第六十八話 「滅びの配達人」(中編)
銃を片手にぶら下げた灰色熊は、ゆっくりと、注意深く通路を進んでいた。
注意は絶やさないが、物陰に隠れたりもせず闊歩している。
彼には隠れる必要が無い。その巨躯はうっすらと灰色の燐光を発し、浸食破壊現象を衣として纏う事で鉄壁の防御を実現し
ている。物陰に隠れるという行動はブラストを纏うよりも防御としては頼りない、自らの行動を制限するだけで、彼にとって
はメリットにならなかった。
注意深く周囲を覗うのは、自己の安全の為ではなく、相手と本部の安全の為である。
やりすぎない事。彼が今注意すべきは、まずその事だった。
威風堂々と通路を行く彼の前には、既に数組の堕人が現れていたものの、いずれも赤子の手を捻るように、秒単位で制圧さ
れている。
ドビエルはそのスペックと能力によって、対抗策を持たない者からすれば文字通り「触れえざる者」だった。
「ドビエル室長…」
その声が聞こえた時には、ドビエルは相手の接近に気付いていた。
行く手の通路に、角を曲がって姿を現したのは、同輩である黒面羊。そして…、
「…アスモデウス?」
ドビエルは目を細める。羊に付き従う形で姿を見せた、大敵であるはずの黒獅子を見据えて。
「勝手ですが、機能停止状態で見付かった彼を執行人にしました」
黒顔の羊は歩み寄りながらそう告げ、ドビエルの眉根を寄せさせた。
「承諾無しに、ですか」
「糾弾は後でいくらでも…。結果論になりますが、この選択は間違っていなかったと思いますよ。この状況では手駒が必要で
すから」
「…確かに、この件については後でじっくり話し合う必要がありそうですね」
ドビエルは黒獅子を見遣る。
意思の光を感じさせない茫洋とした目は、ドビエルを通り越して遙か遠くを見据えていた。
「現在の状況は、詳しく解りますか?」
「ドビエル室長はどの程度まで把握していますか?」
「ついさっき駆け付けたばかりなので、殆ど判っていません。ですが、本部の半ば以上が既に占拠されてしまった物と考えて
います」
「現状はおおよそその通りです。管理室もラボも押さえられました。因果管制室は判りませんが…、おそらくもう」
「そうですか。ハダニエルは?」
「行方知れずです。ただ、本部システムが維持されているからには、きっと無事なのでしょうが」
ドビエルは考え込むようにして顎に手を当てる。予想通りの良くない状況だと再認識して。
「ドビエル室長、これを」
黒面羊はすっと手を出し、ドビエルにある物を差し出した。
それは、非常用のエネルギー補給サプリメントのケースだった。
「半分使っていますが、無いよりはましでしょうから」
「助かります」
ブラストの衣を消して受け取ったドビエルは、再びアスモデウスの方を見る。
「制御は完璧なのですか?」
「問題有りません。本当はすぐイブリース用に派遣しようかとも思ったのですが、雲行きも怪しかったので、本部の守りを優
先して留めていました」
「…そうですか」
何を思うのか、ドビエルはアスモデウスを見つめて目を細め、軽くかぶりを振った。
「わたくしはこのまま進みます。貴方はこのまま退いて、自身の安全を確保して下さい」
頷いた黒顔の羊とすれ違い、ドビエルは足を進めた。
その背後で、黒顔の羊は懐から注射器型のデバイスを取り出す。
ブラストの衣は、サプリメントを渡した際に解いたまま。ドビエルは無防備に背中を見せている。
羊は静かに、しかし平時に見せない素早さでドビエルに接近した。
が、彼がその背まであと三歩の距離まで迫った所で、ドビエルが唐突に振り向く。
「…彼に何をしました?アスモデウス」
一瞬の硬直と一瞬の沈黙。
