第十九話 「それぞれの休日」(前編)

地上のうだるような熱気とは裏腹に、事務所の地下に設けられたトレーニングルームは、冷房が効いて涼しかった。

タケシとユウトが仕事の合間を縫い、ちょくちょく利用しているこのトレーニングルームは、部屋と言うよりも広場に近い。

この空間は、元々は事務所がホテルだった頃に、一階の駐車場の位置にあった降り口から下ってくる地下駐車場だった。一

辺25メートルの正方形の空間で、天井までの高さは6メートル以上ある。垂直跳びで3メートル以上跳躍するユウトが、か

ろうじて天井に指先を触れられる程度なので、タケシが刀を振り回すのにも支障が無い。

元々はコンクリートが剥き出しだったこの部屋も、事務所として改築される際に壁も天井も張り直され、クリーム色に塗装

された冷暖房完備の快適な部屋になっている。

部屋に降りてきて右側の壁には鏡が設置してあり、左側の壁にはユウトが愛用しているバーベルや腹筋台などの各種筋トレ

セットが整列している。

そして、正面奥の照明が薄暗い壁際には、タケシが剣術の稽古に使う等身大藁人形が整列している。なお、その脇には使用

済みの藁人形が無残に斬り飛ばされた状態で散乱しており…、なんかコワい。

能力者登録を済ませたその日から、アケミはこのトレーニングルームに通い、ユウトの指導のもとで能力コントロールの練

習に励んでいた。

そして今日も、少女は意識を集中し、左手を肩の高さで、真っ直ぐに伸ばしている。

その手の平が向けられた1メートルほど先には、宙に浮く60キロのバーベルがあった。

アケミの額には汗が浮き、バーベルは時折高度を下げては浮き上がるのを繰り返している。少女の後ろで、ユウトがストッ

プウォッチを片手に、黙って見守っている。そのままの姿勢で30秒ほど過ぎると、ユウトはストップウォッチを覗き込んだ。

「あと5秒。4、3、2、1…、はい、お疲れ様!」

アケミが大きく息を吐いて腕を降ろした瞬間、床に敷かれた分厚いマットの上に、バーベルが落下した。

「60キロの重りで5分持続か…。一週間前からすればかなりの進歩だね」

「ありがとう、ございます、でも、加重するのは、簡単なのに、浮かせたり、持ち上げたり、するのは、かなり、キツいです、

なぜでしょう…?」

アケミは膝に手を付いて前かがみになり、苦しげに息を整えながら尋ねる。

少女にタオルを手渡しつつ、ユウトは当然だという表情で頷いた。

「元々、重力はボクらの足元に向かって引き付ける力でしょ?加重は力を同じ方向に加えてやるだけだけど、浮かせるのはそ

れを無視する力の使い方になるし、持ち上げるのはそれに逆らう使い方になる。能力って言っても万能じゃないからね、本来

の在り様に逆らった使い方は、負担も大きくなるんだよ」

「な、なるほど、納得です…」

額の汗を拭きながら頷いたアケミに、ユウトは壁にかけられた時計を見て尋ねた。

「もうじき夕方になるし、今日はこれくらいにしとこうか。明日も来る?」

ここのところ毎日のように通っていたのだが、アケミは首を横に振った。

「あの、できれば明日はお休みにさせて頂きたいのですが…」

アケミの申し出に、ユウトは60キロのバーベルを片手で軽々と持ち上げ、所定の位置に戻しながら頷いた。

「それは構わないよ。元々義務とかじゃないんだし、遠慮なんかしないでアケミちゃんの都合に合わせて良いんだからね?せっ

