第七十五話 「カルマブレイカー」

 音もなく降り積もり、しかし足場の高さを変えはしない雪が延々と降り積もる中で、二本の細い剣が交錯し、擦り合わされ

て金属音を発する。

 細剣を滑らせてすれ違い、白い大地を踏み締めて素早く向き直ったのは、二つの白い巨体。

 空色の瞳を持つ、黒いつなぎを窮屈そうに着込んだ北極熊と、赤い瞳を持つ、深紅のロングコートを纏った北極熊。

 あの日の処刑場の形を取った心象空間内で、二人は延々と剣を交えていた。

「まだ判らないのか!?アズはこんな結末を望んじゃいない!」

 ジブリールの叫びに、しかしイブリースは答える事も無く、鬱陶しそうに目を細め、左手に光球を生み出して放った。

 ジブリールは巨体を揺すって突進し、放たれた光球を細身の剣で両断しつつ、左右で生じた爆風をもろに浴びながらも、片

割れに迫る。

「今すぐ止めるんだ!滅んだ世界に一人残って、アズが幸せだと思うのかい!?」

 どすっと重々しく踏み込まれた右足とは裏腹に、鋭い音を響かせて振り下ろされる細剣。しかしこれはイブリースの剣が水

平に寝せられて受け止める。

 剣を交差させた鍔迫り合いは、超重量級の二者の間で刃を噛ませる剣があまりにも細く、頼りなく見える。

「このまま放置していたところで、システムは再びアズの処刑を試みるだろう。そして彼女はそうなっても受け入れてしまう」

 イブリースは落ち着き払った声でそう応じると、ぐっと剣を押し返した。

 腰を入れて踏ん張るジブリールは、しかし一度は押し返されたが踏み止まり、鍔迫り合いは続行される。

「それなら!他の全てを壊す以外に道はない!」

 咆えたイブリースの剣をギリギリと支えながら、ジブリールは「この分からず屋…!」と呻く。

「ドビエルを信用できないのか!?彼は決してそんな真似をしない!」

「システムはドビエルが独裁しているのかい?違うだろう?彼や友人がどう主張しようと、趨勢は決している!」

 二人の主張は平行線だった。

 ジブリールの策で内から行動を制限されたイブリースは、彼を押さえ込む為に自分を内側に向け、外界との接触を断った。

 同時に体を暴走させてアル・シャイターンとし、アズライル以外の全てを破壊する道を選んだ。

 容易く押さえ込める相手ではない。自分自身は侵入しているジブリールと刺し違えて対消滅する事になるだろうが、それで

も構わないと覚悟した上での選択だった。

 だが、予想外の事が起きてしまった。

 短時間で刺し違え、諸共に消滅するつもりだったのだが、ジブリールが粘ったのである。

 その結果、今に至るまで互いに存在したままとなり、アル・シャイターンの中でせめぎ合っている。

 もしも自分が敗れればジブリールにコントロールを奪われ、アル・シャイターンが止められてしまう。詰め切ったようで、

実際には危うい均衡の中、イブリースの計画は保たれていた。

 しかし…。

 ぎしっと、空間が軋んだ。

 異変に気付いたジブリールの気が僅かに逸れたその瞬間、イブリースは剣を押して相手の体勢を崩させ、さらに半歩退きつ

つ脚を上げ、ジブリールの下腹部を蹴りつける。

「うっ!」

 呻いたジブリールが足を引きながらもよろめき、尻餅をつこうとしたその瞬間、

「おっと!」

 いつの間にか背後に歩み寄っていた何者かが、その背に手を当てて脇の下に腕を入れ、体を支えた。

 ハッとして肩越しに振り向いたジブリールの瞳に、レモンイエローのざんばら髪が映る。そこから少し視線を落とせば、

「よ。やっぱ踏ん張ってたんだな?旦那」

 口の端を吊り上げて笑う、姿が大きく変わった同僚の姿。

「ムン…カル…?」

「おう。しかし運が良いぜ、ミカールの予測じゃ「こうなってる」可能性はえらく低いはずだったんだが…」

 ジブリールは困惑する。イブリースの何らかの攻撃で認識にエラーが起きているのかとさえ疑った。

 体が暴走し、アル・シャイターンとなっている今、何故ここにアクセスできるのか?答えは一つだが、それが可能だとは思

えない。しかし…。

