第十五話 「スキンシップ」
結局、その日も客が来ないまま営業時間を終え、タケシは事務所の電気を消した。
戸締りをしてリビングへ向かうと、テーブルには普段にも増して大量の料理が並べられていた。
ミートソースのスパゲッティ。ハーブと塩コショウで味付けし、皮をパリッと焼き上げたチキンステーキ。大振りに切った
肉と野菜がタップリ入ったクリームシチュー。特製ドレッシングをまぶしたサーモンとイカのマリネ。タルタルソース付きの
白身魚のフライに、マッシュドポテト。さらにデザートにはチョコレートケーキ…、これだけは自作をタケシがとめたので、
ケーキ屋で買ってきた品だ。
量もさることながら、かなり豪勢な夕食である。
何か言いたげなタケシの視線を受け、ユウトは右腕を上げて力コブを作る。
「頑張りましたっ!」
「…それは認める…」
「お借りする部屋の片付け、終わったっス。って…」
自室となる部屋の掃除を終え、リビングに戻ってきたアルは、テーブルに並んだ料理を見るなり驚きの表情を浮かべて嘆息した。
「すごいっスねえ…」
「ささやかだけど、アル君の歓迎パーティーって事でっ!」
ユウトはニンマリ笑うと、後ろ手に持っていた、ノンアルコールのシャンパンを持ち上げて見せた。
「…って訳で、アル君は無事到着したから。責任を持ってお預かりするね」
『有り難う。忙しい所、申し訳ないけれど、よろしくお願いするわね』
「まあ、あんまり忙しくないって言うか、ぶっちゃけ暇なんだけどね。あははは」
ユウトは事務所の電話を片手に、空いた手で握力強化用のグリップを握り込みしながら笑った。
歓迎パーティーでアルを持て成した後である。電話の相手はブルーティッシュのサブリーダーであり、ダウドの恋人の神崎
猫音。ユウトとタケシの友人だ。
『手紙を書いたから大丈夫と言っていたけれど、心配だったのよ。ダウド筆無精だから』
実感していたユウトは、ネネの言葉に苦笑いする。
「で、アル君から事情は聞いたけれど…、山形さんとケンカしたんだって?」
受話器の向こうでネネのため息が聞こえた。
『そうなの。トシキって無愛想で口数も少ないでしょう?誤解される事も多いけれど…』
ブルーティッシュの鬼参謀は、ユウトの幼い頃からの知り合いだ。口ひげを蓄えた鋭い顔つきの中年の顔を思い浮かべつつ、
「やっぱり…」と、納得する。
「まあ、タケシも仕事の時は必要な事しか喋らないし、なんとなくは判るなぁ…。それで、やっぱり誤解?何か理由があった
んだね?」
『ええ。たぶん、私が居合わせればこじれなかった、ごく単純な誤解よ…』
「おお痛ぇ…、本気だったなあの野郎…」
ダウドは、アルの拳を受け止めた左手をさすりながら、顔を顰めた。
主力部隊からの除外を言い渡されたアルが、項垂れて引き上げていった後の事である。
「まったく、余計な真似をする」
トシキがぶっきらぼうに言うと、ダウドは肩を竦めた。
「あいつの拳で殴られたら、ただじゃ済まねぇだろうが」
「承知している。その上で、一発ぐらいは殴られてやっても構わないと思った」
「…弁解、しねぇんだな」
ダウドの言葉に、トシキは崩れたアパートを見据えながら口を開いた。
「詫びる資格など無い。今回の作戦の指揮は俺だ。死傷者を出した責任は、全て俺にある」
淡々と語りながらも、トシキの拳は握り締められ、爪が掌に食い込んでいた。
「…手遅れだったんだろ?その獣人。だから助かる見込みのある女だけ連れ出した」
「………」
「言ってアルが納得するとも思わなかった。だから強引に引き上げさせた。だな?」
「その通りだが、付け加えるならば、建物がいつ崩壊するとも知れず、救出に必要な時間の確保が難しかったということもあ
る。それと、状況説明をする時間を惜しんだ、というのもあるな」
トシキは軽く目を閉じ、ため息をつくと、少し間を開けてから口を開いた。
