パンダズネスト

やっと過ごしやすい気温になり始めた八月半ば、心地良い風が吹く昼下がり。

畑と牧場が大半を占める静かな町。

一軒の日本家屋、その二階の窓から、白黒の丸っこい顔がぼんやりと空を眺めていた。

窓枠に片肘をついて外を眺める、目の周りと耳が黒い丸顔の青年は、丸々太ったジャイアントパンダである。

袖から覗く黒い腕も、短パンから覗く黒い脚も、とにかく太く、丸っこい。

青の半袖ティーシャツは、むっちりとした胸と腹のラインがはっきり判る薄手のメッシュ。

太ももの丁度真ん中までの丈があるベージュの短パンは、暑いのかキツいのかそれともその両方か、ボタンを外してジッパ

ーを半分まで下げている。

青白ストライプのトランクスが、ティーシャツの裾と半開きの社会の窓から覗いているという極めてだらしない格好だが、

パンダ一人きりの部屋には、それを咎める者は居ない。

畳の上に腰を下ろし、窓際によりかかって頬杖をついているパンダは、名を笹木幸太(ささきこうた)という。

高校卒業まで過ごした畳敷きの六畳間、つまり実家の自室は、コータの体のボリュームからすれば少々狭苦しい。

大学進学と同時に引っ越し、必要な物はアパートに運び込んでしまったため、部屋の中は至って殺風景。

残っているのは敷いたままの布団と、上にあまり物が置かれていない勉強机、小さな箪笥、たったのそれだけ。

「…ひまぁ…」

まるでパンダの置物のように、それまで全く動かなかったコータは、ぼそっと呟いた。

「昼寝でもしよっかな…」

先程起きて昼食を摂ったばかりにも関わらず、そんな事を呟きながらのっそりと腰を上げ、布団に歩み寄る。

そして枕の位置を直していると、木目のドアがトントン、と音を立てる。

「兄ちゃん、居るぅ?」

「ん〜」

コータがシーツを整える手を止め、生返事を返すと、ドアを開け、人間の少年が顔を覗かせた。

すらりとした細身の体付きの、やや小柄な少年は、コータと同じメッシュの半袖に、膝下までのグレーのハーフパンツを身

につけている。

サラサラした髪を耳が隠れるほどに伸ばしており、細面の顔は目が大きく、少し幼い印象を受ける。

少年はその両手に、半月形に切られた西瓜を乗せた盆を持っていた。

「西瓜切ってきたよ」

「お。あんがとケーイチ」

笹木恵一(ささきけいいち)、13歳。全く似ていないが、コータの実の弟である。



お盆の四日間、バイト先である宅配業者は中元などで忙しい時期なのだが、幸運にもバイトのシフトから外れたコータは、

実家に帰ってきていた。

実は、コータの地元は現在借りているアパートがある街から、さほど離れてはいない。

ローカル線の快速を利用すれば、片道一時間少しの距離である。

そんな程近い実家に、しかしコータが帰る事は滅多にない。

それは、地元に戻れば、高校時代の友人達と顔を合わせる機会が増えるからである。

そもそも、通おうと思えばさして苦でもないのに、わざわざアパートを借りているのは、地元に居たくないというのが一番

の理由であった。

高校時代に味わった失恋を思い出してしまうので、帰って来ても誰とも会おうとはしないし、あまり出歩く事もない。

よって、今回も帰郷以来、コータは殆ど外を出歩かず、家の中でゴロゴロしていた。



部屋の真ん中で胡坐をかき、シャリシャリと西瓜を齧りながら、コータは視線をちらっと落とし、弟を見る。

「…何してんの?」

「くつろいでんの」

胡坐をかいたコータの太ももに頭を乗せ、真下から顔を見上げながら、ケーイチはしれっと応じる。

「………」

コータは少し黙った後、

シャグシャグシャグシャグシャグっ

「わっぷ!汁!汁落ちて来てるって!」

勢い良く西瓜を齧り始め、跳んだ果汁が顔にかかったケーイチは、両手で顔を覆って抗議する。

「そんなトコで寝ようとするのが悪い」

「えぇ〜?いいじゃん!たまに帰って来た時ぐらい甘えさせてくれたってぇ!」

(甘えたいのはこっちだって…。ナガサワさんに…)

弟の抗議を聞き流しながら、コータは心の中で呟く。

二人の関係は相も変わらずで、小旅行を経た後も特に変化は無い。

いや、あるにはあるのだが…、

(なんか…。旅行から帰ってから、ナガサワさん張り切り始めたっていうか…、前にも増してデートセッティングペースが早

いっていうか…)

コータにとっては、あまり有り難くない変化であった。

少し切ない気分に浸っているコータには全くお構いなしで、ケーイチは兄の太ももの上で頭を動かし、落ち着くポジション

を探し始める。

「ケーイチ、くすぐったい」

顔を顰めたコータの文句もなんのその、ケーイチは落ち着くポジションを探し当て、にへら〜っと笑う。

顔立ちは全く違うが、その緩んだ笑い方は、兄のものと実に良く似ている。

「あ〜、これこれ!兄ちゃんやわっこいから、最高の枕〜…!」

「母ちゃんにしてもらえばいいじゃんか」

「え〜?ヤだよ、中学生にもなって母親に膝枕とか〜」

(…兄ちゃんになら良いのか?)

とは思ったが、そう尋ねればはっきり「うん」と頷かれそうな気がして、コータは微妙な表情で黙り込む。

歳が離れている事もあり、幼い頃から兄に面倒を見られていたケーイチは、コータに良くなついている。

(子供っぽいのも、甘えん坊なのも、やっぱ兄弟だから似てんのかなぁ…)

そんな事を考えつつ、コータは皮だけになった西瓜を盆に戻し、ケーイチの額をぺちっと叩く。

「ほら、のきなって。兄ちゃん疲れてんの」

「うそだぁ。昼過ぎまで寝てたくせに」

「それでも疲れてんの!」

コータは弟の頭を両手で掴み、下から脚を抜いて畳の上に降ろすと、そのままのそのそと布団へ這ってゆく。

そしてごろっと仰向けに寝転がり、「ふぅ〜…」と息を吐きつつ、幸せそうな表情で目を閉じる。

…が、やがて顔を顰めながら薄く目を開け、首を起こした。

「…ケーイチ」

「ん?」

「…何してんの?」

「脚ダメだって言うから腹枕」

コータの視線の先には、横からかぶさるようにして、丸い腹の上に顎を乗せているケーイチの姿。

「…のいて」

「ヤ」

ケーイチは頬を膨らませて短く即答し、コータは困ったように眉間に皺を寄せる。

(なんか、久し振りに帰ってきたら、前にも増してベタベタして来るし…)

「のけぇ〜…!」

「ヤぁ〜!」

コータが頭を掴み、引き剥がそうとすると、ケーイチはコータのムニッとした脇腹を、

「ちょ、痛っ、痛い!痛いケーイチ!」

「むぎゅうー!」

両手で力任せにギュウッと掴んだ。

しがみ付く弟に、再度退くように抗議しようとしたコータは、

「せっかく帰って来たのに、兄ちゃんぜんぜん構ってくれないじゃん。だから勝手に構う」

しかし続いた言葉で何も言えなくなる。

コータは呆れたような、それでいて少し申し訳なさそうな顔をした後、

「寝返り打って下敷きになっても、知らないからな?」

冗談めかしてそう言いながら、眉尻を下げて笑いかけた。

「でへへ〜っ!」

ケーイチは満足気に笑いながら目を閉じる。

自分とは似ても似つかない弟の顔を眺めながら、コータは胸中で微かな、しかし無視できない不安が湧き上がるのを感じた。

ケーイチの事は可愛いと思うし、愛している。

だが、それは弟であり、庇護する対象としての愛情である。

自分とケーイチの関係は、ヨシノリと自分の関係に似てはいないか?そう、コータは感じた。

ヨシノリは確かに自分を可愛がってくれるし、優しい。色々と世話をやいてくれる。

だが、それは自分を弟のように、庇護すべき存在として見ているが故の優しさ…。

自分がケーイチに感じる愛おしさが、恋愛感情とは全くの別物であるように、ヨシノリが自分に感じているものも、もしか

したら恋愛感情には変化しないのではないだろうか?

