漂泊の仙人と煙雲の少女(十四)

「ヌシは妙な男だ」

 作務衣の左袖から腕が出ていない、眼光鋭く体躯も厳つい隻腕の狸が、揺れる蝋燭の灯りに照らされながら口を開いたのは、

晩酌の最中の事。

 山小屋を思わせる素朴な木造りの家。そこでの生活の中心である囲炉裏の間。その隠れ里のような集落での前時代的な暮らし

にも、カナデがすっかり慣れた頃の話。ある晩、師の唐突な発言でカナデは数度瞬きした。

「まぁ…、ちょっと変な所があるとは自分でも思ってるよ」

「ちょっと」

 思わず、といった様子で口にした隻腕の狸は、カナデの顔を鋭い目でまじまじと見つめた。

 歳が行った狸である。老人とまでは行かないが、男盛りはだいぶ過ぎた。とはいえ衰えは見えず、護身術の指導では大男のカ

ナデが良いように放り投げられ、転がされ、組み伏せられてしまう。左腕が無いこの男に。

「ヌシは警戒心が強い。野生の兎もかくやだぜ」

「ん~…。褒められてるんだよ?それ」

「褒めてるのが判らねえか、ええ?」

「それはどうもだよ」

「だが」

 隻腕の狸はぐい飲みを顔の前に摘まみ上げたまま、その揺れる水面を覗き込んだ。囲炉裏を挟んで座るカナデは、手にした杯

と師の手元を交互に見比べる。このひとが何か言い淀むのは珍しい、と感じながら。

「…ヌシはひとに添う時、注意力が失せる事がある。油断とまでは言わん。しかし、警戒心はともかく疑心がおろそかになる」

 危機に対して敏感でありながら、ひとに対しては無防備になる時がある。持ち前の性格やひとのよさの影響なのだが、カナデ

の師はそこを気にした。

「その「ひとのよさ」は、ヌシの首を絞めるやもしれん。が…」

 その質があるからこそ、自分はこの男を弟子にした。言うなればたらしこまれたのだと、隻腕の狸は胸中で呟く。

 如何に恩人の頼みとはいえ、そうでもなければここまで手塩にかけない。適当に相手をして、見込み無しと追い出していた所

である。

「ヌシは…」

 早死にするなよ。

 喉まで出かかったそんな言葉を飲み込んで、隻腕の狸はムスッとする。基本的に照れ易くて褒め下手、「身内」には特に厳し

い性質なので、優しい言葉や甘い言葉を口にする事に抵抗があった。

「まだまだ修行が必要だな。明日はランを介添えにつける。山駆け八本、一緒に走れ」

「ちょっと待って今の話からなんでトレーニング増量に繋がるんだよ!?あとせめてランニングパートナーはトライチさんにし

て欲しいナ!」

 

 

 

 陳腐な台詞だが、「静か過ぎる」…と言いたくなったら気を引き締めろ。

 カナデが師から伝えられた中にそんな言葉があったが、ストレンジャーは正にこの時、その忠告を思い出していた。

 月が出た晴れの夜空。風は穏やかで音も無い。草が揺れて擦れる音は、自分の呼吸よりもよほど控え目。

(静か過ぎる、ナ…)

 坂を下って山肌を回り込む道…とは言っても舗装されていないどころか、雨が降った時の流れに洗われるので土が削れ、草が

少ないだけの、獣道程度の場所。足を止めたカナデは耳を立てながら周囲を見回した。

 ほんの僅かな違和感。ただしそれは第六感だとか天啓だとか、超常的な物で察知した違和感ではない。

 静かだったら静かなりに法則性がある。完全な無音が続くときや、微風の音だけが聞こえるケースなど。その変化…静寂の変

質をカナデは五感で捕えた。

 具体的には、風音や草擦れはそのままに、虫の声が途絶えていた。

 隠れられない場所で気付いたのは不運だった。狙撃か、待ち伏せか、とにかくこれは確実に何者かが潜んで、自分を監視して

いると確信した。正直なところ時間が惜しく、シャチとチーニュイを探したかったが、無視できる状況ではなくなっていると直

感している。

 油断なく、しかしゆっくりと首を巡らせて確認するのは、急な動きが相手を刺激する事を避けるため。話し合いで済むならそ

れが一番良い。気付いている事、害意も敵意も無い事を、武装せずに周囲を窺う事で態度に示す。

 もっとも、武装しようにもカナデは銃も所持しておらず、今持ち合わせている刃物もナイフだけ。それも、丸みを帯びた木製

のグリップに折り畳んで刃を収納でき、固定は柄の部分の金属冠を回すだけという、構造も単純な信頼のベストセラー、定番に

して安価、調達もし易いアウトドア用フォールディングナイフである。キャンプ用としては初心者から玄人まで需要を満たす便

利品だが、ひとを殺傷するには向かない。

(いきなり撃って来る可能性もあるけどネ…)

 カナデが想定したのは、昨夜の事もあるので軍人だった。が…。

(…!)

 大狸の背中で被毛が逆立った。

 居る。近くに。それも背後に。あえて、なのだろうか。衣擦れの音が耳に届いた。

 カナデがイメージしたのは、見上げるような、巨大な野生の獣。アラスカの山林でこちらに気付いていないヒグマが背後を通

過した時のような印象。

 ゆっくり、ゆっくりと、カナデは振り向いた。しかしそこに居たのは…。

(男?人間の?)

