第九話 「ミッドナイトブルーメモリーズ」(前編)

リアスの海に面した峠の道を、数台のバイクが駆け抜ける。

月の無い曇った夜空の下、山際を、崖上を、海沿いを蛇行する道を疾走するマシンが雄叫びを上げる。

午前一時。この道は県内のライダー達の間では有名なコースで、土曜の夜から日曜の夜明け前にかけては、腕自慢達が愛車

に跨り激しく競い合う。

ここ三ヶ月程は訳あって静かだったのだが、ほとぼりが冷めたのか、はたまた忘れたのか、以前のように集まったライダー

達やギャラリーは、夜の祭典に熱狂する。

スタート兼ゴール地点の広い待避所には、夥しい数のバイクが並び、観客や参加者がひしめいている。

いつも静かな峠の待避所は、今は歓声とエンジン音で賑わい、喧しいほどである。

今この時、この場所においては、学歴も職業も性別も関係ない。

速く、そしてクールに峠を駆け抜ける者こそが夜のヒーロー。

それはある意味、力に惹かれるという根源的な価値観による熱狂に近いのかもしれない。

誰が一番速いのか?示される結果はシンプルで解りやすく、そこには複雑なルールも横から口を挟む審判も無い。

ただ、ギャラリー全員が見届け人として記憶に刻むだけである。

やがて、レコードに最も近い二人の若者が待避所で愛車のエンジンをかけると、ギャラリーから一際大きな歓声が上がった。

一方の中肉中背で茶髪の若者は、漆黒のフルフェイスをかぶり、黒地に赤いラインの入った、スーツと同じカラーリングの

バイクに跨っている。

もう一方、長身痩躯で長髪の男が、スーツと同色のダークレッドのヘルメットをかぶり、深紅の愛車に跨り、黒いバイザー

越しにライバルを見遣る。

レコードに最も近いとされるこの二人の直接対決に、ギャラリーは興奮を高めた。



ヘッドライトで闇を切り裂き、二台のバイクが獣のような咆吼を上げて疾走する。

アップダウンの激しい峠は、それに加えてきついカーブが多い。

抜きつ抜かれつ鎬を削る二台が後ろからのライトで照らされたのは、スタート地点からだいぶ離れた短い直線での事だった。

自分達の後に出て、追い縋って来た者が居る?