「ミカールの気配…?ムンカル、何があったんだい!?」

 ジブリールは察した。ムンカルの変貌と気配の変化はミカールの干渉があった結果だと推測し、間違いなく童顔の獅子に何

かあったと…。

「ミカールは…、未来を繋げる為に消滅しちまったよ…」

 ムンカルは自分の胸に手を当てて、少し寂しげに目を伏せた。

「…そんな…」

 ジブリールは絶句した。この世で最も親しかった友人が消滅し、しかも最期を看取ってやれなかった。

 打ちのめされるジブリールに、しかしムンカルは強がってニカッと笑って見せた。

「けどな、少しだけになっちまたけど、今はここに居るんだよ、ミックが。そう…、ここに、よ…」

 乱入者が居るという信じがたい事態を目の当たりにし、黙り込んでいたイブリースの目尻が、ミカール消滅の報を聞いてピ

クリと動く。

「暴走は止められる。あとは、ここの問題だけ片付けば終わりだ」

 ムンカルはそう言うと、右手を上げて大剣を形成し、ぶんっと振り下ろした。

「そうか。ボクは敗れたのか…」

 イブリースは剣を下ろす。ジブリールと一対一で互角のところへ、オーバースペックとなったムンカルが現れては為す術も

ない。

「だな。…と言いてぇトコだがよぉ旦那」

 ムンカルは顔を顰めながら剣を肩に担ぎ、ポンポンと叩く。

「勝ちだの負けだの、こいつはそういうモンで終わらせられる問題じゃねぇだろ?」

 ジブリールは傍らの同僚を見遣り、どういう事かと尋ねようとして口を開きかけたが、ムンカルが任せろとでも言いたげに

ウインクしたので黙っておく事にする。

「ここで消滅して、それで終わり…。そんなんで満足できんのかよ?」

 そう言いながら足を踏み出したムンカルは、胡乱げな顔付きのイブリースに向かって無防備に歩を進める。

 そして、一体何を言っているのかと眉根を寄せた北極熊の顔を見上げたムンカルは、

「届けモンだぜ」

 おもむろに左手を上げ、その横っ面に思い切り拳を叩き付けた。

「うっ!?」

 よろめいたイブリースが足を踏ん張り、顔を戻すと、ムンカルは顰め面で牙を剥いた。

「今のは北極熊の分だ。可哀相なモン作りやがってよぉ」

「ほっきょ…ぐっ!」

 口を開きかけたイブリースの鼻面に、今度は体重が乗った左ストレートが叩き込まれる。

 イブリースの巨体は今度こそ踏ん張り切れず、尻餅をついて仰向けにひっくり返る。

 見ていたジブリールが思わず「うっ!」と呻いて顔を顰め、鼻を押さえた。自分と同じ顔が殴られているのだから、少々痛

みが伝染して来そうに思えてしまう。

「今のはミカールと、巻き添え食った皆の分だ」

 イブリースを見下ろしてそう言い放ったムンカルは、呻きながら身を起こした北極熊の前で腰を折り、手を差し出した。

 差し伸べられた手とムンカルの顔を交互に見遣ったイブリースは、虎男がニカッと笑いかけ、手を上下に揺すると、不承不

承その手を握って立ち上がる。

「これにて配達完了!…と言いてぇとこだが、「ここから」なんだよなぁ…」

 そう呟いたムンカルは、手にした大剣を地面に突き刺して立てる。そしてイブリースを見遣ると、「なぁ、旦那…」と語り

かけた。

「あんたの気持ちそのまんまじゃねぇだろうけどよ、俺もな、今は判る気がするんだ…。いわれのねぇ罪でミカールが処刑な

んてされちまったら、俺だってとち狂って何しでかすか判ったもんじゃねぇ…。だからよ、本部と決別したあんたの行動その

物を責める気はねぇ。その後のことはまぁ、正直納得できねぇ事もあるけどよ…」

「…何を言いたいんだい?デイヴィッド」

 地面に突き立てられたカリバーンとムンカルを順番に見たイブリースがそう尋ねるが、虎男はこれを無視してジブリールに

顔を向け、手招きする。

 イブリースの挙動を警戒しつつもジブリールが歩み寄ると、ムンカルは大剣の柄をポンと軽く叩き、口を開いた。

「選択の時だ。なぁイブリースの旦那?あんたは、アズライルの事が好きだろう?」

 無言の北極熊に、ムンカルは続ける。

