第二十二話 「里帰り」(後編)

一行がユウトの故郷、河祖下村を訪れたその日は、丁度村の夏祭りだった。

使用人とチナツが心を込め、ユウトも手伝った豪勢な、少し早めの夕食を済ませると、ユウヒは若い二人に祭りを見てきて

はどうかと勧めた。

「ユウトも参加する事だ、一緒に見てきてはどうかな?」

皿の片付けを手伝っていたユウトは、驚いたような、呆れたような顔で兄に抗議する。

「参加予定なんてないんだけど?」

「久しぶりに帰ってきたのだ。慣れたものだろう?参加しろ」

拒否を許さぬ口調にユウトがしぶしぶ頷くと、ユウヒはシバユキを呼ぶ。

どこに控えていたのか、犬獣人はユウヒが呼びかけた後、少しの間も空けずに襖を開け、一礼した。

「ユウトの法被を、アケミさんとアルビオン君には浴衣を出してくれるか」

「かしこまりました」

シバユキは再び一礼し、襖を閉じる。

アケミとアルはこの犬獣人を、まるで忍者のような男だと感じていた。

 それほどまでに気配を感じさせず、神出鬼没なのである。

「祭りが始まればユウトちゃんも忙しくなりますから、私がお二人を案内しましょう」

チナツの申し出に、ユウヒが「それが良かろう」と頷く。

「忙しくなるって、なんでっスか?」

アルの問いかけに、ユウトは頬をかき、チナツは微笑した。

「それはすぐに分かりますよ。さあ、着替えて準備を致しましょう」



村のほぼ中央に位置する広場には、かなりの人出があった。

広場の外周には夜店が並び、中心には櫓が組まれ、その上に太鼓がおかれている。

ありふれた盆踊りの光景だったが、住民のほとんどが獣人なため、アケミはまるで異国に紛れ込んだかのような錯覚を覚えた。

金魚すくいに風船釣り。綿菓子屋に、焼き鳥、焼きそば、たこ焼き屋。

様々な夜店が並ぶ広場をチナツとユウトに案内されて回るうちに、少女はこの村での神代家の立場をうすうす理解する。

 すれ違う人々が会釈し、笑みを向ける。

 中には丁寧に腰を折って挨拶する者までおり、その言葉の内容から、神代家はこの村の顔役のようなものなのだと察する事

ができた。

広場を回り、祭り独特の喧噪を楽しむうちに、アケミはいつのまにかユウトの姿が消えている事に気付いた。

「ああ、そろそろ出番でしょうからね」

チナツの説明に、二人が揃って首を傾げていると、しばし止んでいた太鼓と笛の音が再開した。

 チナツが首を巡らせたので、二人もそれを追って視線を巡らせると、櫓の上の鼓手が、いつのまにか交代している。

ドォン!と、大太鼓からこれまで以上に盛大な音を叩き出しているのは、青い法被を纏った大柄な金色の熊。

「出番って、これの事だったんスか…!」

力強いバチ捌きで太鼓を叩くユウトを見上げ、アルは感嘆の声を上げた。

「ユウトちゃんは、小さい頃から祭りの鼓手を務めていたの。あの大太鼓は生半可な腕力では良い音が出せないのですよ。あ

れだけ響かせられるのは、ユウトちゃんぐらいです」

その事が誇らしいのか、義妹の姿を見上げて微笑むチナツ。その横で、アケミも感動したように頷いた。

「かっこいいですね…、ユウトさん」

帰郷をしぶっていた様子からは想像もつかないほど、櫓の上のユウトは生き生きとしていて、楽しそうだった。

本当は、ユウトは故郷を嫌ってなどいないのだと、アケミもアルも分かっていた。



その頃、屋敷の居間では、タケシとユウヒが二人で、机を挟んで向き合っていた。

「こうして酒を酌み交わすのも、もう四度目になるか」

ユウヒはタケシの椀になみなみと酒を注いだ。タケシもまた、礼を言いつつユウヒの椀に酒を注ぎ返す。

 タケシの片手になんとか収まる程の素焼きの椀は、逆にユウヒの手の中では小さく見えた。

机の上には三本の一升瓶が置かれているが、その内の一本はすでに空になっている。

二人は何かについて話し合うでもなく、時折ポツリ、ポツリ、と思い出したように言葉を交わし、開け放った窓から入って

くる、祭りの遠い喧噪に耳を傾け、ゆっくりと酒を酌み交わしていた。

「ユウトは、うまくやっているのだろうか?」

「はい。いつも元気にしています。俺とは違い、近所付き合いも苦ではないようです」

「事務所の運営は順調かな?」

「そこそこは。二人ではできる仕事も限られていますが、生活には不自由していません」

