第一話 「調停者」

潮の香りを乗せた生暖かい風が、ビルの屋上を吹き過ぎる。

そこは、放置されて久しい、ボロボロに老朽化したビルだった。

昔は賑わっていたらしいこの界隈も、近年開発が進んだ新区画に人を取られ、今となっては、夜になれば人っ子一人通らな

いゴーストタウンの様相を呈している。

空にはぶ厚い雲が立ち込め、どんよりと曇っていたが、一陣の強い風が吹き過ぎると上空の雲が僅かに切れ、月の光が屋上

に差し込んだ。

月明かりが廃ビルの屋上を囲む錆びた手すりを照らし出す。その一角、錆びた鉄のバーに身を預け、手すりの外側に一人の

男が立っていた。

180センチ近いすらりとした長身。体にフィットした袖の無いタートルネックのシャツにカーゴパンツ、どちらも闇に溶

け込む濃紺で、胸元には、首から掛けた銀の認識票がぶらさがっていた。

 年齢は二十歳を過ぎた辺りだろうか。整った、精悍な顔立ちをしており、今は瞑想にふけるかのように、静かに目を閉じて

いる。

青年は漆黒の髪を風になぶらせたまま腕を組み、身じろぎ一つせず、何かを待つようにじっと佇んでいた。

不意に虫の羽音のような振動音が鳴り、青年は目を開け、ズボンのポケットから携帯を取り出す。髪と同じ漆黒の瞳が月明

かりを鋭く反射して輝いた。

『こっちは予定通りにいぶり出せたよ。そっちはどう?』

「問題なく片付いた。そちらに合流する。場所は?…」

青年は電話の相手と数言交わすと、携帯をポケットにしまい入れた。

再び、雲によって月明かりが遮られ、青年の姿はすらりとした、黒いシルエットになる。そのシルエットが屋上のヘリを蹴

り、フワリと宙に舞った。

 素早い、優雅な動きで、影は隣のビルへ、そのまた隣のビルへと飛び移ってゆき、やがて夜の闇に紛れて見えなくなった。



人気の無い路地裏。

まばらな街灯に照らされた、その路地のアスファルトの路面には、ゴミくずが散乱している。

薄汚れた路地の中央には、町のマークが刻まれたマンホールがある。

 そのマンホールが、不意にゴトリと動き、横にずれた。

中から這い出したのは人影…、いや、人影と呼ぶには、その影は少々いびつだった。

黒い甲冑を着込んだ人間、一瞬そうも見えた。

 しかし、ソレには腕が四本もあり、その顔はまるで昆虫、アリのようでもあった。

 かなり大柄で、上背は2メートル近くもある。

アリは次々とマンホールから這い出す。その数6体。全員が路上に這い出すと、アリ達は周囲を警戒するように窺った。

その姿を、傍のビルの上から見下ろす影があった。

青年は錆びた手すりの上に、絶妙なバランス感覚で危なげなく立っている。

無表情にアリを見下ろしたまま、青年は右手をスッと横へ伸ばした。

 その手が風切り音と共に振り下ろされると、いつの間に、どこから取り出したのか、右手に一振りの刀が握られる。

青年は黒塗りの鞘に納められた刀をゆっくりと引き抜く。

 曇天から僅かに注ぐ月光を受け、鋼の刃は冷たく、鈍く煌いた。

鞘を左の腰、ベルトに挟むように挿し入れると、青年はビルから宙へと身を躍らせる。

地上20メートル、躊躇い無く飛び降りた青年は、眼下のアリ達へ向かい、風を切って落下してゆく。

トンッ、と軽い足音を察知し、周囲を警戒していたアリ達が一斉に振り返った。

 その複眼の先には、自分達の中央に、忽然と現れた若い男の姿。

運の無い最初の一体は、それが何なのか認識する前に、煌く銀光によって首と胴を斬り離された。

「ギイッ!」とアリが鳴いた。

 青年の左右から、二体のアリの八本の腕が掴み掛かる。

 青年は身を低くし、それらの腕を素早く掻い潜る。

 その背後で、振り下ろされたアリの腕が、アスファルトの路面を抉り取る。

 青年はたった今首を斬り飛ばし、崩れ落ちる途中のアリの左脇をすり抜けつつ、右手に握った刀を一閃させた。