弟の体重を感じながら、コータはその不安を、軽いため息と共に意識の片隅に追いやった。



「よ」

チャイムを鳴らしてすぐ、まるで待ち構えていたように、即座にドアを開けて顔を出した大虎に、休みを取って訪れたコリ

ーは、軽く片手を上げて挨拶した。

「なんだ、ヨシノリさんか」

「なんだとはご挨拶だな」

でっぷり肥えた大きな虎、寅大(とらひろし)は、苦笑いしたコリーに「あぁ、悪い悪い」と、鼻の頭を掻きながら詫びる。

「荷物が届いたのかと思ってなぁ」

「荷物?あ、これ土産な」

促されるまま玄関に上がりながら、永沢義則(ながさわよしのり)は網に入った西瓜を揺らして見せた。

「こりゃどうも。ん、タラバガニを注文したんだ。今日届くはずなんだけどなぁ…」

再び鳴ったチャイムに、ヒロは言葉を切り、耳をピクンと動かした。

「まいど〜!黒川急便です〜!っておぉう?」

宅配業者の茶色い和牛の中年は、ドアを開けるなり、驚いたように目を大きくした。

が、別にヒロがタンクトップにトランクスという、極めてラフな格好だったから驚いた訳ではない。

「おや、牛島(うしじま)さん。そういえば、先月からこっち方面の担当になったんだったか…」

「ナガサワさん?先生と知り合いなのかい?」

「友人です。大学の後輩でして」

職場の仲間であるコリーと牛は、可笑しそうに顔を見合わせる。

「っと、お届け物です。サインお願いします」

「はいはい。…どうぞ」

「はい確かに」

伝票のサインを確認したウシジマに、コリーは労うような視線を向けた。

「今日も出番でしたか…。忙しいですか?」

「だねぇ。仕分けまでごたついてて…。ったく、ササキが居りゃちっとは楽なのに、あいつ他のバイト連中の五割増し働くか

らなぁ…。誰だよ?盆のシフトからあいつ外したの…」

「ははは。ササキ君が年末もやってくれるなら、お歳暮時期には今回のようにはならないように、人事に言っておきますよ」

「ははっ、そうして貰えると有り難い…!」

笑みを交わした二人に、ヒロは首を傾げながら尋ねた。

「ササキは…、頼りにされているんですか?」

不思議そうに大虎を見たウシジマに、ヨシノリは笑みを浮かべながら説明する。

「ササキ君、こいつの教え子なんです」

「おやまぁそうだったか…。ははっ、世間は狭いねぇ!働き者ですよあの子は!随分と役に立ってくれてます」

ウシジマの返答に、ヒロは細い目をなお細めて、嬉しそうに微笑んだ。

「っといけねぇ、長々と…!失礼しました!」

「いやいやぁ、こっちこそ引き留めて、済みませんねぇ」

「お疲れ様ですウシジマさん、気を付けて」

ヨシノリと並んで、会釈しながら玄関から出て行く配達員を見送ると、

「…そうかぁ。ササキは頼りにされてるのかぁ…。働き者かぁ…」

ヒロは嬉しそうに、うんうんと頷いた。

「そうだ。今晩、ウチで飯食っていかないか?カニ鍋するんだ」

「この季節にか?」

「この季節だから、冷房を効かせた部屋で鍋をするんだよ。贅沢な気分になれるぞぉ?」

ヒロはタラバガニの納まった発泡スチロールを軽く叩きながら、心底幸せそうに笑う。

(そういえば…。ササキ君も、真夏に冷房の効いた中で食べるラーメンは最高の贅沢だとかなんとか言っていたな…?コンビ

ニ弁当好きなのと、体型だけでなく、そういう所も似通ってるな、元担任と…)

微妙な表情を浮かべて腕組みするヨシノリが、何を考えているかなど知る由もなく、

「西瓜も貰った事だし、カニもお裾分けしないとなぁ」

ヒロは機嫌良さそうに、太い縞々尻尾を左右にブラブラ振りながら、のそのそと部屋の奥へ引っ込んで行く。

「そういう事なら、ごちそうになるかな…」

元々、ヒロが暇なら誘って外食にでも行こうかと思っていたヨシノリは、有り難く申し出を受ける事にした。

「そうだ。ササキも呼んだらどうだ?まだウチに来た事無いしなぁ。さっきの配達員さんとの話を聞いた限りじゃあ、休みな

んだろう?」

「あ〜…、せっかくだが無理だ。ササキ君、今こっちに居ないんだよ。お盆中は実家に帰っている」

コータとお仲間とのお試しデート等をセッティングしようにも、お盆中は里帰りする者も多い。

そういった事情もあって、お盆くらいは実家でゆっくりして来たらどうだと勧めたのは、他でもないヨシノリである。

「なるほどなぁ。それで昼間からウチに来たのか」

大虎は台所に入り、冷蔵庫を開けながら呟いた。

「何がなるほどなんだ?」

冷えた麦茶をあてがったヒロに、座卓についたヨシノリは首を傾げる。

「ササキが居なくて、寂しいんだろう?」

「ふむ…。まぁなぁ。最近一緒に過ごす事が多いせいか、一人になると手持ち無沙汰になる」

さっそく西瓜を切り分けようと、再び台所に移動したヒロは、

(結構寂しがりやなんだよなぁ、ヨシノリさん…)