交わされる言葉はさほど多くない。にもかかわらず、二人の間には居心地の悪さのようなものは感じられない。

口下手で寡黙、腕は立つが、表だって目立つ事を好まない。

 奇妙な類似点が多い男達は、言葉少なく、ただ酒を酌み交わす。

相当な量を飲んでいるのだが、体の大きなユウヒには酔った様子は全くない。

 タケシも自分のペースを守って飲んでいるせいか、少し頬に朱がさしている以外に、酔いを印象付けるものはなかった。

しばらくすると、太鼓の音が変化した。先ほどよりも良く響く音を聴きながら、ユウヒは目を細める。

 その顔は、微笑んでいるようにも、哀しんでいるようにも見えた。

「北原より帰国した直後、あいつが家を飛び出した時は、見つけ出したら力ずくでも連れ帰るつもりだった。お前が生きるべ

き場所は、この村をおいて他にないと…、例え腹違いでも、俺にはたった一人の大切な妹なのだと…、誰も、お前を疎んだり

はしないと…、そう言ってやるつもりだった…」

タケシは黙ってユウヒの言葉を聞く。

「だが、連れ戻さなくて正解だったのかも知れぬ」

ユウヒは自嘲するように口の端を歪めた。

「調停者として生きる道を定め、不破殿と出会い、外の世界を知ることで、あいつは変わった。…いや、本来のユウトに戻っ

たというべきか…。過度に強さを求める張り詰めた雰囲気が消え、他者と交わる柔軟さを取り戻した。実の母を失って帰国し

た頃は、本当に酷い有様だったのだがな…」

赤銅色の熊は、タケシの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「不破殿には感謝している。この村に留めておいたなら、ユウトは今でもあのままだったのかも知れぬ…」

礼を言うユウヒに、しかしタケシは首を横に振った。

「俺は何もしていません。ユウトが立ち直れたのは、ユウト自身が強かったからです。彼女ほど素晴らしい女性は、そうそう

居ないと認識しています」

ユウヒは目を細め、口元を笑みの形に歪めた。

「その言葉、いつかあいつ自身に聞かせてやって欲しい。俺の口からでは聞き入れはせぬからな…」

タケシは珍しく、困ったように視線を逸らした。

二人はしばし無言で酒を口元に運び、飲み交わす。

 やがて、そのしばしの沈黙を破り、タケシがポツリと言った。

「少し前…、今月初めの事です。ユウトが神卸し(かみおろし)を使用しました」

口元に椀を運ぶ途中でユウヒの手が止まり、その両目が僅かに鋭くなる。

「制御は、失敗か?」

「はい。駆けつけた時には暴走寸前で、最初は俺が誰なのかも解らない様子でした」

自分に牙を剥きかけた事は伏せ、タケシが手短にその時の状況を説明すると、ユウヒは喉の奥で唸った。

「神卸し…、神代家では狂熊覚醒(きょうゆうかくせい)と呼ばれ、代々継がれてきた奥義だが…。これは異国で「おおばあ

どらいぶ」と呼ばれるものの形態の一つだということは、説明したかな?」

タケシは頷き、口を開く。

「潜在能力を瞬間的に、限界点ぎりぎりまで解放する禁圧解除。その先に存在する、限界を超える能力を引き出す奥義、そう

お聞きしました」

ユウヒは頷き返し、自分の掌を眼前に翳して見つめる。

「獣人の体の奥底に眠る、野獣の闘争本能を呼び覚まし、能力を限界以上にまで引き上げる。言葉にすればそれだけだが…、

言うほど容易いものではない」

ユウヒは掌を閉じ、拳を握りしめた。

「敵を屠れ、引き裂け、殺せと、心の奥底から抑えがたい衝動が込み上げる。それは強い解放感を伴う、耐え難いほど強烈な

誘惑だ。…実際俺は、奥義を会得する過程で衝動に飲み込まれて我を失い、抑えに入った父の右目を抉ってしまった…。簡単

に使いこなせるようなものではない…」

悔恨の念がユウヒの分厚い胸を満たす。

 大切な者を傷つけた後に残る、こんな想いだけは、ユウトにはして欲しくなかった。

「あいつの狂熊覚醒は未完成だ。発動すればじきに理性を失い、数分後には目的すら見失い、暴走する。制御できなければ、

狂熊覚醒は文字通り、狂った熊を呼び覚ます、危険なだけの技…」

タケシも、ユウト自身も、危険な事は十分に解っている。だからこそユウトも禁じ手にしているのだ。

万が一、本当に暴走してしまえば、自分がユウトを止めるしかない。

 だが、果たしてあの状態のユウトを止めることが、自分にできるのか?