訝る二人はしかし「そんな事は有り得ない」「錯覚だろう」とそれぞれ考え、思考をレースに戻す。

が、次のカーブを越えて再び短い直線に入った二人は、再度カーブに進入する直前、再び背中にライトを浴びた。

ちらりとミラーに映った光源とは、先程よりも距離が縮んでいた。

二人は急に不安になる。

自分達に追いつける者は、今日集まっていた馴染みの顔ぶれの中には居ない。

飛び入りの余所者も居る事には居たが、相手にならないような走りしか見せていない。

それなのに、自分達の後方から着実に、しかもかなりのペースで距離を詰めて来る者が居る。

そんな走りができる者に、二人とも心当たりがあった。

だが、その人物は今夜ここには居ない。来られない。二度と競い合う事はないはず…。

恐怖で全身から冷や汗が吹き出し、ちらちらとミラーを気にするようになった二人は、右カーブから切り返す左にカーブに

進入する直前、強い光芒をまともに浴びせられる。

インからインへと最短距離を走る二台の後方から、連続するカーブ内で一気に距離を縮めたミッドナイトブルーのバイクが

ヘッドライトを輝かせる。

続く右の急カーブで、後方から来たバイクは二台よりもさらに内側を駆け、一息に抜き去る。

ハンドルの先が触れるかと思うほどの至近距離、ガードレールに腿が擦れる程のカーブ内側ギリギリに割り込む、クラッシュ

の危険を度外視した走りで抜き去られた二人は、そろって戦慄した。

ライダーの技量と度胸にだけでなく、自分達を抜いたそのライダーと愛車をはっきりと見た事で。

戦意を喪失するどころの騒ぎではなく、恐怖に駆られてブレーキをかけた二人を置き去りにし、ミッドナイトブルーのバイ

クに跨るライダーはカーブの向こうに消える。

路肩に寄り、ヘルメットを脱いだ二人は、蒼白になった顔を見合わせた。

「み…、見た…?」

「あ、ああ…」

「あ、ああああれって…」

「だ、だよな?だよな!?」

姿を現してから消えるまで、五秒足らず。その短い時間の中で、二人は見た。

居るはずのない。もう走るはずのないライダーの姿を。

それが、かつて何度かここで勝負した相手である事を、二人はバイクの姿とその走りで確信させられた。

ライダーの姿で確信できなかった理由は、あまりにも様変わりしていたせいであった。

というのも、そのライダーには首が無かったのである。



「むぅ…。眺めが良いって聞いたんだがよ…」

夜闇に溶け込む黒革のライダースーツに身を包んだ、2メートルはあろうかという巨漢が、腕組みをして夜の海を眺めなが

ら呟いた。

三陸の沖を眺める崖の上、土がむき出しの空き地は、所々まばらに草が生えている。

そこから眺める暗く重苦しい色合いの黒い海は、曇天の下で波音を響かせていた。

巨漢が身につけた黒いつなぎの背中には、一対の翼を象ったエンブレム。それは夜闇の中で浮き上がって見えるほど鮮やか

に白い。

スーツの上からでもそうと解るほどに筋骨隆々たる見事な体格の巨漢だが、体の大きさ以上に特徴的なのは、頭部が虎であ

る事。尻から黒い縞模様が入った長い尾が生えている事。そして、鋼鉄を思わせる鈍い光沢のある濃灰色の毛で全身が覆われ

ている事である。

両の瞳も体毛同様灰色で、縦長の瞳孔が闇の中で太くなっていた。

「そら天気がええ日の話とちゃうか?お月はんも隠れてもうとるし、ただただ辛気くさいだけやないか…」

半人半獣という奇妙な姿をした巨漢の後ろ、前輪が前方に長く突き出た大型カスタムバイクの後部シートの上で、丸みを帯

びた影が口を開いた。

黒革のライダースーツを諸肌脱いで着込み、腰の所で袖を帯のように巻いており、上半身はタンクトップ一丁。

ずんぐり短身のこの男、剥き出しの肩や腕は太く逞しいが、胸や腹にはぽってり肉がついてタンクトップを押し上げており、

いささか肥満気味の体付き。

こちらも虎男と同様に人間の顔をしていない。

虎男同様に縦長の瞳孔を備える瞳は、金色に近い黄色。

全身は明るい黄色の毛に覆われ、尻からは先に筆のような房がついた尾が伸びている。

獅子の顔をした短身の男は、ライオンらしい鬣こそ立派なものの、頬や顎下がプックリ膨れた丸顔で、おまけに童顔なせい

か幼い印象を受ける。

「ええトコ連れてったる言うから、こないな辺鄙なトコまでわざわざついて来てみれば…、おもっくそ空振りやんか!」

