ツートンカラー

ディスプレイに表示された細かい数字に目を懲らしていた男は、アームチェアの背もたれに体重を預けて大きく伸びをし、

壁時計を見遣った。

時刻は午後六時を少し回っている。

切れ長の目が見遣った窓の外では、傾きかけた太陽に、雲が斜めに照らされていた。

オフィスで業務に励んでいたコリー犬の獣人は、パソコンの電源を落とし、分厚い資料ファイルを片手に椅子から立ち上がる。

鼻筋の通ったシャープなマズルに、やや垂れ気味の三角の耳。

すらりと背が高く、無駄な肉の無い体。

しかし、全身を覆う豊富な被毛のせいで、体付きは実体積よりかなり大きく見え、特に首周りは、まるで真っ白なマフラー

を巻いているようにボリュームがある。

ふさふさした被毛の赤みが強い茶色と、清潔感漂う白が、鮮やかなツートンカラーを織りなしていた。

水色の縦縞がうっすら入ったワイシャツに、水色と青のストライプが斜めに入った柄ネクタイ。

下は濃紺のスラックスに黒の革靴。尻にはふさふさの、上が茶色で下側が白の尻尾。

ハンサム。そう言って良い整った顔立ちのコリーは、資料棚にファイルを戻すと、デスクに戻って同僚達の様子を見回した。

「何もなければお先するけれど、大丈夫かな?」

コリー犬の涼やかな、よく通る声に、

「あ、大丈夫ですよ〜」

「お疲れ様でした。主任」

全員が人間の女性の同僚達が、コリーに笑顔で返す。

「支店長も、手伝える事はありませんか?」

立派な角を頭にいただく年配の鹿獣人は、目尻に皺を寄せて温和な笑みを零しながら頷いた。

「ありがとう。大丈夫だよヨシノリ君」

気配りを見せたコリーは、どうやら手伝いは必要無さそうだと判断し、ブランド物の革バッグを手にとって軽く会釈した。

「それじゃあ、お先します」

「はいご苦労さん」

「お疲れ様でした〜」

見送りの挨拶と視線を受けながら、ヨシノリはオフィスのドアを潜った。

女性社員達の熱っぽい視線には、いつものように無頓着なまま。

町を歩けば道行く女性の視線を惹き付ける色男。永沢義則(ながさわ よしのり)三十歳。

周囲には秘密だが、実は生粋のゲイである。



某有名宅配業者の、とある大きな町の支店。そこの経理担当主任というのがヨシノリの役職だった。

一階の受付カウンターに顔を出して、帰りの挨拶をしてから、コリー犬は駐車場脇の屋根付きのバイク置き場へ向かう。

愛用のスクーターに歩み寄り、コートのポケットに手を突っ込んだその時、彼は鍵が無い事に気が付いた。

もしや?と覗き込んで見れば、キーはスクーターに挿したままになっている。

珍しく遅刻しそうになって慌てていたからだろう。これまでにない失敗である。

(まったく不注意だった。これからは気を付けよう…)

朝からキーが挿しっぱなしだったスクーターが無事だった事に、ひとまず安堵の苦笑が浮かぶ。

ヘルメットをしまっているシート下の収納スペースを開けようと、キーを回して押し込もうとしたその時、ヨシノリは異常

に気が付いた。

キーはオフまで回っておらず、半端な位置で止まっている。

キーを回し、スタートボタンを押し込んでみたが、愛車はしれっと黙り込んだままだった。

「…ライトまで付きっ放しだったか…」

バッテリーが上がってしまっている事に気付き、ヨシノリは困り顔で呟く。

(仕方がない、押しがけするか…)

スクーターを押して充電しようと、バッグを収納スペースに収めるべくキーを押し込んだその時、ヨシノリはピクリと垂れ

気味の耳を動かし、首を巡らせた。

コリーが反応した、近付いて来る足音の主は、足首までをがっちり保護するバッシュで、夕陽に染まるアスファルトを踏み

締め、5メートル程離れた所で足を止める。

夕暮れの赤い光を横から浴びて、微かに朱に染まった白黒のまるっこいフォルム。

背丈は長身のヨシノリより少し低いが、そのボリュームはコリーを大幅に上回っていた。

袖無しティーシャツから覗く、黒い被毛に覆われた腕はかなり太い。

通気性の良いメッシュシャツの生地は、むっちりした胸と腹で引き伸ばされ、曲面の頂点では目が粗くなっている。

黒い被毛で丸く囲まれたつぶらな目と、同じく黒色の丸い耳。

黒い鼻が乗ったマズルは短く、頭部は球型に近い。

力士と見紛うようなその体格とは裏腹に、真ん丸い顔にはまだあどけなさが残っていた。

深い青の袖無しティーシャツを身に着け、色の近い濃い青のジーパンを身に付けた若者は、この国では珍しいジャイアント

パンダである。

肩幅もあり、手足も太くがっちりしているが、肥満と言って良い体型。

 にも関わらず、衣類のせいか色合いのせいか、受ける印象は実に涼しげで、陽気の良い…、というよりも蒸し暑いこの梅雨

明け直後には、いかにも相応しく感じられた。

「…あの…。どうか、したんすか?」

パンダはヨシノリとスクーターを眺めながら、おずおずと口を開く。

(バイトの子だったな…?えぇと確か…、そうだ…)

笹木幸太(ささきこうた)。コリーはバイトである彼の名を思い出す。

大学二年生である事と、今年の四月から休日と特定の日の夕刻限定で、荷物の仕分けや積み下ろしのバイトに来ている事も

ついでに記憶から引っ張り出すと、ヨシノリはコータに苦笑いを見せた。

「はは、格好悪い所を見られたな。実はバッテリーが上がってしまってね、今から人工呼吸するところさ」

コータは黒く縁取られた目でヨシノリの顔を、それからスクーターを見て、小さく頷いた。

「…おれ…じゃない、ぼくが押すっすよ」

意外な申し出に少し眉を上げたヨシノリは、しかし首を横に振った。

「いや、自分でできるから大丈夫だ」

「でも…」

コータはヨシノリの姿を、足から頭へ下から順に撫でるように眺め、

「その服装じゃ、動きにくいんじゃないすか?」

言われて自分の格好を確認したヨシノリは「ふむ…」と顔を顰めた。

スラックスにワイシャツ、おまけに革靴。

確かに、コリーの服装はスクーターを押してダッシュするには向いていない。

「だから、ぼくが代わりに…」

歩み寄ってスクーターのハンドルに手をかけたコータに、ヨシノリは微笑みながら頭を下げた。

「それじゃあ…。悪いが、頼んでもいいかな?」

「あ…、は、はいっ…」

コータは間近でヨシノリの顔を見ると、何故か視線を避けるように俯いた。

(そう言えば…、何度か声をかけてはいたが、まともに話すのは初めてかもしれないな…)

邪魔にならないよう、ゆっくりと後ろ向きに下がりながら、ヨシノリはそんな事を考えた。

事務が仕事であるヨシノリは、昼時にはオフィスを出て、気分転換がてらに部屋の外の空気を吸いにゆく。

そうして倉庫や休憩室をぶらつけば、バイト達と会う事も多い。

社交的でマメなヨシノリは、彼らにも声をかけたり、当たり障りのない話題を振って会話を楽しんだりもするのだが、考え

てもみればコータと会話らしい会話をするのは今日が初めてだった。

というのも、ヨシノリが声をかけても、このパンダは「おはようございます」「どうも…」「お疲れ様っす」程度しか言葉

を返さないからである。

何度かテレビ番組やニュースなどの話題をふった事もあったが、その都度「はぁ…」とか「ええまぁ…」とか曖昧に返事を

するか、頷くかしか反応が無かったので、まともな会話が成立した事は無い。

(シャイなんだろうな、きっと)

スクーターのスタンドを外し、前に体重をかけるコータを見ながらそんな事を考えていたヨシノリは、目を大きくし、次い

で感心したように大きく息を吐き出した。

しっかりとハンドルを握り、スクーターを押し始めたパンダは、ぐんぐんスピードを上げていく。

斜陽に照らされた駐車場を、スクーターの重さなど何でもないように円を描いて走るコータの姿は何とも力強い。

袖無しティーシャツから覗く真っ黒な二本の太い腕は、肩と二の腕で筋肉が瘤となって盛り上がり、実に逞しい。

スクーターを押して広い駐車場を三周させると、コータはハンドル脇のスタートボタンを押す。

上がったエンジン音を耳にして小さく頷くと、パンダは息を切らせながら、コリーの元へとスクーターを引いて戻った。

「やあ、ありがとう!助かったよ」

「い、いえ…」

俯いて表情を隠したコータに、ヨシノリは感心し切って尋ねる。

「力持ちなんだな君は。何かスポーツでもやっているのかい?」

「…高校………は…、ラグビー………」

コータの返答はぼそぼそとした呟き声で、聞き取り辛いものだったが、断片的に聞こえた内容から理解したヨシノリは、納

得して大きく頷いた。

「ラグビーか、なるほどどうりで…」

「あ、あの…。おれ、…いやぼく、そろそろ行かないと…」

居心地悪そうに身じろぎすると、コータはペコッと頭を下げ、逃げるように足早にヨシノリから離れた。

そして自分の体と同色の、白黒ツートンカラーのビッグスクーターに近付くと、白地に黒縁のハーフメットを取り出し、目

の周りと同じ色合いの黒を基調にしたゴーグルを手早く着ける。

体色に合わせたチョイスなのか、どうやらバイク周りは徹底して白黒統一の模様。

(急いでいるのか?もしかして用事でもあった?これは悪い事をしたな…)

