第七十一話 「最終防衛戦」(前編)

「あ…」

本部内を精査していたハダニエルは、おもむろに声を漏らした。

目を瞑り、壁に手を当て、直接リンクしていた彼には、ようやく入ってくるようになった外界情報も届き始めている。

システム修復中に収拾したその中に、レモンイエローの残響が飛び込んで来た。

それは、消え去る寸前のミカールが、ムンカルに遺したメッセージと記録の残滓…。

「どうしました?」

ハダニエルに声を掛ける、彼をバックアップしていた技術開発室職員達は、ミカールの消滅をまだ察せられない。

目を開けた巨漢の犀は、体に比して小さめな目から、ポロポロと涙を零し始める。

友の消滅。

そして、長らく勘違いされ続けて来た事…。

自分達には捉えられない、自分達を取り巻く高次の因果の根底には何があったのか?

その問題提起を、そしてそれへの自分なりの回答を、ミカールは遺して逝った。

ハダニエルは悟る。

今の状況は、全て勘違いから生じたすれ違いが重なって生まれたのだという事を。

「おいら達は…、争う必要なんて無かったんだ…。なんで…?なんで今まで誰も気付けなかったんだよ…」

ゆっくりと立ち上がったハダニエルは、涙を零しながら腕を上げ、壁を思い切り殴りつける。

「勝手に逝くなよ…!ミカールぅっ…!」



テリエルは絶句していた。

アスモデウスもまた、声も出ない。

モニターで状況が確認できていた、本部内の捕虜達と、堕人達の多くが集まったそこでは、ミカール消滅の一部始終が観測

されていた。

「ミカール…」

「ミカールさん…!」

捕虜となっている本部職員達の中から、か細い声と嗚咽が漏れ始めた。

(ミカール…!お主は…!)