と、心の中で呟き、苦笑いした。



「あらあら、相変わらず仲が良いねぇ」

聞き馴染んだ声で、コータは浅い眠りから引き上げられた。

薄く目を開けると、ドアを開け、笑いながら自分達を見ているパンダの姿が目に入る。

「二人とも降りといで。夕飯だよ」

「うん…」

恰幅の良いおばさんパンダは、コータと、まだ寝ているケーイチとにそう声をかけると、先程コータが食べた西瓜の盆を手

に、階下へと降りてゆく。

「ケーイチ、起きろ。夕飯だぞ」

「ん〜…。あと…ごふ…ん…」

「ダメ。起きろぉ」

腹の上に被さっている弟の頭をガシガシ撫でながら大欠伸し、コータは顔を顰める。

しがみつかれて眠っていたせいで、じっとりと汗をかいている事に気付いて。



家族四人で食卓を囲み、夕食時のニュースを眺めていたコータは、早々と食事を終えて席を立った父に視線を向けた。

「父ちゃん。出かけんの?」

「ああ、岩隈(いわくま)さんちの牛舎までな。調子良くないのが居るらしいから」

筋張った細身の身体をしたコータの父は、人間である。

顔立ちや体型、種族から見ても、ケーイチが父親似である事は疑いようもない。

獣医であるコータの父は、肉牛の飼育が盛んなこの近辺では非常に重宝されている。

そこの息子がケーイチの友達だったので、コータは苗字を聞いただけで、何処の家なのかすぐに思い出せた。

「イワクマさんって、牧場やってる黒熊さんち?」

尋ねたコータに、父は「ああ」と頷いて応じた。

「じゃあ、行ってくる」

「はいな。気を付けて」

玄関で夫を見送ると、コータの母は戻って来るなりため息をついた。

「仕事熱心なのも、頼まれると断れないのも、あの人の良いトコなんだけどねぇ。せっかく家族が揃った時ぐらい、ゆっくり

食べてきゃ良いのに…」

「そういう、真面目で人の良いトコに惚れちゃったんだろ?母ちゃんは」

「ま、そういう事さねぇ」

コータがからかうと、母パンダはニカッと、歯を見せて笑った。

昔、母が飼っていたハムスターが体調を崩した際に、早逝した父親の後を継いだばかりの、まだ駆け出し獣医だった父が自

宅を訪れた。それが二人の馴れ初めだと、兄弟は聞いている。

折悪く梅雨の最中の出来事だったが、「雨の中を病院に通わせたのでは患畜に負担がかかる」と、父は連日続く雨の中、距

離のある母の家まで通い続けた。

派手さは無く、むしろ地味とも言える若い獣医の、その素朴で誠実な人柄に、いずれ兄弟の母となるパンダは、徐々に惹か

れて行ったのだという。

「「あたしを嫁にして下さい!」って言った母ちゃんを、あの人はまん丸にした目でじぃ〜っと見てねぇ。たっぷり二、三分

は黙った後に「私なんかで良いんですか?」だもんねぇ…。どこまで腰が低いんだこの人は?って、告白した母ちゃんが苦笑

いだったよ」

かつて兄弟が、告白はどっちからだったのか?と尋ねると、カラカラと笑いながら母はそう答えた。

実に両親らしい。と、二人は声を揃えて笑ったものである。

その時の事を引き合いに出し、母親と談笑していたコータは、ふと視線を横に向けた。

先程から黙り込んでいたケーイチは、何故か、硬い表情を浮かべている。

思えば、父が出て行った辺りから、一言も発していないような気もした。

兄の視線に気付いたのか、俯き加減で手にした茶碗を見つめていたケーイチは、

「…ごちそうさま…」

と、珍しく元気のない声で言うと、空いた食器を持って台所に向かった。

訝しげに首を捻ったコータは、この時はまだ知らなかった。

自分が居ない間に、弟の身に何が起こっていたのかという事には…。



一方その頃、ヒロのアパート。

二人で鍋をつつき、のんびりと、見方によっては寂しく、恋人同士でもない、いい歳をした男二人だけで夕食を摂った後、

ヒロは一冊のアルバムを取り出して来た。

「お、ササキ君だ」

ヒロが持ってきたコータ達の学年の卒業アルバムで、集合写真に写っているパンダを見つけたヨシノリは、顔を綻ばせる。

写真の中のコータは黒い学生服姿で、緊張しているのか、硬い表情でこちらを見ていた。

「若いなぁ。…と言いたい所だが、さすがに今とあまり変わらないな…」

「ははは。まぁ、二年も経ってないからなぁ」

ビールを飲みながらアルバムを捲っていたヨシノリは、

「しかし…、ラグビーのユニフォームも、なかなか良い物だな」

と、ユニフォームにヘッドギア姿の、ラグビー部の集合写真を眺めながら呟く。

春に撮られたものなのだろう、集合したラグビー部員達の後ろでは、グラウンドを囲む桜が花を咲かせていた。

「格好良いか?」

「う〜ん…。格好良いと言うより…」

写真の中で、照れたような笑みを浮かべているコータを見つめつつ、

「なんだか可愛い、かな?」

ヨシノリは優しく微笑む。

白い短パンに、紺色の長袖、そして黒いヘッドギアを身に付けたコータは、今見るよりも若干幼い顔立ちをしていた。

しばらく写真を眺めていたヨシノリは、コータの隣に立つ、がっしりした体付きのジャーマンシェパードに視線を移す。

「…なるほど、この子が…」

不敵な面構えのシェパードを見ながら、

「ふむ…。悪いが俺の方が数段良い男だな…」

と、ヨシノリは冗談めかして呟き、ヒロは、

「ははは。張り合ってどうするんだ?」

と、可笑しそうに笑った。



「コータ。お醤油とサラダ油買って来て」

翌日の午前十時。今日もゆっくり起き出し、食事を求めて階下へ降りたコータは、母親から「おはよう」よりも先にそう頼

まれた。

昨夜飲んだ分でココアも切れているし、杏仁豆腐も食べたい。

お使いついでに私的な物を買おうと思い立ち、コータは快く買い物を引き受け、家を出た。

ビッグスクーターで大型スーパーに乗り付け、目当ての物と頼まれ物を購入し、店を出るなりまずココアを一本開封する。

駐車場の端に止めた愛車に尻を預けてストローを咥え、スーパーの前を通る空いた道路をぼーっと眺める。

やがて、ジュゴーっと音を立ててココアを空にしたコータは、ジャージの上下を着た体格の良い少年が、前の道を走って来

るのに気付き、目を細くした。

小豆色のジャージを着込んでジョギングしていたその少年は、コータに気付くと、一瞬、驚いているような、不思議がって

いるような、微妙な表情を浮かべた。

(あれ?誰だったっけ?確かに見覚えが…)

速度を緩め、駐車場の柵を挟んでコータの前で立ち止まった少年は、「ども…」と呟きつつ、ペコッと頭を下げた。

全体的に丸みを帯び、太り気味ながらも、がっしりした骨太の体付き。

全身を覆う、モサモサした、クセの強い黒い毛。

コータを縦横比そのままに少し小さくしたような、幅のある体型をしている。

熊少年の顔を見つめるコータの脳裏に、昨日の夕食で父と話した際の事が蘇った。

「あ!イワクマさんちの!?」

思い出したコータが、すっかり大きくなっている事に驚きながら口を開くと、ケーイチと同級生の黒熊は、コクリと頷いた。

しばらく会っていなかったが、そこは弟の友人、まだ幼かった頃から何度も見ている相手である。

中学生となり、見違える程逞しく成長していたが、顔には幼かった頃の面影が見い出せた。

「ラグビー初めたんだったっけ鉄也(てつや)君?ケーイチと同じだ」

テツヤと呼ばれた黒熊少年は、ケーイチの名が出た途端に、ピクッと耳を震わせた。

「…です」

少し表情が硬くなった事に気付き、コータは訝しげに、微かに目を細める。

テツヤは少し黙った後、自分より頭一つ以上背が高いコータの目を、窺うように下から見上げた。

「あの…。ケーちゃん、元気にしてますか?」

「ん?うん、元気だよ」

おずおずと発せられたテツヤの問いに、コータは微かな違和感を覚えた。

「ケーちゃん、お兄さんに、なんか言ってませんか?」

「へ?えっと…、なんかって、なんだろ?」

コータは首を捻り、テツヤは気まずそうに俯く。

「いや、なんも言ってないなら、良いです…。あ…、僕、そろそろ…。じゃ…」

不自然に会話を打ち切り、ペコッと頭を下げてから走り出したテツヤを見送ると、取り残されたコータは、眉根を寄せて首

を傾げる。

(ケーイチは元気か?…何でそんな事、地元離れてるおれに訊いたんだろ…?テツヤ君の方が、しょっちゅう顔をあわせてる

だろうに…)



「お邪魔〜っ!」

「来んなっての!」

丁度頭を洗っており、シャンプーの泡だらけになっていたコータは、目を開けられないまま、乱入者に叫んだ。

兄が入っている所を見計らい、浴室に侵入したケーイチは、

「兄上のっ!お背中ざざっと流しましょー!」

コータの拒否を完全に無視し、ボディーシャンプーをひっつかむ。

「昨日もやったろ?止めろよもぉ!」

文句を言うパンダの背に泡立てたタオルを当て、ケーイチは満面の笑みを浮かべた。

「遠慮しない遠慮しない!うむ、くるしゅーない!」

背中を流すとは建前で、実際には兄を泡だらけにして遊んでいると言った方が正しい。

辟易してはいたものの、無下に追い出すのも躊躇われ、結局コータは弟のおもちゃにされる。

(元気か、だって?…訊くまでも無くいつだって元気だよケーイチは…)

