第六十三話 「ミカールの悔恨」(中編)

静まり返った食堂に、ミカールのため息がやけに大きく広がった。

「これが…、アズライルが一度消滅した顛末や…」

ムンカルが、ナキールが、テリエルが、揃って黒豹を見遣る。

流石にショックを受けているようではあったが、しかしアズライルは落ち着いていた。

一度断片的なヴィジョンを見た事もあり、ミカールから聞かされた処刑の様子は、それなりにすんなりと受け入れる事がで

きた。

「平気か?アズライル」

「大丈夫だ」

ミカールの問いに頷くと、アズライルははっきり答えた。

「確かに、少しショックではあったが、…ああ、大丈夫だ…。私は「前の私」の事をあまり知らないし、反発心さえ抱いてい

たが…」

黒豹は一度言葉を切ると、胸に手を当てて小さく頷く。

「…こんな事を言うのはワールドセーバーとして好ましくないだろうが…、少し…、誇り高い気分だ…。…あえて「彼女」と

呼ぶが…、私は彼女に敬意すら覚えた。彼女は間違っていなかったと、そう思う…」

ジブリールの事を愛していただろう事は、痛いほどに判る。

彼と世界のどちらかを選べと言われたなら、自分は世界を取る事ができるだろうか?ジブリールと離れる事を許容できるだ

ろうか?自問したが、とうてい真似できそうになかった。

迷った末に己の幸せよりも世界を取った以前の自分に、アズライルは深い憧憬の念すら覚える。

同じ女として、固定観念に縛られなかった本当のワールドセーバーとして、敵わない強さを持ち得た存在だと…。

「だな…。ミックは怒りそうだが、俺もそう思う」

ムンカルは頷いて同意を示したが、その表情は複雑だった。

確かに真似できない事だとは思うが、残されたジブリールの心情を思えば手放しには賞賛できない。何せ、悲劇は現代まで

続いており、ミカールの話もまだ終わってはいないのだから。

ジブリールがアズライルを失った経緯までは理解できたが、ジブリールとイブリースが分離した経緯と敵対するに至った事

情はまだ謎のまま…。ムンカルはミカールを見つめ、目が合うなり小さく頷いて先を語るよう催促した。

「…続きに行ってもええか?」

ぽってりした丸顔に辛そうな表情を浮かべ、ミカールは一同を見回す。そして、皆が頷いた事を確認してから話し始めた。

史上最大、最悪、最強にして最凶の堕人が生まれたあの瞬間について。

そして、今もなお悔いている、あの時の自分が取った行動について…。



白い世界に、絶叫が響いていた。

舞い散った光の粒子…漂いながら消えて行くアズライルの残滓の中で、跪いた北極熊は天を仰ぎ、垂直に立てた喉から悲痛

な叫びを上げ続けている。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

頬を伝う涙は滂沱となり、顎から胸へと滴り落ちる。

止めどなく溢れる涙に潤んだ薄い紫色の瞳は、白い空を映し、漂う粒子に感光したように光っていた。

「連れて行け」

白い獅子は周囲の管理人達にそう告げると、乱入者達を一瞥した。

ミカール、イスラフィル、ドビエル、ハダニエルの四名は、止められなかった処刑を直に見届ける結果となり、呆然とその

場に立ち尽くしている。

親しい者が反抗者として消滅処分されたのは、全員が初めての経験であった。

耐え難い喪失感と、止められなかった己への失望。動くに動けない四人に向かって、白い獅子は冷徹に、厳かに告げる。

「全員、仮謹慎処分とする。正式な処罰は追って連絡するが、それまでは独房で頭を冷やしておけ」

そして白獅子はジブリールをもう一度見遣ると、小さくため息をついた。

(コレも処分すべきかもしれぬな…。いずれは室長にとも思っていたのだが、どうやら買いかぶっていたようだ。もはや使い

物になるまい)

