第六十七話 「滅びの配達人」(前編)

「…嘘や…」

ミカールは急停止し、翼を広げた状態で呟いていた。

口元がわななく。恐怖で体が竦む。緊張で被毛が逆立つ。

剛胆で強気な彼ですら、その光景に恐れを抱かずにはいられなかった。

「クハッ!クハッ!クハッ!」

執行人最後の一体を、喉に手を掛けた格好で吊し上げ、哄笑にも似た呼吸音を発する北極熊の姿を目に、メンバーを置き去

りにして駆け付けたミカールは動けなくなった。

あの時の光景が、獅子の脳裏に蘇る。

だが、「違う」とも感じた。

あの時のジブリールとは何かが違う。

より禍々しく、より悪意に満ちており、あの時感じた悲壮感や哀れさは全く無い。

何に対して向けられているのか、おそらくは本人ですら定かではないだろう憎悪と敵意と悪意と破壊衝動に駆られているそ

の北極熊は、もはやイブリースではなく、勿論ジブリールでもない。

万物に遍く、等しく、滅びを届ける者…。

「滅びの…配達人…」

戦くミカールが囁いたその瞬間に、北極熊の手の中で、グボヂュッと、嫌な音が鳴った。

首を握り潰され、細くなったソレでかろうじて頭部と胴体が繋がっている執行人の体が、粒子となって弾け散り、北極熊の

体に吸着される。

得たエネルギーで他の物を壊し、そうして得たエネルギーでまた別の物を潰す…。その連鎖は、消すべき物が無くなるまで

止まる事は無い。

その事を実感して寒気を覚えたミカールは、しかし固めたはずの決意が肩すかしを食らう形になり、どう行動すべきか決め

られなかった。

イブリースと、彼に食い込んだジブリールの魂を再度一つにする…。それが目的だったのだが、今見ている白い熊からは両

者の気配が感じられない。見た目は同じなのに、全く別物と成り果てている。

(まさか…、まさか…!?イブリースめ、ジブリールと心中しよったんか!?今のコイツは…、どっちでもない!)

