第八話 「吉兆の配達人」
最奥に古めかしいレンガ造りの大竈が据えられているのが印象的な、本格的な機材が揃えられた厨房で、鬣ばかりが立派な
小柄で童顔の獅子は、ボールに入れた強力粉を捏ねていた。
クリーム色の綿のハーフパンツにオレンジのパーカー。その上に黄色いエプロンを身につけた獅子は、小柄でずんぐりした
体型ながらも、短い手足は太く頑丈そうで、粉を捏ねる動きは実に力強い。
主の性格が反映されて綺麗に整頓されている清潔な厨房は、壁紙が淡いレモンイエローで、床と天井は眩い白。
椅子が四つ並ぶカウンターを挟んだ向こう側には、同じ配色の食堂が広がっていた。
それぞれ六つずつ椅子が備えられた、六人掛けの長机が二つ並んでいる食堂は、カウンターとその両脇にある柱で厨房と隔
てられてはいるものの、左右の壁際は通り抜けられる一続きの作り。
それぞれが15平方メートル程の面積で、天井までは3メートル。
各々が、ジブリールがパソコンと向き合っている、四方が鉄の部屋と全く同じ容積を持っている。
厨房側にはドアが無いが、食堂側には木製のドアがある。
ミカールが熱心にボールの中の粉を捏ねていると、その木目も美しいドアを引き開けて、大柄な男が姿を現した。
男は、腕や肩、胸などが隆と盛り上がった筋肉の塊のような体付きで、上背もあるせいでドアをほぼ塞いでしまう程の体躯
をしている。
色の薄い、右の膝が破れたジーンズに真っ白なタンクトップというラフな格好の巨漢は、鋼鉄を思わせる灰色の瞳で、カウ
ンター越しに厨房を、そこでボールに入れた粉を捏ねている獅子を見遣る。
「こんな遅くまで熱心なこった。今度は何作ってんだ?」
筋骨隆々たる半人半虎の大男は、タンクトップの薄い生地越しに分厚い胸をボリボリと掻きながらカウンターに歩み寄り、
獅子に声をかける。
「見れば判るやろ」
「いや判らねぇって…」
「判らんかい。ピザの生地作っとるんや」
せっせと作業に勤しんでいるミカールが顔も上げずに応じると、ムンカルは「お!?やりっ!」と声を上げ、口の端を吊り
上げた。
が、不意に訝しげな表情を浮かべると、獅子に疑問を投げかける。
「朝飯ドライカレーって言ってなかったか?何でまたこんな遅くにメニュー変えたんだ?今から生地作りなんぞしてよ…」
「勘違いすんなや?お前喜ばそおもてピザにした訳やないで。ジブリールが食いたいゆうたから変えたんや」
「別にそんな事思ってねぇよ。…って言うかだな…、毎度ながら俺と旦那の扱いってかなり差がねぇか…?」
「オドレはいつからジブリールと同じ扱いされる程偉くなったんや?」
「へいへい…」
ミカールが面倒臭そうに返事をすると、ムンカルは仏頂面で応じながらカウンターを回り込み、大型冷蔵庫を開ける。
様々な食材がぎっしり詰め込まれた冷蔵庫を覗き込んだ虎男は、「お。良いもんがあるじゃねぇか…」と、眼を細めながら
色鮮やかな赤ワインのボトルを取り出す。
コルクを抜くなりラッパ飲みを始めたムンカルは、カウンターに寄り掛かり、作業を続けているミカールの姿を眺め遣った。
「ポーカーどうやった?」
「ダメダメだ。明日の昼飯、俺の奢り決定。…強過ぎなんだよナキール…」
「素でポーカーフェイスやからなアイツ。っつーか顔に出過ぎなんやお前は」
そんなやり取りを交わした後、しばし黙ったミカールは、やがて「ジブリールがな」と口を開いた。
「また厄介事拾って来よってん。ちらっと内容聞いたけどな、えらい手間かかりそうなケースや。今も因管にアクセスして調
べとる」
「因果管制室にか?わざわざあそこに繋いでるって事は旦那の…ってよりも、俺達の持ち分じゃあねぇんだな?」
ムンカルは少し目を細め、胡乱げな表情を浮かべる。
「せや、ワシらの管轄やない。根っこがちごうとる乱れらしい。わざわざこっちで調律したる義理はあらへん。抗議だけして
ほんまの担当のケツ引っぱたいて、あっちでやらせとけばええんや」
「けど、旦那はまた首突っ込むんだろ?」
「もう突っ込んどる。そんでまた不眠不休ででもやるつもりや、あのアホウは!」