エンジン音を響かせたビッグスクーターが動き出すと、ヨシノリは手を上げてコータに挨拶した。

「ありがとう!助かった!気を付けてな!」

エンジン音に負けないように声を張り上げたヨシノリに、コータは無言のままペコッと頭を下げ、駐車場から走り出て行った。

「…ふむ…。何か礼をしないとな…」

静かにアイドリングしている、コータに息を吹き込んで貰ったスクーターに跨りながら、ヨシノリはそう独りごちた。



「ササキコータ?」

「そう。バイトの…」

「ああ。あの無口でごっつい彼?」

バイトの管理を引き受けているヨシノリの同僚、眼鏡にショートカットの人間のおばさんは、半分ほどアイスコーヒーが残っ

たグラスを揺らしながら頷いた。

翌日の午前十時。小休憩で皆が一息ついている事務室で、ヨシノリは同僚にコータの事を尋ねてみた。

「ごっついって言うか、ポッチャリ系じゃないです?」

傍に居た若い女性の同僚が話に混じると、周囲の女性陣も一斉に会話に加わる。

「ポッチャリっていうより、むしろムッチリ系?」

「そうかしら?かなり馬力あるみたいだし、ただ太いだけじゃないみたいよ?」

「あんまり喋らないけど働き者で気配りもできる子だって、あの牛島さんが誉めてました」

「可愛いわよねあの子。おっきな体して、ちょっと気弱そうな所がまた」

「真面目な子よねぇ。話しかけると困ったように俯くのがまたカワイイし」

「うん。最近のバイトってさぁ、小生意気なガキとか多いけど、珍しく純朴な感じ。好感持てるわぁ」

自分の発した問いから発展していく女性陣の会話に、ヨシノリは時に相づちを打ち、時に感心して「へぇ…」などと声を漏

らしながら耳を傾ける。

好き勝手な感想を言い合う女性陣の話を、時に質問を発し、時に感想を漏らし、それとなく舵取りしながら、コリーは有用

そうな情報をめざとく拾い集めてゆく。

それとなく、しかし着実に周囲を誘導してゆくその様子は、まるで家畜の群れを誘導する、本物のコリー犬のようですらあ

った。



「やあ。昨日は助かったよ」

昼食時に駐車場に降りてきたヨシノリは、ずんぐりした後ろ姿を認め、微笑みながらそう声をかけた。

日陰になっている位置のタイヤ止めにでかい尻を置き、あぐらをかいてコンビニの冷やし中華を貪っていたコータは、後ろ

からかけられた声に少し驚いたように、黒い耳をピッと立てて振り返る。

今は会社から支給された作業用のユニフォームに身を包んでおり、丸々としたその太ももには、冷やし中華と同じコンビニ

のおにぎりが四つ乗せてあった。

顔を上げたコータの横に立つと、ヨシノリは軽く肩を竦めて見せた。

「中で食えば良いじゃないか?休憩室は冷房も効いているし、他のバイトの皆もそうしているだろう?」

「…はぁ…」

コータの口からは、これまでに声をかけた時と同じように、曖昧な返事が漏れた。

結構暑くなったこの時期にも、コータは他のバイト達と違って休憩室で食事を摂るでもなく、倉庫でたむろって雑談するで

もなく、いつもこうして駐車場で過ごしている。

バイトの若者達は皆同年代だが、コータは何故かその中に混じろうとしない。

ヨシノリもその事は少し気になっているが、あまり詮索するのも良くないだろうと、理由までは尋ねていなかった。

「昨日はあの後、何か用事があったんだろう?悪い事をしたな」

「い、いえ…。何も無かったっすから…」

身を固くしているコータの横で、

(食事と貴重な昼休みを邪魔するのも忍びないな…)

と考え、ヨシノリはさっそく用件を切り出した。

「今晩、少し時間取れないかな?」

訝しげに、そして戸惑っているように自分を見上げたコータに、コリー犬は笑みを浮かべて見せた。

「晩飯、一緒にどうだい?昨日の礼に奢るよ」

コリー犬の誘いに、しかしパンダは慌てて首を横に振る。

「え?い、いえ、大した事してないっすから…」

「いいや、大いに助けられた。どうだい?遠慮しないで奢らせちゃあくれないかな?」

ニコニコと笑みを浮かべて誘うヨシノリを前に、俯いて顔を伏せていたパンダは、やがて押し切られるように、顎を引いて

小さく、本当に小さく頷いた。



「…遠慮する事なんて無かったんだぞ?」

良い香りの湯気を上げているラーメンを前に、ヨシノリは割り箸をパチンと割りながら、眉根が寄った微妙な顔で呟いた。

「あ、その…。ここのラーメン、好きなんで…」

恐縮してしまっているのか、コータはいやに身を縮め、体を硬くしながら割り箸を割る。

夕食の希望を尋ねたヨシノリにコータが提案したのは、彼の行きつけだというラーメン屋だった。

冷房のきいた店内、四角いテーブルを向かい合って挟んだ二人の前では、コータのお勧めであるネギチャーシューメンが二

つ、湯気を上げている。

さすがにそれだけではと、ヨシノリは餃子と春巻きをオーダーしたが、予定よりもかなり安価な礼になってしまい、若干落

ち着かない。

(奢るなんて言ったせいで、逆に気を遣わせたかな…。飯に誘うだけにして、それとなく支払いを持つべきだったか?)

「あ、あの…」

箸を持ったまま、難しい顔をして黙り込んでいるヨシノリに、コータはおずおずと声をかける。

「もしかして…、ラーメンは嫌いっすか?」

「ん?あ、いや済まない。少し考え事をな。最近はあまり食う機会は無かったが、嫌いじゃあないさ」

笑みを浮かべてそう応じ、コータのほっとしたような顔を見たヨシノリは、ふと思った。

(…ひょっとして、それほど気を遣った訳でもなく、本当にラーメンが好きなんだろうか?)

昼間は、コータの好きな食べ物の情報を得られないかと、女性陣に話を振ってみたヨシノリだったが、いつもカップ麺やコ

ンビニの食事を摂っているという情報しか得られず、最大の関心事である好きな食べ物については判らず終いであった。

それで結局、「何か食べたい物は無いか?」と、コータの希望を訊いたところ、このラーメン屋を指定されたのである。

遠慮したのだろうと思ったが、よくよく考えてもみれば、カップ麺やソバや冷やし中華など、どうにもこのパンダは麺類を

食べている事が多いような気もした。

コリーが油の浮いた醤油スープから麺を掬い上げ、口元に運ぶのを見てから、コータもラーメンに箸をつけた。

「…ん。これはいける…」

素直に感心して微笑んだヨシノリに、麺に息を吹きかけていたコータは、

「………」

顔を上げ、ほんの微かな笑みを、あどけなさが残るその顔に浮かべる。

「お?やっと笑ってくれたな」

コリーが微笑みを浮かべたままそう言うと、パンダは慌てたように俯き、いつものように表情を隠した。



「今日は、ご馳走様でした。…あとその…、済んませんした…」

「何で謝るかなあ?俺の方こそ、美味いラーメン屋を教えて貰った。ちょっと得した気分だよ」

ラーメン屋から出るなり、腿に手を当てて深々とお辞儀したコータに、ヨシノリは笑みを浮かべながらそう返した。

「アパートに住んでいるんだったかな?一人暮らし?」

「あ、はい…」

顔を上げたコータに、ヨシノリは「ふむ」と頷く。

「食事はコンビニ弁当中心?」

「はい。あとはここに来たりとか…。おれ、…ぼく、料理できないっすから。それにコンビニの飯、嫌いじゃないし…」

パンダの返答に既視感を覚えたコリーは少し首を傾げ、ややあってから思い出す。

(そういえば、大学に入ったばかりの頃のあいつも、似たような答えを返したっけな…)

二つ下の大柄な、当時は筋骨隆々としていた後輩の事を思い出し、ヨシノリは懐かしさに浸る。

「大学は専修だったっけ?高校は何処だったんだい?」

「はい。高校は花吹学園す」

「は!?」

目を丸くして大きな声を上げたヨシノリの前で、コータは驚いたようにびくっと仰け反った。

「え?あ?ど…どうかしたんすか?」

「あ…。いやいや何でも無いんだ。うん。そうか、ハナブキかぁ…」

動揺を押し隠し、ヨシノリは努めて何でもない風を装った。

(今、大学二年って事はだ…、一昨年は三年生だよな…。…まさか?…いやいや、5クラス有るらしいし、そんな偶然は…)

「ちなみに、担任の教師ってどんな人達だった?」

「えっと…、三年間同じ先生だったんすけど…」

コータは担任の名前と特徴を告げると、「何でそんな事を?」とでも言うように僅かに首を傾げた。

「あ〜、うん、そうか。良かったな獣人で…」

ヨシノリは自分でも良く判らない事を言いながら、困っているような、驚いているような、曖昧な笑みを浮かべた。

何度も礼を言うコータを先に帰らせ、スクーターの脇に立ってタバコをふかし始めたヨシノリは、ワシワシと頭を掻く。

「…なんて偶然だ…。あいつの教え子だったのか…」

自分とコータを繋ぐ奇妙な偶然と縁を知ったコリー犬は、耳をぺたっと完全に寝せ、困惑交じりの苦笑いを浮かべていた。



大学入学と同時に暮らし始めたアパートの部屋に帰って来ると、パンダはリビングに灯りをつけ、部屋の中央に置かれたテ

ーブルの横にザックを放り出した。

そして冷房のスイッチを入れて風力を最大にし、キッチンに入る。

小型の冷蔵庫を開け、帰りがけに買って来たパックのココアを扉のラックに三本押し込み、冷やされていたココアのパック

を取り出す。

手を洗って、顔を水ですすぎ、ココアの蓋を開けると、パンダはパックに直接口をつけて、ガブガブと飲み始めた。

1リットルパックのココアを一気に半分にし、「けぷっ…」と喉を鳴らすと、コータはパックを片手に冷えてきたリビング

に戻る。

ソファーにどすっと腰を降ろすと、腹がタポンっと音を立てた。

ラーメンとココアで膨れた腹を擦りながら、テレビを付け、半分近くまで進んだドラマを眺める。

(…良い人そう…だよな…。ナガサワさん…)

