第七話 「配達人はパールホワイト」(後編)

「随分かかっちゃったな…」

 たった今発砲したばかりの紫煙たなびく小型拳銃を、コピー機の前で大量に資料印刷をしているオフィスレディの背中に向

けたまま、ライダースーツに身を包んだ、見上げるような巨躯の男が呟いた。

至近距離から背中を撃たれた女性はというと、自分が銃撃された事にも気付かぬまま、疲れた表情でコピーを続けている。

パールホワイトの弾頭が当たり、吸い込まれて消えた肩甲骨の下辺りには、銃創どころかスーツに穴すらあいておらず、銃

撃の痕跡は全く残っていない。

月末の決算でもしているのか、ビルの二十階にあるそのオフィスでは、午前0時を回ったにもかかわらず数人の社員が居残っ

て作業を続けている。

フロアに鳴り響いた渇いた銃声にも、巡回している警備員にも見咎められずに侵入した奇妙な部外者の存在にも、オフィス

内の誰一人として気付いてはいない。

巨漢が立っているのは壁際の機器が並べられたブースで、それなりに人通りがある。

しかし、すぐ傍ですれ違うパリッとしたスーツを着こなす中年も、ネクタイが曲がってワイシャツがやや着崩れている疲れ

た様子の若者も、ぶつからないように少し体を斜めにしたり、僅かに迂回するような足取りで通り過ぎたりしながら、それで

もなお、間近に立つ巨漢を認識していなかった。

オフィス内の誰にもその存在を悟られていない深夜の侵入者は、北極熊の顔を持ち、半人半熊の奇妙な姿をしている。

7フィートを軽く越える程の見上げるような大男で、背に白い翼のエンブレムがプリントされた黒革のライダースーツを着

込んでいる。

大きいのは上にだけではなく、幅も厚みもある。

腹は大きく出ており、頬が膨れて顎下や首周りにもだいぶ脂肪がついた、かなりの肥満体。

そんな体で着込んだライダースーツは窮屈そうで、ジッパーを鳩尾あたりまで引き下げており、太鼓腹を無理矢理押し込ん

だ胴回りはパツパツに張っている。

手の平にすっぽり収まるサイズの銃口が縦に二つ並んだ小型拳銃から空薬莢を取り出した熊男は、銃を腹部のポケットに窮

屈そうに押し込みながら、真っ白な空薬莢をギュッと握り込んだ。

握り込まれた右手が開かれると、広く分厚い手の上からは薬莢が消えており、代わりに一枚のポスタルカードが出現している。

カードをちらりと見遣って、そこに何も書かれていない事を確認した熊男は、白いふさふさの毛が覗いている、大きく開け

たライダースーツの懐にそれを収めた。

熊男はオフィスの出入り口である、エレベーターホールへ繋がる両開きのドアに向かって歩くと、そこに居る人間達を振り

返った。

「夜分に失礼しました。お仕事ご苦労様」

自分に気付いていない社員達が挨拶を返せる訳など勿論ないのだが、白熊は指を真っ直ぐに伸ばした右手を分厚い胸に当て、

腰を折って優雅に、丁寧に一礼し、オフィスから出て行った。



数分後、エレベーターを利用し、自分に気付いていないままホールですれ違った警備員に「ご苦労様」と労いの言葉をかけ、

非常階段を一階分登り、堂々とビルの屋上に至った白熊は、大きく伸びをしながら貯水槽の脇に停めておいたバイクに歩み寄る。

このビルの屋上は、車両用のエレベーターが通っている訳でもなく、本来は車両を乗り入れる事はできない。

にもかかわらず、白熊は低重心の大型バイクでここに乗り付けていた。本来通れるはずのないルートを走破させて。

バイクのトランクを開けてビニール袋を取り出した熊男は、中にぎっしり詰め込まれたドライフルーツを掴み出す。

「さあ、もう一頑張り行ってみようか」

そう呟くなり、砂糖がふんだんにまぶされた干しバナナやイチゴを口に放り込んだ白熊は、頬張ったドライフルーツをムグ

ムグと咀嚼しながら、ビルの手すりの向こうに広がる景色を眺めた。