予想もしていなかった最悪の事態を前に、ミカールは絶望に囚われかけた。

が、北極熊の視線が下に向き、灯りで浮き上がる人間の街に据えられると、考える前に体が動いていた。

ミカールも人間達も、今の彼にとってはただの捕食対象。オーバースペックであるレモンイエローの獅子さえも、北極熊は

驚異と感じていない。

その、ある意味平等な見下しが、ミカールに先手を与えた。

「だぁああああああああああああああああっ!!!」

背の翼を炸裂させ、力の浪費も厭わず噴射する形で急加速したミカールが、北極熊に突進する。

すっとそちらに向いた赤い双眸が童顔の獅子を捉えたその時には、もはや回避が容易ではない程に距離が狭まっていた。

ズドンッ!と、凄まじい音と衝撃を発して北極熊に激突したミカールは、自分の数倍はあるその巨体を、突っ込んだ勢いそ

のままに押してゆく。

熊の太い胴には回りきらなかったが、短い腕で必死にしがみつき、背から噴射する粒子を推進剤に、レモンイエローの光の

尾を引きながら街の上空を高速で横切る。

踏ん張りが利かずに押されている北極熊は、苛立たしげに鼻面に小皺を寄せ、

「るあぉっ!」

一声上げつつ、ミカールの首筋に腕を叩き付けた。

凄まじい衝撃を首に受け、ガクンと落ちかけながらも、ミカールは北極熊を放さない。

ガヅン、ガヅン、と連続で首に腕を振り下ろされながら、歯を食いしばって巨体を押してゆく。

そして、街の上空から海上へ、さらに沖へと北極熊を押し出して行ったミカールは、太い両手を組んで叩き付ける一撃を背

に受け、ついに叩き落とされた。

「くっ!」

意識が飛びかけたが、海面すれすれで翼を形成させて浮力を取り戻したミカールは、落下からの急停止で生じた豪風で暗い

水面に白波と飛沫を生じさせつつ踏み止まり、キッと北極熊を睨め上げる。

しかし、彼の目はミカールから離れ、再び街の灯りへ…、知多半島の灯火に向けられていた。

「オドレの相手はこのワシや!よそ見しとったら速攻で伸したるぞゴルァアッ!!!」

吠えたミカールの鬣がざわりと伸びる。

迷いを、絶望を、ネビロスによって負わされた損傷の痛みを、紅蓮の激怒が塗り潰した。

間に合わなかった。救ってやれなかった。ジブリールもイブリースも居なくなってしまった…。その全ては、自分のせいだ

と思った。

己への激怒で鬣をざわつかせ、ミカールは除幕する。

(差し違えてでもアレを止めたる…!それが…!それがっ…!ワシの罪滅ぼしや!)

