第七十四話 「終わりの配達人」

 アズライルは鉄色の虎の顔を覗き込む。

 ムンカルは、焦点が合わない、遠くを望むような目をしていた。

 アズライルの手で胸元に描かれた666の紋様は、鉄色の毛を縞模様と同様の黒に染めていた。それが今、ゆっくりと明滅

し、状態が安定した事を示すように黒に戻る。

 しばし空を眺めていたムンカルは、瞬きひとつすると、ピントを合わせたように瞳に光を宿し、ゆっくりと身を起こす。

 そして、傍らに屈む二人の女性を見遣り、「ああ…」と声を漏らした。

「随分かかっちまった。自力起動だったらどれだけかかったか…、やっぱり俺ぁ未熟だな」

 口元を歪めて呟いた虎男は、アズライルをじっと見つめる。

「…戻った…、って言やぁ良いのか?」

「そうね。そう言うべきでしょうね」

 頷いたアズライルに、ムンカルは少しだけ寂しげな目で問う。

「もう、俺達と一緒に過ごしたアズライルは居ねぇのか…」

「そう取っても間違いでは無いわね…。でも…」

 雪豹はそこでぐっと牙を剥き、猛々しい笑みを浮かべて見せた。

「そんな事でくよくよしているようなら、尻を蹴り飛ばすぞ?」

 アシュターが目を丸くして雪豹を見遣り、ムンカルがまじまじとアズライルの目を見つめる。

 そして鉄色の虎はニヤリと笑みを浮かべた。

「…へっ!まるっきり別人って訳でもなさそうだな?」

「そういう事よ。全部覚えているわムンカル。…貴様に風呂を覗かれた事も、な…」

 これは間違いなさそうだ。そう感じた虎男は、肩を竦めて誤魔化し、立ち上がる。

「さて、じゃあ…、行くか」

 ムンカルは爆炎が咲く空を見上げ、目を細めた。

 歌が聞こえる。

 イスラフィルが遠く離れた本部から、皆の力をかき集め、空間の連続性と距離を無視し、歌に乗せて送ってくれている。

 『Livin' on a Prayer』。ムンカルがナキールの里帰りにあわせて持たせてやったCDの収録曲である。

「いいチョイスだぜ、流石は姐御」

 ニヤリと不敵に口元を歪め、ムンカルはトンと海面を蹴る。その体が直立した姿勢のままふわりと浮き上がり、戦場へ近付

いて行った。

 それは、奇妙な雰囲気を纏う男だった。

 ムンカルという男を知る者ならば違和感を覚えずにはいられないほどに、静かで、落ち着きがあり、どこか物憂げだった。

 ミカールを喪い、絶望を味わったはずなのに、激昂もせず、悲嘆にも暮れず、ただ戦場を見つめるその男は、

「皆、退いてくれや…」

 静かに、しかし不思議と良く通る声でそう告げた。

 アスモデウスが、ネビロスが、バザールが、一斉に動きを止めて振り向く。

(ムンカル…。再起動したのか?)

 バザールは内から響くスィフィルの声に頷きつつ、しかし奇妙な気分になった。ムンカルの雰囲気が以前とはあまりにも違

い過ぎて。

 アスモデウスは力の浪費で真っ白に変じた鬣を揺らし、昇って来るムンカルを見据える。

 彼もまた、やはり「違う」と感じた。そして同時に確信した。

(ミカールは…、この為に…)

