第六十四話 「ミカールの悔恨」(後編)
「…これで解ったやろ?ジブリールとイブリースは、元は一人のワールドセーバーやった…」
ミカールは話の締めくくりに呟いた。
だが、静かな声とは裏腹に、握り締めた拳はわなわなと震えている。
己への怒りと、後悔によって。
発狂したジブリールから憎悪を取り除き、正気に戻す…。
それは、もしかしたらできるかもしれないという程度の、成功があまり期待できない賭けであった。
だが、結果としてミカールは賭けに半分勝ち、半分負けた。
彼の中から憎悪を追い出すその時に、ジブリールの魂と力も分割してしまったのである。
強過ぎる憎悪と悪意と悲哀の根っ子には、アズライルへの想いがあった。
故に、それに引き摺られる形で魂の半分が、そしてさらにそれに引っ張られて力の半分が、一緒に出て行ってしまったので
ある。
「憎しみに引っ張られて、ジブリールはアズライルへの恋愛感情も持って行かれたんや…。アズライルへの恋心は切り離され
た側に、思慕の情は本体に残った…。怒りはあっちに、哀しみはこっちに…、憎しみはあっちに、優しさはこっちに…、半分
ずつの欠落を持って、あの時二人は生まれ直した…。ジブリールがアズライルの気持ちにちっとも気付いてやれへんかったん
は、親愛の情は残っとっても、恋愛感情は失ってもうたからなんや…。鈍感だっただけやなく、そういう事情もあったから、
なかなか芽生えへんかった…」
一度言葉を切ったミカールは、俯いたまま肩と声を震わせた。
「そして…、ジブリールとイブリースは拘束され、厳戒態勢の中で投獄された…」
ミカールの昔語りが佳境に入った事を悟り、ムンカルが、ナキールが、アズライルが、黙したまま視線を注ぐ。
テリエルは物憂げに目を細め、顎の下をしきりに撫でていた。
当時の上層部が軒並み消滅し、隕石が落ちなかった事で因果が乱れ、人的にもシステム的にも大打撃を受けた直後の日々を
思い出しながら…。
太い木に寄りかかり、地面に腰を下ろして、その北極熊は空色の瞳を地平線に向けていた。
その太い両手両脚には鉄の輪が填められており、そこから繋がる長い鎖が、大木の幹に幾重にも巻き付けられている。
狭い範囲だけは立って歩き回る事ができるが、戒めの鎖によってこの場から離れる事はできないようにされている。
背の低い草が生い茂ったその平原には、下生えの緑と一本の大木以外に何も無い。
無限の広がりを持つ、厳重に隔離された異層…。それが、今彼が投獄されているこの場所である。
ジブリールが分割されて生まれた二人は、別々に幽閉されている。
どちらも「ジブリール」では紛らわしいので、落ち着いていた頃のオリジナルの性質を強く残した青い瞳の方は「ベース・
ジブリール」。一方、切り離される形で発生した、狂気に染まって心が壊れた赤い瞳の方は「パージ・ジブリール」と、便宜
上呼称されていた。
「ジブリール」
突然響いた声に首を巡らせた北極熊は、いつの間にか姿を現していたレモンイエローの獅子に微笑みかける。
「やあ、ミカール」
童顔で背の低い太った獅子は、視線を地面に向けながらのろのろと歩み寄った。
「また来てくれたんだね。仕事の方は大丈夫なのかい?」
「ぼちぼち…やな」
応じたミカールはジブリールの隣に腰を下ろした。が、友の顔を見ようとはしない。
「随分疲れているね?忙しいんだろうから、無理に時間を作ってまで会いに来てくれなくともいいよ。自分の事を一番に考え
た方が良い」
ジブリールはそのように気遣ったが、ミカールは黙したまま答えない。
変わってしまった友と顔を合わせる度に、自分の行いを悔いている。
以前と同じ穏やかな口調と表情だったが、ジブリールは変わってしまっていた。
物足りない…とも感じている。
以前にも増して穏やか過ぎ、おとなし過ぎるのだ。
激しい物が完全に失せたジブリールの精神は、凪いだ海のようにのっぺりと平面化している。
アズライルを失った事を哀しみながらも、しかし泣き叫ばない。
アズライルが居ない事を寂しがりながら、しかし乱れはしない。
穏やかに微笑むばかりの友を、ミカールは、まるで抜け殻になってしまったようだと感じている。
ミカールが黙り込んでいる事を疲れているからだと判断し、ジブリールはまた口を閉ざして地平線を見遣った。
どれだけ時間が経っても変わる事が無い、永遠の昼間…。その中でジブリールはただ、時が過ぎるのを待っている。
待った先に何がある訳でもなく、待つ以外にする事が無いので、ただただ時が流れるのを感じながら過ごしている。
訪れたミカールにしても、話す事など何も無い。
