最 終 話 「配達人」
決戦の結末は、本部内のワールドセーバー達にも把握されていた。
バザールの愛車、ムルティストラーダが拾った周辺映像を受信し、一部始終を見守っていたハダニエルは、瞑目しつつ親し
い友達に別れを告げた。
が、直後に異変を察し、目を見開く。
「な、なんだって!?何だこいつは!?」
中枢部で歌を送り続けていたイスラフィルが、力を使い果たしてよろめくと、童顔のジャッカルが素早く寄って支えに入った。
「ああ、済まないねキャトル…。けど大丈夫だよ」
キャトルに礼を言い、改めて自分の両脚で立った黒い雌牛は、「ん?」と、唐突に眉根を寄せる。
「…こいつは一体…、どういう事だろうねぇ…?」
ムンカルへ力を送るための総員リンク。その切れ方がおかしかった。
「お師匠!」
通路を見てきたイボイノシシが部屋に飛び込むと、テリエルは「どうじゃ!?」とさっさと話すように急かした。
「やっぱ消えでんぞ!綺麗さっぱど!」
「むぅ…!」と唸ったテリエルは、
「あやつめ…!こんな仕込みまでしとったか…!」
ドビエルはカフェテラスの中央に立ったまま、拘束を解かれて自由になった面々を見回していた。
そこに、堕人の姿は一つも混じっていない。
(してやられましたね…)
灰色熊はため息をつく。アスモデウスが仕込んでいった最後の策にまんまと引っかかってしまった事を悟って。
今現在、本部内にはシステム側のワールドセーバーしか居ない。
どのように判別して作動するよう仕込んだのか、詳しく解析してみない事には定かではないが、アスモデウスは自らの派閥
に属する者も属さない者も関係なく、堕人のみを選別して強制的に長距離空間跳躍させるよう、何らかの処置を施していたら
しい。
(おそらくはシステムを本部システムを乗っ取った際に仕込んだのでしょうが…、これだけの力を割いた上であの戦いぶりで
すからね…。正直、彼が本気で世界を壊しにかかったらと考えると、ぞっとしますよ)
地上その物を過度に傷付けないように活動しているからあの程度だが、もしも彼が被害を顧みず人間を根絶やしにしようと
考えてしまったなら、世界がどれだけ傷つくか判った物ではない。
(そうならないよう、わたくし達は真摯に世界と向き合い、守って行かなければならないのでしょうね。…ミカールが繋いだ
未来を、「生きて」行く為にも…)
やがて、ハダニエルが発した警戒態勢解除の報せが本部内に響き渡り、総員が被害確認と復旧作業に当たり始める。
ムンカルからの報告は、そんな中で中央管理室に届いていた。
そして、一年近く時が流れ…。
「ご覧、アズ…」
修道衣を思わせる白い薄衣で巨体を包んだ北極熊が、草原の一角から木立の端を指さした。
示された方へ目を向けた、同じく白い薄衣を纏う雪豹は、「あら…」と声を漏らして口元を綻ばせる。
二人が視線を注ぐ先では、一歳程の小さな男の赤子が、両手を前に出してよたよたと頼りない足取りで歩いている。兄なの
だろう、五歳ほどの男の子の後を追いかけて。
五歳ほどの男の子は木の棒の先に打ち割って尖らせた石を繰り付けた槍を手にし、それが届きそうな位置にある木の実を探
してきょろきょろしている。
被認迷彩を纏って気付かれないようにしながら、その微笑ましい光景を眺めている二人だが、しかし見ている対象は人間で
はなかった。
ようやく立って歩けるようになった幼子と男の子は、狼の頭部と尾を持ち、茶色い被毛を纏う、人間と狼が融合したような
姿をしている。
そう、ワールドセーバーのように…。
「この間までハイハイしていたのに、もう…」
「うん、彼らの成長は早い物だね。このままだとあっという間に大きくなっちゃうだろう」
アズライルとジブリールはそう言葉を交わしながら微笑み続ける。
二人が「移住」したこの世界には、人間が居なかった。元の世界に近い生態系が築かれており、動植物もかなり似通ってい
る物の、人間だけが居ないのである。
その代わりなのか、ワールドセーバーに酷似した多種多様な姿を持つ半獣半人の生物が、人間に相当するポジションで進歩
