第十話 「指環奇談」(後編)

アケミを連れて工場から飛び出したユウトは、首尾良くヒョウブ達の乗ってきたワゴン車を見つけた。キーが付いている事

を確認したユウトは、窓ガラスを割ってロックを解除し、窮屈そうに運転席へ体をねじ込む。

「そっちから乗って!」

乗り込んだユウトがエンジンを掛けると同時に、助手席のドアを開けたアケミが、悲鳴に近い声を上げた。

「ユウトさん!あれ!」

振り返ると、いつのまに現れたのか、工場の入り口前に立つ、夏だというのに黒いコートを着た異様な女の姿が、視界に飛

び込んできた。

「新手!?」

ユウトは女の姿を確認すると、アクセルをいっぱいに踏み込んだ。

同時に、工場の入り口に立っていた烏丸の体が、ふわりと浮き上がる。

「あ、あ、あ、あれ!あのひと空飛んでますよ!?」

重力操作によるものか、烏丸はコートをなびかせ、鳥が飛ぶように車に迫った。アクセル全開のワゴン車を、苦もなく追っ

てくる。

「嘘でしょ!?あれも指輪の所持者!?…まずい、この間合いじゃあ…!」

ミラーを睨みながらユウトが呟くと、烏丸は口元に笑みを浮かべながら、三つの指輪をはめた左手を差しのばした。

放たれた重力波は、陽炎のような景色の歪みとなって、ワゴン車に迫る。

しかし、ワゴン車に達するかと思われたその瞬間、重力波は突如霧散した。

烏丸は驚愕を隠しきれない様子で目を見開いた。訳が分からず、一瞬呆然としたユウトだったが、アケミの手に握られた腕

輪がぼんやりと輝いている事に気づき、直感的に悟る。

「そうか、その腕輪はたぶん、指輪の力から使用者を守る制御装置の役割も持ってるんだ!」



「…つまり、指輪はもう一つ存在し、その所持者があの女という事か」

タケシはヒョウブを見下ろし、問いかけた。

左腕を肩の付け根から失い、血溜りの中に仰向けに横たわったヒョウブは、焦点の合わない、虚ろな瞳で、天井を見上げな

がら頷いた。

「烏丸恵実…。レディスノウのリングを持つ女…、出し抜いたと、思ったのだがな…」

ヒョウブは苦しげに顔を引き攣らせ、忌々しそうに吐き捨てた。

「事務所を襲ったのはお前達ではなく、あの女の方だったわけか」

タケシの言葉に、ヒョウブは弱々しく頷く。

「お前が持っていたスカディ、モリガンのリング、明美さんの持つニュクスのリングと、女神のブレスレット。烏丸という女

のレディスノウのリング。これらで全てか?」

「そうだ…。が、いかにお前らとて、三つの指輪を手にした、あの女には敵わんぞ…」

ヒョウブの警告に、タケシは刀を鞘に収めながら応じた。

「それは俺達が決めることだ」

ヒョウブは口の端を歪めた。どうやら苦笑したらしい。

「指輪を外すには…、所持者の指を切り落とすか…、所持者が死ぬかだが…、もう一つ、方法が有る…。指輪と腕輪を揃え、

本来の機能を回復させれば、自らの意志で外すこともできるはずだ…」

タケシはちらりとヒョウブの顔を見た。もはや顔には血の気が無く、死相が色濃い。

「何故、その事を俺に?」

「ふん、私に勝った褒美だ…。もう良いだろう、眠らせてくれ…」

焦点が合わぬ目で宙を見つめながら、ヒョウブは言った。タケシはその傍らに屈みこむ。

「最後にもう一つ。ベヒーモスとは、何だ?」

「…は、気にするな…、俺の勘違いだ…」

苦笑したヒョウブに、タケシはなおも問う。

