第十三話 「遠い記憶」
ユウトは雪の中を駆けていた。
見渡す限り広がっているはずの雪原は、荒れ狂う吹雪で白一色に染め上げられ、どこまでが地面でどこからが空なのかも分
からない。
氷点下25℃を下回る風が吹きすさぶ中、ユウトは声の限り叫びながら、雪の中を駆けてゆく。
先程まで聞こえていた剣戟の響きも、銃声も今は聞こえず、ただただ激しい風の音だけが耳に届く。
舞い踊る雪の中、雪上車のシルエットを捉え、ユウトは足を速めた。
先程まで皆と休憩していたキャンプ地に戻ってきたユウトは、その光景に立ち竦んだ。
周囲には、物言わぬ骸となりはてた仲間達。
雪は所々朱に染まり、その上に容赦なく降り積もる雪が、仲間も、血痕も、一緒くたに覆い隠してゆく。
ユウトは声の限りにその名を呼ぶ。
激しい嵐にも負けぬよう張り上げられたその声に、しかし応える者はない。
呼びかけながら雪上車を回り込んだユウトは、後部ハッチが開けられている事に気付く。
足早に後ろに回り込むと、雪上車の中に保管されていたはずの、輸送途中のレリックも消えていた。
しかし、ユウトはハッチの中など見てはいない。開かれたハッチに寄りかかるようにして座り、微かな笑みを浮かべて座っ
ている者に、その視線が注がれていた。
金色の髪をした美しい女性が、微笑を浮かべたまま事切れていた。
「わぁぁぁぁああああああああああああああああああああああっ!!!」
絶叫を耳にし、ユウトは目覚めた。
その声が、自分の上げたものだと理解するまで少しかかった。
動悸が激しい。全身に汗をかき、呼吸が乱れていた。
大熊は身を起こし、右手で額を押さえる。
「…夢…」
呟くと当時に、部屋のドアが激しくノックされる。
「ユウト、どうした?」
返事を待たずに部屋に入ってきたタケシは、珍しく緊迫した表情を浮かべていた。
「だ、大丈夫。ちょっと悪い夢を見ただけ…」
そう答えると、ユウトはため息をついた。
「起こしちゃってごめんね。もう大丈夫だから」
「そうか。それなら良いが…」
タケシはユウトの様子を観察するように視線を注いだ後、部屋を出て行った。
その後も、ユウトはベッドの上でしばらくぼーっとしていた。無意識の内に毛布を握り締めた手が、小刻みに震えている。
やがて、ユウトはゆっくりとベッドから降りると、汗で湿った水色の地に白い水玉模様のパジャマを指先で摘む。
「…シャワー浴びよう…」
掠れた声で呟くと、ユウトは静かに部屋を出た。
ユウトは立ったままシャワーに顔を向け、目を閉じている。
顔から全身にかけてシャワーを浴び、汗を洗い流しながらも、脳裏にこびりついた夢の残滓は、いつまでも流れ落ちては行
かなかった。
やがて、ユウトはシャワーを出したまま、タイルの上に直接腰を下ろし、膝を抱えた。
「…夢にうなされて声を上げるなんて…、子供かっての…」
そう呟くと、抱えた膝の上に顔を伏せた。
「………さん………」
小さな、小さなその呟きは、シャワーの音にかき消され、ユウト自身の耳にも届かなかった。
「おはよう!」
「おはよう…」
エプロン姿でオムレツを作っていたユウトが元気に挨拶し、タケシはぼーっとした顔でそれに応じる。
「夕べはごめんね?真夜中に起こしちゃって」
「気にするな。久しぶりで少々驚いたが、平気ならそれでいい」
タケシはそう応じると、ソファーにかけ、テーブルの上に置いてあった新聞を広げる。
(丸一年近くあの夢は見なかったのになぁ…。何か思い出すような事あったっけ?)