ため息をついた兄の背を、洗うと言うよりは手触りを楽しむように、体毛の中に指を突っ込んで弄り回しながら、ケーイチ

は唇を尖らせた。

「良いよねぇ兄ちゃんは、力は強いし、体はおっきいし、前衛向きでさ」

「そう言えば、もうポジション決まったのケーイチ?」

「まだ。ってゆーか、練習についてくだけでいっぱいいっぱい。レギュラーの座は遠いぃ〜っ!」

コータの影響なのか、ケーイチも中学からラグビーを始めている。

が、体格に恵まれた訳でもなく、本格的にスポーツに打ち込んだ経験も無く、体力も無いケーイチは、練習について行くだ

けでやっとであった。

それでも、かつて応援に行った大会で見た、相手のスクラムを片翼側からグイグイ押し崩して味方の走破ラインを確保する、

実に力強い兄の姿は、それまでスポーツに興味を示さなかった、運動音痴の少年をも魅了して止まなかったのである。

ツートンカラーの重戦車。

ケーイチは試合中の兄の姿を、憧れを抱いてそう見ていた。そして、彼の友人も。

「一緒に始めたのに、テッちゃんはもう右プロップに決まっ…」

コータの背中をグリグリと弄り回していたケーイチの手と言葉が、同時に止まった。

「あ、そういえば今日テツヤ君に会ったぞ。自主トレしてたっぽい。熱心だなぁ」

昼間黒熊に会った事を告げたコータは、やや遅れて、ケーイチの雰囲気の変化に気付いた。

「…ケーイチ?」

「うん?」

振り向いたコータの顔を、顔を上げたケーイチが見つめる。その顔は、笑顔だった。

「テッちゃんは凄いよ。今年の大会にもメンバー入りして、何回か試合に出して貰ってた。ぼくとは大違いだね」

笑顔でそう言ったケーイチの声は明るかった。

だが、コータの耳には、その声は少しばかり硬い響きを伴っているようにも聞こえていた…。



寝る前に冷房できっちり冷やした部屋で、コータは心地良く眠っていた。

トランクス一丁で布団の上にひっくり返り、大の字になったパンダの他に、しかし部屋にはもう一つ、人影があった。

音を立てないよう、眠っているコータにそっと近付いた影は、布団のすぐ横に座ると、間近でその寝顔を見下ろす。

半開きの口から漏れる、コータの寝息だけが聞こえる静寂の中、影は静かに身を屈め、コータに覆いかぶさった。

「く〜…。くかっ…?」

首筋を撫でる感触に、コータの寝息が途切れ、目が薄く開く。

夢の世界から引き戻され、ぼんやりとしたままの目に映ったのは…。

「ケーイチ…?」

間近で自分の顔を覗き込む弟の顔を目にし、コータは寝ぼけ眼を何度か瞬きさせる。

「兄ちゃん…」

ケーイチは潤んだ熱っぽい瞳でコータを見つめ、そして顔を近付けた。

コータの目が、大きく見開かれた。

湿った音。塞がれた口。唇の感触。

実の弟に唇を奪われたコータは、息をするのも忘れ、完全に硬直した。

コータに覆い被さり、その太い首に腕を回し、一心不乱に唇を吸い、口の周りを舐めるケーイチ。

かなりの時間固まっていたコータは、

「!!!」

我に返ると、ケーイチの両肩を掴み、引き剥がした。

「け、ケーイチ!?お前、なに…!」

身を起こしたコータは、肩を掴んだままのケーイチの顔を見つめ、何故こんな事をするのか問い質そうとしたが、あまりの

事に上手く言葉が出て来なかった。

「兄ちゃん…。ぼく、苦しぃんだ…」

ケーイチは涙を溜めた目で兄の顔を見つめ、途切れ途切れに言葉を吐き出す。

「胸が、苦しくて…。兄ちゃん…!」

潤んだ瞳で自分を見つめて来る弟を前に、コータは激しく動揺する。

そんな兄の手を振り解き、ケーイチは再びコータに抱き付いた。

勢い良く胸に飛び込まれ、不意を突かれたパンダがゴロンと後ろに倒れると、ケーイチは再びその唇を奪う。

「ちょ、ちょっと待てってケーイチ!落ち着け!落ち着いて!」

顔を掴んで引き剥がそうとするコータに、

「好きなのぉ!」

ケーイチは縋るような目で、そう声を上げた。

「ぼく…、兄ちゃんが、好き、なのぉ…!」

衝撃的な、そして予想もしていなかった弟からの告白に、コータは完全に硬直する。

「お、おれだって、ケーイチが好きだよ…」

自分にのしかかっている、余りにもか細く軽い弟の顔を見つめ、コータは呟く。

「違うの…。ぼく、兄弟だからとか、そんなじゃなく…、兄ちゃんの事が…」

愕然として、コータは言葉を失った。

弟の言葉の意味が解った。兄弟としてではない、「好き」の意味が。

「ま、待て。待て待てケーイチ…。兄ちゃんとお前は兄弟で…、しかも男同士で…」

「それでも、ぼく、兄ちゃんが好きなんだ!」

頭の中で様々な事がグルグルと巡り、コータは気が遠くなるような感覚に囚われた。

(や、やばい…!なんだこれ?ケーイチが、おれの事…?久々に帰って来てから、何か前にも増してベタベタして来るとは思っ

てたけど…、まさか、こんな…)

衝撃の告白でドックンドックンと心臓が大きく脈打ち、喉がからからに渇く。

(こ、ココア飲みたい…。じゃない!確かに様子がおかしい事が何回かあったけど、ケーイチ、まさかずっと、おれの事を意

識してた…?)

目を潤ませたケーイチの顔が、また近付いて来る。

(拒否した方が良いのか?でもそれじゃケーイチが傷付かないか?そもそも男同士以前に、兄弟間の恋愛ってマズくない?元

気かって聞かれたけど、もしかしてこういう事で悩んで元気が無かったりしたのか?昨日の夕飯の時も黙り込んでたよな?今

日の風呂でも急に静かになったりして…ん?)

互いの唇が三度触れ合おうとしたその寸前、コータの頭の中で、バラバラだった何かが、おぼろげな輪郭を為した。

「ケーイチ」

弟の肩をしっかり掴み、コータはその目を真っ直ぐに見つめた。

「テツヤ君と、何があったんだ?」

コータがその少年の名を口にした途端、ケーイチの体がピクッと震えた。

「て、テッちゃんが…?何…?」

「訊きたいのは兄ちゃんの方だ。テツヤ君の様子、思い出してみたらちょっと変だった。テツヤ君の事が話題に出た時のケー

イチも、やっぱり様子がおかしかった」

驚いたように小さく息を吸い、黙り込むケーイチ。

そんな弟の様子を見ながら、コータは「やっぱり」と確信した。

昨夜の食事の際、ケーイチが黙り込んで元気が無くなっていたのは、父がテツヤの家に行くと言って出かけた辺りからだった。

今日一緒に入った風呂でも、テツヤの話題が出た途端にケーイチは静かになった。

そして、昼間会ったテツヤは、ケーイチの事を気にしていたような素振りを見せていた。

動揺のあまりグルグルと思考が巡ったコータの頭の中で、今ではそれらが一つに繋がっていた。

「何があったんだ?ケーイチ…?」

コータの問いに、

「う…、ううぅっ…!」

ケーイチは俯いて肩を震わせ、泣き始めた。

「ぼ…く…、ヘンなんだっ…!お、男の事が…、好きになっちゃう、みたい…!」

コータは目をまん丸にし、泣き崩れた弟を見つめる。

(…うそ…?ケーイチも、おれと、同じ…!?)

「ヘンでしょ?ヘンでしょお?ぼく、ヘンでしょぉ…?」

か細い声を洩らしながら泣き続ける弟を前に、しばし迷った後、コータはその逞しい両腕で、か細い体をそっと抱き締める。

「不安だったんだな?ケーイチ…」

コータの肩に顎を乗せて、ケーイチはヒックヒックとすすり泣きながら、小さく頷いた。

震えている小さな弟の体をギュッと抱き締め、コータはその背中を優しくなでてやる。

「良く解る…。兄ちゃんも、同じだから…」

兄の告白を聞き、ケーイチはピクッと体を突っ張らせた。

コータは苦笑いを浮かべて続ける。

「おれもおんなじだ。好きになった相手、男なんだ…」

「兄ちゃん…も…?」

「うん…。おんなじ。ケーイチとおんなじだよ…」

同じだ。を繰り返し、コータは弟の背中をなで続ける。

上手く言葉にする事ができず、ただ「おんなじだ」を繰り返す事しかできなかったが、コータが弟に伝えたかったのは「自

分も同じだ。お前だけじゃない」という励まし。

かつてヨシノリにかけられた言葉で、自分がどれだけ救われたか、どれだけ安心できたか、コータはあれ以来、片時も忘れ

た事は無い。

コータは、弟が抱える不安を和らげてやりたかった。

あの時、ヨシノリが自分にそうしてくれたように。

「おれが好きな人な…、こう言ったんだ…。「普通と違う所は個性だ。変わってるっていうのは、ちょっと個性が強いだけの

事だ」って…」

「こ…せい…?」

「うん、個性だ。おれがデブなのも、父ちゃんが真面目過ぎるのも、母ちゃんの声がでかいのも、俺達が兄弟揃って男を好き

になるのも、みんなみんな、ただの個性だ」

きっぱりと言い切った兄の言葉に安心したのか、ケーイチの体から力が抜けた。そして…、

「う、うぇっ…、うえぇぇぇぇえええっ…!」

兄に抱き締められたまま、ケーイチは、ボロボロと、安堵の涙を流し始めた。



「兄ちゃん…」

「ん?」

「ごめん…ね…」

しばらくして泣き止んだケーイチは、ぼそぼそと、コータに謝った。

「気にすんな。…ちょっとは落ち着いた?」

「うん…」

コータに抱き締められたまま、その柔らかい体にしがみ付き、ケーイチはこくりと頷く。

「何があったか、話せそう?」

コータがそう尋ねると、そっと体を離したケーイチは、顎を引くようにして、再び小さく頷いた。



それは、夏休みに入る直前の事であった。

入部したばかりの部活が終わった帰り、ケーイチは、自分より一回り大きな体をした黒熊と一緒に、人気の無い校舎裏にやっ

てきた。

「何ケーちゃん?大事な話って?」

錆の浮いた焼却炉に寄りかかり、テツヤは興味深そうに尋ねた。

「う、うん…!えっと、ね…」

ケーイチは少々ドギマギしながら、切り出すタイミングを計り始めた。

ケーイチがその気持ちに気付いたのは、一緒に部活に入ってからの事であった。

それまでは仲の良い、それでも普通の友達だったテツヤに、他の友人達とは違う何かを抱き始めていた。

小学校でも一緒だったにも関わらず、その気持ちが芽生えたのは、本当に急な事だった。

「あのさ、て、テッちゃん…」

「うん!なになに?」

興味津々のテツヤに、ケーイチは、

「ぼく…。テッちゃんの事が、好きになっちゃった…」

と、俯きながら告げた。

テツヤはポカンと口を開け、ケーイチを見つめる。

「え?」

「ぼく、なんでか解らないけど…、テッちゃんの事、好きに…」

「ちょ、ちょっとまってケーちゃん!」

慌てた様子で両手を顔の前で振り、テツヤは不思議そうに首を傾げた。

「その、僕もケーちゃんの事、好きだけど…。なんかその…、えっと、もしかして…、ちょっと違う?」

なんと表現して良いか判らず、しどろもどろになりながら尋ねたテツヤに、それでも意味を汲み取ったケーイチは、顔を真っ

赤にしながらコクリと頷いた。

「…そ、そう…」

テツヤは俯いているケーイチを眺めながら、しばらく黙り込んだ後、腕組みして上を見上げ、それから足元に視線を落とし、

「う…、ううううううううううっ!」

唸りながら、頭を両手でかきむしり始めた。

しばらくの間、苦悶するように唸っていたテツヤは、やがて「ふぅっ…」と息を吐くと、上目遣いにケーイチを見つめた。

「ご…、ごめん…。僕、恋愛とか、男同士でそういうのとか、良く解んない…」

ケーイチはピクンと体を震わせ、

「…そう…、だよね、やっぱり…」

そう呟き、ややあってから、顔を上げた。

そして、友人達と話しているときに見せるような、いつも通りの笑顔で、

「ご、ごめんね!?急にこんな事言って?ぼ、ぼくもさ!こんな気持ち、初めてだったし、どうしたら良いかわかんなくて!