ずんぐりした獅子、ミカールは、飲み終えたレモンティーのペットボトルを苛立たしげに投げつける。

空のボトルはカコーンと軽い音を立て、巨漢の虎、ムンカルの後頭部に命中した。

「いてっ!…そんな怒んなって…」

頭を押さえて振り返ったムンカルは、バイクの座席に跨ったまま不機嫌そうに尻尾を揺らしているミカールを見遣る。

「明日は休みやから、夜更かしして菓子作りに没頭しよ思うとったのに!あぁもぉ腹たつわっ!」

プンスカしているミカールから顔を背け、ムンカルは喧しそうに耳を寝せる。

自分の胸辺りまでしか身長が無いこの獅子に、巨漢の虎は口では勝てない。

「とっとと帰るで。無駄な時間つこうたわホンマ!」

「へいへい…」

地面に落ちたボトルをブーツのつま先で蹴り上げ、肩の高さに浮かせて器用に捕らえたムンカルは、体を捻って山側を見て

いるミカールの背を見つめ、首を傾げる。

景色の良い場所があると遠出に誘ったあげく、空振りに終わって時間を無駄にした事で臍を曲げ、そっぽを向いているのか

と、虎男は一瞬考える。

が、いかにもミカールにありそうではあるものの、彼がそんな理由で向こうを見ている訳ではないとすぐに悟った。

針金を思わせる虎の髭がヒクヒク動き、濡れた鼻が匂いの粒子以外の物を嗅ぎ取る。

「…何やろな?何や妙なモンが来よるで…?」

耳をピンと立てて呟いたミカールに歩み寄ったムンカルは、目を細めて山際を通る道を見つめる。

耳に届くバイクのエンジン音。しかしそれ自体は先程までも、競争しているバイクが十数分おきに通る都度聞こえており、

さして珍しくもない。

一台分のエンジン音は次第に近付き、二人が見上げている500メートル程先、山腹を巻く高い位置の道に差し掛かる。

やがて、ヘッドライトの光芒がガードレールの下を抜けながら瞬き、バイクの姿が現れると、二人の目が同時に大きくなった。

ミッドナイトブルーのバイクと、それに跨るライダーは、二人の位置からは短い範囲しか見えていない山道を一瞬で駆け抜

け、姿を消した。

「追っかけんでムンカル!」

「おうよ!」

ライダーの姿をしっかり確認していたミカールが声を上げると同時に、同じくその異形を瞳に収めていたムンカルは、素早

くバイクを跨いでハンドルを握る。

虎男の巨躯が軽やかにシートに乗り、獅子がその腰にしっかりと腕を回すと、間髪入れずに、オォンッと、バイクが獣じみ

た唸りを上げる。

スタートプロセスを無視して一瞬でエンジンに火が入ったファットボーイカスタムは、ライダーの意図に応えてタイヤで土

を抉りつつ急発進、急激に加速した。

土砂崩れ防止のコンクリートに巻かれた山肌を、ムンカルとミカールを乗せたチョッパーが、その仰角を物ともせずに駆け

上った。



「ちっ…、見失っちまった…!」

数分後、バイクを停めたムンカルは舌打ちをしていた。

後部座席に跨ったミカールもフンフンと鼻を鳴らすが、しばらくすると顔を顰めながら肩を竦めた。

「匂いが希薄過ぎて散ってもうとるわ…。こないなったらもうワシでも辿れへん…」

バイクが停まったのは山を跨ぐ高い位置だが、見渡せる範囲にはヘッドライトの光も見えない。

「…くそっ…!」

不機嫌そうに吐き捨てるムンカル。

ロー&ロングのカスタムが施された愛車は重く、狭い道での取り回しは不便だが、こういった速さの勝負ならば自信があった。

後ろにミカールを乗せており、タンデム走行というハンデがあったとはいえ、簡単に振り切られてしまった事でブスッと不

機嫌そうな顔をしている。

「…フネに戻るで。ここにおってもしゃあないわ」

「ああ…」

ムンカルの苛立ちを代弁するように、ファットボーイがオォンッと高い唸りを上げた。



一方、二名のライダーが引き返してきた待避所は、先程までの騒がしさが嘘のように静まりかえっていた。

「見た…!間違いない、青いXANTHUSだった!」

「く、くく首が無かった!川崎の亡霊だ!」

真っ青な顔で訴える二人のライダーを囲むギャラリーも、声を潜めて囁きあう。

真っ昼間、太陽の下で、全く違う件で亡霊の話などを聞いたとしても失笑する所であろうが、今この場に居る顔ぶれは、誰

一人として二人のライダーを笑う気にはなれない。



三ヶ月ほど前までは、二年以上に渡りこの峠のチャンプとして君臨し続けてきたライダーが居た。