瞬時に飛び退いたアスモデウスの眼前で灰色の閃光が球状に炸裂し、その端に触れた通路や壁が分解されて粒子となる。
黒顔の羊を押しのけながら、目にも止まらぬ動作で照準を合わせたコルトグリズリーは、ブラストの洗礼を挨拶代わりに吐
き出していた。
突き飛ばされる格好で倒れた羊が起きあがる様子を確認しつつ、ドビエルは銃口を黒獅子の顔へ向け直す。
「何故気付いた?」
傀儡のふりをする事を止めたアスモデウスが問うと、ドビエルは片方の眉を僅かに上げた。
「わたくし自身も曖昧なので説明した所で理解して貰えそうにありませんが…、強いて言うなら「なんとなく」でしょうか?」
「ふん。答える気は無い、か」
アスモデウスはこの返答を挑発と受け取ったが、実際にドビエルは「なんとなく」察しただけであった。
作品を何かと前線に送り込みたがる黒顔の羊が、「本部の守りを優先して…」などと発言した時点で、ドビエルの中には微
かな違和感が生まれた。
そしてそれは言動の節々に生じる、アスモデウスに操られているからこそ出てしまう羊本人の平時の言動との齟齬により、
確かな疑念へと変わっていった。
ハダニエル達には見破れなかったが、ドビエルだけは違った。何かと自分を敵視し、事あるごとに自分につっかかって来る
黒羊だからこそ、彼の微細な癖や言い回しなどが印象付けられていたのである。
友好的な物でなくとも、接触があればそこに関係が生まれる。
黒顔の羊とある意味で強固な関係を築いていたドビエルだからこそ、異常に気付けたとも言える。逆に言えば、従っていた
部下達でさえ、黒顔の羊の事をドビエル程にはしっかり見ていなかった。
皮肉な事に、黒顔の羊にとって一番の理解者は、誰よりも敵視していたドビエルその人であった。
「執行人…。反吐が出る存在だな」
アスモデウスは口の端を歪める。嘲るように。
「そういう…事ですか…」
獅子の言葉で黒顔の羊がどんな状態にあるのか理解が及んだドビエルは、沈痛な表情を浮かべた。
「哀れむ必要などない。その男は、これまでに自分がして来た事の報いを届けられただけだ」
「届ける権利が、あるいは義務が、貴方にありましたか?」
「いいや、届けるのは誰でも良かったのだ。その男が受け取りさえすれば…。機会と状況が許すなら、ネビロスにやらせてや
りたかったというのが本音ではあるがな」
「…ネビルは…、今どうしています?」
「システム側の最高指導者が堕人の心配か?…まあ良い。貴様を手駒にできなかったのは少々残念だが、その男の役目も済ん
だ。とりあえず返しておこう」
アスモデウスの体がノイズを纏い、空間跳躍に入ると、ドビエルは「させません!」と吠えつつトリガーを引き絞る。が、
その眼前に羊が飛び出した。
「くっ…!」
寸前で発砲を思い止まったドビエルの前で、羊の背から、白衣を裂いて翼が伸びる。
それはコウモリのソレにも似た翼手でありながら、しかし湾曲した鋭いかぎ爪がソレとは違っていた。
「…オーバースペックの執行人化は、データがありませんが…」
ドビエルはじりっと後退する。
羊の頭部でメキメキと音を立て、歪に拗くれた角が無数に生え始めていた。
「投与プログラムの不具合なのか…、それともオーバースペックに投与した場合、機能衝突などで予期せぬ不具合が生じてし
まうのか…」
ぶんっと音を立て、ドビエルの体がブラストの燐光を纏う。
「キシッ…、キシシシシキシキシキシシシシッ…」
声とも、何かが擦れぬ音ともつかない物が、黒面羊の口から漏れる。
「これは…、一筋縄では行きそうにありませんね…」
果たして、自分はこの男を救えるのか?本部を守れるのか?