している最中だった。ジブリールとアズライルが元居た世界で言えば、石器時代の段階にある。
二人は人間に似たこの生き物達を、「獣人」と呼称する事にした。
感知できる範囲には他に生物が息づく星は無いようだったが、この惑星に限って言えば、地球とよく似た星と言えた。ただ
し、月が二つあったが。
そしてこちら側には、彼らのホームで言う所のワールドセーバーに相当する者が存在していなかった。しかも世界のフォー
マットが異なるらしく、両者の眼でも因果があまり読めない。
穏やかな眼差しで獣人の兄弟を見つめる二人は、この世界を二人でずっと見守って行く事にした。間違っても破滅の未来な
どへ向かわないようにと。
「さて、そろそろタワーの建造に戻らなくちゃ」
名残惜しい気持ちはあったが、ジブリールはそう言って背後を振り返る。
広い平原の真ん中には、白い塔が建っていた。無数に枝分かれした上部を持つその塔は、見ようによっては葉が落ちた巨木
のようにも見える。
本部に似せて建造中の、二人の住まいにしてワールドセーバーの本部である。とは言っても、今のところは因果に乱れなど
生じていない。生じるとすれば、獣人達の文化水準が上がり、様々な欲が生まれてからだろう。
アズライルは少しの間何か考え込んでいたが、不意にジブリールを見遣り、薄衣を押し上げている太鼓腹に視線を注いだ。
「…ねぇジブリール。私達も子供を作れる存在だったら良かったのにと、思わない?」
「…それ、どうしてオレのお腹を見ながら言うのかな?」
苦笑いしたジブリールの突き出た腹に、アズライルは眉根を寄せながら手を伸ばし、表面をさわさわと撫でさすった。
「大きいばかりで役に立たないお腹だもの。役目の一つくらい有っても良いとは思わないかしら?」
「かといって出産は無理だよ。それに、役目ならあるじゃないか」
ジブリールは心外だと言わんばかりに肩を竦め、伴侶の顔を見下ろす。
「君のクッションという大事な役目が」
「…なるほど、そうね…」
納得したように頷いたアズライルを促して、ジブリールは建造途中の塔へ向かった。
「ねぇアズ」
「なぁに?」
「子供じゃないけれど、いつかは仲間が生まれるかもしれないよ?だって…」
「ええ、そうでしょうね…」
ジブリールの言葉を遮ったアズライルは、夫の太い腕に手を回し、縋り付くような格好で身をもたれながら歩く。
少し照れたように視線を上に上げたジブリールの耳に、妻の言葉が忍び込む。
「獣人達は、きっと人間達と同じような存在…。いつかは彼らの中から、ワールドセーバーに相当する者が生まれるかも知れ
ないもの。…ムンカルのように…」
「…うん。オレもそう思う」
そうして白い二人は、白い塔に入って行く。
これからずっと末永く、この世界を見守り、寄り添いあって行くのだろう。
足下に転がって来たゴム鞠を一度見遣ってから、ベンチに座った黒獅子は顔を上げる。
友達と一緒にそれで遊んでいた小さな男の子が、ボールを追って駆けて来るのに気付くと、アスモデウスは隣に座る伴侶を
見遣った。
「拾ってあげたら如何です?」
「ふむ…」
アシュターの言葉に頷くと、アスモデウスはボールを鷲掴みにし、駆けて来た男の子に差し出した。
「ありがとおじちゃん!」
ボールを受け取った男の子が笑顔で礼を言うと、黒獅子は黙って頷いた。
被認迷彩のレベルを調節しているので、男の子はそこにアスモデウス達が居る事は判っても、真の姿を把握できている訳で
はなく、「なんとなくおじさんっぽいだれか」としか認識できていない。
二人が居るのは団地内の公園である。
アスモデウスとアシュターは、因果を覗き見て地上に害を及ぼす危険性が高い人間を監視、あるいは始末しつつ、人間とい
う存在についての理解を深めるために、間近で見て学習を繰り返している。
以前の彼らは人間の魂をエネルギー源としていたため、肉の体を纏わず、魂のみで活動してきた。が、人間の魂を無作為に
捕食する事を止めたため、維持効率の悪い魂体で過ごすのは難しくなり、肉体を生成して配達人達のような物質体で活動して