捏ねていた強力粉の塊をドンとボールの底に叩き付け、ミカールは苛立たしげに吐き捨てる。
「今夜もな、こない遅くなったんはそいつに時間割く為や…。三日分の配達を一日で終わらせて来よった」
ムンカルは感心したようにヒュウと口笛を鳴らすと、次いで肩を揺すって大声で笑い出す。
「がはははは!すげぇもんだな!一体何件分だよ?」
「笑いごっちゃないで!…そんでどんだけ力つこうたんやあのボケ!他んトコの不手際までしょい込んだる義理なんぞ無いん
や。ワシらはワシらの仕事だけキッチリやっとればそれでええのに、あのダァホ!」
口調を荒げたミカールに、ムンカルはワインボトルを揺らしながら応じる。
「そう言ってやるなって。そういうのはいつだって放っとかねぇだろう?旦那はよ」
「知った風な口ききよって…!」
不機嫌そうに返したミカールは、やおらため息をつくと、声のトーンを落として呟いた。
「人間に肩入れし過ぎなんや、あのアホウは…」
小さくかぶりを振って顔を上げたミカールは、ムンカルが手にしているワインを見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「なぁ…?それやけど…」
「ん?ああ。ケチケチすんなって、いいだろ一本ぐらいよぉ?」
「それな、ワシの調理酒とちゃうで?…アズライルが買うて来たもんや…」
「げっ!?」
鋭い眼光を放つ同僚の顔を思い浮かべ、ムンカルは顔を引き攣らせて凍り付いた。
「まだやっとんのか?」
ドアを開け、中を覗き込んだずんぐりした獅子は、パソコンと向き合っている同僚の、広く大きな背中を見遣った。
「ろくに休みもせんとぶっ続けで20時間…、ようやるわほんま…」
「問い合わせしなきゃいけない事柄が、思っていたより多くてね。今は回答待ちさ」
伸びをしながら首を巡らせたジブリールに歩み寄ると、隣の椅子を引いて腰を下ろしたミカールは、手にしていたトレイを
机の上に置く。
「ホレ。そろそろ腹減ったやろ?差し入れや」
ツナやタマゴ、ベーコンレタス等のサンドイッチを顎で示したミカールは、ティーポットに入れてきたダージリンティーを
カップに注ぐ。
その香りを嗅いだジブリールは、モニターを見つめながら思い出す。
訪問した際にミリアが淹れてくれたのも、彼女の夫が好きだというダージリンであった事を。
自分と同僚の二人分、カップに紅茶を注いだミカールは、ちらりと横目でジブリールを窺い、ため息を漏らした。
「食え。でもって、切り良いとこで少し寝とけや」
「うん。いただきます」
背もたれに体重を掛けて背を反らし、頭の後ろで腕を組んだ童顔の獅子は、天井を見上げながら呟く。
「何でまたこないな事に首突っ込むんや?…お前、アズライルが遭うたケースの事、まだ引き摺っ…」
「うぉひふぉうふぁわ、うぉいひふぁっふぁ」
「速いなしかし!?」
勢い良く身を起こしたミカールは空になった皿を見遣り、次いで頬をパンパンに膨らませ、むぐむぐとサンドイッチを咀嚼
している白熊の顔を、目をまん丸にして見つめる。
「そない急がんでも、誰もとったりせぇへんで?」
「…来た…!」
口の中の大量の食物を、ゴギュッと音を立てて飲み下した白熊の呟きを耳にすると、呆れ顔で言った獅子は口元を引き締め、
モニターに視線を注ぐ。
そこに表示されたメールの内容と、それに添付されて来た大量のデータが展開されてゆく中、
「…なんや…?なんやコレ…!?」
見つめていたミカールの目が吊り上がり、顔つきが険しくなる。
「配達漏れさ。件のフェリーの船長に届けられるはずだった、滞っていた報い一通。これの配達が期限までに間に合わなかっ
た。それの飛び火が今回の乱れに繋がってる」
表示されている添付データを確認し、冷静な口調で呟いたジブリールの横で、
「何処のアホウや!?こないなポカやらかしたんは!」
ミカールは問題となっている報いの配達期限と、本来配達するべきだった担当の名を確認すると、頭の中で記憶と照らし合
わせた。
「またあそこのヤツや…!前に配送ミスしでかした連中の一人やないか!懲りてへんのかあのスカポンタン共!」