テリエルは拳を握り締め、歯が折れそうなほどきつく噛み締める。

同じく牙を噛み締めていたアスモデウスは、不意に流れ出した本部内放送に気付き、上を向く。

そしてその場に居た全員が、ハダニエルが伝えた「その事」を耳にした。



イスラフィルはハッとして顔を上げる。

何かが体を突き抜けていったような感覚と、原因不明の喪失感。

嫌な予感がする。何か取り返しのつかない事が起こってしまったような気がする。

「いかがなされましたか?マリク」

長の動揺を感じ取ったのか、傍に居た水牛が口を開いた。

「いや…、気のせいだろうね…」

何か感じたような気もするが、実際に何かを察知できている訳ではないらしい。自己精査しても何らかの情報を得た履歴は

無かった。

そこに、ハダニエルの本部内放送が届いた。



「そんな…!」

中央管理室に舞い戻ったラミエルは、ミカール消滅の報を受け、立ち尽くした。

自身はさほど親しくしていた訳ではないが、ドビエルやハダニエルの友人という事もあり、知らぬ相手ではない。

管理人達の顔は一様に暗い。

現存するワールドセーバー中でも屈指の実力者であるミカールが消滅した…。

これは、戦力ダウンを悔やむ以前に、絶望的なまでのアル・シャイターンの力を再認識させられる事実である。

ミカール最後のサンライトガイザーですら僅かな時間を稼いだだけで、アル・シャイターンは地上に舞い戻ろうとしている。

そして、絶望に沈もうとしているその部屋にも、ハダニエルの声は届いた。



その時、ワニとハイエナは本部下層転送ゲート付近に居た。

二人は翼印を失った反逆者であった事から服役中だったが、堕人侵入に伴い連れ出されていた。

服役についた経緯が経緯なので、堕人側につく可能性もあると見られ、処分保留という事で、拘束されてはいるが危害は加

えられていない。

そして、ハールとマールは聞く。

ハダニエルが語る、ミカールの消滅と、彼が遺した考察を…。

「なぁ…。逝くのって…、どんな気持ちなんだろうな…。知り合いも、仲が良いヤツも、全部遺して逝くのって…。辛いんだ

ろな…、やっぱり…」

そう呟いたハイエナに、ワニが応じる。

「…本当に辛いのは、遺された側かもしれない…」



因果管制室前に陣取ったイボイノシシも、その放送を聞いていた。

「カスパールさん!」

放送を聞いて飛び出して来たシマウマが、仁王立ちのまま肩を震わせる大男の背を目にした。

「なしてだべなぁ…。なして…、良いお人がら先に、逝っちまうんだべが…」

スパールはぐいっと袖で目の辺りを拭うと、大きく一つすすり上げ、次いで両手で自分の頬を叩いた。

「まだ、終わってねぇ。支配人の話によりゃあ、まだ終わっちゃいねぇ…。踏ん張り所でめそめそしてだら、ミカールさんに

どやされっちまわぁ!」



無数の棘が重なり合って出来た長大な尾が、唸りを上げて水平に薙ぎ払われる。

腰を落として構え、左腕を顔の脇で立ててブロックしたドビエルに当たると、浸食破壊を受けた尾は、彼にぶつかった部位

が消滅して半ばから断たれる。

だが、接触面からブラストが浸食する前にパラパラと組織が剥離し、それ以上のダメージは受けない。

さらには、失われた部位が即座に盛り上がり、ぼこぼこと泡立つように組織が増殖して、尾は10メートル程の長さに復元

する。

先が矢印のようになって尖った、蛇身のように長い二股の尾。

拗くれて頭から伸びる、形も大きさも不揃いで歪な十本の角。

背の翼は菱形の刃が鱗のように重なり合って形成された武器。

それはもはや、ワールドセーバーの範疇に無い異形であった。

変わり果てた黒面の山羊を前に、ドビエルは薄くなったブラストの防御膜の密度を上げる。

無限かと思われる強力な高速再生と、予測不能の熾烈な攻撃の前に、ブラストを使用し続けた事でドビエルも消耗し始めて

いた。

何とかねじ伏せて大人しくさせ、何らかの手段で元に戻してやりたいと思うのだが、それ故に攻め手は決定打に欠け、やや

防戦に回っている。

そもそも、執行人として作り変えられたなら、現状では完全に復旧させる手段は無い。

戻せないかもしれないと思いながらも、ドビエルは諦められない。

敵視されていても、嫌われていても、衝突を繰り返す間柄でも、ドビエルにとって黒面の羊は、他のメンバーと変わらない

大事な仲間だった。

お辞儀するように頭を垂れ、そのまま立位体前屈でもするように体を折り、ドビエルに向けられる羊の背。

そこに生えた翼が、ジャコンと音を立てて刃の鱗を毛羽立てた。

直後、シャワーのように浴びせられる無数の刃。

刃は射出される傍から再生して行くので弾切れもない。

真正面から機関銃のように乱射される刃を、浸食破壊で消し去りつつ、灰色熊が前に出る。

巌のような巨躯が二歩で急加速。背面から翼を為さずに噴射させた光の粒子で、駆け出した直後に高速飛翔に移行している。

10メートルにも満たない至近距離からの爆進により、浴びる鱗を消しながら距離をゼロまで縮めたドビエルは、翼を左手

で掴み、直接接触での浸食破壊を試みた。

が、即座に翼は切り離され、羊の体は骨が無いようにぐにゃりと潰れて床に伏し、素早く這いずって距離を開ける。

(これではいたちごっこですね…)