「一緒に居てぇだろ?話もしてぇだろ?抱き締めてぇだろ?」

「…可能ならばそうだね。だがそれは不可…」

「できるだろうが、覚悟さえあれば」

 言葉を遮ったムンカルの顔を、イブリースが、そしてジブリールが見つめる。

「世界を壊すよりよっぽど簡単な手段で、アズライルと一緒に居られるんだぜ?あんたはそいつを今までずっとやれてたんだ。

覚悟さえありゃ、できる」

「何を言っているんだいデイヴィッド?そんな方法は…」

「逃げりゃ良いんだ」

 再度言葉を遮られたイブリースは、目を大きくしてきょとんとした。

 大いなる敵対者にそんな顔をさせた事が愉快だったのか、ムンカルは悪戯が上手く行った悪童のような顔で笑う。

「アズライルを連れて逃げりゃ良いんだよ。あんたはずっとそうやって、システム側から身を隠して来たろう?幸い、今回は

でっけぇ逃げ道がある」

 イブリースはしばし黙り込み、ムンカルの顔をまじまじと見つめた。そして、言葉に困ったように口を開けては閉じて、閉

じては開けてと繰り返した後、思わずといった様子で尋ねた。

「君は、ボクが憎くないのかい?ミカールはボクの選択によって踏みにじられた。なのにボクを許せるとでも?」

「許すさ。…何たって俺の中のミカールが、そう言ってんだからよ…」

 ムンカルは微苦笑し、胸に手を当てる。

 ミカールはイブリースを憎んでなどいなかった。ジブリールから分離させた彼に過酷な在り方を強いてしまった遠因が自分

にもあると、悔やんでさえいたのだ。

 だからムンカルは彼を憎まない。憎めない。大切な者を喪う辛さは彼自身も味わった。故に、自分達でそれを終わりにしよ

うと決めた。

「憎み憎まれ終わりがねぇなんてまっぴらゴメンだ。哀しい因果は、ここらで断ち切っとこうぜ?お互いによ…」

 静かに囁いたムンカルを見つめ、ジブリールは感動すらしていた。

 哀しいから、辛いから、それを誰かに味わわせず、我慢しようとする…。思えばその選択は、人間だったころのムンカル…

デイヴィッド・ムンカルという男が、生前最後に下した復讐の放棄という決断にも似ている。

「さあ、選択の時だ」

 ムンカルはイブリースに告げる。途端にカリバーンと、その柄に添えていた手にレモンイエローの燐光が灯った。

 ゆっくりと離されたその手に吸い寄せられるように、大剣にまとわりつく燐光が移動し、密度を高めて目映く光る。

 虎男が手を上に向けると、その掌中で瞬間的に強く発光したレモンイエローが収束し、一枚のはがきを生み出した。

「ミカールからの届け物だ…。こいつで再融合できる」

 イブリースはムンカルの手にあるはがきを見つめ、黙り込む。

 三者が交わしているのは圧縮された時の中のやり取りだが、現実空間においてはムンカルがアルシャイターンにカリバーン

を突き刺した状態で、刺し違えるだけのエネルギー放射に備えている。

 もしもこの届け物が受理されなければ、このまま諸共に消滅するしかない。

 対消滅という神の見えざる手が用意したシナリオに抗う、ミカールが遺したささやかな一手がこれだった。

 消滅するまで殴り合う事なく、ジブリールとイブリースを元のひとりに戻し、戦闘を強制的に中断する…。それが、両者共

に消滅を免れる手段。

 しかしこれはジブリールとイブリースの魂が消え去っていない事が前提であり、手遅れだった場合は打つ手が無い、いわば

博打だった。

 ジブリールは口を挟まず成り行きを見守っている。ムンカルと二人がかりで強制的に融合させるという手もあるが、コネク

トした瞬間にまた何か仕込まれれば、現実空間の肉体がアル・シャイターンとして活動を続行する可能性もある。一度こうし

てはめられたのだから繰り返せない。半身の同意が必要だった。

 やがてジブリールは小さくため息をつき、小声でムンカルに囁いた。

「済まないね、ムンカル…」

 自分一人で半身を抑えられなかったが故に事態はここまで悪化した。これは自身の力不足が招いた災厄なのだと、ジブリー

ルは自分を責めていた。

