第六十五話 「胎動する滅び」(前篇)

本部の転送室では、押し問答が続いていた。

転送してくれと言い張り、頑として譲らない桃色の豚が居座っているせいで、後続を送り込む作業が滞り、部屋の外の列は

長くなるばかり。

相手がイブリースという事もあり、現場指揮者も一介の配達人に過ぎないバザールを彼女の言い分通りに現地へ転送する事

を躊躇していた。

許可無く送って消滅されでもしたら責任問題に発展してしまうのだから、これも当然である。

騒ぎを聞きつけたのか、程なく管理人達がやってきたが、バザールは何と説明されても引き下がらなかった。

(胸騒ぎがするんです!上手く言えないけど、あたしはナキールさんの傍に、あの白猫の近くに行かなきゃならない気がする

んです…!)

虫の知らせとでも言うべきか、バザール自身も説明できない焦りが、彼女を珍しく強情にさせていた。

「行かせてやれ」

管理人達も声を荒らげ、バザールを力尽くで追い出そうかと考え始めたその時だった。唐突に、そんな低い声が響いたのは。

振り向いた管理人とバザールが目にしたのは、出入り口からのっそりと入って来た、屈強な体躯をスーツで覆った黒虎の姿。

先程帰還したばかりのベリアルである。

「しかしベリアル!彼女はノーマルスペックだぞ!?戦闘特化タイプでもなければ、経験が豊富な訳でもない!配達業務その

ものは優秀な成績だが、堕人との交戦は…」

「彼女は…」

ベリアルは同僚の言葉を遮り、桃色の豚を見遣った。

「イブリースと接触し、それでも生き延びた。その場に居た執行人は消滅させられたが…」

「その幸運が二度ある保証など無いだろう!」

言葉を遮られたベリアルは、再び同僚を見遣る。そして静かに告げた。

「転送してやろう。責任は全て自分が持つ」

「ベリアル!」

非難の声を上げた同僚を無視し、黒虎は転送係へ目を向けた。

「一人だけだ。手間をかける事になるが、どうか頼みたい」

「し、しかしですね管理人…」

「頼む。何かあった時の責任は、全て自分に…」

繰り返したベリアルに、担当者もついに折れる。これ以上作業が滞っても困る上に、責任は管理人が持つと言うのだから、

彼にしてみれば手っ取り早い解決でもあった。

ポート設定が変えられている短い時間の内に、バザールは黒虎にペコリと丁寧に頭を下げた。

「有り難うございます!」

「いや…。しかし充分に注意して欲しい。貴女が赴く先は「熊出没注意」の警報が出されている真っ直中だ」

「はい!理解してます!」

警告にも怯む様子も見せないバザールの、決意に輝くその瞳を、ベリアルは眩しそうに目を細めて見つめる。

彼が巧みに隠した特別な感情に、バザールは気付けなかった。

やがてポート設定が終わり、転送準備が整うと、

「有り難うございました!」

「ああ…。気を付けて…」

ベリアルにもう一度頭を下げたバザールは、彼の返事を聞くなり身を翻し、光り輝く球体の中に姿を消した。

彼女の転送を見届けたベリアルは、切なげに小さくため息を漏らし、耳を倒して踵を返した。