 ハダニエルが傍受したミカール最後の意志の断片。それを信じたのは正解だったと、黒獅子は口の端を歪めた。

 直後、除幕維持も限界になり、ばさっと鬣の半分が千切れ落ち、元の長さになる。

 ふらりと揺れたアスモデウスはそのまま落下しかけたが、下から回り込んだシャチがその体を支えに入った。

「ネビロス…、下がるぞ…。我等の役目は果たされた…」

 異を唱える事もなく、ネビロスはムンカルをちらりと一瞥した後、その場を離れる。

 同時にバザールも内なるスィフィルに警告され、戦線離脱してアズライルとアシュターの元へ向かった。

 そしてその間、ムンカルの目は白い巨体から一度も外れなかった。

 そしてその間、アル・シャイターンの視線も彼からずれなかった。

 ムンカルの高度がアル・シャイターンと同じ位置まで上がると、両者はしばし、身じろぎ一つせず見つめあう。

 今ではムンカルも理解していた。自分のリーズンを。

 この日この時この場に立ち、こうして白き災厄と一対一で向き合う為に彼は生まれ、旅をして来た。その事がはっきり判る。

 その胸の内には今、その条件を整えてくれた最愛のパートナーが遺した、最後の希望が燃えている。

 アル・シャイターンも理解していた。目の前のソレが何なのかという事を。

 ソレを越えねば世界を壊す事などできない。目の前のソレは自分を「終わらせる」力を持っている。その事がはっきり判る。

 その胸の内は虚無。何を得る為の物でもない、破壊衝動という名の寒風が吹き荒ぶ空洞があるばかり。

 両者の激突で劇的な変化が生じる直前に、アズライルは放出していた「眼」を全て消して力に戻し、足場にした海面に両手

をつき、多重ダミー空間を独力で展開する。

 管理人や腕利きのワールドセーバー数名で構築するだけの強固なダミーを十数枚一気に重ね、壊れかけた空間に被せた雪豹

は、天を仰いで声を上げた。

「皆!私の傍に!有効なだけの障壁密度を維持すれば、せいぜい5メートル四方しか守れないわ!」

 万全の状態ではない上に、666のサポートも失ったアズライルだが、それでも他のオーバースペックが十全の状態にある

よりもなお、高度な技術と力を行使できる。ムンカルとアル・シャイターンの激突によって生じるだろう破壊の嵐からも、彼

女ならば皆を守り切る事が可能だった。

 スィフィルを内包するバザールが、そしてネビロスと消耗したアスモデウスが、彼女の傍に寄ったそのタイミングで、

「さぁ、始めるか…」

 ムンカルが、静かに囁いた。

 そろそろ仕事片付けようや。そんな声を同僚にかけるような、気安ささえ感じる口調で。

 応えないアル・シャイターンの前で、ムンカルは目を閉じた。そして小さく呟く。

「…アンヴェイル…」

 直後、みしっと空間が軋んだ。

 胸に刻まれた刻印666が激しく明滅し、周囲の被毛がレモンイエローに変じ、その領域を広げ、黒い縞模様を残したまま

全身をレモンイエローに染め上げる。

 背に刻まれた翼印からレモンイエローの粒子が猛烈に噴射され、後方へ大きくたなびいた後、輪郭外周の滲んだ部位が削ら

れるように形を整え、大きな翼を作り出す。

 そしてその頭部で、まるでミカールの除幕時に鬣が伸びるように、ぞわりと光色の毛髪が伸びる。

 やがてゆっくりと瞼が開かれれば、あらわになったのは薄く輝く蒼い六芒星を刻まれた鉄色の瞳…。

「何だ…、あれは…?」

 アズライルが作った狭くも強固な障壁内で、除幕したムンカルの姿を目にし、黒獅子が呻く。

 アル・シャイターンも異質だが、彼から見たムンカルもまた、同等のレベルで異質な存在だった。

 レモンイエローの体。黒い縞模様。人間だった頃の名残のように頭に生えた毛髪は、ミカールの鬣にも似たレモンイエロー