ドラマの内容にはほとんど興味を示さないまま、コータはぼんやりと、バイト先のコリーの事を考えた。

(…バレないように…気をつけないと…)



夕食を奢った一件以来、コータは以前よりはほんの少し、ヨシノリと話をするようになった。

相変わらず口数は少ないし、あまり突っ込んだ所までは話をしないが、それでもテレビ番組や職場の誰かの話などを振るヨ

シノリに、以前より少しははっきりとした受け答えをする。…が、

(でも何というかこう…、一定の距離を保とうとしているというか…、いまひとつ馴染んではくれないなぁ…)

というのがヨシノリの感想である。

「バイトは、ここが初めてなのかい?」

ある日、駐車場の日陰で昼休みを過ごしていたコータに、ヨシノリはそう尋ねた。

「あ、いえ…。前は別のトコで、やっぱり荷物の仕分けのバイトをやってたっす」

「何かの為に貯金でも?」

「ん、と…、貯金っていうか…」

コータはちらりと、駐輪場に停めている愛車に視線を向けた。

「バイクのローンの返済っす…」

「なるほど…」

コータが乗っている排気量600を越えるような大型スクーターは、決して安くはない。

新車ならば八十万はざら、中古でも四十万近くする。

ヨシノリが聞き出した所によれば、高校の夏から去年までのバイトでなんとか頭金を稼ぎ、このバイクを中古で購入したと

の事だった。

「バイクが好きなのかい?」

そう尋ねたヨシノリに、コータは少し恥ずかしそうに、しきりに首の後ろをさすりながら頷いて見せる。

「おれ…、いや、ぼくが中学の時親戚がこれに乗ってて、一回後ろに乗せて貰って…、それ以来ずっと、その…。…型は、だ

いぶ古いんすけど…」

もじもじと恥ずかしそうに、微かな笑みを浮かべながら話すコータに、ヨシノリは微笑みながら相づちを打った。



事件が起こったのは、それから間もなくの事だった。

行きつけの小さな書店の自動ドアを潜り、冷房の効いた心地良い空気を大きく吸い込むと、コリーはいつものように雑誌が

並ぶコーナーへと足を運んだ。

客の少ない店内で、高い棚を回り込み、メンズファッションの雑誌が置かれた一角を覗いたヨシノリは「おや?」と、少し

眉を上げる。

その視線の先では、最近やっと話をするようになってきたバイトのパンダ。

話しかけようとしたヨシノリは、なにやら深刻そうな表情で雑誌を見つめているコータの横顔を目にし、声をかけるべきか

否か一瞬躊躇った。

その一瞬の内に、コータはすっと手を伸ばし、雑誌を手に取る。

ヨシノリは目を細め、コータが手にしている雑誌に視線を注いだ。

なんとなくだが、遠目に見たその表紙に見覚えがあるような気もする。

コータはその雑誌を、素早く、小脇に抱えていた少年誌とタウン誌の間に挟み込んだ。

それから大事そうに両手で胸に抱きかかえ、素早く左右を見回し、

「…!?」

ヨシノリに気付いて目を大きく見開き、雑誌を取り落とす。

バサっと床に落ちた雑誌の中、表紙を上に向けている一冊に、ヨシノリの目が吸いつけられた。

筋肉質な、半裸の犬獣人が表紙を飾るそれは、ヨシノリも愛読しているゲイ雑誌。一昨日発売になった最新号。

見覚えがあったのも当然で、コリーは発売日に購入済みであった。

「…あ…」

コータは目を大きく見開いたまま、口をぱくぱくさせた。

声が出せない様子のコータを前に、ヨシノリは心の内で呟く。

(まさか…?いや、だが…、この状況はほぼ間違いなく…。それにしても参ったな…。タイミングが悪かった…)

しばし迷った末に、ヨシノリはつかつかとコータに歩み寄ると、目の前で屈み込み、落ちた雑誌三冊を拾い上げる。

(世代は違っても、購入時にエロ本を隠す手段は同じか…)

立ち上がったヨシノリは、おどおどと視線を逸らしたコータの顔を一瞥すると、そこに自分が買うべき雑誌を加え、レジへ

と進んだ。

店主といくらか言葉を交わして、なんでも無いようにゲイ雑誌を購入し、出口へと足を向けたコリーは、首だけ巡らせて振

り返る。

そして、呆然と立ち竦んでいるパンダに、肩越しにちょいちょいと手招きすると、ヨシノリは先に店を出た。

やや遅れ、引き摺るようなのろのろとした足取りで店から出てきたコータに、

「買い辛かったんだろう?」

ヨシノリはそう言って笑いかけた。

声をかけられ、ピクンと体を震わせたコータは、顔を真下に向けて黙り込んでいる。

「まぁ、確かに少々の鈍感さや図太さが無いと、堂々とは買えないのかもなぁ…」

そうのたまったヨシノリ自身は、この書店の古馴染みであり、店主も彼がゲイである事は知っている。

よって、今では全く遠慮も気兼ねもせずに購入できているのである。

先程は、さすがに二冊目を購入する事を訝しがっていたが、「何処かに置き忘れたらしい」と苦笑いしながら誤魔化した。

「さてと…」

ヨシノリは自分が欲しかった雑誌だけを抜き、俯いたままのコータに、書店の袋を差し出した。

しかし、コータは顔を上げず、動かず、袋を受け取ろうとはしない。

どうしたのだろうか?と眉根を寄せたヨシノリの前で、コータはぼそぼそと何かを呟いた。

「……ち………しょ………おれ…」

聞き取れず、「うん?」と耳を動かしたヨシノリに、コータは再び呟く。

「…気持ち…悪いっしょ…?…おれ…」

パンダは僅かに顔を上げ、黒い縁取りの中の瞳に、ヨシノリの姿を映す。

目尻が吊り上がり、挑み掛かるような目で自分を下から睨め上げるコータに、ヨシノリは少しばかりたじろいだ。

「…そんな事は…」

「無理しなくて良いっす…」

呟くように低い声で言ったコータの黒い両目に、ヨシノリは奇妙な感覚を覚えた。

複雑に入り交じった強い感情が、コータの目の奥で瞬いている。

(憤り?いや、苛立ち?…それだけじゃない、何だ…?)

コータが初めて強い感情を見せたその事よりも、その瞳に灯った妙な光に、ヨシノリは困惑していた。

「何か、気に障る事をしてしまっただろうか?」

余計な真似をしたのかもしれない。そう考えて困惑するヨシノリを睨んだまま、コータはゆっくりと口を開いた。

「おれ、ゲイなんすよ?…気持ち悪いっしょ?…傍に寄られたくないっしょ?」

「気持ち悪くなんてな…」

「嘘っす!」

ヨシノリの言葉を遮り、叫ぶように言い放ったコータの一言で、少し離れた所を歩いていた数人の通行人達が、驚いたよう

に二人に視線を向ける。

強い感情を秘め、ギラついているコータの瞳…。ヨシノリはそこから目が離せなくなっていた。

拒絶。しかし、単純なそれだけではない何かが、コータの目の奥に隠されているような気がして。

コータはかなり興奮している様子で、ふぅふぅと息をしながら、ヨシノリの目を睨むように見据えた。

「…おれに…近付かないで下さい…!理解あるふりされるのなんて…、優しいふりされるのなんて…、迷惑なだけっす…!」

低い声でそう吐き捨てると、コータは踵を返し、脇目もふらずに駆け出した。

声をかける事もできず、一人取り残されたヨシノリは、遠ざかってゆくその背を見つめながら、渡し損ねた書店の袋を手に

呆然と立ち尽くす。

コータの姿が角を曲がって消えた後も、しばらくは動くことすらできずに…。



ヨシノリとの遭遇から約30分後。

アパートの部屋に帰り着いたコータは、テーブルの脇に荷物を放りだし、ソファーに倒れ込んだ。

ビーズクッションに顔を埋めると、熱く湿った自分の吐息が顔を蒸らし、息苦しさを覚えた。

太い腕を回し、ぎゅっとクッションを顔に押し付けたコータは、言動はスマートで、だがそれとなく少し強引で、そして何

よりも優しそうな、あのコリーの顔を思い浮かべた。

(…判ってたのに…。…仲良くなっちゃ…ダメだって…)

クッションに顔を押し付けたまま、コータは肩を震わせる。

自分が、世間の常識に照らし合わせれば、異端である事は理解している。

普通じゃない。そう思いながらも変われない。自分でもどうしようもない。

だが、抑えきれずに内心を吐露すればどうなるか、コータは数年前に知った。

その時に自分に向けられた拒絶と怯え、そして嫌悪の視線は、今もまだ忘れることが出来ない。

きっと、一生忘れる事などできないだろうと、今ではもう諦めてすらいる。

(あんな想いは…もう…たくさんだ…!)