 できたとして、ユウトを傷つけずに止めることは出来るのか?

 タケシには、暴走に陥ったユウトを上手く鎮めるだけの自信がなかった。

「使わぬに越した事はないのだが…。済まぬが、注意しておいて貰う以外に、当面の対策はないだろう…。俺は俺で少し手を

考えてみる…」

タケシは頷き、ぐいっと椀をあおった。

都会とは違う、奥羽の山にかかる深い夜の闇は、次第に濃さを増していった。



翌日の早朝、屋敷の裏手にある開けた場所で、ユウトとユウヒは向かい合っていた。

四方は高い塀で囲まれており、地面は踏み固められ、土が締まっている。

屋敷の敷地のその一角は、修練場として使われている場所だった。

ユウトは幼い頃から汗を流した修練場を見回し、懐かしそうに目を細める。

二人から離れた壁際には、タケシとアル、アケミ、それにチナツやシバユキ、他の使用人も全員揃って、二人を遠巻きに見

つめていた。

二人は共に、袖のない空手着のような道着を身に付けている。ユウトは白、ユウヒは濃紺の道着だった。

「では、始めるか。構えろユウト」

兄の言葉に頷くと、ユウトは腰を落として構えをとる。ユウヒもまた、ユウトと全く同じ構えをとった。

山間の朝特有の、冷たく、僅かに湿った空気が一瞬で張り詰める。

一同が固唾を呑んで見守る中で、先に動いたのはユウトだった。

両腕を脇腹にピタリと付け、両の拳を握ると、地を蹴って一息に間合いを詰める。

 一瞬で3メートルの間合いが消失し、二頭の大熊が顔を突き合わせた。

顎を狙い、大気を砕いて振り抜かれた左の拳を、ユウヒは僅かに上体を反らしてかわす。

 続けざまにユウトが繰り出した右の拳は、ユウヒの脇腹を捉える事なく、左の肘でブロックされる。

防がれた拳を即座に引き、体を時計回りに回転させ、ユウトは後ろ回し蹴りを放つ。

 が、ユウヒは即座に身を捻り、その蹴りを右腕で脇に抱え込んで固定する。

 足を取られながらも、下半身を追いかけるように上体を捻り、ユウトは側頭部めがけて裏拳を放った。

 しかし、掴まれた脚を押し戻され、拳はユウヒの眼前を通り過ぎる。

ユウヒはユウトの脚を掴んだまま、勢い良く体を捻った。ユウトの巨躯が軽々と放り投げられ、宙を舞う。

空中で体勢を立て直し、四つん這いで着地したユウトの眼前に、ユウヒの足の裏が迫った。

 横に転がってかわしたユウトの横で、轟音と共に硬い地面が踏み抉られる。

跳ね起きたユウトが左の拳に光を灯し、横合いからユウヒに飛びかかる。

 ユウヒもまた、左の拳に光を灯してこれを迎え撃つ。

「熊撃衝!」

「散華衝!」

神代の兄妹は、同じ能力を生まれ持っている。

 力場を纏ったユウトの左拳とユウヒの左拳が正面から激突し、その間で、行き場の無くなったエネルギーが、水しぶきのよ

うに四方へと飛び散る。

ウェイトとパワー、力場の出力の差がもろに出て、弾かれたユウトが後ろへとよろめく。

「ふ、二人とも本気っスか!?」

「ユウヒさんはまだ本気ではない。逆に、ユウトは本気でやらねば数秒と保たないが…」

 思わず声を上げたアルに、タケシが落ち着いた様子で言った。