で、告白っての?してみたら、良いのかなぁって!」

いやに早口で話しながら、テツヤに笑いかけた。

「ごめんケーちゃん。今までどおりで、ダメかな?僕…、ああもう…!上手く言えないけど、やっぱり解んない…!」

困ったように顔を顰めるテツヤに、ケーイチは笑いかける。

「う、うん!今までどおりで!忘れちゃって今の話っ!あ、あは、あはははは!」



「なるほど…」

話を聞き終えたコータは、完全に俯いて耳まで真っ赤にしている弟を見つめながら、

「ノンケに惚れるって、切ないよな…」

かつて自分が体験談を話した際に、ヨシノリが呟いたセリフと同じ事を、意図せずに呟いていた。

思えば、自分とテツヤは体型も似ている。

テツヤへの片想いが実らなかった事。

自分が同性愛者であると気付いた戸惑い。

相談できる相手も居なかった、吐き出し先の無い不安。

それらが渾然となって溢れ出し、昔から甘えてきた兄である自分に対して、あの行動に及んだのだろう。

これほど論理立てて考えた訳ではないが、コータは漠然と、弟の行動の原因を、そう感じた。

「テッちゃんはさ…。今までと変わらないんだ…。でもさ、ぼくはまだ、あの気持ちが消えなくて…。兄ちゃんなら、優しい

から、甘えさせてくれるから、ぼくの気持ちにも答えをくれるんじゃないかって…」

ぼそぼそと呟く弟を見ながら、しかしコータは安堵していた。

もしかしたら、自分と同じような拒絶を味わったのかもしれない。そう、心配していたのである。

だが、話を聞く限りには、ケーイチとテツヤの関係は、かつての自分と友人のような物にはなっておらず、まだ良好な関係

を保っているらしい。

昼間会った際のテツヤの態度も、思い返してみれば、ケーイチの様子を心配していたようにも思えた。

「ごめん、兄ちゃん…」

「謝らなくて良いんだ、ケーイチ。でも、兄ちゃんを好きっていうの、やっぱり違うだろ?テツヤ君に感じるのとは?」

少し黙った後、ケーイチはこくりと、申し訳無さそうに頷いた。

「チューしておいて、あれなんだけど…。やっぱり、ちょっと違った…」

苦笑いしたコータは、腕を伸ばし、弟の頭をワシワシとなでた。

テツヤの代償として自分に迫ったのだと気付いた時から、コータの頭は冴え始めていた。

キスも初めてだったのだろう。

詳しい知識も無く、映画やテレビで見る恋愛の象徴としてのイメージしか持っていなかったケーイチは、闇雲に口を重ねて

すり寄せ、舐め、とりあえず吸ってみたりもしたが、どうするのが正しいのか、キスをしながら色々と試していたのである。

「ぼくさ…。テッちゃんとひっついた時とか、チンチンがボッキすんの…。おっきくなって、苦しくなんの…。兄ちゃんも、

好きな人とくっつくと、そうなる?」

「なる?ってお前…、う〜ん…、たぶんなると思う…」

(そんな、この歳にもなって無駄にひっつけないし!…ひっつきたいけどさ…。ってかケーイチはひっつく機会あんのか?テ

ツヤ君と?)

まじまじと弟を見つめたコータは、

(あ〜…。まぁ、昔からひっつきむしだもんな、ケーイチは…。テツヤ君にも今更不自然には思われないのか?)

と、少し納得する。

「兄ちゃん…。もしかしてボッキしてる?」

「へ?」

考え事を中断し、間の抜けた声を上げたコータは、弟の視線を追って自分の股間へと目を向け、

(う、うそぉ!?もしかして、キスで興奮した!?)

小さなテントが出来上がり、あまつさえ先端が湿っているトランクスを凝視し、顔を強張らせる。

「…もしかして、お漏らし?おねしょ!?」

染みに気付いたケーイチが、興味深そうに身を乗り出す。

七つも下の弟のキスで勃起し、なおかつ染みまで拵えたパンダ兄は、かつてない程ヘコんだが、おねしょなどと勘違いされ

てはさすがに困る。

それなりにある兄の威厳を保つべく、コータはある事を思いついた。

「…これはな、おねしょじゃないんだ。実は大人の男の印で、これが出るようになると一人前なんだ」

「大人の男…?一人前の印…?」

「そう!大人の男の印!これは精液って言ってだな…」

コータは弟に対し、簡単に精子と精液のレクチャーを行う。

真剣に聞いている弟に、

「…で、精液を出すと、勃起したチンチンは少し落ち着くんだ。…という訳で、この精液を出せるようになると一人前の男。

そのうち保体の授業でやると思う」

と、少しばかり私見の入った内容の説明をしたコータは、ちょっと得意げに胸を張る。

「兄ちゃん」

「ん?」

「ぼくも精液出したい」

キラキラとした目で自分を見るケーイチの顔を見ながら、説明したのは失敗だったと、兄は悟った。

「ぼくも一人前になる。ボッキしてチンチン苦しいの…、精液出せば、落ち着くんでしょ?」

「………」

コータは少しの間悩んだが、ふと考える。

(…13歳って言ったら…、オナニー教えてやっても、大丈夫な歳かな…?)



布団の上に座り、背中側に手をついたケーイチに股を広げさせ、コータはその性器を手に取った。

未発達な性器はしかし、しっかり勃起している。

ひくひくとしている生白いソレを前に、コータは、

(良く見ると…、まさか…いやでも…、う、うそだろ!?越された!?)

まだ陰毛すら生えていない弟にサイズを追い抜かれ、軽くヘコんでいた。

「ど…、どうしたの?兄ちゃん…」

顔を真っ赤にし、上目遣いに兄を見つめながら、ケーイチはおずおずと口を開く。

「どうもしてない…。じゃあ、良いか?いくぞ?」

頷いたケーイチの股間に手を伸ばし、コータはそっと、その性器を握った。

ピクンと身を震わせ、目を閉じた弟のソレを、ゆっくりとしごき始める。

「んっ、んっ…!兄…ちゃ…!なんか、チンチンがむずい…!じんじん、するぅ…!」

「ちょっとだけの我慢だぞ?すぐ気持ち良くなって来るから…」

しごく手を休めずに言いながらも、何故かコータまで興奮し始めていた。

「に、兄、ちゃ…!も、漏るっ!なんかつまってきた!おしっこ、漏るぅっ!」

「おしっこじゃない。つまった感じとちょっと違うだろ?」

「そ、そう…かもぉ…!あ、あぁっ!なんか、なんかもうっ!」

目を堅く瞑っていたケーイチは、身を起こし、コータに抱き付く。

「に、兄ちゃ…ん…!兄ちゃんっ…!」

始めて味わう刺激と快感に不安になり、ケーイチは必死になって兄にしがみつく。

そして、兄への恋慕からか、それとも防衛本能の為せるわざか、むっちりした兄の腹に手を這わせたケーイチは、

「ケーイチ、大丈夫だから。…って、ケーイチ!?ちょっ!おまっ!待っ…!」

そのまま丸い腹をなぞるように、右手を下へと滑らせた。

「ぼ、ぼくも…、兄ちゃんの…するぅ…!」

段がついた、下腹部のたっぷりした肉の下に滑り込み、ケーイチの手は兄のトランクスの中へ潜り込む。

「あっ!そ、ソコは…、だ、ダメっ!ダメ、ケーイチ!んひっ!?」

トランクスの中をまさぐった手に、サイズで負けてしまったソレをキュッと掴まれ、コータは声を上げる。

自分のものはもちろん、他人のものを弄るのも初めてなケーイチは、不慣れな手つきで、見よう見まねながらも、コータの

ソレをしごき始めた。

「ひっ!ひはっ!ちょ、ケー…イチ…!待っ…てぇ…!」

興奮し、勃起していたコータのソレを、ケーイチは必死に、少々乱暴にしごく。

クチュクチュと、余った皮と亀頭の隙間で、湿った音が鳴る。

(こ、このままじゃ…やられるっ…!)

コータは少々情けない気分になりながら、弟の性器をしごく手の動きを、少し速めた。

ピッタリと体を密着させ、互いのモノを弄りながら、呼吸を荒げた二人は絶頂へと登り詰めてゆく。

経験上有利なはずが、敏感なコータは、今夜が初経験のケーイチの拙い愛撫でも、易々と追い詰められていた。

「に、兄ちゃん…!なんか、ぼく、もぉ…!」

目尻から涙を零しつつ、ケーイチは高い声を洩らす。

「け、ケーイチ…!兄ちゃんも…、もぉ、げ、げんか…い…!」

荒い息をつきながら、コータもまた涙目になっていた。

先にしごいていたのに、弟より早くイかされそうになっている事が、相当にショックで。

「ん、んうぅううううっ!兄ちゃん…!にぃ…、あひんっ!」

「け、ケーイチ!ケー…んあぁっ!」

互いの肩に顎を乗せ、逸物をしごきあっていた兄弟は、同時に頂に達した。

ケーイチは初の射精でとうとうと精液を垂れ流し、コータはビュクッ、ビュクッと、体をブルブル震わせながら繰り返し射

精する。

「は、はぁ…、はぁ…」

「はひぃ、ひっ…、ふひぃっ…!」

脱力してもたれかかるケーイチの重みを感じながら、コータは、

(サイズで負けて…、耐久力でも負けた…!)

