第六十九話 「滅びの配達人」(後編)

「出ろ!」

 数名の堕人達が扉を開けて怒鳴ると、ハダニエルは顔を顰めた。

「何なんだよ?入れって言ったり出ろって言ったり…」

 不服そうな犀に、苛立った堕人が声を荒らげる。

「さっさと立て!貴様は生かしておく必要があるから特別だが、素直に従わんなら、後ろの豹を消しても良いんだぞ!?」

「ほぉ…」

 ハダニエルの小さな目がすぅっと細くなり、瞳の奥で剣呑な光がちらつく。

「そっかー。そいつは困るなー。んじゃ立つか。立てば良いんだよなー」

 のっそりと犀が立ち上がり、堕人達は早く出てくるように急かそうとした。

 が、言葉が続かなくなる。

 頭が天井に触れそうな独房内で立ち上がった巨人が、肩をほぐすように腕を回した事で。

「え?な…、あ…?」

「あ〜…、肩凝った…」

 呻くハダニエルの足下には、床に這い蹲った雪豹。

 口元に千切れた拘束布をくわえたラミエルが、混乱している堕人達に向かって目を細め、にぃっと笑って見せる。

 ギリギリだったが、噛み千切る事に成功していた。

「…んで、次はなんだっけ?あー…、出れば良かったんだっけ?」

「な…!あ…!う…!…おごぉっ!」

 最も前に立っていた不幸な堕人は、その胸を巨大な手で突かれ、後ろに立つ仲間を巻き込んで吹っ飛ぶ。

 強烈な突っ張りで前方の視界を良好にした犀は、そのままドドドッと独房を飛び出し、左右の堕人にそれぞれ喉輪をしかけ

ると、

「ぐんな〜い、ぐんな〜いべいび〜…。どすこぉい!」

 鬼気迫る物凄い笑顔で口ずさみつつ、二者の後頭部をゴスッ!と正面で叩き合わせた。

「あー、ちょっとスッキリした…」

 一瞬で沈黙させた堕人を放り出し、先に突き飛ばした堕人に巻き込まれる格好で転倒していた二名に歩み寄ると、巨大な犀

は口元をニヤリと歪め、訊ねる。

「アスモデウスは何処にいる?おいら今ちょ〜っと虫の居所悪いからさぁ〜、教えてくれなかったり、もしも嘘ついてるって

感じたら…、プチッと、踏み潰しちゃうかもしんないぞぉ?」

 十四秒後。ハダニエルは約束通りに堕人達を踏み潰す事はやめ、代わりに強烈な張り手で機能停止に追い込むと、

「お〜気持ち悪ぅ〜、ムカムカするぅ〜…、勝手にシステム弄くり回しやがって…、復旧するこっちの身にもなれっての!」

 そうぼやきながら胃の辺りをさすり、独房に戻る。

「おっし!今解いてあげるからねラミエル君。いやー、君が一緒で助かったよホント!ドビエルが部下自慢するだけの事はあ

る。いい機転だった」

 屈み込んだ犀があっさり拘束布を引き千切り、自由の身になった雪豹は、少々照れ臭そうに「いえ、元はと言えば足を引っ

張ったのはこっちで…」と応じる。

「さて…。馬鹿やった昔馴染みをぶっ飛ばしに行きたいのは山々なんだけど…」

 軽く目を閉じたハダニエルは、さっそくシステムにアクセスして不具合の修繕を開始すると共に、捕虜となった本部職員全

ての位置を正確に探る。

「おいら基本的にあんまり働き者じゃないんだけどなぁ…。でも今日ばかりは思い切りやらないとまずそうだ…」

 ブツブツと呟いたハダニエルは、「おっし!」と、自分に気合いを入れるように大きな声を出す。

「本部奪還作戦!ちょっと荒っぽく、力尽くで行く!システム復旧も同時進行!外から増援入れつつ、堕人共ぶちのめすっ!