投獄から一年が過ぎ、話すべき事は全て話し、詫びるべき事は全て詫びた。
それでもジブリールは、何故詫びられているのかが良く判っていないようだった。
分離されて失われた恋慕などの感覚などは、元から持ち合わせていなかったかのように、今の彼には実感できない物となっ
ている。
ジブリールの解放予定は未だに無い。
彼がもたらした大災厄により多くの人員が失われた事もあって、危険視した者達からは永久に隔離しておくべきとの意見ま
で出ている。
ミカールやドビエルなど、今のジブリールと面会している者達は、牙が抜けた彼に危険性は無いとして解放と復職を訴えて
いる。
別に隔離されているもう一人のジブリールは危険だが、ベースである彼の方はもう問題無いのだと…。
だが、暴走状態のジブリールがもたらした大破壊により皆が受けた不信と恐怖、そして危機感は根強く、その意見はなかな
か通らなかった。
友は一体いつまでこうして束縛され続けるのか?ミカールの胸中は穏やかではない。小雨がぱらつき続ける薄曇りの空のよ
うに、いつまで経ってもシクシク痛み続ける。
自分達とは規模が違う欠落を抱え、深い愛情も狂おしい熱情も忘れ去り、閉じこめられながらも穏やかに過ごしているジブ
リールの姿は、痛々し過ぎて正視し難い物だった。
だが、話す事も無く、してやれる事も無いのにこうしてジブリールと面会するのは、ミカールなりの罪滅ぼしでもあった。
しでかした失敗を忘れないよう、壊れてしまったジブリールを見続ける事が、彼が自分に架した罰であり、贖罪でもある。
その懺悔にも近い二人きりの時間と静寂は、この日に限って幾ばくも経たない内に破られた。
「ミカールさん!」
その慌てた声は、転送の気配と同時に捉えられた。
首を巡らせたミカールとジブリールに、大柄で太り気味なシャチは直立不動で会釈する。
ジブリールを見て一瞬痛ましげな表情を浮かべたシャチは、
「どないしたんやネビル?」
そうミカールが訊ねるなり、一転して表情を硬くした。
「あ、アスモデルさんと、イシュタルさんが…!」
黒い獅子と白い雌牛の顔を思い浮かべたミカールは、
「り、離反宣言をして、飛び出して行かれました…!」
「何やて!?」
腰を浮かせたミカールに、ネビルは泣き出しそうに顔を歪めながら事情を説明する。
それは、ほんの数分前の出来事だった。
人間が滅ばずに歴史が紡がれる事により、これまでに彼らが予測していた物とは大幅に異なった未来が訪れようとしている。
その詳細を約一年掛けて演算した本部システムは、徐々に、しかし確実に、地上に生きる生物…その幾多の種が絶滅してゆ
く事を割り出した。
しかもその少なくない数が、人間が直接、あるいは間接的に関与して引き起こされる絶滅だったのである。
この予測が判明したのが十数日前の事。それからは黒獅子を筆頭に、多くのワールドセーバーが人間の排除を訴え始めた。
だが、当然それを良しと取らない者も居る。議論は平行線を辿り、管理人アスモデルは早々に議論による解決を放棄する意
向を固めていた。
そして水面下で着々と準備を進め、ようやく迎えた。
それぞれアスモデウス、アシュターと名乗り、同志を伴い、堕人として大量離反するこの日を…。
「お二人を含む総勢107名が、一斉に離反しました…!一人として残さず、人間という種を根絶すると言って…!」
ネビルの報告を受け、ミカールは言葉を失う。
黒獅子は前々から頑固で融通か利かない所があり、イコンを持たない人間に対しても冷淡だったが、まさかここまでの強硬
手段を選ぶとは思ってもいなかった。
「…今、皆が集まって対策について話し合っています…。既に先遣隊は出ましたが、急な編成だったから規模は小さくて…」
ネビルはミカールを見つめる。縋るような目で。
「…どうしたら…、良いんですか…?仲間同士で争う事になるんですか?これから…!」
ネビルがアスモデルやイシュタルを慕っている事は、ミカールも知っている。
地上の監視を役職とし、動植物や自然現象について造詣が深く、何よりそれらを深く愛している二人は、地上に憧れを抱き
ながらもデスクワークに明け暮れ、本部から出られないネビルにとって、目映いほどの畏敬の対象となっていた。
ゆくゆくはあの二人のように地上を飛び、自分の目でその素晴らしい世界を見てみたいと思っているネビルは、彼らによく
話をせがんでいた。
だが今、彼の心は揺れている。
尊敬していた、憧れを抱いていた、眩しかった二人が、自らシステムと決別する道を選んだ。
それは、地上を、自然を、愛するが故の行いなのではないか?