ドビエルはそう胸の内で呟きながら、有効打とならなかったここまでの攻撃を整理する。

何よりも手強いのはその再生能力だった。多少ダメージを与えてもすぐに治ってしまう。そのおかげで適度に痛めつけ、鎮

圧するという目的が果たせない。

再生には限度があるはずなのだが、未だに衰えが見えず、ドビエルだけが疲労を蓄積させて行く。

完全な消滅を狙うなら手はいくらでもあるのだが、場所が本部内という事と、相手を消滅させたくないという心情のせいで、

それができない。

有効な手段を模索し続けるドビエルは、再び間合いを取った羊と向き合ったその時、ハダニエルの本部内放送を耳にした。



急降下したスィフィルが、海面で浮き沈みしている鉄色の虎に接近し、その腕を掴んで引き上げる。

「ムンカル!?」

呼びかける狼男に、しかしムンカルは返事をしない。

半眼になった目はうつろで、肉体の活動はほぼ停止している。

休眠状態になっている事を確認したスィフィルは、虎男の胸に空いていた大穴が無くなっている事に気付いた。

革のつなぎは胸に穴が空き、背にも穴が空いて翼印が端だけ残して消えている。

風穴を空けられた事は間違いないのだが、肉体は完全に修復されていた。

あの童顔の獅子は、おそらく最後に何かを仕込んだ。そう確信している。

喪失感に胸を内側から苛まれながらも、スィフィルは最後の最後までワールドセーバーだった男に敬意を抱く。

「ミカールが何かなさったのであろうな…。際どい所で消滅を免れた…」

呟いたスィフィルは、ムンカルを右肩に担ぎ上げると、そのまま宙を滑るように駆け、バザールの元へ。

桃色の豚は泣いていた。レモンイエローの粒子が消え去り、光が失せた空を見上げて。

ポロポロと涙を零しながら顔を下ろし、自分を見たバザールに、スィフィルは小さく頷きかけ、その頬に左手を伸ばす。

親指で擦るようにして涙を拭ってやると、「ムンカルを頼む」と一言囁き、彼女のバイクの後部へ、俯せに引っかける形で

友を残す。

「ナキールさん…。こんな…、こんなの…!こんなのないですよっ!」

堪えきれない哀しみが、涙となって目から零れる。

愛しい恋人の泣き顔を見ても、それを笑顔に変えられない…。スィフィルはこの時初めて、不甲斐なさから生じる哀しさを

知った。

だが、感傷に浸っていられる状況ではない。

すぐにも舞い戻って来るだろうアル・シャイターンを、今度はムンカルとミカールの力を期待せずに迎え撃たなければなら

ないのだ。

そしてスィフィルは、説明し辛い感情を覚え、バザールの瞳を見つめる。

それは、喪失への恐怖。

たった今ムンカルとミカールが引き裂かれたように、自分とバザールも別離する事になったら?

もしも自分の力が及ばず、バザールが目の前で消滅するような事になったら?

初めて味わう私的な事に関する恐怖を、スィフィルは噛み締め、飲み下す。

そして、愛しいバザールの顔を、両手でそっと挟んだ。

決して進んだ仲とは言えない。

一緒に過ごした時間は束ねてもなお短く、その中身も一緒に食事したり、他愛のない会話をしたり、時にツーリングしたり

といった物で、端から見れば友人付き合いに等しいレベルの、ささやかな付き合いだった。

だがそれでも、荒野のように殺風景で、楽しみと呼べるような楽しみも知らず、平坦な精神に同僚からの心地良い刺激だけ

を受けて来たスィフィルにとって、バザールと過ごした仕事を抜きにしての時間は、軽く浅く重ね続けた逢瀬は、手を触れ合

わせた回数は、かけがえのない穏やかで大切な記憶となった。

ワールドセーバーでもなく、地上の命でもなく、人類が誕生した際、それに呼応するように生まれたザバーニーヤ…。その

一人目がナンバーゼロ…スィフィルだった。

咎ある魂を収拾する異層の発生と同時に、現象として具現化し始め、後にワールドセーバーの介入を受け、共生関係を築い

た彼らは、しかし魂に似た芯を持ってはいても、ワールドセーバー達のようにも、生物のようにも、なかなかなれなかった。

それでも魂の洗浄を繰り返すことで、魂を見て、触れて、観察する事で、少しずつ自我らしき物が芽生えはしたが…。

(こうまで「らしく」なれるとは、これまで誰も思わなんだ…)