 直前に抱いた印象に反して、細身で中背の人間男性らしき何者か。

 「らしき」というのは、ややゆったりめの胡服を纏ったその男は、顔の前面を覆う仮面を着用しているので、顔形をはっきり

確認できないせい。もっとも、獣人ではなさそうだが。

 男が被っているのは京劇面。青地だが、縞模様のデザインから虎を表しているとカナデは気付く。

「説得力無いけど、怪しい者じゃないよ」

 両手を開いて肩の高さに上げ、敵対意思は無いと示すカナデ。もっとも、相手の方が格好からしてよほど不審人物。民家も近

くに無い山中、徒歩で、身一つで、突然現れた事を取っても怪し過ぎる。本当にひとなのかと疑いたくなるほどである。旅人…

にしては随分と身綺麗だが…。

(そういえば、この国では虎が旅の神にされる事もあったっけナ…)

 母国では四神に数えられる白虎にも、古くはその性質があったなと、カナデが知識を手繰ったその瞬間、前触れもなく男が動

いた。

 タンッと軽やかに地を蹴って、距離を狭めた仮面の眼窩に、カナデは僅かな瞳の反射を見る。

 殺気。

 考える前に体が反応した。半歩左足が下がり、首を反らす格好で上体を伸ばす。その顎先を、掌底がボッと音を立てて掠めな

がら通過した。

「ちょっ…!」

 待て、と制止する声を発する余裕も無い。殺気でチリチリと肌が刺激され、カナデは右腕を畳んで脇を締め、右脚を上げて、

肘と膝をくっつける防御姿勢を取る。そこへ、唸りを上げた虎仮面の左脚が、鞭のようにしなって飛び込んだ。

「~~~~!」

 激痛。防ぎはしたが、服と被毛越しに腕の肉と骨に衝撃が浸透する。平手で思い切り背中を引っ叩かれたような音が夜気を震

わせて響いた。おまけに、体格でまさるカナデは、自分の三~四割程度しか体重が無さそうな虎仮面の蹴りで、大きくよろめか

されている。

(まずいよ!)

 何者なのかは判らない。が、素人ではない。自分の師と同じ、創作の中に登場するような常軌を逸した達人の気配。

 虎仮面はムエタイのソレを思わせるしなった蹴りを放ったそこから、膝を曲げて踏み下ろし、ズシンと踏み締めた。震脚に次

いで繰り出されるのは、右の中段突き…崩拳と呼ばれる拳打。

 ゴッ、と鈍い音が響く。蹴りを受けて痺れている右腕を倒し、左腕と併せ、イコール記号の形でガード姿勢を取ったカナデは、

あわや直撃という所で崩拳を防いでいた。

 顎への掌底。レバーと肋骨の破壊を目的とした中段蹴り。水月を的確に狙う崩拳…。全て、ひとを殺せる急所への攻撃だった。

相手は本気である。が…。

「落ち着いて聞いて欲しいよ!怪しいだろうけど悪い事はしてないし、するつもりもないよ!」

 なおも説明し、説得で事を収める事を諦めないカナデに、虎仮面は眼窩の奥から鋭い光を返す。拳を止められた右腕を肘で畳

みつつ踏み込み、ガードの上に肩を当てる。体重はさほど無いにも関わらず、その踏み込みと重心移動による超至近距離の体当

てが、カナデをドンと突き飛ばすように後退させた。

「僕は小玉彼出、日本人のジャーナリストで…」

 滑った踵で地面を踏み締めて、何とか転倒せず踏ん張った大男に、虎仮面は掌を上に向けて指先を揃え、鋭く突き出す抜き手

で喉を狙う。

「今は、はぐれた連れを探し…」

 首を傾けて避けたカナデだったが、掠められ、首脇に焼けるような痛みを覚えた。しかし、その左腕が肩に上に抜ける格好に

なった虎仮面の右袖を捕え、左腕は曲がってその肘を、伸びている虎仮面の腕の下に添える。

 瞬時に両脚が地面をジャッと擦り、大柄な体躯が旋回する。腕取りからの一本背負い…だが、普通の一本背負いとは違う。師

が「護身術」と称してカナデに仕込んだこれは、相手の袖と襟を取るのではなく、襟を取るはずの腕を相手の肘関節に添え、極

めながら投げ、投げながら腕を折る、立関節技との複合になっていた。

 とはいえ、カナデに相手を傷つける意図はない。本来肘を下から突き上げてへし折るはずの動作を、肘ではなく腕の根元へと

滑らせるように腕を移動させ、関節を破壊しないようにする。

 さらに、背負い込んで投げて上下逆さまにし、後頭部から地面に激突させるフィニッシュになるところを、袖を引く格好で減

速させて、腰から落ちるように姿勢制御する。

 だが、その姿勢変更と型の移行が、一連の動作を減速させ、虎仮面は腰を地面に打つ前に下半身を捻り、驚異的な柔軟性と器

用さと反射神経で、着地して見せた。上半身と下半身を180度近く逆向きにしながら。

「ふん…」

 驚いているカナデの耳がピクッと震えた。仮面の内側から微かに、鼻を鳴らすような声を聞いて。

「手荒な真似は御免だよ。話を聞い…」

 ズリッと足が滑って、カナデの体が前のめりになる。

 相手の袖を取っていた左手が手首を極められ、関節を外されないよう慌てて前へ身を投げ出す。虎仮面を下敷きにしないよう、

斜め前に飛び込み前転するように身を投げ出したカナデは、胸中で舌を巻いた。

(寝技もこなすんだよ!?)