腰を浮かせていきり立つ獅子の横で、ジブリールは相変わらず落ち着いた口調で話し出す。
「やっぱりこっちで修正しよう。たぶん未配送の報いそのものは担当者がまだ持っているはず…、こっちに転送して貰って、
改めて届ける」
ジブリールの静かな口調でなだめられたのか、ミカールは椅子に座り直し、少し俯いて哀しげに首を横に振る。
「アホか…、もう現実になってもうとるやろ?完全に歪んでもうた因果は修正なんぞできん…。本来迎えるはずやなかった死
に方した連中は可哀相やけど…、もうワシらでもどうしようもないわ…」
「だね、起こった事はもう変えられない。でも、ここから先の流れをいくらか戻してやる事はできる」
「「先の」ゆうても…、変える相手がもう…。ん?」
ミカールはモニターを見つめている同僚の横顔を見遣り、それから新たに展開された何かのリストへと視線を向けた。
「何や?この取り込んだら胸焼けしそうな高密度データは…」
「ここ三週間分のゲート通過者データさ。この中にはカイル・ノートン…、つまりキミに話したミリアの旦那さんに当たる人
物だけれど…、彼の魂の情報は含まれていなかった。彼は旅を終えていない…、まだこの世界に居る」
「げ、ゲートの履歴まで調べたんか!?人間だけでも週に何十万と抜けとるのに…!?」
重々承知はしていたはずなのに、同僚の処理速度を改めて実感し、ミカールは舌を巻く。
「…しかし、生きとったんか…。三週間も海の上におって…」
「そう、三週間も生き抜いた。でも、もう猶予はあまりないと思う。修正をかける為の元、件の報いを急いで送って貰わない
といけないのに…」
童顔の獅子は首を傾げて口を開く。
「今のには添付されてへんな?」
「うん。だからすぐに送ってくれるよう、今催促した」
二人はモニターを見つめたまま、それからしばし待ったものの、返答は来ない。
ミカールは不思議そうにモニターと同僚の顔を交互に見つめる。
「送られて来んな…?なんや問題でもあるんか?」
「さあ?そんなに手間がかかるような件でもないと思うけれど…」
ジブリールも疑問に思っているのか、モニターを見つめ続ける目を訝るように細める。
「通信障害やろか?」
そう尋ねたミカールは、何かに気付いたように目を丸くすると、次いで不快そうに顔を顰め、目を吊り上げた。
「この件、隠匿されとったんやな…?調べるのにこない時間かかったんも、そのせいなんやな!?」
「探り当てるのは結構ホネだったよ」
さらりと頷いて苦笑いしたジブリールの横で、ミカールはガタンと椅子を鳴らして立ち上がる。
「何ではよ言わへんのや!そいで?この期に及んで報いの引き渡し渋っとんのか連中は!?」
「まぁ、発覚した以上はもう隠しようがないから、すぐ送ってくれるよ」
「甘いんやお前は!連中、未配達の報いを改竄しようとしとるんや!届けなくとも元々問題無かったんやっちゅう風に!」
ジブリールは目を丸くしてミカールの顔を見つめると、「その考えは無かったな…」と、少し驚いているように呟く。
「ああもう!少しは他人を疑ったらどうや!?自分らが出した未配達の報いを秘匿するようなあこぎな連中やぞ!?人がええ
にも程があるわほんま!」
苛立たしげに吐き捨てたミカールは、ジブリールの背中をスパンと叩き、足取りも荒々しく壁に向かう。
白熊の視線を背に受けながら、のっぺりとした金属の壁に歩み寄ったミカールは、壁に右手を当ててぐっと押し込んだ。
水面に手が沈み込むように、壁に波紋を広げてレモンイエローの手が埋まる。
間を置かず引っ張り出されたその手には、壁と同色の電話の受話器が握られていた。
壁から直接コードを生やす受話器を顔に当て、ミカールは苛立たしげな様子で尻尾を左右にヒュンヒュン振りながら、通話
相手が出るのを待つ。やがて、
「ミカールや!大至急、オドレらが隠匿しとったブツこっちに送らんかい!…あん?ボケた事ぬかすな!つべこべ言わんとは
よせぇや!」
パソコンルームに、殺気だった怒声が響き渡った。