狼男は喜ばしい驚きで胸を満たしている。

やっと実感できた。自分はもう、皆と同じような心を持ち得たのだと…。

「…ミカールの気持ちが、今なら判る…」

そう呟いて微笑したスィフィルは、そっと顔を寄せ、バザールの額に口付けした。

「な、ナキールさん…?」

泣きながらも戸惑うバザール。

狼男は、何故か今、これまでに無いほど穏やかで、これまでに無いほど優しく、これまでに無いほど暖かい。

彼女が知る狼男は、もっと鈍感で、手応えが希薄で、こんな真似などしてくれなかった。

まるで、やっと伝え方が判ったように、触れ方を知ったように、狼男は穏やかに微笑んでいる。ようやくやり方が理解でき

たとでもいうように、いささか気恥ずかしげに…。

二人を隔てていたカーテンのような何かが取り払われて、狼男の気持ちが触れた手から流れ込んで来るかのようだった。

その事が、悲しみに暮れるバザールにかえって不安をもたらす。

「バザール。一つ提案がある」

静かに囁いたスィフィルは、愛しい恋人の泣き顔を見つめながら、目を細め、口の両端をあげ、笑顔を作った。

「これが終わって、二人とも無事だったなら…。休暇を重ねてどこかへ行こう。二人だけで、邪魔の入らない所へ…」

「え?」

「旅行というやつだよ。考えてみれば、二人だけで出かけ、丸一日過ごした事などなかった。これからは、時折そうしてみる

のも良いのではないかな?」

バザールの中で嫌な予感が膨れあがる。

あまりにも唐突な、夢のような話…。

それをこの土壇場で口にするスィフィルが何を思っているのか、バザールには判った。

自分は消えてしまうかもしれない。

スィフィルはそう自覚しながら、それでも覚悟を決め、あの怪物に立ち向かうつもりなのだと…。

「嫌ですよぉっ!そんな事…、そんな事っ、今言っちゃ嫌ですよぉっ!」

手を掴み、行かせまいとするバザールに、やっと身に付けられた自然な笑顔で微笑みかけたスィフィルは、バイク後部の虎

男を見遣る。

もしかしたら自分の手で消滅させる事になっていたかもしれない、親友の姿を…。

(出会えて良かった…。過酷で無慈悲なそのリーズンが果たされるよう、全力で時を作ると約束する)