 カナデが飛び込み前転するその一瞬の間に、虎仮面は左腕に絡みつくように動き、地面すれすれで回転する一瞬の内に関節技

を狙ってきた。

 超低空の飛びつき腕十字固め。転げ終える頃には完全に極められると見たカナデは、相手の左足首を右手で掴み、後ろに肘を

張る格好で思い切り引っ張る。

 腹の上に肘を乗せられた位置にされたら打つ手が無いので、そのポジションを強引に崩すという判断。

 これに反応するように、仮面の奥でまた眼が光った。関節を極められなくなる事が明らかになるや否や、諸共に転げる最中に、

袖の中に一度引っ込めた手で、スッと光る物を取り出す。

(武器だよ!)

 カナデの瞳に映ったのは、両端が鋭く尖った細長い鉄の棒。

 峨嵋刺(がびし)と呼ばれる武器。細く短い鉄棒の中心に、握った際に指を通して固定できる輪がついた品。これを持った掌

で武器による攻撃を受ける事もできる護身用具でもあると同時に、暗殺の為に隠し持ち、隙を突いて急所などを貫いて刺殺する

ための手ごろな暗器でもある。また、格闘戦の補助としても使われるのだが、この場での利用目的は見ての通り。

 毒でも塗ってあるのか、針のように細い両端が、金属光とは異なる質の反射を見せている。

 パンッと音を立て、カナデのブーツが虎仮面の手首を蹴飛ばし、峨嵋刺を取り落とさせた。

 カランカランと峨嵋刺が落ちて音を立てる中、もつれあって三回転した後で離れて立ち上がった両者が、2メートル半の間合

いを挟んで対峙する。

 峨嵋刺は足元に転がっていたが、カナデはそれを拾うどころか、草むらに蹴り込んだ。

「僕は何もやましい事はしてないよ。知らずに何か問題を起こしていたならお詫びするし、誠心誠意対応させて貰うよ。でも、

今はちょっと待って欲しいんだナ…」

 狙われる心当たりはあまり無いが、うっかり踏み入ってはならない場所に入り込んでしまっていたという可能性もある。この

虎仮面も奇抜な恰好に反し、身元を詮索されないよう変装した軍人である可能性も否めない。

 しかし、ホンスーと同じ隊ではないかもしれないとも感じる。ホンスーと同じ隊の所属であれば、彼がこの山で民間人と行動

を共にしている事は伝達されていそうな物…。素性を知らないとはいえ、急に襲ったりはしないはず。

 少なくともルーウーからは、ホンスーの上官が滝に飛び込んだ自分達を救助してくれたと聞いている。始末するなり捕縛する

気があったならば、意識が戻る前に何かしていただろうから、虎仮面が彼らと同じ命令系統に属している線は薄い。

 とはいえ、野党や山賊の類とも思えない。こんな格好で、街道からも大きく外れてひと気がない場所で待ち構えるなど、もは

や生業として成り立たない。

 カナデは相手が単なる殺人鬼や異常者である可能性も踏まえながら、根気強く対話を呼びかけた。

「旅の連れが、はぐれて行方不明なんだよ。岸壁が崩落した場所もあったし、夜中は危険だよ。特に片方はまだ女の子なんだよ

ネ…。お爺ちゃんも心配してるんだよ。手伝えとは言わないよ?でも探す間は邪魔しないで欲しいんだよ」

 虎仮面は返事をしない。が、沈黙を保ったままゆっくりと構える。

 右手を腰の高さで脇につけて拳を握り、左腕を前方へ翳すように出し、肩の高さで掌をカナデに向ける。

「お願いだよ…」

 懇願しながら、腰を少し落として身構えるカナデ。

(はて…)

 虎の仮面の奥で、その男は口をへの字にした。

(どういう事だ?峨嵋刺も拾わず、明らかにこっちの安全を第一にしている。っていうか異常だろう?異常だ。そのせいで自分

の安全性が損なわれて、首を絞める結果になっているだろう。バカなのか?バカかもな)

 しばし監視して一般人ではないと判断した。登攀力、走力、持久力、身のこなし…、この狸はその全てが、厳しい訓練を潜り

抜けた軍人達を凌駕している。おまけに、徒手空拳の技は武術の大家で言えば師範級。

(こんな一般人が居るか。居てたまるか)

