第十七話 「護るべきモノ」(後編)

「なるほど、お二人の知り合いだったっスか。なら、なおさら怪我とかさせる訳には行かないっスね」

アケミから、彼女とカルマトライブとの関係について聞いたアルは、曲がり角から顔を覗かせ、通路の先の様子を覗いなが

らそう言った。

「よし、大丈夫っス!こっちへ…」

アルはアケミを先導し、舞台裏へと向かっていた。

地下への階段は一箇所しか無く、防災シャッターが稼動しなくなった今となっては、地下への移動手段は一つしかない。

舞台の裏側には地下の倉庫から機材等を出し入れする為の、貨物用エレベーターが設置されている。アルはそれを使ってア

ケミを地下へと避難させようと考えたのだ。

「それで、アルビオンさんは、お二人とはどういうご関係なんですか?」

「オレは昨日からお二人の所にご厄介になって、調停者の勉強をさせてもらってるんス。…と言っても、夏休みの間だけなん

スけど」

「え?アルビオンさんは、学生さんなんですか?」

少し驚いたように言ったアケミに、アルは苦笑する。

「よく、学生には見えないって言われるっス。これでも16、高二なんスよ?」

「まあ、私と同学年なんですね」

「え?アケミさんも二年生なんスか?」

アルはアケミの落ち着いた雰囲気から、てっきり年上だと思い込んでいたのだ。アケミもまた、自分と同い年で、学生であ

りながら調停者をしている者が居ることに、少なからず驚いていた。

「…ウチのクラスのギャーギャーうるさい女子とはエラい違いっス…」

「…学生なのに調停者なんて…クラスの男子達とは大違い…」

二人は互いの耳に届かぬほど小さく呟いた。



やがて二人はメインホールの前に辿り着いた。

アルは大扉を少し開けて中を見回す。

客席は二階部分が中程まで傘のように張り出した二重構造になっていた。慌てて逃げ出したせいか、あちこちの椅子に忘れ

物のカバンや小物が置き去りにされている。

誰も居ないことを確認すると、アルは扉を押し開けた。

「大丈夫みたいっス、誰も居な…」

扉を開けながら言ったアルの言葉は、最後まで続かずに途切れた。開いた扉の向こう、張り出した二階部分の上の死角から、

不意に現れた巨体を目にした為に。

「く…、クイーン…ビー…!?」

張り出した二階席にぶら下がって現れた巨大な蜂は、激しい羽音と共に廊下へと飛び出してきた。その6本の脚が、獲物を

捕えるべく大きく広げられ、尻の先端からは漆黒の毒針が先端を覗かせている。

アルは反射的にアケミの体を捕まえ、横っ飛びに身を投げ出した。

床を転がり、からくも奇襲を避けたアルは、体勢を立て直し、アケミを背後に庇ってクイーンビーに向き直る。

白熊は戦斧を後ろに引いたまま突進した。方向転換し終えたクイーンビーの胸部、脚の付け根の中央に、正面から戦斧が叩

き込まれた。

ガギンッ、という衝撃音と同時に跳ね飛ばされたのは、しかしアルの大戦斧だった。

数歩たたらを踏んで後退したアルは、驚愕の表情を浮かべ、自分が斧を打ち込んだ相手を見据えて構えなおす。

(なんスか?今の手ごたえ…?)

アルはじりっと間合いを詰め、再びクイーンビーに突進した。加速を付け、さらに前以上の力を込めて、大戦斧を横薙ぎに

フルスイングする。

ガギィンッ、と再び音が響き、アルは目を見開いた。横合いから胸部に撃ち込まれた斧は、黄色と黒の外骨格に浅く食い込

み、静止していた。クイーンビーは勢いに押され、宙でふらりとしたものの、ダメージを受けている様子は無い。

(ただのクイーンビーじゃない!こいつ、改良されてるっス!)