「俺には過去三年分しか記憶が無い。だが、覚えの無いその言葉が、記憶を揺さぶった」

タケシの言葉に、ヒョウブの目が見開かれた。

「ヤツは…三年前に、ベヒーモスは消えたと…、そうか、そういう事だったのか…!」

「何を言っている?答えろ。ベヒーモスとは何だ?」

ヒョウブは薄く笑い、ぶつぶつと呟く。

「そうか…、ふふ、ベヒーモスと戦い、敗れたのならば仕方が無いな…。とんだ皮肉だ…、まったく、私は運が無い…」

ヒョウブはゆっくりと目を閉じた。そしてそのまま、二度と目が開くことは無かった。

タケシは短く黙祷を捧げると、踵を返し、地上を目指した。



「ええい、しつこいっ!」

ユウトはバックミラー越しに、宙を飛んで追って来る女を睨み、舌打ちした。

「き、来ますよ!」

助手席から後ろを振り返っていたアケミが、指輪の共鳴を感じて警告する。

ユウトが急ハンドルを切るのと同時に、ワゴンの横で土砂が吹き上がった。

「さっきの男とは段違いだ。地味だと思ってたけど、重力を操る力も、このレベルまで来ると本当に厄介だね」

腕輪を所持するアケミが車内に居る以上、直接重力波をぶつける攻撃は無効化される。原因までは分からなかったものの、

腕輪の作用と見抜いた烏丸は、重力波を地面に這わせ、足下を崩して土砂を吹き上げてワゴンを横転させる作戦に出たのだ。

ユウト一人であれば、戦って負ける気はまったくしないが、相手はヒョウブ以上に強力な重力を操る。一時でもユウトの動

きが止められれば、その時点でアケミの命は無い。今は少女の身を護る事が最優先だった。

かといって、無関係な人々まで巻き添えにしてしまう恐れがあり、人通りのある場所まで逃げるわけにはいかない。この埋

立地内だけでは、逃げ回るのにも限界がある。

「アケミちゃん、良く聞いてくれる?」

ユウトは助手席の少女を横目で見ると、ある作戦を伝えた。それを聞いたアケミは、驚きのあまり上ずった声で聞き返す。

「え!?そ、そんな事…私がですか!?む、無理ですよ!」

「もしも駄目なら他の手を考えるから、とにかくやってみて!」

ワゴンは後輪を滑らせ、急激に方向転換した。向かう先は倉庫と工場の間の細い道。途中には長年放置された木箱や、錆び

付き、斜めに傾いだ小さなクレーンが見える。ワゴンが下を潜れるか否か、微妙な高さだった。

ワゴンは幅ギリギリのその通路に、全くスピードを落とさないまま突っ込む。

「なるほど、障害物を使って振り切ろうと言うのね…」

烏丸は鼻で笑うと、速度を落とさずに通路に飛び込んだ。

ワゴンは木箱を跳ね飛ばし、砕きながら進み、跳ね上げられた木片が、すぐ後ろの烏丸に降り注ぐ。それらは重力波で弾か

れるが、その作業を行いながら飛翔し続ける烏丸には、ワゴンに攻撃を仕掛ける余裕は無い。

先行するワゴンがクレーンの下を潜る。運転席側のフロントガラスの上部にクレーンの一部が接触してガラスが割れ、アケ

ミが悲鳴を上げた。天井を擦りながらワゴンはクレーンの下を抜け、激突の衝撃で跳ね上げられ、揺れ動くクレーンが通路を

遮る形になった。

「こんな事で!」

烏丸は怯まず、全く速度を落とさずに、クレーンの動きを見切り、下を抜けようとした。

その瞬間。

「今だ!」

ユウトの声に、アケミは後方を見据え、左手を伸ばした。

(イメージ…!重く、落ちていく、イメージ…!指輪から出ていく、波を…)