同僚の非難がましい視線を感じながら、これで良かったのか?と、彼は自問する。

だが、いくら考えても答えは出なかった。

ただ彼は、直感を信じる事にする。

決して愚かでは無いはずの彼女がそこまで拘る以上、あの場へ赴く事にもきっと何か意味がある。そんな自分の直感を…。



潮騒が響く岸壁沿いの、テトラポットが重なった陰に、二つの影が寄り添っている。

雲を貫く弱い月光に照らされた一方は、砂の上に身を横たえた白く美しい雌牛。

傍らに跪いてその様子をじっと見つめているのは、青白い肌をした太り肉の鯱。

「いたいか?アシュター」

ネビロスの声に、目を閉じたままのアシュターは口元を微かに弛ませて見せた。

「平気よ…。我慢できないほどではないわ…」

ネビロスを安心させようとしたその声は、しかしあまりにも弱々しく、衰弱の深刻さが窺えた。

心が壊れた鯱は、しかしアシュターとアスモデウスには特別な配慮を見せる。

感情が極めて乏しくなったにもかかわらず、システムの傀儡となるはずだった自分を再生させ、こうして生まれ変わらせて

くれた事に恩義を感じている。

ネビロスと二人の間に形成された関係は、インプリンティングに近い。

彼から見たアスモデウスとアシュターは親のような物であり、同時に己という存在その物をかけて尽くすべき絶対的主君で

もあった。

しかし今、ネビロスは静かに確信しつつあった。自分ではアシュターを救えないという事を。

かろうじて存在を繋ぎ止められたものの、一度執行人にされかかった彼は、それまでの感情も記憶も技能も失ってしまった。

故に、今や闘争に特化した別物となり果ててしまった彼に、ネビルだった当時の治療技術は無い。

アシュターは何とか自己修復を繰り返して保っているものの、衰弱そのものが激しいため、常のような万全な修復はできて

いない。

消滅を免れるか、それともダメージに競り負けて消えるかの瀬戸際にあった。

己の無力さをぼんやりと認識するネビロスだが、打つ手はない。

同志達は遙か彼方。この地には今、自分とアシュターしか居ないのだから。

だが、程なく彼は思いつく。

システム側の誰かか、他の派閥の堕人を捕らえ、治療させれば良い。

ネビロスは熟考もせず、思いついた事を実行に移すべく腰を上げようとした。が、

「ネビロス…、待ちなさい…」

褌の前垂れを雌牛に弱々しく掴まれ、従順に腰を下げる。振りほどく事など簡単だが、そうはしなかった。

「今は…、動いては駄目ですよ…。おそらく…、相当数の者がこちらへ…派遣されて…、イブリースを探している…。動くの

は…、危険なの…。判るわね…?」

「でも、アシュターもあぶない」

鯱の言葉に雌牛は微笑む。「大丈夫ですよ」と。

「無理をして…、貴方まで必要以上の危険に接する必要は…、無いの…」

「きけんはこわくない。きえることもこわくない。アシュターのほうがだいじだ」

嬉しさと同時に、悲しさも込み上げる言葉だった。

アシュターは哀しげに顔を曇らせ、目を閉じた。

アスモデウスしかり、どうして男達はこう、何かにつけて消える事など怖れないと口にするのだろう?

