第二十一話 「里帰り」(前編)

対向車とすれ違うのがギリギリの、細い山道を、パールシルバーのランドクルーザーが駆け抜けてゆく。

峠を越え、崖から山の斜面を見下ろし、その行く手で時に狭まり、時に広がる視界。

眼下に広がる雄大なパノラマに、後部座席に座ったアルとアケミは、時折感嘆の声すら上げて、上機嫌で見入っていた。

助手席に座っているのは、いつものように無表情なタケシ。殆ど口を開かず、前方をじっと見据えているその様子は、機嫌

が悪そうにすら見えるのだが、実際にはそんなことはない。

だが、運転手は明らかに浮かない顔だった。

ユウトは巧みなハンドル捌きで危なげなくランクルを疾走させながら、時折深いため息をついていた。



その手紙が届いたのは、一昨日の事だった。

郵便配達から「不破武士様方」あての速達を受け取ったアルは、差出人の名前を見て首を傾げた。

「ユウトさん。神代勇羆さんって、親戚っスか?」

リビングを掃除していたユウトは、顔を上げ、掃除機のスイッチを切る。

「それ、ボクの兄さん。…手紙?」

差し出された封筒を受け取りながら、ユウトはあからさまに嫌そうな顔で眉根を寄せた。

「速達で?一体なんだろう?」

ユウトは封筒を開け、中の手紙を開く。上質な薄い紙に、筆で文がしたためられていた。



拝啓

残暑のおり、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか…

               (中略)

帰って来い馬鹿妹

去年の盆は言うに及ばず、暮れにも正月にも顔を出さぬとは何を考えている?

盆には必ず帰れ

でないと殺す

…そうそう。できれば、常日頃お世話になっている不破殿もつれてきなさい

               (中略)