獅子の胸には強い失望があった。完成品と呼んでも差し支えない、優れた力と人格を持つ北極熊が、ひとりの女にこうまで

乱されるとは思ってもいなかったのである。

自分の後継者として管理室長を任せる日も近いと考え、期待をかけていたのだが、それは叶わなかったと静かにかぶりを振っ

た彼が、退場すべく歩を進め始めた時、異変は生じた。

ぴたりと、叫びが止んだ。白い世界を震わせていた絶叫が。

振り向く獅子。一斉にそちらを見遣る管理人と処刑人。

耳が痛くなる程の静けさの中、ジブリールはそのままの姿勢で凍り付いたように、動きを止めている。

嫌な静けさであった。

嵐の前の…と表現する事すら生ぬるい、水面に薄く張った、今にも割れそうな氷のような…、限界までピンと引かれた、切

れる寸前の糸のような…、不安と緊張を煽る不穏な静けさが、その場に居合わせた者を縛り付ける。

その静寂を破ったのは、ドクン…、という、鼓動のような音だった。

ドクン…。ドクン…。ドクン…。

一定にも思えるその拍動は、徐々に間隔を狭め、やがて早鐘のように連なる。

異常を察して我に返ったミカール達も、静かになった北極熊を見つめる。

ドッドッドッドッドッドッ…。

もはや振動となって白い世界を満たす拍動は、ぴくりとも動かなくなったジブリールの身の内から発せられていた。

その事に皆が一斉に気付いた瞬間、北極熊の背が、バリッと裂けた。

衣を裂いて噴出した純白の光が、白い世界を目映く染める。

彼に架せられた革ベルトの拘束具が、溢れ出す力を抑えきれず、たちまち切れて細切れになる。

皆がたじろいで後退する中で、ジブリールの背から噴き出す光の粒子が、徐々に翼を形作って行った。

六対。計十二枚の輝く翼を。

光が固着して翼が形を整えると、再び静けさが戻る。

拍動は、いつの間にか止んでいた。

十二枚の翼を背に広げたジブリールは、ゆっくりと、ゆっくりと、膝を立て、腰を上げ、体を伸ばし、立ち上がる。

「ジブ…リール…?」

ミカールの口から友の名が零れる。

だがそれは呼びかけではなく、疑問を孕む囁きだった。

静かに立ち上がった彼が、自分が良く知る古馴染みとは何処か違っているような気がしている。

姿は同じなのに、中身が変質しているような気がしている。

そしてその違和感は、当たっていた。

ゆっくり振り向いたジブリールが、首を回して一同を見回す。

表情の無い顔の中で、真っ赤に変色した双眸が、禍々しい、焼け付くような赤光を放っていた。

「…ジブリール…?」

白獅子が戸惑うように口を開いたその直後、北極熊はゆっくりと翼を広げ、軽く煽った。

途端にパールホワイトの光の粒子が渦を巻いて荒れ狂い、ジブリールを捕らえに入ったまま異常に気付いて硬直し、遠巻き

に囲んでいた管理人達が吹き飛んだ。

静寂の世界は、一転して嵐に見舞われた。

「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!あるるるるるるるるるるるっ!」

咆吼するジブリール。同じ声でありながら、それは以前の彼の声とは根本的に違っていた。

深い憎しみと、焼けるような怒りと、例えようもない禍々しさを孕んだその咆吼に、全員が心臓を鷲掴みにされたような衝

撃を受ける。

それは産声。

最強にして最凶、史上最大最悪の堕人が上げた、誕生の第一声であった。

獅子はジブリールが発狂した事をいち早く察知し、さっと手を上げて指示を下す。

「総員攻撃開始!手加減無用!何としても鎮圧せよ!」

獅子は察した。堕ちて理性が弾け飛んだジブリールが、同時に力の枷すら無くした事を。

そして、彼がかつてない脅威となって、自分達に牙を剥こうとしている事を。

獅子の命に従って、一度は吹き飛ばされた管理人達が体勢を立て直し、一斉に飛びかかる。だが…。