今日のおいらは…、ちょいとバイオレンスでデンジャラスだぜぃ!」

「あ、あの…。あまり無理はしない方が宜しいのでは…?本調子でもないでしょうし…」

 気遣うラミエルを見下ろし、ハダニエルは真面目な顔で頷く。

「うん。ちょっち厳しいなぁ。けど働くさ。そして…」

 犀は明後日の方向を見遣り、目を細めた。

「これが片付いたらおいら…、すぐ有給取ってどっかのリゾート地に行って、無理して働いた分だけのんびりするんだ…」

「あの…、こういう時そういう事はあまり言わない方が…。死亡フラグになってしまいますから、そういうのって…」

「…んじゃ、二ヶ月くらい経ってから行くって事に訂正…」

 ラミエルに不吉な事を言われたハダニエルは、顔を顰めて頬を掻いた。



「撤退するったって…、なぁっ!」

ハンドルを切ったムンカルの横を、光球が高速で飛び過ぎる。

「また隙を作るしか…あるまいよ」

同じく回避に専念しつつ、再攻撃の隙を窺うスィフィル。

光球を牽制にし、進行方向へ回り込んだ北極熊が振るった豪腕を、ムンカルはバイクの上で身を伏せてかいくぐり、脇をす

り抜けざまにバックハンドで発砲する。

が、近距離で直撃させたブラストは、やはり北極熊にほとんどダメージを与えない。

その攻防を、下方から固唾を飲んで見守るバザールは、三人の交戦区域へ接近する事すら叶わなかった。

ムンカルのようにブラストの防壁を纏っている訳でもなく、スィフィルほど存在が強固な訳でもない彼女は、北極熊に近付

いただけで力を吸い取られてしまい、悪くすれば攻撃らしい攻撃を受けずとも消滅してしまう。

無力さが歯痒く、時折唸っているバザールの胸に抱かれながら、ミカールはじっと、ムンカルを見ていた。

消耗が激しく、意識が混濁しかかっている彼の目が、涙で潤む。

(ムンカル…。ブラストを制御しとる…。射程も範囲も調節して…、きっちり標的だけ狙っとる…)