クイーンビーは目前のアルに対し、6本の足を蜘蛛のように広げ、捕まえにかかった。アルは斧を引き、背中から床に倒れ

こんで死の抱擁をかわす。そのまま横に体を転がすと、直前まで白熊がいた位置の床を、クイーンビーの尻から伸びた毒針が

抉った。

追撃をかわして素早く起き上がったアルは、クイーンビーがこちらを向いていない事に気付く。そして次の瞬間、背筋を凍

らせた。

クイーンビーは白熊に見向きもせず、滑るように宙を舞った。その先には、恐怖に身を竦ませるアケミの姿。

少女は護身用のスプレーをクイーンビーに向ける。しかし、先ほどの使用で中身を使い果たしてしまったのか、シュッと音

を立てたのみで、スプレー缶は沈黙した。

ごう!と、獣そのものの唸り声を上げると、アルは一瞬だけ可能な禁圧解除で脚力を強化させ、クイーンビーに横から体当

たりした。200キロ近い筋肉の砲弾と化してクイーンビーを弾き飛ばすと、アルは勢い余って床に倒れこむ。壁まで吹き飛

んだクイーンビーが再び浮上するのと同時に、アルはアケミに叫んだ。

「ここはオレが防ぐっス!何処かに隠れて!」

「で、でも…!」

躊躇するアケミを背後に庇うように、アルが向き直った時には。音も無く宙を滑ってきたクイーンビーが、すでにアルの目

前まで迫っていた。

コンパクトなスイングで、カウンターで叩き込もうとした斧は、しかし空を切った。クイーンビーは直前で急浮上すると、

そこからアルの頭上を越え、アケミへと急降下する。

「しまっ…!」

急降下するクイーンビーの毒針が迫るが、普通の人間のアケミには、その素早い動きが捉えきれていない。

少女がその視線を毒針に定めた時には、すでに逃れられるタイミングは逸していた。

きつく目を閉じるアケミ。その直後、少女の体に何かが覆いかぶさった。

壁と覆いかぶさってきたものとの間で体が圧迫され、喉から空気が絞り出される。閉じた瞼の裏でチカチカと星が舞った。

むせ返りながら目を開けると、眼前に白熊の顔があった。アケミは自分が壁とアルの体に挟まれている事に気付く。アルは再

度脚力を強化し、一瞬でクイーンビーとアケミの間に割って入ったのだ。

頭を壁にぶつけないように配慮したのだろうか、白くてフサフサとした太い腕が、少女の首の後ろに回されていた。

クイーンビーは先程から何度も自分の邪魔をするアルを警戒しているのか、少し離れた所で様子を見るようにホバリングし

ていた。

「大丈夫っスか?」

問いかけにアケミがコクリと頷くと、アルはニッと笑った。

「あ、あの…」

 ありがとう。そう言おうとしたアケミは、自分が無意識の内に、アルの体に手を回していた事に気付く。慌てて引っ込めよ

うとしたその手に、少女は異様な感触を覚えた。

ヌルリとぬめるような、生暖かい感触…。アケミは首を横にかしげ、ゆっくりと手を上げる。手のひらが、真っ赤に染まっ

ていた。

息を呑んだアケミの前で、アルはがくりと膝を着く。その背中、右肩の後ろ、肩甲骨のすぐ下の位置に、直径5センチ程の

大穴が口を開けていた。流れ出る血が純白の体毛を鮮やかな深紅に染め、足元に血溜りを作る。

「あ…、あ…、あ…」

アケミは蒼白になり、その喉から震える声が漏れた。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう!私のせいだ。私のせいでアルビオンさんが!)