二体目のアリが、脇腹を深々と切り裂かれ、ガラスを擦り合わせるような声を上げながら倒れる。

 アリ達の中から飛び出すと、青年は振り向きざまに、開いた左手を最も近いアリめがけて突き出す。

 同時に、アリの頭部を中心に、バスケットボール大の球状に景色が歪んだ。

 歪みの中央に吸い込まれるようにアリの頭部が縮む。

 頭を掴むようにそこへ伸ばされた四本の腕も、陽炎の中の景色のように、細く引き伸ばされた。

青年の手が、何かを握り潰すように閉じられた次の瞬間、風船が破裂するような音と同時に大気が振動した。

 歪みが消えた後に残ったのは、頭部と腕が無くなったアリの姿。

崩れ落ちるアリを視界におさめつつ、青年は表情一つ変えないまま、正眼に刀を構える。

 自分が屠ったアリには、まるで関心を示していないようだった。

「ありゃ…、出遅れたかな?」

唐突に、場にそぐわぬのんびりとした声が、青年とはアリを挟んで反対側の暗がりから響いた。

アリ達が一斉に振り向き、青年は構えたまま、闇を見透かすように目を細めた。

 微かに口元が弧を描き、あるかなしかの微笑がその顔に浮かぶ。

 終始無表情だったこの青年が、初めて見せた表情の変化であった。

「遅いぞ。ユウト」

「そんな事言ったって…、ボクの体にはマンホールの穴は狭いんだよ。遠回りしなきゃならなかったの」

苦笑するような響きの、澄んだ、穏やかな声が応じ、やがて暗がりにシルエットが浮かび上がる。

それは見あげるような巨躯だった。

 身長は軽く2メートルを超えているだろう。白いシャツの上に薄い青のジャケットを羽織り、下はジーンズといういでたち。

 腕も脚も丸太のように太く、首も胴も腰もどっしりと太い。

 分厚い胸の前では首から下げた、青年と同じデザインの銀の認識票が揺れていた。

しかし何より特徴的なのは身体の大きさではない。

 その身体は、顔から指先に至るまでが金色の被毛に覆われ、頭部は人間のものではなかった。

 頭頂付近についた耳、前にせり出した鼻と口、その顔は獣そのもの。

 まるで黄金を溶かし込んだような見事な金色の体躯を持つ熊の獣人だった。

 獣の顔立ちの中で、澄んだ蒼い瞳が知性の光をたたえ、青年とアリを眺めている。

「残り三体か。タケシは休んでて良いよ。残りはボクが引き受けるから」

青年にユウトと呼ばれた獣人が言うと、獣人にタケシと呼ばれた青年は小さく頷き、腰のベルトに挟んだ黒塗りの鞘に刀を

納める。

アリ達は自分達を挟む形の二人の間で、何度も視線を往復させていた。

 が、ユウトが一歩踏み出すと、そちらに注意を集中させる。

無造作な、ゆっくりとした足取りで、獣人はアリ達に近付く。

 対してアリ達は、新たに現れた敵を前にし、その巨躯に圧倒されているかのように後ずさった。

 ユウトの身長はアリ達よりも頭半分以上高い。ボリュームに至っては倍以上ある。

ユウトは数歩間合いを詰めたところで、唐突に地を蹴った。

 一足飛びで4メートル以上の距離を縮め、金色の大熊は瞬き一つの間にアリ達の目前に迫っている。

 そのずんぐりと太い巨躯からは、信じられないほどのスピードで。

金色の右腕が淡く光を帯び、大気を破砕しながら、その進路上にあったアリの頭部を殴り飛ばした。

 腰を支点に、左腕を引き付けるようにして、肩ごと上半身を巻き込むように繰り出された重い拳。

 ハンマーのような拳骨で頭部を強打されたアリは、首を支点に側転するように吹き飛ぶ。

「ギイッ!」と、警戒の声だろうか、アリの一匹が声を上げた。

 間を置かず大熊の左腕が光を灯し、唸りを上げてそのアリの胴体に飛び込む。

 ボクシングの、フックからボディのコンビネーションを思わせる、一撃目から連続した、流れるような動きである。

 体をくの字に折り、殴られたアリは数メートルも宙を飛ぶ。