この土壇場で、無許可でのブラスト完全解禁をおこなったムンカルは、危ぶまれていた無差別破壊を全く起こさない。しか

もスィフィルと同等の働きを見せて北極熊を牽制している。

ミカールは決して贔屓目で見ている訳ではないが、ムンカルは今、ノーマルスペックとは思えない力を発揮している。ブラ

ストの恩恵を受けているとはいえ、ハイスペックの領域すら飛び越し、オーバースペックに迫る戦闘性能を発揮していた。

既に一時間以上もあの北極熊を足止めしている。二人がかりとはいえ、自分以上に長く…。

いつまでも成長しないと思っていた鉄色の虎が、気付かぬ内に成長していた…。

その事が嬉しいと同時に、何故か寂しさすら覚えて、ミカールは戸惑った。

そして悟る。

ムンカルが独り立ちしてしまう事を、自分の手を離れてゆく事を、寂しいと感じているのだと。

だが、成長はしていても北極熊に敵うはずもない。何か打開策でも見いだせなければじり貧である。北極熊は無尽蔵にエネ

ルギーを得ているが、ムンカルとスィフィルは気力も体力も無限ではない、このままでは押し切られる。

気を抜けば消えてしまいそうな意識を懸命に繋ぎ止め、ミカールは必死に頭を回転させる。だが、

「しまっ…!」

ムンカルの声で、その集中が途切れた。

虎と狼が避けた光球が、半島目指して突き進む。

バザールの口から悲鳴が上がるが、彼女を含め、もはやスィフィルでもムンカルでも止める事は叶わない。

「止まれ!止まれ!止まれ畜生ぉっ!」

ブラスト弾を再装填しながら叫ぶムンカル。間に合わない事は判っていながら、諦められなかった。

あの街には、生まれ変わったかつての「弟」が、カドワキが滞在している。

その関係を、魂の繋がりを知らず、気付かず、しかし本能ではおぼろげに察しているが故に、ムンカルは諦められない。

「ニコルっ…!」

我知らず、気付かず、認識すらせずその名を口にした次の瞬間、白い光球は弾けて消えた。

何が起こったか判らぬまま、我が目を疑って瞬きしたムンカルは、浜辺近くに浮遊している二つの影に気付いた。

「…あいつは…!」

まずムンカルが気付いたのは、青白い巨躯の鯱。

「…ネビル…、それにアイツ…何でや…?」

さらにミカールが目を向けたのは、その傍らで宙を踏み締める白い雌牛。

「こんな事をしているなんてアスモデウスが知ったら…、絶対に怒るでしょうね…」

肩で息をする雌牛の横で、鯱が頷いた。

「アスモデウスがおこったら、おれもいっしょにおこられてやる」

「ふふ…!ありがとう、ネビロス…」

アシュターは微笑む。不思議そうではあったが、反対せず協力してくれたネビロスに。

光球は高密度のエネルギー塊。光線や波長のような物ではなく、球体状の固形に近い。

何かに接触するか、北極熊の意思で凝縮を解かれるかすると、爆散して広範囲破壊を引き起こす。

ムンカル達が交戦している間にそう分析したアシュターは、陸地を背にする格好で陣取り、光球を迎え撃っていた。

同じく高密度のエネルギー塊として生成した手槍をぶつけ、陸地に破壊が及ばない位置で爆散させるために。

力の差が有りすぎれば反応させて爆破する事も難しく、余力が無い今の彼女にはきつい仕事だったが、そこはネビロスの協

力でカバーしている。

投擲して失った手槍と銛を再度生成し、アシュターとネビロスは身構える。

(あの人間に借りができてしまったもの…、今回ばかりは仕方無いわね…)