「アケミさん、逃げるっス。ここは自分が食い止めるっスから」

傷を負ったにも関わらず、アルの声はしっかりしている。しかし苦痛に歪む口元が、その傷が決して浅い物ではない事を物

語っていた。

斧を杖代わりに立ち上がろうとしたアルの背後で、クイーンビーがシャアッと鳴いた。

負傷のせいで動かなくなったのか、右腕をだらりと下げ、左腕一本で斧を構えたアルは、アケミを背に庇って向き直る。そ

の血まみれの背中越しに、少女の瞳に飛来するクイーンビーの姿が映り込んだ。

その瞬間、アケミは咄嗟に左腕を突き出していた。

考えた訳でもなく、反射的に突き出された少女の腕の先で、クイーンビーの体がガクンと速度を落とす。そしてバランスを

崩したように斜めになると、次の瞬間には床に叩き付けられていた。

羽ばたきを続ける翅がノイズを撒き散らすが、キラービーの巨躯は床に縫いとめられたように動けない。

何が起こったのか判らずにその姿を見つめていたアケミは、その時になってやっと、自分が左腕を突き出している事に、そ

して押さえつける重力をイメージしていた事に気付く。アケミは指環が外れなくなった事件でユウトに教えられた事を、無意

識でおこなっていた。

「これは…?アケミさんが?」

振り返ったアルの顔には、驚きの表情が浮かんでいた。

アケミは腕から発せられる力が、徐々に弱まっている事に、本能的に気付いた。

「あまり保ちません!今のうちに逃げましょう!」

アルは表情を引き締め、左腕一本で斧を振り上げると、渾身の力を振り絞り、床に叩き付けた。砕かれた床の破片が飛び散

り、粉塵が舞い上がって視界を覆う。

粉塵が収まり、重力の鎖から解き放たれ、クイーンビーが動けるようになった時には、二人の姿はすでに消えていた。



 事務室なのだろう、書類が積まれた机がごちゃごちゃと並ぶその部屋で、アケミは泣きそうな顔をして、うつ伏せに倒れて

いるアルの背の傷にタオルを当て、押さえていた。

「…もう大丈夫っスから。オレ達獣人は、傷が治るのが早いんス。さすがに今すぐ傷が塞がる訳じゃないっスけど、血はもう

殆ど止まってるっスから…」

うつ伏せのまま顔を横に向けているアルが、逆にアケミを労わるような声で言った。

体力の回復をはかるためにじっとしていたアルだったが、しかしさらに別の問題が生じていた。しかしその事は口には出さ

ず、白熊は少女を落ち着かせようと語りかける。

「済まなかったっスね…。怖い目に遭わせて…」

アケミは黙って首を横に振る。沈黙に耐えかね、アルは務めて明るい口調で言った。

「いやあ、しかしアケミさんが能力者だとはぜんぜん気付かなかったっス。さっきは本当に助かったっスよ」

「…能力…者?」

アケミの呟くような問いかけは聞こえなかったのか、アルは話し続ける

「本当にもう大丈夫っスからね?クイーンビーの針には、相手を殺す毒は無いっスから。そうでないと、子供を育てられない

っスからね」

首を傾げたアケミを見て、少しは元気が出たと感じたのか、白熊はゆっくりと身を起こした。慌てて制止しようとしたアケ

ミの手をやんわりと制し、アルは少女と向き合う形で座りなおす。

「クイーンビーってのは、さっき見た小型犬くらいの蜂達の親玉…、ようするに女王蜂で、あの針には殺すための毒は無いん

ス。その代わりに相手を痺れさせる麻痺毒が分泌されてて、それで獲物を動けなくするんスよ」

「動けなくして、どうするんですか?」

問い返したアケミに、アルは即答した。

「卵を産み付けるんス」

一瞬考え込んだ後、アケミは首を傾げた。アルは続ける。

「あの針は麻酔薬の注射だけじゃなく、卵管の役割も果してるんス。…っていうより元々蜂の針って卵管が変化したものだっ

たっスかね…?まぁいいや…。とにかく、あの針で刺して獲物を動けなくして、その体の中に卵を産み付けるんスよ。この麻