なんだか、泣けてきた…。



「さっきのが、オナニー」

「ん…」

処理を終え、疲れ果てたように布団の上でぐったりとしているコータの横で、腕枕して貰っているケーイチが、顎を引いて

頷いた。

ケーイチはコータの左腕に頭を乗せ、横向きに横たわり、兄の太った体にしがみ付いている。

モサモサした毛に覆われた、むにっと柔らかい胸の上に左腕を投げ出した状態で、ケーイチは小声で囁いた。

「ごめんね…、兄ちゃん…。さっきは、あんな事して…」

「もう気にすんなって」

小さく笑いながら応じたコータは、内心ではかなり安堵していた。

もしもケーイチが本当に自分を好きになっていたら、その時自分はどうしただろう?

弟だからと断るか、それとも、好きな人がいるからと断るか、あるいは…、断れなかっただろうか…?

そんな決断を迫られずに済んだことにほっとしつつ、コータは口を開いた。

「テツヤ君と似てるから、久々に会った兄ちゃんの事を、好きって勘違いしたんだな…」

ケーイチは無言で、申し訳無さそうに体を縮めた。

「なぁケーイチ?ずっと黙ってたけど、兄ちゃんも、高校の時に失恋したんだ。相手は、同じ部活の友達だった。兄弟揃って

変なトコまで似てるな…」

苦笑いしたコータは左腕を引き寄せ、少し驚いている様子のケーイチを抱き締めた。

「辛いと思うけど、兄ちゃんは、お前の味方だから…。お前や兄ちゃんと同じような人は、他にも居るから…。だから、一人

で悩むな?兄ちゃんに電話よこせ?な?」

「ん…。ありがと…」

コータにしがみ付き、やわらかく張った丸い胸に顔を埋めながら、ケーイチはか細い声で、しかし安心したように返事をした。

(でも…、ぼくがテッちゃんを好きになったのは、たぶん…)

それは、テツヤが何処となく兄に似ているからだ、とは、ケーイチはこの時も、そしてこの後も、言う事は無かった。

その言葉がきっと、大好きな優しい兄を困らせてしまう事を、何となく察していたから…。

「ねぇ、兄ちゃん…」

「ん〜?」

「あの…さ…。今日は、一緒に寝ても…いぃ…?」

おずおずと言ったケーイチを、コータはにへら〜っと笑いながら、少しばかりきつく抱き締めた。

「んじゃ、今日は抱き枕になって貰おう」

「ん…。ありがとぉ…!」

体を横にし、きゅうっと抱き締めてくれた兄の胸に顔を埋め、ケーイチは穏やかな表情で、眠りについた。

包み込んでくれるような、柔らかな感触と優しさに、身も心も丸々預けて。

小さな、愛おしい弟を抱き締めながら、コータはそっと安堵の息を漏らした。

(ヤバかったヤバかった…。初めてのくせに、結構気持ち良かったし…。おまけにキスまでされちゃったもんなぁ…)

「…ん?」

コータは薄く目を開ける、目の前には、安心したのか疲れたのか、もうすやすやと眠っているケーイチの顔。

(キス…。おれの…ファーストキス…。…ケーイチに…!)

また、泣けてきた…。



「や。おはよ」

スーパーの駐車場の端、愛車のビッグスクーターに尻を預けて片手を上げたパンダを目にし、ジョギング中だった黒熊は足

を緩めた。

「ども…」

少し気まずそうに会釈したテツヤに、コータは空になったココアのパックを畳みながら話しかけた。

「ここに来れば、また走ってるんじゃないかって思ったんだ」

コータは歯を見せて笑うが、テツヤは相変わらず気まずそうな表情を浮かべ、少し項垂れていた。

「聞いたよ。ケーイチから」

パンダの短い言葉で事情を察し、黒熊はピクンと肩を震わせた。

「…あの…。僕…」

俯き加減でおずおずと口を開き、か細い声を漏らしたテツヤに、

「あんがとね」

コータは目を細めて笑いかけた。

ビックリしたのか、目をまん丸にして顔を上げたテツヤに、コータは笑みを浮かべながら続けた。

「ケーイチやおれみたいに、男を好きになるのって、あんまり居ないと思う。気持ち悪がられても無理ないし、嫌われたって

仕方ない事なんだろう」

「え?」

淀みなく言ったコータの言葉に含まれた一言に、テツヤは少なからず驚いた。

「ケーイチやおれみたいに」、その言葉が意味する事に気付いて。

「実際、おれも友達に惚れた事があるんだ。同じ部活の仲間で、普通の趣味のヤツ…」

コータは思い出す。かつての想い人の事を。そして、その初恋が迎えた結末を。

「…でへへ…!気持ち悪いって、突き飛ばされちゃったけど」

苦笑を浮かべ、ペロッと舌を出したコータの前で、テツヤはひどく驚いた様子で「えぇっ!?」と声を上げた。

「友達…なのに…?」

「うん。それっきり、喋らなくなったけど」

ひどく驚いている様子の黒熊に答えながら、パンダは感じていた。「ああ、やっぱりなぁ」と。

「あれも、無理がない事だったのかもしんないって、今では思う。だから…」

コータは柔らかい笑みを浮かべて、心底ほっとしたように呟いた。

「ケーイチが最初に好きになった相手がテツヤ君で、本当に良かった…」

言われた黒熊の方は、きょとんとした顔でコータを見つめている。

「…え…?」

「ケーイチから話をされても、テツヤ君はあいつを嫌わないでくれた。心配すらしてくれた。そんなひと、そうそう居ないと

思う」

笑みを浮かべている友人の兄を前に、テツヤはしばし絶句した後、小さく、ほっと、息を吐き出した。

「…てっきり、怒られるんじゃないかと思ってました…。なんで断ったんだ、って…」

「ははは!それはないない!」

可笑しそうに笑ったコータを見て、テツヤは困ったように頭を掻いた。

「わかんないんです、僕…。ケーちゃんが言う「好き」とか、そういうの…。僕もケーちゃんの事は好きだし、大事な友達だ

と思ってるけど、やっぱそういうのとは、違うんですよね…」

「んー。ちょっと違うな」

「そりゃビックリはしましたけど…、でも、ケーちゃんが僕の友達なのは変わらないし…、できれば今まで通りに仲良くした

いんですけど…。なんかケーちゃん、あれ以来、僕と二人っきりになると、なんか硬くなっちゃって…」

(あ〜…、それはまぁ、無理ないかなぁ…)

コータは困ったように頬を掻く。

せっかく拒絶されずに済んだのだから、できればこの良い友人との関係は維持させてやりたい。

気まずさはあるだろうが、何とか自然に、今まで通りの付き合いはできないものだろうか?