以前訪れた際に、タケシはユウヒと手合わせしている。それも、一度はユウトと二人がかりで。

 結局、二人がかりで手も足も出ず、タケシはユウヒの力量に、深い尊敬の念を抱いている。

戦乱の時代、神将と称され、帝の僕として名を馳せた十二の獣人。神代家はその内一人の直系の血筋である。

 現当主であるユウヒは、歴代の当主の中でも、始祖以来とされる傑物。

 おそらく、一対一で正面切って戦ったなら、あのダウドでも勝つのは難しいだろう。青年はそう評価している。

力場を纏った拳が、蹴りが、めまぐるしく交差する。

 動きが速過ぎ、アケミの目ではもはや何が行われているか全く分からず、アルでも目で追うのがやっとだった。

兄妹の攻防は徐々に激しさを増し、やがてユウトが徐々に押され始めた。

「どうした。もうバテたのか?」

禁圧解除を駆使して高速戦闘を行っているユウトに対し、ユウヒは一度たりとも禁圧解除を使用していない。地力だけで二

人にはそれほどの差があった。

拳と蹴りの応酬だけでは押し切られる。ユウトはそう判断すると、地を蹴り、後ろへと跳び退った。

アルが知る限り、得意とする接近戦をユウトが自分から避けるのは初めての事だった。

 その事が、桁外れなユウヒの実力を印象付ける。

間合いを放したユウトは、燐光を纏う右の拳を、ユウヒめがけて振り抜いた。

「雷音破!」

白く輝く眩い光弾が、ユウトの拳から放たれた。凄まじい速度で打ち出されたそれは、一直線にユウヒに迫る。

「天鼓雷音(てんこらいおん)!」

赤銅色の巨熊が手の平を突き出すと、ユウトの放った光弾よりも一回り大きな光弾が打ち出される。

 空中で衝突し、眩い閃光を撒き散らす二つの光弾。

 短い拮抗の後、ユウトの放った光弾は打ち砕かれ、ユウヒの光弾はそのまま宙を駆ける。

しかし、その先にはすでにユウトの姿は無い。光弾はそのまま直進し、壁に激突して大穴を空ける。

ユウヒは空を仰いだ。その視線の先には、頭上から自分に向かって両手を突き出したユウトの姿。

 光弾が衝突した際の閃光を隠れ蓑に、ユウトは宙へと跳躍していた。

「蒼火天槌(そうかてんつい)!」

両手から光が溢れ、太い光の柱となって地へ伸びた。エネルギーを放射したユウトの体が、反動で跳ね上がる。

地を揺らす衝撃、次いで轟音。

 ユウヒを飲み込み、地に達した光の柱は、爆弾でも破裂したかのように大量の土砂を巻き上げた。

着地したユウトは、もうもうと立ち込める砂埃に目を細める。

「な、なんですか今の?ビーム?レーザー?」

アケミはあっけにとられて呟くが、アルも「分からない」といったように首を横に振るばかりである。

 彼にとっても、神代家の格闘技術は未知の闘術なのだから。

気配を覗うように目を懲らし、耳を澄ませるユウト。その眼前に突如、砂埃を吹き払い、赤銅色の巨体が飛び出した。

 気を緩めていたわけではないのだが、あまりの速度に反応できず、ユウトは首を鷲掴みにされる。

首を捕らえたまま、ユウヒは腕一本でユウトを吊り上げ、喉輪落としで地面へと振り下ろす。

(まずい!落熊撃だ!)