残される者の事を考え、消える事を怖れるならば、それはきっと恥などではないのに、と…。

「ネビロス…」

「なんだ?」

「消えてもいい、と…、思いながら動ける事は…、とても強い事よ…」

「だろう?」

「けれど…、消えたくないと…、思い続けながら死地を駆け抜けるのは…、もっと強い者にしかできない事なの…」

「…わからない」

「ネビロス…、それが判れば、貴方はもっと…、ぐっ!」

言葉を切り、アシュターは唐突に身悶えした。

「アシュター?」

呼びかけたネビロスは、アシュターが反応した物が何なのか、すぐに察して海岸線を見遣る。

薄い月光の中でも、ソレはしっかりと識別する事ができた。猿轡を噛まされ、自我を覗わせない茫洋とした瞳で辺りを見回

し、砂を踏み締めて周囲を嗅ぎ回っている一団の姿は…。

その一団が発するプレッシャーが、弱り切ったアシュターには苦痛となった。

「執行人…。おそらく…、私の体から零れた残滓を追って来たのでしょうね…」

「かたづける」

のっそりと立ち上がったネビロスは、その両腕を胸の前で交差させた。

握った手の中から滲み出るように零れた黒が銛を形成し、彼の眼前でエックスを描く。

「ネビロス…」

「なんだ?」

呼び止めた雌牛を振り返った鯱は、

「私はもう、動けない…。貴方は構わず…お逃げなさい…」

「いやだ」

絶対服従してきた雌牛の言葉を、初めて正面から拒絶した。

「まもる。アシュターをまもる。あいつら、けちらす」

静かに、しかしはっきりとそう言ったネビロスの背から、銛と同色の翼が生え出した。

コウモリのソレにも似た翼を広げた次の瞬間、ネビロスの体は地面から低く浮き、直後に高速突進を開始する。

増援を呼ばれる前に奇襲殲滅し、痕跡を残さずこの場を去る。

ネビロスの頭にはそれしかなかった。

巨体の鯱が高速接近している事に気付いたハクビシンは、そちらへ顔を向けた直後に、投擲された銛で体の中央を刺し貫か

れた。

次いで、命中した銛は無数の棘を発し、執行人の強靱な体を内から串刺しにして、致命的な破壊で沈黙させる。

だが、奇襲はそこまでだった。

感情が無い故に動揺を知らない執行人達は、残る四名が迅速にフォーメーションを組み、多対一の戦闘形態にシフトする。

一本になった銛を体の脇で旋回させた心壊の鯱は、怖れる事もなく、心が壊れた者達の中へ突っ込んで行った。



「では、くれぐれも皆、気を付けるようにな」

テリエルは居並ぶ一同を見回し、ニッと笑って見せた。

「案ずるな。報告が終わったらすぐ戻って来るつもりじゃし、何よりイブリースは今まともに動けん状態じゃ。すぐには何も

起こらんじゃろうて」

ジブリールの事もある。メンバーは揃ってこの場を動きたくないだろうと察し、猪は自らが連絡役を買って出た。

この件に関する詳細な報告をすると同時に、ドビエルが関わった件がどうなっているのかも確認して来るつもりでもある。

派閥が違うイブリースとアシュター達が共闘するのは信じ難かったが、今回は偶然で片付けるにはあまりにもタイミングが

良過ぎると感じていた。

「ドビエルに会うたら伝えてくれ。鈍いワシでもきな臭いて思うとる、と」

「判ったわい。では、しばしのさらばじゃ」

同様の考えを抱くミカールに応じて光のゲートに入り込んだ猪は、光球諸共に姿を消す。

必要な処置とはいえ戦力ダウンは否めない。やや暗いムードになった一同が踵を返そうとしたその時、

「…おいミカール。何かまた動いてんぞ?」

ムンカルは部屋の中央に小さな光が灯った事に気付き、獅子に注意を促した。