ユウトはキッチンの壁に止められたカレンダーを見る。
(…あ…。来週は命日なんだ…)
そんな事を考えていたユウトは、焦げ臭い煙に鼻をヒクヒクさせ、ハッと我に返る。
「あー!」
オムレツは、フライパンの底にへばりつき、真っ黒に焦げていた。
珍しく料理を失敗したユウトがオムレツを作り直している間に、タケシは鈴の音を耳にして立ち上がる。
青年が白猫を部屋に招き入れ、来客を告げると、ユウトは手早くミルクを温めた。
マユミは部屋に残る焦げ臭い匂いを嗅いで、タケシに首を傾げる。
とある事情により、人としての記憶と意識を白猫の身体に宿すことになった彼女は、話す事こそできないものの、人と全く
同じ思考能力を持っている。
「夢見が悪かったらしい。心ここにあらずといった様子だ」
青年が小声でそう告げると、マユミはキッチンで忙しく動き回っているユウトの背を見つめた。
「今夜あたり、どこかに出かけるか?」
夕暮れ、今日も客が来なかった事務所の応接室で、タケシはユウトに声をかけた。気分転換をした方が良いだろうとのマユ
ミの意見を採用したのである。
「ん〜…、今日はいいや。なんとなく気分が乗らない…」
ユウトは、丸一日元気が無かった。以前も度々うなされて跳ね起きる事があったが、ここしばらくはそんな事は無かった。
ユウトが過去に体験した事件、その強烈な記憶が見せる夢らしいが、タケシも詳しい内容は聞いていない。ユウトが話した
くないならば、無理に聞くつもりは無かったからである。
夕食を終えると、ユウトは早々と自室に籠もってしまった。
普段なら、テレビを見たり、他愛もない会話をしたりして深夜まで過ごすものだが、どうやらその元気も無いらしい。
ユウトの様子が気になったのか、夜になって再び訪れたマユミに、タケシは問いかける。
「こんな時俺は、どうしたら良いのだろうな」
白猫は考え込むように首を微かに傾げる。
「何をしてやれば良いのだろう。どうすれば、ユウトは元気になるだろう」
どんな敵をも追跡するバジリスクの洞察力も、こういう時は役に立たない。
人の心理や行動パターンを洞察する事はできても、感情の機微を良く理解できていない青年には、こういう時にどうするべ
きかが分からないのだ。
ユウトが苦しんでいるのは分かる。だが、その理由も、いかなる心境にあるのかも分からない。ただ漠然と、辛そうだと感
じられるだけだ。
そうやって青年が悩んでいると、マユミが、にぃ、と小さく鳴いた。
何か言いたいことがあるのだと察し、タケシは自室から一枚の紙を持ってくる。
机の上に広げられたその紙には、ひらがな50音と1から0の数字、そして「はい」「いいえ」の文字が書かれていた。
一見、こっくりさんにでも使うようなそれは、マユミとの対話用のものである。
マユミは机の上にちょこんと座り、紙に書かれた文字を前脚で次々と指し示す。
「原因を聞いてみたら?」
マユミはそう伝えた。
「だが、ユウトが話さないという事は、俺に言いたくないのではないだろうか?」
タケシの問いに、マユミは再び言葉を綴る。
「聞いてみるべき。話さないのではなく、話すきっかけがなかっただけかもしれない」
「話すきっかけ?」
「辛い事も、話すことで少しは楽になる事もある」
「そういうものか?」
「そういうもの」
タケシはしばらく考えこみ、やがて頷いた。
「分かった。試してみよう」
マユミは、にゃ〜ん、と一声鳴くと、最後に一言、青年に伝えた。
「がんばって!」
指し示された言葉を見て、タケシは微かな笑みを浮かべた。
「ユウト。起きているか?」
タケシはユウトの部屋のドアをノックし、声をかけた。
「うん。なに?」
返ってきた返事は、言葉こそいつも通りだが、やはり元気がない。
タケシがドアを開けると、ユウトはベッドの上で身を起こした。