「アルビオンへの主力部隊からの除外通告、取り消してやってくれ」
ダウドは苦笑すると、首を横に振った。
「成り行き上、懲罰っぽくなっちまったが…、学校が休みに入ったら、勉強も兼ねて不破んトコに行かせて、よそのやり方を
その目で見させるつもりだった。良い機会かも知れん。…にしても、さっきのはお前らしくなかったぜ?」
「…何がだ?」
「あいつがキれるきっかけになった一言だ。「お前一人だったなら、女を見捨てて獣人を救ったのか?」…どういう考えで挑
発するような真似をした?」
「深い考えは無い。ただ…、俺はアルビオンの純粋さを妬んでいるのかも知れないな。あるいは犠牲者を出した事で苛ついて
いたからかも知れん。だから、お前ならば正しい判断ができたのか?あの場での本当に正しい判断は何だった?そう言いたく
なっただけだ」
トシキがそう答えると、ダウドは苦笑した。
「お前がアルに嫉妬、ねえ…。普段自分で言ってるより、意外と人間味があるじゃねえか」
ダウドの言葉に、トシキは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らした。
「なるほど納得…」
ネネの話を聞き終えると、受話器の向こうの相手に判るはずも無いが、ユウトは頷いていた。
『アルには黙っておいて、あの二人は、あの子が自分で考え、答えを出す事を期待しているの。でなければ、いつかまたこん
な衝突が起こるって…』
「まあ、判るような気はするよ。でも、アル君はまだ16だよ?少し厳しいんじゃない?」
ユウトの言葉に、受話器の向こうでネネが笑う。
『あなたは、15の時には北原で実戦に出て、16ではもうフリーの調停者として一人前に仕事をこなしていたでしょう?早
すぎるという事は無いわ。この世界ではね』
「買いかぶりすぎだよネネさん。ボクの場合、半人前が背伸びしてただけ」
困ったように言ったユウトに、ネネはくすくすと笑う。
『あ、ダウドが呼んでるわ。そろそろ行かなくちゃ…』
「大変だねぇ、でもってちょっと羨ましいかな?仕事があって。ってボクらの職業上これは不謹慎か」
『あら、今日は仕事じゃないのよ。デートなの』
「…前言撤回。だいぶ羨ましいかも」
ユウトは半笑いすると、短く挨拶して受話器を置いた。
ユウトが電話をかけているその時、
「しっかし、本当にデカい風呂っスねえ」
アルは脱衣場から大浴場を眺め、感心して呟くと、いそいそと服を脱ぎ始めた。
誰も居ないにもかかわらず、きちんと前を隠しながら浴場に入ると、壁際にずらりと並んだシャワーと鏡を見て、再び呟く。
「まるで、銭湯か温泉みたいっスね…」
「ユウトは温泉をイメージして、改築依頼したらしい」
「へえ、どうりで…」
すぐ背後で聞こえた声に、一瞬普通に応じかけたアルは弾かれたように振り返る。そこには、すでに入浴準備が完了し、腰
にタオルを巻いただけのタケシの姿があった。
「あいつの実家には天然の温泉があり、露天風呂になっている。それを参考に…」
「い、いつから居たんスか!?」
「お前が壁周りを観察しているあたりからだ」
何の気配も感じなかった事に、知覚能力には自信があったアルは軽くヘコむ。
「ユウトに「男同士、裸の付き合いも大切だ。スキンシップのため背中でも流してやったらどうか?」というような事を言わ
れた。そして間を置かず、ユウトからお前が風呂に向かったとの情報を得られたので、早速実践すべく尾行してみた」
「…尾行…!?」
事情が良く判る説明ではあるのだが…、タケシの説明は、やはり普通とズレている。
「では、早速状況を開始する」
タケシの宣言は、どう聞いても「入浴しよう」と言っているようには聞こえなかった…。
並んで鏡の前に座り、体を洗いながら、アルはちらりとタケシの様子を伺う。