かくの夏休みなんだから、パーッと遊ばなきゃ!」

笑みを浮かべて言った大熊に、アケミは微笑を返す。

「はい、有難う御座います。それで、ちょっとお聞きしたい事が…」

アケミは少し俯いて、なにやらもじもじした後、決心したように顔を上げた。

「あの。アルビオンさんの好きな食べ物って何でしょう?」

ユウトは数回瞬きした後「ははぁ〜ん…」と、口の端を歪めた。

「何?もしかして明日はアル君とお出かけ?」

「え?は、はい。まぁ…」

「そういえば同い歳だったもんねぇ。で、お弁当とか作って行くの?」

「一応その予定で…」

「んふふ〜。いいねぇいいねぇ」

ユウトは何やら楽しげな笑みを浮かべ、何度も頷く。

「そうそう。アル君の好きなものねぇ…。何でも良く食べるけど、特にヤキソバとシーフードグラタンは好物だったな。ああ

そうそう、あと海苔弁とか好きみたい」

「ヤキソバ、シーフードグラタン、海苔弁…。有難う御座います」

アケミは小声で何度か復唱すると、ペコリとお辞儀した。

「あ、できれば、ナイショにしていて頂きたいんですが…」

恥ずかしそうに言ったアケミに、ユウトは苦笑した。

「誰にも言わないから、安心して」



実はこの数日、トレーニングルームを活用しているのは、アケミ一人ではなかった。

トレーニングルームに鋭い呼気と、金属がぶつかり合う音が響く。

先日のエマージェンシーコールに際して自分の無力さを痛感したアルもまた、己を鍛え直すべく、夜の間はここで汗を流し

ていた。

指導…、というよりも、模擬戦の相手を務めるのはタケシで、二人は訓練用に、それぞれ刃引きされた刀と、刃を潰した斧

を握っている。模擬戦とは言っても、気を抜けば怪我では済まない、本格的なものだった。

打ちかかるアルに対し、タケシは軽く身を引く。前髪を掠らせる絶妙な間合いで横薙ぎの一撃を空振らせると、一歩踏み込

んでその胴に刀を叩き込む。アルはあわてて回避するが、剣先に浅く胸を掠られ、悔しげな表情を浮かべる。

気を取り直し、今度は左右から打ち払うフェイントを加え、注意を横に散らした後に本命の一撃を打ち下ろす。が、タケシ

は斧の柄に刀を叩き付け、その軌道を僅かに逸らしながらアルの横をすり抜けた。

「げほぉっ!?」

通り過ぎざまに刀が胴に飛び込み、アルは斧を取り落とし、鳩尾を押さえて悶絶した。

むせ返るアルの後ろで、タケシは壁にかけられた時計を見遣る。もうじき、夜の11時を回ろうとしていた。

「今日はもう遅い。これぐらいにしておくか」

タケシは刀を担ぎ、トントンと肩を叩きながら、肩で息をしているアルに告げた。

「うっス…」

放られたタオルを受け取り、顔を拭いながら、アルは舌を巻いていた。

彼の本来のチーム、ブルーティッシュのリーダーであるダウドから、タケシとユウトの実力については事ある毎に聞かされ

てきたが、どちらも想像以上のものだった。

タケシと実際に立ち合ってみて初めて実感したが、ダウドと同じく、レベルが違い過ぎてどれほどの実力なのか見当も付か

ない。技が、というだけではない。さすがに力比べでは負けないが、身体能力で言うならば獣人のアルに分があるはずなのに、

スピード、反射速度、スタミナにおいて、かなりの大差で負けている。汗びっしょりのアルに対し、タケシは汗一つかかず、

涼しい顔だった。

「タケシさん…、なんだって…、そんなに…、体力が…、続くんスか…?」