まるで大砲のようなボディブローでアリを殴り飛ばした大熊は、振り抜いた腕の勢いそのままに体を時計回りに回転させ、

残ったアリに右足を打ち込む。

 光の尾を引き、美しいラインを描いた後ろ回し蹴りは、とっさに防御に動いたアリの腕をへし折り、胸部へと飛び込んだ。

 最後のアリは、ほぼ真横に蹴り飛ばされ、壁に激突する。

ユウトがアリ達に向かって歩みだしてから、ほんの4〜5秒の出来事だった。

 一瞬で戦闘不能にされたアリ達は、もはやピクリとも動かない。

「いっちょあがりぃっ!」

ユウトは分厚い掌をパンパンと打ち合わせながら、口の端を笑みの形に吊り上げた。

 丈夫そうな鋭い牙が口元からちらりと覗くが、獰猛さよりも愛嬌を感じさせる顔になる。

「こいつらで全部か?」

タケシは動かなくなったアリを見回しながら、ユウトに歩み寄った。

「うん。下水道内で片付けられるだけはやったから。そっちは7体かな」

「俺も路地で7体。…トータル20か。結構居たものだな」

タケシは感心しているような、呆れているような微妙な口調でそう言うと、腰に挿していた刀を鞘ごと引き抜き、鞘の中

央を支点にするように、クルリと手の上で回転させた。

 すると、現れた時と同じように、鞘に収まった刀は宙へと消える。

「ここ数日いやに多いね、指定危険生物」

「全くだ。水際阻止するはずの港湾警備もあまりあてにはできない。まあ、お陰でこちらとしては仕事に困らないがな」

タケシが肩を竦めると、ユウトは片方の眉を下げ、口の端を微妙に吊り上げた。

 今度はどうやら苦笑を浮かべたらしい。獣の顔ではあるものの、意外なほどに表情豊かである。

青年は僅かに鼻をならし、傍らの獣人を見上げた。

「お前、臭うぞ?」

「だから下水道に居たんだってば。早くシャワーを浴びて臭いを落としたいところ…」

「それがいいな。さて、監査を受けて帰るとしよう。腹も減っているだろう?」

「ぺこぺこ〜。何かリクエストある?」

「ハンバーグが食いたい。できればチーズ入りの物を」

「了解っ。帰ったら早速準備するね」

満面の笑みで言ったユウトに頷き返し、タケシは携帯を取り出した。

「こちらカルマトライブ。アントソルジャー20体を掃討。付近に潜伏したインセクトフォームは殲滅したと思われるため、

これより撤収する。監査及び確認を求む」



現場から最寄りの交番、その地下の一室で、タケシは机を挟んで、若い、少し太めの警官と向き合っていた。

青年の後ろでは、ユウトが壁に背を預け、腕を組んでいる。首にタオルをかけているのは、体に染み付いた下水の臭いに耐

えかね、交番でシャワーを借りた名残である。

 やはり獣人の鋭い嗅覚には、下水道の残り香は堪えるらしい。

丸顔に眼鏡をかけた30代ほどに見える警官は、机の上に置かれたノートパソコンを操作していたが、やがて画面から視線

を離して口を開いた。

「アント20体、確認完了だそうだ…。ほいご苦労さん。今日はまた随分頑張ったなぁ」

警官の言葉に、ユウトは頬を膨らませる。

「頑張り過ぎなんですよ。カズキさんからも、少しは注意するように言ってください。タケシのアレは度が過ぎると体に堪え

るんだから…」

「ユウトは過敏すぎる。だいたい、力を使い過ぎたからといっても、数日間眠るだけだ」

「それが心配だから言ってるんだってば!」

ユウトは声を大きくし、次いで額を抑えてため息をついた。

「ま、仲良く喧嘩すんのは帰ってからにしてくれや」

警官はニヤニヤと笑いながら二人のやりとりを眺めて言った。

「続きは帰ってからじっくりやってもらうとして…、報酬の方は、明日の午後には口座に振り込まれるから、一応確認よろし

くな」

「判りました。…ところでカズキさん。今年に入ってから、第三種以上の危険生物が入り込むケースが随分増えている気がす

る。規模の大きい組織が動いているという事は無いだろうか?」