いる。
この行動は二人に限った物ではない。今ではアスモデウス派の堕人全員が彼らと同じようなスタンスを取る事を選び、人間
社会に潜り込んで監視をおこなっていた。
これまで以上に人間の身近に足を置く事になったので、時折配達人などと出くわす事もあるが、黒雷大帝と猛毒女帝に手出
しができる者などそうそう居ない。大概は逃げるが、そうでなければ適当に追い払うか空間跳躍でまいてしまう。
アスモデウス派からはシステム側への攻撃的な活動は一切無くなった事もあり、名目上は捕縛及び討伐対象となっているも
のの、本腰を入れての討伐は試みられていないというのが現状である。
正面からの敵対ではなく、主義主張が異なりながらも望む物は同じである微妙な対抗勢力…。それが、今のシステムとアス
モデウス達の関係である。
「来たか…」
男の子達がボール遊びに興じている様子を見守っていたアスモデウスは、やにわに立ち上がると、公園入口に姿を見せた若
い男に視線を向ける。
強ばった顔をした若い男は、ジャケットのポケットに手を入れ、子供達を目指して足早に進んで行く。
黒獅子は即座に弓と矢を出現させ、引き絞るなり放つ。
認識できないまま黒い矢で胸を貫かれた男は、「あ…」と声を発して立ち止まると、くるりと向きを変えて引き返し、公園
から出て行った。
男の子達は知らない。遊び場に乱入した若い男に刃物で滅多刺しにされるという予定がねじ曲げられた事も、自暴自棄になっ
て自殺の道連れとして自分達を殺すはずだった若い男が、これから自宅に戻って首を吊り、一人で死ぬ事も。
「またシステムから誰かが派遣されて来ますね」
「そうだな。移動する」
因果をねじ曲げる事になったが、そんな事はお構いなしに、アスモデウスは呟く。
「乱れた因果の修正は、我らではなくヤツらの仕事だからな。任せよう」
「まるで仕事を作ってあげたのだと言わんばかりの口ぶりですね?」
「そのつもりで言っている」
「はい!たんたんめん特盛りお待ちぃ!」
威勢のいい声と共に、大型のラーメンドンブリがゴンっとカウンターに置かれる。
「いただきます」
抑揚のない声で呟き、割り箸をパチンと割り、
「あ…。またしっぱいした…」
盛大に失敗して短い棒とヘラのような棒を拵えてしまい、両手にそれぞれを持って交互に見ているのは、褌一丁のみ身に纏
う、青白い巨体のシャチ。
アスモデウスとアシュターから、しばらく気ままにふらついて人間の生活などを見て過ごすようにと言われたネビロスは、
現在単独行動中。
しかし、心が壊れてしまっている事もあって「気ままに」というものが良くわからない彼は、ある物を頼りにさほど狭くな
い範囲を既に数ヶ月間うろうろしている。
配達人などはなるべく避け、極力争わずに逃げる事、自分からわざわざ攻撃を仕掛けない事、悪人だと思う人間の魂以外は
食わない事…、等々、平和的に過ごすための細かな条件付けを延々と聞かされた彼は、それなりに平和に過ごしていた。
ただし、人間の観察にはあまり熱心ではなく、もっぱら食べ歩きに感心が向いている。
アスモデウス達と別れたすぐ後、紙紐で縛られてゴミ捨て場に出されていた本の束を目にし、そこからお勧めイタリア料理
店や、ラーメン食べ歩きマップなどを見つけたのが事の発端である。
「気まま」が判らないネビロスは、とりあえずそれらの書物に従い、人気店のはしごを始めた。これが県内マップだったた
め、行動範囲が狭いし広がらない。
だが、これが偶然にもネビロスにとっては良い方向に働いていた。
魂と違って多種多様な味がある「料理」という物と「食事」という行為を、ネビロスは気に入った。
これは黒獅子も白牝牛も予想していなかった事だが、ネビロスには意外にも「食」を通して欲や執着、好みといった、感情
らしい物が芽生え始めたのである。
分割に失敗した割り箸を合わせ、修復し、再び割って今度は上手く行くと、ネビロスは早速ズルズルハフハフとタンタンメ
ンを食べ始める。
次は何処に向かい、何を食べようか?