アルは苦しげに喘ぎながら問いかけた。エマージェンシーコールを乗り切ってからというもの、アルはより二人を慕うよう

になり、それぞれ苗字ではなく名前で呼ぶようになっていた。この微妙な変化に伴い、再会当初は硬かった態度も徐々に軟化

し、今ではかなり打ち解けている。

タケシもまた、アルに対して好感を抱いているようで、ユウトやカズキなど、一部の相手にしか見せない、微妙な表情の変

化を見せるようになっていた。

アルの問いに、タケシは少し考えてから答えた。

「手を抜いているからか?」

アルは一瞬、弱すぎて相手にならないから手抜きしている。だから疲れない。と言われているのかとも思ったが、どうやら

そうでは無いらしい。タケシは言葉を捜すようにして続けた。

「俺は、動きに緩急をつける事を心がけている。例えば、構えた際には微動だにせず、機を探る時にはゆっくりと、攻撃の際

には素早く、というようにだ。心の緊張は常に保っていなければならないが、身体そのものは一撃を放つその瞬間まで脱力し

ている事が望ましい。それ以外の時はなるべく力を抜いておく。これはスタミナを温存するだけでなく、静から動へ、動から

静へ、動きの速度の変化によって、相手を幻惑する効果もある」

「なるほど…、静から動…、緩急の差をつけて…」

頷きながらブツブツと呟き、斧を見つめて握ったり放したりを繰り返すアルに、タケシはあるかなしかの微笑を浮かべた。

後悔しなくていいように、やれるだけの事をやっておく。アルが実践しているのは、先日タケシに聞かされた、まさにそれ

だった。

アケミが能力者の登録を済ませたあの日から、アルはタケシに戦闘技術の指導を請うた。

教えられるような事が特に思いつかなかったタケシは、毎日ひたすらにこの模擬戦を行った。寡黙なタケシがほとんど何も

語らずとも、アルはこの模擬戦を通して試行錯誤を繰り返し、己の欠点を補うよう努力している。指導する側のタケシから見

ても、アルは熱心で真面目に学ぶ、良い生徒だった。日に日に成長していくその様子は、鉄仮面のタケシにも微笑を浮かべさせる。

「アル君はどんな様子?」

とユウトに聞かれた際に、

「お前が屋上で育てているカボチャのように成長している」

 と答えたら、ユウトは苦笑していた。本人は順調に育っていると表現しているつもりだったのだが、アルが聞いたらどんな

顔をしただろうか?

「明日はどうする?定休日だから、昼間から付き合えるが?」

「あ、それなら明日は…」

言いかけたアルは、何かを思い出したように言葉を切った。

「悪いっスけど、明日も夜にしてもらえないっスかね?」

「構わない。何か用事か?」

「明日の昼間は、アケミさんと一緒に出かける約束してるんス」

タケシはこくりと頷き、それから何かを思い出すように、宙を眺めて目を細め、やがてポンと手を打った。

「そうか…。デートというヤツか」

アルは納得したように一人頷くタケシを、キョトンとした顔でしばらく眺め、

「で、デート…?い、いやそんなまさか…」

「違うのか?」

「…ど、どう…なんスか…ね…?」

アルは俯き、なにやらモジモジしながらタケシを上目遣いに見た。

「お、お、オレ…。考えてみたら、女の子と遊びに行くのって初めてっス…」

「そうか。俺も経験は無い」

「へ?ユウトさんと良く出かけてるじゃないっスか?」

「仕事や買い物にだが、あれもデートなのか?」

(ユウトさんが聞いたら何て言うっスかね…)