のざんばら髪。

 逞しい体躯に見合うサイズの光り輝く大きな翼は、ミカールのそれと同じ色。だが、童顔の獅子には不釣合いに大きかった

それは、ムンカルの背を飾るに相応しい大きさとなっている。

 部分的にミカールをイメージさせる姿となった虎男は、静かに宙に留まり、眩しく周囲を照らす。

 静かな圧力を、全身から放射して。

 アスモデウスは身震いした。おそらく彼は「完成品」なのだろうと感じて。

 この日、この時、この場所で、白い災厄を止めるべく世界が生み出した陽光の虎…。つまりそれは、「この状況」に特化し

て完成された「ワールドセーバー」。

「彼はメサイア」

 障壁の強度を確認しつつ、アズライルはそう呟いた。そして、一同の視線を浴びながら続ける。

「おそらくはドビエルが担うはずだったその役目を、肩代わりさせられた代理のメサイア…」

「肩代わり、ですって?」

 アシュターの問いに頷き、雪豹は言葉を紡ぐ。

「ドビエルは以前、その能力故に自らを空間隔離していたわね?イスラフィルが境界を壊し、初めて巡り合うその時までずっ

と…。以降彼は外に出て、自身の能力を制御し、小出力になるよう研鑽し、平和的に過ごす道を選んだわ。その優しさ故に…」

 アズライルは「けれども」と、軽く目を閉じる。

「神の見えざる手からすれば、それは予定外の事だったのよ。予想される最悪の事態に備えたメサイアが、予定とは逆のベク

トルへ能力を進化させた事は…。だから彼が生まれたの。ドビエルに代わる第二の、ブラストを携えたメサイアとして…」

 一同の視線を受けながら目を開いたアズライルは、白き災厄と向き合う陽光の虎を見つめ、厳かに呟く。

「デイヴィッド・ムンカル。神の見えざる手が課したその真名は、ダビデ・カーマン。業すら壊す破壊のメサイアにして、凄

絶なる未来を見据える義務を課せられ、瞳に星を刻まれし者…」

 アズライルは言葉を切る。丁度両者が動いたタイミングで。

 その激突は、最初の接触からして劇的だった。

 しかしその初動は、優雅とも言える穏やかさを伴ってもいた。

 ムンカルが翼を左右に広げて背を丸め、ゆっくりと前傾姿勢を取る。その体が薄い灰色の燐光を纏い、色をくすませた。

 対するアル・シャイターンは、腰を沈めて宙に脚を踏ん張り、僅かに上体を前へ傾かせ、その両腕をだらりと下げる。

 直後、レモンイエローの軌跡を残し、ムンカルの体が前方へスライドした。

 静止状態からの急加速。それは、速度を上げる過程が…因果の「因」が存在しない動き。

 さらに、瞬時に距離を詰めたムンカルの右手は、取り出す動作、召還する動きすら見せず、不意に出現したコルトパイソン

を握っている。

 これこそが、優しきドビエルが背を向けた、ブラストの進化の可能性。

 自身に干渉する因果流転現象を一部破壊し、強引に繋げ、因を無しに果を現す力…。カーマンブラスト。

「るあっ!」

 アル・シャイターンの右腕が上がり、そこに光球が生じる。しかしそれはこれまでの物とは違い、冷たく、凍てつくような

輝きを強めた物。エネルギー密度がそれまでの物とは違う。

 その初回接触を凝視していたアスモデウスは驚愕していた。

 ムンカルの動き出しは彼にも見切れず、気付けば距離が半分以上詰まっている上に、アル・シャイターンの力は自分達に向

けられた物とは破壊力が一桁違う。

 だからこそ気付けた。あの北極熊は自分達を相手に全力など出していなかったという事が。

 力の浪費を抑えた攻撃だったからこそ、あの程度だったのだろう。そう察し、改めて畏怖を覚える。

 フライパンの上のウインナーに本気になって素手で掴みかかる者などまず居ない。多少手こずってもそれなりの器具で対処