窓から差し込む、オレンジ色の斜陽に照らされる背中を震わせ、ビーズクッションに顔を埋めたまま、コータはか細い嗚咽

を漏らし始めた。



次の日の昼時。休憩室を訪れたヨシノリは、首を捻りながらすぐに退室した。

駐車場にも、倉庫にも、休憩室にも、パンダの姿は無かった。

結局、オフィスに戻って同僚に確認してから知ったが、今日は休みらしい。

(やはり…、昨日の事を気にしているんだろうな…)

あの時の自分は、コータの剣幕に気圧されていたのだろう。そうヨシノリは考える。

すぐに自分もゲイである事を告げられていれば、妙な誤解をされる事も無かったのだろうに、と。

(早めに言って誤解を解こう。バラされるかと思って気が気でないのかも知れないし…。明日の朝にでも捕まえて話そうか…)

が、ヨシノリはこの考えが甘かった事を、翌朝知ることになった。

最も早く出勤した同僚が受けた、朝一番にコータから入った電話の内容を聞いて…。



さらに翌日の午後。スクーターに跨ったまま、ヨシノリは同僚に教えて貰った建物を見上げた。

職場からも駅からもやや離れた位置にある、割と新しい三階建てアパート。

ヨシノリの視線が据えられている最上階の一番端に、コータが暮らす部屋がある。

コータの電話を受けた同僚には、とりあえずは体調不良による休みという事にして口裏を合わせて貰った。

(バイトを辞める、か…。そこまで思い詰めなくとも…。いや、俺のせいだなこれは…)

自分にゲイである事が知られたせいで、コータがこのような行動に出た。それは間違いない。

このご時世、バイトを見つけるのも一苦労である。

コータもそれなりに苦労して見つけたはずであり、せっかくのバイトをこんな事で辞めさせてしまうのは勿体ない。

本屋で自分と遭遇した事が原因なのは、おそらく間違い無い。

誤解を解き、バイトに復帰させるべきだと、ヨシノリは考えた。

階段を登り切り、一番端の部屋のドアの前に立つと、ヨシノリは躊躇いなくインターホンのボタンを押した。

ピンポーン。と、電子音にしてはやけに澄んだチャイムが響いてからしばらくの後、スピーカーから「はい…」と、低い、

元気のない声が返って来た。

「済まない。ナガサワだが、ちょっと良いかな?」

ヨシノリが名乗ると、雑音混じりのスピーカーから、微かにだが、息を飲む音が聞こえた。

「話がしたい。一昨日の事なんだが…」

「話す事は何も無いっす!」

玄関内で、スピーカーに向かって少し声を荒げ、ヨシノリの言葉を遮ったコータは、はっとしたように口をつぐんだ。

(…ば、馬鹿っ!おれ、何て口を叩いてっ…!)

思わず発してしまったきつい声に、パンダは心の中で激しく自分を罵る。

ドアの向こうに居るはずのヨシノリに詫びるように、コータは耳を伏せて項垂れた。

「…急にバイト辞めて…、迷惑かけて済んません…。でもおれ…、いやぼく、もう…」

声が震えそうになるのを堪え、コータはドアを見つめ、今にも泣き出しそうな顔をする。

「…有り難うございました。ナガサワさん…」

「…ササキ君?ちょっと待て、俺の話も…」

ヨシノリの言葉が終わらない内に、コータは通話スイッチを切り、インターホンから離れた。

そして、何度も鳴らされるチャイムから逃げるように寝室に駆け込むと、俯せにベッドへ倒れ込み、タオルケットを被って

頭を抱えた。

「…ごめんなさい…。ごめんなさい…!良くして貰ったのに…、あんな態度とってごめんなさい…!…迷惑かけてごめんなさ

い…!…でも、おれもう無理っす!…知られた以上、もう顔をあわすなんて無理っす…!…本当に…ごめんなさい、ナガサワ

さん…!」

ベッドの上で背を丸め、耳を塞ぎ、止まないチャイムの中、コータは体を震わせながら、何度も、何度も、ヨシノリに詫びた。

焦燥と自己嫌悪に心を満たされ、殻に篭るパンダの耳には、駆け回るコリーが告げようとする真実は、届かなかった。



数分間粘った後、ヨシノリはため息をついて一歩後退した。

途方に暮れてドアを眺め、どうしたものかと眉根を寄せる。

(インターホンにはもう出てくれないだろうなぁ…。いっその事、「俺もゲイなんだ!」とか、中に聞こえるぐらいに大声を

張り上げてみるか…?)

少し考えた後、コリーはふさふさした首元を揺らしてブンブンと首を横に振る。

(落ち着けヨシノリ…!それじゃあ俺が晒し者になるだけじゃなく、ササキ君にも迷惑になるだろう…!)

しばし悩んだ末、ヨシノリはドアの前から離れ、通路を引き返し始めた。

このまま食い下がっても駄目だと判断したのだが、まだ諦めてはいない。

(時間をおいて、夜辺りにまたトライだな。今度はインターホンに出るなり、ゲイである事をまず打ち明けてみるか…)

ここまでこじれてしまうと、言葉で説明した所で、コータが信用してくれるかどうかがまず問題だった。

効果的かどうかは判らないが、とりあえずは少し冷却する。

その間に、コータを知っているはずの古馴染みに、相談に乗って貰う事にして。

(なるべく面倒をかけたくは無かったが…)

アパートの駐車場でスクーターに跨ったヨシノリは、渋面を作り、ワシワシと頭を掻いてからメットを被った。



静かな住宅街の奥まった通り。

等間隔に街灯が建ち並ぶ太い本道から、一本裏手に入った細い道で、ヨシノリはスクーターを停めた。

見上げるコリー犬の目に、かなり年季の入った、薄汚れた二階建てアパートの姿が映る。

雨染みの跡があちこちに残るコンクリートの壁には、いたる所で細かいヒビが入っており、どうにもみすぼらしい。

(だいぶくたびれちゃいるが、おそらくこれから先、十年経っても、二十年経っても、ずっとここに、変わらず建ち続けるん

だろうな)