45階建てビルの屋上からは、古い街並みと近代最先端の街並みが混然と入り交じる、懐深いブルックリンの夜景が見下ろ

せる。

穏やかな南風が運んで来る、潮が香る夜気を湿った黒い鼻で嗅ぎながら、白熊は砂糖塗れの指を紙ナプキンで綺麗に拭った。

トランクを閉じ、バイクに跨ってエンジンをかけた熊男は、

「おっと…、そうそう…」

何かを思い出したようにそう漏らすと、開いた手の平を上に向け、右手を前に伸ばす。

ギュッと握り込んで作った拳の周囲で、白い光がキラキラと微かに舞い始める。

粉のような細やかな光は、どうやら質量を伴っていないらしく、屋上を吹き過ぎる風の影響を全く受けずに舞いながら、白

熊の拳に吸い込まれてゆく。

一秒にも満たない短い時間で細やかな光の乱舞が収まると、熊男は大きな手をゆっくりと開いた。

広げられた手の平には、月と星の光を受けて煌めく、ガラスのように透き通った塊が乗せられている。

それは、薬莢や弾頭が透明であるどころか、本来ならば内部に詰められているはずの火薬すら見当たらない、無色透明の銃

弾であった。

ポケットから取り出したダブルデリンジャーの下側のバレルに透き通った弾丸をカチンと装填し、再びポケットに収めた白

熊は、グゥ〜ッと盛大に腹の虫に鳴かれ、

「さすがに消耗してきたかな…」

丸く突き出た腹を見下ろして軽くさすりながら、切なそうに耳を伏せた。

遅めの昼食以降、ドライフルーツで騙し騙しやってきた白熊は「でも、次で最後!」と自分を叱咤するように呟き、気を取

り直してアクセルを吹かした。

低重心の大型バイクは、進み出すと同時に前輪をゆっくり浮かせる。

まるで透明な坂道でも登ってゆくようにフロントタイヤを浮かせたバイクは、前輪に次いで後輪も床から離し、やがて完全

に宙へと浮き上がった。

大きな熊を乗せた大きなバイクは、何もない空中を、低いエンジン音を轟かせながら走ってゆく。

穏やかな夜風が交わり遊ぶ、ブルックリンの街の上を。



胃の上辺りが火照っているような嫌な喉の渇きを覚え、薄いネグリジェを纏ったミリアは、ベッドの上で身を起こした。

目を擦った彼女がベッドサイドの置き時計を見れば、時刻はまだ午前一時にもなってはいない。

寝苦しい、蒸し暑い夜であった。

最近いつもそうであるように、今夜もなかなか寝付けなかったミリアだったが、ようやくうつらうつらし始めたと思えば、

急な喉の渇きで目が冴えてしまったのである。

ダブルベッドから降りたミリアは、寝室を出てリビングと一繋がりになっているキッチンへ向かう。

体の重さを感じながらリビングに入ったミリアは、壁のパネルを操作して灯りをつけた。

パネルに右手を当てたまま、ミリアは反対の手を額に当ててため息をつく。

いつまでも抜けない疲労感と、体の中心に居座る気怠さは、日を追う毎に強くなってゆく。

それらは慢性的な睡眠不足と食欲不振が原因である事は、ミリア自身良く判っていた。

のろのろとリビングを横切って突き当たりのカウンターを回り込み、手前にある冷蔵庫の前で屈み込みながらドアに手をか

けたミリアは、視界の隅に黒いものがある事に気付いて首を巡らせた。

L字型になっている、リビングとの間にカウンターと食器棚を挟むキッチン。

その突き当たりの小さな窓がある壁に背を預け、見慣れない人物が立っていた。

艶やかな光沢がある黒革のライダースーツを身に纏い、白い毛に覆われた顔をしているその男は、見上げるような巨漢である。

「こんばんは。夜更けに済みません、レディ」

口元に微かな笑みを浮かべつつ胸に右手を当てて会釈しているのが、昼間病院で会った北極熊の顔をした大男である事に気

付いたミリアは、ぼうっとした顔で立ち上がる。

何故あの男がここに?自分は夢でも見ているのか?