 と、思うのだが、解せない上に奇妙過ぎて、今更ながら判断に迷う。

 正直なところ、相対した時は「殺しても構わないから大人しくさせて荷物を検めて処断の是非を決める」という心積もりだっ

た。疑わしきは後腐れなく始末、それが彼の長年のスタンスだったから。

 だが、抵抗されている内におかしいと感じた。

 狸が身につけている技は、明らかに「殺人術」だった。正確には、その「原型」がそうだったのだろう。

 というのも、殺傷力を重視し、無駄を少なく磨かれた、おそらくは合戦技術の一つだろうそれを、この大狸は非殺傷用に改悪

してしまっている。腰に立派な物をぶら下げているので、さぞや殺し慣れた名刀だろうと思って抜かせてみたら、刃を潰した刀

だったようなものである。

 さらには、それとなく手放してやった凶器…峨嵋刺を拾って使うどころか、蹴り放してしまった。毒のように見えるハッタリ

の草汁まで塗ってあるのだから、活用しようと思いそうな物なのに。

 殺意が無い。それも、全く。

 こちらの殺気は感じているはずなのに、それでも負傷させないように立ち回っている。

 その戦闘技能や身体能力から見れば、どこぞの国家なり組織なりが送り込んだ、戦闘員兼工作員の疑いが強いのだが、「やっ

ている事が甘すぎる」。こちらを欺くための芝居という線も無い訳ではないが、相手の正体が判らず、一対一の状況で、演技す

る必要性は感じない。自分の命を危険に晒してまでやる必要はなおさら無い。

 スペックで言えば限りなくクロ。だが行動はシロという、極めて評価に困る対象…。

(おいおい。天才の僕でも判らなくなってきたぞ?こいつ珍妙過ぎるだろう?珍妙過ぎるぞ?)

 好奇心は猫を殺すが、虎の興味はひとを生かす。

 「離将リー・ヂー」は、ここにきてカナデ・コダマという男の質を測りきれなくなった。

 

 

 

 同時刻。

 ユェインとタオティエが交戦を開始した、すぐ後の事。仰向けに倒れ、呼吸すら止まって動かなくなった猪は、しかしピクリ

と、その右手を震わせた。

 絶命したようにしか見えない猪の右手は、しかし普段と同様の動きでポーチの蓋を開け、中を探る。相変わらず白目を剥いて

おり、完全に意識が無いにも関わらず。

 やがてチョウの手は、ポーチから薄紙に包まれた丸薬を取り出すと、それを包み紙ごと半開きの口に入れる。

 …ゴリッ…。

 硬い何かを噛み砕く音。無理矢理咀嚼されたそれは、ヂーが運んできた予備の仙丹。猪の喉が膨らみ、飲み下して、ずたずた

になった体内へ丸薬を送り込む。

 チョウはタオティエを視認した瞬間から、一手、対策を打っておいた。

 神行法は、肉体の駆動を制御する仙術である。本人が意識しなくとも作用するようかけておく事も可能で、事実、伝承にある

ように何里も駆けるような時にはいちいち動きを意識しない。勝手に、自動的に、仕込んだ通りに動く。裏を返せば、本人の意

識が無くても、事前にかけてさえおけば作用には問題が無いという事。

 チョウは今回、神行法の解除や書き換えが一定時間無かった場合、例え自分の意識がなくとも「そう駆動するように」プログ

ラムしておいた。具体的には、自分が行動不能な状態になった時、仙丹を自動的に摂取して戦線復帰できるように、神行法を仕

込んでおいたのである。

 ユェインが参戦して以降、倒れた部下を一顧だにしなかったのはこのため。タオティエにチョウの回復行動を、戦線復帰の準

備を、気取られないように視線から身振り、戦い方まで徹底し、意識を副官に向けさせなかった。

 何より、ユェインは自分の副官を誰よりも信頼している。打ち合わせをしていた訳ではないが、自分が必要とするタイミング

に合わせて、最も効果的な手を打って来るか、既に打っているかのどちらか…。そのくらいの事をする男だと確信していた。

 そして今、チョウの目が数度瞬きし、全身がビクビクと痙攣し、カッと、白目が元に戻る。意識が戻るなり即座に視線だけ動

かし、仙術による強制復元が終わるまでの時間を、独りで稼いでくれた上官の様子を確認しようとし…。

―うふふふ―

―粘るなあ―

―そろそろ―

―諦めたら―

―いいんじゃないかあ―

―面倒な―

―奴だなあ―

(???奴が、増え…!?)

 どういう訳か、増えているタオティエ達と多対一の乱戦状態になっているユェイン。その悪夢と比喩するのも生温い状況に、

流石のチョウも思考が明後日の方向へ飛び去りそうになった。

 四方八方から大蛇のように伸びるタオティエの腕。大きな手が蛇の口のように指を広げて掴みかかる。その、奔流に等しい全

方位からの猛攻を…、

「自慢ではないが、私はしぶとくしつこい事には定評がある。足が折れたら這ってでも、刃が折れたらこの牙で、貴様の喉に食

らいつく」

 ジャイアントパンダは掻い潜り、飛び越え、切断し、はじき返し、凌ぎ続ける。

 防戦一方…ではない。流石に手数と物量で押されてはいるものの、完全に囲まれる事だけは避け、移動できる線と方向をキー

プし続け、隙を突いた高速剣の反撃でタオティエの一体を微塵切りにする。

 さらには、半ば包囲された状態にありながら、相手の動線が重なって動きが停滞するタイミングで目ざとく死角を利用し、首

を刎ねて粉々になるまで追い打ちする。

 逃げに専念するのであれば捕まえにかかるタオティエも気が楽なのだが、鋭く反撃を加えて来るので雑に詰めるような真似が

できない。

 四罪四凶、しかも増殖したそれを相手取り、単身で戦線を維持してのけるユェイン…。上官の本気を見るのは付き合いが長い

チョウも久しぶりだが、「全力でなくとも」こうまで強いのかと呆気にとられる。

(いや、驚きも困惑も後回しだ!考えろ!)