罵詈雑言を並べ立て、しばし一方的に怒鳴り散らしたミカールは、不意に声のトーンを落とした。
「…えぇか?念の為に言うとくけどなぁ、ワシゃジブリールほど優しゅうないで…?あんま舐めた真似しよったらなぁ…」
ミカールはすぅっと息を吸い込み、ジブリールは両手で耳を押さえて顔を顰める。
「直にそっち乗り込んでって、血ぃ見せたるぞゴルァアアアアアアアっ!!!」
小柄な体の一体何処からと思う程の凄まじい大声で通話相手を怒鳴りつけると、ミカールは「一分だけ待ったる!急ぎぃ!」
と付け加え、受話器を壁の中に突っ込んだ。
受話器をフックに掛けるようなガチャンという音と、通話を終えたチンッという控えめな音が壁の中から漏れると、再び壁
に埋めた腕を抜いたミカールは、
「一分以内に届かんかったら、ほんまにしばきに行ったる…!」
物騒な光を目の奥にちらつかせながら、低い声音で呟いた。
「ムンカルかナキール起こそ。報いの配達、一件追加や」
気を取り直すようにかぶりを振りながらそう提案した獅子に、ジブリールは「いや、オレが行くよ」と即座に応じる。
「そら、お前なら報いも配達できるけどな…、本来届けるもんとちゃうやろ?」
「本来って言うなら、そもそも本来ウチの担当じゃないよ。引き受けたのはオレの独断だからね、彼らに負担はかけたくない」
ジブリールがはっきりと自分が赴く意志を伝えると、ミカールは大仰にため息をついた。
何かと背負い込んで来るジブリールだが、決してそれらを他人の負担にはせず、全て自己責任で処理するのは昔からである。
こんな時に何を言ってもこの同僚が聞き入れない事は、付き合いが長いミカールには良く判っていた。
「…もうええ、勝手にせぇ…。配達相手のおおまかな位置はワシが割り出しといたるさかい、お前は着替えて準備しとき」
諦めたように言ったミカールに、「ありがとう」と微笑みながら頷くと、
「さぁ、もう一踏ん張り…!」
ジブリールは椅子から立ち上がり、グッ、グッ、と左右に腰を捻って、顔を顰めながら体をほぐした。
ダブルベッドの上、仰向けで眠っているミリアの、心身の疲労によってやつれた顔を見下ろしながら、
「こちらの不手際で辛い想いをさせてしまって、申し訳ない…。あと、また勝手に入ってごめん…」
再び部屋に無断侵入したジブリールは、胸に手を当て丁寧に頭を下げる。
「…旦那さんは、必ず貴女の元に帰して見せるから…」
小声で囁いた白熊は、分厚い大きな手を彼女の胸の上に翳した。
その手に導かれるようにして、ミリアが纏うネグリジェの胸元から、淡い、薄緑色の光が立ち昇る。
美しいエメラルドグリーンの光を手の平に受けながら、ジブリールは口元を微かに綻ばせた。
「キミの心は綺麗な色だね…。その旦那さんを想う心、少しだけコピーさせて貰うよ。きっと彼の力になるから…」
やがて、ミリアの胸から零れる光がゆっくりと、窓を閉ざすようにして細くなり、やがて完全に途絶える。
エメラルドグリーンの光を受けていた、いまだ淡く残光を灯している手を翻した北極熊は、手の平を上に向けて握り込む。
再び開かれたその手の平には、薄緑色に輝く半透明の弾頭をもつ、宝石のように美しい銃弾が出現していた。
夜闇と同じ色の水面がたゆたう深夜の海上に、屋根付きの救命ボートが浮かんでいた。
屋根の一部が破れたボートの中では、七人の男が身を寄せ合い、死んだように眠っている。
救命ボートは嵐の中で一度は転覆し、そこからなんとか立て直して水を汲み出したものの、その際に発煙筒も通信機も、オ
ールすらも失われてしまい、海流に流されて沖へ沖へと運ばれてしまっていた。
転覆した際に水と非常食だけは波間から何とか拾い上げた七名の船員は、乏しいそれらを節約し、何とか食いつないで来た
ものの、それらも二日前に底をついてしまっている。
もはや運を天に任せ、救助を待つしか手のない状況。誰もが絶望に心を蝕まれ始めていた。
男達の中で最も若いカイル・ノートンは、微睡みとも失神とも取れない薄れた意識の中で、奇妙な音を耳にして覚醒し、薄
く目を開けた。