「どうかな…、キナ臭い話は多いが、多すぎて絞りきれない。でもって、いちいち調べるだけの人手も足りないっていうのが

今の実情でな…」

「…ここは元々そういう町ですからね…。それと、もう一つ聞きたい事が」

タケシはそう言って言葉を切ると、周囲を見回した。

「何故毎回、取調室で監査処理を?」

「あ、それボクも気になってた」

「いや、それはただ単に部屋が無くてだ。それに、ここは防音が効いてるから、もし一般人が地下に来ても、会話の内容まで

は聞かれないで済むって利点があるんだよ。…やっぱり落ち着かないか?」

警官、カズキは、苦笑いしながら応じた。



交番から立ち去る二人の後姿を見送るカズキの隣に、彼よりもさらに若い警官が並んだ。

「何者なんですかセンパイ?あの二人。よく来ますよね?まあ調停者なんでしょうけど」

後輩の問いに、カズキ警官は苦笑を浮かべた。

「知らなかったか?この町の治安を護る立場の人間が、それではいかんなあ」

恐縮したように身を縮めた後輩警官に、カズキは言った。

「と言っても、今年度に来たばかりじゃあ無理も無いか。二人の内、無愛想な人間が不破武士、デカい獣人が神代熊斗だ。そ

う言えば判るか?」

「え?…え?!フワとクマシロって?じゃああの二人がバジリスクとアークエネミー?」

何かに気が付いたのか、後輩警官は驚きを隠せない様子だった。そんな後輩に、

「カルマトライブ。チームメンバーたった二人の小規模チームでありながら、東護町が誇る、国内屈指の調停者チームだ。お

まけに二人ともまだ若い。実はお前より年下だ」

カズキは、まるで自慢の弟達でも紹介するように、少し誇らしげに笑いながら言った。



調停者とは、一口に言えば、自警団を職業化したようなものである。

年々増加傾向にある、非合法に生産された危険生物…、いわゆる生物兵器を捕縛、あるいは始末する、戦闘と狩りのプロフ

ェッショナル。

 そして裏の社会と表の社会の境界を監視し、調停する者達。

警察からの要請を受けて危険な生物を処理する事もあれば、民間人から依頼を受けてボディーガードをする事もあり、時に

は裏社会での組織同士のトラブル解決まで幅広くこなす。

そして、調停者の最大の目的は、レリックと呼ばれる、表の社会に出回ってはいけない品物を回収、あるいは破壊する事で

ある。

調停者になるには、国家試験を受けて合格しなければならない。

 義務教育を終え、この国の国籍を持っている者なら誰でも試験を受けられるが、調停者になる為には、はっきり言って一般

教養は重視されない。

 何よりもまず、高い身体能力と、鋭い感覚、そして危険生物の専門的な知識が重視される。

さらに、命をかける職業にもかかわらず、よほどの成功を収めない限り、収入が安定しない事が最大のネックだった。

 そのため、好んで調停者を目指す者はあまり多くは無い。

 さらに、厳しい試験を抜けられるものは、だいたい受験者の3割以下。おまけに新人の内に命を落とす者も多い。

 それゆえに、調停者は、制度が発足して以来60余年、いつの時代も不足していた。

職にあぶれた者や、腕に自信がある者。

 スリルを求める者や、社会の為になる事をしたい者。

 調停者となる者はそれぞれの理由があって、この職業を選んでいる。

 そして、タケシとユウトの二人もまた、それぞれの事情により、調停者を生業としていた。



「…だいたい25、6万といった所だろうな、今日の稼ぎは」

「へえ、結構稼げたね」

ソファーに身を沈め、夕刊を広げていたタケシが呟くと、その右手側、リビングとつながっているキッチンで、夜食の用意

をしていたユウトが感心したように応じる。

調停者は命がけの仕事である。命を天秤にかけた仕事での、この報酬が高いのか安いのかは判断が難しいところである。

