第六十六話 「胎動する滅び」(後編)
「ちょっと我慢して下さいよ!」
ケイタは助手席に乗せたアシュターにそう告げると、局所を覆う程度の衣類しか身につけていない彼女の格好に改めて戦き
ながら、顔をそっぽに向けつつ手探りでシートベルトを締めさせる。動けないアシュターの豊満な乳房に手をぶつけては「す、
済みません!」などと謝りながら。
女性経験が皆無であるが故に、純朴を通り越して臆病なケイタが何とかシートベルトを着け終えてドアを閉め、運転席に乗
り込む様子を、虚ろな視線で眺めながら、アシュターは考える。
変わった人間だ、と。
すぐさま発車させたケイタは、車を飛ばし、大急ぎで海岸線から離れる。
「とにかくここから離れて…、ええと、どうします?病院…はまずいか、騒ぎになるだろうし…。家とか、行く場所なんかは
無いんですか?」
「我々は定住者ではないので…、それよりも、適当な所に置いて行きなさい…。彼らは人間の車で逃げ切れるほど遅くはあり
ません…」
「置いていったら酷い目に遭わされるんでしょう?そんな事できませんよ…!」
ケイタは悩んだ末に、車に乗せたまま会社の車庫に匿うのはどうだろうか?と考えた。
外傷は見当たらないが弱っているのは確かなので、とにかく栄養ドリンクなり鎮痛剤なりを飲ませて休ませてやるのが一番
だろうと、これからの方針を固める。
こんな姿なのだから病院に行けば大騒ぎになると考えているが、実際には普通の人間にアシュターの認識は不可能。ケイタ
がアシュターの事を説明しようとした所で、彼女の情報を含む言葉さえ認識されないため、存在を伝えることすらできない。
「眠っていて下さい。隠れて休める場所までそうかかりませんから」
どうして自分がここまでするのか、ケイタ自身にも理解できなかった。
ただ、何となく残った魂の感覚が訴えている。
異形でも、彼らは決して悪しき存在ではない。人間よりよほど正しく、純粋で、優れた存在なのだと。
だから失わせたくなかった。損なわせたくなかった。誰なのかも判らないこの雌牛を、助けてやりたいと思った。
だが、ケイタは結局そのまま会社に辿り着く事はできなかった。
アシュターは力を振り絞ってケイタの首筋に触れる。
ビクッとして視線を横に向けたケイタに、
「ブレーキを踏み、路肩に車を停めなさい」
アシュターは束の間だけ力が戻った声を発し、ケイタを呪縛する。
途端に意識が遠退き、傀儡となったケイタは言われるがままトラックを道路脇に寄せ、ハザードランプをつけて停めた。
アシュターは軽く目を閉じ、探る。
気配があった。不快な、ざらついた気配が。
先程とは別の執行人が接近している事を悟り、アシュターはシートベルトを外し、手で首筋に触れたままのケイタを見遣る。
ぼんやりと前を見ているケイタの目に、意思の光はない。
夢見心地に弛緩した表情をしている彼から、アシュターは様々な物を吸い出していった。
ケイタの顔色がみるみる悪くなるが、その弛んだ表情は心地良さそうですらある。
僅かながらも力を取り戻したアシュターは、それでも苦労して身を動かし、車を降りた。
ぐったりと脱力したケイタは目を閉じており、唇は紫に変色し、顔は土気色だった。
それを一瞥した雌牛は、車から急いで離れつつ、追っ手との距離を測る。
(あと…、20秒…)
力を振り絞って手槍を生成し、車が絶えた車道の中央に陣取った彼女は、飛ぶように駆けて来る追っ手の姿を確認した。
その数三名。普段なら相手にできるが、今は相手が一人でも歯が立ちそうになかった。おそらく並の配達人にすら勝つ事が
できないだろう。
覚悟を決めたアシュターは、最後になると思ってトラックの運転席を見遣る。
天敵を助けようとした、愚か過ぎる人間を。
「…この事を…、伝えたら…、どんな顔をしますか…?アスモデウス…」
敵地に単独潜入している愛しい夫の事を考え、アシュターは口元を綻ばせた。