アルはそう考えつつも、目の前の青年にアドバイスを期待するのは無駄だと悟った。

「それなら、明日は休みにするか。俺も出かけるとしよう」

「ユウトさんとっスか?」

「ユウトの都合次第だが、おそらくそうなるな」

無表情に頷く青年からは、どうもデートという雰囲気は伝わってこない。必要な物の買出しか何かなのだろうか?一緒に出

かけるなら、少しは嬉しそうな顔でも見せてやれば、ユウトもきっと喜ぶだろうに…、と、アルは心底思った。



ギラつく太陽が青い海の上で燃え盛り、砂浜を焦がす。

きらめく波が押し寄せるたび、あちこちで子供の声が聞こえる。

海水浴客で溢れかえる砂浜を前に、アルは堤防の上で立ち尽くし、途方に暮れていた。アケミとはこの海水浴場の監視塔の

下で待ち合わせをする事になっていたのだが…、

「…どうやって探すっスかね…」

監視塔はその場から見えているだけで4つあり、どの監視塔の下にも人がごった返していた。

大柄なアルはどうしようもなく人目を引く。左右をキョロキョロと見回す大きな白熊を、周囲の子供達が露骨に眺め、周囲

の大人達はさらに遠巻きにし、やはり物珍しそうな目で見つめている。

アルは折り畳んだパラソルと、敷物などを詰め込んだザックを手にしている。

もちろん今日は私服で、やや太めだが逞しく鍛えられた上半身には、被毛の上に直接群青色のベストを前を開けて羽織って

おり、下半身には同色のハーフパンツを穿き、足にもやはり同色のサンダルをつっかけている。

陽光を浴びて輝く純白の被毛と群青色のツートンカラーは、見る者にはいかにも涼しげな印象を与えるが、暑いのが苦手な

アル本人は、他人が思うほど涼しくはない。いうなれば、炎天下で天然の毛皮を着込んでいるのである。

しらみつぶしに監視塔を見て回ろうかと考えたその時、少し離れた所で、手を振りながら駆け寄ってくる少女の姿が見えた。

「ごめんなさい!探しました?監視塔がこんなにあるなんて考えてもいなくて…」

息を切らしてかけよったアケミを前に、アルは言葉が出なかった。

アケミが身につけているのは、セパレートタイプの薄黄色の水着。自己主張の控えめな細い肩紐が、色白な肩に映える。ボ

トムはスカートタイプで、可愛らしいフリル付き。特に運動はしていないと聞いていたが、細くしまった手足に、くびれたウ

ェスト、そしてむき出しのおヘソ。普段着ている制服ではあまり目立っていなかった胸は、水着姿で見ると思いの外…、

「あの、アルビオンさん?」

「あ?は、はいっス!」

はっと我に返ったアルは、思わず手を口元に持っていき、鼻の下が伸びていたのではないかと確認する。

「す、済まないっス。暑さでボーっとして…」

笑って誤魔化すアルに、アケミは微笑む。

「飲み物もたくさん用意していますから。早く行きましょう」

アケミのほっそりとした、しなやかな指が、アルの大きな手を掴んだ。掴んだといっても、手の大きさがだいぶ違うため、

アルの指を数本握ったような感じになる。

手を引かれて歩き出したアルは、顔が熱く火照るのを感じた。

美しい清楚な雰囲気の少女と、極めて大柄な白熊。このデコボコの組み合わせに、周囲から興味深そうな、そして面白そう

な視線が注がれていた。



「あ、あそこですよ」

アケミに連れられたアルは、彼女の友人達が待つシートへと案内された。男子2名、女子はアケミを含めて3名という顔ぶ

れである。

思ったよりも砂の奥が固く締まっており、男子達はパラソルを立てるのに四苦八苦しているのが見えた。

「おい、もっと力入れろよ!」

「入れてるって!ちくしょう、硬いな…!」

アルはそこへ歩み寄ると、彼らの背後から手を伸ばしてパラソルの軸を掴み、捻り込むように砂に刺し入れた。あっさり突

き刺さったパラソルをほっとしたように見ると、男子達が振り返り、シートの上に荷物を配置していた女子達も顔を上げる。

「あ、ありがとうござ…」

礼を言いかけた男子が、ギョッとしたように言葉を切った。一同が驚きと、感嘆の視線をアルに向ける。

「…どもっス」

戸惑うように軽く会釈したアルを、アケミがクスクスと笑いながら皆に紹介した。

「彼が、話していたアルビオン・オールグッドさんです」

一同はポカンと口を開け、アルに視線を注ぐ。

「で、でけぇ…」

「え?え?この人が?」

「うっそ。アケミの事だから眼鏡かけた知的、かつヒョロヒョロしたのを連れて来ると思ったのに?」

男子二名が何かに気付いたように、アルの顔をまじまじと見つめた。

「あれ…?どっかで会った事無かったっけ?」

「ん?言われてみりゃ…、見覚えがあるような…」

「…オレも、お二人を知ってるような気がするっスけど…、あれ…?」

アルはなんとなく二人に見覚えがあった。が、いつ、どこで見たのかが思い出せない。

首を傾げる三人の傍で、女子の一名が何かに気付いたように手を打った。

「あ!もしかして、この間コンサートホールで助けてくれた人!?」

「いやまあ、助けたっていうか、助けられたっていうか…」

アルは微妙な表情で頭を掻く。

「調停者なんだ!?」

「うっわ〜!タメって言ってなかったっけ?」

「そっか!それで見覚えがあったんだな!にしてもすっげ!俺らと同い年なんだろ?」

(あれ…?もっと前にどっかで会ってるような…?気のせいなんスかね…?)

小さく首を傾げた後、一気に盛り上がる一同から視線を離し、アルはアケミの横顔をちらりと見る。

彼女は少し誇らしげな笑顔でその顔を見返し、アルをドキリとさせた。