古き良き時代を思い起こさせる、この趣のある安アパートに、ヨシノリはそんな好印象を抱いていた。

最寄りの駅から歩いて十四、五分の距離に建つこのアパートには、ヨシノリの大学時代の後輩が住んでいる。

だが、部屋の住人は不在らしく、見上げた窓には灯りが見えない。

「そろそろ帰ってくる頃だと思うんだが…」

呟きながらスクーターのエンジンを切り、アパートの敷地内の自転車置き場に押して入れると、ヨシノリはブロック塀の上

から通りの左右を確認する。

こういう時だけは、背が高い事がちょっとばかり特に感じられた。

タバコに火を点け、待つこと五分。

人通りの無い路地に目当ての相手が姿を現すと、ヨシノリは携帯灰皿にタバコを落とし入れた。

街灯の少ない細い路地をゆっくりと歩いて来るのは、大柄な、かなり太った虎。

ジャージの上下に色褪せたスニーカーといったいでたちで、前を開けて着ているジャージの下では、真っ白いタンクトップ

が丸く突き出た腹でピチピチに伸びている。

衣類に体型、とにかくだらしない雰囲気を体中から発散する肥えた虎は、実に虎獣人らしくない。

もう一つ虎らしくないのは、その顔つきである。

肉のついた頬に顎。太い鼻梁に乗せるようにかけた眼鏡の奥には、眠そうに細められた目。

なんとも覇気に欠けた、しかし穏やかなその顔が、虎独特の近寄り難さを打ち消していた。

塀の上から顔を覗かせているコリーに気付くと、大虎の眠そうに細められた目が一度大きくなってからさらに細くなり、口

の両側の端が持ち上がって柔和な笑みが浮かぶ。

「しばらくだなぁ。どうしたんだ?ヨシノリさん」

太い、しかし穏やかな声とのんびりした口調。大虎に話しかけられたコリーも、釣られるように目を細めて微笑んだ。

「ちょいと話がしたくなってな…。構わないか?」



アパートの部屋に上がったヨシノリは、居間の惨状を見て顔を顰めた。

そこら中にコンビニの袋やら雑誌やらゴミやらが散乱し、足の踏み場もない状態であった。部屋の隅の、ある一角を除いて。

大虎は机周りから雑多な物を退け、二人が座るスペースを確保し始める。

「…お前、また部屋が汚くなったな…。一人暮らしに戻った直後はもう少しマシだったはずだぞ…?」

「ん〜…。それでも台所だけは綺麗にしているんだぞぉ?」

言われて引き戸の向こう、台所を覗き込んだヨシノリは「確かに」と頷く。

「台所だけはなぁ…。汚すと「あいつ」がえらく怒ったもんだ…」

苦笑いしながらそう言った虎の横顔を見ながら、もう居なくなってしまった「彼」の笑顔を思い起こし、ヨシノリは寂しげ

な表情を浮かべる。

「なあ、ヒロ…」

名を呼ばれ、纏めた雑誌を抱えて顔を上げた大虎に、ヨシノリは、

「…いや、何でもない…」

結局、そう呟いて言葉を濁した。

「寂しくないか?」

そう口から出かかった言葉を、寸前で飲み込んで。

寂しくないはずがない。辛くないはずがない。

共通の友を持ち、同じ者を愛した間柄だからこそ、その心情はあえて尋ねるまでもなく判る。

それでもふと尋ねそうになってしまうのは、この大虎が寂しそうな様子も、辛そうな様子も人前では決して見せず、以前と

は違う穏やかな表情を、絶えずその顔に浮かべているからである。

「何だ?気になるなぁ?」

ヨシノリの大学時代の後輩であり、友人でもある寅大(とらひろし)は、今ではもう彼の特徴とも言える、いつもの穏やか

な表情を浮かべたまま、彼に聞き返した。

「いや…、台所が綺麗になっているのは、使わないからなんじゃないか?…と、そう思ってな」

「はは。確かに、ろくに使ってないなぁ。相変わらずコンビニの弁当と出前が命綱だ」

決まり悪そうに笑ったヒロに、ヨシノリは苦笑しながら肩を竦めて見せた。

この一年で、ヒロは本当に変わった。そうヨシノリは思う。

何よりも大切にしていた者に先立たれ、遺された想いと言葉を胸に刻みつけ、かなりがさつで少し乱暴だった大虎は、穏や

かで優しい男になった。

おそらくは、彼が元々持ち合わせていたはずなのに、照れ臭くて隠していた深い情と優しさ。それを前面に出せるようになっ

た事で、顔つきは柔和になり、口調と態度はのんびりとした穏やかな物に変わっていったのだろう。

ヨシノリは、「彼」を喪った後にヒロに起こった変化を、そう考えている。



「笹木幸太?」

ヨシノリの口からその名を聞くと、ヒロは少し目を大きくした。

タンクトップにジャージのズボンというくつろげる格好で、手には冷蔵庫から出したばかりの缶ビール。

向かい合うヨシノリはワイシャツにスラックスという格好だが、ネクタイを外して楽にしている。

なお、帰りもスクーターに乗るので、こちらの手にはウーロン茶の缶。

「お前が担任だったと聞いたんだが、覚えているか?」

「もちろん覚えているとも。一昨年まで私が受け持っていた生徒だ。太りすぎのジャイアントパンダだろう?」

「太りすぎとかお前が言うかっ?」

懐かしそうに微笑んだヒロに、ヨシノリはビシッと突っ込みを入れる。

「で、ササキがどうかしたのか?あんたと知り合いだったとは知らなかったなぁ」

「いや、出会ったのはごく最近だ。今はウチにバイトに来ているんでね」

納得したように頷くと、ヒロは冷たいビールをぐいっと煽り、「ぷふぅ〜っ…」と、満足げに息を吐く。

駅から歩いただけで体温が上がり、むっちりした胸に押し上げられたタンクトップの谷間と背中には、汗の染みが丸く現れ

ていた。

「話っていうのは、ササキの事なのか?」

「ああ。知りたい事や気になる事が色々ある」

「ん〜…。こう見えて私も教師の端くれだ。守秘義務ってものがあるんだがなぁ…」

困ったように眉尻を下げ、顎を手の平でさするヒロに、ヨシノリは真っ直ぐ、懇願するような目を向けた。

「個人情報そのものには興味はないし、知ったところで悪用するつもりもない。ただ、お前が見て感じたササキ君の事。高校

時代の彼がどんな子だったのかを知りたい」

ヒロは細めた目でヨシノリの目をじっと見つめ、それから首を捻って尋ねた。

「…ササキが、何か困った事になっているのか?」

「おそらくな。あの子の中身…、陳腐な言い方をすれば心の方で。おまけに…」

ヨシノリは、最後に見たコータの顔を思い出す。

怒っているように見える、そして、今になって思い返せば、泣き出しそうなのを堪えていたようにも思える顔…。

あの時自分に向けられたコータの視線に、ヨシノリは同時に二つの印象を覚えた。

他者と自分との間に不可視の、しかし明確な壁を築き、距離を置こうとする拒絶の目。

だが、その潤んだ両目の奥にちらついていたのは、何か別の物。

あれはもしや、縋り、救いを求める、そんな切実な何かではなかったのか?

時を置いて思い返す今、ヨシノリはそんな風に感じている。

「本人が、その困った状態を受け入れてしまっているようでな…。どう接すれば良いのか迷いに迷って、お前を頼ったのさ」

ヒロはヨシノリの顔をじっと見つめ、その苦悩の表情から深刻な話である事を察すると、

「…あいつ、今どんな感じかなぁ?」

と、コリーに尋ねた。



「なるほどなぁ…」

ヨシノリが自分の目から見たコータの様子…、寡黙で引っ込み思案、あまり他者と打ち解けようとしない事などを話すと、

ヒロは腕組みをしてゆっくりと頷いた。

「…ササキが、以前は活発で明るい…、そうだなぁ、「あいつ」と似たような性格だったと言ったら、信じられるか?」

「は?前はそうだったのか?」

驚きを隠せず、目をまん丸にして問い返すヨシノリに、大虎は大きく頷きながら口を開いた。

「ササキが三年の時だ。高体連の前くらいからかなぁ…、ずいぶん様子が変わった。落ち着いた感じになって、それまでは多

かった授業中の私語も減ってなぁ…。受験に向けて意識が切り替わったんだと周りの先生は言っていたが、どうにも違和感が

あった…」

「違和感?」

大虎は顔を顰め、頭をガリガリと掻く。

「ん〜…。上手く説明できないんだが、クラスから浮いているような感じがしてなぁ…。避けられている訳でもない。苛めら

れていた訳でももちろんないのに、だ」

「…どういう事だ?」

首を捻ったヨシノリに、当時の事を思い出しているのか、ヒロは細めた目を天井に向けて言葉を紡ぐ。

「…ササキ自身が、周りの連中を避け始めた…。漠然とだけどなぁ、そんな感じがした」

ヒロが続いて口にしたその言葉に、ヨシノリは腕組みをしながら「ふむ…」と頷く。

彼がコータから感じる雰囲気と、ヒロの話している内容が、頭の中でカチッと、音すら立てて噛み合ったような気がした。

「理由を訊いてもなぁ…、何でもないの一点張りで、どうにも変化の原因は解らなかった…。「成長して大人びて、少し変わっ

て来たんだろう」…しっくり来なかったが、結局自分にはそう言い聞かせた。本当に何でもないなら、「どうした?」「何が

あった?」と、あんまり教師につつかれるのは気分が良い物じゃあないからなぁ…」

気付いてやる事ができなかったが、やはり何かを抱えていたのだろう。

かつての教え子が抱えていたはずの悩み、それを解決してやれなかった事に罪悪感すら覚え、ヒロは項垂れる。

コータが卒業した春、ヒロは事情があって長めの休職をとり、卒業式に見送るだけになってしまった。

もう少し話す時間があれば、どうにかできたのだろうか?

今更考えても仕方がないとは思いつつも、ヒロは悔やむように硬く口を結び、視線をテーブルの上に落とした。

悔やんでいるようなヒロの顔を窺いながら、

「…ヒロ、これは内緒の話だが…」

ヨシノリは声を潜めて口を開いた。

「ササキ君な…、俺達と同類だ」

「っ!?」

さすがに意表を突かれたのか、目を大きくしたヒロは、コリー犬の真面目な顔を見て、それが冗談ではない事を確信する。

「あの子がゲイ雑誌を買おうとしていた所に出くわしてな、それで解った」

「確かなのか?」

「ああ。本人の口から聞いた」

「…その事とササキが変わった事…、関係があるのか…?」

自問するように呟いたヒロに、ヨシノリは深刻な顔で頷く。在り得る話だ、と。

「あるいはそうなのかもしれない。…例えばそう…、その事で悩んでいた素振りは?」

顎をさすりながら考え込んだヒロは、やがて首を横に振った。

「担任として情けない話だが…、気付いてやれなかったなぁ…」

「そうか。…いや、できれば彼の力になってやりたいと思ってな…、詳しい背景が解ればと思ったんだが…」

腕組みをして難しい顔をし、「う〜ん…」と唸っているコリー犬を見つめながら、ヒロは静かに口を開いた。

「何故、ササキの事をそんなに気にするんだ?まだ会って間もないんだろう?」

ヨシノリは少し考えた後、首を横に振った。

「ただ、気になる。…そうとしか言えないな…。何で気になるのかは、実のところ俺自身、良く解らない」

大虎は微笑み、小さく笑い声を漏らす。

「あんたは昔っからそうだったもんなぁ…。周りの誰かが問題を抱えてると、自分でも理由が解らないまま、手助けしようと

首を突っ込む…」

「ま、そういう性分なんだ。おせっかいでウザかったろう?」

「うん。まぁ、少しはなぁ」

冗談めかして言ったヨシノリに、ヒロはしかつめらしい顔でうんうんと頷く。そして、

「だがな?そういう性格だったからこそ、俺達はみんな、あんたの周りに集まってたんだぜ?」

ニヤリと笑ったヒロは、以前の口調と表情になっていた。

急に昔に戻ったような錯覚を覚え、ヨシノリは少し驚いたように目を大きくし、それから照れたように頭を掻きながら苦笑

いした。

「そろそろ帰る。邪魔したな」

「んん?もう行くのか?」

眠そうな半眼に戻って尋ねるヒロに、ヨシノリは腕時計を見ながら頷いた。

「ああ、あまり遅くなってもな…」

立ち上がり、空き缶を握り潰して台所に向かったヨシノリを目で追うと、ヒロは缶に残っていたビールを一気に胃に落とし、

のっそりと立ち上がる。

「ああそうだ。一つ頼まれてくれるか?」

台所からひょこっと顔を出し、思い出したように言ったヨシノリに、ヒロは「んん?」と、訝しげに眉根を寄せつつも頷いた。



「また今度、お前が休みの日にでも改めてゆっくり来る。一緒に飲めるように徒歩でな」

「そうか。楽しみにしておくよ」

玄関で靴を履きながら言葉を交わし、ドアノブに手をかけたコリーは、ふと気になって大虎を振り返った。

「つかん事を訊くが、お前、生徒に惚れた事とかあるか?」

「ウチは男子校だぞぉ?」

「承知の上で訊いてる」

太い指でポリポリと頬を掻きながら応じたヒロに、ヨシノリはニヤリとしてみせた。

「幸いというか何というか、これまでは無かったなぁ。…で、なんでそんな事を?」

ヒロは苦笑いを浮かべ、瞑っているように見えるほどに目を細める。

「元を辿れば、種を撒いたのは俺だからな。これでも少しは責任を感じている訳だ」

ヨシノリはとぼけた表情で肩を竦めて応じた。

「ははは。どうかなぁ。元々撒いてあったのかもしれんぞぉ?」

声を上げて笑ったヒロに片手を上げ、ヨシノリはドアを押し開けて部屋を出た。

玄関の灯りを消して居間に戻ったヒロは、部屋の隅に置かれた、その周囲だけが綺麗に片付けられた仏壇に歩み寄る。

「…ヨシノリさんは変わらないなぁ…。相変わらず周りに気を配ってばかりだ…。いつまで経っても、お前が惹かれたあの人

のまんまだよ…」

ヨシノリが帰り際にあげた線香の煙の向こう、小さな遺影の中で、はつらつとした笑顔を浮かべている細面の狐に、ヒロは

微笑みながらそう話しかけた。



ヒロの部屋を出て三十分後、ヨシノリは再びコータの部屋の前に立った。

時刻は午後九時半を少し過ぎたところだが、問題を明日に先送りするつもりは、ヨシノリには全く無い。

コリーは携帯を取り出し、ボタンを操作して外部スピーカーに切り替えて音量を上げ、呼び鈴のボタンに手を伸ばした。



(…こんな遅くに…誰…?)

