第十四話 「純白の来訪者」
雲一つ無い真っ青な青空から、容赦なく太陽が照りつける。
夏の猛暑が厳しい8月の初日、その訪問者は突然やってきた。
今日も今日とて閑古鳥、来ない客を待ち続け、開店休業真っ盛りのカルマトライブ事務所の前で、左手に大きな旅行鞄を持
ち、右手に持った地図を顔の前に持ち上げているのは、飛びぬけて大柄な男だった。男は地図から視線を外して目の前のビル
を見上げる。
「…本当にここっスかね…」
男は疑わしげに眉根を寄せた。
元々は、毎日ユウトが磨いていた看板があったのだが、とある不幸な事件で壊れてしまい、今は調停者の事務所である事を
示す物は、外からは見あたらない。
加えて男が手にしている地図は、何かの広告の裏にかなり乱雑に手書きされたものだった。駅からビルまでの必要最小限の
道順しか記されておらず、加えて目印になりそうな建物等の記載も一切無い、不親切極まる地図であった。これでは確信が持
てないのも無理はない。
ビルに入ろうか躊躇していると、通りかかった近所の主婦が、男に声をかけた。
「あら、もしかして貴方、ユウトちゃんのご兄弟?」
声を掛けられた男は、覚えのある名前を耳にして安堵する。
「あ、いや。自分は兄弟じゃなく、神代さんとはちょっとした知り合いっス。…っていうか、神代さん達の事務所、やっぱり
ここでいいんスかね?」
「あら、そういえば看板壊れちゃってたわね。ええ、ここが事務所よ」
ホッとしたような表情を浮かべ、男は主婦に丁寧に礼を言うと、事務所への階段を登っていった。主婦はその姿を見送り、
微苦笑を浮かべる。
「いやだわ私ったら、てっきり兄弟か親戚かと思っちゃった…。同じ熊さんだからって、ユウトちゃんの親類とは限らないわよね」
「あづぅ…。ゆるぐねぇ…」
クーラーが故障した事務所の応接室は、サウナのような暑さになっていた。
窓は開け放っているものの、今日は風がほとんど入ってこない。
暑がりのユウトにとっては今年の猛暑は耐え難いものらしく、だらしなくソファーにひっくり返り、ぐったりしている。な
お、先の言葉は「暑い…。厳しい…」というような意味である。
タケシはと言うと、窓から直接日差しが射す席に居るにもかかわらず、暑さなど感じていないかのように、顔色一つ変えず
に新聞を読んでいた。
「今日の予想最高気温は36℃だそうだ」
タケシの淡々とした報告に、ユウトは「うえっ」と顔を顰めた。
「それと、阿武隈工務店から連絡があった」
ユウトはほっとしたような表情で身を起こした。が、
「エアコンの修理は夕方になるそうだ」
続くタケシの言葉にがっくりと項垂れる。
落胆した表情を浮かべたユウトが、気を紛らわせるように視線を彷徨わせると、丁度入り口ドアの曇りガラスに人影が写り
こんだ所だった。
「タケシ、お客さんだ!」
ユウトは跳ね起きて襟元を整え、タケシは新聞を机にしまい、貴重な依頼主を迎え入れる体勢を整える。
しかし、カランカランという軽やかなベルと共に入り口に姿を現した訪問者を目にすると、ユウトの顔からは営業スマイル
が消え、目がまん丸になった。
「アル君?」
応接室の入り口に佇むのは、純白の体毛に覆われた大柄な熊の獣人。国内最大規模を誇る調停者チーム、ブルーティッシュ
のメンバー、アルビオン・オールグッドであった。
「どうも、お久しぶりっス」
二人に見つめられたアルは、何故か気まずそうに頭を掻き、ペコリとお辞儀する。
「久しぶり。って…、どうしたの?汗だくじゃない」
「貰った地図がちょっとアレで…、二駅向こうから歩いて来たっス…」
アルは片手に持った地図を顔の高さに持ち上げ、疲れた表情でひらひらと振って見せた。
客も来ないだろうとの事で事務所を閉めると、二人はアルを連れてリビングに撤収した。
冷房が効かされて涼しくなった部屋で、ユウトは冷たい麦茶と菓子を用意する。
タケシとユウトが並んで座り、テーブルを挟んでアルと向き合った。