 だが、ムンカルはニヤリと笑って返す。

「謝るなよ旦那。旦那がこうして踏ん張ってくれてなけりゃ、このささやかなチャンスすら無かったんだぜ?」

 虎男には判っている。可能性が限りなくゼロに近かった、両者の魂が未だに存在しているというこの状況が実現しているの

は、ジブリールが屈しなかったからだという事が。

 イブリース内…つまりアウェーでのせめぎ合いにおいて、抵抗は困難を極める。それでも敗れなかったのは、彼の精神的強

靱さがあればこそだった。

 そしてムンカルはイブリースへ視線を戻し、問いかける。

「どうする?このまま全員纏めて吹っ飛ぶか、それとも…」

 ムンカルは一度言葉を切り、少し間を空けてから改めてイブリースに問う。

「アズライルと共に生きるか…」

 無言のまま、イブリースは目を閉じた。

「居てぇんだろ?一緒に…。本当は、世界をぶっ壊して嫌われるなんて真似はしたくなかったんだろう?でなけりゃ、ここま

での永ぇ年月でもっと派手に動いてたはずだ」

 そに言葉を受け、イブリースは口の端を僅かに上げる。

 ムンカルの指摘は当たっていた。目的のためには手段を選ばないが、それでも避けられる衝突を避けて来たのは、システム

側を警戒しての事ではない。

 単純に、蘇ったアズライルが目の当たりにした際、彼女が悲しむような状況を作りたくなかったからである。

「…それでも、アズはもうボクを許さないだろう…」

「そんな事は謝ってから口にしやがれ!」

 イブリースの言葉を遮ったムンカルは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「会って、謝る。簡単な事だろうが。それに…」

 ムンカルはジブリールを見遣り、ウインクした。

「許して貰えるさ。怒られるような真似したのは、半分だけだからな」

 一瞬きょとんとしたジブリールは、

「ああ、そうか…。怒られる事はしていないのに、オレも半分怒られるんだね…」

 苦笑いしながらそう言って、「これは分が悪い融合だなぁ」と頭を掻く。

 その言葉を受け、イブリースは理解した。ジブリールは既に融合する以外の事は考えていないのだと。

「…見誤ったかな…」

 イブリースがぽつりと呟く。

「あの時君をミカールに預けた事が原因で、ここでこんな敗北をする羽目になるなんて、思ってもみなかった」

 ムンカルがニヤリと口の端を歪める。

「仕方ねぇさ。当の本人が思ってもなかった事だ」

 そして虎男はふっと、少し寂しげな笑みを浮かべ、イブリースとジブリールを順番に見遣る。

「捕まえたら、もう二度と離すんじゃねぇぞ?旦那…」

 イブリースは目を閉じて頷き、ジブリールは目を細めて申し訳なさそうに耳を倒す。

 そして両者は歩み寄り、ムンカルが腕を突き出して宙に浮かべたはがきに手を伸ばす。

「おかえり…、オレ…」

「ただいま…、ボク…」

 見つめ合った両者が言葉を交わし、手を伸ばし、同時にはがきへ触れた。

 直後、目映いレモンイエローの光が周囲を照らし、三人を飲み込み、溶けないはずの心象風景の雪を溶かし去り、緑の芝生

が所々から顔を覗かせた。

 目も眩むようなレモンイエローの光の中で、ムンカルは口元を弛ませ、満足げに笑った。

「配達完了だぜ、ミカール…」



 ダミー空間が破砕される程のエネルギー奔流が収まると、かろうじて障壁を保たせたアズライルは、レモンイエローの粒子

が漂う中心に居る、二名の姿を瞳に映した。

 剣を消したレモンイエローの虎男と、薄紫の瞳を持つ北極熊。

 その姿を見据え、アズライルは呟く。

「…まさか…、こんな事が…!」

「…何が…起こった…?」

 アスモデウスが眉根を寄せる。両者が諸共に爆砕するに十分なエネルギーの集中を確認した直後、それは一気に収束し、弾

ける事無くムンカルの内に戻っていた。

 カリバーンの効果が発動した事で、最終手段である自爆は回避されたのである。

「ムンカルさん…、無事なんですね…?いえ、それに…」

(ああ、あれは…)