だとすれば、間違っているのは彼らではなく、今のシステムなのではないのか?
答えを求め、不安がり、自分に縋るネビルの視線に、問いかけに、ミカールは答えられなかった。
この時は彼自身も判らなかったのだ。
アズライルがああまでして選んだ未来は、本当に正しかったのか?
そんな疑問は彼女と親しかった童顔の獅子でさえ、あれからずっと抱き続けている。
答えに窮したミカールは、後輩に答える事無く足を踏み出した。
また友と争う事になる。その覚悟を固めて。
(何が正しいのかは、ワシにもまだ判らへん…。けど、もし今人間が滅ぼされでもしたら全部無駄になってまう!アズライル
は何のために体を張ったんや!?ジブリールは何で色んなモンを失ったんや!?ワシは…、何のために親友に剣を突き立てた
んや…!?)
ミカールの鬣が、闘志に呼応するようにざわりと揺れ、伸びる。
それを見たネビルは、哀しげに目を伏せた。
(誰が間違っているんだ…?何が正しいんだ…?譲れないほど大切な物は、誰だって持っているはずなのに…。どうしてそれ
を潰し合わなければいけないんだ…?)
大切な物があるからこそ、譲れない物があるからこそ、時には奪い合い、潰し合い、争わなければならなくなる事が、まだ
純粋過ぎるネビルには理解できなかった。
ミカールが脇を通り過ぎ、迷いを抱えながらもネビルがそれを追う形で踵を返したその時、二人は背中で聞いた。
パキンッ…と、静かで軽い、何かが割れるような音を。
振り向き、そして絶句する二人を、静かに立ち上がり、鎖を引き千切った北極熊が見つめる。
「オレも行くよ。アズが遺した「子供達」を、見殺しにはできない」
「ジブリール…、お前…!?」
あっさり千切られた鎖の残骸を見つめ、ミカールは口元をわななかせた。
ジブリールは、その気になればいつでも脱出できた。
罰を受けるつもりで、鎖を切らないよう気を付けながらおとなしくしていただけで、強靱なはずの枷すらも、彼を真の意味
では束縛できていなかった。
「アホぬかせ!立場が悪くなってまうやろ!?」
「けれど、このままだとアスモデル達は本当に人間を滅ぼしてしまう。彼はやるとなったら徹底的だ。イシュタルも一緒なら
計画に不備も無いだろうしね。防ぐには、一人でも多くの手が必要だ」
淡々と述べたジブリールは、怒っているような顔のミカールに微笑みかけた。
「覚悟はしているよ。この件が終わったら消滅処分も受け入れよう。…ごめん、ミカール…」
その、あまりにも透明過ぎる、殉教者の笑みを目にし、ミカールは牙を噛み締めた。
ジブリールは、アズライルが遺した物を守り、そして消える事を願っている…。
存在し続ける事に執着する意味を、彼はもう何一つ持ち合わせてはいなかった。
無言で踵を返したミカールは、「急ぐで」と、短く声をかける。
これに「ありがとう」と応じ、ジブリールは友の後を追った。
その後ろを、迷いながらもネビルはついて行く。
かくして、アスモデウス率いる地上解放派と、現行システム側の、最初の衝突が始まった。
だがこの時、ミカールは失念していた。
半分になったジブリールが束縛を解く事ができた。となれば、もう一方もまた…。
「るるるっ…!るるるるるるっ…!」
荒野の真ん中に立つ太い石柱に、赤い瞳の北極熊は縛り付けられていた。
空色の瞳の北極熊とは違い、全身を石柱ごと太い鎖で隙間無く巻かれて。
「るるっ!るるるあぉっ!」
分割されたジブリールの一方は、口の端から泡と涎を飛ばしながら、目の前に立つその男を威嚇している。
賢しげな顔付きの黒いフクロウは、狂った熊を間近で見ながら思案に暮れていた。
これからしようとしている事は本当に正しいのか?と自問しているのだ。
状態が一向に改善されず、未だに意思疎通すらできない有様の、人格崩壊を起こしているジブリールの片割れに対し、シス
テムの臨時上層部はある試作プログラムの使用を決定した。
それは、後に執行人を作る為に利用される事になるプログラムのプロトタイプとも言える物である。
これを投与すれば、命令には盲目的に従うようになるが、記憶も自我も破壊されて人形のようになってしまう。
元々のジブリールと、落ち着いている側の片割れの状態を知っているフクロウは、決定事項とはいえ、このプログラムを投
与する事に抵抗を感じていた。
時間さえかければ、この北極熊も落ち着きを得て、意思疎通ができるようになるのではないか?