「ん?何や?誤作動?無事やと思うとったけど、まさかゲートもいかれとるんか?」

みるみる大きくなる光球を前に、さて緊急停止させるべきかと考え始めたミカールは、しかしすぐに気付く。

それが、何かをこちらへ転送するべくしてこじ開けられたゲートだと。

「誰か来よるわ。誰やろ?」

「先生か?」

「いや、アイツまだ現地におるはずやし、それは無いやろ」

「じゃあ姐御?」

「もっと無いわダァホ」

ムンカルとミカールのやり取りを尻目に、ナキールは無言で光球に近付く。

「バザール…」

『は?』

ムンカルとミカールが揃って素っ頓狂な声を上げ、いやそれは無いだろうと即座に首を捻り、アズライルも胡乱げに眉根を

寄せる。

が、光が収縮していった後に現れたのは、ナキールが言うとおり、桃色のぽってりした豚の姿だった。

「あらぁ?皆さんお揃いでどうなさったんですかぁ?来るって言ってなかったんですけど…」

不思議そうなバザールを眺め、「よう…」と気の抜けた挨拶をしたムンカルは、ナキールの背中に問う。

「何でバザールだって判ったんだ?」

「彼女の匂いが、微かにした」

「え?あ、あたしゲート越しでも臭うんです!?」

慌てて襟元を掴み、フゴフゴと鼻を鳴らしたバザールに、

「気配のような物、と言うべきかな」

ナキールはそう遅れて付け加え、「脅かさないで下さいよもぉ!」と、バザールが頬を膨らませた。

疲れてしょぼついた目を擦り、そのドライバーはヘッドライトに照らされた路面を凝視する。

大儀そうなため息をつきながら目をしばたき、指で摘むようにして眉間を揉んだその男は、運転席が非常に狭く見える程の

巨漢だった。

長身で骨太。でっぷり肥えた体は色白で、どことなく白熊を思わせる。サラッとした前髪の下には、体に比べると小さく見

える目。大柄ではあっても怖さはない、どこか牧歌的な雰囲気を漂わせる顔立ちである。

本日の配達も終わり、会社へ戻ろうとしている配達人…朝乃恵太は、軽く浮き出た汗で額に張り付いた前髪を手で退け、ま

たため息をついた。

「あ〜…、腹減ったぁ…」

空腹を訴えて鳴く腹をさすり、切なげに漏らすケイタ。時刻はもうじき二十一時半になろうとしている。

一日通して忙しかった上に、夕食を取ろうと思っていた時間に不在連絡票を置いて来た家から連絡があったため、食事を我

慢して宅配に赴いたのだが、その後も時間指定の配達物が続いたので結局今の今まで夕飯抜き。我慢も限界に近付いていた。

せめて何か胃に入れないと切なくて仕方ない。ケイタはやむを得ずトラックを減速させ、路肩の灯りに向かってハンドルを

切る。

沿岸の防波堤沿い、今は時間も時間なので人影もない展望台下にトラックを滑り込ませ、狭い駐車場の端に停車する。

疲れてはいるが空腹感が勝る。ケイタはドアを押し開けて地面に立つと、間近に設置された自動販売機に、巨体を揺すって

ドスドスと駆け寄った。

「ココアココアココアココア…!」

譫言のようにブツブツ呟きながら小銭入れを取り出し、せかせかと硬貨を投入。ボタンを押すなり出っ腹を窮屈そうに引っ

込めて屈み、ガコンと落ちてきた缶をもどかしげに掴むと、早速プルタブを起こして一口啜り、「はぁ…」と安堵したような

吐息を漏らす。

ようやくの人心地をじっくり味わい、また缶を口元に寄せかけたケイタは、突然ブルルッと身震いした。

急な寒気に襲われた彼は、全身に鳥肌を立たせて顔を顰める。

風が吹いた訳でもない。衣類と肌を撫でる潮風は生ぬるい程で、それほど寒さは感じない。

(疲れたかな…?この忙しい時期に風邪でも引いたら事だ。さっさと引き上げて休もう…)