新たな敵の出現を確認した北極熊は、喉を垂直に立てて天を仰ぎ、咆吼した。

ミカール達は何が何だか判らない。アスモデウス派の堕人が人間の街を守ろうとするなど、考えてもいなかった。

彼らにとって人間は害獣でしかなく、その命は微生物のソレほども省みられないはずだった。

それなのに、わざわざ危険を冒して北極熊の目に止まる位置に現れ、攻撃を相殺してのけた。

『ミカール』

頭に響く声に、獅子は顔を顰める。

『何を企んどるんや?アシュター』

念話に応じながら、ミカールは悟った。

彼女もまた、自分同様に瀕死の有様だという事を。

『訳あって、あの街を消される訳には行かないのですよ。ここは共闘と行きませんか?』

『その言葉、信用しろ言うんか?』

『信じようと信じまいと構いません。こちらとしても、無闇に地上を傷付けられるのは困る…、とだけ言っておきましょう。

…こちらに来る流れ弾は全て引き受けます。貴方達は好きに戦えばいい』

ミカールは迷った。余裕が無い状況で危険を顧みずに姿を現したアシュターは、何か企んでいるにしては不用心過ぎる。

よほどあの街に大事な物でもあるのだろうか?そう考えながら、ミカールは決断した。

「バザール…、ワシもうでかい声出ぇへんから…、代わりに皆に言ってくれへんか…?」

「え?…は、はい…。何て言うんです?」

「「あいつらは、今だけ味方や。陸は守ってくれる」って…」

「え?し、信用できるんですかそれ?」

「大丈夫や。頼む…」

バザールは戸惑いながらも頷き、言われたとおりに叫んだ。

スィフィルは胡乱げだったが、ムンカルは一つ大きく頷き、北極熊を睨む。

「ミックがそう判断したんだ。信じるっきゃねぇだろ」

「そうか。では、お主のその言葉を信じるぞムンカル」

スィフィルは同僚に頷き、身構える。

人間の街を犠牲にしてでも退避し、体勢を立て直して挑む方が得策だと判ってはいたが、堕人の助力まで得て人間の街を守

るならば、その選択肢は消える。

スィフィルは覚悟を決めた。

逃げるのではなく、足止めに徹して増援を待つ。

絶望的に成功率は低いと判っているが、それしか手は無い。

しかし彼らは気付いていない。

現在の本部には、援軍を出す余力など無い事には…。



「あ〜らよっとぉ!」

ズシンと四股を踏んだ犀の周りで、床が板状に変形して屹立し、飛んできた矢を防ぐ。

「動けるかい?」

振り返ったハダニエルが見下ろしたのは、負傷しながらも交戦していた技術開発室の職員だった。

他にも他部署のメンバーが四名、展望台に集まって抵抗を試みている。

「もう大丈夫だ。何たって、奴らが足を踏み入れたここは…」

言いながら足を振り上げた犀は、再びドシンと四股を踏んだ。

直後、通路に展開していた堕人達の周囲で床がせり上がり、彼らを取り囲んで箱形になると、上蓋を閉めて閉じこめる。

「おいらの腹ん中なんだからなぁ!」

さらにやって来る堕人の軍勢を板状の盾越しに眺めると、不敵に笑ったハダニエルは、「さぁてさくさく行くぞー!」と、

肩を回しながら張り切って見せ、屈んで床に手をついた。

「システム復旧率78パーセント!ここまで来れば…、やりたい放題だっ!」

ハダニエルの手から、床にじわりと黒が広がる。

それは空間の穴であり、繋がった先は…。

「遅いんだよこの薄らデブ!木偶の坊!」

悪態をつきながらぶわっと穴から舞い上がった黒い雌牛は、ゲートが閉じて元に戻った床をダンッと踏み付けて着地し、腰

に手を当てて旧友を見遣る。

「堅肥りとかこう、もうちょっとやわっこい表現ぷりーず…。それに仕方ないだろ?システム乗っ取られてたんだよ…」

「簡単に乗っとられてんじゃないよ!今度こんな情けない事したら…、そのちっこいキンタマ蹴り潰すからね!」

「う!」と呻いたハダニエルが、かつて思い切り蹴り上げられた事がある股間を押さえて前屈みになると、イスラフィルは

ぶんっと右腕を水平に振った。

視界を覆う板が弾け飛び、敵の姿があらわになると、イスラフィルは「結構居るねぇ…」と他人事のような緊張感のない口

調で呟く。

「だから手が欲しいんだよ」