 バザールと、彼女の中のスィフィルは北極熊に視線を据えていた。先程までの強烈なプレッシャーが消え、近寄るだけで危

険な分解吸収作用も無くなっている。

「暴走は…止まったの…?」

 アシュターが呻く。信じられないといった様子で目を大きくしながら。

 ネビロスは不思議そうに目を細め、宙に佇み向き合っている両者を眺めている。

「どんな具合だ?旦那…」

 口を開いたムンカルに、北極熊は手を顔の前に翳して握り、開き、感触を確かめながら頷く。

「久しぶり過ぎて違和感があるけれど、大丈夫だよ」

 応じた北極熊は薄紫の目を細め、微笑んだ。

「有り難う。そして、済まなかったね、ムンカル…」

 どうやら融合は上手く行ったらしいと察し、口の端を上げた虎男は「で…」と、眉根を寄せた。

「あー…、どっちが強く出てんだ?見た感じジブリールの旦那っぽいんだがよ…」

「そうだね。個性で言うと君が知る「配達人ジブリール」に近いと思うよ?あの状態でも人格はおおよそ分割前と変わってい

なかったからね。イブリースとして使用していた、かつての技術開発室長の物を模した人格プログラムは不要になったから、

今は「本来のジブリール」としての性質に、離れていた間に蓄積した記憶や抱いた感情を全てトッピングしてある。だから今

は、喜怒哀楽の全てを持っている。たぶんこれからは、入浴を覗かれたら恥ずかしがるんだろうね…」

「なるほどな。ジブリールの旦那に茶目っ気と理屈っぽさが増した感じだ」

 頷いたムンカルは、空の割れ目を見遣る。夜空にぽっかりと浮かぶ、陽光に照らされた大海原を。

「…「あっち」に行っちまえば、誰にも追われねぇだろうな…」

「…そうだね…」

 両者はしばし別世界を見つめた後、視線を互いの顔に戻した。

「済まないけれど、お願いがあるんだ…、ムンカル…」

「判ってるよ」

 虎男は頷き、目を細めた。

「皆に謝っといてくれって、言うんだろ?」

 ジブリールは微苦笑して、「最後の最後まで、本当に御免…」と呟く。

 そしてパールホワイトの巨躯はノイズを纏ってムンカルの前から消え、空の割れ目の向こう側に出現した。

 それを見上げていたアズライルもノイズを纏い、気付いて視線を向けた皆の前から姿を消す。

 ジブリールの横にアズライルが現れる。永い永い時を経て、ようやく再会した両者は、並んだ状態で首を曲げ、互いの顔を

見遣った。

「迷惑をかけたね、アズライル…。許してくれるかい?」

「たっぷり小言を聞いて貰った後に…、ね」

 微笑んでそう返した雪豹に、北極熊は微苦笑を浮かべて続けた。

「一緒に、来てくれるかい?」

「ここに居る事が、答えにはならないかしら?」

「…有り難う…」

 軽く目を閉じて応じたジブリールは、両腕を左右に広げ、見えない何かを掴むよう指を曲げ、全身に力を込めた。

「ふんっ…!」

 みしっと音が鳴り、空の割れ目が閉じ始める。それに力添えすべく、アズライルは大量の「眼」を出現させ、割れ目の際に

白い光を照射し始めた。

 前例が無い程大規模な境界の補修が、たった二人のワールドセーバーによって行われる。

 ムンカルは細めた目を笑みの形にし、境界の向こうで並んだ二人の姿を目に焼き付けた。

「バイクは置いて行くよ。大事に使って来たんだ、まだまだ乗れるはずだからね」

「私のファイアブレードも残して行くわ。有意義に使って頂戴、ムンカル」

「ああ…。…あばよ…。旦那…、アズライル…」

 バザールとスィフィルが、アスモデウスが、アシュターが、ネビロスが見上げる先、虎男の向こうで境界は細くなり、

『さようなら…』

 詫びるように頭を下げたジブリールとアズライルの姿が、閉じた空の向こうへ消えた。

 しばしそのまま佇み、破損の痕跡すら無く元通りになった夜空を見つめていたムンカルは、「さてと…」と呟くと、ノイズ

を纏って姿を消す。そして、

「わわっ!?」

 バザールの前に突然出現し、「そんなビビんなくても良いだろ?」と顔を顰めた。

「だだだだって、物凄く自然に出てくるから…!」

「俺だってビックリしてんだって。ま、その内慣れるだろ」

 肩を竦めたムンカルは、堕人達に向き直った。

「協力してくれたって事は…、ある程度理解できたって考えて良いのか?「人間」について、よ」