する。自分達に対するアル・シャイターンの対処は、まさにそれだったのだ。調理中の物を上手く皿に上げられずにまごつい

ていた、ただそれだけの事…。

 だが今、アル・シャイターンはムンカルを調理中の餌とは見ていない。野生の捕食者が危険な獲物を前にした時のように、

全力で叩き潰す気になっている。

 ムンカルが迫り、間合いが狭まり、至近距離で放たれる光球。しかしそこへ銃を向けたムンカルは、射出した弾丸でそれを

迎え撃つ。

 小さな弾丸が冷たく輝く光の球に接触した直後、ブンッと音を立て、白は灰色に染まった。そして跡形もなく消滅し、残滓

すら漂わないまっさらな空間が二人の間に戻る。

 それはブラスト弾。着弾位置から限定範囲で浸食破壊をおこなう、ムンカルがネビロス戦で見せたブラストの応用技術だっ

た。しかしその精度も、浸食速度も、破壊限界量も、先の物とは桁違いになっている。

 距離を詰めたムンカルが左腕を大きく引き、身を捻る。その左拳は、集中したブラスト膜によってガンメタリックの障壁を

帯びていた。

「スージーQっ!」

 渾身の左フック。これを迎え撃つのは、合わせて繰り出された北極熊の左腕。豪腕には冷たく輝く霜を思わせる燐光が纏い

付き、高密度エネルギーによって周囲の景色が重力場ごと歪んでいる。

 ぶつかり合う左拳と左掌。浸食破壊と分解吸収。鉄色の閃光と霜色の閃光が接触した部分から瞬間的に球形に膨れ上がるが、

即座に対消滅を起こして消え去る。

「まだまだぁっ!」

 咆えるムンカルの右足が、左フックを戻す動作から繋がったミドルキックを放つ。これはアル・シャイターンの左腕の下を

潜り、がら空きになった脇腹に飛び込んだ。

 高密度エネルギーからなる防壁をブラスト膜で相殺し、直接的な単純打撃となった虎男の脛が、北極熊の脇腹へめり込む。

「るおっ…!」

 息が止まったように、半端に途切れた苦鳴を漏らすアル・シャイターン。ふくらはぎまで埋まる重い蹴りに腹を圧迫され、

嘔吐するように大きく開けた口からは、押し出されるようにして舌が出ている。

 ムンカルの猛撃は止まらない。右の蹴りを戻しつつ左腕を振り下ろし、チョッピングライトでアル・シャイターンの右頬を

捉える。またも防壁はブラストで相殺され、攻撃は単純な打撃となった。

 肉付きの良い頬にムンカルの手の甲の半ばまでが埋まり、アル・シャイターンの顔を瞬間的に歪ませ、首を無理矢理大きく

捻らせながら殴り落とす。

 その瞬間、みしっ…と、小さいながらもはっきり聞こえる音を、決戦を見守る全員が聞いた。

(何の音?あの子が除幕した時にも聞こえたけれど…)

 アシュターは眉根を寄せたが、すぐに気付いた。

 それは、バージョンアップしたムンカルが、その気になって動くだけで周囲の空間に負荷をかけているせいで発している、

空間の軋み音だという事に。

 打ち下ろしで殴られ、強制的に左下を向かされたアル・シャイターンは、しかし立て続けに受けた重撃でも殆ど動作を鈍ら

せない。

 左脇腹を抱える格好で捻った体が、バネ仕掛けのようにぐんと上がり、左の豪腕が燐光を纏ってムンカルを襲う。

 ぐしゃっと痛々しい音が響き、虎男の顔面に掌が叩き付けられた。物理的な接触衝撃だけでも凄まじい威力を伴う張り手を

食らったムンカルの顔が、真上を向くまで仰け反る。一発でブラスト膜が消し飛ばされたが、アル・シャイターンの掌に宿っ

た燐光も対消滅を起こし、ただの打撃になっている。

「るおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 北極熊の咆吼が響き、仰け反りながらも踏ん張ったムンカルめがけ、右腕が振り下ろされた。