なかなか止まらないチャイムの音を聞きながら、コータはぼーっとした目を居間の出口へ向ける。

何をする気力も湧かず、数時間もの間ずっとソファーにもたれ掛かったまま、ただ惰性で、何度も何度も、ココアを口に運

んでいた。

やけ酒とも少し違うが、気が付けば既に3リットル以上も飲んでおり、腹が張って少々気持ち悪い。

チャイムは少し間を開けながら何度も鳴り続け、なかなか止む気配が無い。

無視しようと思っていたコータだったが、やがてあまりのしつこさに根負けしてのそのそと立ち上がる。

そして、歩く度にたぽんたぽんと水音を立てる腹を擦りながら、のろのろと玄関に向かった。

ヨシノリかもしれないとも思ったが、そうだったらすぐに切るつもりで、通話スイッチに触れる。

「…はい…?」

死んだ魚のような生気のない目で、低い、張りの無い声を漏らしたコータは、

『夜分に済まん。久し振りだなぁササキ。覚えてるか?トラだ、花吹の…』

懐かしい恩師の声を耳にして、コータの目に光が戻る。

「え!?と、トラ先生!?ど、どうしたんすか急…」

『ちょっと用事があってなぁ。少し良いかぁ?』

恩師の声は、コータの声を遮ってのんびりと続ける。

「あ、はい!すぐに!」

口調が少し変わっているような気もしたし、音声もどことなく不明瞭だったが、コータは疑う事も、魚眼レンズを覗く事も

なく、裸足のままドアに飛びついてロックを解除した。

恩師が何故急に、しかもこんな夜分に訪ねて来るのか、そんな疑問を感じる余裕も無く、ただただ懐かしさと、誰かに縋り

たいという無意識の衝動から、コータはドアを一気に押し開ける。

「お久しぶりっす先生!って、あ!ちょ、ちょっと待っ…」

慌て過ぎてチェーンを外し忘れたせいで、ドアは少しの隙間を空けた位置で止まった。

チェーンを外そうと手をかけたコータは、しかしドアの隙間から通路を見て気付く。

インターホンの前に立っているのが、自分の恩師だった大虎ではない事に。

通話用スピーカーに携帯を押し当て、録音していたヒロの声を流し込んでいたヨシノリは、「しまった!」と言わんばかり

に大きく口を開け、目を丸くしていた。

コータが慌ててドアを閉めようとしたその時、ヨシノリは反射的に、閉じる寸前のドアの隙間に手を伸ばし、

ガヅンッ

「いっ…!?…づああああああああああああああああああああっ!!!」

右手の人差し指を鉄製のドアに挟まれた。

「ぎゃああああああああああっ!?だだだだだ大丈夫っすかぁああああああああっ!?」

びっくりしてドアを開け、飛び出してくるコータと、

「いっづぅううううっ!!!いいいぃぃぃがぁぁぁあああ!!!」

手首を絞るようにして左手で掴み、屈み込んで絶叫を上げるヨシノリ。

「っぐぅぅうううう!」

ヨシノリは痛みのあまり涙目になりながらも、何とか声を抑え、手を顔の高さに上げて指先を見つめる。

ズキズキと、叩かれるように痛む指に息を吹きかけようとしたその時、不意に伸びた黒い手が、ヨシノリの手首を掴んだ。

ヨシノリの前に屈み込んだコータは、躊躇う事なくその右手を引っ張ると、人差し指をぱくっと咥える。

「…うっ…!」

一瞬の痛みに呻き、硬く目を閉じたヨシノリは、やがてゆっくりと、おそるおそる目を開ける。

鼓動に合わせるようにジンジンと痛んでいた人差し指。だが、コータが口に含んだ途端、僅かにだが痛みが和らいだ。

柔らかい、湿った、そしてほんのりと涼しい口内の感触…。

伏し目がちに下を見ながら、じっと身じろぎもせずに自分の指を咥えているコータの顔に、ヨシノリは深い後悔の色を見て

取った。

「悪かった…。騙してまで話をしようとしたバチが当たったんだな…。自業自得だよ…」

ヨシノリが呟くように謝った途端、コータはハッとしたように目を大きく見開き、指からチュパッと口を離した。

「あ、あうぅっ…!あ、あっ、あの…」

今にも泣き出しそうな顔で、コータはヨシノリの顔を上目遣いに見る。

「す、済んません…!」

通路の床に手を付き、コータは土下座した。

「ドアに手を挟んだ上に…、気持ち悪い事しちゃって…」

「いや、気持ち良かったけどなぁ?…いつっ…!」

肩を竦め、とぼけたように言ったヨシノリは、ぶり返してきた指の痛みに顔を顰めた。

「…と、とにかく、冷やさないと…。氷水用意するっすから、中に…」

顔を上げたコータは、すっかりしょげ返った様子でドアを大きく開け放つと、先に立ってヨシノリを部屋の中へ招き入れた。



「あぁ…、だいぶ楽になって来た…」

テーブルの上に置かれた、氷水入りのボールに右手を浸しながら、ヨシノリはほっと息を吐き出した。

「済んませんした…」

テーブルを挟んだ反対側で、正座して肩を落としたコータは、項垂れたまま呟く。

「いやいや、咄嗟に手を突っ込んだ俺が悪いんだから。…我ながら慌てていたんだな…」

見ていて気の毒な程に小さくなっているコータに、コリーは柔らかい笑みを浮かべながら声をかけた。

そして、すっかり恐縮し、申し訳なくてしょぼんとしているパンダを見ながら、ようやく機会が到来した事を悟る。

「なぁ、ササキ君。誤解させてしまったようだから言っておくが…」

少しだけ顔を上げ、上目遣いに自分を見たコータに、

「俺もゲイなんだ」

ヨシノリははっきり、きっぱりと、そう告げた。

しばしの沈黙が、二人っきりの部屋を満たす。

身じろぎ一つせずにヨシノリを見つめていたコータは、ゆっくりと目を大きくし、金魚のように何度か口をパクパクさせた

後、おそるおそるといった様子で掠れた声を漏らした。

「…う、嘘っすよね…?」

「いや本当」

「お、おれを…慰めようとしてくれてるんすか…」

「本当だって」

「え?え?いやだって…、ナガサワさんかっこいいし…」

「見た目と好みは別だろう?」

「い、いやいやいや!そんなはずないっす!…や、やっぱり、おれに気を遣ってそんな事を…」

「そこの袋の中に証拠がある」

ヨシノリは顎をしゃくって、持参した荷物を示した。

それは、例の書店の袋に納められた数冊の雑誌。

「先日渡しそびれた今月号も入っているが…、俺が高校の時に最初に買った、十数年前の増刊号を持ってきた。自慢じゃない

が貴重品だぞ?」

ポカンと口を開けたコータの顔を見ながら、ヨシノリはニヤリと笑って見せる。

「少々汚れてしまっているものもあるが、毎号逃さず全て保管してある。見たいバックナンバーがあれば貸そう」

しばらくの間、口を開けたまま硬直していたコータは、おずおずと尋ねる。

「…ほ、本当…なんすか…?ナガサワさんもその…、おれ…ぼくと同じ…?」

ヨシノリが頷くと、コータの肩が、力が抜けたようにカクンと落ちた。

「は…、はは…、馬鹿みたいっすねおれ…。一人で早とちりして…、焦って…、キレて…、食ってかかって…、迷惑かけて…」

項垂れ、自嘲気味に笑うコータ。そんな彼に、コリーはやんわりと声をかけた。

「いや、俺があの時にはっきり言えていれば、こんな風にこじれる事も無かっただろう」

上目遣いに自分を見たコータに、ヨシノリは真摯な詫びを込めた視線を向ける。

「済まなかった。俺がはっきり言えなかったせいで、君を刺激して、追い詰めてしまって…」

そのまっすぐな視線に、自分が恐れていた物が何一つ、ほんの少しも含まれていない事を見て取り、コータは思わず涙ぐむ。

そんなパンダに優しく微笑み、ヨシノリは冗談めかして続けた。

「もちろん秘密は守る。もしもバラしたなら、俺の事もバラしてくれて構わない。信用しろとは言わないが、一種の保険だ」

涙ぐんだまま、上目遣いに、申し訳無さそうに自分の顔を見ているコータに、ヨシノリは微笑みを絶やさないまま、穏やか

に言う。

「繰り返し、済まなかった…。妙な誤解をさせた上、余計な心配までさせてしまって…」

ヨシノリを見つめるコータの目が、じわっと潤んだ。

自分が早とちりで取った態度に怒る事もなく、勝手な勘違いをした自分を責めるでもなく、むしろ自分が悪かったと詫び、

ただ優しく、いたわるように声をかけ、見つめてくれる大人の男…。

「…う…」

パンダの喉の奥から、小さく、呻き声が漏れた。

初めて出会う、自分の同類…。同性愛者である事を知られ、そして向けられるはずの視線を怖れ続けていたコータは、初め

て向けられる理解を示す視線と言葉に、

「…う、うぅ…う…!」

嬉しさと安堵を感じ、同時にヨシノリに向けてしまった棘のある態度と言葉を恥じ、ポロポロと涙を零し始めた。

「ご、ごめん…なさ…、ひっ…!ごめんなさい…!…ひっく!…ごめんなさい…ナガサワさん…!」

深々と頭を下げ、肩を震わせ、大粒の涙をポタポタと太ももに落としながら、コータはヨシノリに詫びた。

「おれ、ぼ、ぼく…、う…!一人で、勝手に、か、勘違いして…!えうっ…!な、ナガサワさんにっ…、あんな態度取って…!