そんな事を考えたミリアだったが、次第に脳が目覚めて来ると、不審な人物が部屋に侵入しているという事実に気付き、恐

怖に駆られた。

両手で顔を挟み、悲鳴を上げようと大きく口を開けるミリア。

素早く左手を上げた熊男は、直前にポケットから引っ張り抜いたデリンジャーの銃口を、ミリアの胸へ真っ直ぐに向けた。

大きな手にすっぽりと隠れてしまう小型拳銃のグリップを小指と薬指で握り、人差し指をダブルバレルに添えた北極熊は、

ミリアが息を吸い込んでいる間に、中指でトリガーを引き絞る。

ミリアの喉から悲鳴が迸るよりも早く、パンと、渇いた銃声が鳴り響いた。

縦に並んだ二つの銃口。その下側から微かにたなびく、まるで蒸気のように白い薄煙。

それを大きく見開いた目で見つめながら、ミリアは吸い込んだ息を吐き出す事も出来ず、息を止めたまま両手で胸を押さえた。

撃たれた。それは何となく判る。だが、不思議な事に痛みも衝撃も全く感じなかった。

「失礼。危害を加えるつもりは無いから、落ち着いて」

白熊男は黒革のスーツの腹ポケットへギュチッときつそうに拳銃を押し込むと、落ち着きのある低い声で穏やかに言う。

そして、「それじゃあ深呼吸してみようか。さぁご一緒に」と、胸を逸らして大きく息を吸い込み、元々大きな腹をなお大

きく膨らませた。

ふぅ〜っと、ゆっくり大きく息を吐き出した熊男につられるように、ミリアも吸い込んだままだった息を吐き出す。

「どうだい?少しは落ち着いたかな?」

ミリアが胸に手を当てたまま、呆然とした表情でゆっくりと頷くと、

「それはなにより」

熊男はそう呟きながら微笑を浮かべる。

撃たれたはずの自分に何が起こったのか、ミリアには良く判らなかったが、彼女の恐怖や警戒心、緊張感などは、完全に消

し飛ばされていた。



「繰り返しになるけれど、夜分の突然な訪問、申し訳ない」

勧められてリビングのソファーに座った熊男は、そう言いながら深々と頭を下げた。

低いテーブルを挟んで深夜の無断侵入者と向き合ったミリアは、まだかなり戸惑ってはいたものの、眠気覚ましの意味も含

めて用意したダージリンティーを勧める。

ソーサーを押されて自分の前に来たカップを見下ろし、「ありがとう」と礼を述べた白熊は、微かに鼻を鳴らすと頷くよう

に顎を引いた。

「香りが芳醇だね…。セカンドフレーバー?」

「え?ええ…。紅茶に詳しいの?」

「それほど詳しくは無いよ。紅茶が好きな同僚が居て、聞き齧って知っている程度さ」

微笑んだ白熊に、ミリアはずっと気になっていた事を尋ねてみる事にした。

「えぇと…、気を悪くしたらごめんなさいね?…その…、貴方の顔…、マスクじゃ…ないのよね?」

「うん。自前の顔だよ?ほら…」

頬を掴み、「なんなら引っ張ってみるかい?」と、むに〜っと左右に引っ張って見せながら笑う白熊の顔を見て、ミリアは

「プッ!」と小さく吹き出した。

思いの外ひょうきんなのだなと感じて表情を緩めたミリアに、白熊は右胸に手を当てて軽く会釈した。

「名乗りが遅れたけれど、オレはジブリール。よろしくレディ」

「どうも…。ミリアよ。ミリア・ノートン…」

名乗りを返したミリアは、おずおずと、ジブリールと名乗った半人半熊の男に尋ねた。

「…あの…、ジブリール?貴方はその…、どういうひとなの?えぇと、どういうっていうのはつまり…、どこの国の人?とか、

あと…、何者…えっと…、何をしている人なの?」

「う〜ん…、キミ達の概念に合うように説明するのは難しいけれど…、オレは配達人さ。キミ達で言う所の国籍は無いから、

どこの国と聞かれても答えようがないかなぁ…」

そう応じながらソーサーとカップを手に取った白熊は、顔の前で手を止め、目を細めながらダージリンの香りを楽しむ。