スキンシップを図りに来たと言う割には、ここのチームリーダーはずっと無言である。少々居心地が悪くなったアルは、思
い切って自分から話しかける事にした。
「えっと…、不破さんは、神代さんと二人だけで仕事してるんスよね?」
「ああ。もう二年と五ヶ月になる」
「二人だけだと、不便な事とか無いスか?」
「有る。が、仕方が無い事だ」
「メンバーを増やそうとか、考えないんスか?」
「何故だ?」
タケシはアルの顔を見て、不思議そうに問い返した。
「いやだから…、人手が足りないから増やしたいなあ、とか…」
「一般からの要員募集を考えた事は無い。信用に足るか判らない相手と組むつもりは無いからな。ブルーティッシュは違うのか?」
問われたアルは、一瞬返答に詰まった。
「いや、リーダーが仲間にふさわしいと思った人をメンバーに加えてるはずっス」
「そういうことだ。ユウトほど信頼でき、腕も確かな相手でなければ、俺から見れば組む必要性を感じない。ブルーティッシュ
のメンバーも、ダウドに信頼されている者で構成されているのだろう?」
遠まわしに、自分とトシキの摩擦を指摘されているような気がして、アルはしばらく黙り込んだ。
「不破さんは…、目の前で死にかけてる人が居たとして…、放っておいたりするっスか?」
「任務の内容に関係なく救出する。人命第一。と、ユウトにも常々言われているからな」
タケシの返答に、アルは同意を得た、と彼の顔を見た。だが、続く返答を聞き、表情を硬くする。
「…が、それも状況による。助かる見込みが無く、他に優先すべき事がある場合、放置も止むを得ない」
何かを思い起こしているようにしばらく黙り込み、やがてアルはポツリと言った。
「それでも、助からないとしても、オレは誰も見捨てたくないス」
タケシはアルの横顔を見て、それから小さく頷いた。
「それで良いだろう。切り捨てる判断など、それが出来る者がすればいい」
アルはタケシの顔を不思議そうに見つめ返す。
「どういう…意味っスか?」
「ユウトも決して人を見捨てようとしない。普段はそれで良い。だが、時にはそれが致命的なまでに状況を悪化させる事もあ
る。そんな時は俺が判断を下し、ユウトには納得できなくとも従って貰っている」
タケシは言葉を切り、アルから視線を外すと、何かを思い出すように目を閉じた。
「大局を見据える冷静な判断力と、他者を思いやる良心と情。双方どちらが欠けても、調停者として一流とは言えない。「互
いに欠けているものを補い合えるから、チームを組むという利点がある」…出会ったばかりの頃、ユウトはそう言っていた。
あの頃は理解できなかったが、二年以上経った今では、少しは分かるような気がする」
アルは俯き、しばらくその言葉を反芻するように黙っていたが、やがて独り言のように呟いた。
「トシキさんは…、オレに出来ないことを、代わりにやってくれたんスかね?」
呟くような問いかけに、タケシは首を横に振った。
「そこまでは分からない。だが、仮にもダウドが認めブルーティッシュの参謀を任されている男が、状況判断を誤るとも、種
族意識に流されて偏った判断を下すとも思えない」
言い終えると、タケシはシャワーを出して体の泡を流す。アルは俯いたまま、しばらくの間言われた意味を吟味し、やがて
溜息をついた。
「オレ…、やっぱりちっちゃいんスかね…」
タケシはシャワーを止め、アルの顔を見つめた。それから視線を下へ向け、
「体格と比較して言うならば、どうやらそのようだな」
「ちょ!?そっちの話じゃなくてっ!じゃない、何処見てんスか!?」
顔を真っ赤にして前を隠したアルに、タケシは訝しげに眉を寄せた。
「…違うのか?」
「全然違うっス!」
アルはタケシの顔から、視線をちらりと下へ向け、
「…う…!?」
絶句した後、打ちのめされた様な表情でうな垂れた。タケシは何が起こっているのか把握できず、珍しく心配そうに尋ねる。