「アル君、彼がウチのリーダーの不破武士。この間来た時は寝てるところを見ただけだったもんね。タケシ、こちらアルビオ
ン・オールグッド君。ダウドのトコの新人さんで、現役高校生。若いけどかなりの腕をしてるんだよ」
ユウトがそれぞれ紹介すると、白熊は緊張したような様子でペコリとお辞儀した。
「あ、アルビオン・オールグッドっス!皆にはアルって呼ばれてるっス。不破さんのことはリーダーからいろいろ聞いて、お
会いしたいと思ってたんス。よろしくっス!」
「不破武士だ。一応カルマトライブのリーダーをやっている。と言ってもメンバーは俺とユウトの二人だけだがな」
アルは前回初めて東護町にやってきた時に、一応タケシの顔だけは見ている。しかしその時、タケシは多数のマンティスと
戦闘し、能力酷使の副作用で深い眠りに落ちた後であり、言葉を交わすのはこれが初めてであった。
「それで、どうしたの?いきなり」
ユウトが尋ねると、彼は決まり悪そうに大きな体を縮こめる。
「その、どこから話せば良いのか…。とりあえず、リーダーから手紙を預かってるっス。まずこれを…」
「ダウドから?」
タケシは目を細め、アルが差し出した封筒を受け取ると、中を確認する。
ほんの短い間手紙を見つめると、タケシは表情一つ変えずにユウトへ手紙を手渡した。
手紙を見たユウトは訝しげな表情を浮かべ、手紙を裏返したり、封筒の中を覗き込んだりする。
「これ、中身は知ってた?」
「いや、知らないっス。ただ、お二人に渡せとだけ…」
ユウトは苦笑しながら手紙を差し出し、アルはそれを受け取って中身を見ると、ポカンと口を開けた。
手紙の文面はただ一言。「よろしく」とだけ記してあった。
「まあ、筆跡を確認するまでもなく、間違いなくダウドが書いたものだろう」
「だね。疑いようが無いくらいにダウドらしい手紙だ」
頷き合う二人の前で、アルは顔を赤くしていた。
「でも、これじゃ何も分からないなあ」
「そうだな、さすがにこれでは事情が飲み込めない」
ユウトとタケシが口々に言うと、アルは少々情け無さそうに頭を掻きながら口を開いた。
「…実は…」
先日、首都圏外郭で暴力団同士の大規模な抗争があった。
元々以前から小競り合いを続けていたのだが、一月ほど前に一方の幹部が暗殺された事で、ついに全面抗争へと発展したの
である。
白昼堂々と事務所を爆破し、繁華街で発砲する。多数の死傷者、逮捕者を出した所で、双方がレリックを所持、それを持ち
出そうとしている動きがある事が判明する。これによって、ついに調停者の出番となった訳である。
警視庁から依頼を受けたブルーティッシュは、迅速な解決が最優先事項である事から、リーダーのダウドと、参謀である山
形敏鬼がそれぞれ少数精鋭を指揮し、二ヵ所のレリック保管場所を襲撃する奇襲作戦が採用された。
若いながらもその実力を評価されているアルも実行部隊の一人に選抜され、トシキの元で作戦に従事する事になった。
襲撃は即、実行に移された。攻めるのは国内最強のチーム、ブルーティッシュの精鋭部隊である。アルの居る側の部隊でも
施設の制圧は滞りなく進み、作戦開始から程なくレリックの保管庫まで辿り着いた。
しかし、そこで思わぬ事態が発生した。最後まで交戦していた構成員の一人が放った弾丸が壁に跳弾し、ガラス細工のよう
な外観のレリックに命中したのだ。修復が不完全だったレリックは、その衝撃が引き金になり暴走を始める。そのレリックが
広範囲を対象とする破壊兵器だと気づいたトシキは、総員に撤退を命じ、付近に避難警告を行った。
それから数分後、レリックは保管庫とその周囲、半径200メートル程を吹き飛ばす大爆発を起こし、消滅した。
迅速に撤退を終えたメンバーに怪我人は無かったものの、周囲の状況は惨憺たるものだった。メンバー達はすぐさま生存者
を求め、捜索と救助にあたる。
事が起こったのは、その救助活動中の事であった。
「道が寸断され、救急車の到着が遅れているようです」
「分かった。手の空きそうな者は瓦礫の撤去に回れ、車両の通路を確保しろ」