ようやくその気になったのか、それとも除幕した事で捕食対象としてより魅力的になったのか、北極熊の視線はミカールに

据えられた。

その口元が、ニタァッと歪む。

過去に例を見ない最大最悪の闘争は、かつての親友同士の激突から始まった。



独房のドアが並んだ懲罰房最奥のスペースを歩み、黒獅子は周囲に視線を走らせた。

独房はいずれも空になっていた。何故ならば、ここに捕らえられていた反逆者や堕人は、先程ハダニエル達を運び込むに際

して彼が解放しているのだから。

囚われていた堕人は、他の派閥の者も居た。だが、自由を渇望しているが故に、今この時だけはアスモデウスに従う事を選

んだ。

懲罰を受けているとはいってもシステム側に身を置く者も居たが、これは従おうとしなかったので、後腐れがないよう処分

した。

さらに黒面の羊に処理を行わせ、スリープモードに移行していた執行人40名のプログラムを改竄し、戦力に加えている。

計画通りに内部でさらなる手勢を確保できたアスモデウスだが、今は彼らを引き連れてはおらず、管理室と因果管制室の制

圧に向かわせている。

烏合の衆ではあるものの、解放した中にはアスモデウスと共闘していた同志も数名混じっている。彼らが上手く纏めてくれ

ると信じ、そちらは任せる事にしたのだ。

やがてアスモデウスは、最も奥にある独房の格子窓を覗き、口を開いた。

「気分はどうだ?ハダニエル」

檻の中から「ふん!」と不機嫌そうに鼻を鳴らす音が聞こえた。

「わざわざ皮肉を言いに来たのか?ご苦労なこった」

巨体の犀は狭い独房内で身じろぎし、悪態をついた。

床に胡座をかく格好だが、彼には独房は狭すぎて、膝は壁に接してあまり横に出せず、窮屈極まりない。

「好き勝手にシステム弄くり回しやがって…、腹ん中かき回されて気分良い訳ないだろ?」

「避雷針とは大変な物だな。いや、人身御供と言うべきか」

本部とリンクしているが故に、ハダニエルは今、黒顔の羊の不正アクセスの感触に苛まれている。その事を知っているアス

モデウスは、どうやらハダニエルを弱らせる効果もきちんと出ているようだと察し、満足げに顎を引いた。

が、不意に目を細め、犀に訊ねる。

「…小童はどこに行った?」

「ここに居るさ。どこにも行きようがないだろ?自分で閉じこめといて良く言うぜ」

不快げに応じたハダニエルの巨体の陰から、後ろ手に縛られている彼の脇に、雪豹がひょこっと顔を出す。

アスモデウスが手勢を得た際に、二人を改めて別々に縛り直していたのだが、

「別々に幽閉するつもりならこの場で暴れてやる!」

と、ハダニエルが猛烈に反発したので、一緒の独房に入れたのだった。

別々にされたら、自分の目が届かない所でラミエルが何をされるか判った物ではない。アスモデウスは信用できない。そう

主張しての事だった。

緊縛は厳重であり、一緒の独房に入れてもせいぜい愚痴りあうだけで何もできはしないだろうと考えたアスモデウスはハダ

ニエルの主張を受け入れたのだが…。

「その図体のおかげで、一目で姿が確認できないのは手間だな。もう少し考えるべきだった」

最後にそう捨て台詞を吐き、踵を返した。

ひたひたと足音を残して彼が遠ざかり、気配が感じられなくなった途端に、目を吊り上げていたハダニエルは「ふぅっ…」

と息を吐き出し、次いで顔を顰めながら呻いた。

「し、支配人?大丈夫ですか?」

案ずるラミエルに「平気平気…」と応じつつも、ハダニエルは本部システムへの不正アクセスで生じる不快感で、身を震わ

せていた。激しい苦痛ではない。悪寒と気怠さがその体を蝕んでいる。

「それより…、どう?上手く行きそうかな?」

首を巡らせた犀は、しかし見たい場所が見えない。後ろ手に拘束された「そこ」が気になっているのだが…。

「もう少しかかりそうです。済みません…」

「いやいや、謝る事じゃないって!それじゃあ引き続き頼むね?」

「はい…!」

応じた雪豹はハダニエルの背後で床に這い、顔の高さを合わせ、犀の太い腕を緊縛している帯状プロテクトにかぶりついた。

力を奮える状況にない為、直接牙を立てて干渉し、プロテクトを破壊するつもりである。

その場凌ぎだったが、縛り直されるその一瞬に機転を利かせたラミエルは、牙に簡易な破壊プログラムを仕込んでいた。

しかし、器具の補助も無ければ自身も緊縛されて力の大半を封じられているため、ラミエルの作業はなかなか進まない。

「ふぁふぁあふぁっふぇひふぁっふぁらほへんふぁはい…」(歯が当たってしまったらご免なさい…)

「ははっ!気にしなくて良いよそこは。平気だから遠慮無くガブッとやっちゃって!肉も皮も厚いんだから、おいら」

頼みの綱の雪豹を明るい口調で励まし、ハダニエルは目を閉じる。

(くそっ…!堕人がうじゃうじゃ侵入してる!前代未聞だぞこんなの!?)

警報すら機能していない状況のため、奇襲に次ぐ奇襲で本部人員に一方的な被害を与えながら、堕人達の侵攻が食い込んで

来る。

まさか本部内で襲撃を受けるとは思ってもいないので、それなりに腕が立つ者ですら突然襲われ、包囲され、多勢に無勢で

為す術無く倒れてゆく。

おまけに、折悪く精鋭達が出払っている為、本部防衛力はかつて無いほど手薄になっていた。

既にいくつかの部署は完全に占拠されてしまっている事が、ハダニエルには判っていた。だが…。

(察してか、それとも気付かずにか、見付からずにうろうろしてるのが居るな…)

頼るに値する配達人が、まだ連中に気付かれずに本部内を動き回っている事を確認し、犀は口元をニヤリと歪めた。

(頼むぞ〜、とっつぁん!上手い事ヤツらを出し抜いてくれよ!)