限界ぎりぎりまで生気を吸われたケイタは昏睡状態にあるが、死にはしない。
接触した形跡すら残さぬ搾取は、彼が執行人に始末されないようにとの、彼女なりの配慮による物だった。
戸惑いが消え去っていない、しかし優しげに細めた目をケイタから外し、アシュターは厳しい顔付きになって「敵」を見据
える。
「かかって来なさい!この猛毒女帝の首、簡単に取れると思わない事です!」
勇ましく言い放ち、手槍を構えたアシュターは、
「…!?」
迫る執行人の遙か後方から飛来する、青白い光を目に映し、驚きに双眸を見開く。
背に槍を、両脇腹にナイフを突き立てられた巨躯の鯱が、衰えも見せずに高速接近していた。
「…また無理をして…」
口元を綻ばせたアシュターは、ネビロスに気付いて速度を緩め、後方を気にした執行人達に、弱り切った体を叱咤して駆け
寄って行った。
ばさりと、黒い翼が翻る。
眼下に停まるトラックを一瞥したネビロスは、抱きかかえたアシュターに問いかける。
「あのにんげん。くわなくていいのか?」
「遠慮しておくわ…、充分…、ご馳走になったもの…」
辛くも執行人の撃退に成功した両者は、身を隠す場所を求めて夜空へ舞い上がる。
ここまで衰弱しているアシュターが、何故あの人間の魂を食わないのか?その事がネビロスには不思議でならなかった。
「あんな人間が居るとは…思いもしませんでした…。いいえ、対話する事すら無く、ただ魂を奪って来た我々は、元より人間
を理解しようとはして来なかった…。もしかしたら…、我々は人間を…」
言葉を切ったアシュターをじっと見つめ、ネビロスは太い首を捻った。
「われわれは、にんげんを、なんだ?」
「…難しいわ…。でも、深く考えてみるべきなのかもしれない…。お互いの…在り方を…」
アシュターはそう呟くと、すっと目を閉じてスリープモードに入った。
雌牛の寝顔を見下ろし、ネビロスは翼を煽る。
アシュターの言う事は難し過ぎて、心が壊れたネビロスには理解できなかった。
だから彼は考察を放棄し、アシュターを休ませる事だけ考えた。
埃で汚れ、色がくすんだ壁に背を預け、北極熊は目を閉じていた。
眠っているようにも見えるが、そうではない。
静かに、しかし急いで、イブリースはある物を組み上げている最中だった。
そんな保護者の姿を、少し離れた位置に立った白猫がぼんやりと眺めている。
念願叶って完全な力を取り戻しながら、しかしそれを行使する事ができなくなったイブリースは、今や相手がワールドセー
バーだろうと、人間だろうと、傷付ける事ができなくなっている。
深く食い込んだジブリールの魂が、彼に暴虐の一切を許さないせいで…。
これを取り払い、追い出す事は不可能だと、イブリースは確信した。
無理に分離させようとすれば、半ば融合した魂が致命的な損傷を受ける。そうなった時、自我を失った自分がどのような行
動に出るかは判っていた。
(おそらく、万物を分解吸収し始める。手当たり次第に…。そうなったらアズの安全も保証できない)
考えた物だと感心してしまう。ジブリール捨て身の策は、彼がこれまでに受けた如何なる攻撃よりも致命的だった。
(感心してだけいられれば楽だけれど、そうも行かないからね…)
軽く口元を緩め、イブリースは目を閉じたまま微笑んだ。
確かにジブリールの策は無効化できない。だが相応の物を失う覚悟さえあれば、帳消しに等しい状態に持ち込む事はできる。
長い長い黙想の後、イブリースは静かに目を開けた。
「…さぁ、選択の時だ」
かつて幾人ものワールドセーバーや人間に投げかけてきた言葉を、イブリースは今、自らに向けて発した。
その直後、部屋の四隅にノイズが走る。
「位置を特定し、急襲か…。なかなか慎重だね」
立ち上がったイブリースは白猫に歩み寄って抱える。
彼が白猫を捕まえたその時には、四人の執行人は部屋の四隅に姿を現し終え、警告も無く襲いかかっていた。