そんな彼の迷いを焦れったく感じ、同席していた黒面の羊は声をかける。
「室長、お早く」
「…判っているとも…」
部下の声に押され、フクロウはプログラム注入デバイスを握り、緊縛されている北極熊に一歩近付いた。
「済まないね…。ジブリール君…」
手で触れられるほど近くに立って一言詫び、鎖の隙間に注射器のようなデバイスの先端を刺し入れようとしたその時、
「…ふっ…!」
笑ったような息遣いを、当時の技術開発室責任者は耳にした。
デバイスから目を離し、大きな北極熊の頭部へと視線を向けたフクロウは、彼が嗤っている事に気付く。
まだ意思がある?
一瞬そう感じ、こんな手段を使う事も無いのではないかと、自分の予感は正しかったと、こちらの片割れも元のようになれ
ると、期待に表情を明るくしたフクロウは、バギンッという金属的な音と、
「室っ…?」
部下のそんな声を耳にしたのを最後に、意識を永久に失った。
瞬時に鎖を引き千切り、両腕で抱え込む形でフクロウを捕らえた北極熊は、その首に牙を立ててかぶりつき、一瞬でへし折っ
ていた。
期待に輝かせた賢明そうな顔はそのままに、フクロウは刹那にも満たない一瞬で活動を停止させられている。
その体を抱いたまま、首から口を離した北極熊は、狂気に染まった禍々しい哄笑を発した。
「くはっ!くはっ!くはっくはっ!」
フクロウの体は煌めく粒子となって弾けるように散り、北極熊に吸収される。
一瞬の暴虐。刹那の略奪。目の当たりにした凶行に衝撃を受け、黒面の羊は恐怖のあまり動く事も、声を発する事すらもで
きない。
狂ってはいても、北極熊は冷静だった。
この時をじっと待っていた。自分から失われた物…、理知的に物事を捉え、分析する力を、どうにかして得る時を…。
白い巨躯にまとわりつく鎖を弾き散らし、北極熊は一歩踏み出す。
そして、技術開発室長から得た英知と分析力を持ち、狂おしい激情を押さえ、明確に状況を分析、把握しつつ、自分を閉じ
こめている世界を見回した。
「…なるほど…。このフォーマットは風変わりだね。ボク一人を閉じこめる為に誂えた専用空間というわけか」
黒面の羊は、その言葉を聞いて寒気を感じた。
声こそ違っているが、北極熊の口ぶりや発音の癖は、完全にフクロウのソレだったのである。
そして北極熊は、フクロウがなぜこの局面で自分にあのプログラムを使おうとしたのかを、吸収した記憶から察した。
「大量離反か…。それでボクを手駒にしようとしたんだね?けれど、緊急措置にしては博打要素が強過ぎる。投与でいていた
としても上手くコントロールできる保証もないんだから、ボクだったら絶対にやらない。…どうやら今の上層部にはまともな
人材が不足しているらしいね。こっちにとっては好都合だけど」
顎に手を当てて考え込む北極熊は、先程までとは打って変わって、非常に冷静で理知的に見えた。その仕草までが吸収され
たフクロウのソレと似通っている。
そしてその事を、北極熊も自認していた。
(分解してエネルギー化せず、記憶や知識をそのまま吸収する行為は危険を伴うようだね。今はまだ大丈夫だけれど、繰り返
していけば流入した多数の記憶や思考パターンで「ボク自身」が薄れて行く可能性がある。今回は必要だったから仕方がなかっ
たけれど、今後は使わないようにしよう)
狂気を理性と知識でデコレーションした北極熊は、完全だった頃と同様の冷静な思考を得る事ができた。
そして、得たばかりの賢明さは、すぐさま今後の行動方針を弾き出す。