「るあああああああぁぁぁおおおおおおおおぉぉぉっ!あるるるるっ!」

吠えるジブリールの間近に寄っただけで、パッと、光の粒子になって散ってしまった。

「な…?」

呆然とする白獅子は気付かなかったが、ミカールは何が起きたか察していた。

「分解や…!下手に寄るんやない!存在そのものを分解吸収されてまうっ!」

暴走するジブリールの固有能力…、攻防一体の優れた能力と称された彼の力は、無意識下に加えられていた抑制を失い、そ

の凶暴にして凶悪な真の性能を発揮する。

分解し、吸収し、己のエネルギーとする…。今やその対象範囲はエネルギーやプログラムだけではない。同胞の存在そのも

のにまで作用する程になっていた。

もはやそれは共食いであった。そして、あまりにも一方的な搾取でもあった。

だが、分解されない者も居る。白い象と黒い犀のオーバースペック二名は、管理人達が分解されたデッドラインを踏み越え、

ジブリールに肉薄していた。

象が両手を広げて上から押さえ込むように躍りかかり、体勢を低くした犀が腰めがけてタックルを試みる。

押さえ込んでしまえば何とかなる。そう考えたのだが、結論から言えば彼らの攻撃は失敗した。

象の頭が仰け反り、巨体が浮き上がる。長い鼻ごと右のアッパーカットで顎を叩かれて。

犀が顔から地面に突っ込む。頭部に左拳を落とされて。

「あるるああああぁっ!あるるるるるるるっ!」

炯々とした赤い瞳で犀を見下ろしたジブリールは、その左足を振り上げ、無造作に踏み下ろした。

犀の体は地面に突っ伏したままビクンと跳ねる。いとも容易く踏み砕かれた頭部が、完全に潰れて。

一片の容赦も、僅かな慈悲も、毛ほどの躊躇いもなく、ジブリールは同胞を殺めた。

その光景がミカール達に認識させる。

もはやアレは、自分達が知る気の良い熊ではないのだという事を…。

「るぁおおおおおおおおおおっ!あるるるるっ!」

素早く身を捻ったジブリールは、ぐっと体を縮め、地を蹴った。

一瞬でトップスピードに至ったパールホワイトの体が、殴り上げられて宙に舞った象と接触する。

直後、ぶつかられた象の胴体が粉々に砕け割れた。

自らの体躯を砲弾の如く叩き付けるという単純な攻撃ではあったが、それだけで、象の体はバラバラに粉砕されてしまった。

腕や足があちこちに飛び散る中、高速突進から一転して宙で急停止したジブリールは、振り向きざまに豪腕を振るう。

その拳で、何が起こったかも判らぬままキリキリと回転していた象の頭部が爆砕された。

「るおおおおおっ!あるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるっ!」

ジブリールは殺めた同胞達を分解吸収してさらに力を増し、禍々しい咆吼を上げながら翼を広げて飛翔。次なる獲物…浮き

足立っている処刑人達に襲いかかった。

「どうやら、レベルが違い過ぎると傍に寄るだけで分解されてしまうようですね…。オーバースペック級の確固たる存在力が

無ければ近付く事すらできない。無論、大半の攻撃も分解されて無効化されるでしょう」

ドビエルは己の考察を仲間に伝えつつ、開いた両手に力をかき集めた。

普段通り冷静に見えるが、取り乱してはならないと己を律し、かろうじて己を保っている。

手の中に形成されつつある二つのそれは、球体状に固めたブラスト弾であった。

「わたくしとハダニエルの力は非自然現象そのものであり、既存のエネルギーとは少々違います。分解の影響は受けません。

おそらく今も有効でしょう」

「なるほど。おいら達の力はまだ届くか…。しかしぞっとしないねぇ。あの白い嵐の中に飛び込むってのは…」

ハダニエルはブルルッと胴震いしながらも、両の腕に空間歪曲現象を纏わせる。