アケミはユウトに教えられたとおり、強くイメージする。指輪が、微かに熱を帯びたような気がした。

ガゴン、と音がして、クレーンが歪んだ。土台のあたりが不自然にくびれ、次いで完全に折れる。クレーンの先端が倉庫側

の壁にぶつかって突き崩し、倉庫の壁とクレーンが、丁度下をくぐり抜けようとしていた烏丸を巻き込んだ。けたたましい騒

音と共に粉塵が舞い上がり、烏丸の姿が飲み込まれる。叫ぶ形に口を開いていたが、崩落の轟音でその声は聞こえなかった。

「ナイス!アケミちゃん!」

ぶっつけ本番で見事に指輪の力を引き出したアケミに、ユウトは笑みを浮かべて親指を立てた。アケミは何が起こったのか

よく理解できていない様子で、引き攣った笑みを浮かべながら親指を立て返す。

しかし、これで終わったとは思えなかったユウトは、なおもアクセルを全開でキープし、ワゴンはタケシが居るはずの工場

目指して疾走していった。



狭い通路に立ち込めていた粉塵が治まると、クレーンと砕けたコンクリートの瓦礫が姿を現した。

高さ2メートル程の山となったそれが、突如瓦礫を四方に飛ばした。まるで噴火でもしたかのような瓦礫の山の中から、黒

いコートを羽織った女が立ち上がる。

憎悪の炎を両目に滾らせる烏丸。その右の頬は、瓦礫で傷つけられたのか、ざっくりと裂けていた。

崩れかかってくる瓦礫に向かい、咄嗟に重力波を放って盾としたのだが、細かい破片までは防ぎきれなかったのだ。

「おのれ…!小賢しい真似を…!」

烏丸は憤怒の形相で空をキッと睨むと、急激に上空へと舞い上がる。

50メートルほど上昇した所で静止すると、地上を睥睨し、疾走してゆくワゴンを見つける。

「もう力の出し惜しみはしないわ。今度こそ…殺してあげる!」

その左手が、ワゴンの、その行く手目掛けて伸ばされた。



ぞくりと、冷たい何かが背中を駆け上がる感覚に、ユウトは即座に反応した。ブレーキをいっぱいに踏み込むと同時に、助

手席へと体を倒し、アケミに覆いかぶさるようにして座席の背もたれごと抱え込む。

しっかりと抱え込まれたアケミの目は、ユウトの肩越しに、フロントガラスのすぐ向こうで岩盤が隆起し、壁となって立ち

はだかったのを捉えた。

少女が悲鳴を上げる暇も無く、ワゴン車は岩盤へと突っ込んだ。



岩盤に激突し、半分近く潰れたワゴン車の助手席から、ひしゃげたドアが勢い良く吹き飛んだ。

狭く潰れた助手席の入り口から、ユウトの右手が覗いている。

「…大丈夫、アケミちゃん?」

「は、はい、なんとか…」

助手席から転がり落ちるように降り出たアケミは、首をさすりながら顔を顰めた。ユウトが身を挺して護ったおかげで、ア

ケミの怪我は、軽いむちうちと打撲程度で済んでいた。しかし…、

「…!ユ、ユウトさんっ!?」

ユウトの左肩には、激突の衝撃で折れた窓枠が突き刺さり、貫通してシートに縫い止めていた。激しく打ち付けたのだろう、

右目の上がぱっくりと裂け、流れ出た血が顔の半分を赤く染めている。

「平気。頑丈なのが取り得だからね。そんな事より早く逃げて!あいつがまた追って…」

「追いかけるのも、もう飽きたわ」

突然の声は、ユウトの頭上から響いた。

いつのまにか、喜悦に顔を歪めた烏丸が、ひしゃげたワゴンの上に舞い降りていた。

「お前と正面切って戦うのはリスクが大きい。工場でのされた部下達を見て、心底そう思ったわ。でも、好都合な事に今は身

動きが取れないようね…」

烏丸の言うとおり、ユウトの体は潰れた座席に挟まり、全く身動きが取れない。負傷に加え、手足を動かす隙間がほとんど

無く、自力での脱出は困難だった。

「小娘は後でどうとでもなるが、お前にはここで潰れてもらった方が良いわね」

烏丸は勝ち誇ったように笑うと、左手を下へ向ける。それを見たアケミが悲鳴に近い声を上げた。

「待ってください!指輪と腕輪は差し上げます。ですから…」