よく道を誤らないでくれた。今は心底そう思う。

自分がこうなるまでに、ムンカルから少なからず影響を受けた事は間違いない。

「この事にけりがついたら、我々も決着をつけよう。永きに渡る、たこ焼きとお好み焼きの優劣を巡る論争について…」

答えぬ友に微笑したスィフィルは、バザールに視線を戻し、告げた。

「バザールは少し離れていたまえ。それと、重ねて頼む…。ムンカルは、大切な友人なのだ」

口にしながら、スィフィルは思う。

そう、自分は今、自分の意思でここに居て、自分の意思でアル・シャイターンに立ち向かうのだと。

職務もあるが、それ以上の動機がある。

それはつまり、大切な恋人と、大切な友人のため…。

何故今笑えるのかと自分に呆れながらも、スィフィルは微笑する。

悪くない。

心からそう思う。

例えこのまま消滅しても、彼女達が無事ならそれで良いと思える。

そうなったら、消えゆく自分もおそらく寂しいだろうし、遺してゆくバザールの哀しみを考えれば辛くなるが、それでもな

お、彼女達の為になら消滅しても構わないと思った。

ナキールは今、バザールと向き合う事で悟った。

現象として発生したはずの自分にも、リーズンがあったのだという事を…。

バザールのリーズンは自分だった。

自分の気持ちを、心を変え、この場でもなお折れないだけの、使命感以上の戦う理由を与えてくれる…。それが、バザール

のリーズン。

そして自分のリーズンは、バザールという存在を、友人達を守るために、絶望せず立ち向かい、アル・シャイターンを食い

止める事…。

バザールと狼男のリーズンは、二人分が合わさってようやく意味を為す物だった。

そしてスィフィルは空を振り仰ぐ。

大気圏外から飛び込んできた白い光が、こちら目がけて急速接近して来る。

少しずつ大きくなって来るその光を見据え、狼男はバザールに背を向けた。

掴んでいたはずの手がいつの間にか解かれていた事に気付き、一度驚いたバザールは、その瞬間に飛び立ったスィフィルの

背を見上げ、声を上げた。

「ナキールさぁんっ!嫌ですよ!嫌ですよぉっ!さよならみたいな事言っちゃ…、嫌ですよぉっ!」

バザールの悲痛な声を背で聞きながら急停止して、宙を踏み締め、迎え撃つ体勢になったスィフィルは、横に距離を置いて

並ぶ格好になった巨躯のシャチをちらりと見遣った。

はらはらと流れ落ちた涙の名残が、ネビロスの頬を濡らしている。

しかし今、青白いシャチは両手に三本ずつ束ねて銛を握り、迎撃体勢を取っていた。

哀しい。

ネビロスは理由が解らないまま、その感情を持て余していた。

執行人にされかかって一度壊れてしまい、アシュターらの力添えで今の形に修復された彼の心は、いわば焼き継ぎされたガ

ラス細工。

決して元には戻らないが、しかし色さえ変えて無理矢理形を整えられたその中には、かつての自分の残滓が混じっている。

ネビロスの涙は、ミカールの消滅を目の当たりにしたからこそ呼び起こされた感情による物だった。

喪失感と悲哀。そして何故か、義務感にも似た物が彼を突き動かす。

アシュターの命令ではない。自発的に立ち向かう気になっている。

ミカールが託した物が、望んだ未来が、おそらくこの場にあった。それが何かは判らないが、それを守らねばならないよう

な気がしている。

並び立つ両者は、共に今、世界の為に立ち向かう。

愛する恋人が居る、大切な友が居る、この世界のために。

かつて理想を抱いた、守りたい営みがある世界のために。

絶望の化身を前に、臆さず、怯まず、胸を張る。

そんな両者の背を見上げ、バザールはバイクのエンジンを吹かした。

役には立たないだろう。それでも一度ぐらいは盾になれるはず…。

スィフィルが残した言葉で不安に駆られたバザールは、後ろにムンカルを乗せたままの愛車をスタートさせようとして、寸

前で留まった。

「…彼を…、おろしなさい…」

衰弱し切っている白い雌牛が、バザールの眼前に空間跳躍で現れていた。

残り少ない力を振り絞ってでも移動時間を短縮させたのは、もはや一刻の猶予も無いからこそ。

「な、何を…!」

バザールは言われてからハッとして、自分が預かったムンカルの事に思い至り、振り返る。

警戒するバザールに、アシュターは焦りの表情を浮かべながら続ける。

「その虎を…、再起動させるのよ…!おそらく…、ミカールはあの瞬間に…、何かを託した…!肉体の修復が…、殆ど終わっ

ているのに…、休眠状態が続いているのは…!託された物が…膨大な何かだったからなのよ…!更新が終わらないと…、再起

動が…遅れる…!」

何を言い出すのかと、バザールは困惑した。堕人の言葉を真に受け、無防備なムンカルに接触させていいものかと、迷いと

疑惑がバザールの目にちらついた。

「それはたぶん…、希望になり得る…、何かなのよ…!もう今となっては、敵だ味方だと…もめている場合でない事は…、判

るわね…?」

反論しようにも言葉に詰まったバザールに、アシュターは告げる。

「更新と最適化を…、サポートして…、時間の短縮をはかる…!世界が消えてしまうのが…、大切な物が…無くなってしまう

のが嫌なら…、従いなさい…!」

バザールはそれでも逡巡していたが、やがて警戒しながらも頷き、バイクを降下させて海面へ下りる。

そこだけが平坦な路面のように変えられ、波の動きが消えた足場となると、アシュターもまたそこへ降り立った。