この峠に集う顔ぶれの中に、彼の事を知らない者は居ない。

その若者は十八歳でそれまでの記録を塗り替え、以後も記録を塗り替え続けた。

誰にも敗れる事の無かったそのライダーは、三ヶ月ほど前のその日の早朝、一人で峠を攻め、そして事故に遭った。

警察の見解では、操作ミスによる自損事故となっているその一件は、その味気ない文面以上に強烈な印象を持って、人々の

心に刻み込まれている。

海に面した崖上の、左への急なカーブを曲がった直後、コントロールをミスしたのか、彼と愛車はブレーキ跡を長々と路面

に残して転倒し、崖っぷちのガードレールに激突した。

その二時間後、地元の漁業組合の軽トラックがそのカーブを通りかかり、事故が発覚した。

バイクも彼の体も見つからなかったものの、組合の職員は自分が死亡事故現場を通りかかった事をしばしの放心の後に悟った。

大きくへこんだガードレールと、その傍に赤々としたラインを描いて転がっている、中身が入ったままのフルフェイスのヘ

ルメットを呆然と眺めながら。

ガードレールの上を乗り越えたらしいバイクと、縁に強打して頭部を失った胴体は崖下の海に落下したらしいが、岩場にも

かかわらず見つからなかった。

そして遺体の胴体部とバイクの捜索は打ち切られ、現在に至る。



二人のライダーが戻ってから数分後、賑わっていた待避所からは人もバイクも車も、残らず姿を消した。

深夜の峠は、曇天の下、眠っているような静けさを取り戻す。



薄紫色の空間に、ピアノの旋律が響いている。

洒落たバーにも見えるその部屋は、壁と天井全面が薄紫で、足下にも同色の毛足の長い絨毯が敷かれていた。

一辺15メートル程の正方形の部屋で、天井までの高さは3メートル程。

入って左側の壁には、酒やジュース等の飲み物類の瓶と、様々な大きさと形状のグラスが並べられた棚。

その前には冷蔵庫や流しなどが一体化した造りの、幅5メートル程の黒いバーカウンター。

奥側の壁には麦の収穫を描いた油絵がかけられ、右手奥の一段高くなったスペースにはグランドピアノが鎮座している。

右側の壁際には端から端まで一続きになった長いソファー。これも壁などと同様薄紫。

天井に六カ所、六角形を描くように埋め込まれているライトは光量が控えめにしてあり、柔らかな黄色みのある光を投げ落

としている。

中央の広いスペースには円形の黒いテーブルが三つ置いてあり、それぞれ四つずつ肘掛けと背もたれつきの椅子が備え付け

られていた。

全体が落ち着いた色彩で統一されたその部屋のテーブルの一つには、トランプを手にした三人が座り、ゲームに興じていた。

中央にトランプが重ねられたテーブルを囲む三人は、全員が普通の人間とは少々異なる姿をしている。

一人目は、白いポロシャツに、脚が長く、そして細く見える黒いスラックス姿。

青みがかった灰色の毛を纏う、狼の顔をしたスラリと長身の男。

二人目は、かなり大きいだぼだぼの青いトレーナーと、膝上までのピッチリした紺のスパッツという格好。

漆黒の毛が全身を覆う、スタイルの良い豹顔の女。

三人目は、クリーム色のサマーセーターを着て、灰色の太い綿パンを穿いている。

パールホワイトの被毛が眩しい、北極熊の顔をした肥満体の大男。

テーブルの上、熊顔の大男のすぐ傍にはこの国ではポピュラーな全国チェーンのドーナツショップの長い箱が四つ置いてあ

るが、二つは既に空になっていた。

自動演奏機能でピアノが奏でるピアノアレンジのレットイットビーがゆるやかに流れている、穏やかなその空気は、

「ジブリール!おるか!?」

勢い良くドアが開いた音と、次いで響いた怒気を孕んだ声で破られた。

ドアを開けてづかづかと歩み寄るぽっちゃりした獅子を、トランプを手にして丸机を囲んでいた三人が見遣る。

片手にトランプの束を持ち、ドーナツを咥えている大男は、

「ふぉふぁふぇふぃ、ふぃふぁーふ」

口に咥えたままドーナツをそのままに、帰還した同僚にくぐもった声をかける。

「こないな時に何のんびりしくさっとんねやお前は!」

ミカールは鼻息も荒々しく、でっぷり肥えた白熊男に歩み寄ると、口に咥えていたドーナツを取り上げ、ムシャッと荒々し

く噛み千切る。

「こんな時って…。いや、だって…、ここでの配達全部終わってるし…」

そもそも、明日がオフだからこそ、ミカールも深夜に出かけたのではなかったか?