(あの時、アズの残滓は処刑場から地上へ流出して行った…。かき集める事ができれば復元できる可能性もある…。目指すは
地上だね。幸いにもシステム側は流出に気付いていないようだし、目的を悟られないよう、身を隠しながらアズの残滓を探し
集めよう…)
大量離反で混乱中の今は、ここから抜け出す絶好の機会だった。
北極熊は右足を大きく上げ、勢い良く下ろしてズシンと地面を踏み締める。
それだけで空間が崩落し、ぽっかりと空いた穴の向こうに本部の廊下が見えた。
そこから抜け出そうとした北極熊は、思い出したように黒面の羊を見遣る。
恐怖で動けない彼は、始末されるのではないかと気が気でなかったが、北極熊はさして興味も無さそうに、すぐさま目を離
し、足下の穴に飛び降りた。
北極熊の姿が消えて少しすると、黒面の羊はへなへなとその場に崩れ落ちる。
その手が、わなわなと震え出した。
目の前で室長を消滅させられたショックもあるが、それ以上に、見逃されたという安堵感と、安堵している自分への失望、
そして歯牙にもかけられなかった屈辱感が、黒面の羊を満たしていた。
この時の事を、彼は決して忘れる事は無かった。
そしてこの時のトラウマが、やがて彼を権力欲に駆り立てていく。
認められたい、認めさせたい、軽く見られたくないというその衝動は、彼を室長という立場にまで押し上げる事になるのだ
が…。
ミカールが無許可のままジブリールを伴って出撃し、大量離反者の阻止に向かった事が発覚し、本部は混乱していた。
こんな状況で手薄になる場所は、フクロウの記憶を手繰れば得られる。
赤い瞳の北極熊は非常用搬送路を利用し、誰にも見咎められる事なく、悠々と本部内を行く。
主に物資送達用に使われる転送ゲートが研究区画にある事が判ったので、騒ぎをそっちのけで静かな方へと進む格好になっ
ていた。
そして北極熊は、ある扉を押し開ける。
ラボ深部に通じるその扉の向こうには、大勢の研究員がおり、
「ひっ!?」
北極熊の姿を確認するなり、全員が逃げ惑った。
「別に取って食いはしないんだけれどね。食べたばかりでお腹も減っていないし」
蜘蛛の子を散らすように研究員が居なくなった室内を、北極熊はのんびりしているとすらいえる遅い足取りで歩き抜けた。
その目が、奥に並ぶ五つの扉の一つを見つめる。
発生したばかりのワールドセーバーがそこに居る事を、北極熊は知っていた。
単純な興味で扉に歩み寄り、押し開けた北極熊は、
「おいおい。まだ作業中だぞー?…と言っても今リンクテスト終わったトコだけど。急に騒がしくなったと思ったらノックも
無しに開けるなんて、一体どうしたんだ?まさかお呼びがかかった訳じゃないだろなー?」
極めて大柄な犀は、一糸纏わぬ姿の雪豹の体から計器を外しつつ振り返り、
「!?」
かつての友と同じ姿をしている北極熊を瞳に映し、絶句した。
「やあハダニエル、しばらくだね」
北極熊は物憂げな無表情で語りかける。
しかしその言動が、穏やかながらも異質な何かを孕んでいる事を、ハダニエルは瞬時に察していた。
「…こんにちは…」
生まれたばかりでまだ自我が薄く、夢見心地のような状態にある雪豹が、ハダニエルの警戒と混乱、緊張に気付かずにお辞
儀する。
「これはどうもご丁寧に。初めまして若い同胞」
北極熊も慇懃に頭を下げる。が、
「ラミエル君、下がって」
巨漢の犀は硬い声音で告げながら、生まれたばかりの若きワールドセーバーを背後に庇い、北極熊を睨み付けた。
「…どうやって抜け出したっ!?」
「「どう」って、それはまぁ普通にね」
答えになっていない答えを返し、北極熊は踵を返す。