熊顔の奇妙な訪問者と向き合いながら、ミリアは気になって仕方がない事を尋ねようとしたが、訊きたい事があまりにも多

過ぎ、質問が上手く纏められない。

何から訊くべきかと彼女が考えている内に、結局は白熊の方が先に口を開いた。

「旦那さんは外泊中かな?貴方は独り暮らしじゃあないよね?」

「え?え、えぇ…」

何故その事を知っている?いや、何故そんな事を尋ねる?そもそも何をしに此処へ?

様々な疑問が頭の中を駆け巡るが、ミリアはジブリールに様々な事を尋ねられ、訊かれるままに自分の現在の状況について

話し始めた。



ミリアの夫、カイル・ノートンは、フェリーの乗務員を仕事にしている。

サーフィンが趣味の快活な若者で、ミリアは幼馴染みであるケイトの紹介により、その友人である彼と大学時代に知り合った。

ケイトと、後にその夫となる若者、そしてミリアとカイルの四人はウマが合い、少しでも時間が空けば顔をつきあわせ、共

に過ごした。

親しい友人から特別な相手、そして恋人へと、数年間ゆっくりと時間をかけて、ごくごく自然にその関係を変化させていっ

た二人は、つい一ヶ月半前に契りを交わし、夫婦となった。

海が好きで、フェリーの乗務員という職を選んだカイルは、収入が安定するのを待ち、ミリアに結婚の話を切り出した。

小箱に収まった指輪を差し出し、カイルが見せた照れ臭そうな顔が、うれし涙でぼやけて見えたあの夜の事を、ミリアは昨

日の事のように思い出す。

皆の祝福を受けた、夢のように幸せな結婚式。

二人きりで思い切り羽を伸ばしたイタリアへのハネムーン。

新居となったマンションでの、新しい生活。

だが、そんな幸せな日々は、あまりにも短かった。

三週間前、ニューヨークの沖合を季節外れの大嵐が暴れ回った。

速報が間に合わない程の急激な気圧の変化で生じた沖嵐に、何隻もの船舶が為す術もなく蹂躙され、荒れ狂う波によって転

覆させられた船も少なくなかった。

カイルが乗り込んでいるフェリーもまた、嵐の乱暴極まる洗礼を受けた。

浸水したフェリーは船体中央付近から破断し、沈没したものの、乗組員達の努力と日頃からの訓練のおかげか、備えられて

いた救命ボートによって、乗客と乗組員達は沈没前に脱出に成功した。

ボートとテントが組み合わされたような海上のシェルター十数艘は、一晩中荒波と強風に耐え、腹に抱えた人々の命を守り

通した。

他の船舶も数多く沈み、行方不明者が多数出ている中、フェリーの乗客は一人残らず救助された。

救助者もマスコミも奇跡だと大喜びしたものの、しかし救命ボートは、たった一艘だけ見つからなかった。

乗客の避難を確認した船長と他の乗務員達が、最後に乗り込んで脱出したはずのボートだけが。

そのボートには、最後まで持ち場を離れなかったミリアの夫、カイルも乗り込んでいたはずであった。



終始無言のまま話を聞き終えたジブリールは、その薄い水色の瞳でじっとミリアを見つめた。

「つまり…、旦那さんは今も行方不明のまま…?」

「ええ…。三週間よ…?いい加減に覚悟を決めろって…、自分でも思うんだけれど…」

呟いたミリアの頬を、透明な滴がつぅっと流れ落ちた。

あるいは、見つからなかった夫は、死ぬまで海の上を漂い、喉の渇きとひもじさに苦しみながら逝ったのかもしれない。

そう思うミリアは、自分だけ食事を摂る事に抵抗があった。

無意識下に、夫と運命を共にしたいとすら願っていた。

本人すら気付いていなかったその事を見通したジブリールは、大きな右手を鼻先に添え、マズルの先から口元をすっぽり覆

いながら、胸の内で呟く。

(なるほど…。未来への絶望と、受け入れた死…。それらが、オレ達を認識する条件を満たさせていた訳か…。そっちはまぁ

納得できるものの、それでもおかしな点がある…)