トシキは指示を出しながら、護衛も伴わずにレリックの爆心地へと向かう。
やがて爆心地となった施設の隣、半壊し、傾いだアパートの前でトシキは足を止めた。
ドアも無くなり、壁にぽっかりと口のように開いた入り口から中を覗き込む。
崩壊が続いているのだろう。頭上からパラパラと石片が落ちてくるが、臆した様子も無く、中へと足を踏み入れた。
「誰か居るのか?」
トシキが声をかけるが返事は無い。その背後から生存者探索に当たっていたアルが中を覗き込んだ。
「どうかしたんスか?ヤマガタさん」
声をかけた直後、アルは耳をピクリと動かした。鋭い聴覚が、ビルが崩壊してゆく音の中から微かな異音を拾い上げた。
「声っス!奥から!」
トシキは頷くと奥へと走り出し、アルもそのすぐ後を追いかけた。
二人は通路の奥で立ち止まる。ひしゃげたドアが歪んだまま通路を塞ぎ、行く手を阻んでいた。
アルはいびつに歪んだドアを力任せに引っぺがし、トシキは飛び込むように奥へと踏み込む。
天井が崩れ、半分埋まったその部屋には、奥にカウンターと調理場が見え、長テーブルや椅子が並んでいた。おそらく食堂
だったのだろう。
落下物がゴロゴロ転がる床には、頭から血を流し、倒れ伏している女性の姿があった。そこからさらに奥では、崩れた天井
に埋もれるようにして、牛の獣人が倒れている。
「二人とも、まだ生きてるっス!」
安堵したように言ったアルの言葉を遮るように、不気味な鳴動が響いた。
「崩れるな…。アルビオン、撤収するぞ」
トシキは女性を抱き起こしながらアルに言った。
「了解っス!じゃあオレはそっちの人を連れてくっスね」
奥へと足を踏み出したアルの腕を、トシキが掴んだ。
「その獣人に構っている余裕は無い、行くぞ」
一瞬、何を言われているのか判らず、アルは呆けたようにトシキの顔を見つめる。その間にも振動が起こり、パラパラと破
片が降ってくる。
「な、何言ってるんスかヤマガタさん?あっちの人は…」
「何度も言わせるな。時間が無い。急げ」
身を翻したトシキに、アルは声を上げる。
「え?だ、だって…、まだ生きてるのに!?」
「この女性の命まで危険に晒す訳にはいかん」
アルはギリっと歯を食いしばった。
「なら先に行って下さい!オレはあの人を連れて…」
「無駄な事はするな。来い」
「何が無駄なんスか!?助けられる人が目の前に居るのに、見殺しにするんスか!?」
声を荒げたアルに、ピタリと黒い筒が向けられた。瞬き一つの間に抜いた拳銃をアルの眉間に据えながら、トシキは低い声
で言った。
「命令だ。つべこべ言わずに来い」
アルは、何が起きているのか分からないといった表情で、トシキの拳銃を見つめていた。
二人が転がり出ると同時に、アパートは轟音と共に崩れ落ちた。
駆け寄ったメンバーに負傷した女性を預けると、トシキは土煙を上げるアパートに視線を向ける。
しばらくその様子を見つめていたトシキは、自分の横顔に突き刺さる視線を感じ、首を巡らせた。
「なんで…、なんで助けてあげなかったんスか?」
無言のまま答えないトシキに、アルは険しい顔で詰め寄った。
「なんで見殺しにしたんスか!?」
「無駄だからだ。あの状況では、非効率的な事をしている余裕は無かった」
「…!?…この!」
トシキに掴みかかったアルを、周囲のメンバーが取り押さえた。
「なんだ?穏やかじゃねえな。何をもめてんだ?」
唐突に聞こえた声に全員が動きを止め、その視線が声の主に注がれる。
そこには身の丈程もある黒い大剣を背負った、屈強な白虎の姿。チームリーダーのダウド・グラハルトだ。無事にレリック
の破壊に成功し、別働隊が到着したのである。
傍に居たメンバーから簡単に説明を聞いたダウドは、重々しく頷くと、トシキに視線を向けた。
「できる限りの事はやったんだな?」
「犠牲者には同情を禁じ得ないが、可能な限りの事はした」
ダウドの問いに、トシキは顔色一つ変えずに応じた。