 しかし二人は、この報酬に概ね満足していた。

カルマトライブ調停事務所。

 繁華街から少し離れた、比較的静かな場所に、二人の事務所兼住居のビルはあった。

 周囲は住宅と商家が混じり合う、地元の商店街といった趣の通りに面している。

 もっとも、開発された新区画に人が流れて行くため、シャッターを下ろしている店も少なくはない。

事務所兼住居のビルはレンガ造りの四階建てで、一階が車庫兼倉庫だが、実際には車は入っていない。

車庫のシャッターの右脇にある階段を昇ると、二階が仕事用の事務所になっている。

 応接室や、資料室など、仕事用の部屋はこの階に集中していた。

三階は二人の住居で、それぞれの部屋と、倉庫になっている空き部屋、リビングにキッチン、そしてユウトの強い希望によ

って設置された、銭湯顔負けの大浴場がある。

四階は三階と同じ間取りなのだが、今は使う者のない空き部屋が並んでいた。

屋上は庭園で、その一角はユウトの趣味と実益を兼ね、家庭菜園になっている。

元々ビジネスホテルだったものを改築したこのビルは、二人で住むにはかなり広く、実はスペースを持て余していたりもする。

「はい、お待ちどぉ」

「悪いな。さっそくいただこう」

ユウトがハンバーグと野菜入りのコンソメスープ、ボンゴレスパゲッティをテーブルに並べると、タケシは新聞を畳んで横

に置く。

 いかつい外見に似合わず、ユウトは穏やかな性格で、料理を初めとした家事が得意だ。…余談だが、青年は家事全般が殆ど

…もとい、全くできない。

『いただきます』

二人は声を揃え、料理に手を合わせると、さっそく食事に取り掛かる。

「どう、美味しい?」

「ん、美味い」

ユウトの問いに、ハンバーグを飲み込み、タケシが応じる。

 こうして仕事を終えて過ごす平穏なひと時が、ユウトは何よりも大好きだった。

他愛の無い話をしながら食事をする。テレビを見る。風呂に入る。そして寝る。

いつ唐突に終わるかもしれない、そんな生活だからこそ、平穏なひと時を大事にしたいと、心からそう思っている。

タケシが食事を終える頃には、ユウトはその三倍以上の量をペロリと平らげており、手馴れた様子で食器を片付け始めた。

「お風呂も沸いてるよ」

皿をキッチンへ運びながらユウトが告げると、再び新聞に目を通していたタケシが顔を上げた。

「今日は、皿洗い手伝おうか?」

「んふふ。珍しいね、どうしたの急に?でも、すぐ終わるからまた今度頼むよ」

「なら、マッサージでもするか?」

僅かな沈黙の後、ユウトは微妙な表情で振り向いた。蒼い瞳が疑わしげに青年を窺う。

「…また、新しく欲しい刀が?」

詰問するような口調に、タケシは無言、無表情のまま新聞に視線を落とした。

「車を買うまではお預けだよ。ただでさえキミのコレクションはお金が掛かるんだから」

「ただのコレクションとは違うぞ?実際に活用している」

「今持ってるのが使えてるなら問題無いでしょ?」

「名刀が俺を呼んでいるんだ」

「それ、空耳だから」

そっけなく言い返し、ユウトは食器を洗い始める。タケシは視線を上げ、その背中をじっと見つめた。

「なあ…」

「ダメっ」

「………」

しばしの沈黙の後、ユウトは食器を洗う手を止めて振り返る。

 懇願するような光を湛えた目で、タケシはじっとユウトを見つめていた。

(弱いんだよねえ、この目に…)

ユウトは諦めたように苦笑し、ため息一つ。

「仕方ないなぁ…。あまり高いのだったらダメだよ?」

嬉しそうに、微かな笑みを浮かべたタケシに、しかし釘を刺すのも忘れない。

「ただし、買うのは次に纏まったお金が入ってから。今月はまだ水道光熱費の支払いも残ってるんだから」

「解った。それでもいい」

タケシは微笑みながら頷く。

(結局押し切られちゃったけど、本当は、こうやって流されるのは良くないんだよなぁ)