ネビロスはある意味、幸せな毎日を送っている。
「何かなぁ、もう一年になるってのにさ、ベリアルの奴、相変わらず判ってないってか…」
オニオンリングを咥えながら、メオールはモゴモゴと呟く。
「けんど、積極的にすっかげで来てんだべ?好いでる証拠だべさ」
果物ナイフを握ったスパールが、グレープフルーツを切り分けながら応じる。
「判り難いそいつも、それも愛じゃろ愛」
グレープフルーツをスプーンで掬いながらテリエルがウンウン頷いた。
ここはメオールの作業場。テリエルとスパールはたまたま近くまで来たので揃って顔を出し、テーブルには猪が三頭ついて
いる。
「たまにはさ、まともにまじめに「好きです」って言ってくれても良いと思わない師匠?あの馬鹿ちん!そういうの一言もナッ
シング!ムードも思いっきり軽視!」
「照れとるんじゃなかろうか?」
「愛だべ愛。ほれ食え」
「サンキュー。でもさぁ…、判んないかねぇ?たまーにで良いから「愛してるぜ」くらい言ってくれたって…」
「「体を」愛してるぜ。ってな具合だべが?」
「笑えんしっ!」
「愛は一筋縄では行かんからなぁ…」
猪談義は続く。
「休暇だ休暇ぁ〜っ!日本!旅館!温泉!浴衣!花火!刺身!天ぷら!温泉卵!ああ、あと饅頭!本場の饅頭味わってレパー
トリーに入れちゃおうかなぁっ!もうクッキーだけなんて言わせない!クッキーモンスターの汚名返上だ!」
ドッスンドッスンと地響きを立ててスキップしながら、巨漢の犀が上機嫌で中央管理室の前を通る。
なお、クッキーばかり作るからクッキーモンスターと呼ばれているのではなく、クッキーばかり食べているからそう呼ばれ
ているのだが、どうやら本人は勘違いしていたらしい。
ハダニエルは本部のダメージを肩代わりする重要な職務を担っているため、なかなかまとまった休暇が取れない。今回の旅
行を実現させるために、半年近くもスケジュールを調整して来た。ずっと楽しみにして来た旅行であった。
そんなハダニエルが前を通り過ぎた中央管理室の中では…。
「…っくし!」
黒虎が噂反応的なくしゃみをしたその時、
「はい?私が…、支配人を…ですか?」
雪豹がきょとんとしながら、自分の顔を指差していた。
「ええ、何があるか判りませんからね。護衛してあげて下さい。なお、滞在は一週間の予定だそうです」
灰色熊が頷き、そのように告げる。
オーバースペックであるハダニエルは、しかし本部システムに根を張るように自身の力を移譲しているため、本部とリンク
していない状態では大きく力が削がれてしまい、ハイスペックと同程度まで弱体化してしまう。
よって、外で堕人に襲われた場合に備え、管理人を一人つけ、しかも周辺区域のワールドセーバーにも警戒に当たるよう促
す手はずになっていた。
「しかし…、私以上に護衛向きなメンバーが居るのでは…」
ラミエルがちらりと見やったのは、デスクについたまま、無表情に手元を見つめている黒虎の姿。
なお、仕事をしている訳ではない。昨夜飲んだ際に酔い潰れて衣服をはだけてソファーに引っくり返って眠ってしまったメ
オールからパンツを剥ぎ取ってあられもない姿にしつつ撮影した画像を携帯に表示させている。
真面目な顔をしながらそんな物を見ている辺り、実にけしからん男である。それ以前に酔い潰れた相手を盗撮するというの
が人として如何な物であろうか。
「そうですね、確かに居ますが…。仕方ありません。君が嫌だと言うのなら、他の誰かに頼むとしますが…」