そう考え、缶を手にしたままトラックへ引き返そうとしたケイタは、今度は寒気以外の物で身を震わせた。

ドォン、と、太鼓でも叩いたような音が鳴り響いたせいで。

ギョッとして周囲を見回すも、やはり辺りに人影は無い。しかし空耳にしては妙だった。

何が妙かと誰かに問われれば、まずケイタは、その音の正体と出所が妙だと答えるだろう。砂浜の方から聞こえて来た上に、

自然にそんな音を出す物が浜辺にあるとも思えない。

だがしかし、彼自身も把握していなかったが、妙だと感じた事に音そのものの質もまた関係していた。

聞こえた大きな音は、肌には全く感じられなかったのだ。それどころではなく鼓膜さえ震わせていない。

その異質さを把握しかねているケイタは、音が聞こえた方を見遣り、堤防を見つめる。

まさか砂浜で交通事故もないだろうと思ったが、先の音は車が衝突した際の衝撃音にも似通った大きな物だった。

何かの事故で怪我人でも出ていたら事だと思い、少々惜しく思いながらもココアを無理矢理飲み干したケイタは、好奇心半

分怖れ半分で堤防に近付く。

そして、堤防に彫られる形でできている階段を昇り、向こう側を見た彼は、その場で立ち竦み、絶句した。

砂浜の途中から並べられた、波除けのテトラポット。その付近に白いモノが横たわっている。

遠目に見ても輝くばかりの美しい白は、そこだけが夜ではないように、闇の中でもはっきり認識できた。

ケイタは確かにソレを「見て」はいたが、それは視覚に頼った物ではなかった。魂で存在を感じ取るが故に、闇夜の帳です

ら白い姿をぼかせない。

引き寄せられるように階段を下り、砂を踏み、白い影に近付くケイタは、ぼんやりと表情を弛緩させていた。

あまりにも美しい景色を、絵画を、写真を見た者が、魂を奪われたように呆然と見入ってしまうように、今のケイタは自分

が何をしているのかも意識できないまま、白い影から目が離せなくなっていた。

やがて、ケイタは白い影の傍に辿り着く。

彼が見下ろすソレは、牛の頭部と尾を備える、獣頭人身の異形だった。

異形でありながら、アンバランスでありながら、しかしソレは美しかった。

豊満な胸を、魅惑的な腰を、申し訳程度の布地と飾り紐で覆い、白い体を夜気に晒す雌牛の頭を持つ女性…。

ケイタは自分でも知らぬ間に屈み込んで、その女性に見入っていた。

頭の隅が軽く疼く。自分は以前、こういうモノを見たことがある…。そう感じていた。

かつて、清掃人キャトルに記憶を洗浄されたケイタは、あの時の事は全く覚えていない。

だが、脳から消えはしても、魂がその感覚を覚えていた。

自分達とは生息次元が違う、異形の何者かの存在を…。

意識が混濁し初めているアシュターは、近付いたケイタの存在を認識しながらも目を閉じたままだった。危険なモノではな

い、取るに足らない存在だと感じ取っているせいで。

だが、ケイタが「あの…」と、おずおず声を発したその瞬間に、驚いて目を開いた。

そしてアシュターはケイタの顔を見て、認識する。

この人間には自分が視えているのだ、と…。

(迷彩が崩れた!?い、いいえ…、かろうじて作用している…。ああ、不具合がいくらか生じているのね…)

動く事もままならない今、自分を認識するこの人間をどうするべきかと悩み始めたアシュターは、

「大丈夫ですか?何処か怪我を?」

ケイタがそう声を発した事で、いくらか安堵した。

(どうやら、迷彩は不完全でも認識は歪められて、人間に思えているようね…)

「いいえ、大丈夫です。疲れたから休んでいるだけで…」

魂を奪って滋養にしてしまおうかとも考えたアシュターだったが、ネビロスが執行人を引き付けている今、余計なアクショ

ンを起こして状況をひっくり返したくはなかった。そこで、適当な事を言って追い払おうとしたのだが…、

「あの…、こういう事訊くのも何ですが…、もしかして、人間に酷い事をされたんですか?」

ケイタのそんな言葉を聞き、ギョッとした。

(今…この男は何と…?「人間に酷い事をされた」?つまりこの男には…、私が人間以外に見えている…!?)

どうやらこの男は、自分を本来の姿で認識しているらしいと察するアシュター。

それなのにこうして話しかけ、動揺はしていても怖れてはいないこの男は何なのだ?そう訳が判らなくなったアシュターが

絶句していると、ケイタは軽く顔を顰めた。

「いつ、何処でかはちょっとはっきりしないんですが…、自分はどうにも、前に「貴女みたいなひと」に会っているようで…」

(接触経験者?なるほど…。記憶の消去が甘かったのか…、それともおぼろげにしか認識できずにいたから放置されたのか…、

何処の誰かしら?こんな中途半端な処置を取ったのは…)

アシュターの意識は、しかしすぐさま別の事に向けられた。

「まただ!今度は沖の方か…?」

ケイタは暗い海に目を懲らす。が、高速で飛び回るネビロスと、海面を疾走する執行人の姿は殆ど見えない。時折何かが飛

んだり跳ねたりしているように感じられるだけだった。

(何か…、ヤバい感じがする…!禍々しいっていうか…、怖いっていうか…!)