「気付いていると…、思うけれど…。わたしの力は残り少ない…。おそらく…、作業が済むまで…、保つか…、ぎりぎりよ…。

だから…、だまし討ちを…警戒する必要はないわ…。いいわね…?」

喋るのも辛そうなアシュターに頷きながら、バザールはムンカルを平坦になった海面に寝かせる。

今の白い雌牛は息も絶え絶えの有様。もしも何かを企んでいたとしても、止められると考え、提案に乗ったバザールだった

が、その心配はすぐさま要らなくなった。

ムンカルと接触したアシュターが、自らを覆うプロテクトすら完全に解いて、復旧に全力を注ぐ姿勢を見せたので。

堕人と共闘するという現状にはまだ引っかかりがあるものの、プロテクトまで解いて預けられては応えるしかない。

バザールは銃を抜き、二人の壁になる格好で仁王立ちし、空を見上げる。

ムンカルの手を軽く握ったアシュターは、すぐさま状況を理解した。

おおまかには予想通りだった。ムンカルは致命的な損傷から強引に復元され、さらに膨大なデータを強制注入された事で、

あちこちに負荷がかかり過ぎて機能を停止していた。

さらには注入された物とムンカル自身の起動システムが機能衝突を起こし、処理に時間がかかる不具合が頻発しており、最

適化に手間取って再起動が遅れている。

放置していれば再起動に数時間はかかるだろうし、その後も満足に動けるようになるまで自己調整が必要になるだろう。

だが、こんな状態からの復旧はアシュターの得意分野だ。

ミカールがムンカルに押し込んでいったデータ量が膨大なので、かなり手間はかかるが、一度は壊れかけたネビロスを直し

た時と比べれば、失敗の可能性が無いだけ気楽とすら言える。

問題は、彼女の体力が最後まで保つかどうかだった。

「さぁ…、チキンレースの始まりよ…!」

アシュターは目を閉じて集中し、ムンカルの構造把握から開始した。

そして、全員がそれぞれの役目に就いたその時を待っていたように、絶望が再臨する。

十二枚の翼で身を覆い、球体のようになって降下してきた北極熊は、スィフィルとネビロスが待ち構える場所から50メー

トル程上空で翼を広げ、急停止する。

「るるるっ!るるるるるるるるるっ!」

唸りを漏らす北極熊に、消耗の色は無い。

ミカール最後の一撃により、一度は成層圏の外まで弾き出されたアル・シャイターンだが、並のワールドセーバーが瞬時に

蒸発する程のエネルギー奔流に巻き込まれながら、目だったダメージはなかった。流石にあれを無害な形に分解して吸収する

だけの余裕は無かったが…。

スィフィルは無言で草刈鎌を両手に握り、少し腰を沈め、いつでも駆け出せるよう身構える。

ネビロスは銛を三本握った右腕を引き、体を横向きにして捻り、先手を取っての投擲が行えるよう、姿勢を整える。

「るるるるるぁおっ!あるるるるるるるるるるるっ!」

アル・シャイターンが叫び、ネビロスが腕を振るって三本の銛を同時に放ち、それを横に並んで追うようなタイミングでスィ

フィルが飛び出す。

決死の防衛戦は、第二ラウンドに突入した。



白一色の心象風景。そこは、かつてのアズライルが消滅した場所…処刑場である。

ミカールとムンカルが会ったアパートの屋上と同様に、二人のアズライルに残る記録が強く重なり合う部分が、この処刑場

だった。

その中で、黒豹は白猫と向き合う。

アズライルも目の前のそれが自分なのだとどこかでは理解しているのだが、結局の所は別人でもある。

何故ならば、お互いに過去のアズライルとは別物になっているのだから。

遙か昔に粉々に砕け、地上に舞い降り、それぞれ別に再結晶化して来た、アズライルの魂たる黒豹と、アズライルの力たる

白猫は、融合に向けて互いに一歩踏みだし、距離を詰める。

一歩。また一歩。相手が近付くにつれ、アズライルの怖れもまた強くなる。

だが、もはや、決めた事を翻すつもりはない。

もうこれ以上、大切な何かが失われて行くのを見ていたくなかった。

もうこれ以上、愛する男の成れの果てに酷い事をさせたくなかった。

やがて二人のアズライルは、手が届く距離で立ち止まる。

白猫は黒豹を見上げ、黒豹は白猫を見下ろす。

そしてアズライルの「力」は、口を開く。

「ただいま」

そしてアズライルの「魂」が、口を開く。

「おかえり」

どちらからともなく伸ばした手が、互いの体に触れ合い、抱き寄せる。

背の低い小さな「力」を抱き、「魂」は目を閉じる。

離ればなれだった「魂」の胴に手を回して抱き付き、豊満な胸に顔を埋める形で、「力」も目を閉じる。

その瞬間から両者の体が淡い白色に発光し、記憶が溶け合い始めた。

混じり合ってゆく、それぞれが共に北極熊と過ごし、歩んできた、別々の旅路の記憶…。

長い長い旅の末に、ようやく巡り会った半身達は、発光を強めて白い光の繭の中に取り込まれる。

その繭の中で、白猫の体は光に消え入るように、すぅっと薄れてゆく。

白猫の体が透き通ってゆくと同時に、黒豹の体が体色を薄くしてゆく。

やがて白猫は完全に消え、黒豹は体を白く染められた。

そして弱まる発光。

光の繭が吸収されるようにしてその直径を縮めてゆくにつれ、白く染まった豹の体に、薄く滲んだ水色の斑紋が浮かび上がっ

て来る。

発光が完全に収まると、目を閉じていた雪豹は、ゆっくりと双眸を開く。

黒豹が白猫と混じり合って変容したその姿は、かつて存在した最高峰のワールドセーバーの一人、アズライルオリジナルそ

の物だった。