突きかかるジャックナイフから身を捩って逃れたイブリースは、平手で打ち据えようとした所で苦笑いする。自分の腕が途
中で動かなくなった事で。
「なるほど。行動を制限しつつ執行人に襲わせれば、共倒れも狙える訳だね。予想を遙かに上回る優れものじゃないか、この
策は」
この場に現れた直後、警告すら発しなかった事で、イブリースは察した。
彼の中のジブリールが、一体どうやったのかは判らないが、執行人の行動制御プログラムに干渉し、有無を言わさず消滅処
分執行に踏み切らせたらしい、と。
巨躯に似合わぬ機敏さで四人の猛攻を回避しつつ、試しに銃を抜こうとしたイブリースだが、手が銃を握る前に止まってし
まった。
内から行動を制限しつつ、襲わせて消滅させる…。この状況を巧みに利用したジブリールの干渉に、イブリースは舌を巻く。
だが、全く何もできない訳ではなかった。
ばっと背から翼を伸ばし、イブリースはノイズを纏い、転移離脱を試みる。
空間跳躍で街の上空に現れたその時には、しかし先を読まれていた彼は、完全に包囲されていた。
二十七名の執行人に全方向から包囲され、イブリースは目を細める。
「…どうやら、ここまでのようだね…」
そっと白猫を放し、見上げてくる彼女の頭に、ポンと、大きな手を軽く乗せたイブリースは、
「ずっと一緒に居たかったけれど…、お別れだ…」
寂しげに、しかし優しく微笑みながら、愛しい白猫の柔らかな頭毛を撫で回す。
「愛してるよ、アズ…」
それが、彼がイブリースという名の北極熊として発した、この世で最後の肉声となった。
飛行艇の上で素早く腰を浮かせて立ち上がったムンカルが、緊張したように体を硬くし、ある方向を見つめる。
「…何だ、今のは…?叫び…?」
波動として伝播したそれを、ムンカルは叫び声のように感じ取った。
その傍らでは、同じく弾かれたように立ち上がったミカールが、戸惑いが混じった険しい表情を浮かべている。
「…おかしいで?こんな事…、こんな事起こるはずが…。ジブリールが中に居るんやから…、こんな事は…」
ぼそぼそと、納得が行かない様子で獅子が呟いていると、飛行艇の壊れた後部ハッチから、アズライルが、次いでナキール
とバザールが飛び出して来る。
「今…、一瞬だけジブリールを感じて、気配が消えた…。何だ?この激しい敵意は…?まるですぐ傍に敵が居るような…」
黒豹がムンカルと同じ方向を見遣りながら呟く。
「この禍々しい気配…、一体何事だろうか?」
ナキールが半眼になって首周りの毛を逆立てる。
「あの時の…、物凄く怒っていた時のイブリースの雰囲気…、あれとそっくりです…。でも、何か違うような…」
身震いしながら、バザールが口元をわななかせる。
「あり得へん!ある訳ないんや!」
突然声を大きくしたミカールに、全員の視線が集中した。
「これは…、これはっ…!このけったくそ悪い、焼け付くようでどうしようもなく冷たいコレは…!あの時と同じ気配や!精
神崩壊で暴走した、あの時のジブリールと…!」
レモンイエローの獅子が、緊張と恐れから、我知らずその背に翼を生やす。
恐れおののく、ミカールらしからぬその様子に、ムンカルまで動揺した。
「待てよミック!「ねぇはず」なんだろ!?ジブリールの旦那が押さえ込んでるから…」
「知らへんわ!けどさっき一瞬ジブリールを感じた!オドレもそうやろ?なのに…、今は消えとる…。何が起きとんねや!?」
ムンカルは怖れすら感じる激しい波動の出所…そう思われる方向へ目を戻し、顔を顰める。
「どのみち、旦那をどうこうするにはミックの能力が必要なんだろ?動いた事は間違いねぇだろうし、…行って確かめるしか
ねぇだろうな」
「ん?」
本部廊下を歩いていたテリエルは、管理室に向かう途中で足を止めた。
「…今のノイズ…、転送装置に不具合かの?ダウンした時の物に似とったが…」
酷使しているのでそんな事もあろうと考え、テリエルは先を急ぐ。