そんな事を考えながら白熊…ジブリールは困惑顔で頬を掻き、狼男と黒豹女…ナキールとアズライルも、訝しげに眼を細め

ながら顔を見合わせる。

「何かあったのかい?ミカール」

ミカールはフンと鼻息を漏らし、

「何かなんてもんやない!無駄足踏んだ上に…、…美味いなコレ?」

まくし立てるのを止め、ジブリールから奪い取って囓った、チョコがかかったシンプルなドーナツに視線を落とすミカール。

「でしょ?アズがわざわざ買ってきてくれたんだ。見た目は既存のヤツに似てるけど、今月出たばかりの新作なんだって。相

変わらずお土産のチョイスが絶妙で嬉しくなるよね」

にこやかに笑うジブリールの横顔を無表情のまま眺めながら、アズライルは椅子の横に垂らした長くしなやかな尻尾の先を

フリフリと小刻みに揺らす。

「ほぉ?中にカスタードなぁ…。チョコ抑えめでカスタード…、それにこれ少しシナモン入っとんのか。今度試してみよ…」

「何で和んでんだよ…」

不機嫌そうな声が響いて四人が首を巡らせると、ドアを乱暴に閉めて部屋に入って来る大柄な虎の姿。

「さっき妙なヤツを目にした。追いかけたんだが振り切られちまってな…」

「振り切った?キミをかい?これは驚いたな…」

薄紫のサロンに脚を踏み入れたムンカルは、目を丸くしているジブリールを見遣る。

「今回俺達が受け持ったエリアからはかなり離れた場所だが…。旦那は何か嗅ぎ取ってねぇか?」

「いや?気付いていたら皆に話しているよ」

「それもそうだよな…」

「それで、妙なってどんなだい?」

口をへの字にして腕組みをした虎男に、北極熊が尋ねた。

「たぶん死人やな」

「死人だろうな」

ミカールとムンカルが応じると、アズライルが首を傾げる。

「配達中にも残留者の気配は感じられなかったが…」

黒豹にチラリと視線を向けられたナキールは、どうやら周囲の雰囲気に一切左右されぬまま、ばばぬきを続行する気満々ら

しく、アズライルに向かって催促するように手を伸ばす。

「自分も気付かなかった。どの程度離れているのだね?」

「ざっと80キロってとこだな」

答えながらアズライルの背後に回ったムンカルは、ナキールの手がジョーカーに伸びているのを見て顔を顰めた。

ポーカーフェイスの黒豹の後ろで、虎が露骨に表情を変えた事を確認したナキールは、表情を変える事無くしれっと隣のカ

ードを引き、難を逃れる。

「いくらなんでも、そこまで離れると感知できないよ」

ナキールが差し出したカードを見もしないで引いたジブリールは、「オレ上がりね」と、ペアになったカードを机に置く。

アズライルにカードを引かれて一抜けしたジブリールは、ドーナツを一箱抱えて腰を上げた。

「少し調べてみようか?たぶんそっちのエリアを担当しているチームが対応するとは思うけれど…」

「頼むわ、このままやとスッキリせぇへん!」

ミカールとムンカルを伴い、ジブリールが部屋を出て行くと、

「悪いな。自分も上がりだ」

団欒の時間に邪魔が入り、軽く落胆しているアズライルの手からカードを引いたナキールが、微妙な追い打ちをかけた。



「…これかな?予定が過ぎているのに、ゲートの通過記録が無い」

席に着き、他所からの情報を呼び込んだジブリールの前で、パソコンのモニターに若い男の顔と、詳細情報が表示される。

白熊の肩に左右からそれぞれ手を掛け、ぐっと身を乗り出して画面に見入るムンカルとミカールは、

「こいつかなぁ?」

「どやろ?」

と、揃って首を傾げる。

「顔見ても判らない?」

左右から身を乗り出されてやや窮屈そうにしながら尋ねる白熊。

「顔は見てねぇんだ…」

「へ?」

画面に見入りながらムンカルが応じると、ジブリールは不思議そうに首を傾げた。

「首から上がのうなっとってな。顔まで見られへんかったんや」

「なるほどねぇ…。なら、死因辺りから調べてみようか」