「判ってるって。まぁ任せときな」

ハダニエルに応じたイスラフィルは、無造作な足取りで前に進む。

その姿を確認した堕人達は色めき立った。

冥牢に出向した今でも、彼女はレコードホルダーである。

女性のワールドセーバーで、最多の堕人、盗魂者の撃破数を誇る雌牛は、地上から離れて数十年経った今もなお、その記録

を塗り替えられていない。

牽制というよりは、恐れと動揺から射込まれる雑多な飛び道具に対し、雌牛は面倒くさそうに手を上げてパチンと指を鳴ら

した。

直後、彼女の周りで黒い雨が降り始め、飛来した無数の凶器は溶けるように消えてゆく。

屋内で雨を降らせ、それを纏いながら、イスラフィルは頭をガリガリと掻いた。

「あ〜あ〜…、本当にもぉ、派手にやってくれたもんだねぇ…。完全復旧や修繕にどれだけかかるんだか…。潰すよ?」

雌牛にギロッと睨まれ、一瞬怯んだ堕人達だったが、中の一人が自分を奮い立たせるように声を上げた。

「相手は一人だ!囲んで叩き潰せ!」

「おやおや?一人って決めてかかったら危ないと思うけどねぇ…」

堕人達が雪崩を打って殺到すると、イスラフィルはそんな事を言いながら翼を広げた。

瞬時に広がった漆黒の翼は、しかし羽ばたく為だけにある訳ではない。

手斧を振りかぶってイスラフィルに肉薄した先頭の堕人は、その顔面を痛打されて首を仰け反らせ、エビぞりになって回転

しながら仲間達の頭上を飛び越えて行く。

にやっと笑うイスラフィルの背から生えた、影のように黒い翼から、棒状の物が伸びていた。

それは、柄からヘッド、毛に至るまでが真っ黒な、清掃用デッキブラシである。

仲間の一人が吹き飛ばされて、堕人達が疑問に思い、呆気に取られたのも一瞬。

デッキブラシに続いて、彼女の翼から無数の清掃用具が飛び出し、堕人達を突き、叩き、跳ね飛ばす。

異常を察して後続が止まり、射竦められたように硬直した堕人達の前で、清掃用具は一度翼の中に引っ込んだ。

次いで、入れ替わりに小さな手が、羽の中から生える。

ゲートとなっている翼の外郭を縁とし、そこに手をかけてぬっと顔を出したのは、青い清掃用つなぎを纏う、ベビーフェイ

スの小柄なジャッカルだった。

彼が黒い翼からピョンと跳び出て、床に着地すると、その横にはウォッシャーを担いだごついアフリカ水牛が降り立つ。

次々に現れた清掃人達は、その数19名。

「今日の冥牢は臨時休業だ。出張サービスの大清掃祭、たっぷり味わわせてやりな!」

マリクたるイスラフィルの指令に無言で頷き、清掃人達はそれぞれの得物を手に、本部の大規模清掃を開始する。

ハダニエルの脱獄、そしてイスラフィルに加えてザバーニーヤ19名が参戦した事で、パワーバランスはひっくり返ろうと

していた。

「これで一安心…。しかしまずいな、重要なキーが持って行かれたせいで…、復旧が進まなくなって来たぞ」

アクセス権限を弄られたらしく、手が付けられない箇所がある事を察し、ハダニエルは呻く。

黒面羊が支配権を持っているせいで、重要な数箇所が弄れない。

「…仕方ない。誰かにアイツを捕縛して貰って…」

ハダニエルは意識を集中し、本部内の反応を探り始めた。



一方その頃、ラミエルは通路を駆けていた。

出くわす堕人と交戦しながらの移動だが、その速度は無人の道を行くようなペースだった。

彼の両肩の辺りには、握り拳大の黒い球体が一つずつ浮かんでおり、それが自動的に動いて飛び道具を受け止め、消してし

まう。

ハダニエルが貸し与えてくれた空間歪曲のビットは、彼に迫る危険を自立行動で排除し、攻撃をサポートする事で、一方的

な駆逐を可能にしていた。

貸して貰った犀の力の一部を有り難く思いながらラミエルが駆け込んだのは、自分の職場である管理室。

激しい戦闘が予想されたのだが、ここでもビットが活躍し、雪豹は一撃も身に受ける事はなく、七名の堕人を鎮圧する。

「ラミエル!無事だったのか!」

「遅れて済みません!」

喜びの声を上げる同僚達の緊縛を解いて回り、ラミエルは大声で告げる。

「至急、ゲートの奪還を!」



一方その頃、ロビーでは…。

「て…、テリエル…!?」