すぐ帰ってくるだろうドビエルと早く話をつけ、今後の方針を打ち出したい所だった彼は、気にはなったが確認は後回しに
した。
そこへ、前方から歩いて来た男が声を掛ける。
「お師匠ぉ!大変だったなぁ!」
野太い声を上げたごついイボイノシシは、配達人の制服でもある黒いつなぎを身に付けていた。
腹が出たテリエルとは違い、筋肉の塊のような巌の如き体躯で、彼より頭一つ分は背が高い大男である。
「おお、お前もこっちに来とったのか?スパールよ」
「おうよ、アスモデウスが機能停止状態で発見されたとかでなぁ、近場に居たオラも呼び出し食らったんだども、着いた頃にゃ
あ全部終わっとってよぉ、空振りしちまったい」
ガハハと笑ったイボイノシシは、師の顔を意味ありげに見つめる。
「そいつはご愁傷様じゃ」
テリエルは笑みを浮かべながらも、弟子の眼差しに何か感じたのか、小声で「…で?」と促す。
バザールやメオールの弟弟子に当たる独立配達人スパールは、心得たようにテリエルにそっと顔を近付け、小声で囁いた。
「…おかしいぜぇ?その場でアスモデウスを執行人に仕立てたって話だったんだども、ちょいと調べてみただけだが、…執行
人にされる時にぶっ壊れたはずの心の残滓が、ちぃ〜っとも感じられんかった…」
「ほう。そいつは事じゃなぁ。…ワハハハハ!」
「だろう?ガハハハハ!」
遠目に二人を見る事ができる位置に居る者も、スパールがテリエルに小声で何か面白い事を言って、笑い合っているように
しか見えない。
「で、この事はもう誰かに?」
再び声を潜めたテリエルに、スパールもヒソヒソと応じる。
「うんにゃ、お師匠に今話したのが初めてだぁ。今管理室覗いてみたトコだが、おかしいトコは何もありゃしねぇ。開発室長
もやっこさん連れてどっかに行ってるらしくてなぁ。微調整って話だども、上の連中は「勝手な真似した」ってんで、血相変
えて探してらぁ」
「なるほどのぉ…。いや、面白い話じゃった!」
「そいつはどうも!ガハハハハ!」
また声を上げて笑い合った後、テリエルは弟子に告げた。
「ちっと付き合えスパール。もっと面白い事になっとるかもしれん」
「合点。いやぁ、滅多にねぇなぁこういうのは!」
軽い調子で笑い合いながら、しかし二頭の猪は会話に気を付け、緊張を漲らせている。
二人は察していた。もしかしたら今こうしている所も、監視されているのかもしれない、と…。
「転送不可能?」
目を細めたドビエルに、原因特定及び復旧作業に取りかかっている河馬の管理人が頷いた。
「先だってベリアルを送った時までは正常に作動していたのですが…、どうも本部のポートを認識出来ない様子で…」
灰色熊はビルの空き部屋に設置された転送ゲート発生装置を眺め、次いで不安定に収縮を繰り返す光球に目を向ける。
アシュター達の陽動に対処していたドビエルとその配下の管理人数名、そしてその援軍に派遣された一団は、本部帰還を目
前に思わぬ足止めを食っていた。
「他のゲートへは接続できますか?」
「はい。本部だけが接続不能で…。問い合わせの通信へも応答がありません」
「何か異常があれば、留守を任せたラミエル君か、先に戻ったベリアル君が連絡をくれそうな物ですが…」
「おかしいですよね…。あの二人はやたら几帳面なのに…」
河馬は太い指を巧みに動かし、コンソールを操作して接続を試みているが、上手く行かずに顔を顰める。
「室長…。さっきの、一度因果が感じられなくなった件ですが…、アレが何か関係している事は有り得るでしょうか?」
「丁度わたくしも同じ事を考えていました。アレが、本部の機能不全で発生した物だとすれば…、通信障害とゲートの作動不
良が同時に起こった事にも納得が行きます。しかし、それにしてもハダニエルが即座に復旧させてくれそうな物ですがね…」
灰色熊は顎下に手を当て、首を縮める。
(まさか…、ハダニエルに何かあった?彼に何かがあったせいで、本部も機能不全を?)