 正直、何がどうなってこうなったのかは判らないが、チョウは気を取り直す。

 悪夢のような光景ではあるが、仙人や妖怪を狩っているとこういう事も時々ある。教わり、学び、経験し、見て回ってなお、

「この世界」は奇々怪々で、理解の内にある事の方が少ない。ましてや彼らにできる事もできない事も、ひとの身ではかれるは

ずもない。

 仙人だから仕方ない。これも仙術だろう。と、猪はその状況をあっさり受け入れた。判らない事は判らないまま、判る事を手

掛かりに現状分析し、打てる手を探す。混乱も困惑もあとですればいい。その割り切りと頭の回転の早さがチョウの強み。

 倒れた姿勢のまま目だけで戦況を確認する猪は、自分が復帰可能になった事をユェインが知らなくとも、動けば合わせてくれ

ると確信した上で、自分の役目を果たすために機会を窺いつつタオティエの様子を探る。

 状況は作戦立案当初の想定とだいぶ違うが、ここからは予定通りユェインと二人掛かりで抑えに回れる。単身での足止めは思っ

ていた以上の難業だったが、「下準備」は滞りなく進めてあった。

(「解析」は七割…。もう少し…)

 チョウが描いた筋書きでは、このユェインと二人掛かりでの対処となる、作戦の成否が決まる最重要局面において、必ず自分

の宝貝が必要になる。

 この宝貝の正体はまだタオティエにバレていない。知られてしまえば二度は掛からない。一度しか使えない切り札故に、使い

所は間違えられない。

 だからこそ万が一にも注意を引かないよう、考察する気すら起こされないよう、危険をおして細心の注意を払った。

 神行法しか仙術を使えないかのように立ち回り、胡蝶双刀を双翼刃形態にせず、それどころか仙気を通すという通常戦闘でも

行う基本行動すら控え、さも宝貝を模倣した頑丈なだけの刀であるかのように扱った。

 その甲斐あってタオティエは気付いていない。チョウが帯びた剣もまたユェインの宝剣同様、桃源郷の至宝である事に…。牛

もその名と力を知る、仙人にとって致命的な機能を有した天敵である事に…。

(条件さえ完璧に整えれば、これだけは、四罪四凶にも確実に通用する…。俺がしくじりさえしなければ…!)