正直気が乗らない。危険な相手という事もあるが、ああなってしまっても友人。戦いたくはなかった。

何より、発狂してしまう程の心の痛みを味わった彼に、深く同情している。

自身は経験が無いものの、ドビエルとイスラフィル、黒獅子と白い雌牛など、恋人関係にある同胞にあれこれ世話を焼いて

きたハダニエルは、恋愛感情という物をそれなりに理解していた。

アズライルを処刑された事でジブリールが味わった、身を裂かれるような喪失感がどれほどの物なのかは、痛いほど判る。

「あたしのはちょいと厳しいかねぇ…」

「確証はありませんが、「歌」はまずいかもしれません。これ以上力をつけられると勝ち目が無くなります」

イスラフィルはドビエルの言葉に頷くと、「じゃあサポートに徹するさ…」と呟き、拳を固めて胸の前でガツンと打ち合わ

せた。

「界面破壊で牽制してみる。移動の制限と目眩ましにはなるだろうからね。上手く近付きなよ?…特にハダニエル。あんた鈍

重なんだから」

「へいへい…」

顔を顰めて応じたハダニエルは、黙りこくっているミカールを見遣った。

「無理しなくて良いぞ、ミカール…。混ざる必要は無いさ」

優しいを通り越して甘いとすら言える犀の提案にも、ミカールは応じない。

ただ黙って、じっとジブリールを眺めている。何かに葛藤しているように瞳を揺らしながら。

ハダニエルはそれ以上何も言わず、「さて、やってみるか!」と、自分を奮い立たせるように声を上げた。



「結果から言うと…、酷いもんやった…」

ミカールは呟く。視線をテーブルの上で組んだ手に注ぎながら。

「ドビエルとハダニエル…、今は管理人の長と本部の支配人になっとる二人が、イスラフィルのサポートを貰いながら纏めて

かかっても、全く歯が立たんかった…」

「再現映像で見ただけじゃが…」

テリエルは顎を撫でながら渋い顔をする。

「あれは「どうしようもない」のぅ…。手当たり次第に分解吸収し、際限なく力を増して行くジブリールは、正に、手に負え

ん怪物そのものじゃった」

「…ジブリールが…、仲間を…?あのジブリールが…?」

アズライルは顔を伏せ、信じられないと言った様子で呟いた。

己の前身の最期を聞かされた時ですら落ち着いていた黒豹は、今度こそショックを受けている。

見かねた猪は、気遣うように口を挟んだ。

「あれはジブリールとは別物じゃ。アイツの心なんぞ微塵も持っとらんかったからのぉ…」

「…で…」

黙っていたムンカルは、先が気になって仕方がない様子でミカールを見遣った。

「本部のクッキーモンスターがどんなモンか俺は知らねぇが…、先生と姐御の化物具合は良く知ってる。あの二人が敵わねぇ

なんて想像するのも難しいけどよ…、それでも旦那には歯が立たなかったんだろ?なら誰が、どうやって止めたんだ?」

「それは自分も気になっている。マリクは当事者だったにも関わらず、あの件について口をつぐんでおられ、詳細を教えては

下さらなかったのでね」

珍しく興味を引かれているらしく、ナキールも少し身を乗り出しながら同調した。

ミカールは目を伏せたまま、静かに口を開く。

「ワシがやったんや…。不意打ち仕掛けてな…」



白い世界は、あちこちでひび割れ、欠けていた。

イスラフィルが手当たり次第に界面破壊を行ったせいもあるが、損傷の大半はジブリールとオーバースペック達の戦闘に耐

えられなくなり、崩壊した結果である。

処刑場の景色が欠け落ちてできた穴の一部は、地上…現実空間と繋がっており、早急に修復しなければどんな影響を与えて

しまうか判らない。

「ぐくっ…!」

俯せに倒れ伏した灰色熊は、震える右腕を前に伸ばす。

その先には、北極熊に頭部を鷲掴みにされた白獅子の姿。

「し、室長…!」