「そんなの嘘っス!ヤマガタさんが止めなければ、あの人も助けられたはずっス!」
アルは叫ぶように声を荒げた。
「ヤマガタさんは、あの人が獣人だったから見殺しにしたんじゃないスか!?もし人間だったら、女の人を助けたみたいに…!」
「アル」
アルは不意に名を呼ばれて振り返った。その左頬に、いきなりダウドの拳が飛んできた。アルの大きな体が軽々と吹き飛び、
瓦礫につっこむ。
助け起こそうと駆け寄ったメンバー達の間から、アルは呆けたようにダウドを見つめた。
「根拠も無く、仲間をけなすもんじゃねぇ」
ダウドは厳しい口調でそう言うと、踵を返した。口の端から流れ落ちる血を拭いながら、アルはその背に問いかける。
「納得行かないっス…。リーダーだったら、同じ状況で、目の前の怪我人を放っぽって行くんスか!?」
「愚問だな。状況次第ではそれも選択肢の一つに入る」
ダウドが答える前に、トシキが淡々とした口調で応じた。
「ヤマガタさんには聞いてないっス!」
「逆に問うが、お前一人だったなら、女性を見捨てて獣人を救ったのか?」
アルの頭の中で、何かが音を立てて切れた。
大気を震わせる程の叫び声を上げ、アルは周囲のメンバーを跳ね飛ばし、トシキに突進した。冷ややかに自分を見つめるト
シキめがけ、大きく拳を振りかぶる。
振り下ろした拳は、しかし稲妻のような動きで割り込んだ何者かによって受け止められた。
素早く割り込んだ白虎の顔を見て、アルはハッと我に返る。喉元に冷たい感触があった。見れば、ダウドは左手でアルの拳
を受け止めつつ、右手は大剣を水平に構え、アルの喉元にヒタリと押しつけていた。
ダウドが拳を放すと、アルは脱力したように、その場にへたり込んだ。
「次の作戦以降、お前を主力から外す。しばらく頭を冷やせ」
ダウドの厳しい声が、アルの耳元でいつまでも反響していた。
話し終えたアルは、深くため息をついた。
「そう言うわけで、主力部隊から外されたっス…」
すっかり落ち込んでいるアルに、ユウトは何と声をかければ良いか分からずに黙り込み、タケシはもちろん無言のままで、
一時、応接室に気まずい沈黙が落ちた。
「学校も夏休みに入ってたし、主力からも外れたし、やれる事も無かったんスけど…。一昨日、リーダーに、お二人を手伝い
ながら勉強して来い。って言われたんス」
アルはぼそぼそとそう呟き、机の上の「よろしく」と一言書かれた紙片を見る。
「てっきりこの手紙でそのあたりの事が説明してあるのかと…」
結局、ダウドの手紙は、地図同様にあまり役に立たなかった訳である。
「手伝いと言っても、見ての通り仕事が無くて暇なのだが」
タケシの言葉に、ユウトは苦笑いを浮かべた。
「ホントは何も無いのが一番だけど、さすがにキミの夏休みの間中、事件が起きないって事は無いだろうね。普段は暇かもし
れないけど、アル君がそれでも良いなら…」
ユウトは確認するように青年に視線を向けた。
「構わない?タケシ」
「お前が良いなら、俺が反対する理由は無い」
タケシが頷くと、アルはほっとしたように表情を緩めた。
「い、良いんスか!?有り難いっス!」
立ち上がり、ペコリとお辞儀した白熊に、ユウトはにこやかに笑う。
「じゃあ、早速アパートか何か、部屋を借りてくるっス!」
「え?空いてる部屋も多いから、ここに泊まればいいよ」
ユウトの言葉に、アルは少し驚いたような顔をする。
「え?いや、でも、そこまでお世話になる訳には…」
「そもそも、保護者も伴わないで16歳の高校生が一人で行っても、部屋を貸してくれる所は無いと思うよ?ホテルだって泊
まれるか怪しいし」
「む…。そこまでは考えて無かったっス…」
「遠慮しない遠慮しない。ボクらも首都圏に行った時はダウドやネネさんのお世話になってるんだし、おあいこだよ」
アルは困ったように頭を掻いた後、申し訳無さそうに頭を下げた。
「そ、それじゃあ、お言葉に甘えて、ご厄介になるっス!」
こうして夏の間、カルマトライブ調停事務所には、仲間が一人増える事になった。