それでは、体調など崩さぬよう、くれぐれもご自愛下さい

敬具



手紙を読み終えたユウトは、顔色をなくし、手にした紙がカサカサと音を立てる程、体を震わせていた。



「帰ったら…、帰ったら何を言われるんだろう…?いや、言われるだけで済むかどうか…。もしかしたら、生きて下山する事

は二度と無いかも…」

ブツブツと独り言を呟きつつ、ユウトは体を小刻みに震わせていた。

そんな様子には気付かず、夏休み最後の旅行として同行を許可されたアルとアケミは、至って楽しそうである。

タケシは、…気付けば寝ている。

ユウトは孤独に不安と戦いながら、徐々に近付いてくる故郷に想いを馳せた。



「着いたよ…」

お通夜の席の親族のような顔をしたユウトが呟く。

東護町から車で4時間。古い家屋が立ち並ぶ山間の集落が、一行の眼前に現れた。

集落の入り口にそびえる、高さ2メートル程の立派な石に、河祖下村、と彫られている。

「へ〜、ここが…。なんて読むんスか?かそしたむら?」

過疎した村…。脳内でそう変換したアケミが「ぷっ」と吹き出した。

「かそしもむらっ!もう、タケシといい、なんで皆そう読むかな…」

住民達は来訪者が珍しいのか、興味深そうな視線を車に向けるが、運転席のユウトに気付くと、皆が一様に少し驚き、そし

て笑みを浮かべて会釈した。

ユウトはハンドルを握ったまま軽く頭を下げて挨拶を返す。その表情からは少し硬さがとれ、懐かしそうに目が細められて

いた。

アルとアケミは、間もなくこの村の特異さに気が付いた。目にする住民のほとんどが獣人なのである。

車は集落の奥へと進み、最奥の高い壁に囲まれた屋敷の前に辿り着く。

門に「神代」という表札がかけられているのを目にし、アケミはそこがユウトの実家なのだと気付いた。

門を潜って敷地に入ると、平屋の大きな屋敷が一行の眼前に現れた。

かなり古い、立派な屋敷だった。瓦屋根で瓦は赤銅色。太い木の柱は黒光りし、土壁の色も濃い。

ユウトは広い庭の一角、砂利の上に車を停めると、深々とため息をついた。

「…着いちゃった…」

気が進まない様子で車を降りると、ユウトは一行を連れ、玄関へと歩き出す。

車の音を聞きつけたのだろう。開け放たれた引き戸から、作務衣を身につけた茶色い犬の獣人が顔を出した。

「お、お嬢さん!」

うす茶色の犬の獣人は、ユウトの姿を目にして顔を綻ばせた。

「お嬢さんがお帰りになられたぞ!出迎えに出ろ!」

屋敷の奥へと声を上げると、犬獣人は一行に駆け寄った。

「元気そうだね!かわりない?シバユキ」

「お陰様で。それにしても、本当にお久しぶりです、お嬢さん。全然帰って来ないし、連絡も無いし、皆やきもきしていたの

ですよ?今年も帰っては来ないのかと思いました」

「ごめんごめん…、ちょっと忙しくてさ…」

苦笑いして応じたユウトは、屋敷の玄関から駆けだしてくる獣人達に目を向けた。

「お久しぶりです、ユウトさん!」

「お帰りなさいやし、お嬢さん!」

「お元気そうで何よりです」

駆け寄り、笑顔を浮かべて口々に挨拶する獣人達。犬猫猪、牛に馬、出迎えに出た獣人達の数は20名にも及んだ。

 ユウトは彼らに笑みを返すと、その後ろからゆっくりと歩いてきた女性に視線を向けた。

「お帰りなさい。ユウトちゃん」

明るい茶色の毛並みをした熊の獣人に、集まっていた獣人達が道をあけた。

「ただいま。千夏義姉さん」

ねえさんと呼んだ相手に、ユウトははにかんだような笑みを浮かべた。

大柄でがっしりした体躯が特徴の熊族にしては珍しいが、背は160センチ前後。

 毛艶のよい被毛は体表にそって寝ており、体つきはほっそりして見える。

 目尻が下がった、柔和そうな顔立ちの女性だった。

ユウトは以前から何度か来ているタケシは除き、皆にアルとアケミを紹介すると、一行に獣人達を紹介した。

「ボクの義理のねえさんで、チナツ義姉さん。兄さんの奥さんなんだ」

ユウトが笑みを浮べながら紹介すると、薄茶色の熊は微笑んでお辞儀した。

「神代千夏(くましろちなつ)です。皆さん、遠いところを良くお越し下さいました」

チナツが礼儀正しく頭を下げると、ユウトは一番初めに出てきた犬獣人を紹介した。

「彼は犬沢柴之(いぬさわしばゆき)。ボクの幼なじみなんだ」

「シバユキとお呼び下さい。どうぞよろしく。お嬢さんがお世話になっております」

ユウトは次々と獣人達を紹介して行く。チナツを除いては皆使用人であるらしい。

 アルはダウドから聞いていたのか、さして驚いた様子もなかったが、アケミは小声でアルに話しかけた。

「ユウトさんって、名家のお嬢様だったんですね?」

首肯しながら、アルはふと思った。

(アケミもユウトさんもお嬢様なんスよね…。気取った所が無いせいか、普段はイマイチ意識できてないっス…)