仰向けに倒れたまま指一本動かせない有様で、犀が声を漏らした。

ハダニエルは右腕を根本から失っており、両足の膝下から先が無くなっている。

ドビエルは無数の白い手槍によって地面に縫い止められ、肩を貫かれた右腕がかろうじて動かせるだけであった。

イスラフィルは横倒しになったままピクリとも動かない。妨害する彼女を鬱陶しく感じたらしいジブリールは、肉弾戦も得

意な黒い雌牛をも瞬時に制圧し、首をへし折っていた。

精神論ではなく、もはや機能的に動けないイスラフィルは、悔し涙すら浮かべて「畜生…。畜生…!」と、か細い声で繰り

返す。

顔面を鷲掴みにされ、宙吊りにされた白獅子は、太い指の隙間からジブリールを見つめる。

恐怖の色に染まったその目をじっと見つめ、北極熊は口元を歪めた。

その笑みは、ドビエル達に衝撃を与えた。

ここまで邪悪で、ここまで禍々しい、底なしの暗い悪意に満ちた笑みが、この男の顔に浮かんだ事が信じられなかった。

ようやく最も憎悪する対象を見つけ、ジブリールは嗤う。嗤う。嗤う。

声もなく、ただ静かに、表情と呼吸音だけで嗤う。

ここまで相手をほぼ瞬殺して来たにもかかわらず、彼は白獅子を同じように消そうとはしなかった。

その悪意に満ちた狙いを感じ取り、白獅子は懇願した。

「じ、ジブリール…!待つのだ…!悪かった…!儂が間違っていた…!この通り謝罪しよう!過ちを認めよう…!」

白獅子の声を無視し、ジブリールは嗤いながら手を伸ばす。

そして、白獅子の右腕を掴むなり、無造作に引っ張った。

「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

凄まじい絶叫が白獅子の口から上がる。

根本からもぎ取った彼の腕を、ジブリールは地面に投げ捨てた。そして今度は脇腹を掴む。

「や、止めろっ!止めてくれっ!や…ぐわあああああああああああああああっ!」

脇腹に太い指がブツッと食い込み、ごっそりと毟り取る。

ジブリールには、白獅子をあっさり消してしまうつもりなど無かった。

面白いおもちゃを見つけた子供のように、手の中にある憎悪のはけ口に夢中になっている。

その禍々しい歓喜の波動に、ドビエルが、ハダニエルが、その光景を正視できなくなって目を逸らした。

「ゆ、赦そうっ!お前の事も、彼女の事も…!そ、そうだ!アザゼルの堕人指定も取り消そう!名誉の回復を約束する!だ、

だから…」

「…アザ…ゼル…?」

初めて言葉を漏らしたジブリールの手が、ほんの少し力を弱めた。

効果ありと踏んだ白獅子は、恥も外聞も無く、媚びすら含んだ猫なで声でジブリールにもちかける。

「そ、そうとも…!取り消そう!それだけではない!彼女の行為を功績として認め…」

「…ぶな…」

「…え…?」

白獅子は言葉を切る。ジブリールの手に力が籠もったせいで。

「…呼ぶな…」

「ぐっ!あっ!あっ!あがぁっ!」

メキメキと音を立て、ジブリールの指が獅子の頭に食い込む。

「アズを…そんな名で呼ぶな…!」

一時だけ明朗な響きが戻ったその言葉と共に、白獅子の頭部が潰れた。

「あるるるるるるるるるるおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

頭部をトマトのように潰された獅子を地面に叩き付け、ジブリールは吠える。

復讐の最中は衝動によって誤魔化していた耐え難い喪失感が、今ようやく蘇っていた。

白獅子の亡骸の胸を踏み砕き、肩を潰し、足をひしゃげさせ、原型を留めぬまでに破壊しながら、ジブリールは吠え続ける。

もはや彼は嗤ってなどいなかった。

哭いている。

啼いている。

泣いている。

赤く染まった双眸から、真っ赤な涙が流れ落ちていた。