そんな事を考えていたコータは、ある事を思いつき、口を開いた。

「あのさ。テツヤ君、午後とか暇そう?」

「え?はい、空いてますけど…」

何故そんな事を尋ねられるのか判らず、少し戸惑いながら頷いたテツヤに、

「じゃあ、ちょっとお願いがあるんだけど…」

コータは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、声を潜めて話し始めた。



「ほらほら、どしたどした?」

笑い混じりの余裕の表情を浮かべているコータと向き合い、

「んぎぎぎぎぎぃっ…!」

ケーイチは顔を真っ赤にし、歯を食い縛っている。

昼下がり、居間で小さなちゃぶ台を挟んで向き合った兄弟は、腕相撲で一勝負していた。

左腕一本で余裕綽々のコータに対し、ケーイチは両手を使って必死の形相。

「えい」

「あーっ!」

あっさりと倒され、声を上げたケーイチは、次いで頬を膨らませた。

「もう!兄ちゃんになんて、勝てる訳無いじゃん!」

「でも両手でなら、って言い出したの、ケーイチだろ」

悔しげに頬を膨らませるケーイチに、コータは少し得意げに笑いかける。

「努力次第だよ。真面目に部活やってれば、その内腕相撲も良い勝負になるって」

「ほんと?」

「ほんともほんと」

疑わしげに眉根を寄せる弟に、パンダは真面目腐った顔で頷いて見せた。

そんな微笑ましいひと時を過ごしていた兄弟は、ピンポーンという、軽やかなチャイムの音を耳にし、同時に首を巡らせた。

「来たかな…?」

「ん?」

「いやこっちの話」

呟いたコータは、首を傾げた弟に、悪戯っぽく笑いながら応じた。

「…あらあら。ちょっと待っててねぇ…。ケーイチー!テツヤ君だよぉー!」

母の大きな声に、ケーイチはピクッと固まった。

硬い表情になった弟に、ケータは顎をしゃくって「行きなって」と促す。

ケーイチがぎくしゃくと腰を上げ、玄関に向かうと、コータは忍び足で居間の入り口に近付き、黒い耳をピクピク動かしな

がら、玄関でのやりとりに耳をそばだてた。

「…あのさ…、…十月の対抗戦………レギュラー狙って…、自主トレ……一緒に…、…ジョギングとか…」

ボソボソと話すテツヤの声が、断片的に聞こえて来る。

しばらく「うん…、うん…」と、頷きながら話を聞いていたケーイチは、

「ん。判った。ちょっと待ってて」

と、少し明るい声を出し、とととっと階段を駆け上って二階の自室に向かった。

コータが少し顔を覗かせると、気付いたテツヤは恥ずかしげな笑みを浮かべ、頭を掻きながらペコッとお辞儀する。

笑みを返したコータは、階段を降りてくる足音を耳にし、ひらひらと手を振ってから顔を引っ込める。

「お待たせ!行こ!」

「ん!」

「出かけてきま〜す!」

玄関が閉められる音を聞いたコータは、今度は窓際に移動すると、窓からそっと、二人の様子を覗った。

声までは聞こえなかったが、門柱の所で、照れ臭そうな笑みを浮かべて何やら話した後、ケーイチとテツヤはスローペース

で走って行った。

満足げに頷き、窓際から離れたコータは、

「ケーイチ、元気出たみたいだねぇ?」

と、突然後ろから声をかけられ、驚いて全身の毛を逆立てる。

「か、母ちゃん!?ビックリした…!」

いつからそこに居たのか、おばさんパンダが居間の入り口で、洗濯篭を片手に佇んでいた。

「やっぱり母親より兄ちゃんなのかねぇ…。な〜んか様子がおかしかったんだけど、あたしには何も話してくれなかったんだよ」

(あ〜…、まぁ、言えないだろうな…)

コータは苦笑いしながら頬を掻く。

「コータも一緒に走ってくりゃよかったのに。あんた、また太ったんじゃないの?」

「母ちゃんに言われたかないし」

「おやおや。たったの二十年前にあたしの股から「もぎゃあ!」って出てきた小せがれが、随分大きな口叩くようになったも

んだねぇ?…晩飯抜くよ?」

「うぇえっ!?それは勘弁!…っていうか、おれ「もぎゃあ!」って言って生まれたの?」

「うん。「もぎゃあ!」って声出した」

コータは洗濯物を畳む母を手伝いながら、ケーイチとテツヤの関係が壊れずに済んだ事に、ほっと一安心していた。



「…っと、あったあった」

夕食後、押し入れの下の段に体半分を突っ込んでいたコータは、段ボールの中から一冊のアルバムを取り出した。

それは、高校の卒業アルバム。

辛い失恋と決別を忘れたくて、しまい込んでいたそのアルバムを、コータは押し入れに体を突っ込んだまま、しばし見つめる。

過去を振り返らない、思い出さないためにしまい込んでいた、自分が過ごした高校時代が、確かに存在した証拠。

(目ぇ背けんの…、もう止めよう…)

コータはアルバムを、持って行く事に決めた。

ヨシノリに見て貰おうと思った。過去、自分はこんな顔をしていたんだ、と…。

ノックの音を聞き、反射的に頭を上げたコータは、棚にゴヅッと頭をぶつける。

「んぐぉおおおおおおっ…!」

したたかに後頭部を痛打し、頭を押さえ、突っ伏してつっぷして悶絶している兄。

押し入れから出ている、そのでかい尻を見つめ、部屋に入ってきたケーイチは不思議そうに首を傾げた。

「何してんの兄ちゃん?」

「痛がってんの…!」

涙目になって押し入れから体を引き抜いたコータに、

「テッちゃんと、仲直りできた!」

ケーイチは、にこやかに笑ってそう言った。

「…あ、別に喧嘩してた訳じゃないから、仲直りって言うのは変かな?…ぼくが勝手にギクシャクしてただけだし…」

少し照れ臭そうに、そしてとても嬉しそうに報告するケーイチ。そんな弟を見ながら、

(ちょっとは、ナガサワさんっぽくやれたかな?)

コータは満足げな表情を浮かべ、そんな事を考えていた。

二年間、失恋の想いを引き摺り続けた自分が、ヨシノリのおかげで立ち直れたように、コータは弟の心を少しでも軽くして

やりたかった。

そして、それはどうやら上手く行ったらしい。

「良かったな。ケーイチ」

「うん!」

微笑む兄に歩み寄り、その傍に腰を下ろして寄り添うと、

「ぼくね、やっぱりテッちゃんが好き。今日、一緒にジョギングして、ブラブラして、いっぱい話をして、やっぱりそうだっ

て判った…」

ケーイチは照れているように、首を少し傾けて苦笑いした。

「だから、振り向いて貰えるように、頑張ってみようかなぁって…。迷惑になんないくらいで」

「そっかぁ…」

ケーイチはどうやら、まだ諦めはしないらしい。

コータはそんな弟の頭の上に手を置いて、

「じゃあ、頑張ってみるか?兄ちゃんも応援してる」

ぐしゃぐしゃっと頭を撫でながら、目を細めて優しく笑いかけた。

ケーイチはくすぐったそうに、照れ臭そうに、そして嬉しそうに目を細めて、髪をグシャグシャにされながら頷いた。

「あ、あのさ、兄ちゃん?」

「ん?」

「こ、今晩も…、一緒に寝ても、良い?」

弟の申し出に、コータは少し困ったような顔をした後、苦笑いしながら頷いた。

明日は盆の最終日。昼前には家を出て、アパートへ帰るつもりである。

つまり、弟とゆっくりできるのは今夜が最後。

(連休なんかには、なるべく帰って来るようにした方が良いかな…)

微笑みながらそんな事を考えていたコータは、

「ね、今夜もっかい、オナニー教えて?」

「ふへ!?」

恥じらいながら発せられたケーイチの言葉に、間抜けな声を洩らして目を見開いた。

「兄ちゃんのちっさくて可愛いあれ、もっかい触りたい…」

(…ちっさ…!?)