「ミックの野郎!勝手に突っ走りやがって!」

ビルの壁面をバイクで駆け抜けながら、ムンカルは苛立たしげに怒鳴る。

「まったくだ!相手は「あのひと」…、ミカールと同クラスの相手だというのに…!」

追走するアズライルも、フルスロットルで愛車を唸らせながら顔を歪める。

「海上に出たようだ。気配が遠い」

二人の下方では、器用に車の天井やボンネットを足場にはね回りながら進むナキールが、静かに目を凝らし、耳を澄ませて

いる。

「人間を巻き込まないためですね…」

狼のすぐ後を同じ走行ルートで進みながら、バザールが周囲を見遣った。

人間達は依然として不安げに、揃って海の方を向いている。

そちらに何が見える訳でもない。そちらから何か聞こえる訳でもない。だが、恐れを抱いて目を逸らす事ができない。

間に障害物があろうと、遠くて見えなかろうと、皆が皆、その方向を注視している。

赤子すら泣く事はなく、息を殺してじっとしている。

塒の鳥も身を寄せ合い、静かに胸を膨らませている。

猫が、犬が、その他の動物が、さらには虫さえも、同じように身を固くし、そちらを覗っている。

彼らは皆、本能的に理解していた。

審判の時が訪れた事を。



捕虜を緊縛し、あるいは消滅させて回っていたアスモデウス派の堕人達とは別に、収監されていた者達で結成された急造部

隊は、手薄になっている管理室を急襲した。

腕が確かな管理人から優先して派遣されていた事で、比較的戦闘力が低い者ばかりが残っていたため、ここもあえなく陥落

してしまった。が…、

「一匹!黒虎が逃げた!」

苦々しげに吐き捨てたメガネザルが、強引に突破して通路へ逃れ、応戦しながら姿を消した虎を捕縛すべく、数名を引き連

れて後を追う。

本部内は勝手知ったる庭のような物。脇腹に鎌を突き立てられ、深い傷を負いながらも何とか突破に成功したベリアルは、

地の利を上手く使って追っ手を巻き、ある場所を目指していた。

ゲートは占拠された。通信は死んでいる。それでもなお、外部との繋がりが完全に途絶えた訳ではない。

アシュター率いる堕人部隊との激戦で蓄積した疲労は抜けておらず、脇腹に刺さった鎌が流したウイルスが決して軽くはな

い損傷を彼に与えていたが、それでも黒虎は己を叱咤し、自室を目指した。

「メオー…ル…」

ようやく辿り着いたベリアルは、乱れた息の隙間から友の名を漏らし、ドアノブに手を掛け、押し開ける。

その背中に、「居たぞ!」「潰せ!」と、追っ手の声が届いた。

「くっ…!まだだっ!まだ終わらん!」

吠えつつ振り向いて発砲したベリアルは、時間稼ぎの応戦でさらに傷を負う。

今にも倒れそうなその状態で、しかし投擲されたハチェットで肩を抉られ、太腿にナイフが刺さっても、ベリアルは追っ手

を部屋に寄せようとしない。

数分の交戦の後、黒虎は口元を微かに歪めて笑い、

「任務…、完了…!」

そう苦しげに呟くなり、ドアを開けてよろめくように室内へ入った。

黒虎が内から施錠すると、ドアは厳重なプロテクトで堅固な防壁に早変わりする。

駆け寄った堕人達は、数に任せて扉を打ち壊しにかかった。いかに厳重とはいえ所詮は意思が介在しない存在。そう時間を

かけずに破壊する事も可能だった。

が、数度も叩かぬ内に、手にした得物が次々と破壊される。

ドアを貫いて走った、灰色の細い閃光によって。

動揺して後退した一同が見守る中、穴だらけになったドアの向こうに大きな影が射した。

そして、ドアがゆっくり開いたそこに、スーツを纏う大柄な灰色熊が姿を現す。

「ふ…、触れえざる者…!」

堕人の一人が畏怖を込めて二つ名を呟いた途端、ドビエルがおもむろに上げたコルトグリズリーが閃光を発した。

瞬く間に六度走ったブラスティングレイは、照射範囲を直径1センチ程に絞られており、堕人達の得物だけを分解する。

「降伏して下さい。悪いようにはしないと、約束します」

静かに告げたドビエルの後方には、ソファーの背面にもたれかかって尻餅をつき、肩で息をしている黒虎と、寄り添って治

療を始めている肥満体の猪の姿。