考えるのと同時に、ユウトは両腕を胸の前から眼前に跳ね上げ、ユウヒの腕を外す。

 そのまま身を捻ると、首から外れて振り下ろされたユウヒの腕が、閃光を放って地面を大きく抉った。

爆風に押されつつ地面を転がって間合いを離したユウトは、むせ返りながら立ち上がり、ユウヒの姿を睨む。

 所々道着が破れているものの、兄熊にはダメージが見られなかった。

「無傷…?直撃したのに…!」

驚愕を隠しきれないユウトに、ユウヒは笑って答えた。

「あれしきの豆鉄砲。何発食らおうが蚊に刺された程でもない」

「…いや、あんなん食らったら普通は死ぬっスよ…」

アルは呆然としながら呟く。

 あのユウトが子供扱いされている。世の中は広い、とんでもない怪物が居たものだと、内心舌を巻いていた。

構え直し、次の手を考えるユウトに、ユウヒは静かに言った。

「狂熊覚醒を使え。お前の全力を見せてみろ」

ユウトは一瞬、抗議するように口を開きかけたが、ユウヒの厳しい表情を目にして、口を閉じる。

一瞬の躊躇の後に、ユウトは兄を真っ直ぐに見つめ、こくりと頷いた。

そして金熊は、腰を深く落とし、目を閉じると、両腕を胸の前で交差させる。

全身に力を漲らせ、鋭い呼気と共に目を開く。ユウトが目を開けると同時に、場の空気が変わった。

見守る一同は息を殺し、タケシは鋭い視線でユウトを見つめている。

 なんとなく、雰囲気がおかしくなった事は感じたが、アケミには何が起きているのか解らない。

しかし、アルには何が起こったのかがはっきり解った。

 禁圧解除をさらに越える、限界を超える力の負荷に、立っているだけのユウトの全身が軋みを上げていた。

 そして、常のユウトにはない、どこか禍々しいプレッシャーが、その体から放たれている。

獣の咆吼とともに、金色の巨躯が地を蹴った。一足飛び、瞬間的にトップスピードに達しつつ、ユウトは右腕を力任せに横

に振るった。

それを左腕で受け止めたユウヒの体が、初めて後退する。拳圧で突風が巻き起こり、二人の被毛を激しくたなびかせる。

 もはや、アルの目ですらも動きが追いきれず、タケシにもかろうじて捉えられる程のスピードだった。

間髪入れずに振るわれた左腕が、ユウヒの胴に飛び込んだ。反応して差し出された右手が、その拳を掴んで止める。

しかし、その直後に赤銅色の巨躯が仰け反る。

 息つく暇もなくユウトの蹴りが下から跳ね上がり、ユウヒの顎を直撃していた。

 前蹴りを放ったユウトは、そのまま軸足で地を蹴り、ユウヒの腹をソバットで蹴り飛ばした。

 ユウヒは後ろに滑りながらも、なんとか堪える。踏ん張った両足が地面に深い溝を残していた。

「…す…すげぇっス…」

アルはユウトの潜在能力に驚きを隠せない。白熊が想像していたよりも、ユウトはずっとずっと強かった。

が、タケシの方は、猛攻を凌ぐユウヒの様子を見て、違和感を覚えていた。

 攻撃をかわし、受け止め、受け流しながら、ユウヒは一切手を出していない。

 まるで、攻撃を凌ぎながら、じっとユウトの様子を観察しているように見える。

不意に、昨夜ユウヒが言っていた言葉が思い出された。

「俺は俺で手を考えてみる」

 ユウヒは、ユウトの狂熊覚醒を完成させる為に、自分の目で問題点を確認しているのだと、青年は察する。

「あれ…?」

やがて、アルが訝しげに首を傾げた。

 最初は押していたユウトだったが、次第に攻撃が当たらなくなってきている。

 技の組み立てが雑になり、力任せの、大振りな攻撃が多くなっている。

呼吸もだいぶ荒くなり、その瞳は炯々と、嫌な光を放ち始めていた。

「ユウト!」

ユウヒに一喝されると、金熊はビクリと身を竦ませた。

 一瞬動きが鈍った次の瞬間、その腹に、ユウヒの拳が飛び込む。

 まともに鳩尾を痛打され、ユウトは数メートル吹き飛び、仰向けに倒れる。

「がふっ!げほっ!がはっ!」

腹を抱えて悶絶し、地面を転がりながらむせ返るユウトを、ユウヒが見下ろす。

ユウトは我に返ったようで、瞳には澄んだ光が戻り、狂熊覚醒も解除されていた。

「まあ、このくらいにしておくか…」

恨みがましい目で自分を見上げた妹に、ユウヒは静かに語りかけた。

「お前の中には、狂熊覚醒への恐れがある。心を強く持て。でなければ今のように、内なる獣に飲まれ、我を失う事になる」

ユウトは一瞬、何を言われているか解らない様子だったが、やがて、地面の上に正座し、まっすぐにユウヒの顔を見上げた。

「忘れるな。目を逸らすな。臆するな。内なる獣もまたお前自身。どれほど忌み嫌おうと、消すことも、切り捨てる事も叶わ