ジブリールは目を細くし、ミリアの目を覗き込む。

まるで心の内まで見透かされそうなその静かで透明な視線を受け、少々居心地の悪さを感じながら、ミリアはおずおずと口

を開いた。

「あの…、私、おかしな事を言ってる?」

慰めの言葉を聞きたいと思っている訳でもないが、ジブリールは彼女の周囲の皆がそうするようにはせず、むしろ話を聞い

て疑問でも持ったかのように難しい顔をした。

その熊男の反応を目にしたミリアは、自分が妙な事でも話したのだろうかと不安になったのである。

「いや、そんな事は無いよ」

考え込んでいるような表情のまま応じたジブリールは、ミリアの目から視線を外し、手元のティーカップとソーサーを手に

取る。

「紅茶はね…」

ミリアが口を開き、ジブリールはカップを持ち上げた手を止める。

「夫が好きだったの…、ダージリンが特に…」

自分でも気付かぬ内に過去形で語ったミリアに「そうなんだ…」と小さく頷いたジブリールは、だいぶ温くなった紅茶を静

かに飲み干し、カップをテーブルに戻す。

「ご馳走様、とても美味しかったよ」

白熊は微笑みながらそう告げて、「よいしょ…」と声を漏らしながら腰を上げた。

「今夜はそろそろ行かなくちゃ、話を有り難う、お邪魔しましたミセスミリア」

唐突に席を立ったジブリールに、ミリアは戸惑いの視線を向けた。

何をしに来たのか?そもそも、どうやって部屋に入り込んだのか?ミリアには疑問が山ほどあったが、話を聞くだけ聞いた

白熊は何ら説明をする事なく、さっさとキッチンに向かった。

「それじゃ、また後日お邪魔します。なるべく近い内にね」

カウンターを回り込んだジブリールは、腰を浮かせたミリアを振り返り、

「旦那さん、きっと近い内に帰って来るから、ちゃんと休養と食事を摂って体調を整えておかないといけないよ?」

左目を瞑って器用にウィンクすると、食器棚となっている壁の向こうに姿を消した。

「あ…、ちょっと、ジブリール?どういう事!?…え?」

ジブリールが向かったのは、換気用の小窓があるだけの行き止まりである。

少し遅れて後を追ったミリアは、しかしそこに白熊の姿が無い事に気付き、呆然と立ち竦んだ。

「…あれ…?」

キッチンの突き当たり、どこにも出口のないそこから、ジブリールは忽然と姿を消していた。

換気用の小窓は閉まったまま。そもそも、一辺40センチ程のその窓は、開いていたとしてもあの巨体では通れるはずもない。

夢でも見ているような気分で立ち尽くしているミリアの耳に、低いエンジン音が届く。

いつもは遥か下の路上から聞こえてくるその音は、何故かすぐ傍、壁一枚隔てたような近くから聞こえたような気がした。



月明かりが穏やかに降り注ぐイーストリバーの真ん中に、水陸両用飛行艇が、プカプカとのんびり浮かんでいた。

全体にレモンイエローの塗装が施されたその飛行艇は、背部に白い翼のエンブレムがペイントされている。

戦車ですら積み込める、そのずんぐりと太いフォルムの飛行艇の中で、ジブリールはエンジンを切った愛車から降りると、

「ごめん。だいぶ遅くなっちゃった」

そう声を漏らしながら肩を押さえつつ首を曲げ、こりをほぐすように背伸びをした。

機体後部の大半を占める、大型車両も楽々収まるほどの広い空間には、ジブリールが降りたバイクの他にも、数台のバイク