ベリアルの部屋に非公式に作られた個人的なゲートは、システム側最大戦力である灰色熊を本部へ迎え入れた。

これはメオールの作業場からの直通ゲートで、転送対象の認識速度が悪く、さらには予め登録してあるベリアルとメオール

以外が使う為には微調整が必要と、性能は良くない。

だが、ベリアルが時間を稼ぎ、死守した事で、先に転送されて来たメオールがゲートを弄り、ドビエルを呼び込む事に成功

した。

多数の仲間を入れるためにはさらなる調整が必要なものの、ここからは援軍の侵入口として機能させる事ができる。

堕人達に投降を呼びかけていたドビエルは、ちらりと部下を振り返った。

「よくやってくれました。ベリアル君」

「は…、はい…」

「ですが、ゲートの無許可設置は重大な規定違反です。今回は大目に見ますが、後で埋めておくように」

「…は…」

耳を倒したベリアルは、傷を癒してくれているメオールを見遣った。

「本部に繋がらないってんでね、こっちはどうだ?って室長から問い合わせがあったのさ。それでまぁ一回飛んで来てみたら、

中が凄い事になってたから…。まずいとは思ったけど、かなりヤバい事になってるし、お叱り覚悟でこのゲートの事を打ち明

けたんだ」

「よくやってくれた…。もしかしたらと思って死守しに来たが…、お前はやはり最高の相棒だ、メオール…」

黒虎にそう告げられた猪は、耳を寝せてそっぽを向く。

「ほ、褒めたって何も出ないかんね!」

「ところでベリアル君。勝手ながらただ今よりこの部屋を臨時拠点とします」

唐突なドビエルの言葉に、上司の背を見遣ったベリアルは、少しばかり困ったような、そして焦っているような表情を浮か

べた。

「なので、見られて困るような物は今の内に片付けておいて下さい」

出来る上司の気遣いでハッとしたベリアルは、申し訳なさそうにメオールを見遣り、ぼそぼそと囁く。

「…机の上に………日記………この間……デートの…」

「馬鹿ちん!何で出しっぱなしにして…ってか日記とか付けてんじゃないよ馬鹿ちん!」

慌てて立ち上がったメオールがデスク上の日記を取りに行っている間に、ドビエルは通路に歩み出て後ろ手にドアを閉める。

「降伏、して貰えますね?」

萎縮している堕人達からは、返事がない。ため息をついたドビエルは、

「…おるなぁ…、今せいどっから、優しくしとぉ間にはよ返事せんね…!」

珍しく、凄味と訛りと苛立ちのある太い声を発し、彼らを威嚇した。



一方で、中央管制室を占拠しに向かった堕人達は、その目前で思わぬ障害に突き当たっていた。

「はいはい、皆さんはちぃ〜っと中で大人しくしとってくんろ〜!オラど師匠で片ぁ付けどっからよぅっ!」

緊張感のない、楽しげにすら感じられる口調で言うスパールの手で、管制室のメンバーは中に押し込まれる。

その手前で管制室のドアと弟子を背後にして立ち、腕組みをしながら不敵な笑みを浮かべているのは、独立配達人テリエル。

最古にして伝説のオーバースペックを前に尻込みする堕人達は、

「さぁて、おっ始めるとするかのぉ!」

一声上げるなりぐっと身を屈めた濃紺の猪の姿を、一瞬たりとも目を離さなかったにも関わらず、見失った。

動揺した一団の背後に、ノイズすら発生させずに空間跳躍して来たテリエルが、姿を現しつつ拳を振り上げ、

「こっち向けぇ!歯ぁ食いしばれぇ!行くぞぉ!」

声を上げ、振り向かせた堕人の一名を、腰の入ったフックで思い切り殴り飛ばした。

豪腕の一撃で吹き飛び、仲間を巻き込み、壁に叩き付けられた堕人は、勢い良く床に叩き付けられる。

重力に引かれて落ちたにしては、その動きはいささか妙だった。ただ落ちたにしては速過ぎるのである。

それもそのはず、テリエルに殴られた堕人と、彼に触れた者は、一様に呪縛を受けてしまったのだから。

「どうじゃぁ?愛の重さは!」

テリエルは立派な牙を生やした口元をニヤリと笑みの形にし、両拳を胸の前でガツンと打ち合わせる。

その手には、具象化させた彼のオリジナルプログラム…鋲付きの皮グローブが着装されていた。

床に這い蹲った堕人達は起きあがろうとしているが、しかし体が重くなってまともに動く事すらできない。