それは、低く轟くエンジンの音。聞き飽きていた、何でもない雑音であったはずのそれが、今はひどく懐かしく感じられた。
恐らくは遠雷、そうでなければ、帰りたいと強く思う心が、洋上にありながらエンジン音の幻聴を自分の耳に届けたのだろ
うとだろうと、カイルは口元を歪めて笑う。
薄く開けた目で、天井の穴から夜空を見上げたカイルは、陸に残してきた妻の事を想う。
自分が助からないという事よりも、妻に哀しい思いをさせてしまっている事で心が痛んだ。
辛そうに顔を歪め、天井の穴から切り取られた夜空を見上げるカイルの青い目には、しかしそこから覗き込んでいる北極熊
の顔が視えてはいない。
穏やかな海面にバイクを停め、テントを思わせる救命ボートの脇に寄り添った白熊は、愛車共々水面に、まるで地面の上に
いるかのように立っていた。
(…やれやれ、どうやら間に合ったね…)
ほっとしたように口元を綻ばせたジブリールは、テントの穴から腕を突っ込み、気を失っている壮年の胸にデリンジャーを
向けた。
パン、と渇いた破裂音が洋上に響くと、ジブリールは穴に突っ込んだ腕を少し動かし、今度はカイルの胸に銃口を向ける。
「これは、キミの奥さんから…」
微笑みながら囁いた白熊がトリガーを引くと、宝石のように美しい薄緑色に透き通った弾丸が、ダブルデリンジャーの下バ
レルから飛び出し、カイルの胸に吸い込まれた。
ジブリールを認識できないまま彼に銃撃されたカイルの胸の内で、ミリアとの様々な想い出が蘇る。
水分が枯渇した体の、いったい何処に眠っていたのかと思うほどに大量の涙が、カイルの目から溢れ出た。
死ねない。死にたくない。家に帰って最愛の妻に会いたい。
絶望でくじけそうになっていたカイルの心が、折れる寸前だった状態から、しなやかな強さを取り戻す。
カイルは頬を伝う涙を手の平で拭い、舌で舐め取った。
貴重な水分を失う訳にはいかない。少しでも生き延びる確率を上げる為に。
妻への想いを含んだ涙を舐め、踏ん張る気力を取り戻したカイルの姿を見つめていたジブリールは、にっこりと、柔和な笑
みを北極熊の顔に浮かべた。
「さて、こっち側の不手際が原因だし、お詫びの意味も含めて、もう少しサービスしておこうか…」
呟いたジブリールは空いている手を握りこんで拳を作り、自身の力、白い光の粒子を固めて消去の弾丸を生成し始めた。
数分後、一発ごとに間を置いて上がった七発の銃声の後、全員の心から絶望感を消し飛ばし終えたジブリールは、
「滅多にないけれど…、こういう時は装填数が多い銃の方が便利だろうなぁ…」
バイクに跨って救命ボートを振り返り、愛用のデリンジャーを腹ポケットにギュチッと押し込みながら独りごちる。
「では失礼。もうしばしの辛抱を…」
別れを告げた白熊を乗せ、低重心の大型バイクは深夜の洋上を、ヘッドライトで闇を切り裂きながらブルックリン目指して
走り出した。
この十四時間余りの後、偶然近くの洋上を通りかかった個人所有のクルーザーが救命ボートを発見、通報し、カイル達は無
事救出される事となる。
カウンター越しに食堂を眺めやった童顔の獅子は、
「す〜…く〜…」
机に突っ伏して眠っている白熊の姿を目にし、呆れているような苦笑いを浮かべた。
両腕は体の脇に垂らしたまま、むっちりと肉がついた右の頬をテーブルに押し付け、口を半開きにしたジブリールは、規則
正しい寝息を漏らしていた。
午前四時。同僚の帰還を待っていたミカールは、配達を終えて戻ってきたジブリールに、用意しておいたシチューとチキン
ステーキを振る舞った。
それらを大喜びで、飲み込むように胃袋に詰め込んだジブリールは、腹が膨れて眠くなったのか、それとも溜まっていた疲
労が一気に出たのか、食べ終えるなり崩れるようにしてテーブルに突っ伏し、眠ってしまったのである。
カウンターを回り込んだミカールは、約45時間ぶりにようやく睡眠が取れた同僚の広い背中に、
「…お疲れさん、ゆっくり休んどき。一日分は余裕あるんやしな…」
そう、囁くように労いの言葉をかけると、起こしてしまわぬよう気を付けて、空になった食器を静かに下げ始める。