ケイタがまともに認識できなくとも本能的に恐怖を抱いた対象は、ネビロスではなく執行人の方だった。

より自動的で、完全に自我を失っている歪な存在は、彼の魂に根源的な嫌悪を、そして哀れみを刷り込む。

「動けますか?ちょっと…いや思いっきり離れた方が良い!何かまずい!あれヤバい!よく判らないが絶対に!」

ケイタはそう早口で言うと、アシュターの体と砂の間に手を入れた。

そして、空の発泡スチロール箱よりも軽く持ち上がった彼女の体を不思議がる。

肉体を持たず、魂をプロテクトで固めているアシュターの体は、物質ではなくエネルギー体である。ケイタの精神と魂への

反発作用でかろうじて触れられるものの、その重さは限りなくゼロに近い。

女性としては大柄なのだが、さして苦もなくお姫様抱っこできてしまい、これはどうした事かと戸惑いながらも駆け出そう

とするケイタに、アシュターは告げる。

「置いて…行きなさい…。彼らは…一片の容赦も…僅かな許容も…持ち合わせて…いない…。貴方も、巻き込まれて…しまい

ますよ…」

ギョッとしたようにアシュターの顔を見遣ったケイタだったが、海を見遣ってブルッと身震いした後、「ええい!」と声を

上げて駆け出した。

「聞こえなかったのですか…?捕捉されたなら…、システム側から見て…敵対勢力と接触した貴方も…、間違いなく…消され

ます…」

「だったらなおさらでしょう!放っておいたら殺されるか酷い目に遭わされるかするんでしょう貴女は!」

息を切らせてドスドスと駆けるケイタが堤防を越えた所で、ネビロスはアシュターが遠ざかって行く事に気付いた。

素早く視線を向けて確認すれば、人間に抱きかかえられている雌牛の姿。

一瞬戸惑いに近い感覚に囚われたネビロスだったが、しかしすぐに、アシュターが人間を操って移動しているのだろうと考

え、そちらは放っておく事にする。

だが、この僅かな停滞が、彼に隙を作っていた。

海面を地面の如く蹴って跳躍した白い兎が、真下から鯱にぶつかる。

その手に握られた二本のサバイバルナイフが、ネビロスの弛んだ両脇腹に鍔元まで潜り込んだ。

「いたくない!」

一声発し、素手となっていた右腕を上げ、兎の頭頂部にごつい拳を振り落とす。

首が胴に埋没した兎が落下するが、その身を宙で捕まえた別の執行人がネビロスに迫る。

ブルドッグの執行人は、ネビロスが突き出した銛を兎の体で受け止め、そして強引に横へ放り投げた。

銛を持って行かれて得物を失ったネビロスめがけ、ブルドッグがサーベルを突き出す。

咄嗟に左腕を上げてガードした鯱だったが、腕を貫かれ、胸に深々と刃先を埋められてしまう。

だがそれでも、ネビロスはいささかも怯まなかった。

サーベルで腕を串刺しにされたまま、右腕を伸ばしてブルドッグの頭部に手刀を叩き込む。

腕を上げてガードしたブルドッグだったが、黒い霧のような物を纏った強烈な一撃で腕を切り飛ばされ、頭部を両断されて

いた。

それは、先のムンカルとの闘争で学習した物だった。

銛の形に凝縮していた破壊プログラムを、自らの体に纏わせ、攻撃的防壁とする…。己の得意な物を近接戦闘用に改良した

攻防一体の闘争技術である。

空っぽであるが故に飲み込みが早い。驚嘆すべき学習能力と応用力を発揮したネビロスは、決して軽くは無いダメージを負

いながらも、残る執行人に視線を向けた。

「あと、いっぴき」

両脇腹に刺さったナイフはそのままに、腕を貫いたサーベルを抜いて得物にした鯱は、海面に立つ最後の執行人…ほんの少

し前までイブリース派の堕人だった猿めがけ、急降下して行った。



「ミカール」

大破した飛行艇の屋根に座っていたレモンイエローの獅子は、声を聞いても振り返らず、返事代わりに尻尾でピタンと屋根