別に寝ようとしていた訳ではなく、ユウトはただぼーっと天井を眺めて物思いに耽っていたのだ。だから灯りも付けたまま
だった。
「少し話がしたい。構わないか?」
「うん。いいけど…」
ユウトが身体の向きを変え、ベッドに腰掛ける形になると、タケシはその隣に腰を下ろした。
カーペットもカーテンも壁紙も、水色と白、桃色などの淡色で統一された部屋は、あまり家具が置かれていない。衣類用の
クローゼットとベッド、書き物用の小さな机、他には握力を鍛えるグリップや、ダンベルが置いてあるだけだ。これは部屋が
狭くなるのをユウトが嫌うからである。
「話って?」
タケシは首を横に向け、ユウトの顔を見つめた。
「どんな夢を見てうなされているのか、聞いておきたかった」
ユウトは微かに身じろぎした。蒼い瞳が哀しげに潤む。
「…無理にとは言わない。お前が話したくなければそれで構わない。だが、他者に話すことで、少しは楽になる事もあるらしい」
タケシはそれだけ告げ、反応を待った。
ユウトは、しばらく経っても何も言わなかった。
やはり、話せる事ではないのだろう。そう判断したタケシが腰を上げようとしたその時、ユウトはポツリと呟いた。
「ボクがなんで調停者をしているか…」
ユウトはぼーっと宙を眺めながら続ける。
「前に一度、話した事があったよね?」
「ああ。憧れたハンターが居たと…」
タケシは出会ったばかりの頃に交わした会話を思い出す。
「その憧れてた人ね、…殺されたんだ…」
「ラグナロクにか?」
目を鋭くしたタケシが問うと、ユウトは小さく頷いた。
ユウトは小学校を出た12歳の春、知り合いを頼って北原の学校へと留学した。
北原とは、この星の北端から永久氷壁までの範囲を指す、正式にはどこの国にも属していない大陸である。イヌイット達が
住まい、白狼や雪虎、熊や海獣達が暮らす極寒の地であり、多くのレリックが、ほぼ原型を留めたまま氷の下から見つかる特
異な土地。
様々な国がレリックの発掘を試みるこの地には、各国の政府によって派遣された科学者や、それを護衛する多くのハンター
達が集まる。ハンターとはつまり、ユウトの国でいう所の調停者である。
ユウトが頼った相手も、そんなハンターの一人だった。
そのフレイア・ゴルドという名の女性ハンターは、ユウトの両親と交友関係にあり、ユウトが幼い頃から知っている相手だった。
美しい金髪に蒼い瞳、自分と同じ目と毛の色をしたこの女性が、ユウトは大好きだった。
フレイアもまたユウトを可愛がり、将来は調停者になりたいというユウトに、様々な国で遭遇した事件の事を、よく話して
聞かせた。
女性ながら一流のハンターであり、100名もの隊員を率いる隊長であるフレイアに、ユウトは強い憧れを抱いていた。
幼い頃から神代家の一員として、英才教育と訓練を施されてきたユウトは、北原のハンター養成校において群を抜いて高い
適性を示した。そして、普通の若者が中学を卒業する歳になった時には、調停者として十分な知識と基礎能力、ついでに大学
卒業レベルまでの知識を修めていた。
そんなユウトが、フレイアの仕事への同行を求めたのは、当然の成り行きだった。
卒業すれば国に帰る事になっている。そうなったらフレイアの仕事を間近で見られる機会はしばらく無い。ユウトの熱心な
説得に根負けし、フレイアはしぶしぶ同行を許可した。
「レリックの輸送任務だったんだ。雪上車でレリックを運んで、ボクらはそれを警備する。順調だったんだ。目的地まで何も
起こりそうになかった。…つまらないなぁ、なんて思ってたから、バチが当たったのかな…」
目的地まであと二日となったその日、予定していた進行ルートで雪崩が起きた。
見習いとして同行し、特に仕事も与えられなかったユウトは、せめて何か役に立とうと、進路偵察部隊に加わった。