が置かれている。

揺れても動かぬよう、床から生えているストッパーに車輪を固定した白熊は、後ろを振り返り、閉まってゆく後部ハッチの

方向を見遣る。

壁際のパネルの脇に立ち、ハッチの開閉スイッチを操作しているのは、もさっとした黄色い毛髪に頭部を覆われた、背の低

い男であった。

黒革のつなぎを腰の所まで脱ぎ、ピッチリした真っ白いタンクトップを纏った上半身をあらわにしている。

ハッチが完全に閉じるのを見守り、踵を返した男は、カツカツと鉄の床を踏み締めて歩み寄りながら、

「お疲れさん。またえろう遅なったな?」

変声期前の少年のようなキーの高い声で、白熊に労いの言葉をかけた。

身長はジブリールの三分の二程。150センチあるかどうかという小柄な男は、白熊の前で足を止める。

この男もまた、ジブリールと同じく人間の顔をしておらず、半人半獅子という奇妙な姿をしていた。

もさもさと長い黄色の毛が頭部と首を覆っており、つなぎの尻からは先に房がついた尻尾が垂れている。

身長は低いもののずんぐりむっくり太っており、体重はかなりありそうに見える。

手足は太く短く、上半身にはむっちりと肉がついているのが薄いタンクトップ越しにもはっきりと判った。

鬣は立派なものの、目は大きく極端な丸顔。瞳は薄い黄色で、角度によっては金色に輝いて見える。

童顔な上に小柄でずんぐりしている男の見た目からは、全体的に幼い印象を受ける。

丸っこい童顔の獅子は、かなり高い位置にある同僚の顔を見上げて口を開いた。

「アズライルからちっとは聞いとったけど、なんや面倒事か?」

「まあね。少し調べてみないと」

ジブリールはそう応じつつ、ポケットから拳銃を取り出し、下側のバレルに収まっていた空薬莢を取り出した。

それは、ガラスのように透き通った、透明な空薬莢であった。

それを手の上で転がしたジブリールは、それをひょいっと口に放り込み、ゴクンと飲み下す。まるで、錠剤でも飲み込むよ

うに。

ガラスのような空薬莢という奇妙な物を飲み込み、一息ついたかのように胃の辺りをさすったジブリールに、獅子は顔を顰

めながら尋ねた。

「またつこうたんか…。今度は何消して来たんや?」

「不安と怯え、それと警戒心。夜更けにお邪魔させて貰ったからね。認識者だし、ビックリさせちゃいけないと思って」

「あんま軽々しくつこうたらあかんで?お前のソレ、消耗でかいんやさかい」

たしなめるように言った獅子は、格納庫内の壁に視線を向けた。

壁を隔てれば外のはずの、格納庫内の左右の壁には、何故かそれぞれ五つずつ、木製のドアが並んでいる。

壁は勿論、床も天井も鋼鉄製の格納庫内に木製ドアがある光景は、かなりシュールではあるものの、見慣れている二人には

もはや違和感など無い。

格納庫奥、操縦席方面へ繋がるドアは、周囲の壁材と統一性のある金属の気密ドアだが、左右に並んでいるドアには、それ

ぞれプラスチックのプレートや、布のタペストリー等が張り付けてある。

「あんま心配かけんなや。ええな?」

「うん。有り難う」

並んだドアの一つ、コスモスをモチーフにしたレースのタペストリーがかけられた扉を眺めながら呟いた獅子に、ジブリー

ルは微笑みを浮かべて礼を言う。が、

(誰に心配かけんなって言うとんのか、絶対判ってへんな、このウスラトンカチ…)