呻いた堕人が顔を強ばらせてじりっと後退し、その声に周囲の仲間が反応する。

ずんぐりした猪は、両手をだらりと体の脇に垂らし、平時と変わらぬ歩調で通路を歩み、彼らの前に姿を現す。

ざわめくロビー。拘束されている本部職員が期待の声や安堵の息を漏らし、堕人達は一様に息を飲む。

たった一人の配達人が姿を見せただけで、主力が集う本陣の空気は一変していた。

「まぁ待て。やり合う前に話くらいは聞かんか?ん?」

ロビーの緊張した空気を、猪の声が震わせる。

「一人か…。それで充分だというアピールのつもりか?テリエル」

見知った顔を目にし、アスモデウスは静かに呟く。敵意と緊張が孕んだ声で。

おもむろに両手を肩の高さに上げ、交戦の意思が無い事を示したテリエルは、

「血気盛んなのは結構じゃが、少々血の気が多い所は相変わらずじゃのぉ?アスモデウスよ。本当に、変わっとらんわい」

堕人達の中心から前に出て来て、自分と真っ向から向き合った黒獅子を見据え、懐かしむように目を細めた。

堕人に身をやつした今でも、地上とそこに生きる命を見守って行きたいと熱く語っていたあの頃の気高さが、黒獅子からは

消えていない。

真っ直ぐ過ぎるが故に、堕ちるしかなかったのだ。テリエルはアスモデウス達の事をそう考えている。

「昔話で情に訴えようというなら無駄だぞ?」

「そのつもりは無いわい。ときに…、今イブリースがどうなっとるか、知りたくは無いかのぉ?」

「目前の事を成し遂げるまで、そちらはどうでも良い」

揺さぶりを警戒しているのか、アスモデウスの返答はそっけない。周囲では堕人達がゆっくりとテリエルを包囲し始めてお

り、一触即発の状態となりつつある。

しかし猪は焦ることも慌てることもなく、黒獅子を真っ直ぐ見つめて先を続けた。

「そうか。…では、お主の妻の事はどうじゃ?」

この言葉に、アスモデウスの眉が動いた。

「どこでどうなったか知らんが、今イシュタルは日本におる」

「アシュターだ」

堕人としての名で訂正した黒獅子に、しかしテリエルは応じず、自分の話を続ける。

「そこで今、イブリースと交戦しとる」

「何?」

「…いや…、あれはもうイブリースでも、ジブリールでもないのぉ…。「あの時の殺戮者」じゃ」

黒獅子の目が見開かれる。が、すぐに疑いの表情が取って代わった。

「それで揺さぶっているつもりか?」

「まぁ、落ち着いて調べる事じゃ。誰ぞモニター持っとらんか?システムもまだガタガタじゃから、傍受できるじゃろう」

アスモデウスは疑いながらも、部下に指示して手近な部屋からモニターを持って来させた。そして…。

「馬鹿な…!?」

自らの伴侶と、同胞である鯱が、北極熊の攻撃を防ぎ止めている映像を傍受する。

それは、バザールのバイクから観測している戦況だった。

「弟子がそこに居るんじゃが、そやつのバイクからの視点じゃ。ここに来る途中で気付いたんじゃが…、どうやらお主の妻は

ミカール達と共闘しとるらしい」

「有り得ない!そんな事は…」

「考えんか!このたわけがっ!」

突如声を大きくしたテリエルの一喝で、アスモデウスは言葉を切る。

「お前さん達が守ろうとしとる地上そのものの危機じゃ。あの賢いイシュタルならば、プライドや自己満足よりももっと大切

な物を優先する程度の事はしよるじゃろうが!」

言葉に詰まったアスモデウスに、部下が声をかける。

「姐さんは…、どうなるんで…?」

その問いに、黒獅子は答えられない。

ようやく手が届いたシステム側の心臓部。それを諦めるのは惜しい。

だが、アシュターを見殺しにする事もまたできない。

苦悩するアスモデウスに、部下は告げる。

「行って下さい!こっちは何とかしますから!」

部下のそんな言葉にも、黒獅子はすぐに頷く事ができなかった。

ハダニエルを連れて来るように命じた部下が戻らない。

管理室を占拠しているグループからも連絡が途絶えた。

雲行きが怪しい今、自分がこの場を離れたら総崩れになりかねない。

(どうすれば…。どうすればいい…!?)

歯をきつく噛み締め、眉間に深い皺を刻む黒獅子。

ワールドセーバーアスモデウスにもまた、選択の時が訪れた。