「…大丈夫か?顔色が優れないが、どうかしたのか?」
「…なんでもないス…」
青年が珍しく見せた気遣いが、なおさらアルをヘコませた。タケシはしばらくの間、どう対応するべきか考え、やがて唐突
に立ち上がった。
「では、背中を流す」
「え?い、いや、良いっスよ。自分で洗うっスから!」
「遠慮するな。背中を洗ってもらうのは気持ちが良い。と、ユウトも言っているし、俺も推奨する。自分で洗うよりも作業は
スムーズに進み、洗い残しも無い。実に効率的だ」
機械的な言葉に、アルは「はあ…」と返事をした後、
「え?神代さんとも背中を流しあったりするんスか?」
「時折だがな。だから効率の良さは実感している」
短く答え、ヘチマのスポンジにボディシャンプーをたっぷり沁み込ませると、タケシは手馴れた様子でアルの大きな背中を
洗い始めた。
しばらく無言で身を任せていたアルは、背後のタケシに問いかける。
「いつかオレも、不破さんや山形さんみたいに…、情に流されたりしないで、行動できるようになれるんスかね?…そうした
ら、こういった事でモヤモヤ感じたりしなくなれるんスかね?」
タケシは手を止めると、鏡越しにアルの顔を見た。
「先ほども言ったが、お前はそのままで良い。お前もユウトも、俺から見れば羨ましいモノを持っている」
「へ?」
アルは鏡に映ったタケシの顔を見つめ、そしてはっと息を呑んだ。
タケシは笑っていた。ユウトやダウド、青年が親しい者達にしか見せない微笑を、アルは初めて目にしていた。
「豊かな感情も、この広い背中も、俺にとっては羨ましい。何故、俺はこうではないのだろう…。そう、ユウトを見て何度も
思った。結局、俺は俺で、ユウトやお前のようにはなれない。それは仕方が無い事だし、俺だからできる事もあるのだから、
現状に不満は無いはずなのにな…」
「………」
思いもかけず、タケシは優しい口調で言った。アルはまた黙り込み、じっとその言葉を噛み締める。
自分は自分であり、羨んでも他人にはなれない。それでも、自分だからこそできることがある…。
アルの背中にザッとお湯がかけられた。
「終わったぞ」
「有難うっス」
アルは晴れ晴れとした顔で立ち上がると、タケシを振り返った。
「今度はオレが不破さんの背中を流すっス。構わないスか?」
「…ああ、ならば頼もうかな」
タケシはほんの僅かに微笑を浮かべ、頷いた。
あまりにも二人が戻ってこないので、のぼせたりしていないだろうかと心配になったユウトが浴場に向かうと、タケシとア
ルは丁度風呂から出た所だった。
腰にタオルを巻いた二人は、揃って腰に手を当て、正しい姿勢でビンの牛乳を一気飲みしている。
同時に「ぷはぁ〜!」と息をついた二人に、ユウトは思わず吹き出した。
「く、神代さん!?いつからそこに!?」
裸を見られてうろたえるアルに、ユウトは涼しい顔で「たった今」と応じた。
(裸を見たり見られたりって事に、抵抗無いんスかね、この二人…)
「あんまり遅いから、揃ってのぼせてるんじゃないかと心配になったんだよ。部屋は冷やしてあるから、ゆっくり涼んで行っ
て。スイカも切っておいたからね。…それじゃあ、ボクもそろそろ入ろうかな」
そう言うと、ユウトはいそいそと服を脱ぎ始めた。アルは一瞬それを見つめた後、
「!!!!!!!!!!!!!!!」
声にならない叫びを残し、脱衣場から飛び出していった。開かれたままのドアの前に、アルが腰に巻いていたタオルがハラ
リと落ちる。
ズボンを降ろす途中で手を止めたユウトは、何が起きたのか分かっていない様子のタケシと顔を見合わせ、同時に首を傾げた。
「どうかしたの?アル君?」
「…そういえば、先ほども俺の股間を覗き込んだ後、軽く動揺していたようだが…」
アルビオン・オールグッド、16歳。カルマトライブで過ごす夏休みは、刺激の強いものになりそうであった。