 仏頂面のアスモデウスは応えなかったが、「まぁとにかく、ミカールからの伝言だ」と、先を続ける。

「人間のイコンは在った。簡単な事だったんだ。簡単過ぎて、ありふれてて、だから気付かなかったんだろうな…」

 ムンカルは右腕を伸ばし、左手でポンポンと叩いて見せた。

「腕がある」

 次いで左手を下ろし、太腿を叩く。

「足もある」

 さらに虎男は右腕を引っ込め、胸をドンと拳で叩いた。

「こうして真っ直ぐ立って歩いてる。人間のイコンは、俺達全員の「かたち」だ」

 アスモデウスは黙って頷いた。

 ミカールが気付き、彼が消滅した際のノイズをハダニエルが拾い、そして理解し、全員に伝えた事がこれだった。

 ワールドセーバーの姿…、進化の可能性とされる「イコン」。人間の顔をしたワールドセーバーは確かに存在しないが、し

かし全員が、人間と同じ四肢を備えて直立した姿をしている。

 人間とはつまり、ワールドセーバーに最も近い体付きをしている生物…。すべてのワールドセーバーがイコンを持つ存在…。

進化の可能性から外れた存在ではなかったのだ。さらに言うなら…。

「アズライルの破片は、他の動植物ではなく人間にのみ宿った。そして貴様も…」

 アスモデウスの言葉にムンカルが頷く。「ああ、もと人間だ」と。

「だからよ、人間はきっと、お前らが目の敵にする「あってはならないもの」なんかじゃねぇ。立派な世界の一部なんだよ」

 黙っていたアシュターが視線を伏せる。先程自分を救おうとした、太った人間の男の事を思い出しながら。

 危機を前に無償で手を差し伸べる者が居る…。生物としては誤った判断だったが、その行為は貶すべき物ではない。

 アスモデウスはしばし黙した後、「だが!」と、強く声を発し、ノイズを纏った。

 瞬時にアスモデウスとアシュター、ネビロスの姿が消え、バザールが身構えたが、ムンカルは跳躍先を読んで空を見上げ、

ノイズが走る寸前の虚空を見つめる。

 そして、そこに出現した黒獅子と見つめ合い、その言葉を聞いた。

「人間が不完全、かつ世界を傷付ける可能性を持つ存在だという事に変わりは無い!」

 アスモデウスは一度言葉を切り、彼らが新たに歩む道について告げる。

「地上に害を為す人間を狩り続ける!この黒雷大帝がな!」

 ムンカルは苦笑いして肩を竦めた。

 それは、アスモデウスからすれば最大限の譲歩と理解だったのだろう。

 人間について認識を改める時が来た事は疑いようもない。だが、いまさらシステム側と迎合するつもりなどない。

 だからこそアスモデウスは、システムとは全く別の基準で動く勢力としての立場を保ったまま、新たな方針を打ち出した。

 地上の害となる人間だけを狩る…。それが、ワールドセーバーアスモデウスの選択。

 ムンカルとアスモデウスはしばし無言で見つめあっていたが、しばらくして黒獅子が口を開いた。

「さらば!」

 声と同時に三人をノイズが包み、その姿を消し去った。

 誰も居なくなった虚空を映すムンカルの目から、薄く光っていた六芒星がすぅっと消える。

 リーズンは達成され、ムンカルはその役目を無事に終えた。見据えるべき凄絶なる未来を越えた彼の目には、もう刻印は浮

かばない。

 そして虎男は、

「…うぉ…、やべぇそろそろ体に来た…!」

 顔を顰めて呻くと、額を押さえて

 目を閉じたムンカルは除幕を終える。

 レモンイエローのざんばら髪が粒子になって崩れ、さらさらと流れ落ち、大気に溶け込むようにして消えて行くと、次いで

全身が灰色とレモン色に明滅し、鉄色に戻る。

 だが、システム譲渡に伴いアズライルによって記された、六つの6が連なる刻印だけは、レモンイエローのまま胸に残った。

 「ふぅ…」と一息ついたムンカルは、左肩に右手を当てて首を左右に傾け、ゴキゴキと音を立ててほぐす。

「体中ビッキビキだぜ、よくもまぁぶっ壊れねぇで保ったもんだ…」

 顔を顰めて呟いたムンカルは、改めてバザールを見遣り、苦笑いした。ナキールの魂が彼女の中で無事に存在維持されてい

る事は、バザールから発せられる魂の拍動から悟っている。自分達が辿り着いた物とはまた違う、一心同体の状態にあるのだ

と…。

「ナキール。済まねぇが肉体の生成はちっと待ってくれや。流石に今は余力がねぇ」

(それは構わぬ)