「い、いえ!嫌と言う訳ではっ!」
慌てて口を開いたラミエルに、ドビエルはにこやかに笑いかけた。
「では、お願いしますよラミエル君」
「は、はぁ…」
何となく上手く乗せられて引き受けさせられてしまったような気もして、ラミエルは曖昧に頷く。
そんな彼を見つめながら、ドビエルは微笑んでいた。
(やはり自覚は殆ど無いようですね?しかし、そろそろ気付き始めても不思議ではないでしょう)
デキる上司ドビエルは気付いていた。ラミエルがハダニエルに抱く、淡く暖かな感情に…。
「室長!技術開発室長からお電話が!」
河馬が声を上げ、ドビエルは「回して下さい」と応じた。が、
「いえ、切れました!」
「はい?」
「伝言だけ告げられて一方的に…」
「彼女も忙しいですからね…。何と言っていましたか?」
河馬は生真面目な顔で「では申し上げます!」と断りを入れ、
「「今夜の予定は忘れてないだろうね?それと、今日はベッドにやたらとスプレーを振るんじゃないよ?生の匂いで良いんだ
から」との事でした!…はて?どういう意味でしょうか?」
直後、ドビエルが顔からデスクに突っ伏し、ゴダンッ!と激しい音が響いた。
意味が解ったべリアルだけは微妙な面持ちになっていたが、ラミエルをはじめとする他の行為未経験メンバーは意味が解っ
ていない。
「イスラフィル…。おる、えらいしこうすとろかぁ…」(意訳・イスラフィル…。わたくしは、とても恥ずかしいですよ…)
「ったく、気ぃ遣ってんだか何だか知らないけどねぇ、体臭なんて生で良いんだっての。スプレー振り過ぎ!毎回毎回果物や
花の匂いとか噎せ返るほどしてて、具合悪くなっちまうよ!」
内線端末を戻し、ブツブツ言いながらデスクのモニターに視線を戻した黒い牝牛は、「おや?」と目を丸くした。電話中に
メールが一通届いたのだが、そ送り主が珍しい相手だったので。
サマエルが消滅して空席になった技術開発室長の座には、半年後に冥牢から呼び戻されたイスラフィルが就任した。
大雑把な所はあるが、元々多芸な彼女はこちらの分野でも才能を遺憾なく発揮し、元通りとは行かないまでもだいぶ上手く
仕切れるようになって来ている。
相変わらず恥ずかしがっているドビエルは交際を大っぴらにしようとしないが、イスラフィルはお構いなし、大半のワール
ドセーバーが恋愛や交際に理解も知識も持っていないのを良い事に、今のように割と堂々と口をきいている。
メールを読み終えたイスラフィルは目を細め、薄く開けた口を左右に広げ、くっくっと笑う。
「クセでもついちまったのかい?困ったヤツだねぇ…」
「ああもう!また追跡機能オフにしてます!」
バザールは携帯を弄りながら、豚っ鼻からブシーッと蒸気混じりの鼻息を吹いた。頭から湯気が立ち昇り、常はピンク色の
顔が真っ赤になっている。
ここは冥牢、マリクの執務室。
イスラフィルの本部帰還が必要となった事、ムンカルの監視が必要無くなった事、そして何より、ジブリール、ミカールの
チームが解体された事で地上勤務が解かれた狼男は冥牢に復帰した。
ワールドセーバー達と変わらない確固たる自我を持ち、豊かな感情を得て、新たなマリク「ナキール」として。
それでもややズレはあるので、補佐官としてワールドセーバーを一人送る事になり、そして選ばれたのが彼女である。
これは二人が恋仲である事をムンカルやベリアルなどから聞いて知ったドビエルの案だが、広く浅く様々な技能に適正を示
すバザールは、史上初となる冥牢出向官という役職を無難にこなしている。