アケミの懇願を、烏丸は鼻で笑った。

「どのみち、この獣人を片付けたら、お前を殺して奪うのよ。取引する必要は無いわ」

アケミは唇を噛み、一か八か、もう一度指輪の力を使う決心を固めた。

その左手を差し上げようとしたまさにその時、アケミは自分をじっと見つめるユウトに気付く。ユウトは激痛を堪え、肩を

貫かれている左手を動かすと、その手首を目で指し示した。

烏丸には見えていないそのジェスチャーで、アケミはユウトの言いたい事を悟った。

「さあ、お別れよ」

烏丸の腕から、重力波が放たれようとしたその時、アケミの左手が烏丸へと伸ばされた。指輪一つでは勝負になるはずもな

い。少女に嘲りの笑みを向けた烏丸は、驚愕に目を見開いた。アケミの手首には、あの腕輪が嵌められていた。

慌てて目標をアケミに移す烏丸、しかし、その腕から放たれた重力波は、発せられた瞬間に逆転した。放とうとした方向と

逆に発生した重力波は、烏丸の体を飲み込む。烏丸の体は夕暮れの赤い空に鮮血の彩りを添えながら、凄まじい勢いで遥か遠

くへと吹き飛んで行った。

これは、ユウトにとっても予想外の出来事だった。ユウトは単純に、腕輪の持つ防衛能力で、アケミの身を守らせようと考

えたに過ぎない。まさか、放たれた重力波を正面から跳ね返す、いや、逆転させてしまう程の能力があるとは思ってもいなかった。

アケミは呆然とした表情で、腕輪を見つめ、呟いた。

「腕輪が、頭に情報を流して…、教えてくれました。この腕輪は四つの指輪の制御装置であると同時に、力の源なんです。腕

輪はタンクで、四つの指輪は蛇口。指輪の力は、ずっと昔に全てが揃っていたときに、指輪に注がれ、残った力の残滓に過ぎ

ないって…」

ユウトは驚愕の余り言葉を失った。指輪が宿すあれほどの力すら、実はレリック本来の機能から言えば残滓に過ぎない。全

てが揃い、完全な状態になったなら、どれほどの能力を発揮するのか見当も付かなかった。

アケミは、突然ガタガタと震えだした。自分の手の中にある力がどれほどの物なのか、腕輪から知識を得た彼女にははっき

りと判るのだ。途方も無い力の片鱗を手にしていると実感し、アケミはそれに怯えていた。



弾き飛ばされた烏丸は、夕陽に赤く染まった水溜りの中から立ち上がる。起き上がろうとして激痛を感じ、泥に塗れた左腕

を上げた。烏丸は自分の腕を見て目を見開く。

周囲に、絶叫が響き渡った。

烏丸の左腕、その肘の上から先が、ぐしゃぐしゃに潰れていた。赤黒い肉の塊となった腕からは、所々、折れた骨が肉を食

い破って先端を覗かせていた。肉塊と言えるほどの有様となったその腕で、指輪をつけた三本の指だけが、爪に塗られた赤い

マニキュアも含め、まるで冗談のように無傷だった。

激痛と、喪失感、敗北感に、烏丸は天を仰いで絶叫を上げた。叫び続ける彼女は、自分の胸を突き破って生えている肋骨に

も、裂けた腹から零れている臓物にも、気付いていない。そして、自分の背後に立った青年の存在にも、もちろん気付いてい

なかった。

青年はその端正な顔に一切の感情を浮かべる事無く、手にした刀を、鋭く横に振るった。

絶叫が不意に途絶え、夕陽が染める紅の大気の中、ボールのような何かが黒い尾を引き、水溜りの中にボチャリと落ちた。



「大丈夫?アケミちゃん…」

ユウトの言葉にアケミはこくりと頷く。まだ青ざめてはいたが、だいぶ落ち着きを取り戻していた。

心の底からユウトは思う。もしも、指輪をつけ、依頼を持ち込む事になったのが、アケミではなく別の人物だったなら、た

ぶんこの依頼は達成できなかっただろうと。

アケミは頭が切れ、気丈で、機転が利く。そして何よりも、彼女は強かった。大の大人が巻き込まれたとしても、パニック

になるような状況の連続。その中に在って、彼女は自分を見失う事が無かった。

(アケミちゃんは、調停者に向いてるかもね)