そんな自問を頭の隅に押しやり、ドビエルは素早く体を開き、横向きになる。
深くお辞儀する格好で頭を下げた羊の背から、強靱な翼手が天井を斬り崩しつつ弧を描いて振り下ろされ、灰色熊の眼前で
床を砕いた。
一瞬止まったその翼を撃ち、浸食破壊を試みたが、羊は翼を即座に切り離し、お辞儀の格好から床に手を突いて逆立ちする。
その背中から、鈍く輝く黒い剣先が無数に飛び出した。
首を逸らしたドビエルの顎先を、羽毛の一枚一枚が刃となった、無数の剣で構築された翼が掠める。
逆立ちしたままぐんっと旋回する羊の周囲で、翼の高さにあった壁が削り取られた。
振り回された翼から跳躍して逃れたドビエルは、天井に逆さまに立ち、続けざまに発砲する。
しかし、範囲を絞ったブラストが炸裂する度に、黒面羊は浸食を受けた部位を切り捨て、別の物を生やす。
本部をなるべく傷付けないよう、そして羊を消滅させないよう、慎重な立ち回りを要求されるドビエルは、珍しく焦りの表
情を浮かべていた。
(もはや…、既存のワールドセーバーとは異なる何かと化していますね…。このプレッシャー…、それに禍々しさ…、危険性
はアスモデウスにも劣りません)
容易くねじ伏せられる相手ではない。ドビエルは細心の注意を払い、黒面羊との戦闘に臨む。
一方その頃、地上では…。
「何が起こった…?」
アズライルは呆然と呟く。
目の前に立つ、白猫を見つめながら。
「何をした?私は…、ここは…、一体…?」
バイクに跨ったまま、アズライルは周囲を見回した。
白い景色が広がっている。
雪がはらはらと、音もなく舞い降りている。
見覚えがある景色だと思ったアズライルは、ほどなくここが、以前の自分が処刑された場所にそっくりだと気付いた。
仲間達と共にイブリースの元を目指していたはずの彼女は、ふっと辺りが目映くなったかと思えば、雪の上を走っていた。
驚いて停車して辺りを見回せば、いつの間にか目の前にこの白猫が出現していたのである。
この白猫に何かされたのだと理解した彼女は、苛立たしげに銃を抜き、少女の頭部に向けた。
「すぐに戻せ!私は行かねばならないのだ!」
銃に怯む事もなく、その言葉に応える事もなく、白猫はアズライルを見つめ続ける。
「お前は私なのだろう!?ならば判るはずだ!あのひとを助けなければならない!あのひとの片割れはきっと間違っている!
止めてあげなければいけないと、何故判らないのだ!?」
声を上げるアズライルの前で、白猫はすっと、横に手を上げた。
何かするつもりかと緊張した黒豹は、しかし少女が人差し指を伸ばして指し示した先に四角い窓がぽっかりと出現すると、
そちらに目を向けた。
そこには、外界の映像が映し出されていた。
「…ジブリール?いや、違う…。それに…、皆…?」
アズライルは見つめる。様相が大きく変わった北極熊と、ソレに立ち向かう仲間の姿を。
「るあおっ!」
吠えた北極熊の豪腕が空を切る。
ミカールを抱えたまま高速移動で回避した狼男だったが、再突進して来る北極熊に間合いを詰められた。
掴みかかる手を草刈鎌で払おうとしたスィフィルは、しかし寸前で思い止まり、何もない箇所を蹴って跳ぶ。
直後、伸ばされた北極熊の手の先で、パールホワイトの閃光が炸裂した。もしも受けに回っていたならば、まともに浴びて
いた所である。
手負いのミカールを庇っての戦闘では、スィフィルも持ち味である超高機動力を活かせない。フォローに回るべく、ムンカ
ルはバイクで接近する。
「おらぁ!」
手加減無し、全力で放たれたブラスティングレイが、北極熊を飲み込む。
が、捉えたように見えたのは残像で、本体は灰色の太い柱の脇へと、翼を煽って移動していた。そこへ、ムンカルがバイク
ごと突っ込む。
もはや同僚や先輩に対する加減という物はそこにない。北極熊を跳ね飛ばすつもりで突進したムンカルは、北極熊の突き出
た腹に、フルスロットルの加速を乗せた前輪をお見舞いする。
「るるっ!あるるるるるるるるるるるっ!」
かつてジブリールが駆っていたファットボーイの前輪を両手で掴み、踏ん張ろうとした北極熊だったが、なおもアクセルを
ふかすムンカルの勢いに押されて後退した。
その隙に、スィフィルはミカールの襟首を掴み、「失礼つかまつる!」と一声発するなり、乱暴に放り投げる。