支配人たる犀は本部のシステムとリンクしている。不具合が生じた場合、彼もまた影響を受ける。
本部機能に重大な障害が発生した場合、避雷針のようにダメージのはけ口になるのが支配人という役職。人柱とも言えるこ
の役職には、優れた耐久性を持つ者しか就く事はできない。
ハダニエルの頑強さは現存するワールドセーバーでは最高レベルで、本部そのものが一度損壊する程のダメージまでは何と
か引き受けられると本人も語っている。
(本部が壊れたなら流石に判ります。しかしそれが無い。となれば…、ハダニエルが大急ぎで復旧に当たっていて連絡が取れ
ない状況にあるのか、あるいは彼自身が動けない有様になってしまっているのか…)
嫌な予感が、ドビエルの胸の内で膨れあがった。
一方その頃本部では、転送ゲートが作動しなくなった事で混乱が生じ始めていた。
精鋭の転送が終わり、受入を開始しようとしたそのタイミングで、帰還するはずのドビエル達を迎え入れる事ができなくなっ
てしまったのである。
おまけに通信も途絶し、原因も不明で復旧が進まない。
大慌てで作業に勤しむ技術者達は、やがてゲートが勝手に動き始め、ホッとすると同時に首を傾げた。
「ドビエル室長の方で何かしてくれたのかもしれないな」
そんな事を言い合いながら、開いたゲートの目映さに目を細めた一同は、光が収まる前に胸を押さえ、バタバタと倒れ伏す。
「な…?え…?」
訳が判らず、倒れた同僚達を見回した亀は、光の中から現れた者がドビエルでない事を認め、そして、裸体を腰巻きで覆っ
ただけの屈強なアフガンハウンドが吹き矢を口に当てている事を確認した次の瞬間、胸に射られた矢によって意識を断たれた。
アフガンハウンドに続いて、アスモデウス派の堕人達が次々とゲートを潜って現れる。
騒ぎは、しかしすぐには広まらなかった。
迅速に、静かに、本部占拠作戦は展開してゆく…。
「予想以上に上手く行ったな。少々拍子抜けした」
本部上層部の壁をこじ開け、システムに直接不正アクセスしている黒面羊の後ろ姿を眺めながら、アスモデウスは呟く。
傀儡にした黒顔の羊に知識と技術を発揮させ、ゲートと通信を手中に収めた黒獅子は、束の間、胸に手を当てて考え込んだ。
どこか不安げな、何か案じているような暗さが、黒獅子の顔に陰りを与えていた。
(先程から胸騒ぎがする…。よもや、アシュターに何かあったのでは…)
だが、アスモデウスは小さく首を振って己を窘める。彼女を見くびるな、と。
先にハダニエルとの戦闘で失った足を再生していた際、この場に伴侶が居ればもっと楽に直して貰えるのにと思った事から、
急に気になったのだろう。そう考え、思い込み、アスモデウスは迷いと不安を払拭し、気高い戦士の顔に戻る。
イブリースが何をしたのかも、アシュターがどうなっているのかも、彼には判らない。
北極熊については、白猫と黒豹にかまけているとばかり思い込んでおり、伴侶である雌牛については、先のゲート占拠に際
して本部下層へ突入していると信じている。
「作業を続けよ。ハダニエルの様子を見て来る」
「…はい…」
黒顔の羊の返事を聞くなり、アスモデウスは踵を返した。
緊縛して幽閉したとはいえ油断ならない相手である。犀の様子を確認し、異常が無い事を確かめたかった。
白猫がぼんやりとしながら宙に立つすぐ傍で、異変が生じた。
ドクン…。と、世界が震える。
ドクン…。ドクン…。ドクン…。ドクン…。
間を置いて規則正しく伝わる振動の中心を、宙に足を止めた執行人達はじっと見つめている。
自我を持たない彼らが、まるで恐れを抱いたかのように動きを止め、視線を注ぐ先には、赤いロングコートを纏う、白い巨
躯の熊。
俯き、顔を伏せ、脱力したように両手をだらりと下げた彼の体から、その振動は発せられていた。
物理的な振動ではない。
空気も震わさず、何物にも干渉せず、しかし感じ取れるそれは、魂の拍動…。
あまりにも強く、あまりにも禍々しいソレは、下界の人間達にまで何となく感じられている。
言いようのない不安に駆られ、見上げる夜空には、一部の人間の視界に異形の存在達が収まっていたりもするのだが、しか
し彼らはソレを認識できない。
何も見えず、何も判らぬまま、ただ空の一点から伝わって来る何かに、怯えを覚えるのみだった。
道行く者は足を止め、車を運転する者は停車し、座っていた者は立ち上がり、眠っていた者は目を覚まし、屋外でも屋内で
も、人間達はソコを向く。
あまりにも純粋で、あまりにも許容が無く、あまりにも強大なソレは、無力な彼らからすれば神にも等しい。
純粋な破壊衝動。許容無き振る舞い。歯向かう事も能わない強大さ。それらを内包した力の権化は、今、目を閉じたまま静
かに顔を上げる。
いつしか拍動は収まっていた。寒気すら覚えるほどの静謐さが、今は街全体を覆っている。