ユウトはそんな事を考え、小さく笑った。次の瞬間、傷が痛んで呻き声を洩らす。

「だ、大丈夫ですか!?」

アケミに苦笑いを返し、ユウトは言った。

「平気平気。ちょっと傷んだだけ。でも、そろそろ来てくれないかなタケシ…」

「待たせたな」

唐突に聞こえた声に、ユウトは顔を上げ、アケミは驚いて回りを見回す。

「タケシ、どこに居るの?何してたの?」

声は、ユウトの後ろから返ってきた。

「車の運転席側に居る。そして、今は窓の中を覗き込み、お前の尻を見ている」

「馬鹿言ってないで、早くこっちに来てよ!」

顔を赤くしてユウトが抗議すると、タケシはワゴンの後ろを回り、二人の前にやってきた。青年はユウトの様子を見ると、

微かに表情を曇らせた。

「怪我をしたのか」

「大丈夫、かすり傷だから心配しないで」

ユウトが痛みを堪えて笑顔を作ると、タケシは小さく頷き、握った右手をアケミに差し出した。

開かれたその掌には、三つの指輪が乗っており、それを見たユウトとアケミは息を呑む。

「決着は、着いたんだね」

ユウトの言葉に頷くと、タケシはアケミの手に指輪を握らせた。

こわごわと指輪を見つめる少女に、タケシは告げる。

「スカディ、モリガン、レディスノウのリングだ。これに明美さんのニュクスのリングと、女神のブレスレットを加え、全て

揃った事になる。それと、ヒョウブの置き土産で、指輪の外し方も判った」

タケシの言葉に、ユウトとアケミは、きょとんとした表情で顔を見合わせた。

「それって…、指を切らなくても…?」

「私が死ななくても…?」

ユウトとアケミの言葉に頷くと、タケシは口を開いた。

「全ての指輪と腕輪をはめる事で、レリックは完全な機能を取り戻し、所有者の意思で外すことができるようになるそうだ。

早速試してみよう」

アケミは頷くと、震える手で、一つずつ指輪をはめていく。全ての指輪をはめ終えると、指輪と腕輪がぼんやりと光った。

アケミが息を呑んで見守る中、光は呼吸でもするように明滅し、やがて消えた。

「機能は回復したようだな…。明美さん。外してみるといい」

アケミは無言で頷くと、緊張した面持ちで、最初につけたニュクスの指輪をつまんだ。

ゆっくりと、しかしあっさりと指輪が抜けると、アケミはしばらく指輪を見つめた。ひとつ、またひとつと指輪を外し、最

後に腕輪を外して、全てが箱に収められた。

箱の中に詰め込まれた装飾品達を見つめると、やがて、緊張の糸が切れたのか、少女は嗚咽を押し殺し、顔を両手で覆って

泣き始めた。

アケミは、開放されたのだ。

「とりあえず、依頼達成だ」

涙を流すアケミを見ながらタケシが呟く。

そこへ、ユウトが申し訳なさそうに、控えめに声をかけた。

「あのさ…、ここから出してもらえると嬉しいんだけど…」

「判った。今JAFを呼ぶ」

「…JAFで良いのかな…」

携帯を取り出すタケシを見ながら、ユウトは微妙な顔つきで呟いた。



「いた!いだだっ!なんだかこの間も同じような…って、いたぁぁあああああい!!!」

救急病院の診察台の上で、ユウトは大声を上げていた。

リザードマンの水鉄砲で肩を抉られた時と同様に、年配の医師はユウトの肩の傷を、雑巾を縫うように縫合している。前回

と違うのは、右肩が左肩に代わっている事のみである。

タケシはユウトから視線を逸らし、病院まで監査に来てくれたカズキへと向き直った。

「左肩の傷と、目の上の裂傷は縫合する事になりましたが、全身の打撲と、数箇所の亀裂骨折は自己修復で足りるそうです。

しばらく安静に、風呂は我慢して過ごすよう、指導されました」

「綺麗好きなユウトにとっちゃあ、それが一番苦痛だろうなあ」

手当てが終わって涙目になっているユウトをちらりと見ると、カズキは苦笑いしながらノートパソコンを開いた。医師はや

はり看護婦を伴って出て行き、部屋には三人が残される。

「漆野兵武と烏丸恵実の二人については、今も身元調査中だ。まあ、どうせ裏の人間だ。この調子じゃあ、身元の判明は諦め

た方が良いかもしれん。それと、お前らが倒した黒ずくめの部下達だが、生きている奴らは逃げ去ったようだな。残っていた

死体の身元確認を継続中だが、こっちも望みは薄いな」

カズキはパソコンの画面を切り替え、別の情報を呼び出した。

「さて、本題のあのレリックについてだ…。重力操作能力という報告だったが、今の所、検査官の誰も力を引き出せないらしい」

タケシとユウトは顔を見合わせる。

「適性…、とでもいうものが必要なのかも知れん。依頼人のお嬢さんと、他の所持者の二人は、このレリックに適性があった

のかもな…。まあ、聞いたとおりのヤバい力なら、使える人間が限定されていた方が危険性は薄くなる。不謹慎な言い方にな

るが、平和のためには好都合だ」