 頭部左側をすっぽり隠す程の平手に打ち据えられ、側転するように高速スピンしつつ吹き飛ばされるムンカル。そこへ向け

られた北極熊の右手から、瞬間的に発生、凝縮された小型光球が打ち込まれる。

 しかしムンカルは強烈な連撃でも意識を持っていかれてはおらず、海面すれすれで翼を広げて制止すると、迫る光球目がけ

て左手を翳した。

 直後、高速飛翔して来た光球は、差し向けられたムンカルの掌で動きを抑制されたように、速度を緩慢にする。

 時干渉。

 それはミカールの得意技でもあった高等技術であり、ムンカルが不完全にしか体得できなかった物でもある。

 だが今やその技術は完全に彼の物となり、先程まではついて行くのが精一杯だった高速戦闘の最中でありながら、今こうし

て、一切のズレを生じさせずに発動させてのけた。

 スローになった光球を見上げながら、ムンカルはその左手を、銃を握る形へ変える。すると、先程と同じく、その手の中に

予兆もなく新たな銃が出現した。

 出現したのはルガーP08。ミカールがずっと愛用していた銃である。

 その細い銃身を持つ独特なシルエットの銃を、ムンカルは一度大きく振り上げてから、光球とその直線上に居るアル・シャ

イターンへ向けた。まるで、指揮棒のように。

「最終決戦ってんならよぉ、こいつを使わなきゃミカールが臍曲げるよな…。とくと見やがれ!こいつが「俺達」の全力だ!」

 不敵に口元を歪めたムンカルが、右足を振り上げ、宙をどしっと踏み締める。

 それに応じて海面を貫き、彼を取り囲むようにそびえ立ったのは、六本の88ミリ高射砲。

 その三基ずつが海面に発生した灰色の光のラインで結ばれ、ムンカルを中心にした六芒星が描き出される。

「吼えろ!アハトアハト!」

 ムンカルの号令と同時に、六角に配されたアハトアハトと、彼の掌中にあるルガーが灰色の閃光を吐き出す。

 それは、アハトアハトの砲身を利用した極太のブラスティングレイと、その中央を走るやや細いブラスティングレイが、途

中で合流して一本の太い柱となる、ブラストの集中砲火だった。

 射線上にあった高密度エネルギーの光球は、浸食破壊の奔流にあっけなく飲み込まれて消滅する。

「るあああああああああああああっ!」

 アル・シャイターンが体を丸め、十二枚の翼で破壊の閃光をガードする。しかし浸食破壊の灰色は、彼の翼から容赦なく光

を奪い、力を削り取る。

 だが、灰色の流れの中で踏ん張った白はそのまま留まって耐えきり、奔流が絶えると眼下のムンカルを睨み、牙を剥き出し

にした。

 しかし、「ムンカル達」の全力はまだ終わらない。振り上げたままのルガーを虎男が振り下ろす。

「まだ行くぜ!ブラストフォールズだ!」

 アルシャイターンを削りながら上空へ駆け抜けた灰色の奔流は、成層圏外まで及ぶダミー空間の中で反転、細かく分裂して

無数の灰色光球となり、高速落下を始める。

 追撃を悟ったアルシャイターンが翼を広げ、頭上で折り重ねて傘を形成し、集中落下して来るブラストの流星群に備える。

 それは降り注ぐのではなく、殺到するとでもいうべきものだった。

 ブラストの球はばらばらに落下するのではなく、その全てがアル・シャイターンを狙って軌道修正しながら突っ込んで行き、

翼の盾にぶつかって力を削いで行く。

 ミカールの力と技能をインストールされ、彼が所持していたいくつもの器具と長年培ってきたマニュアルを得た事で、ムン

カルは長年の改善課題だった精密なコントロールと応用力、多彩な攻撃手段を得た。

 そして、666システムの処理補助により、いかなる精密技術の演算でも過負荷に陥る事は無く、理論上オーバーヒートは

無い。

 さらには、本部と多くのワールドセーバーから送られた膨大なエネルギーが無ければ火が入らない程のエネルギー炉…、ミ

カールの飛行艇に搭載されている物と同等のエネルギー供給ゲートを内包しており、通常の活動に伴う程度のエネルギー消費

に留めるならば、補給無しで半永久的な活動が可能となっている。

 ただし、供給速度を消費速度が上回っていればこの限りでは無く、現状の全開起動状態ならば、数分で除幕が解けてしまう。

 だが、それを理由に手を緩めるつもりは毛頭無い。

 ムンカルは理解している。自分のリーズンを。

 皆が繋いでこの場に立ち得た自分が、どんな役目を背負っているかという事を。

 それは簡単な事ではない上に、救いもない役目…。

 彼の役目とはつまり、アル・シャイターンと同等の力を得た自分自身が、彼と対消滅する事で、世界にあってはならない二

つの力を同時に消し去る事だった。

 あってはならない存在に抗し得る者は、自身もまたあってはならない存在。世界のバランスを保つ為には、両者が共に消え

るしかない。ムンカルが得たこの力は、アル・シャイターンを消し去る為だけに与えられた物なのである。

 実際の所、ムンカルの計算では、彼が力を絞り尽くすのと、アル・シャイターンが削られて消えるのはほぼ同時になりそう

で、ずれがほとんど生じない。

(もたもたしてる余裕はねぇ。出し惜しみ無しで一気に押し込む!)