酔は強力なんで、十分な量を注射されたら、一週以上もの間、仮死状態で身動きできなくなるんス。その間に体の中で卵が孵

って、キラービーの幼虫が生まれるっス。幼虫は生きたままの新鮮な獲物を体の中から食べて大きくなって…」

アルは言葉を切った。アケミは気分が悪いのか、口元に手を当てて蒼白になっている。

「あ、悪いっス…。あんまり気持ちのいい話じゃ無かったっスね…」

気まずそうに言ったアルに、アケミは蒼い顔のまま、震える声で言った。

「そ、そ、それって…。アルビオンさんは?」

「ああ、それは大丈夫っス。クイーンビーは、獲物が動けなくなったのを確認してから、数分間かけて何個もの卵を産み付け

るんスよ。あんな一瞬じゃ卵は産み付けられないっス。さっきはいきなり割り込んだせいで、あっちも驚いてすぐに離れたっ

スからね」

アケミはこの答えを聞き、心底安堵したようにほっと息を吐いた。

「で、でも。麻痺の方は?」

「獣人は毒物にも耐性が強いんス。じっくり注入する暇も無かったみたいで、この通り、右腕以外はなんともないっス」

とりあえず安心した様子のアケミを見ながら、アルは笑みを浮かべて、左腕を肩のところでグルグルと回して見せた。

実は、これは嘘である。痺れは右腕全体と上半身の右半分、上は首まで、下は右脚の付け根までに及んでいた。麻痺は徐々

に範囲を広げている。

だが、外に残るユウトの事も気にかかるうえ、ここもいつ見付かるか分からない。アルは悠長に構えている余裕は無いと判

断し、覚悟を決めた。

「アケミさん。酷いことを承知で、一つお願いがあるっス」

アルはアケミの顔を真っ直ぐに見つめた。



彼女は取り逃がした獲物を探し、廊下をうろうろと飛び回っていた。

しばらくうろついた後、触覚が大気中の微かな臭いを捉える。

彼女は微かに臭いの漏れる扉、大ホールの扉を体で押し開けた。彼女の複眼は、ホールの奥、ステージ上に、先ほど逃がし

た二人の片方の姿を認める。

線の細い人間の若い女。少々小ぶりの獲物だが、産卵の対象としては申し分ないだろう。獣人の方は大きいが、肉が硬くて

卵を産み付けるのには適していない。

彼女は大ホールの並んだ客席の上をゆっくりと飛ぶ。少女はもちろん彼女に気付いているが、怖気づいたのか、逃げる素振

りも見せない。

もう少し、クイーンビーが人間を詳しく知っていれば気付いただろう。まっすぐに彼女を見つめるその少女の瞳に、怯え以

外の光が宿っている事に。少女は逃げられないのでは無く、逃げようとしていなかった。

ゆっくりと迫るクイーンビーが、ホールの中程、二重構造になっている二階客席の切れ目に差し掛かったとき、その頭上で

手すりを乗り越えた者があった。

二階席から跳んだ白い巨体が、体を大きく逸らし、斧を振り上げる。

動かぬ右腕は、引き千切った事務所のカーテンを巻きつけて斧の柄にしっかりと固定されている。痺れが回り始めた体では、

ただの一撃を叩き込むのが限界。その上、まともに当てるのもおぼつかないと判断し、アルはこの奇襲に全てをかけた。

しかし、視界の広いクイーンビーの複眼は、アルの姿をしっかりと捉えていた。ゆうゆう回避の間に合うタイミング、彼女

は滑るように宙を移動しようとして、そして少女の奇妙な行動に気付いた。左手を広げ、自分に向かって突き出すというその

行動に。

急に、身体が重くなった。がくりとバランスを崩し、床に引っ張られる感覚。さきほど味わったあの感覚だと気付いた時に

は、クイーンビーの身体は床に貼り付けになっていた。

回避はできなくなったが、しかしクイーンビーは落ち着いていた。

強固な外骨格に守られた自分の身体は、あの白い獣人の攻撃を受けても大したダメージは負わない。少女の妙な力も、獣人

の武器も、自分の脅威足り得ない。彼女はそう考えた。斧が振り下ろされる瞬間、彼女は思った。獣人の斧は、先程よりも速

くはないだろうか?