重ねた器を二往復してキッチンへ運んだミカールは、ふと食堂のドアを見遣って、口元で指を立て、「し〜…」と、静かに
声を漏らす。
静かに開けたドアから顔を覗かせているのは、丈の長いだぶだぶのトレーナーとピッチリしたスパッツを身につけた、しな
やかな肢体の黒豹である。
ミカールに頷き、そっと食堂に滑り込んだアズライルは、テーブルに突っ伏しているジブリールを起こさぬよう、足音を殺
してキッチンに入った。
グラスに水を汲んで一口だけ啜った黒豹が自分の隣に立ち、カウンター越しに白熊に視線を向けると、ミカールは低く抑え
た声でボソボソと話しかける。
「…件の配達は、さっき済まして来よった。今日はゆっくりさせたるつもりや」
頷いた黒豹は、彼に倣って小声で尋ねる。
「滞在は、いつまでだっただろうか?」
「あと五日あるから心配せんでええ、案内の時間は作るやろ。ジブリールは、何があっても約束は破らへん」
顎を小さく引いて微かに頷いたアズライルを、ミカールは食器をシンクに並べながら見遣った。
アズライルと比べてもなお背が低いミカールは、少し首を上げて彼女を見上げる形になる。
「その後は日本に飛ぶ。…お前は今度で二度目やったか?」
「ああ、十三年振りになる。…ムンカルが、何やら楽しみにしていたようだが…」
「お好み焼きやろ。あいつアレが無茶苦茶好きやさかい。…あぁ、あとまぁ、一つ気にかかっとんねやろな…」
「気にかかる、とは?」
「忘れたんか?あのダァホ、前回行った時は思いっきり規則違反やらかしよったやろ?無理矢理配達手伝わしたあの人間が、
今ごろどうしとんのか気になっとんねや」
「因果管制室に問い合わせれば判るのでは?」
「せやけど、自分の目で確かめたいんやろな。それに、あいつアクセス下手くそやから、ワシやジブリールのようには行かん」
そういうものかと頷きながら、アズライルは以前東洋の島国へ行った時の事を思い出す。
仕事中の自分を認識した小さな男の子が居た、その国の事を。
話が一区切りつくと、アズライルは皿洗いを始めたミカールの傍を静かに離れた。
「まだ早いで、もうちっと寝ときぃ」
「もう、すっかり目が醒めてしまったから…」
ミカールに応じたアズライルは、足音を殺して食堂に入ると、ジブリールの向かいの椅子を引き、腰を下ろした。
テーブルに肘をつき、両手で頬を支え、白熊の寝顔を眺める黒豹。
カウンター越しに二人の様子を眺めながらミカールが口元を緩めると、
「…くかっ…!」
視線でも感じたのか、ジブリールは鼻に何かつまったような、妙な寝息を漏らした。
北極熊の顔をした奇妙な巨漢と出会った二日後の午後、
「え!?…見つかっ…た…!?カイルが!?」
自宅でその電話を受けたミリアは、言葉を失って床にへたり込んだ。
個人所有のクルーザーによって、漂流中の救命ボートが発見され、カイルが他の船員達と共に救助された。
衰弱しているので帰港し次第病院に搬送するが、命に別状は無い。
カイルが務めている船会社の電話嬢は、感涙に噎びながらミリアにそれらの事を伝えた。
すぐに迎えの車を寄越すと言う会社の好意に、ミリアは泣きながら何度も礼を言い、慌ただしく出かける準備を始めた。
愛する夫が三週間漂流した末に、生きて帰って来た。
奇跡のような出来事だと、ただただ神に感謝しながら。
そして、衰弱している夫が入院した病院と自宅とを往復している間に、瞬く間に三日が過ぎる。
数日後の夜半、病院で夫と過ごしてから帰宅したミリアは、リビングの明かりをつけた次の瞬間、息を飲んで目を丸くした。
「やあ。またまたお邪魔させて貰っているよ、ミセスミリア」
リビングの奥、カーテンが引かれた窓際に、見上げるような大きな男が立っていた。
「また驚かせちゃったかな?」
微笑みながら小首を傾げる北極熊の顔をした巨漢に、ミリアは首をふるふると横に振る。
特徴的な姿の巨漢の事である。会った事はもちろん覚えていた。
だが、この慌しい数日の内に、あれは夢か幻だったのではないかと、ミリアは思い始めていたのである。