しつこいまでに、気をつけるようにと繰り返すフレイアに、ユウトは苦笑を浮かべながら出発の挨拶をした。…それが、二
人が交わした最期の会話になった。
「現場に着いた時に、火薬の匂いに気付いた。雪崩は、爆薬で起こされたものだったんだ。レリックを狙うやつらが、こっち
の戦力を分断しようとしたんだ…」
敵の狙いに気付き、深い雪の中でも敏捷に動けるユウトは、単身で引き返そうとした。副隊長が引き留めようとした。
言うことを聞かないユウトに、副隊長は言った。「隊長の娘を危険な目に合わせる事はできない」と。
「小さい頃に亡くなったお母さんを、ずっと本当の母親だと思っていた。でも違ったんだ…。ボクは、お父さんとフレイアさ
んとの間に生まれた子供だった。だからボクは、本来赤銅の被毛のはずの神代の血筋でありながら、金色の毛と蒼い瞳を持っ
て生まれてきたんだ…。…確かに驚いたけど、「ああ、そうだったんだ」って納得もできた。自分でも意外なくらいにあっさ
り受け入れられたよ。…きっと、心のどこかでは気付いていたんだと思う…」
副隊長の制止を振り切り、独り引き返したユウトは、全滅した部隊の中でフレイアの亡骸を見つけた。生きている間、一度
も母と呼ぶことが出来なかった生みの親に縋り付き、ユウトは声を上げて泣いた。
現地に残された奇襲者数名の遺体から、襲ってきたのは米国最大級の組織、ラグナロクの部隊である事が判明した。その数
日後、ユウトは副隊長に連れられて帰郷した。フレイアの遺骨も一緒に…。
「帰ってから、兄さんを問い詰めた。そうしたら、ボクが神代家で両親の子として育てられる事を望んだのは、フレイア母さ
ん自身だって教えてくれた…」
ユウトは言葉を切り、深いため息をついた。
「ラグナロクへの復讐…。それも、ボクが調停者を続けてる理由…」
「…復讐か…」
穏やかで明るいユウトには似つかわしくない言葉だったが、タケシは納得した。首都でのマーシャルローの際にユウトが見
せた、凶暴とも言えるほどの攻撃的な一面。アークエネミーの名を冠される事になったあの戦いでのユウトは、母の仇討ちの
念に駆られていたのだろう。
「本当はね、数年この国で経験を積んだら、また海を渡ろうと思ってたんだ。でも、結局今もここに居る」
無言で話を聞いていたタケシに、ユウトはふっと笑いかけた。
「キミと出会わなきゃ、たぶん二年前にはそうしてただろうね」
「それは…、済まなかったな」
青年はどう答えれば良いか迷った末、謝った。それを聞いたユウトが、声を上げて笑う。
「あははは!なんで謝るの?」
可笑しそうに笑うユウトは、いつものように笑顔を浮かべていた。
「良かった」
自分を見ながら呟いたタケシに、ユウトは首を傾げた。
「元気が出たようだな。やはり、お前はいつもどおりがいい」
「…そう?」
ユウトは頬を掻きながら苦笑した。
「本当だね。話したらなんとなくスッキリした」
「辛い話をさせて、済まなかったな」
「ううん。聞いてくれて、ありがと…」
ユウトはそう言って笑うと、ベッドから立ち上がった。
「元気が出てきたら、なんだかお腹減っちゃった。タケシも何か食べる?」
「多くはいらないが、酒のつまみがあると嬉しい」
「了〜解!」
二人は連れだって立ち上がり、部屋を出る。
顔にこそ出さなかったが、ユウトが過去を話してくれた事が、そして、少しは元気を出してくれた事が、タケシには嬉しかった。
ユウトもまた、ずっと黙っていた事をタケシに話すことができ、胸のつかえが取れたような気分だった。
過去を消す事はできない。だが、乗り越えて進むことは出来る。
乗り越える意志があるからこそ、ユウトは倦まず弛まず、ひたむきに歩き続ける。
悲しい別れを経験したからこそ、ユウトは強く優しく、そして暖かい。
その姿を、すぐ側で、もっと見ていたいと、タケシは思う。
二人の絆は、また少し深まっていった。