 頭上からの攻撃を防御するだけで手一杯となったアル・シャイターンを睨み上げ、ムンカルは屈んで力を集中させた。

 すると、アハトアハトを繋いで灰色のラインで描かれた六芒星の内側が、レモンイエローの光で満ちる。

「突貫!」

 掛け声と同時に六芒星から光の間欠泉が吹き上がり、ムンカルを跳ね上げた。

 上から流星群、下からサンライトガイザー、挟撃を受ける形になったアル・シャイターンは、頭から突っ込んできたムンカ

ルの頭突きを鳩尾に貰い、重ねていた翼が解けて流星群を背中へまともに食らい、さらにムンカルを押し上げたレモンイエロ

ーの奔流に巻き込まれる。

 オーバースペックでさえ一瞬で蒸発してしまう程の高密度エネルギーの集中打撃。分解吸収する余裕すら無いアル・シャイ

ターンは、当然平気ではいられない。

 ムンカルが鳩尾に頭突きをした格好になり、体を強制的にくの字に折り曲げられた北極熊は、しかしそれで攻撃が止んだわ

けでは無い事を、身をもって理解した。

 密着状態から北極熊の土手っ腹にコルトパイソンを押しつけたムンカルは、

「ブラスティングレイ、フルショットだ!」

 ゼロ距離から六連発のブラスティングレイを放った。

 レモンイエローと灰色の奔流が、降り注ぐ流星に叩かれ続けている北極熊を上空へ吹き飛ばす。

 ミカールの名残とも言えるレモンイエローの光は、ムンカルが放つ浸食破壊の干渉を受けていない。浸食破壊と純粋な削り

取りが、相乗効果でアル・シャイターンを追いつめる。

 だが、それでもなお北極熊は落ちない。

「るああああああああああああああああああああああああああっ!あるるるるるるるるるるるるるるっ!」

 咆吼と同時に目映い閃光が生じ、アル・シャイターンを中心に球体状に拡大、加えられた攻撃を相殺しにかかる。

 その瞬間、ギシッと音を立てた空間が、ガラスが割れるように砕け散った。

 見上げるアズライルが「く…!」と焦りの声を漏らす。

「まさかこんな事が起こるなんて…。予想以上の事態ね…」

 アスモデウスが、アシュターが、ネビロスが、バザールが、そして彼女の中のスィフィルが、空を見上げたまま声も出なく

なっていた。

 ダミー空間が破れて戻って来た現実空間。その、アル・シャイターンが留まる空の向こうに、「有り得ない景色」が広がっ

ている。

 夜空が割れていた。そしてその向こうには日差しが注ぐ海が見えている。まるで、ステンドグラスが割れて向こうの景色が

見えるように。

 その光景を、人間が、夜の獣が、虫たちが、見える範囲に居る者の大半が目撃していた。

 それは幻覚ではない。生身の生物ですら認識できる低位現実…、物理的な現象である。

「何だあれは…?界面が破れたのか?」

「異層…?にしてはあまりにも自然界に似て…」

 アスモデウスとアシュターが口々に呟き、アズライルは再度意識を集中し、壊れたダミー空間を瞬時に補修する。だが、ダ

ミーで上書きしてもなお、空の亀裂は消えない。

 それはもう、れっきとした現実なのだ。ダミー空間が景色を模倣してしまう程に。

「…あれは、異世界よ」

 呟いたアズライルに全員の視線が集まる。

「影や、コピーの異層や、ダミー空間とは違う。この世界と同じ存在レベルの質量が満ちた、別の物質世界…」

 その説明でスィフィルは理解した。転生する魂が流出し、あるいは流入して来る先の一つが、あの亀裂の向こうに見えてい

るあそこなのだと。

「地上の生物にも見えているはずよ。悪影響が出ないとも限らないし、人間は大騒ぎするでしょう。早く塞がなければいけな

いけれど…」