何て、ひぐっ…!何て謝れば良いのか、もう…判んないっす…!」

机に額をつけ、体を縮めて「ごめんなさい」を繰り返すコータに、

「謝らなくて良い。君はどうだか判らないが、俺は嬉しいんだ。偶然とはいえ、職場にもお仲間が居た事に気付けたんだから」

そう、ヨシノリは穏やかに声をかけた。

「顔を上げてくれないか?でないと、まるで俺が虐めてしまっているようで落ち着かない」

笑い混じりのコリーの声に、コータは涙でグショグショになった顔を上げる。

「…済んません…」

「だから謝らなくて良い。俺はこれっぽっちも気にしていないから。な?」

「それでも…、済んませんした…」

優しく微笑んでいる、初めて出会った理解者に、コータはもう一度、深く頭を下げた。



だいぶ夜も遅くはなっていたが、コータは初めて出会った同類であるヨシノリに、自分の過去について、ポツリ、ポツリと

話し始めた。

ヨシノリが聞かされたそれは、コータがまだ高校生だった頃の話。

友人に恋をし、自分が同性愛者らしい事を自覚したばかりの頃の話。

そして、現在の笹木幸太が出来上がるに至った、失恋の話…。



その日、十八歳の誕生日を迎えたコータは、他の部員達が帰った後の更衣室で、こまめに時計を見ながらそわそわしていた。

大事な話がある。そう、キャプテンの犬獣人に伝えたのは、練習開始前、つい三時間ほど前の事だった。

練習後に顧問に呼ばれたキャプテンを待ちながら、コータは物思いに耽る。

いつからだっただろう?彼の事を考えると、胸が高鳴るようになったのは。

いつの事だっただろう?彼の事を、他の友人達とは違う目で見ている自分に気付いたのは。

最初は解らなかった。それが初めて経験する、恋というものだという事が。

そうかも知れないと思い至り、コータは戸惑い、激しく動揺した。

何故、男に恋などしてしまったのだろう?と。

忘れようとしても、相手とはほぼ毎日顔をあわせる。

前は何でもなかった事なのに、肘が触れ合うだけで身が硬くなる。

想いを口に出す事もできず、ずっと胸の奥に押し込め続けていた感情…。

それが、高校最後の大会を目前に控えたこの時期になって、限界まで膨れあがり、耐え難い程に胸を焦がしていた。

大会が終わって引退すれば、今までと比べて顔をあわせる時間が減る。

それに、この不安定な気持ちのままでは、とても大会で全力を発揮する事はできない。

おそらくは、そんな焦りがあったのかもしれないと、コータは後になってその頃の事を振り返る。

相談できる相手は思いつかない。男に恋をしたなどと打ち明けられる相手は見つからない。

一人思い悩んだコータは、自分が十八歳になったこの日、その恋に決着をつけるべく、覚悟を決めた。

何度目かの確認で、時計の針が六時半を示した丁度その時、更衣室のドアが軋みながら開いた。

更衣室に足を踏み入れた、がっしりした体付きのジャーマンシェパードは、ベンチに座ったコータに気付くと、少し驚いた

ように口を開いた。

「お?悪い。まだ待ってたのか?」

園谷俊政(そのやとしまさ)。コータの同級生であり、ラグビー部のキャプテン。

大柄、かつ均整の取れた体付きで、状況判断力も優れているトシマサは、フォワードの花形ナンバーエイト。

体付きもがっちりしている、チーム最重量のコータは、スクラムの要所でもある、フォワード最前列の右プロップ。

一年生の時に、同じクラスになったトシマサに誘われたのが、コータがラグビー部に入ったきっかけである。

小さい頃は良くからかわれた、ずんぐりした太い体型。

重心の低いどっしりとしたその体型は、ラグビーでは強力な武器になるのだとトシマサに言われ、羨ましがられたコータは、

少々こそばゆかったが、素直に嬉しかった。

部員達の中で最も親しい親友同士、そう言っても良い。

その親友に、自分は本心を隠したまま接しているのだと思うと、コータの心はざわつき、落ち着かなくなる。

「遅くなったから、てっきり先に帰ったかと思ってたぜ。悪かったなあ、こんな待たせて…」

トシマサはコータに歩み寄りながら、土であちこち汚れた汗臭いユニフォームを脱ぐ。

豊かな被毛に覆われた、鍛えに鍛えたシェパードの体があらわになると、コータは唾を飲み込み、それから慌てて視線を逸

らした。

「…どうした?珍しく黙り込んで?」

ロッカーに手をかけたトシマサは、いつもならあれこれ話しかけてくるコータが無言でいる事に違和感を覚え、首を傾げる。

好きで黙り込んでいる訳ではなかった。

話してしまいたいのに、いざとなったら緊張で喉がカラカラに干上がり、コータは上手く声を出せなくなってしまっていた。

「今日も練習ハードだったし、疲れたか?」

ロッカーから離れたトシマサは、コータの前に立って腰を折り、気遣うようにその顔を覗き込んだ。

ドクン、ドクンと心臓が脈打ち、握った手がじっとりと汗ばむ。

「おいコータ?もしかして、具合悪いのか?」

心配そうに声をかけるトシマサを前に、コータは喉を鳴らして唾を飲み下した。

「と、トシ…。は、話したい事…な…」

掠れた声をなんとか絞り出し、コータはトシマサの顔を見つめた。

「うん。何だ?」

「お、おれ…、おれ、好きなヤツが、できたんだ…」

「っておぉーい。何だと思えば恋愛相談かよ?」

具合が悪い訳ではないのだと察し、ほっとしたような呆れたような、そんな苦笑いを浮かべるトシマサの目を見つめ、コー

タは静かに深呼吸する。

口から飛び出してしまうのではないかと思うほどに、心臓が激しく脈打つ。

心の何処かで「やめろ」という声が響いたような気がしたが、コータはそれを無視した。

言わなければどうにかなってしまいそうな、焦燥感と圧迫感が、胸を満たしていたから。

「と、トシ…。おれ、さ…」

「うん?」

唾を飲み込み、上ずりそうになる声に注意して、コータは、ありったけの勇気を振り絞って口を開いた。

「おれ、お前の事が、好きなんだ…」

言ってしまった。

解っていたはずなのに、もう後戻りはできないのだと、コータは急に恐くなる。

トシマサは虚を突かれ、目を少し見開き、呆けたような表情を浮かべ、コータの顔を見つめていた。

そして短い沈黙の後、トシマサは苦笑いを浮かべる。

「おいおい。オレに告白の練習相手になれってか?」

苦笑しているトシマサに、コータは首を横に振って応じた。

「違う。おれ、本当にお前の事…」

「ははっ!止めろっての!練習相手なら、マネージャーとか…」

「トシ、本当なんだ。おれ…、自分でも何でか判らないけど、お前が…」

苦笑いを浮かべたままのトシマサの顔が、少し引き攣った。

「は、はは…。止めろって…」

乾いた笑いを漏らしたトシマサの目に宿った感情の色。それが何なのか、この時のコータには判らなかった。

「トシ。おれ…、おれ、本当にトシの事が…」

「止めろっ!」

親友に大声を上げられ、コータは言葉を切る。

トシマサは一歩退き、コータから視線を逸らした。

「…お前…、どうか…、してんじゃねえの…?」

ぼそりと呟かれたその言葉を、コータは、いや、コータの脳は、一瞬、理解を拒否した。

「…おかしいぜ…、お前…」

後ずさるトシマサが発した呟きが、コータの胸を突き刺した。

椅子から腰を浮かせたコータは、トシマサに縋るような視線を向ける。

そして、これまでに見たこともない表情を自分に向けている親友を引きとめようと、手を伸ばした。

「…と、トシ…、話を聞い…」

「寄るなっ!」

自分の肩に伸ばされた手を乱暴に振り払ったトシマサは、コータの胸を両手で突いた。

突き飛ばされ、床に尻餅をつく格好で、コータは今まで座っていたベンチに背中からぶつかる。

コータの体重を支え損ねたベンチが、床を滑ってロッカーに当たり、騒々しい音を立てた。

静まりかえった更衣室の中、ぶつけた背中の痛みも、強く突かれた胸の感触も、どこか現実味を欠いたもののように感じな

がら、コータは呆然としながらトシマサの顔を見上げた。

「…何なんだよお前…、気色わりい…!」

自分を見下ろし、そう呟いたトシマサの目の中にある光が何なのか、コータはやっと悟った。

理解できない、相容れないと認識したモノに向けられる困惑、怯え、そして嫌悪。

初めて向けられるその視線に、コータは射竦められたように身動きが取れなくなった。

動けないでいるコータから、警戒しているように目を離さず、トシマサはゆっくりと後ずさると、ロッカーから私物を取り

出し、着替えもせずに更衣室から出て行った。

まるで、逃げるように。

尻餅をついたまま、声も出せず、身動きもできず、呆然とそれを見送ったコータの目には、ドアが閉まりきる直前、隙間か

ら投げかけられたトシマサの視線が焼き付けられた。

恐怖。拒絶。そして嫌悪…。どんな言葉よりも雄弁に物語った「もうオレに近付くな」と告げるその視線が。

しばらくの間、身じろぎ一つできなかったコータは、首周りが何となく冷たい事に気付き、のろのろと手を上げて首筋に触