同時に独立配達人としてのライセンスは返上したため、現在身に纏っているのは青い清掃用つなぎ。ザバーニーヤ達とおそ
ろいのコスチュームだが、背中にはワールドセーバーである事を示す白い翼印がプリントされていた。
主に事務が彼女の仕事で、定期的に本部へ戻っては報告をおこなっているのだが、たまにこの報告役をナキールと代わって
いる。
ところが、困った事にナキールは、本部に行った際にそのまま何処かに出かけてしまう事が多い。
冥牢の総責任者であるマリクが一日二日行き先も告げずにホイホイ出歩くのでは困る。戻る度に小言を言うバザールだが、
「君は有能だから、自分が居なくとも数日程度問題ない」
などと微笑みかけられて褒め殺されるので、あまり強く出られなかったりする。実際のところ、バザールがそれほど有能で
なければナキールも気軽に脱走…ある意味では脱獄をする事もままならないのだが。
「イスラフィルさんの所にも居ない!?」
返信されて来たメールを確認したバザールは、
「ぐぬぬぅっ!またあのひとの所ですかっ!」
狼男の行き先に察しをつけ、デスク上の黒電話を握った。
「あぁん!?知るか!まだ帰ってねぇよ!」
ハイエナが電話の子機に向かって怒鳴ると、もそもそとピラフを食べていたワニが首を傾げる。
一度は堕人となったハールとマールは、今現在はある男の下に配属されて配達業務をおこなっている。
本来ならば彼らの禁固は数十年続くはずだったのだが、地上の状況が大きく変わってしまったため、監視装置が組み込まれ
た携帯端末を持たせられた状態で現場復帰となったのである。
イブリースがジブリールと融合して元の北極熊に戻り、異世界へ逃亡したせいで、イブリース派の堕人は纏まりが無くなっ
た。過激な輩は技術欲しさに配達人を襲撃するため、それなりに技能がある者を配備する必要が出て来たため、ハールとマー
ルも配達人のつなぎに袖を通す事となった。
二人が配備されたこの飛行艇は、レモンイエローの地に黒いストライプが入った派手な飛行艇で、彼らを率いるリーダーは
史上最強のワールドセーバー。また妙な気を起こしても返り討ちになるので、本部も安心して彼らを任せている。
なお、ハイエナのハールには、かつて黒い雌豹が跨っていたファイアブレード、ワニのマールには、以前北極熊の巨漢が乗っ
ていたG.T.Xと、それぞれに名車が与えられていた。
「仕事だよ仕事!あぁ!?っせーなデブ!嘘じゃねーっつってんだろボケ!またスライム飲ましてみっともねぇ腹パンパンに
してやんぞゴラぁっ!?」
喧嘩腰のハールが話している相手は、ナキ−ルがこちらに来ていないかと確認の電話を入れたバザール。因縁がある二人は
犬猿の仲であった。
「…またマリクが脱獄したのか…」
ワニはピラフを飲み下し、呆れ顔で呟く。
初めての事ではないので相棒の剣幕から大体の事情を察したマールは、携帯を取り、短縮ダイヤルからリーダーを呼び出した。
鉄色の手がはがきを握り潰す。
握り込まれた手の隙間からボシュッと灰色の煙が零れ、開かれた時には手の上に弾丸が一つ転がっていた。
それをリボルバーからスイングアウトしたシリンダーへ素早く詰め、横へ振ってカシャンと収めるなり、虎男は銃を上げ、
狙いを定めたかどうかも判然としない内にトリガーを引く。
放たれた銃弾は、虎男が跨ったバイクが低い唸りを響かせている立体駐車場を飛び出し、二車線道路を挟んだ向かいのビル