 チョウが機会を窺い、この状況で上官がやりたい事を把握し、タイミングをはかったその時、翡翠色の宝剣の剣先がピッと垂

直に上がって、タオティエの一体が顔面を両断された。しかし開きかけた頭は両手で左右から押さえられると、すぐに繋がって

元通り。
悪夢染みたコメディのような、でたらめな復元力を見せつけるタオティエの群れは、ユェインがいくら刻んでも数が減

らない。

―その頑張り―

―いつまで―

―もつかなあ?―

―無駄なのに―

―いつまで―

―剣を振るんだあ?―

「愚問!」

 ボッと一閃させた宝剣で二体の顔面を纏めて薙ぎ、ジャイアントパンダは吐き捨てる。

「貴様が倒れるまで斬るだけの事」

 手にした不滅の宝剣同様、ユェインの心もまた折れない。しかし体力は無限ではなく、仙気もいずれは尽きる。無尽蔵とも言

える仙気を持つタオティエとは持久力では勝負にならない。何か手を打たねばならないが…。

 その時だった。風を切って鋼の刃が唸りを上げたのは。

 タオティエが複数名、一斉に飛び退く。直後に通過したのは、扇風機の羽のように高速回転しながら飛翔する、柄を連結され

た胡蝶双刀。

 仙術、乾坤回天。不意を突くために声紋も詠わず陣の敷設も省略し、手順を飛ばしたため飛翔速度はだいぶ落ちているが、そ

れでも大きく弧を描いて旋回する双翼刃は、投擲者が狙った軌道から一寸もずれない。

「上校!」

 叫んだ相手を一斉に見遣ったタオティエ達は、殺したはずの猪が膝立ちで起き上がっているのを目の当たりにして、うろんげ

にギョロギョロと目を動かした。

 裂けて邪魔になる軍服の上を破り捨てるように脱いでいたチョウは、裸になった上半身を大きく捻り、連結しておいたもう一

組の胡蝶双刀を投擲する。

「乾坤…回天!」

 今度は対極図を発生させてからの投擲。先の一投とは速度も段違いで、軌道は鏡に映したように真逆。タオティエ達を右側か

ら旋回して追い散らした一投目に続き、二投目は左から追い込むように弧を描き、チョウから見てユェインとタオティエ達の向

こう側ですれ違う。

 そしてこの時、わざわざ呼びかけて注意を引いたチョウと、旋回飛翔する双翼刃に、タオティエ達が気を取られた一瞬の隙を

見逃さず、ユェインは宝剣を連結させ、眼前でクルリと回して虚空に太極図を発生させた。

 既に居なくなった者も含め、仙術兵器全員が連結して双翼刃形態にできる武具を得物にしている理由がここにある。

 彼らの双翼刃はいずれも宝貝かそれに類する宝剣で、仙気を充填する基本機能を備えており、自らの仙気を通した状態で回転

させる事で、場所を選ばす太極の陣を瞬時に敷設できる。仙術の多くは、文言、歩法、陣の敷設などの儀式により補強されるが、

いわば双翼刃は、補強の手順を一段階瞬時に引き上げる術具の役目も果たしていた。

 白兵戦の最中に武器を手放す事なく、陣を描くという本来隙が大きい行為を一瞬で完了させ、仙術の補強手順を短縮できる…。

これが双翼刃の優位性。

「仙術解禁…。万枯陣」

 発動は、チョウの双翼刃が二つとも主の元へ飛び戻るタイミング。連結した宝剣を垂直に立て、地面に突き立てたジャイアン

トパンダの足元から、瞬時に太極図が周囲へ展開し、地表に直径30メートルほどの陣を形成する。

 これがルーウー直伝の対仙術用仙術、万枯陣の基本形。盾のように小規模展開するのはむしろ応用技法の一つであり、本来は

このように陣術として展開し、効果範囲内全ての仙術を打ち消す物。

 万枯陣による仙術の無効化及び強制中断作用によって、見る間にタオティエ達の体が縮み、一体…つまり本物のタオティエだ

けを残し、毛に戻って地に落ちる。

 チョウが投擲した二度の乾坤術は、タオティエ全員を牽制し、万枯陣の有効範囲内に纏めるのが狙い。そしてユェインは副官

の得物二つが効果範囲から離脱するタイミングで術を発動。息が合うどころか、一心同体であるかのような動きである。

「もう良いのか、上尉?」

「はっ!「八」卦に誓って「五」体満足!「十」全です!」

 ユェインは背中でチョウの返事を聞き、文脈に忍ばされた不自然なキーワードの意味を理解する。タオティエには、そういっ

た言い回しの慣習が部隊にあるのだろうとでも受け取れるよう、猪は上官に「八分五十秒経過した」と伝えている。

―お前 治癒の仙術も 乾坤術も 使えたんだなあ―

 牛が猪にチラリと目をやった。チョウが神行法以外の仙術の使用を控えて手の内を晒さなかったため、復帰の可能性について

は全く考えていなかった。

―おっと―

 タオティエは喉元を薙ぐ刹那の一閃を、首の骨を外して頭部を後方へずらすという芸当で回避。

 ユェインは牛に、副官をじっくり再確認する余裕を与えない。踏み込んだジャイアントパンダの手は連結したままの宝剣を高

速で回しており、切断域が幾度も薄緑色の円として連続発生する。

 双翼刃で斬り下ろし、次いで体の左側で旋回させつつ前へ送り込み、振り上げた所から回転方向を斜めに変えて、頭部の上端

を削ぎにかかる…。下手をすれば太過ぎる太腿や出っ張った腹などを自ら削いでしまいそうな、両側に諸刃を備えた全長2メー

トルの得物を、危なげないどころか流麗に振り回すユェインの動きは、まるで剣舞を思わせる美しさ。激しい風圧で粉塵が舞い

上がって、振るわれる刃に断ち割られてゆく。

 二刀流の時とは完全に動きが違う事もあり、切り替わったせいで対処し辛くなったタオティエは、受け損ね、避け損ね、体の

あちこちに刃を受ける。

 牛がいよいよ全身の毛の中から甲殻類染みた棘を生やし、硬化させて防御し始めたそこで、ユェインは唐突に足を止め、大き

く脚を開いて、頭上に双翼刃を掲げ持った。

 この距離で隙の大きい構え…。何らかの仙術を使うのかとタオティエが警戒したその直後、ジャイアントパンダが開いた股を

スライディングで潜り、粉塵を纏った猪が牛に肉薄する。

 全ての剣を収納して無手になり、そのまま牛の股も滑り抜けて行ったチョウが、すり抜けながらタオティエの股間にバシンと

叩きつけたのは、広げた掌ほどのサイズの皿のような物体…。ズボンの太腿横にある大きなポケットに、厳重密閉した上で収納

されている品。

―ん?何だこ…―

 直後。牛の股間から腹を貫いて背中へ、金属粒子が火柱となって噴出した。

 対仙人用吸着地雷。接触面に描かれた太極図が陣を展開し、簡素な結界無効化仙術を発動させながら、金属粒子と鉱物の粉末

がジェット噴流となって放出され、モンロー
/ノイマン効果で物理的な破壊をもたらす。