紹介を終えたユウトは、懐かしい顔ぶれと再会して嬉しいのか、来たときとは大違いで、笑顔を浮かべていた。

が、その表情も束の間、玄関口に現れた人物を見た瞬間に、笑みは凍り付いた。

全身は赤銅色の被毛に覆われ、首から胸にかけてマフラーをしているように、白い毛に覆われている。

 両の瞳は漆黒で、きりりと太い、意志の強そうな眉が印象的だった。

 紋付きの着物を着用した、堂々たる佇まいの熊の獣人、しかし、最も特徴的だったのは、

「で、でか…」

ユウトに負けず劣らず大きなアルが、思わずそう漏らす程の巨躯だった。

上背は2メートル半をゆうに越えるだろう。ユウトやアルと比べても、頭一つ分以上背が高い。幅のある、どっしりとした

体躯は、まるで小山のようだった。

巨熊が無言のままゆっくりと一行に歩み寄ると、ユウトはゴクリと生唾を飲み込んだ。

「不破殿、それにユウトの友人の方々。遠路はるばる、よくぞいらっしゃった。心より歓迎させて頂こう」

低い、落ち着いた声でそう言うと、巨熊は口元から丈夫そうな牙を覗かせ、笑みを浮かべた。

 ユウトそっくりな笑い方に、アケミとアルはこの巨漢が何者なのか、すぐに理解した。

「…若いお二方、お初にお目にかかる。申し遅れたが、我が名は神代勇羆(くましろゆうひ)。神代家十八代目の当主を務め

ている。そして…、そこのユウトの兄でもある」

威厳たっぷりの堂々とした立ち振る舞いに、アケミとアルは緊張した面持ちで、それぞれ挨拶を返す。

ユウヒと名乗った巨熊は、タケシに向き直って破顔した。

 親しみのこもった笑みを浮かべると、その顔はさらにユウトと似た印象を受けた。

「久しいな不破殿、息災そうで何より。日頃からユウトが迷惑をかけている事と思う。まずは詫びさせてもらおう」

「お久しぶりですユウヒさん。迷惑などとんでもない。俺の方こそユウトに頼ってばかりです」

青年が微笑を浮かべて応じると、ユウヒは笑みを浮かべたまま、分厚い手をパンパンと叩いた。

「さあ、客人達も長旅で疲れていらっしゃるだろう。皆、済まんがもてなしの準備を頼む」

「さあ、冷たいお飲み物をご用意いたしますので、皆さんどうぞこちらへ」

チナツは柔和な笑みを浮べたまま一行に会釈すると、屋敷に上がるよう促した。



巨木を輪切りにした、分厚い一枚板の立派な机を円座で囲み、一同は冷たい麦茶で喉を潤した。

見事な景観の裏庭に面した80畳の広間は、障子が全て開け放たれ、涼しい風が部屋を通り抜けていく。

ユウヒの右隣にチナツ、左隣にユウト。ユウトの隣にはタケシ、アル、アケミの順で座り、アルとアケミは初対面のユウヒ

に自己紹介をしていた。

「『ぶるうてぃっしゅ』というと、ダウド殿とネネ嬢の組か…。調停者と学業の両立は難しいだろうに、実に感心…」

「リーダーとネネさんをご存じなんスか?」

「ダウド殿には、以前首都へ赴いた際にも世話になった。ネネ嬢とは、彼女の実家と神代家は古くから付き合いがあるのでな。

幼い頃から知っている。二人とも変わりないだろうか?」

「元気っスよ。…でも、まだ結婚はしないみたいっスね…」

含みを持たせたアルの返答に、ユウヒは笑い声を噛み殺した。そしてアケミに視線を向けると、軽く頭を下げる。

「榊原のご令嬢。先代のご不幸、心よりお悔やみを申し上げる。今年は初盆だろうに、このような田舎まで来て、大丈夫なの

か?」

「はい。その事もあり、明日にはおいとまさせて頂く事になります。…失礼ですが、私の父ともご面識が?」

「直接お会いしたのはかなり前の事だ。麓からこの村までの道を舗装した業者が、榊原財閥の傘下だった。本社の営利にそれ

ほど影響のある事業でもないだろうに、わざわざこんな田舎まで視察にいらっしゃった。こちらとしても大歓迎の工事だった

のだが「騒音や車の出入りなどで迷惑をかける」と頭まで下げられ、逆に恐縮してしまったよ。まだ小さかったが、ユウトも

お会いしている。十六年も前、五つの時の事だから、覚えてはいないかもしれぬな」

「うん。全然…」