 バザールは内にあるスィフィルの言葉を聞き、代理で伝えようとしたが、

(だが、バザールの中は存外居心地が良いという事も判った事だし、個人的にはしばらくこのままでも良いのだが)

 そんな言葉が続くと、ザバーニーヤ化に伴って灰色になっていた顔を真っ赤に染めて「なななな何言ってるんですか!」と

大きな声を発した。

「何だ?ナキール怒ってんのか?」

 首を傾げたムンカルに、バザールは「い、いえそんなんじゃないです!」と慌てて応じた。

「あ、後回しで…、構わないみたいです…」

 そうぼそぼそと口にしたバザールに「そうか」と頷いたムンカルは、空を見上げて耳をぴくつかせた。

 緊急発進したらしい戦闘機が夜空を横切る。さらに、遠くからはヘリが数機接近していた。アル・シャイターンの拍動が消

え、動けるようになった人間達が、先程まで異変があった空を調べ始めたのである。

「…境界破損は、付近の人間達が動けなかったせいで流石に写真にはなっちゃいねぇだろうが…、防犯カメラなんかに映っちゃ

いねぇだろうな?」

「人工衛星とかどうでしょう?」

 バザールが心配そうに呟く。

 あれは人間社会に不要な、というよりも与えるべきではない情報だった。下手に知恵を付けているが故に、他の生物と違っ

て「手が届く」ような気がしてしまう。自分達が触れるべき段階に来ていない物にまで…。

 あの現象によって軸が違う世界の存在を確信されてしまえば、その技術も無しに境界突破を試みる実験が行われる可能性も

ある。何せ物資も土地も豊富にある手つかずのフロンティアなのだから。

 しかし、それは今の技術では決して成功しない上に、そちらに力を傾けては、より良い方向への進歩が妨げられてしまう。

バザールにはそれが心配だった。

「下側から破れたから、衛星軌道からじゃ直接は見えねぇだろうな。…けどよぉ、たぶん海面に光は映っちまってるよな…。

「あっち側」は昼間だったからなぁ…」

「…となると…、大規模消却処置ですかね?」

「たぶんな。記憶やら記録やら、大がかりに消してかねぇと後々面倒になりそうだ」

 激務の日々がやって来るぞ?と顔を顰めたムンカルは、「それでもまぁ」と、気を取り直したように続けた。

「明日が来る。働ける。今はそれで十分だ」

 晴れ晴れとした顔で飛んできたヘリを眺めながら、ムンカルは胸に手を当てて呟く。

「…そうだよな…、ミカール…」

 浮かべた笑みに寂しげな色を混ぜたムンカルの横顔を見つめ、バザールはぐっと口元を引き結んだ。

(かける言葉が見当たらないなら、無言もまた、ムンカルの為になる)

 内から響いたスィフィルの声に頷き、バザールは沈黙を選ぶ。

 表向きは落ち着いているが、ムンカルがどれだけの喪失感を、悲哀を、胸に収めて堪えているのかは想像に難くない。

 だが、そんな彼女の思いを他所に、鉄色の虎は空元気で大きな声を出した。

「さぁて、本部に連絡だ!バザール、お前のバイクに通信用機材はあるんだろ?そいつ貸してくれ」

 言うが早いか、ムンカルは右手の人差し指と中指を輪にしてくわえ、ピーッと高く吹き鳴らした。

 それに応じ、一度アル・シャイターンに撃墜された際にコントロールを失い海中に没していたファットボーイが、海面から

イルカのように跳ねて姿を現し、ムンカルの傍へ自立走行して来る。

 これもまた、ジブリールの置き土産と言えた。

「あー、こちらムンカル。配達人だ。悪ぃがドビエル中央管理室長か、クッキー…じゃねぇ、ハダニエル支配人に繋いでくれ

ねぇか?」

激戦の跡地に、ムンカルが無線機に向かって告げる声が、何処かのんびりとした緩さを持って流れ始めた。