タケシは頷き、ユウトは顔を曇らせて目を伏せた。確かに、万が一悪人の手に渡って使用されることを考えれば、使用者が

限定されるあのレリックは、危険性がいくらか軽減されているとも言える。だが、何故よりによってアケミなのだろうか?彼

女はまだ学生、16歳の少女なのに…。

カズキはユウトの顔を見て、ふっと微笑を浮かべた。

「安心しろ。上の方も、実験のためにお嬢さんを使うつもりは無い。あのレリックは一通りの検査が済んだら保管庫行きだ。

もう危険な目に遭う事もないだろう」

「そう、なんですか?…良かった」

警官の言葉を聞き、ユウトは心からほっとしたように安堵の表情を浮かべた。

「さて、それじゃあお疲れさん。大仕事を終えたんだ。ゆっくり休んでくれ」

立ち上がり、踵を返したカズキの背に、タケシは声をかけた。

「カズキさん。ベヒーモスという言葉、何処かで聞いた覚えはありませんか?」

カズキは振り返り、少し考えた後、自信無さげに答えた。

「うろ覚えだが、聖書か何かで見たような…、済まんが良く覚えていないな。それがどうかしたか?」

「…いえ、何でもありません…」

珍しく歯切れの悪いタケシの言葉に、ユウトとカズキは顔を見合わせた。



午後5時半、今日も客の来なかった事務所の前を、包帯で左腕を吊ったユウトが、竹箒で掃き清める。

土埃をちり取りにかきあつめると、ユウトは顔を上げ、ビルの隙間に消えていく太陽を、目を細めて見つめる。とろけたよ

うに空に滲む夕日は、まるでオレンジのように見えた。

ふと、視線を感じたユウトは首を巡らせた。通りの反対側から歩いてくる、少女の姿が目に飛び込む。

驚いたような表情のユウトと目が合うと、アケミは微笑んだ。首をギプスで固定してはいるものの、その歩みは軽く、痛そ

うな素振りは見えない。今日は学校の制服ではなく、薄い黄色のワンピースを身につけていた。

「アケミちゃん?もう退院したんだ」

「はい、おかげさまで、大した怪我ではありませんでした」

ユウトは安心したように笑顔を浮かべた。

埋立地での決着から二日。咄嗟の機転でユウトがクッションになってくれたおかげで、激突の衝撃で全壊したワゴンに乗っ

ていたにもかかわらず、少女は打撲とむち打ち程度で済んだ。大事を取って検査入院したものの、精密検査でも異常は無く、

先ほど退院する事ができたのだ。

「今回は色々と危ない目に遭わせちゃって、本当にごめんね」

「何を言うんですか。お二人がいなければ、たぶん命も無かったんですよ?」

ユウトが頬を掻きながら、申し訳なさそうに言うと、アケミは小さく吹き出した。

「立ち話もなんだし、上がっていってよ。お客さんも来なくて暇だし…」

ユウトは言葉を切り、鼻をヒクヒク鳴らす。その視線が、アケミの右手から下がる、大きな紙袋に移った。そこから流れ出

る微かな香りを、鋭い鼻が嗅ぎつけていた。

「あ、これ差し入れにと思って。私が好きなお菓子屋さんのケーキなんですが」

「潮満屋のシュークリームとチーズケーキ、ミルフィーユだね?ボクも大好き!」

満面の笑みを浮かべると、ユウトはアケミを伴い、足早に階段を登って行った。



「報酬は、これくらいでどうだろうか?」

「え?でも、それでは…」

タケシの提示した額は、前約束で提示していた基本額の、半額以下だった。

「結局、怪我までさせてしまったうえ、明美さんが自力で対処した部分も多い。客観的に判断しても、相場通りの料金を取る

わけにはいかない。それに、レリックの回収によって、警視庁からいくらかの報奨金も出る事になった。こちらの収入につい

ては心配無用だ」

「そう言うこと。こうして差し入れまで貰っちゃってるし、貰う分はもう十分だよ」

嬉々として3つ目のシュークリームに取りかかりつつ、ユウトはご満悦の様子で頷く。

二人の好意に甘えることにし、深々と頭を下げたアケミに、タケシはここ二日間で調べが付いた分の報告を始めた。

「ヒョウブに関しては身元が分からなかったが、烏丸という女は判明した。やはり非合法にレリックを収集している組織の構

成員だったらしい。海外の組織だが、今回の件でこの国に進出してきた疑いが濃厚になった。警視庁はこれから忙しくなりそ

うだな」

「この町にも、その組織からまた誰かがやってくるのでしょうか?」

不安げに呟いたアケミに、タケシが頷いた。

「可能性は有る。高いと言ってもいいだろう。この町は少々特殊な事情によって、そういった連中にとっては魅力的だからな」

また、今回のような事が起こるのだろうか、そう思って俯いたアケミに、タケシは淡々とした口調で続けた。

「もちろん、好きにさせるつもりは無い。そのために俺達調停者が居る」

「その通り。何がどれだけ来たって、片っ端から叩き潰してやるんだから」

ユウトが力強く頷き、分厚い胸をドンと叩いた。

アケミは二人を頼もしそうに見つめると、笑みを浮かべて頷いた。