バイクで走り込んだ桃色の豚が、「あわーっぷ!」と叫び声を上げながら童顔の獅子をキャッチしたが、小さい割に重いそ
の体を支えかね、バイクから落ちかけた。
彼女が受け止めに入ってくれる事を信じていたスィフィルは、もはやそちらを一瞥もせず、残像すら残さない高速移動で北
極熊に迫った。
「うぉらぁあああああああああああああああああああああっ!」
全身全霊で轢くつもりで、エンジンに負担をかけつつ愛車を叱咤するムンカルと、有り得ないレベルの馬力に押されている
北極熊。この土壇場で強まっているムンカルの拍動が影響しているのか、ファットボーイは理論上の限界を超えたパワーを発
揮していた。
その膠着した状態は、スィフィルにとって好機以外の何物でもない。
ジャッと、急停止の音を響かせて宙を踏み締めたスィフィルは、北極熊が滑ってゆく先に出現している。その両手には、全
力を注ぎ込んで固着させた二本の草刈鎌。
視線を交わさずとも、言葉を交わさずとも、虎と狼は完璧なコンビネーションを見せた。
ムンカルとファットボーイに押されて迫る広い背中めがけて急加速したスィフィルの両腕が、素早く振るわれる。
十二枚の翼は咎落としの鎌によって根元から切り払われ、そこから跳ねたスィフィルは北極熊とムンカルとは交錯する格好
で跳躍し、彼らの頭上を越える。
逆さまになった彼の手の中で、二本の草刈鎌が柄尻を合わせられ、一本になる。
無言のまま投擲された鎌は、高速回転しながら空を裂いて飛んだ。
その軌道上で、ムンカルは見もせずに、ぎりぎりまで引き付けてから頭を下げる。
ムンカルが目眩ましになったおかげで、北極熊はソレの飛来に気付けなかった。
翼を削がれた今、そこまで間が詰まっては回避も間に合わない。
勝利を確信したムンカルだったが、しかし顔を下げたまま、ガヅッ、という硬い音を聞き、違和感を覚えた。
素早く上げられた虎の顔が、驚愕で凍りつく。
北極熊は、飛来した鎌に食いつき、牙で受け止めていた。
申し合わせもなく試みた二人の策とコンビネーションは完璧だった。が、北極熊はそれでも沈まない。
「…化け物め…!だがこいつはどうだ!?」
ムンカルはハンドルから手を放し、リボルバーを握る。
その銃口は、北極熊の胸に狙いを定めていた。
「ブラスティングレイ!フルショットだ!」
迸る閃光。
ゼロ距離で立て続けに六発放ったムンカルから前方は、灰色の閃光で埋め尽くされ、沖合までが浸食破壊領域に収まる。
今度は回避できていない。確信したスィフィルは、即座にムンカルへ接近した。
「今が好機だ。退却する」
「あん?何言ってやがる。旦那二人分とは言っても、今のはさすがに堪えただろうよ」
たたみ掛けるべきだと考えたムンカルが、戦闘継続を主張しようとしたその時、
「…いや、大して効いてはいないようだ」
スィフィルの言葉と共に閃光が収まり、ムンカルは絶句した。
北極熊は後退こそしていたものの、宙を踏み締め立っている。
コートが吹き飛び、白い上半身を顕わにしているものの、ダメージは確認できないほど微々たる物だった。
「何でだ…?何で効いてねぇ?ブラストは…、プロテクトも関係なく…」
呻くムンカルの脇で、スィフィルが応じる。
「浸食破壊は確かにプロテクトを無効にして作用する妙技。だが、浸食し、破壊できる量には限度がある。それはドビエル室
長殿とムンカルのブラストに差がある事からも察しが付こう」
「それにしたって…。通用しねぇ訳じゃねぇだろうが…」
「彼奴の存在が強大過ぎるが故に、お主のブラストでは薄皮を剥ぐ程度がせいぜいなのだ。…おそらく、ザバーニーヤの清掃
もさして効果を現すまい…。カミソリ一枚でエアーズロックを粉にしようとするような物と言えよう。痛い事は痛いだろうが、
いくら繰り返しても致命的損傷は与えられまい。故に…」
スィフィルはすっと目を細め、ムンカルに囁く。
「隙を作って撤退する。我らだけでは到底手に負えぬ…。アレを削り尽くすには、万人がカミソリを持ち寄って当たるしかあ
るまい」
絶望的実力差を痛感させられながら、ムンカルは屈辱を噛み殺して頷いた。
(何て事だ…。俺達は、自分達だけじゃ仲間一人も助けられねぇのか…!?)