「邪魔してごめんね。旅立つ前に、昔馴染みの一人くらいには挨拶しておこうと思ったんだ。それじゃあね、ハダニエル」
「ま、待てジブリール!何をする気だ!?」
相手はジブリールの片割れの、まともではなかった赤い瞳の方…。完全に狂っていたはずの彼がごく普通な振る舞いを見せ
ている事に混乱しながらも、ハダニエルは声をかける。
「何をするかは秘密さ。それと…」
首だけ巡らせて振り返った北極熊は、犀の硬い表情を赤い瞳に映し、軽く目を細める。
「「ジブリール」なんて名前は紛らわしいよね?もうボクはアレとは違う存在な訳だし…、そうだね、これからは…」
一瞬考えた後、北極熊は小さく頷いた。
「「イブリース」…とでも名乗ろうか。響きは似ているけれど、それとなく異質な感じが良いだろう?似て非なる者にはぴっ
たりだと思わないかな?」
そう言い残して立ち去った北極熊を、ハダニエルは追えなかった。閉まったドアを睨みながら、一歩も動かず仁王立ちになっ
ている。
無防備な雪豹を守らなければいけないという事もあったが、何よりも…、
(ラミエル君を見た時…、一瞬寂しそうな顔をした…?アイツ…、完全に壊れた訳じゃないのか…?)
イブリースと名乗ったあの北極熊が、生まれたばかりの雪豹に恋人の姿を重ね、寂しげな顔を見せた事に、激しく動揺して
しまっていた。
そして、パージ・ジブリール…イブリースは地上へと逃れた。
一方、ミカールと共に参戦して堕人達の総攻撃を妨害し、システム側に加勢した、ベース・ジブリールと称されていた個体
は、決戦が痛み分けに終わった後も、しばらくは本部内で軟禁と監視を受ける事になった。
だが、ミカールやテリエルなどの付き添いを得ながら任務に従事するようになり、次第に皆の信頼を勝ち得て行き、オリジ
ナルと同じ名…「ジブリール」で呼び名が統一される。
それから十年ほど後に実現したジブリールの正式復帰は、悪い物は全て赤い瞳の方に移され、純粋な善だけが彼に残ってい
ると判断されたが故に実現した、例外中の例外とも言える措置だった。
イブリースの目的は不明だったが、ジブリールだけは、自分の半身が何を求めて地上へ赴いたのか薄々だが察しが付いた。
ゆくゆくはその推測が、彼にアズライル再生の希望をもたらす事になる。
それからしばらくして配達人制度が実施され、責任感と罪悪感からイブリースを追うミカールと、アズライルの探索を望む
ジブリールもそれに参加し、イスラフィルがそれに付き合う形になった。
そして、アスモデウス派との長く激しい戦闘で世代交代が進み、ドビエルが管理室長となり、ハダニエルが本部支配人の座
に就き、ネビルが離反してネビロスを名乗り…、長い時の末に、今に繋がる…。
「…ワシが…作ってしもうたんや…!誰よりも哀しい堕人を…!誰よりも哀れな配達人を…!」
長い長い話を終えると、ミカールは拳を握り締め、爪を手の平に食い込ませた。
「アズライルの再生を夢見て配達人になったジブリールの探索行も、堕人になってもうたイブリースの放浪も、元を辿ればワ
シが原因なんや!ワシが失敗してもうたから二人は…!あの時上手くやれとったら、こないな状況にはなってへんかった…!」
「ミカール、そう自分を責めなさんな。お前さんはあの時、紛れもなく世界を救ったんじゃ」
テリエルが慰めの言葉を口にするが、ミカールは激しくかぶりをふって、鬣を振り乱す。
「ワシが未熟やったから、あの二人はずっと苦しんで来たんや…!二つに分かれた自分同士で敵対する羽目になってもうた…!