そう思いながらも、ユウトは最近、相棒に押し切られる事が多いような気がしていた。

「ところで…、さっき聞きそびれたんだけど」

食器を片付け終え、テーブルを挟んで、絨毯の上に腰を降ろしたユウトを、タケシが見つめる。

 青年も180近い長身なのだが、体の大きさがだいぶ違うため、ユウトが床に直接腰を降ろすと、会話しやすい高さになる

のだ。

「今日は、何回力を使ったの?」

「…1回だけだ」

「嘘でしょ?」

即座に切り返したユウトに、タケシはそっと目を逸らしながら答える。

「3回だったか…?」

「本当に?」

じっと自分に注がれる視線に、結局タケシは耐え切れなかった。

「刀の招送還以外に…5回使った…」

怒っているかと思い、ゆっくり視線を戻すと、ユウトは眉を八の字にし、じっとタケシを見つめていた。

 ユウトは、能力を使うことでタケシの体に副作用が起きる事を、心底心配しているのだ。

「大丈夫だ。それほど本気で使ったわけじゃない。体も何とも無い」

慌てたように少し早口で言いつくろったタケシから、ユウトはふっと視線を逸らす。



空間歪曲能力、とでも呼ぶべきか、タケシには空間を歪ませる能力を持つ。

 他に類を見ない、正式登録されている限りは、国内で唯一の能力者である。

この能力を応用する事で、物体であればあらかじめ歪ませた空間に潜ませておき、自在に取り出すことができるし、頭上の

空間を歪ませてから戻す事で、歪んだ空間が元に戻ろうとする復元力を利用し、数十メートル分もの落下速度を打ち消すこと

もできる。

 さらに、アリにおこなったように、空間の歪みを直接対象に重ね、歪みの向こう側に放り込む事もできる。

 これは理論上破壊できない物質は存在しない、強力無比な攻撃手段でもあった。

この能力が祖先から遺伝したものなのか、それとも突然変異的に彼の身にのみ宿ったものなのかは、両親を知らない彼には

解らない。

 いや、正確には三年半以上前の事を思い出せない彼には、知る術が無い。

タケシは何かの事故にあったのか、記憶を失っている。

 ここ三年半程度の分しか記憶を持たず、身元もはっきりしない彼にとって、ユウトは仕事上の相棒という枠を超え、ただ一

人の肉親のような存在であった。

 心配をかけたくないとは思うが、しかし、足手まといにもなりたくない。耐えがたいジレンマがある。

能力を限界近くまで使用すると、急激な眠気に襲われることはある。

 そして、眠りに落ちたら丸一日、時には数日の間目が覚めない。これが彼の強力無比な能力の代償…、副作用である。

かつて、やむを得ない状況で、タケシは能力を限界まで使ったことがある。

強力な力ではあるが、やはり人の身には過ぎた能力なのか、能力の使い過ぎはタケシの体に大きな負担をかける。

 結果から言えば、限界を迎えたとたんタケシは気を失い、半月もの間眠ったままになった。

 気を失った時、もしもユウトが傍に居なければ、タケシの命は無かっただろう。

彼は今も、病院で目覚めた時に目にしたユウトの顔が忘れられない。

 蒼い瞳に涙を一杯に溜め、声も出せずに、震える両手で自分を抱きしめた、あの時の顔は…。

その後、目覚めてしばらくの間は、体の衰弱が酷く、まともに動けるようになるまではさらに半月がかかった。

 能力の使用は基本的に精神を消耗させる。しかし、ある一定の度合いを越えれば、あるいは生命力そのものも代償に持って

いかれるのだろう。

 ユウトには話していないが、タケシはそう考えている。

もちろん、能力にだけ頼るつもりは無い。だからこそ剣の腕を毎日磨き、トレーニングも欠かしてはいない。

 しかし、調停者が相手にするのは、人を大きく上回る能力を持つ人外の存在であり、力を使わざるを得ない事もある。

 必要な事態になれば、例え自分がどうなろうと、最後の一滴まで力を振り絞る覚悟はできている。

 一年半前、ユウトを失わない為にそうしたように…。



「もう…、あの時みたいなのは、二度とゴメンだからね…」

「ああ、解っている…」

ユウトは不安げな表情で押し黙り、タケシは済まなそうに目を伏せた。

「さあて、反省してるみたいだし、話は終わりっ!」

務めて明るい口調で言うと、ユウトは笑みを浮かべて立ち上がった。

「もう遅いし、お風呂を済ませよう。タケシが新聞読んでるなら、先に入っても良い?」

「ああ」

「お風呂上がったら、マッサージしてくれるんでしょ?」

「もちろんだ」

タケシは、鼻歌まじりに部屋を出て行くユウトを見送り、考える。

いつまで、この生活が続けられるかは判らない。

 だからこそ、せめて最後のその時が来るまでは、ユウトには、なるべく多くの時間を、笑顔で過ごして欲しかった。