 考え込むアズライルは、しかしそれが容易では無い事を察している。アル・シャイターンが居る限り、あれを塞ぐ事などで

きはしない。

 だが、亀裂は徐々にだが狭まってはいる。世界その物が持つ復元力で塞がれようとしているようだが、それではどれだけか

かるか判らない。自衛隊や報道ヘリが飛んで来ないとも限らないので、ぼやぼやしてはいられなかった。

 だが、焦る一同とは逆に、ムンカルはニヤリと笑っている。望んでいた以上の事ができそうだ、と。

 ムンカルのリーズンは、アル・シャイターン諸共消滅して世界を維持させる事。

 だが、それとは異なる結末がもう一つ用意されている。ミカールの手で。

 彼が遺した可能性を活かし切れるかどうかは、状況とムンカル次第だったが…。

(これなら行けそうだ…)

 今、状況の方は整った。

 アル・シャイターンはムンカルを見下ろし、腕を振り上げる。その上でちらちらと光が瞬き、無数の細かな光球が出現し、

見る間に膨れて行く。

「るあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 咆吼と共に振り下ろされた腕に導かれ、寒々しい純白の流星群が降り注ぐ。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 咆えたムンカルがルガーとコルトパイソンを両手で保持し、ブラスティングレイを連続放射してそれを迎撃する。

 その側面へ、流星群を囮にして接近したアル・シャイターンが回り込み、水平飛行で接触、ムンカルの顔面を鷲掴みにする。

「ぐっ…!おおおっ!」

 みしっと空間ごと頭部が軋み音を立てたが、ムンカルは怯む事無く銃を消してアル・シャイターンの腕を掴み、股間を蹴り

上げた。

 そこには痛覚が無いのか、男性特有のリアクションは無かったものの、白い巨体は股ぐらに脚を入れられた状態で蹴り上げ

られ、巴投げの要領で投げ飛ばされる。

 顔から手が外れて自由になったムンカルは、宙で一回転して逆さまになりつつ再び二丁の銃を出現させ、体勢を崩した北極

熊へブラスティングレイを連続発射。しかしこれは背後から体の前面に回された翼に阻まれて直撃はせず、力を削るに留まる。

 その防御姿勢の隙をつき、反転したムンカルが加速の過程を飛ばした動きで接近した。

 肉薄した虎男の手が北極熊の喉を捉える。そしてその直後、喉輪を仕掛けたままぐんっと振り、自分の倍以上ある巨体を押

し倒した。

 空中に見えない床があるかのように、その場でずどんと空間を揺らし、叩き付けるように仰向けに返された北極熊の上に、

虎男が跨る。

 太鼓腹に尻を置いたマウントポジションで銃を消し、拳を固めたムンカルは、その両腕にガンメタリックの燐光を纏わせた。

「おらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらぁあああああああああああああああっ!」

 右、左、右、左、スージーQの連続殴打が、北極熊の頭部を絶え間なく叩き、一繋がりになった打撃音がドガガガガガッと

重く硬い音の連なりを生む。

 が、北極熊は下半身を捻って勢いをつけ、体格差に物を言わせて反転、ムンカルを巻き込む形で俯せになると、彼を下に敷

いたままその頭を右手で鷲掴みにし、左手で首を絞める。

「げぐっ…が…!」

 藻掻くムンカルの体から急速に力が抜けて行く。

「ムンカルさん!」

 捕食されている事を悟ったバザールが悲鳴を上げたが、その中のスィフィルは、

(…まさか…、こんな真似が…?)