れる。

首を、喉を、頬を濡らしているそれをゆっくりと指で辿り、コータは、自分が泣いていた事に、初めて気が付いた。

「ひっく…!」

一度しゃっくりが込み上げたら、まるで堰を切ったように、肺と喉が勝手に動き出す。

「え…、えうっ…!ひっく…!えふっ…、うぇっ…!えうぅぅうううううっ!」

ひっく、ひっくと声を詰まらせ、コータは涙で滲む蛍光灯を見上げて泣いた。

ぶつけた背中が、いつのまにかひどく痛み出していたが、胸の苦しさの方が強かった。

玉砕する可能性は高いと、覚悟はしていたはずなのに、想像以上の喪失感と絶望感で、コータの心はズタズタになっていた。

取り返しのつかない事をしてしまったという後悔。

友人が自分に向けた視線と言葉、態度で受けた衝撃。

想いが実らなかった哀しさ。

それらを抱え込み、コータは床に突っ伏し、悲痛な声で泣き叫ぶ。

「うっ、うあぁぁああっ…!うあぁぁああああああああああああああああっ!」

辺りをはばかる事無く、一人きりの更衣室で、子供のように声をあげる。

喉が枯れ、むせ返り、ショックと喉の痛みで胃液だけの吐しゃ物を床に吐き、絶望と後悔を噛み締めながらもなお、声が出

なくなるまで、涙が出なくなるまで、コータは泣き続けた…。



その日を最後に、トシマサはコータと二人きりになる事を避けるようになる。

そして二度と、笑いながら会話を交わす事も、笑顔を見せ合う事も無かった。



その日、どうやって自分の家まで帰ったのかは、まったく覚えていない。

ただ、更衣室での一件があったあの夜、枕に顔を埋め、朝まで一睡もできずに過ごした事だけは、今でも良く覚えている。

更衣室での出来事は、コータも、そしてトシマサも、誰にも話さなかった。

だが、この一件以降、明るく活発だったコータは、一変して寡黙になった。

周囲の皆に自分の事がバレるのではないか?

またあの嫌悪の目を向けられるのではないか?

そう怖れ、親しかった友人とも、他のクラスメートとも、教師達とすらも、距離を置くようになった。

本音を言えば居づらかったが、ラグビー部だけは辞められなかった。

大会が目前になっ今、自分が抜ければ、メンバー全員に迷惑がかかると判っていたから。

楽しむ事もできず、以前ほど打ち込むこともできず、ほとんど義務感だけでコータは部活を続けた。

そうして挑んだ最後の大会。ラグビー部は、地区ブロック大会出場をかけた大事な試合で敗れた。

いつも厳しかった顧問は涙すら浮かべ、「良く戦った」と皆を褒めた。

だが、コータは漠然と、負けたのは自分のせいだと感じていた。

自分とトシマサが属するフォワード陣の連携が、以前とは違って精細を欠いていたような気がした。

(トシマサにあんな事を言わなかったら…、おれが黙ってさえいれば…、結果は違ってたかも…)

自分が皆の和を乱したのだと、そのせいで負けたのだと、コータは思い込んだ。

失恋に傷つき、他者と関わるのが恐くなり、友人とも距離を置くようになっていたコータは、一人でその苦い思いを抱え込

んだ。

こうして、高校時代に経験したその一連の出来事により、寡黙で、他人と親しくなる事を極端に恐れる、現在の笹木幸太が

出来上がった…。



話を聞き終えたヨシノリは、ゆっくりと大きく頷いた。

コータはその前で、全てを打ち明けて楽になるどころか、恥ずかしさから顔を伏せてしまっている。

「ノンケに惚れるってのは、切ないよな…」

ヨシノリは深いため息をつきながら呟いた。

身近に上手く行った例はあるものの、殆どの場合は辛い恋になる。

周囲のそんなお仲間を、ヨシノリもこれまでに何人か見てきた。

「好きになる相手は、自分では選べないからな…」

ヨシノリの呟きに、俯いたままのパンダは小さく頷く。

「普通と違うって事が…、変わってるって事が…、こんな風だなんて、あの時まで知らなかったっす…」

「まぁな…。今現在の世間様一般から見れば、俺達は間違いなく異端だ。どこぞの国では結婚まで認められたとか、理解があ

るとか報道は聞くが…、こういうのはなかなか浸透しない…」

「………」

「…ところでだ。俺の知り合いが、こういう事を言っていた」

俯いたまま黙り込んでいたコータは、顔を上げて、上目遣いにコリーの顔を見つめた。

「普通と違う所は個性だ。変わってるっていうのは、ちょっと個性が強いだけの事だ。…ってね」

「…個性…っすか…」

コータは視線を机の上に落とし、その言葉を反芻する。

これまでに、そういう風に考えた事は一度も無かった。

発想の転換とでも言うべきか、ヨシノリから聞かされたその言葉で、幾分か、気持ちが楽になったような気がした。

「…よし!」

しばらくの間、黙ったままコータの様子を見ていたヨシノリは、急に声を上げると、何度もうんうんと頷く。

「今は誰かと付き合っているのかい?」

「え?い、いや、その…」

パンダはびっくりしたように目を丸くし、顔を上げたが、

「…付き合った経験とか…、一回も無いっす…」

か細い声でそう答え、再び俯く。

「そうか。うん判った」

何度も、何度も、しつこい位に頷きながら、ヨシノリは、

「俺がこれからゲイの先輩として色々教えよう。俺達のお仲間も紹介する。うん。これは名案だ!独り身も結構多いし、もし

かしたら上手い具合に恋人も見つかるかもしれない!」

と、いささか強引な事を言い出した。

「…へふっ!?」

やや間を置いてから顔を上げ、素っ頓狂な声を漏らしたコータに、ヨシノリはにんまりと笑って見せた。

「よーし決まりだ!次の休みを合わせるぞ?ははは!楽しみだなぁ!」

「え、えっと…。ナガサワさん?」

「ん?」

コータは困惑しながら、もじもじぼそぼそと呟く。

「おれ…あ、いや…ぼくデブいし…、顔だって良くないっす…。こ、恋人なんてとても…」

「何を言うかねぇ。そういう好みもあるんだよ。ああそれと…」

ヨシノリは可笑しそうに口元を歪めつつ、いやに恥ずかしがっているコータを見つめた。

「自分の事、無理に「ぼく」とか言わなくていい。前々から思っていたんだが、本当はソレ、しっくり来ないんだろう?」

コータは上目遣いにちらっとコリーを見遣り、恥ずかしそうに身じろぎすると、小さく頷いた。



そして、二人が語らったあの夜から数週間が過ぎた、いつも通りのある日。

仕事を終え、駐輪場へと足を向けたヨシノリは、

「悪い。結構待たせたなあ」

体と同じ配色をした、白黒ツートンカラーのビッグスクーターに跨っているパンダに、片手を上げて微笑んだ。

「んへへ〜っ!ちびっとだけっすよ!」

コータは耳を寝かせ、嬉しそうな笑みを浮かべる

メットを被ったヨシノリが、自分のスクーターのエンジンをかけると、コータもまた、愛車のエンジンに火を入れた。

「今日は何食うっすか?」

「暑いからなあ…。そうだ、冷やし中華とかはどうだろう?」

首を巡らせて問うコータに、ヨシノリは少し考えてからそう応じた。

「お?良いっすねぇ、大賛成っす!」

夏の盛りの暑い時期。日陰に居たとはいえ、やはり暑かったのだろう。シャツの背中に丸く汗の染みを作ったコータは、口

を大きく横に開け、にぱっと笑う。

そんなコータの無邪気な笑顔を目に、ヨシノリは優しく微笑み返す。

ヨシノリが親身になって相談を受けるようになってからというもの、コータは以前とは打って変わり、明るく開放的になった。

社員や他のバイト達とも打ち解け、前のように不自然に距離を置こうとする事も、同性愛者だとバレるかもしれないと、不

必要におどおどとする事も無くなった。

(随分変わった…。いや、元に戻った、と言うべきなのかもしれないな…)

ヒロから聞いた、以前、活発だった頃のコータの話を思い出し、ヨシノリはそう胸の内で呟く。

コータはヨシノリにすっかり気を許し、良くなついている。

ヨシノリにしてみれば、コータが慕ってくれる事が嬉しくもあり、同時に少々こそばゆくもあり、久し振りに後輩が出来た

ような気分になっていた。

「じゃ、行こうか」

「う〜っす!」

ヨシノリが声をかけると、コータは嬉しそうに元気な返事を返し、アクセルを開けた。

それぞれ異なるツートンカラーの二人を乗せたディオとシルバーウィングが、駐車場を通り抜ける。

門の所で丁度宅配から戻ったトラックと出くわし、二人は揃って手を上げて、運転手と労いの挨拶を交わす。

ウィンカーを上げたスクーターと、その後を追うビッグスクーターは、軽快に二車線道路を走り始めた。

夏の盛りの暑い夕暮れ、二人は心地良い風を全身に浴びながら走り去る。

その斜め後ろを追いかける、車道に長く引き延ばされたパンダとコリーの影法師は、重なり合い、ぴったりと仲良く寄り添っ

ていた。

                                                                                      おまけ