アルはただ落下の勢いを加えたわけではない。全体重を乗せ、最後の力を振り絞り、一瞬の禁圧解除に全てをかけた。そし

て、クイーンビーにかけられている重力の檻に飛び込んだのである。通常の十倍近い重力に引かれ、アルの体は、まるで白い

ハンマーのようになってクイーンビーの上に落下した。

斧の頭、ただ一点に集約された力は、クイーンビーの強固な背甲を叩き割り、強靭な筋肉組織を絶ち割る。その後を追うよ

うに、一個の砲弾と化したアルの体が、クイーンビーの胸部に激突する。まるで爆弾でも炸裂したように、クイーンビーの身

体がバラバラに吹き飛んだ。頭部が、胸部が、それぞれの脚が、客席の間に飛び散り、アケミは反射的に両手で顔を覆った。

顔を覆った手の指を恐る恐る開き、そしてアケミは目を大きく見開く。

クイーンビーが砕け散ったその床に、白い獣人が横たわっていた。

「あ、あ、あ…」

口元を覆い、アケミは震える足でステージを降り、ピクリとも動かなくなった獣人の元へと足を進めた。

うつ伏せに倒れた白い体躯は血で染まり、周囲の床も真っ赤になっている。

右手に固定されていた斧は、衝撃の強さを物語るように、結び付けていた布が千切れて吹き飛び、少し離れた客席の背もた

れを立ち割って頭を床に食い込ませている。

アケミはクイーンビーの残骸で服が汚れるのも構わず、血で染まった白い獣人の脇に跪き、その身体に手を伸ばし、小さく

揺すった。

「…アルビオンさん?…アルビオンさんっ!?」

アケミは知らされてはいなかった。獣人の少年はただ、動きを止めてくれれば、自分がなんとかすると言った。まさか、自

分が放った強重力の中に飛び込むなどとは思いもしなかった。あの時、烏丸という女性を殺してしまったように、自分の力は

また、この獣人も殺してしまった。

湿った感触に、左手を顔の前に上げる。アルの血まみれの身体に触れた手は、真っ赤に染まっていた。アケミにはそれがま

るで、自分が他人を殺めた証拠を突きつけられているように思え、恐ろしくなり、両手がぶるぶると震えた。

「…あ…、アケミさん…」

アケミの手の震えが止まった。少女の視線が自分の左手から、白い獣人へと戻る。アルは、苦しげに首を巡らせ、アケミに

視線を向けた。

「アルビオンさん!?生きてるんですね!?」

アケミの声に、アルは顔を顰めて呻いた。その口元が痛みを堪え、何事かを呟く。

「はい!?何ですか!?」

「そ、そこ…、傷に当たってるっス…」

アルの苦しげな声に、アケミはアルの背に右手を当てたままだったことに気付く。そして、先ほど自分を庇って負った背中

の傷に、身を乗り出した彼女の右手が、体重をかけて置かれていた。

「キャー!?ご、ゴメンなさいっ!ゴメンなさいっ!しっかりしてくださいっ!」

アケミは慌てて手を引っ込めると、正座してぺこぺこと頭を下げた。アルは呻きながら左手で身体を起こし、体の左側を床

に接して横たわる。

「一か八かだったっスけど…。なんとか上手く行ったっス…。良かった…」

「良くなんかありませんっ!」

少女の怒ったような声に、アルは少し驚いた顔をした。

「良くなんか…、ありません…!」

アケミは、怒りながら泣いていた。アルの血で染まった両手で顔を抑え、子供のようにしゃくりあげる。

毅然としていて、落ち着いていて、冷静で…、アケミをそう見ていたアルは、彼女が普通の女子高生である事をすっかり忘

れていた。

「あ、いや、わ、悪かったっス…。その…、オレが全面的に悪かったっス。こ、この通り、ゴメンっス!だから、泣かないで