を叩いた。

歩み寄ったムンカルはその横にあぐらをかき、ミカールがそうしていたように夜空を見上げる。

「…もうじき、全部終わる…」

「…かもな…」

ポツリと呟いたミカールに、ムンカルは頷いた。

「この件が上手い事片付いたら、ワシの我が儘もここまでや…。いよいよ本部詰めになって、どっかの室長とかやらされる事

になるやろ…」

「…そうか…」

再び頷いたムンカルは急に顔を顰めると、鼻先を指で擦った。

「あ〜…、その…、もしもそうなったらな、室長の権限とかそういうモンで、俺を抜擢とかできね…」

「本部の仕事はデリケートや。半端モンなんぞ部下に要らへん」

にべもなく言い放ったミカールの横で、ムンカルは顔を引きつらせた。

「…けどまぁ、そうなったら考えといたるさかい、真面目に努力せぇ。配達人と違うて、本部詰めはようさん専門知識が必要

になるんや。プログラム一つまともに組めへんようだと、お茶汲みしか務まらへんで?」

「それも楽そうで良…じょ、冗談だって!睨むなよ!」

ムンカルに向けたジト目を前に戻し、ミカールは軽くため息をつく。

そして、隣に座る虎の尻尾に、自らの尻尾を絡ませた。

「…ワシが居らんからって、配達の手ぇ抜いたらあかんで?」

「ああ…」

「何処のチームに配属されても、きちんと仕事するんやで?」

「ああ…」

「我慢するトコは我慢せぇ。真面目にやっとったら、また…」

「ああ…」

寄り添い合う二人は、揃って夜空を、そこに浮かぶ星々と月を眺め続けた。

こうして言葉を交わすのが、決戦前の最後の機会だと判っているように…。



「ジブリール…」

寝台に横たわった巨体を見つめ、アズライルは呟いた。

本来であれば、魂が消えた後に自然分解する肉体は、テリエルの措置によって形成が持続している。

だからこそ北極熊の肉体は、抜け殻になりながらも存在し続けていた。

ここに魂は無い。そう判っていながら、ベッド脇に椅子を寄せた黒豹は、愛おしそうに目を細めてその手に触れる。

「私が、何とかするから…。皆と一緒に、どうにかするから…。貴方の目論見が上手く行くよう、全力を尽くすから…。だか

ら安心して欲しい…」

物言わぬ北極熊の肉体に語りかけながら、アズライルは白くて大きくて分厚い手を持ち上げ、頬ずりした。

幾度も守って貰った、最後まで助けて貰った、大きくて暖かくて優しい手は、しかし今は温もりを持っていない。

アズライルは静かに、しかし決意を込めて呟く。

「必ずまた、貴方に会う…!そうしたら……」

言おう。ずっとずっと言えなかった気持ちを、その時こそ伝えよう。

愛おしさを込めて大きな手に頬ずりし、アズライルは涙を流す。

「今度は…、私が貴方を助ける番だ…!」



「突然お邪魔しちゃいましたし、皆さん困ってますよねぇ…」

食堂の長机に頬杖をついた桃色の豚が呻くように言うと、

「他の者もそうだろうが、自分は滞在を勧められない」

ナキールは無表情に淡々と述べた。突き放すような態度に見えない事もないが、平坦過ぎる感情が表に現れないだけで、こ

れでもバザールを心配している。

「現在ここには…」

「「熊出没注意」、出てるんですよね?判ってますよぅ」

ナキールの言葉を遮ったバザールは、「けれど…」と先を続けた。

「上手く言えないんですけど、ここに来なきゃいけなかったような気がするんです。ここに居なきゃいけないような気がして

るんです。変ですけど、予感にしては妙にはっきりしてるっていうか…」

困り顔でそう告げながら、バザールは確信していた。やはり自分はここに居るべきなのだと。

絶え間なく続いていたあの落ち着かない感覚が、この飛行艇に転送されてからは消えていた。