首の後ろを手刀でトントンと叩きながら応じた獅子に、納得したような面持ちで頷いた北極熊は、機器には指一本触れぬま

ま画面を切り替える。

新たに画面上で展開されたウインドウには、正規の流れの因果によって若者にもたらされるはずの最期がどのような物か記

されていた。

「バイクの事故だね」

「こいつだ!」

「間違いないわ!乗っとったし!」

左右で大声を上げられながらも、ジブリールは顔を顰める事すらなく、微笑みながらウインドウをスクロールさせた。

「大丈夫、ゲートを潜れない可能性は想定されていたみたいだ。ちゃんと配達対象になってるよ。近い内に担当配達人が届け

に…、ん?」

言葉を切ったジブリールは、目を細めて画面を凝視する。

「おかしいな…。このケース、配達対象指定されたのは三ヶ月前だ…」

「なんやて?」

画面に顔を近付けたミカールは、白い毛に覆われた太い指が示す文を見つめ、眉根を顰めながら喉の奥で唸る。

「あ〜ん?どういうこっちゃコレ?」

「変だねぇ?えぇと…」

ウインドウ内の文字が高速でスクロールし、ケースに関わる詳細な履歴を読み取るジブリール。

「…このケース、保留設定がかけられてる…」

やがて、白熊がスクロールを止め、問題の箇所を指し示すと、ミカールとムンカルは揃って『何!?』と声を上げた。

「保留設定ケースて…、何でや!?」

「保留設定ケースって…、何だったっけな?」

ミカールとムンカルが口々に言い、

「ムンカル!オドレぇ!ちゃんと従務規則覚えとけて何べんもゆうとるやろが!」

「がはははは!悪ぃ悪ぃ!今度復習しとく」

ミカールに怒鳴られたムンカルが悪びれた風もなく声を上げて笑う。

ジブリールの方は怒るでもなく、「簡単に言うと…」とわざわざ説明を始めた。

「保留設定ケースっていうのは、通常の配達業務から外されたケース…、つまり何らかの事情があって配達が見送られた、あ

るいは届けられなかった物で、因管預かりになっているケースさ。通常の配達からは外れて、別に手配された配達人が届ける

ようになる。稀なケースだけど、ムンカルはまだ担当した事無かったかな?」

「ねぇなぁ。あったら流石に忘れてねぇと思うぜ?」

「…そらどうやろな…?」

ミカールがジト目で睨むが、ムンカルは気付いていないふりを装う。

「それで、このケースの場合は…、配達相手方不明…、届け先を捕捉できなかったらしい」

「相手方不明って…、やっこさんちゃんと居やがったぜ旦那?」

「そうだねぇ。そこがまた妙だよねぇ」

「単に担当したヤツらがヘマしとっただけなんやないんか?例えば、あのヘボ共みたいな配達人が長期担当しとったとか…」

不思議そうに首を傾げたジブリールの横で、不機嫌そうに口を開くミカール。

疑わしげな獅子とは対照的に、北極熊はモニターを確認しながら「大丈夫」と、確信を込めて大きく頷いた。

「発生当時の地区担当者、オレも知ってる配達人だけれど、凄く真面目だ。問題があるような子じゃないよ」

「そか。んじゃホンマにめっからんかったんやろか?…さて、どないしよか…」

腕組みした獅子に、虎はニヤリと笑って見せる。

「ミック。これ、俺があの首無しライダーに届ける訳にゃ行かねぇか?」

片眉を上げたミカールは、胡乱げにムンカルを見遣る。

「やっとオフになったっちゅうのに、なんでまたそない酔狂な事…」

「ぶっちぎられたまんまじゃ腹の虫がおさまらねぇ。それに、誰かが配達してやんなきゃいけねぇだろうが?」

ムンカルの顔をしばし無言で見上げていたミカールは、やがて小さくため息を吐き、ジブリールの背中を肘でグリッと押す。

「見ぃジブリール。お前のせいやぞ?ムンカルにまでおせっかいの虫が感染しよった…」

「え?オレのせいなの?」

自分の顔を指差しながらきょとんと首を傾げて見せたジブリールを前に、疲れたような表情を浮かべて肩を落としたミカー

ルは、「はふぅ〜…」と、盛大なため息を吐いた。