欲しいっス!」

もはや痺れが全身に回り、起き上がる事もできず、アルは目の前で泣きじゃくる少女から顔を背ける事もできぬまま、アケ

ミが泣き止むまで、ただひたすら謝り続けた。



応援要請を受けた調停者達は、コンサートホール前に到着すると、息を呑んだ。

70は下らぬ危険生物の死骸が散らばったコンサートホールの入り口前に、一頭の獣が仁王立ちしていた。

返り血で深紅に染め上げられた巨躯、血で一際真っ赤に染まった両腕、捲れ上がった唇から覗く牙までが血に濡れている。

ギラついた蒼い光を放つ双眸が、周囲の骸を見回していた。

「アーク…エネミー…」

誰かが、ポツリと呟いた。

濃厚な死が薫るその中で、爛々と目を輝かせる巨熊は、彼らがこれまでに見たどんな危険生物よりも恐ろしく、禍々しく、

そして美しかった。

野生の肉食獣が備えるような、生を得るために死を与える存在が有する殺伐とした美…。守り神のようにコンサートホール

の入り口に立つソレには、そんな形容し難い美しさがあった。

その身体から発散される、息が詰まるようなプレッシャーが、味方のはずの調停者達の体を動けなくしていた。その場に居

合わせた者達は本能的に察していた。生物としての本能がはっきりと警告していた。「今アレに近付いたなら、間違いなく命

を奪われる」と。

そんな状況で、駆けつけたは良いが全く動けない調停者達の脇を、一人の青年が通り過ぎた。

何人かが制止しようとしたが、声も出なかった。この場に満ちる圧力も、殺気も、そよ風程度にも感じていないように、青

年はよどみない足取りで、まっすぐに巨熊に歩み寄ってゆく。

「ルオォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」

巨熊は青年を真っ直ぐに見据え、威嚇するように咆哮した。

大気を揺さぶり、肌をビリビリと痺れさせるその咆哮に、調停者達は身を竦ませ、背中に氷柱でも突っ込まれたような寒気

を覚える。

その咆哮にも、青年は眉一つ動かさず、見上げるほどの体格差がある巨熊に歩み寄る。

警告にも従わず、間合いに無造作に入り込んだ青年めがけ、巨熊は牙を剥いた。

「もう良いユウト。終わったんだ」

青年の頭部を噛み砕くように、顔を横に寝かせて大きく開かれた顎が、青年の言葉と同時にピタリと動きを止めた。青年の

顔の左右、僅か数センチのところで、鋭い牙が煌いていた。

弾かれたように、あるいは怯えたように首を引き、巨熊は後ずさる。その背がコンサートホールの入り口、強化ガラスの扉

に当たった。

その巨熊の頬に、青年の手がゆっくりと伸ばされた。この上なく優しく、労わりに満ちたその手が触れると、巨熊の瞳から

底冷えするような光が薄らいだ。替わりにその双眸には、穏やかに澄んだ蒼い光が浮かぶ。

「…タケシ…?」

ユウトは何度か瞬きしながら青年の顔を見つめ、そして何かを思い出したように素早く首を巡らせ、周囲を見回す。

「派手にやったな。まるで生まれたてのように血塗れだぞ」

そういいながら、タケシはタオルを差し出した。ユウトは受け取りながら口を開く。

「アル君が中に!入り込んだ敵を迎撃に向かった。加勢しに行かないと…」

ユウトの言葉が途中で途切れた。膝から力が抜け、腰が砕けて背が扉にぶつかる。そのままずり落ちるように尻餅をつくと、

しまった、というような表情を浮かべた。

「っく…!反動が来ちゃった…。思ったより長く開放してたみたい…!」

「休んでいろ。アルの事は俺が引き受ける」