獅子は「はぁ〜…」と、呆れ混じりのため息を吐き出す。

「ま、ええわ…。沸いとるで?先に一っ風呂浴びとくか?」

「いや、急いで調べたい事があるから後にするよ」

その返答を聞いた獅子は、まん丸の目を吊り上げた。

「まだ働く気なんか?明日の事も考えんかい!」

「大丈夫。期限が近い分の配達は全部終わらせたから。丸二日分は余裕が作れたよ」

さらりと応じたジブリールの顔を見上げたまま、獅子は口をポカンと開け、「は?」と間の抜けた声を漏らした。

「…相変わらずデタラメや…。どないなっとんねんお前の「鼻」と「眼」は…」

呆然と呟いた獅子から視線を外したジブリールは、同僚の驚いている様子にも頓着せず、並んだドアを見回しながら「とこ

ろで皆は?」と尋ねる。

「アズライルはついさっきまで食堂で編み物しとったんやけどな、船漕ぎ始めとったから寝ろ言うて追い出したったわ。ムン

カル達はたぶんまだサロンでポーカーやっとる。明日の昼飯賭けとるそうや。それより腹減ってへんか?マフィン焼いたで?」

「有り難う。頂くよミカール」

ジブリールは拳銃をポケットに押し込みながら応じると、表情を改める。

「ところで…、チーズマフィン?それともチョコチップ入り?」

非常に重要な事を尋ねるかのような真顔になった同僚に、

「心配すんなや、両方たんまりこしらえたさかい、た〜んと食っとき」

と、ミカールは苦笑いしながら応じた。



四方が鉄の壁に囲まれた殺風景な部屋の真ん中に、プラスチックの丸い大テーブルが設置されている。

その上には、真円のテーブルの外側にモニターを向け、デスクトップタイプのパソコンが六台、大型プリンター等と共に乗っ

ていた。

一辺15メートル程のガランとした部屋は、天井までは3メートル程で、壁も天井も床も、テロッと濡れたような光沢のあ

る灰色の鉄でできている。

ドアを潜ってその部屋に入ったジブリールは、大量のマフィンと紅茶入りのポット、カップを乗せたトレイを両手で持ち、

テーブルに歩み寄った。

既にライダースーツは纏っておらず、クリーム色のサマーセーターに、灰色の綿パン、素足にスリッパをつっかけた格好で

ある。

ジブリールはトレイをテーブルの上、パソコンのやや横側の邪魔にならない位置に置き、六脚ある中で一つだけやけに大き

い椅子を引く。

自分専用のアームチェアに腰を下ろした白熊の前で、真っ暗だったパソコンのモニターが一斉に光を灯した。

自分の存在を感知して自動的に起動したパソコンのモニターを眺めながら、白熊は胡乱げに目を細めた。

「人間達の報道では…、例の大嵐での死者は21名、行方不明者102名か…」

水色の瞳はモニターを凝視し、自動的に開いた小ウィンドウに映し出されるネット報道を読み取ってゆく。

「…でも本来の流れなら、今日の時点での死者は同数で、行方不明者は95名になっているはずだった…。現実の数字と因果

流転から割り出された予測にズレがある…。いつから…、どこで滞ってる…?どこが乱れの根本だろう…?」

目を細め、少し鋭さを帯びた顔でボソボソと独りごちたジブリールは、手にしたチーズマフィンの上半分をガブリと囓り取る。

「さてと、片っ端から行ってみようか…」

表示されていたネットニュースのウィンドウが消えると、モニターを見つめる水色の瞳に、入れ替わりにびっしりと表示さ

れたアラビア文字が映り込む。

キーボードとマウスはパソコンに繋がっているものの、白熊はマウスの上に手を置いたまま殆ど動かず、ただ画面をじっと

見つめているばかりで、入力操作らしき動きを全く見せない。

にも関わらず、モニターに映し出された文字列は高速でスライドしてゆき、羽根ペン型のカーソルアイコンが凄まじい勢い

でモニター上を飛び回る。

指一本動かしていないジブリールの前で、モニターは何らかのリストを表示した。

その中から該当地区で絞り込んで一ヶ月前まで遡り、抜き出した数千件の配達ケースの中から、ジブリールは乱れの手掛か

りとなる物を探し始めた。