悪意の無い弟のセリフに、グッサリと心を抉られ、コータは深く傷付き、項垂れた…。



「………」

路肩に寄ったビッグスクーターの上で、太めのジャイアントパンダは、ベージュ色の校舎を眺めた。

鉄柵が開け放たれた正門、その2メートル近い門柱には、私立花吹学園の六文字が刻まれた黒い御影石のプレートがはめ込

まれている。

静かにアイドリングしている愛車に跨ったまま、コータは額に上げたゴーグルの下の目を細めた。

久し振りに眺める、見慣れていたはずの母校は、通っていた当時と比べ、どこかよそよそしい顔をしているようにも見えた。

卒業以来、初めて訪れた母校。

バイクを走らせる帰路の途中、ついでに一目見て行こうと思い立ったのである。

心の準備はしてきたのだが、辛い気持ちは湧いて来ず、ただただほんのりと、懐かしさだけが感じられた。

今夜は盆踊りなのか、グラウンド内では町内会の人々と思われるおじさんおばさん、そしてあまり多くない若者が、飾り付

けやテント張りに精を出していた。

グラウンド中央には、上に大太鼓を乗せたやぐらが組んであり、四方へとロープを伸ばしている。

提灯を並べて吊るすと思われるロープには、しかし今はまだ何も吊られていない。

「トラ先生、今でもここで教えてるんだよな…」

ヨシノリを通して様子は聞いているものの、なかなか都合があわず、恩師にはまだ会いに行けていない。

その内連れて行こう、とヨシノリも言ってくれているのだが。

「あっ!?やばっ!やばやばやばっ!トラ先生にもお土産買ってかないと!すっかり忘れてた!」

職場とヨシノリ、それから知り合ったお仲間の分だけ土産を準備していたコータは、恩師への土産を忘れていた事に思い至

り、慌ててゴーグルをはめ直してアクセルを開けた。

「あ、先生!ありましたか?」

バイクが走り去った直後、玄関からのっそりと出てきた肥えた大虎に、一人のおばさんが声をかけた。

「ありましたよぉ。これで足りますかねぇ?」

ヒロは両手で抱えた虎ロープの束に視線を落とし、おばさんは「十分です」と笑顔で頷く。

「じゃあ、カラーコーンで立ち入り禁止の区切り、作っておきましょう」

「え?いや、そこまで手伝って頂く訳には!」

傍で提灯に電球をはめ込んでいた中年男性が、少しばかり慌てた様子で首を横に振る。

町内会に校庭を借すため、学校側の管理者として出勤していたヒロには、実は手伝いまでする義務は無い。

足りなかった用具を貸して貰う上に、手伝いまでさせるのは心苦しく、町内会の一同は「ゆっくりしていて下さい」と口々

に言った。

が、ヒロは鼻の頭を擦りながら、穏やかに微笑む。

「いやぁ。黙って見ているのもひまですから。それに、ウチの寮生やこの辺の生徒も遊びに来るでしょうから、少しは手伝わ

ないと」

肥満虎のやんわりとしたその申し出を、町内会の面々は恐縮しながら、有り難く受ける事にした。

「始まったら、遠慮しないでグビグビビールやっちゃって下さいね?」

「ははは。ありがたく頂きましょう」

穏やかに微笑みながら、ヒロは盆の最終日を、気持ちよく汗を流して過ごす事にした。



少し引き返した所でデパートに入り、地産品売り場で、奮発して牛シャブセットを購入したコータは、保冷容器の具合を確

かめつつ、自動ドアを潜った。

冷房の利いた空気から、外の空気へと変わる、見えない壁を通り抜けるような感覚と同時に顔を上げたコータは、ドアを抜

けてすぐの所で足を止めた。

見覚えのある、いや、忘れようも無い顔が、こちらに向って来るのを目にして。

「…あ…」

コータに気付いたのか、入り口に向って歩いてきた犬の青年は、小さく声を洩らして足を止めた。

骨太の、がっしりした体付きのジャーマンシェパードに、コータは軽く手を上げる。

「…よ…」

「…おう…」

コータの高校の同級生、そして部活の仲間であり、親友でもあったジャーマンシェパード、園谷俊政(そのやとしまさ)は、

少し気まずそうに手を上げ返した。

「…久し振り…」

「…ん…」

ボソボソと言ったトシマサに、コータは顎を引いて小さく頷く。

「…元気か?」

「それなりに。…トシは?」

「まぁボチボチ…」

奇妙な感覚があった。

告白以来、在学中は言葉を交わす事ができなかったのに、今は少ないながらも言葉が出てくる。

「…コータ、時間、あるのか?」

「ん?うん…」

トシマサは顎をしゃくり、デパート入り口脇の、自販機とベンチが設置してあるブースを示した。



「今、何してんだ?」

「大学行きながら、バイトしてる」

「そっか…」

ブラックの缶コーヒーのプルタブを開け、トシマサは顎を引いて頷いた。

コータの方はココアが無かったので、甘口のコーヒーをチョイスしている。

二人は同じベンチに座りながらも、間に二人座れる程度の、微妙な距離を空けていた。

「トシは?」

「家の手伝いしながら、就職先探してる」

応じたトシマサは、コーヒーを一口啜ると、耳を少し倒し、苦笑いした。

「就職面接、四連敗中」

「まじで?」

「おう。不況だ不況だって騒いでるの、ちょっと前まで他人事みたいに感じてたけどよ、この歳になって就職探す身になると、

痛感すんなぁ」

聞き返すコータに、トシマサはしみじみと言う。

「大学、楽しいか?」

「ん〜…。そこそこな。まぁ大学と関係無しに、今は楽しくやってる」

「じゃあ幸せ太りか?腹回りとかやべぇよ?お前」

「トシマサこそ、顎の下とか頬とか肉ついて来てんじゃん」

軽口を叩きあい、二人は声を洩らして笑う。

かつて、屈託無く笑い合えていた頃のように。

「あ。いけね…!」

ふと腕時計を見たトシマサは、コーヒーをぐいっと煽り、空にして立ち上がった。

「お使い頼まれてたんだった…。あんま待たせるとお袋にどやされちまう」

顔を顰めたトシマサに、コータは苦笑いする。

「こんなトコで腰据えないで、さっさと済ませれば良かったのに」

空き缶を籠に突っ込みながら、トシマサはコータの顔は見ず、ぼそっと呟いた。

「仕方ねぇだろ…?知らんぷりできなかったんだから…」

少々驚いて、僅かに目を見開いたコータを振り返り、トシマサは軽く手を上げた。

「じゃ…。またな」

「ん。また…」

デパートの入り口に視線を向けたトシマサは、それっきりコータを振り返る事無く、歩いて行った。

初恋の相手の背中を見送ったコータは、手元の缶に視線を落とし、「ふぅ…」と、小さく息をついた。

それからグイッと缶を煽り、甘ったるいコーヒーを飲み干すと、晴れ晴れとした顔で立ち上がった。

旧友との少々ぎこちない再会ではあったが、さして心を痛める事も、動揺する事も無かった。

空き缶を籠に入れ、大きく伸びをしながら、コータははっきりと自覚した。

自分は、引き摺り続けた失恋を、乗り越えていたのだ、と…。

想い悩んだ日々も、苦い想い出も、今なら目を背けずに見つめ、思い出せる。

「…っと…!こっちもぼやぼやしてると、せっかくの肉が悪くなる!早くしまわないと!」

コータはヒロへの土産の存在を思い出し、慌てて愛車に向かった。

駆け足で遠ざかって行くジャイアントパンダの後姿を、デパートの入り口の中から眺めながら、ジャーマンシェパードは顔

を顰め、小さく悪態をついた。

「…くそっ…!せっかく話せたんだから、あん時の事も謝っちまえば良かったじゃねーか…!」

保冷パックをしまい込み、シルバーウィングに跨ったコータは、ふと思いつき、携帯を取り出した。

そして短縮ボタンで手早くアドレスを呼び出し、メールを打ち始める。

ややあって、メールを打ち終えたパンダは、

「空いてますようにっ…。うりゃ!」

翳すように頭上に携帯を捧げ持ち、親指を重ねてボタンを押し、気合いの声を発しながら送信した。



「…ん?」

昼休み、駐車場に出てタバコをふかしていたヨシノリは、ベルトに付けたケース内で携帯が振動するのを感じ、手を腰の横

に伸ばす。

「…ササキ君か…」

携帯の背面の小窓でスライドしてゆく、メールの送り主の名を確認すると、コリーは頬を弛ませた。



お疲れ様っすー!

お盆、ゆっくり休めましたか?

なんか、おればっかり四連休貰っちゃって、ちょっと申し訳ないっす…><;

実家では、それなりにのんびりできました!

まぁ、ほんと何処にも行かないで、大半は家でゴロゴロしてたんすけどね…

そっちでも普通にデパートで売ってるけど、一応地元産って事で、牛ステーキセット、土産に用意しました!

…って言っても、実はおれが買ったんじゃなく、親に持たされたんすけどね…

お世話になってる先輩に持って行きなさいって…^^;

で…、またまた急なんすけど、今夜とか予定空いてないっすかね?

三人前あるんで、もし良かったら、トラ先生の都合も聞いて欲しいかなぁ、なんて…

あと、おれが自分でお二人に用意した土産も渡したいっす

…ちょっとかぶって牛シャブセットで、ステーキと比べると若干肉のランクが低いんすけど…;

急で申し訳無いんすけど、お返事待ってまっす!

PS・夕方早めの時間にはアパートに戻ってるすー!

あと…、もしかして、おれが居なくて寂しかったりしたっすか?…なんちゃってっ><



「…土産だなんて、そんな風に気を遣わなくて良いのに…」

ヨシノリは苦笑を浮かべ、手早いキー操作で返事を打ち始めた。

 

のんびりできたようで何よりだよ。

俺もお盆中は二日休めた。

配達担当は忙しくて大変だが、経理の方はいつもどおりなものでね。

土産の件。実に有り難いんだが、あまり気を遣わなくて良いんだよ?

ただでさえバイクのローンもあるのに、何処かへ出かける度に毎回土産を用意していたら、遊ぶお金が無くなってし

まうだろう?

まぁ、小言めいた事は置いておくとして、今回も有り難くごちそうになるよ。

仕事が終わったら、アパートにお邪魔しよう。

ささやかながら、デザートでも手土産にね。

追伸・君の担任だったデブトラマンは、今日は出かけているはずだ。

一応連絡を取ってみるが、夜も遅くなるらしい事を言っていたから、少々厳しいかもしれないな…。



「…お?」

バイクを走らせ初めて間もなく、ポケットの携帯が振動したのを感じ、コータは愛車を路肩に寄せた。

そしてメールを確認し、にへら〜っと表情を緩める。

「トラ先生は残念だけど…、ナガサワさんには会える!なんかすっごい久々な感じ…!」

メールを閉じようとしたコータは、追伸の後に何か記されている事に気付き、「ん?」と画面をスクロールさせる。


追々伸・実は少々寂しかった(苦笑)


「…で…でへっ…、でへへへへぇ…!寂しかったぁ?そ、そか…!寂しかったっすかぁナガサワさん!」

コータは幸せそうな顔で、携帯にグリグリと頬ずりした。

「そんじゃ!急いで帰っておもてなし準備!いろいろ吹っ切れたしぃ…、今日こそはそのぉ…、良い雰囲気になれたら…!」

でれんでれんに顔を弛ませたコータは、携帯をしまうと、ふと、何かに思い至ったように上を見上げた。

(そういえば…、おれ、まだナガサワさんちにお邪魔した事無いな…。住所でだいたいの位置は判るけど、どんなトコに住ん

でんだろ?)

                                                                                      おまけ