の三階へ窓ガラスを壊さず侵入、コピーを取っていた若いOLの後頭部に吸い込まれた。
「報いは、届けたぜ?」
ニヤリと笑ったムンカルは、空薬莢を取り出して握り込み、まっさらなはがきに変える。
このご時世では珍しく、拾った財布をそのまま交番へ届けた行為への、ささやかな報いである。
後日友人に付き合って買ったスピードくじが当たり、思いがけず小遣いを得る事になった女性が出かけた宝飾店では、その
後の人生をより豊かにしてくれる友人との出会いが待っている。
それ以上覗くのは野暮だろうと、軽く目を閉じて未来予測を中断したムンカルは、胸元に手を突っ込み、震動した携帯を取
り出した。
「どうした?もうじき戻るが…、ん?バザールが?ナキールが来てねぇかって?いや、俺は一人だぜ?」
首を傾げたムンカルは、直後に苦笑いした。後ろでコツンと、靴音がしたので。
「まぁ、見つけたらこっちから連絡入れるって伝えといてくれや。それと、あんまり気にすんな…とも。アイツは結局バザー
ルの所に帰るんだからよ」
苦笑いしながら電話を切ったムンカルは、「さて…」と呟き、首を巡らせて横手を見遣る。そこには、電話中に歩み寄って
来た、かつての同僚である青い狼が立っていた。
「よう、しばらく」
「変わりないようだな」
挨拶したムンカルに、黒い礼服姿のナキールは、口元を少し綻ばせて応じた。
埠頭を望む海浜公園の駐車場で、ファットボーイがエンジンを止める。
先に降りたライダーに続いて後部席から離れたナキールは、自動販売機でコーヒーを買っているムンカルの背を眺めつつ、
「調子はどうかね?」と声をかけた。
「まずまずだな。イブリースの旦那が居なくなってもうじき一年…。最近ますます堕人連中が荒れちゃあいるが、ピークは過
ぎた。連中も理解したんだろうよ、自由を求めて暴れるより、大人しくしてた方がよっぽど自由に振舞えるって事に」
アル・シャイターンとの決戦以降、多くの堕人と交戦し、屈服させ、説得し、世界の為に尽力し、地上を流離う虎男は、今
ではオーバースペックとして認知され、二つ名をつけられている。
「調停者」ムンカル、と。
「一理ある。望み過ぎさえしなければ、それなりに勝手気ままな生活ができるだろう」
ナキールはそう応じた後「だが」と先を続けた。
「調子というのは力や仕事状況の方ではない。君の心についてだ」
「おうおう、言うようになったじゃねぇか?本当に変わったよなぁお前」
「君達とバザールのおかげと言える」
ムンカルはニヤニヤ笑いながらナキールの顔を見遣り、コーヒーを放る。
宙でそれを掴み、プルタブを起こした狼男に虎男は告げた。
「へこたれはしねぇよ。アイツがそんな事許すようなヤツじゃねぇって、知ってんだろが?それに…」
ナキールに続いてプルタブを起こし、ブラックコーヒーをグビッと一口飲んだムンカルは、口の端を吊り上げた。
「俺ぁな、諦めちゃいねぇんだよ」
一度言葉を切ったムンカルに、ナキールは目で続けるように促した。
「アズライルって例がある。…ミックは、帰って来るさ」
ムンカルは目を閉じて胸に手を当てる。
大きくはだけられたライダースーツの胸には、レモンイエローの666…。
「何年、何十年、何百年…、何千年でも何万年でも、帰って来るまで待つ。そして、きっと忘れちまってんだろうから、俺達
の思い出と、借りたまんまのカリバーンを届けに行くさ。何たって俺は配達人…」
ムンカルは目を開けてニヤリと笑い、親指で自分の顔を指し示す。
「「配送の達人」なんだからよ!」