「何故だ!?何故…、あの二人でも敵わない!?」
切り取られた景色で仲間達の戦いを見せられながら、アズライルは叫んだ。
常々こき下ろしてはいるものの、戦闘に関するムンカルの実力は彼女も認めている。ナキール=スィフィルについては元々
オーバースペッククラスの存在だと聞かされてもいる。
それなのに、息があった戦い方を披露した二人の前で、ブラスティングレイの直撃すら受けたにも関わらず、北極熊はピン
ピンしていた。
その姿を目にし、アズライルは苦しくなった。
あれはもうジブリールではない。イブリースの何処か哀しい狂気すら感じられない。
両者とはまるで違う何かなのだという事が、黒豹には判ってしまう。
「あれは…」
白猫が口を開き、黒豹は素早く首を巡らせて彼女の顔を見遣った。
「もう、ジブリールでも、イブリースでもない…。あれは、アズライル以外の全てに滅びを届けるべく生まれたモノ…」
「滅びを…届ける…?」
呻いた黒豹に頷き、白猫はその瞳を凝視した。
「万物の敵対者。ザ・サタン。あるいはアル・シャイターン。好きに呼べばいいわ」
茫洋とした眼差しが急に理知的な光を帯びた事で、アズライルは戸惑う。
「イブリースは選択した。己に食い込んだジブリールと向き合い、意識の相殺によって押さえ込む事で、肉体と衝動のコント
ロールを手放し、わざと暴走させるという手段を」
「何故…そんな事を…?そうだ!彼は元に戻れるのか?」
何よりも気掛かりなその事に、しかし白猫は答えを寄越さなかった。
「彼らでは止められない。敵わない。歯が立たない。手の打ちようがない。どうにかできるとすれば…」
白猫は黒豹の瞳をじっと見つめ、厳かに告げる。
「「アズライル」…」
黒豹は理解した。
己の半身とも、双子とも言える白猫が、何の為に自分をここへ連れ込んだのかを。
「…選択の時は来たわ。どうする?」
白猫の言葉に、しかし黒豹は答える事ができない。
「…私は…。私…は…」
苦悩する黒豹の中で、胸を裂くような苦痛が暴れ回る。
止められる可能性は「アズライル」。
自分ではない。白猫でもない。かつて存在した、北極熊に比肩し得るオーバースペック「アズライル」でなければ、この状
況をどうする事もできない。
「…融合…しようと言うのか…?」
呻いたアズライルは、仲間達が追いつめられて行く様を目の当たりにしながら、しかし決断できなかった。
自分が自分でなくなってしまう事が、あまりにも恐ろし過ぎて。
一方、本部では…。
アスモデウスの手引きで侵入した堕人達によって、占拠済みのロビーからは椅子や机が取り払われ、捕虜が固められていた。
平時は憩いと息抜きの場になっているカフェに、今は痛めつけられ、自由を奪われて呻くワールドセーバー達がひしめいて
いる。
日常が非日常になった事をまざまざと思い知らせる光景だった。
「御頭!」
堕人の一人が声を上げ、皆がアスモデウスに気付く。
黒顔の羊をぶつけたうえで空間跳躍し、ドビエルをまいた黒獅子は、あの灰色熊たった一人の介入で優位性が揺らぎかねな
いと判断し、厳しい表情をしていた。
「ドビエルが入り込んだ」
その一言で堕人達がどよめき、捕虜となっていた者達の目に希望の光が灯る。
「因果管制室はどうだ?占拠できたか?」
「それが…、テリエルと弟子に阻まれて…」
「なるほど…」
アスモデウスは唸る。
一騎当千の強者が二人。さらに一方には戦闘特化のハイスペックが一人ついている。対抗し得るのは自分程度で、他の堕人