ぬ。己自身を恐れる心がある限り、狂熊覚醒はお前のものにはならぬ。これを肝に命じておけ」

ユウヒの言葉に頷くと、ユウトは深々と頭を下げた。

「ありがとうございました!」

ユウヒは服についた土埃を払いながら、使用人達に視線を向けた。

「さて、そろそろ朝食の支度を頼む。それと、朝飯の前に風呂に入りたい。シバユキは念のため、ユウトの傷を見てやってくれ」

ほっとしたような表情で一礼し、持ち場へと向かう使用人達。その中で、シバユキだけがユウトに駆け寄った。

「怪我なんかしてないよ。先にお風呂で体を洗う」

「駄目です。その前に体を見せてください」

しぶしぶ道着を脱ぎ始めるユウト。アルは慌てて回れ右し、壁を向いた。

「ああほら、肩のところ擦り剥いてますよ?首の所も少し切れて血が滲んでいますね。薬を付けますから、こっちに来て下さい」

シバユキに手を引かれ、上半身裸のユウトが屋敷に入っていくと、アルはほっとしたように壁から視線を離した。

「お疲れ様です。いかがでしたか?」

チナツに問われたユウヒは、顎をさすりながら言った。

「一発、良いのを貰った。歯が欠けるかと思ったぞ」

「その割には、平気そうな顔に見えますが?」

タケシの言葉に、ユウヒはにやりと笑った。

「実は痩せ我慢している。妻と妹、それに客人の前で情けない姿など見せられぬのでな。自室でこっそり痛がるとしよう」

思わず吹き出したアケミは、口元を抑えて謝る。

「ご、ごめんなさい。凄く正直におっしゃるもので、つい…」

笑いの衝動を抑え込むと、アケミは微笑んで言った。

「でも、とてもステキです。へんに飾らない所が」

「そうっスね。かっこいいっス!」

アルにもそう言われると、ユウヒは頬をぽりぽりと掻き、困ったようにチナツを見た。

「ユウヒ様。褒められているのですよ?」

「…そうなのか?」

巨熊は微妙な表情で呟いた。



「やっぱり兄さんは強いなぁ…。禁圧解除も無しで、軽くあしらわれちゃった」

シバユキに薬を塗って貰いながら、ユウトが呟く。

 歯が立たなかった事が残念そうでもあり、同じくらいに兄の強さが誇らしげでもあった。

「お嬢さんも腕を上げたじゃないですか。雷音破に続けて蒼火天槌までお使いになるなど、ずいぶん持久力が上がりましたね」

「あの二発で精一杯だよ。もう拳を覆うだけの力場も作れなく…、って痛い痛い痛い!しみる!そこしみる!」

「動いてはいけません。我慢してください」

ユウトは頬を膨らませる。

「久しぶりに会うのに、シバユキは優しくない!」

「そんなの昔からじゃないですか」

シバユキが涼しい顔で言うと、ユウトはふてくされたような顔をした。

「怪我…、しないように気をつけて下さいよ?膝を擦り剥いても、鼻をぶつけても、お嬢さんが離れていたら、私は手当てで

きないんですからね…」

幼馴染みが自分の身を案じてくれている事が、肩に添えられた手から、温もりと共に伝わってくる。

 ユウトはその手に自分の手をそっと重ね、小さく頷いた。

「ん…。気をつけるよ。ありがとうシバユキ…」



時計の針が正午を回ると、一行は屋敷を出て、車に乗り込んだ。

「ユウトちゃん、生水には気をつけてね。あと、甘いものは控えめに…」

「分かってるよ義姉さん。もう子供じゃないんだから、心配しないで」

苦笑いした運転席のユウトに、ユウヒが厳しい表情で言う。

「子供でないと言うのならセロリも食え」

ユウヒがユウトの向こう、助手席のタケシに目礼すると、青年もそれに応じ、黙って頷いた。

「大した持て成しも出来ず、申し訳ない。アルビオン君、アケミさん、気が向いたら、また遊びに来てくれると嬉しい」

「はい、ぜひまたお邪魔させて頂きます」

「オレも必ずまた来るっスよ。お世話になったっス!」

笑顔で応じる二人に、ユウヒは妹とそっくりな笑い方で笑み、頷いた。

「お嬢さん。くれぐれも無茶は謹んでくださいね?」

「もう!分かってるってばシバユキ」

まじめ腐って言ったシバユキに、ユウトは苦笑して頬を掻く。

「またおいでになって下さいね!」

「秋には山菜が美味くなりますから!」

「今度いらっしゃる時は鍋を用意しますよ」

たった一日の間だったが、大切な客として扱ってくれた使用人達に、一行は手を振って別れを告げる。

ユウヒはユウトの頭をポン、と叩き、ワシワシと撫でた。

「道中、気をつけてな?」

「有り難う兄さん。皆も元気でね!」

走り出したランドクルーザーは、手を振りながら見送る者達にクラクションで応じ、山道へと降りていった。