ユウトは少し驚いたような表情で首を横に振った。

アルもアケミも、ユウヒと自分達との間に、意外にも間接的なつながりがあった事を知り、少し驚いた。気難しそうな外見

から、最初は緊張していたが、意外に話しやすい人物である事が解り、二人ともすぐにうち解けていた。

「十六年前って…、その時はユウヒさん、おいくつだったんスか?」

「当主となったばかりで、二十一だった」

「へぇ、今のユウトさんと同い年の時っスね。…ん?」

「そんなにお若いうちから、もうご当主に…。…あれ?」

アルとアケミは意外そうに顔を見合わせた。十六年前で二十一歳と言うことは、今は三十七歳。ユウトが二十一歳なので、

かなり歳の離れた兄妹である。

「あの時、榊原氏は娘さんが生まれたばかりだとおっしゃっていた。キミの事だな」

自分が生まれて間もない頃に、父はこの村を訪れていた。そう考えたら、アケミはこの村に少し親近感を覚えた。

すっかりうち解けて談笑する一同。しかしその中でただ一人、ユウトだけが居心地悪そうにしていた。

「失礼致します」

廊下に面した襖の傍に、シバユキが片膝立ちで現れ、一同に声をかけた。

「入浴の支度が整いましたが、いかがなさいますか?」

「手間をかけましたねシバユキさん。皆様、夕食にはまだ早いでしょうから、どうか先に湯に浸かり、旅の疲れを落としてく

ださいませ」

チナツは柔和な笑顔で一同の顔を見回し、入浴を勧める。

心遣いに恐縮しながらも、躊躇しているアルとアケミは、断るのも失礼だとタケシに諭され、青年に促される形で立ち上が

った。

一緒に席を立とうとしたユウトは、しかしその後ろ襟をユウヒにむんずと掴まれた。

「…ユウト、お前はもう少し残りなさい」

ユウヒは笑顔だったが、目はまったく笑っていなかった。ユウトは襟を捉えられたまま、凍り付いたように身動きしない。

「シバユキ、済まぬがお客人達の案内を頼む。チナツも外して良いぞ」

ユウヒは妹の後ろ襟を捕らえたまま、それとなく人払いを始めた。

ユウトの目は助けを求めるようにタケシに向けられる。が、すでに背を向けている青年は、その救難信号に気付かなかった。

そして、広間には兄と妹、二人だけが残される。

「…さて…」

皆が立ち去り、静まりかえった広間で、ユウヒはユウトの襟を放すと、向き直って口を開いた。

「暮れにも正月にも帰らず…、手紙も年賀状一度きり…、どういうつもりだったのか、納得のいく説明をして貰おうか?」

ユウトは正座してユウヒと向かい合い、体を縮め、小声で呟く。

「ええと…、それはね…。仕事が…」

「忙しかった。と?」

じっと顔を見つめられ、ユウトは視線を逸らした。

「う…。い、いや…。実はあんまり…」

「では、何故帰ってこなかった?」

ユウトは言いづらそうに口ごもった。ユウヒはピクリと片方の眉を上げる。

「お前…、自分は正当な血筋ではないとか、また下らぬ事を言い出すつもりではあるまいな?」

ユウヒの声に、厳しい響きが混じった。ユウトは俯き、無言のまま答えない。

「良いか?何度も言うが、お前がそんな事を気にする必要はない」

「気にするなって…、だったらなんで隠していたの?ボクが母さんの子じゃないって!」

ユウトは思わず口に出してしまってから失敗に気付き、慌てて口元を押さえる。

ユウヒは、哀しげに顔を曇らせていた。

「…ごめんなさい…」

ユウトは項垂れ、小声で謝った。

「…俺とお前の体には、半分同じ血が流れている。それだけでは、兄妹には不足か?」

ユウヒの言葉は静かで、ユウトには怒鳴られるよりも堪えた。

「何も知らなかった頃と、知ってしまった今と、同じ間柄では居られぬか?」

「そんな事ない…。兄さんの事は変わらず尊敬してるし、自分の生まれを恨む気持ちもない。それでも…、ボクの居場所はこ

こじゃないって、そんな気持ちが拭えない…」

ユウトの返答に、ユウヒはため息をついた。

「…でも、それも里帰りしない理由にはならないよね…。ごめんなさい…」