 驚嘆すら覚え、その光景が意味する事を半ば悟る。

 ムンカルの口元がニヤリと歪む。その直後、アル・シャイターンの胴回りが膨張した。

「んぐぶっ!?」

 ムンカルから手を放し、口元を押さえて仰け反る北極熊。パンパンに膨れた腹の中で、過剰吸収させられたエネルギーが暴

れ回っている。

 胃の辺りが大きく膨れたその腹に、上体を起こした虎男の右拳がめり込んだ。

「おぼぉっ!」

 咆声と共に、アルシャイターンの口から大量にレモンイエローの粒子が吐き出された。

 捕食行動に対し、ムンカルは咄嗟の機転を利かせた脱出策を思いついたのである。

 つまり、無理矢理一時に大量に食わせる事を。

 その結果、消化吸収できる以上のスピードでエネルギーを注入されたアル・シャイターンは、一時貯蔵庫とでも言うべきス

ペースを埋められてしまった。そうして膨れあがったそこへ無理矢理一撃叩き込まれて吐き出させられたせいで、吸収は成立

しておらず、ムンカルの力を削っただけである。

 執行人数名を丸々吸収しても余裕がある、アル・シャイターンの一時保存庫のキャパシティを上回るだけのエネルギーなど、

今のムンカルでなければ発生させる事も叶わない。まさに力尽くの打開策だった。

 一撃を受けた腹を大量の嘔吐に伴って萎ませたアル・シャイターンは、体をくの字に折って前のめりになっている。その顔

面へ、

「おらぁっ!」

 ムンカルの右フックがまともに入り、横へ吹き飛ばした。

 錐揉みしながら飛んだアル・シャイターンを目で追いつつ、ムンカルは好機が訪れた事を悟る。

 お互いの消耗と余力が丁度良い。決着の、頃合だった。

 そして、虎男の右手がすっと水平に伸ばされた。

 掌に生じるのはレモンイエローの光。極限まで圧縮されたエネルギーとプログラムが、目映い大剣を形作る。

 カリバーン。ミカールの固有能力が具象化したその剣は、本来の所持者には持て余す程のサイズだったが、大柄なムンカル

の手にあれば、まるで彼のために用意されていたかのように、実にしっくり来る大きさとなっている。

「そろそろ終いにしようぜ」

 ムンカルは静かに終劇を告げる。

 条件は整った。

 救いようもない未来を見続ける者として瞳に刻印を帯びた虎男は、しかし最愛のパートナーが最期に遺したその希望を手に、

一世一代の大博打に出る。

 宙で体勢を整える寸前の北極熊めがけ、翼を広げたムンカルが動く。

 自身に纏わる単純な因果すら破壊するという、ドビエルとは違う方向性に進化した彼のブラストは、加速の過程に加え、今

度は距離を移動するという行為まで破壊し、結果だけを生み出す。

 認識する事すら許されない接近で懐に飛び込まれたアル・シャイターンは、

「るあおっ!?」

 気付いた時にはその胴を、カリバーンで串刺しにされていた。

「…終わりを、届けに来たぜ…」

 アルシャイターンの胴に腰溜めにした剣を突き立て、その身に肩口からぶつかる格好で体を預けたまま、ムンカルは呟く。

「るっ…、るるるっ…、るあぁ…」

 力無く声を発するアル・シャイターンの腕が、ムンカルを抱えるように回された。

 だがそれは、攻撃を意図した物ではなかった。ムンカルをそっと抱き締めた北極熊の目から、凶々とした光が消えて行き、

暗く濁る。

「るおぉ…。るおぉ…。あるるるる…」

 喉を鳴らすその唸りに、ムンカルは目を閉じて頷いた。

「そうだ。終わったんだ…。もう良いんだよ…。お前の役目は終わりだ…。悪かったなぁ、辛い事やらせて…。他人の都合で、

勘違いで、間違いで、色んなモンが積み重なった挙げ句、望みもしねぇのに世界全部の敵として生み出されて…。そんでこう

して消えてくなんてよぉ…。いくらプログラムだって、やっぱ嫌だよなぁ…」

「るるっ…、るるるるるっ…」

 カリバーンに貫かれたまま、アル・シャイターンは抱えたムンカルの頭に顔を寄せ、頬ずりした。

 まるで、壊すべき対象としてではなく、他の目的を持って他者と接したかったと伝えるように…。壊す以外の役目を持って

生まれてみたかったと訴えるように…。

「る…、るるぅ…」

「ああ、お休み…。哀しい災厄…」

 ムンカルが呟いた直後、両者の間でレモンイエローの光が弾け、凄まじいエネルギーの奔流がダミー空間を内から破壊した。