―あごあああおあああおあああっ!―

 股間から鳩尾の裏側まで、貫通する格好で焼き抜かれたタオティエは、堪らず声を上げる。物理的な損傷に対して強い耐性を

持っていても、これには凄まじい苦痛を感じた。

 この吸着地雷は炸裂するその噴射の形状も、パッケージも、計算され尽くした方士の技の結晶。内容物も特別製で、まじない

をかけられた年代物の魔除け類…宝飾品等を砕いて粉末にし、長年祀られてきた剣や鐘などの金属製品を材料に造った金属粒子

に、5:5の比率で混ぜてある。一つ作るのに腕利きの方士数十名がかりで一年近くかかるという、生産に難がある貴重品なの

でいくつも持ち歩けないし、そうそう気軽に使用できない品だが、今回は出し惜しみ無しである。

 効果については折り紙付き。まじない入りの宝石粉末と金属粒子は、邪仙にとっては猛毒となる。股から下腹部、背中の中ほ

どまでを焼失させられたタオティエは、胴の半ばから脚になったような見た目となる。勿論普通ならば即死、そうでなくとも背

骨の下側大部分と骨盤の真ん中を失う大ダメージ。通常ならばそれですらも即時修復されてしまうが、対仙人用吸着地雷の副次

効果によって、仙術の起動が阻害されている。

 地面を滑って停止しながら振り向いたチョウは、ズボンの逆のポケットから小型拳銃を引き抜いている。

 デリンジャー。チョウのゴツい手にスッポリと隠れるサイズの簡素な小型拳銃は、上下に並んだ銃身から、これもひどく製造

に手間がかかる特製弾を吐き出した。

 タオティエの後頭部に着弾するなり小規模爆発を起こし、抉るように肉も骨も吹き飛ばす。これも先の吸着地雷同様、宝石の

粉末が練り込まれた炸裂弾頭。チョウが隠し持つデリンジャーに装填されているのは、弾丸というよりは爆弾であり、超小型グ

レネードと言っても良い代物。

 股を抉り取られ、後頭部に強烈な爆発を貰い、流石によろめいたタオティエが倒れる先には、宝剣を二本に分割するユェイン。

 一瞬、三日月のような細い剣閃が、縦に、細かく、五月雨のように奔った。

 弾幕ならぬ斬幕。高速剣の攻撃密度が形成する殲滅空間に、つんのめるようにタオティエが押し込まれ、その上半身が細切れ

になって霧散するように飛び散る。

 吸着地雷による不調も後頭部の爆破による不意打ちも、再生されてしまえば効果は薄いが、その一瞬に大打撃を叩き込めば四

罪四凶にも通用するのではないか?これはチョウとユェインが事前に申し合わせていた手だが、実際の使用は完全にアドリブで

ある。

―あ~…―

 「声」が聞こえた。腰から上を粉微塵に刻まれ、両脚だけが地面に立っているタオティエから。

―めんどくさい~…―

 ザラッと、残っていた両脚が塵になって崩れ落ちた。

 討伐した…訳でない事はユェインもチョウも判っている。

 即座に横へ跳んで身を投げ出した猪の、寸前まで居た場所を、地中から急に飛び出した黒い何かが通過した。

 縮地で後方へ移動したユェインの眼前で、同じく黒い何かが下から上へ宙を裂く。

 それは、腕だった。タオティエの舌…先が指のように枝分かれしたソレとそっくりな色の。

「上校!奴は一度地中に根を張りました!おそらく…」

「なるほど、そっちが本体「という事にした」わけか」

 転げた勢いそのままに前転、流れるように起き上がって駆け出し、タオティエから距離を取ったチョウがユェインの傍に寄る。

「…「今ので」仕込みは全て済みました。稼ぐべきも残り僅かです」

 地面がひび割れ、そこから全裸の牛がムクリと出現する様を確認しながらチョウが囁く。最低でも稼がなければいけなかった

時間は、あと二分を切った。ユェインも計って把握している。

「であれば、「振り絞って」かかる機を窺う」

「御意…」

 ユェインの言葉に猪が頷いた直後、ふたりは凍り付いたように動きを止める。

 立ち上がった全裸のタオティエは、ゆっくりと、緩慢な動作で、ふたりに体を向け、顔を向け、目を向けた。

〔もう いいや〕

 その「声」を耳にした途端、ゾワリとユェインとチョウの全身で被毛が逆立った。

 肉声なのか、念話なのか、はっきりしないが自分の内と外に響いてくるソレに、「ひととして」嫌悪と恐怖をもよおさずには

いられない。

 その顔面を覆う長毛の隙間から窺える眼光は、冷えて固まりかけた溶岩のように赤黒い。その全身は明度が限りなく低い黒に

変色し、夜闇よりもなお黒いせいでくっきり見える。

 ただしそれは、どういう訳か生物の肉体に見えない。流動する液体か、密閉空間に漂う気体か、あるいはそこにある「場」の

ようにも感じられるが、骨格や器官を備えた構造ではないという印象があった。

 言うなればその姿は、牛獣人の輪郭をした、影の塊にも見えた。

「上校…?」

「私も初めて確認する変化だ」

 こういった状態、現象、あるいはそれらに類するものを知っているか訊こうとしたチョウに、ユェインは半眼になって応じる。

これまでに見てきたどの千年級の仙人とも違う。加えて、四罪四凶の本気を見た事はユェインもない。もしも、見た者があった

とすれば…。

(もしや…)

 ジャイアントパンダの脳裏を、かつての上官の姿が過ぎった。

 左右の腰に干将と莫耶をぶら下げた、鏡餅のような後ろ姿。酷く不格好に肥え太り、軍人というよりは、楽をして私腹を肥や

している悪徳官僚のような外見の、黒熊の大男。それなのに何よりも頼もしく感じた、あの広い背中…。

(ヨン隊長は最期に…、「サンミャオのこれ」を観たのか…!?)

 はぁ、と溜息のような物が聞こえた。それはタオティエの物だったが、厳密にはため息ではない。そもそも呼吸もしていない。

肺かそれに該当する器官があるかどうかも定かではない。聞こえた気がしたそれは、あくまでも印象でしかない。

〔面倒くさああああいなああああ 本当にいいいいい〕

 その、怖気すら感じる声を認識した瞬間、チョウは目の前に黒を見た。

 それは、タオティエの背中から伸びた黒いロープのような物。ただし太さは10センチ以上あり、先端にはひとの物と同じ形

状の手を備えている。それが、前触れもなく、風切り音もなく、指を広げて猪の眼前に迫っていた。

 瞬間、チョウの視界がブレた。

 同じく触手に迫られていたユェインは、咄嗟に副官の腕に触れ、諸共に縮地で10メートル移動。ふたりがそれぞれ立ってい

た空間を、音も無く触手が通過し、シュピンと、先端を上下に振る。

 理屈抜きに確信した。あの場に居たままだったら、顔面を突き破られた後、上下の一振りで体を両断されていた、と。

(しかも、これは…!)