ワシが…!」
己を責める言葉を吐き連ねたミカールは、しかし急に口をつぐむと、ゆっくり顔を起こした。
その童顔に固い決意を見て取ると、ムンカルも、アズライルも、ナキールも、言いたい事や訊きたい事を飲み込んで、黙し
たまま次の言葉を待つ。
「…けど、好機が巡って来たんや、やっと…」
ミカールは硬い口調で続けた。
「ジブリールの魂がイブリースの中に入っとる。再結合させるチャンスなんや!」
「けどよぉミカール…」
ムンカルは堪らずに口を挟んだ。どうしても気になって。
「再結合って…つまり合体させんだろ?元通り、旦那達を一人にするって事だよな?」
「せやな。「元のジブリール」に戻す事になるわ」
「こう言っちゃ何だが…、大丈夫なのかそいつは?今の話の処刑場で暴れた時みてぇに、また旦那は…」
「その点はおそらく心配無いじゃろう」
テリエルは口を挟むと、両の掌を胸の前で拝むように合わせたり、離したりしながら続けた。
「ジブリールはあれからの永い年月、己の心を磨いとった。そして、穏健派だった当時の技術開発室長を食らったイブリース
は、ヤツの理知的な思考パターンを得た上に、アズライルの欠片と共にあるせいか安定しとる。何より地上で何らかの経験を
した事で情操豊かになったのか、思いの外穏やかになっとった。あくまでも表面上は、じゃがな…」
そこでミカールは「つまり…」と口を開き、自分の見解を語り始めた。
「あの時のようにはならへんやろ。ジブリール自身の心が衝動を抑え込むやろうし、何より今は…、あの時失われたアズライ
ルが、今はこの通りおるんやからな」
ミカールは黒豹を見遣り、頷きかけた。
「イブリースも大切な者がおる世界を無茶苦茶にしようとする程は狂ってへんやろ。上手く結合さえできれば、後は自然と安
定するはずや」
「なるほど…。だいたい判った」
ひとまず納得したらしいムンカルが頷くと、今度はナキールが口を開いた。
「では、当面の問題はいかにしてジブリール・イン・イブリースの身柄を確保するか、という事かな?」
「リンス・イン・シャンプーみてぇに言うなよ。…まぁ大体そういう感じになんのか?他に気を付けなきゃならねぇのは、そ
の前にアズライルがどうこうされねぇようにするって事だろ?」
ムンカルの問いにテリエルとミカールが頷き、名前を出されたアズライルは首を傾げてから「あ…」と漏らした。今更だが、
自分もまた北極熊に何かされかけていた事を思い出して。
「イブリースはアズライルの魂を消滅させへん。けど、アズライルが何かされかけたっちゅう話やから、少しばかり嫌な感じ
はしとる…。おそらく、魂だけ抜き出して余計な情報は排除するつもりでおるんやろ。…オリジナルに近い形で復元したいら
しいからな…。けどそれは、今のアズライルからすれば存在の全否定や。記憶も人格も完全に失ってまうから、この方法で復
元されたら処刑以後の事は覚えてへん。つまり今のアズライルとはまるっきり別物になってまう」
鉄色の虎はそれを聞くと、「やっぱりな…」と顔を顰めた。
「そんな事だろうと思ったぜ。悪ぃがイブリースの旦那には、アズライルは絶対に渡せねぇな!」
「自分も同意見だ。アズライルがこれまでの事を忘れてしまったら、ジブリールが大変悲しむと思われるからね」
鼻息を荒くしたムンカルにナキールが追従し、ミカールも厳しい表情で頷く。
「これ以上ジブリールに借りを作るんはゴメンやさかい…、断固防衛!絶対死守や!」
アズライルはきょとんとしたが、軽く頭を振ってから訊ねてみる。
「ミカール。私はもしかしたら、ジブリールと同じように、元の自分に戻るべきなのではないのか?結果、私の人格が消えた
としても…、それが正しい流れなのではないだろうか?」
「はん!」
ミカールは不快げに鼻を鳴らすと、アズライルを睨み付けた。
「例え元に戻るのが筋やったとしても、イブリースの方法はあかん。認めへん!」
「何故…」
言いかけたアズライルを遮って、鉄色の虎が「おいおい…」と呆れ声を上げた。
「忘れられちまったら、悔しいし寂しいだろうが。元に戻るならお前、これまでの事完璧に覚えたままじゃねぇと許さねぇか
らな?記憶喪失とか人格消失とか冗談じゃねぇぞ」
「右に同じ。と言っておきたい」
狼男が頷き、猪はからからと声を上げて笑った。
「なかなか良いチームじゃなぁ。仲間に恵まれたのぉ?アズライル」
黒豹は無表情で黙り込んだ後、小さく、本当に小さく頷いた。
そして想いと決意を新たにする。
(ジブリールを取り返す!イブリースに会う!そして私は言うんだ。もう、何処にも行ったりしないから、と…!)