「旦那さん。ちゃんと帰って来たね」
微笑みながらジブリールがそう言った途端、ミリアは思い出した。
カイルはきっと、近い内に帰って来る。
ジブリールは先日、去り際に確かにそう言っていた。
「あの…、もしかして、貴方なの?」
「ん?」
首を傾げたジブリールに、ミリアは震える声で尋ねる。
「貴方が、カイルを助けてくれたの?」
目を潤ませているミリアに、ジブリールは「ああ…、それね…」と、顔を曇らせながら首を横に振り、次いで深々と頭を垂
れる。
「何てお詫びすれば良いのか…、そもそもキミの旦那さんがこんなにも長く帰って来られずに居たのは、こっちの不手際が原
因だったんだ…」
ジブリールは申し訳無さそうに耳を寝せながら、「え?」と首を傾げているミリアの顔を見遣った。
「まぁ、謝る前に一通り説明した方が良いね…」
「…だいたい…、判ったと思う…。い、いいえ、判りました…。ちょっと混乱しているかもしれませんけれど…」
ジブリールとテーブルを挟んで向き合ったミリアは、だいぶ困惑している様子でそう言った。
「だろうねぇ…。無理は無いよ。こっちもいささか説明を急ぎ過ぎたし」
熊男は微苦笑を浮かべてそう言うと、香りの良いダージリンティーを啜った。
ジブリールは、自分がどのような存在なのか、どのような事をしているのかという事から始め、今回の件について包み隠さ
ずミリアに伝えた。
「…ありがとうございました…」
深々と頭を下げたミリアに、ジブリールは慌てて首を横に振る。
「とんでもない!顔を上げて!礼を言われるどころか、怒られて当然の不手際だったんだから…」
「それでも、ありがとうございます…!」
ミリアは顔を上げないまま、肩を震わせ、涙を流しながら礼を言った。
「貴方様のおかげで、私は…、いいえ、私達は、これからも生きて行けます…!」
感涙に咽ぶミリアを、頬をポリポリと掻きながら落ち着き悪そうに見つめ、ジブリールは口を開く。
「いい加減に顔を上げて、ミセスミリア。そんな風にお礼を言われるとこっちが居心地悪いから…。それと、そんな畏まらな
いでくれないかな?」
「で、でも…、貴方様を相手にそんな…!」
「気にしなくて良いのに…」
おずおずと顔を上げたミリアに微笑むと、ジブリールは紅茶を飲み干し、「ごちそうさま」と頭を下げた。
「そろそろ行かないと…。お邪魔しました」
腰を上げたジブリールに、慌てて立ち上がったミリアが頭を下げる。
「申し訳ありません!何もお構いできなくて…!」
「だから…、そう畏まらないでくれる?」
苦笑いしたジブリールは、「それじゃあ最後に…」と、ポケットに手を突っ込んだ。
取り出された小型拳銃が自分に向けられると、ミリアはキョトンとした顔でその銃口を見つめた。
「え?」
「お届け物です。ミセスミリア」
微笑んだジブリールの指がトリガーを引き絞り、パールホワイトの銃弾がミリアの腹部に打ち込まれる。
呆然としながら腹を見下ろし手で押さえたミリアは、先にジブリールから聞いた、彼が配達するモノが何であったかを思い
出す。
吉兆の配達人。
ジブリールは自分の事をそう説明した。多岐に渡るその取扱配達物の一つは…。
「私…、私は…?うそ…?」
信じられないといった様子で呟くミリアに、ジブリールは笑みを深くして頷いた。
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、疲れた体と心を癒す事だね。新しい家族の為にも、ママは元気でなくちゃ」
顔を上げたミリアは、上げられたままのジブリールの手の中で、今度は銃口が自分の額に向けられている事に気付く。
「それじゃあお元気で、ミセスミリア。貴女が淹れてくれた紅茶は、とても美味しかった」
微笑みながらそう告げたジブリールが握るデリンジャーが、乾いた銃声と共に透明な弾丸を吐き出した。
「…あれ?」
テーブルの上に乗っている、二組のティーカップを見下ろし、ミリアは首を傾げた。
(何で二つも出しているのかしら?…そもそも、紅茶なんか飲んだかしら?)