これこそが、テリエルの固有能力だった。

愛。すなわち何かへの執着や欲求、渇望する何かを持つ者を、抱えた想いの強さに比例する重みで縛り付ける力…。

人間のような恋愛感情を持たずとも、欲や望みにすら反応して発動するこの力は、強靱なイブリースですらそう簡単に跳ね

退ける事はできない。

ささやかな欲望ですら、彼らを縛るには充分過ぎる枷となる。分不相応の強い執着を抱いていれば、重みで潰れてしまう。

理想も、自由への憧れも、テリエルの前では全て一括りに「愛」とされ、それらを抱く者はその重みに縛られ、まともに動

けなくなる。

元々何物にも執着を持たない存在であれば話は別だが、この能力を完全に破る術は存在しない。

「お師匠〜!銃は使わねぇんで〜?」

どこかのんびりとしたイボイノシシの問いに、テリエルは「ふん!」と鼻を鳴らして応じた。

「愛がこもったゲンコツ!これ以上の武器は無いわい!」

「さいですかぁ」

「お前もぼーっとしとらんで働かんかいスパール!こいつはおそらくアスモデウスの策じゃ。何処に潜り込んだか知らんが、

やっこさんをとっ捕まえて、さっさと終わらせるぞい!」

「合点だぁ!」

ニヤリと笑って頷いたスパールは、太腿にホールドしていたレッドホークを引き抜いた。



「ちぃっ!」

爆風で押され、再び海面すれすれまで下降させられたミカールは、北極熊を睨め上げる。

そこへ飛来したパールホワイトの光球を、ミカールは横っ飛びに避けた。

直後、握り拳大の球は海面に触れて炸裂し、ジュボッと音を立てて水蒸気爆発を引き起こす。

無尽蔵なエネルギーと処理能力は獅子の予想を上回り、単純な凝縮エネルギーの塊を投げつけるだけの攻撃が、直撃を受け

ればオーバースペックですら致命傷になるほどの破壊力を秘めている。

上空の北極熊は、ミカールを見下ろしたまま広げた手を下方へ向けた。

そこへ、漂う燐光が凝縮され、破壊の光球が生み出される。

(あんなもん連発して疲れ知らずとは…、つくづく理不尽なヤツやなぁオドレは…!)

胸中で呟いたミカールは、海面に降り立ち、そこを地面のように踏み締め、すっと片足を上げた。

そして振り下ろし、どしっと踏むと、暗い波間を裂いて太く黒い砲身が夜空めがけてせり上がる。

「あまねく響け!アハトアハト!」

号令と同時に、砲身の先からレモンイエローの閃光が発せられる。

それを迎え撃つのは、北極熊の手から弾き出されるように放たれた破壊の光球。

接触と同時にレモンイエローとパールホワイトの光は爆散し、熱と衝撃に炙られた海面が激しく乱れ、蒸気が吹き上がる。

「もういっちょや!」

続いて再び足を上げ、踏み下ろせば、二本目の砲身が天を突き、光の奔流を吐き出す。

しかしこれも再度飛来した白い光球と相殺し、攻撃が通らない。

ミカールにしてみればダミー空間を展開したい所だったが、その余裕も無く、また、無駄になるだろう事も予想が付いた。

おそらく、ミカールが展開する強固な隔離空間でさえ、今の北極熊は容易く引き裂いてしまうだろう。

人間の街に向けて光球を撃たせる訳には行かないので、ミカールは必然的に北極熊の下方か上方、あるいは沖側にしか位置

取れない。

動きが限定されるという事は非常に厄介な枷で、童顔の獅子は自由に立ち回る事ができず、厳しい戦いを強いられている。

丸く出た腹をふいごのように動かすミカールは、疲労困憊の有様だった。

万全の状態、かつ何の制約が無い状況でも一対一でねじ伏せるのは厳しい相手…。ネビロスの攻撃でダメージを負い、動き

を限定されたこの状況では、満足な打撃を与える事も叶わなかった。

それでもミカールは引かない。

この有様になった北極熊と相対した事で確信していた。

ムンカルやアズライル、ナキールでは、真っ向から当たれば数秒も保たずに消滅させられてしまうという事を。

(ワシが何とかせなあかん…!ワシが…、何とか…!)

息を乱しながらも、ミカールは空間跳躍を試みた。

爆散した粒子を目眩ましにノイズを発生させ、次の瞬間には北極熊の頭上を取る。

(ここや!)