が束になっても厳しい。
「アシュターはどうしている?」
「それが…、来ていないようです…」
「何!?」
アスモデウスの顔が驚愕に引きつる。
予想外の事態だった。むしろアシュター抜きでここまで迅速に行動できていた配下を褒めるべきなのだが、逆にそのスムー
ズさのせいで、アシュターの不在に気付けなかった。
「アクシデントかとも思いましたが、ゲートは正常に作動しているので、途中まで気が付きませんでした…。すぐにもご報告
すべき所を、申し訳ございま…」
「よい。この状況では仕方がない。それよりも、彼女抜きで良くやった」
部下を労いながらも、アスモデウスの胸中には不安の雲が広がっている。
(どうしたというのだアシュター?お前が仕込んだゲートが動いている以上、消滅した訳ではないだろうが…)
伴侶の不在。安否が気遣われ、アスモデウスの心を乱す。
「…数名、牢に赴いてハダニエルの様子を確認し、連れて来い。ドビエルには傀儡をぶつけたが、人質の方がより効果的だ。
本部そのものが人質となっては、流石のテリエルも無視して突っ走りはせぬだろう」
「まだ通信は回復せんのか?」
急かして後ろからのしかかるテリエルに辟易しながらも、リスの監視者はコンソールを操作し続けている。
「非常処置でレーダーは回復しました。受信はできますが…、発信が…」
「救援招集はできん、という事か?あー、こりゃ困ったのぉ」
「ちょ、ちょっと!重いですテリエル氏!」
小柄なリスはテリエルの腹に背中を押されてコンソールデスクに押しつけられ、苦鳴を漏らす。
「…そうじゃ、ちぃとミカール達の所を見て貰えんか?」
「は、はい…!」
リスはコンソールを操作し、ミカール達が居る近辺をレーダーに映す。
途端に、その反応を目にした全員が息を飲んだ。
「こ、これは…?イブリース…?いや、イブリースではない!?」
呻いたリスの後ろで、テリエルが一層身を乗り出す。
だが、今度はリスも抗議しなかった。それどころではなかったせいで。
「…この数値…、反応…、まさか…?」
キーをカタカタと叩いて、検出された波長と照らし合わせたリスは、
「「ジブリール」です!あの…、あの…!あの時の…!」
テリエルは呻く。
直接会った訳ではないが、暴走したジブリールがどれほどの物だったかは記録されたログで彼も知っていた。
だが、実際にこうしてリアルタイムで数値を見た瞬間に悟った。
「困ったのぉ…。こいつは…、このテリエルよりも遙かに上じゃ…」
敵わない。その事が一目で理解できた。
ドビエルでも、テリエルでも、他のオーバースペックでも、今の北極熊を上回れない。
「執行人の反応皆無!ぜ、全滅した模様!この反応は…、ミカール氏のチームが対応しているようです!」
「…長生きなんぞ、するもんじゃないわい…!」
呟いたテリエルは踵を返し、ドアに向かう。弟子の一人であるバザールが渦中に居る事は、反応を見れば一目瞭然だった。
猪はドアを抜けて通路に出ると、防衛のためにそこに陣取っていたスパールに今後の方針を告げる。
「早々に事態を収拾する必要が出てきたわい。済まんがここは一人で守ってくれぃ。それと、バザールのバイクの監視コード
を連中に教えて、映像を取得できるようにしてやれ」
「合点!」
テリエルは威勢良く応じたイボイノシシの顔を見上げ、厳しい表情で囁きかけた。
「史上最悪の事態が発生しとる。中でちぃと聞いて来い。そして…、絶対に、気持ちで負けるな!心が折れたらそこまでじゃ
からな…!」