体を小さくし、申し訳なさそうに謝ったユウトの頭を、ユウヒは分厚く広い手の平で、ポンっと、優しく叩いた。



屋敷の露天風呂は、天然の温泉だった。

この村に来て以来、ことごとく予想を超えていく出来事ばかりで、アルもアケミも感心し通しだった。

 だが、ここで一つの問題が発生した。

風呂は、混浴だった。

獣人の集落が多いこの近辺、実は、男女が一緒に風呂に入るのが当たり前で、皆がそれを当然と受け止めている。

 よって、三人は一緒の脱衣場に通される事となり、アケミとアルはかなり慌てた。

「なるほど…、ユウトさんがオレやタケシさんが居る前で平気で着替えたり、一緒に風呂に入ろうとしたりする理由が、やっ

と分かったっス…」

「…アル。ユウトさんと一緒にお風呂に入っているんですか?」

「い、いや入ってないっスよ!?」

なにやらコワい笑顔で尋ねるアケミに、アルは首をブンブンと横に振った。

とりあえずは信用したのか、少女はそれ以上追及せず、少し困ったような顔をした後、

「私、後から入りますから。お二人から先にどうぞ」

そう言って脱衣場を出た。

そして廊下の壁によりかかり、男女混合で風呂に入るのが常識となっているらしいユウトの事を考える。

「…ユウトさん…、タケシさんとは一緒にお風呂に入っているのかしら…」

「たまにだけど一緒に入るよ?ボクが怪我をした時なんかは体を洗うの手伝って貰うし」

「そうなんですか…」

唐突に聞こえた返事に相槌をうったあと、アケミは弾かれたように顔を上げた。

いつのまにか現れたユウトは、すぐ傍でアケミを見つめていた。

 そして一瞬、何か考え込むような表情を見せた後、納得したように頷く。

「ああ!シバユキったら、一緒に入るものと勘違いしたんだね?ついてきて、少し小さいけど、もう一つお風呂あるから、ボ

クらはそっちで入ろう」



広い露天風呂は、天然の岩と温泉を利用したものだった。

見事な造りの露天風呂に、アルは感心のあまり言葉も出なくなった。

「驚いただろう?ユウトが提案した事務所の浴場は、ここを元にイメージしたらしい」

「納得っス…。実家にこれだけの風呂があったら、こだわるのも頷けるっスね…」

体を流し、並んで湯に漬かると、二人は夕暮れの近い空を見上げた。

「タケシさんは、ここにも何回か来てるんスよね?」

「今回で三度目になる。ユウトと初めて会った年に、初めて訪ねた」

アルは少し迷った末、おずおずと尋ねた。

「ユウトさん、なんだか帰って来たくなかったみたいっスけど、なんでっスか?」

タケシは、彼にしては珍しく、少し哀しげな表情で押し黙った。

「いや、言えない事ならいいっスよ?無理に聞こうとは思ってないっスから…」

深い事情があるのだろうと察し、アルは頭を掻きながらそう言う。

「済まない。ユウト自身が話さない限り、俺から誰かに話すべきではないと思う」

白熊はコクリと頷くと、それ以上追求するのはやめる。

二人がしばらく無言のまま湯に漬かっていると、竹のついたてで視界を遮られた向こう側から、アケミの声が聞こえてきた。

「あ…、ユウトさん、ちょっと触らせてもらっていいですか?」

「うん?構わないけど…」

どうやら、ついたての向こうにも風呂があるらしく、ユウトとアケミがそちらに入っているようだった。

 男の習性で、思わずピンと耳を立て、二人の会話に耳をそばだてるアル。

「うわぁ…、大きくて柔らかいですね…」

「アケミちゃんのこそ、可愛いじゃない。ちょっと羨ましいなぁ…」

「ええ?小さくないですか?」

「人間にはそれくらいが普通でしょ?どれどれ…。お、フニフニしてる」

ついたての向こう側の光景を想像し、アルは顔が熱くなった。

 こちらに声が聞こえている事に気付いていないのか、ユウトとアケミはだんだん盛り上がってくる。

「そっちの方が柔らかいですよ。ちょっと失礼して…」

「あ!やだ、んふふふ!くすぐったいよアケミちゃん!ええい、お返し!」

「あ、だ、ダメです!ちょっ、ユウトさん、あは、あはははは!」

ブピッ!