 ユェインもチョウも言葉が出ない。

 二本ではない。タオティエの背中からは同じものが十二本生えている。よく見れば、いびつな後光のように広がってウネウネ

と揺れているそれらは、タオティエの先分れした舌に似ていた。

 手はあるが、もはや腕とも呼べない。関節すら存在しない。先端に五本の指を備えたソレは、触手と呼ぶにふさわしい。

 ユェインは静かに深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

「チョウ」

 呼吸を整え、ジャイアントパンダは神妙な顔で囁いた。

「君の命、これでもまだ預けてくれるか?」

 想定以上…と言うのも生ぬるかった。これ以上ない厄介な相手と気構えし、それでなお思っていた枠に収まっていなかった。

これはもはや強力な邪仙だとか、そんな枠に収まる「個」ではない。現象に近い、「災厄」とでも呼ぶべき何か。

 ともすれば作戦が失敗するどころか、無駄死にしかねない。だがそれでもまだ、自分と共に立ってくれるか?

 そんなユェインの問いに…。

「冗談ではありませんユェイン様」

 猪は即答し、ドンと、剥き出しの左胸を拳でどやしつける。

「「とっくに」、です。とっくの昔…、心臓を頂いたあの日から、俺の命は貴兄に預かって頂いております」

「…君は本当に…」

 ユェインの耳が僅かに下がり、口の端が少し緩む。

 苦笑が、震将の厳めしい顔を彩った。

「私が欲しがる以上の返答を、いつもくれる」

 並び立ち、黒影と化した邪仙を前に、

「あと少しならば、精魂尽き果てようと問題はない」

「「制限時間内」に目標は達成できますな」

 ユェインが二本の長剣を体の両脇にぶら下げ、半歩左足を進める。

 チョウも連結した双翼刃を二丁握り締め、右足を半歩踏み出す。

 踏み出す動作も、構えも、鏡映しのように対称で、同時に発する言葉も同じ。  

『極致…!』

 ユェインの身を覆う燐光が澄み渡り、雲に隠れる月のように一度消えたかと思えば、

「吼月我命(月に吼ゆるは我が命)!」

 青白く明るさを増して蘇り、再度その身を包み込む。冴え冴えと月の光を浴び、青く照らされた野山のように。

 そして、チョウの指先や耳の先などに、パチパチッと静電気が弾けたように細く電流が走ったかと思えば、

「暗夜翔鳥(暗き夜にも鳥は翔ぶ)!」

 全身を電流が駆け巡り、帯電する。何千羽という鳥が一斉に羽ばたくように、バリバリと激しく音を立てて。

 そしてふたりの足元でボッと青白く鬼火が燃え、それが見る間に肩まで燃え広がって体を覆い、瞬時に形を整えて衣の形状に

纏まる。

 それは、古い時代の文官や方士が纏っていたような着物。漢服様式のゆったりした着物は白地で、襟や袖の縁はワスレナグサ

を思わせる淡い青色。

 仙術によって形成され、実体化した衣…ルーウーが纏う物と同じ意匠のそれを、ユェインは軍服の上に、服を破り捨てて上半

身裸のチョウは素肌の上に、帯を締めずロングコートのように肩から羽織っている。

〔桃源郷の… 仙衣…〕

 並び立つ両者が羽織った衣を、タオティエは影のようになった顔中に無数の赤い光点…目を出現させて凝視した。

 「極致(きょくち)」。異国ではオーバードライブとも呼称される、獣人の限界を超えた域…終局到達点とでも呼ぶべき高み。

極々短時間に限られるが、この状態に至った獣人は能力の増大や身体機能の異常な強化などにより、常軌を逸した力を振るえる。

…とされる。

 だが、あまり知られておらず、知った所でそれを利活用する事はそうそうできないが、この状態にはある特徴が存在する。

 それは、一時的とはいえ、かつて世界の管理者が大戦に用いた兵器…「原点の獣人」に極めて近い状態まで、「肉体が限定的

に先祖返りしている」という点。

 つまり、要素が不十分であるが故に「仙人の成り損ない」である仙術兵器は、極致の状態限定で「神仙に限りなく近付く」。

 ただしこの状態を維持できる時間は短く、ユェインは90秒が限界。チョウはまだ少し伸びしろがあるが、現時点では100

秒がせいぜい。

〔ソレに… 袖を 通して… ひと如きが…?〕

 ギシリと、空間が軋んだ。

 桃源郷の神仙が纏う仙衣。タオティエ達はかつてそれを纏う事に焦がれ、果たせなかった。今もなおその執着は消えず、模し

た衣を構築して袖を通している。

 粘度の高い液体のように、溢れ出てユェインとチョウにまとわりつく負の情念…。それはタオティエから発散される、強烈な

嫉妬だった。

「最後の踏ん張り所だ。行けるな、上尉?」

「腹は括っております。意地でも!もたせますとも!」

 並び立ち、構えたふたりそれぞれの、左目と左胸の太極図は、早まった回転で黒と白とが混然一体となり、そこに青白い光を

纏い、灰色から銀色の円へと変化した。