しばし目を閉じたままだった北極熊の、パールホワイトの被毛に覆われた顔の中で、巨躯に比べれば小さく見える双眸が、
やがて、ゆっくりと見開かれた。
炯々と輝く赤が、そこにあった。
どろりと濁った、それでいて明るく、熱く、赤く輝くそれは、煮え滾るマグマのようにも感じられる。
突如、北極熊は天を仰ぎ、垂直に立てた喉から叫びを発した。
「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおあるるるるるるるるるるるるるっ!」
声と共にその背から白い光の粒子が噴出し、巨躯に比してもなお巨大な翼が形成される。
やがてそれらは上下に開いて行く格好で別れ、六対…計十二枚の翼が、北極熊の背から広がった。
翼を形成する際に放射された力が、北極熊を中心に渦を巻き、荒れ狂う。
パールホワイトの光はまるで吹雪のようで、己の手も見えないほど濃く、目映く、街の上空で乱舞する。
北極熊を包囲していた執行人達は、その光の乱舞に晒されながら急激に力を失って行った。
滅びの吹雪とでも称するべきか。乱舞する光は分解吸収作用を発揮し、執行人達のプロテクトを削り、存在エネルギーを吸
い取る。
しかし不思議な事に、彼らよりも北極熊に近く、渦の最中に身を置く白猫には光が及ばない。
光は少女を避けるように渦巻き、乱舞し、執行人達だけが光に晒され、力を奪われてゆく。
垂直に立てた喉から上げた長い雄叫びを止めると、北極熊はゆっくり視線を下ろした。
白猫は彼の顔へ茫洋とした視線を注ぎ、口元を微かに動かす。
「…アル…シャイターン…」
その言葉が消えるか消えないかのタイミングで、北極熊の巨体が動いた。
白猫の脇をすり抜け、転移にも等しい短時間で一人の執行人の眼前に到達するなり、
「あるるるるるっ!」
声を発して身を捻りつつ、腰溜めにしていたその豪腕を振り上げる。
腰の高さから相手のボディめがけて繰り出されたアッパーカットが、執行人の胴に穴を空け、背中へ貫通した。
直後、その執行人は粒子の塊となった後に弾け、跡形もなく霧散し、北極熊に吸収される。
それは、かつての惨劇の再現だった。
素の状態で圧倒的な力を持つ上に、相手を屠る都度さらなる力を得て、無限の成長を見せる白き災厄。
手に負えなくなる前に力で勝る者が食い止めるか、何らかの手段で力を疎がない事には、足止めすら叶わない最大級の絶望。
だがこの状態への移行は、元々はイブリースも望んでいない事だった。
執行人を屠り、食らい、歓喜の声を上げる北極熊を、白猫はぼんやりと眺めている。
彼女には手を出さず、分解吸収の力も及ぼさなかった北極熊だが、そこには以前のイブリースのような配慮は窺えなかった。
守るのではない。庇うのではない。
今の彼は、そもそも白猫を見ていなかった。
自動的に捕食対象から外れているだけで、もはや少女の事は頭に無く、眼中に無く、覚えてもいない。
ジブリールの呪縛から逃れる為に、アズライルを二度と喪わないという目的の為に、イブリースは選択した。かつて他者に
そうして来たように自らへ選択を迫って。
そして決意した。
目的の為に相応の代償を支払う事を。
譲れない物の為に他の全てを踏みにじる事を。
己の自我が消えれば、良心も情も消え失せれば、ジブリールがもたらす呵責に動きを制限される事もない。
イブリースは、自分自身すら踏みにじり、アズライルと共に在り続けるという未来を切り捨て、選び取った。
内部に食い込んだジブリールに、自分の精神と魂をぶつける。
そうして枷を失って残った肉体と衝動は、再び暴走状態に陥る。あの時と同じように…。
ただ一つイブリースが仕込みをしたのは、いかなる状況でも捕食対象からアズライルを外すよう自分をプログラムし直す事
だけだった。
そうする事で、暴走した肉体はアズライル以外の全てを分解し吸収してゆく。
世界から全ての存在が無くなれば、もう二度と、誰も、彼女を傷付ける事はない…。
愛しさを最優先した狂気の果てに辿り着いたイブリースの選択は、アズライルに害を為す可能性が有る物も無い物も含め、
彼女以外の全てを無くすという、究極の先手攻撃による防衛手段だった。
そしてその選択は、イブリースを慕う堕人達も、旧友達も、アズライルが愛した存在全ても、ひとつ残らず消える事を意味
する。
アズライルは決して自分を許さないだろう。そう確信しながらも、イブリースは決行した。
彼女の愛すら失う事を覚悟した上で…。
文字通り、アズライルが存在し続ける事以外の全てを失うという選択の結末は、彼女にもそれ以外の者にも、自分自身にも
不幸しかもたらさない。
だが、イブリースはそれでも良かった。
狂ってはいたが、イブリースは確かに、紛れもなく、アズライルを愛していた…。