瞬時に具現化させた巨大な剣を振りかぶった状態で、ミカールは力を振り絞る。

キャリバーンに限らず、オーバースペックの固有能力の結晶体は、それ自体が高純度の凝縮プログラム…いわばエネルギー

の塊である。

能力が作用しなくとも、力任せに叩き付ければ、破壊力はデータ圧縮弾の非ではない。

ミカールは自身の最大最強の攻撃手段である流星群に傾けるだけの力を、キャリバーンの一振りに集約する。光度が上がり、

太陽のように目映く、しかし熱を発さずに巨剣が輝いた。

だが、ありったけの力を注ぎ込んだ剣を振り下ろそうとしたその刹那、北極熊の顔が何の前置きもなく、グリンッと、唐突

にミカールへ向く。

「しまっ…」

奇襲がばれていた事を悟ったその瞬間には、剣を振り下ろす前に、ミカールは喉輪で捉えられていた。

「え…ぐ…!?が…!」

もがく事すらほとんどできなかった。掴まれた喉から力が吸い出され、自由が利かなくなってゆく。

ミカールの全身から急速に力が抜け、握ったキャリバーンの輪郭が滲んでぼやけ、霧散して消える。

背から翼が消え、伸びていた鬣が抜け落ちるようにして短くなり、除幕が解除される。

力が吸われて除幕維持すらできなくなったミカールは、喉を締め上げられながら、悔しさに顔を歪めた。

「ジブ…リー…ル…!…イブ…リース…!」

呻きながら喉を締める北極熊の手首を掴むが、ビクともせず、緩みもしない。

為す術がない。直接触れられたら、捕まってしまったら、その瞬間に終わってしまうのだと理解した時には、もう逃れる余

力すら無かった。

「…ち…く……しょ…!」

目がかすみ、視界がぼやける中で、炯々と光る北極熊の瞳だけが、赤く、はっきりと見えた。

悔しくて、哀しかった。

結局自分は友を苦しめるだけ苦しめ、救ってやれなかった。

悔恨がミカールの胸を満たすが、しかしそれすら意識と共に薄れてゆく。

「…ちく…しょ……う…」

ミカールの手が力を失い、北極熊の手から離れ、

「済ま……ジブ…リー………………済ま……ん………イ…ブリ………ス…」

だらりと体の脇に垂れ、揺れる。

「………………済ま……ん………デ………イ……ブ………。ワシ……も…う………あか……ん…………」

力なく声を漏らすミカールの双眸から輝きが失せ、瞳が濁り始めたその瞬間、

「ミックを…、放しやがれぇえええええええええええええええええええええええええっ!」

大気を揺るがす怒鳴り声と共に、灰色の閃光が夜空を駆け抜けた。

身を翻した北極熊は、コートの裾を光に飲まれて分解されつつ、ミカールを放り出して素早く顔を巡らす。

宙を疾走する大型バイクに跨った鉄色の虎が、唇を捲りあげ、牙を剥き出しにし、銃口を北極熊に据えている。

その全身は灰色の燐光を帯び、無断で全面解禁したブラストを纏って鈍く輝いていた。

その傍らから、誰も乗っていないバイクが海面へ落下して行く。

「ミカール、気を確かに」

落下していく途中で抱き止められた獅子は、バイクを乗り捨てつつ除幕し、神速で駆け付けたナキール…否、ザバーニーヤ

化したスィフィルの顔を、薄く目を開けて見遣る。

振り向いた北極熊が光球を弾き出すと同時に、狼男は姿を霞ませ、高速移動で回避しつつ横手へ回り込んだ。

ミカールを左腕でしっかり抱き、右手には草刈鎌。

彼と対角線上には、北極熊を挟み込むポジションに移動した鉄色の虎。

双方を一度ずつ見遣った北極熊は、次いで、遅れて駆けて来た桃色の豚の姿を目に留める。

が、ここで三人は異常に気付いた。

一人、同行していたはずのメンバーが足りない。

「バザール!アズライルはどうした!?」

「え!?う、後ろに居るとばかり…!」

ムンカルの声に戸惑いながら応じたバザールは、しかし後方を見ても黒豹の姿が無い事に気付き、動揺する。

「彼女の事は後にせよ。彼奴が動くぞ」

スィフィルが警告を発する。

万全の状態では無かったとはいえ、ミカールが敵わない相手…。

自分達の力が一体何処まで通用するのか?スィフィルは冷静に、残酷な答えを導き出す。

(おそらくは、我らが束になっても刺し違える事すら叶わぬだろうな…)