タケシは妙な音を耳にし、アルに視線を向ける。

 アルは空を仰ぎ、鼻を押さえていた。

 真っ白い毛に覆われた太い指の隙間から、真っ赤な鼻血がダラダラと流れ出ている。

「のぼせたのか?」

「み、みたいっス…。オレ、先に上がるっスね…」

よろよろと湯船から這い出し、股間を隠しながらやけに前かがみで脱衣場に戻ってゆくアルを見送ると、タケシは何事もな

かったようにタオルで顔を拭った。



「へぇ…、この大きなヘチマのスポンジ、自家栽培なんですか…」

アケミはユウトの「大きくて柔らかい」スポンジを揉みしだきながら、感心して言った。

「まあね。ところでこれ、どういうとこで売ってるの?」

ユウトはアケミの「可愛い」アヒル型のスポンジを弄りながら尋ねる。

「おもちゃ屋さんで売っていましたよ」

二人は互いに持ち寄ったスポンジが興味深いものだったので、お互いの体を擦りあってみたのだった。

 …想像して鼻血まで流したアルの立場がない。

石鹸の泡を流し、二人はゆったりと広い湯船に浸かる。湯の温かさが染み入り、疲れが追い出されていくような心地良さを、

二人はしばし無言で味わった。

ユウトはアケミの様子をちらりと覗う。

特に運動をしている訳ではないらしいが、アケミの体は余計なところに余分な肉はついていない。

 胸はまだ成長途中で小振りだが、くびれたウェストとあいまって、美しいラインを描いていた。

 熊族特有の体形をしているユウトにとっては、そのプロポーションは実に羨ましいものである。

ため息をつき、湯の中の自分の体を見下ろす。

 ユウトの体は同族の男性と比較してもかなり大きく、そして骨太である。

 発達した胸筋で押し上げられた胸、その下にはぽっこりと丸く出ているウェストがあった。

 脇腹の辺りをちょっとつまんでみると、分厚い筋肉の上に柔らかい皮下脂肪が…、

「やば…、また太った…?」

ユウトは焦ったように自分の腹回りを探る。すると明らかに、夏前と比べてウェストは豊満になっているのが判った。

 暑い日が続いたのでジュースやアイスなどを大量に摂取していたが、そのツケが覿面に回ってきたようである。

ちょっとヘコみながら、ユウトは湯船を出る。

「もう上がるんですか?」

珍しく早々と風呂から上がったユウトに、アケミは不思議そうに尋ねた。

「うん。食事の前に、お墓参りしておこうと思ってね。アケミちゃんはゆっくりしてて。上がったら、誰かに客間まで案内し

て貰えるように言っておくから」

ユウトはそう告げると、アケミを残して浴場を後にした。



屋敷の裏手、山に分け入る細い山道を20分ほど登ったところに、神代家の墓がある。

曲がりくねった急な坂道を苦にもせず、ユウトは足早に山を登り、先祖達の眠る墓地に立った。父母の遺骨が納められた、

御影石の立派な墓の前で、目を細めてしゃがみ込む。

「ただいま。父さん、母さん…」

線香をあげ、目を閉じて手を合わせる。穏やかな風が、ユウトの頬を優しく撫で、金色の毛を揺らしてゆく。

目を開けると、ユウトは首を巡らせ、少し離れた所にある墓へと視線を向けた。

フレイア・ゴルドと刻まれたその墓には、この墓地の中で唯一、神代家以外の者が眠っている。

「やはり、ここに来ていたのか」

ユウトは声に振り向くと、墓地の入り口に立っているタケシに目を向ける。

ユウトの視線を受けながら、青年は彼女の父母の墓前に立つと、屈み込んで手を合わせた。

 まだ幼い頃に、両親は共に流行り病で命を落としたと、以前にユウトから聞いている。

タケシはユウトと並び、異国の文字で墓碑銘が彫られた墓の前に立つ。

「この墓が、お前の生みの母の墓だったのだな…」

呟いたタケシの横で、ユウトは屈み込み、墓前に線香をあげると、目を閉じて手を合わせた。

「おかしいよね」

ユウトは目を閉じたまま呟く。

「母さんって呼ぶ相手が、二人も居るなんて…」

ユウトの呟きを、タケシは無言のまま聞いていた。

「…元気だった間は、自分の本当の母さんだなんて、知らなかった。生きている間に一度も「母さん」って呼べなかった。…

親不孝だよね…」

ユウトが目を開けると、タケシは隣で屈み、手を合わせていた。

「どんな人だったのだ?」

タケシの問いに、ユウトは遠くを見るように目を細めた。

「強い人だったよ。とっても綺麗で、優しくて、真っ直ぐで、強い心を持った、ステキな人だった」

「ならばきっと、ユウトのような女性だったのだろうな」

タケシの言葉に、ユウトは「ぷっ」と吹き出した。

「ボクは違うよ。ボクは弱い。弱いからすぐに心がふらつくし、優しいんじゃなくて甘いだけ。それに、綺麗でもないしね」

青年が何かを言いかけ、口を開きかけたが、ユウトはそれには気付かずに続けた。

「金色の髪と、蒼い瞳。ボクが母さんから受け継いだのは、それだけだもん」

タケシの脳裏を、ブロンドの髪を後ろで結い上げた、蒼い瞳の美しい女の姿がよぎった。

 想像にしてはやけにリアルなその幻影に、何故か胸がざわつく。

「さて、戻ろうか。滅多に帰って来ないんだし、里帰りした時ぐらい、ボクも夕食の支度程度は手伝わなくちゃ」

ユウトの言葉に頷きながら、青年は考えた。

人間と獣人の混血児は、どちらかの種族として生を受ける。二分の一の確率で、人間か獣人かが決まるのだ。

頭をよぎった女の姿は、あるいはユウトが人間として生を受けた場合の姿だったのかもしれない。

 そう考え、青年は無言のまま、フレイアの墓碑を見下ろした。