不思議に思って首を傾げているミリアを、テーブルを挟んだ位置に立ったまま見つめながら、ジブリールは拳銃をポケット
に押し込んだ。
夫が帰って来た事で歩む気力を取り戻したミリアは、実はもう配達人を認識する条件を欠いていた。
彼女自身への配達と共に最後の挨拶にやって来たジブリールは、今夜に限っては先日と異なり、わざと自分の姿を認識させ
ていた。
今回の修正作業において、彼女が自分と接触した事が後々に良く無い影響を残すと確信したジブリールは、元よりミリアか
ら自分に関する記憶を消すつもりであった。
記憶を消去すべき相手に事情を説明するのは、結果的には無駄な事だが、ジブリールはどうしても、自分の側に属する者の
不手際によって災難を被った彼女に詫びておきたかったのである。
自分と出会った数回の記憶を完全に消去し、現実との辻褄が合うように調整したジブリールは、
「さようならミリア。旦那さんと共に、良き旅を…」
もはや自分を認識できず、会った事すら覚えていないミリアに、柔和な笑みを浮べながら右手を胸に当てて一礼した。
身を翻したジブリールがキッチンに移動し、突き当たりの壁をすり抜けて波紋を残して消えた後、ミリアにはもう聞こえな
いバイクのエンジン音が、マンションの外壁の辺りから響いた。
「いってきまぁす!」
「ちゃんと先生の言う事を聞いて、良い子にするのよ?」
「はぁい!」
色白の、ぷっくりした幼い男の子は、愛くるしい笑顔を母親に向けながら、幼稚園の送迎バスに乗り込んだ。
母親譲りの白い肌に、父親譲りのブルーの瞳。バスの窓越しに手を振る可愛い我が子に、優しく微笑んだミリアは、
「いってらっしゃい、ガブリエル!」
四歳になる長男に手を振り返し、送迎の先生に会釈した。
走り出したバスを見えなくなるまで見送った後、ミリアは踵を返してマンションへと引き返した。
嵐にあって遭難した夫が奇跡の生還を遂げてから、はや五年の歳月が流れた。
災難の翌年に生まれた大きな赤ん坊は、すくすくと成長して、やや活発過ぎるものの、素直で優しく愛らしい男の子になった。
ガブリエルという名は、自分に似た白い肌の赤子が、父親似の青い瞳であった事が判った際に、ミリアが思いついて名付けた。
理由は判らなかったが、ぷっくりした赤子の外見を見ていてその名が浮かんだのである。
それまで候補に上げていた名には無かったが、父親のカイルも悪くないと思ったらしく、賛成してくれた。
あの頃の事を思い出す度に、ミリアは何か大事な事を忘れてしまっているような気分になる。
理由は判らないのだが、忘れてしまっている事が何故だか申し訳なくて、そして何かに感謝したい気分になる。
マンションの前に至ったミリアは、ふと何気なく空を見上げ、それから微笑んだ。
いつからか、何故か親近感を覚えるようになった大きな真っ白い入道雲が、ビルの間からミリアが見上げた空を、のんびり
と漂っていた。