ユウトは頷いて身体をずらすと、強化ガラスの扉の隙間に爪をねじ込み、つらそうに顔を歪めてこじ開ける。その様子を見

たタケシは、ユウトがかなり無理をした事を実感した。

「あはは。こりゃ今晩から筋肉痛だね。悪いけど、後を頼むよ」

タケシは苦笑いしたユウトの肩をポンと叩くと、安心させるように微笑みかけ、扉に向き直った。

が、奥から出て来た見知った二人の顔を見止め、青年は足を止めた。

その様子に気付き、首を巡らせて振り返ったユウトも、その二人を見て目を丸くした。

少女に肩を借り、大斧を杖代わりにのろのろと歩む白熊。かなりの体格差がある二人は、あっちへよろよろ、こっちへふら

ふらしながら歩いて来ると、自分達に視線を注ぐタケシとユウトに気付いた。

「アケミちゃん?」

「ユウトさん。それに、タケシさんも…」

意外さを顔全体に浮かべているユウトとタケシに、アケミはアルの右腕を肩に担ぎながら、二人の顔を交互に見て、それか

ら外を見回す。すでに敵は全滅し、救援要請を受けた調停者達が駆けつけているのを見ると、ほっとしたのか、少女の身体か

ら力が抜けた。

そのとたんに、二人はバランスを崩して前のめりになる。素早く近付いたタケシがアケミの身体を抱き上げるように支え、

その横でアルは顔から床に倒れ込み「いだっ!」と苦鳴を上げた。

「酷い怪我だね…。改良されたクイーンビーが相手じゃ仕方ないか…」

ユウトの言葉に、アルは顔を上げた。

「このくらい、どうって事ないっス。それより外の敵は?」

「掃討完了。中に居た普通のお客さんと、マナーの悪いお客さんは?」

「普通のお客さんは地下に避難してもらったっス。マナーが悪い方の客にはきっちり叩き込んどいたっス」

これを聞いたタケシは、いまだに衝撃から覚めやらぬ調停者達に向かって声を上げた。

「地下に民間人を保護している。救援の手伝いを頼む」

青年の言葉に、調停者達は我に返ったように動き出した。

「アル、ユウト、良くやった。後始末は引き受ける。少し休んでいろ」

タケシの口から出た、思いもかけない優しい言葉に、アルは少し驚いたような顔をした後、素直に頷いた。胸の中で、じわ

りと暖かいものが広がった。…が、

「だが、そこに居られるとアルの図体は邪魔になる。這ってでも横に退いておいてくれ」

一瞬感じた暖かい気持ちはどこへやら、小気味が良いほど容赦の無いタケシの言葉に、アルは低く呻くと、邪魔にならない

ように這いずって横へと退いた。その横を、タケシを先頭に、調停者達が地下へと向かって駆けてゆく。

「悪気は無いんだよ?ただ無神経なだけだから…」

フォローにもならないフォローを入れたユウトは、おっかなびっくり自分の脇を通り過ぎていく調停者達には目もくれず、

アケミに視線を向けた。

「それにしても…、まさかアケミちゃんが中に居たなんてね。ビックリしちゃった」

「彼女、すごい能力者っスねえ。おかげで二回も助けられたっス」

アルが賞賛を込めて言うと、ユウトは言葉の意味が解らないように、何度か瞬きした。

「アケミちゃんは能力者じゃ…」

ユウトの言葉は途中で途切れた。その脳裏に、かつて争いの種となった指環と、腕輪が浮かんだ。

回収した後、作動しなくなったあのレリックは、使用するには使用者の適性など、特殊な条件が必要と仮説が立てられ、研

究は中断されているはずだった。

(でも、もしかしたら…?)

「その話は後で。良い?誰にも話しちゃダメ。後で、事務所で話そう」

珍しく、ユウトは厳しい顔つきで二人にそう告げた。有無を言わせぬその口調に、アケミとアルは、訳が分からないながら

も頷くしかなかった。