「あるるっ!あるるるるるぅっ!るおおおおおおおおおおおおおおおっ!るおぉぉぉぉぉおおおおおおおっ!!!」

長く尾を引くその咆吼は、聞く者の胸を鷲掴みにするような深い悲哀に満ちていた。

白獅子の体を破壊し尽くし、もはや細かな残骸となったにもかかわらず地面に拳を打ち付け続け、北極熊は狂ったように叫

びを上げ続ける。

怨嗟の声を。哀しみの咆吼を。

終末が訪れたように破壊された、白い世界の中で、しかし吠えるジブリールは気付いていない。

レモンイエローの獅子の姿が、しばらく前から消えている事には。

そしてその事が、世界の崩壊を食い止める一手となった。

吠え続けていたジブリールの声は、やがて小さくなり始め、止んだ。

その顔がゆっくりと巡らされ、破れた界面の向こう…、地上の景色に吸い寄せられる。そこめがけて流れて行く白い粒子に。

同胞達をも食い尽くす狂った北極熊は、アズライルの残滓だけは吸収しなかった。

その雪豹の成れの果て…名残雪が、地上へと流出して行く…。

「…ア…ズ…」

ゆっくりと立ち上がったジブリールは、導かれるようにして界面の穴に歩み寄った。

「ア…ズぅ…!アズ…!ア…」

求めるように両手を前に出し、ガラスにあいた穴のような歪な境界に近付いて行く彼は、

「…!」

界面の割れ目の向こう、見えない位置に身を潜めていたレモンイエローの獅子が飛び出すと、赤い双眸を見開いた。

童顔の獅子が手にしているのは、幾重もの防御無効プログラムが凝縮、固着された巨大な剣。その芯に込められているのは、

彼自身の固有能力である。

咄嗟に迎撃しようとしたジブリールは、しかしその手を前に翳し、同胞達をたらふく食らって得たエネルギーの一部を放出

しようとした所で、動きを止めた。

アズライルの残滓が、ミカールが居る境界めがけて流れてゆく。

そこへ力を叩き付ける事は、彼女自身に牙を剥く行為のように感じられて、ジブリールは躊躇した。

それは、本能よりも深く、思考よりは曖昧な何かがもたらした、一瞬の迷い…。

「でやああああぁっ!」

我慢に我慢を重ねて、より高確率で一撃を加えられる機会を待っていたミカールは、好機を逃さず攻め込んだ。

背から溢れるエネルギーを、もはや翼ではなく奔流そのものとして後方へ放出。弾かれるように前へ撃ち出されたレモンイ

エローの丸い体は、パールホワイトの巨体に激突する。

「…………!」

目を見開いたジブリールの体は、その中央をミカールの巨剣で貫かれていた。

懐へ飛び込む形になったミカールは、きつく目を閉じながら、苦悶の表情を浮かべる。

「…済まん…。ジブリール…!」

見開かれたジブリールの目は、いつの間にか空色に変わっていた。

そして、その身を貫いた巨大な剣の切っ先は、彼の中からある物を突き出し、分離させている。

ジブリールの後方では、全く同じ姿の北極熊が、白い地面に仰向けに倒れていた。

天を見上げる焦点の定まらないその瞳は、赤。

ミカールはジブリールの体から剣を引き抜くと、素早くその脇を駆け抜け、上体をぐんっと回して鬣を伸ばし、もう一頭の

北極熊を押し包む形で緊縛した。

そして、強制分割されたショックに囚われている彼を、金色の鬣ごと巨大な剣で地面へ串刺しにし、縫い止める。

惚けたような顔をしている赤い目の北極熊は、苦痛を覚えなかった事もあり、表情を変えない。

剣から能力をパージし、防壁無効化プログラムを反転させて拘束プログラムに変化させる事で機能を切り換えたミカールは、

ふっと息を漏らし、青い瞳の北極熊を振り返った。

「ミカール…。オレは…」

呆然としているジブリールの中から憎悪が消えている事を感じ取ると、ミカールは安堵しつつも項垂れた。

「…済まん…。ジブリール…」

ミカールは悔やんだ。

これしか手は無かったとはいえ、とんでもない事をしてしまった、と…。