

それでもアズライルは苦痛の声すら上げず、歯を食いしばって耐えた。

そうして自由を完全に奪われた彼女を、白い貫頭衣を纏った無数の異形が遠巻きに取り囲み、それぞれの弓に矢を番える。

「言い遺す事はあるかね?」

すぐ傍に立った白獅子の言葉が耳をくすぐり、アズライルは考えた。

ジブリールに声をかけたかった。が、それはできないとすぐに思い直す。

これ以上彼の立場を悪くしてはいけない。だからこそ、これ以上親しさを印象付けるような言動は慎まなければならない。

自分は「たった一人」で運命に抗った者として、毅然とした消滅を遂げなければならない…。

アズライルは短い時間でそう決心し、キッと顔を上げた。

「人間達は、そう捨てたものではありません」

それを聞いた白い獅子は小さくかぶりを振ると、ため息をつくようにか細く呟く。

「…残念だ、アズライル…」

白獅子は踵を返して彼女に背を向け、ゆっくりと遠ざかった。いよいよ処刑の開始である。

「では、これより刑を執行する」

白獅子が重々しく宣言したその直後、ビシッと、体の芯に響くような鋭い音が響き渡り、処刑場を震わせた。

直後、ガラスが砕け散るような、耳障りなガシャァンという音が響き渡り、白一色だった世界に黒い欠落が生まれる。

界面を強引に粉砕突破した大柄な黒い雌牛は、空間を破った豪腕を突き出したその格好で雪の大地を踏み締めた。

イスラフィルは鋭く周囲を一瞥し、状況がかなり差し迫っている事を確認して悪態をつく。

「あれだけ反対意見もあったのに処刑強行とはね…。呆れた独裁体制だよ!」

さらに、破られた境界線を踏み越え、彼女の後に数人の人影が続いた。

筋骨逞しい灰色熊…ドビエル。

背が低くて太っているレモンイエローの獅子…ミカール。

そして巨人の如き体躯の犀…、ハダニエル。

ジブリール脱獄の報を受け、反対派の意見を無視して処刑が強行されつつある事を察した彼らは、強行処刑を強行阻止する

という手段を選んだ。

彼らがアズライルやジブリールと親しい事は周知の事実なので、ジブリールのような妙な真似をしないよう監視が付けられ

ていたのだが、それは陽動でやり過ごしている。

具体的には、ネビルを管制室に送り込んでシステムにちょっとした不具合を起こさせ、テリエルを研究室に忍び込ませて機

材を暴走させるという荒技まで用いた、完全なまでの重大な違反行為によって。

アズライル達の古馴染み達は、雪を踏み散らして前に出る。

それを見過ごすはずもなく、管理人達が阻むように行く手を遮った。

「お待ち下さい室長!」

「アズライルっ!」

ドビエルとミカールが、イスラフィルを追い越しながら、口々に声を上げる。

だが、刑場への乱入者を無視して白獅子の手は上がり、十字架に戒められたアズライルに狙いを定めた異形達が一斉に弓を

引き絞る。

間に合わない。そう感じたドビエルは、そっと握った手の中に、浸食破壊のエネルギーを瞬時に生み出す。

甚大な被害を出す事も覚悟の上でブラスティングレイの使用を考えた彼だったが、

「…!」

十字架に磔にされたアズライルの視線を受け、動きを止めた。

これ以上、自分の為に騒ぎを大きくしないで欲しい。

アズライルの視線に込められた思いと、消滅を受け入れた彼女の覚悟を察し、ドビエルは狼狽えた。

もはや人類の存続は決定した。後は自分が黙って消えさえすれば、他に打つ手の無いシステムは、人間も含めた世界の維持

に向かう…。

アズライルは、敗者でありながら勝者でもあった。彼女の願いは成就した。システムは彼女が願った世界を維持して行く。

彼女がいなくなった世界を…。

 だがドビエルは、そこまで大局的な事などではなく、アズライルとジブリール…二人の事に胸を痛めた。

(それでは…、それではジブリールはどうなるのです!?貴方達には、輝かしい未来があったはずなのに…!)

アズライルは軽く目を閉じると、次いでジブリールを見遣った。

「アズ!」

恋人の悲痛な声が、耳と心を震わせる。

そして彼女は笑いかけた。

誰よりも親しく、誰よりも頼りにして、誰よりも愛していた男に、誇り高さと申し訳なさを半々に宿した微笑で。

「…ありがとう…さようなら…」

その言葉が終わらぬ内に、無数の矢が彼女の体を貫いた。

その身に食い込んだ分解プログラムに、生きながら解体させられてゆく耐え難い苦痛にも負けず、誇り高き雪豹は微笑み続

ける。

凍りついたように動きを止め、目を大きく見開き、絶望に染まった顔で自分を見つめている愛しい男に、

(さよう…なら…。愛して…います…)

何度どれだけ伝えても、とても全てを伝え切れなかった愛を込めて、消滅するその瞬間まで微笑み続けた。

「あ…、ああ…、あああああああ…!うわぁあああああああああああああああああああああああああっ!!!」

力を緩めた象と犀を左右へ跳ね飛ばして立ち上がり、むせび泣きながら彼女に駆け寄るジブリールの慟哭が、舞い落ちる雪

とゆるやかな風を震わせる。

しかし、伸ばされた手が触れる寸前で、アズライルは完全に分解され、光の粒子となって宙に散った。