第二十三話 「努力の天才」
「臨時休業…、っスか?」
リビングには、タケシとユウト、アルが集まっていた。
カルマトライブ調停事務所は、今まさに夕食時、三人の前のテーブルにはユウトお手製のキノコクリームパスタと、コンソ
メ味の野菜スープ、ツナサラダなどが並んでいる。
聞き返したアルに、ユウトとタケシが頷いた。
「明日、急な用事で出かけなければならなくなった。ユウトは残るが…、緊急時対応の事を考え、事務所は閉めておく」
警察関係、主にカズキからの緊急呼び出しに備えるとなれば、一人残ったユウトが(万が一)やってきた依頼人から仕事を
受けてしまった場合、素早い対応ができなくなる。
一応アルが居るものの、正式なメンバーではないので事務所の番までは任せられない。ついでに言えば、この町の地理に不
慣れなため、緊急時にもタケシかユウトのどちらかと行動を共にする必要があった。よって、よほどの事がない限り、一般の
依頼は取らない事にしたのである。
「まあ、開けておいても、どうせお客さん来ないだろうけどねぇ」
「まったくだ。だが一応形だけは閉めておいた方が良いだろう」
呑気にそんな事を言っている二人を眺め、アルは呆れるとともに微妙な気分になる。
優れた調停者を5人挙げろと言われれば、ほとんどの調停者はこの二人を上位五名に挙げるだろう。アルの頭にも間違いな
く、ダウドとネネ、トシキの他に、この二人の名が浮かぶ。
他の大きなチームのリーダー達も候補には登るが、個人の能力を見るならば、やはりタケシとユウトはずば抜けて高い。に
も関わらず、二人だけという構成員の少なさゆえに、大口の仕事も受けられず、ほとんど警察からの緊急要請だけで事務所を
運営している。
二人の実力は警察機関には正当に評価されているらしく、緊急要請の舞い込む頻度は決して少なくはない。だが、一般の依
頼客からすれば、この小規模なチームはいまひとつ頼りなく見えるのだろう。
一般市民を護る。という調停者の基本理念を大切にしているユウトは、今の状況にあまり不満はない様子である。
タケシに至っては満足しているかどうかすら良く分からないが、ユウトの考えに概ね賛成しているように思える。
「…もったいないっスねぇ…」
一言で言えば、アルの感想はそういう事だ。
あと数人もメンバーが居れば、もっと多くの仕事を受けられるし、客層も広がるはずだ。が、タケシは信頼できない赤の他
人をメンバーに加えるつもりは全く無いようだし、ユウトもその方針に賛成しているらしい。
ため息混じりに呟いた白熊がそんな事を考えているなどとはつゆ知らず、タケシとユウトは首を傾げた。
「まあ、そんな訳で明日はお休みだから、一日のんびりしてて良いよ。例えばアケミちゃんとどこかに出かけるとかさ」
「アケミ、明日は登校日っスから…」
「ありゃ、そうなんだ?ところでアル君の登校日はいつなの?」
「一昨日だったっス。もちろん帰る気なんか無いからサボったっスけど」
「ちょっと、ダメじゃない!」
ユウトは眉根を寄せて説教を開始し、タケシはそれを横目で眺めながら、食後のプロテインコーヒーを啜る。
ユウトとアルは、タケシからは姉弟のように見える。実際にユウトもアルを弟のように可愛がっているし、アルもまたユウ
トを慕っている。
青年やダウドに対する、調停者として、目指す目標としての慕い方ではなく、肉親に対するような慕い方だ。
(アルならば、チームに迎え入れるに値する。実力的にも、人格的にも信頼できる逸材だ。だが…)
タケシは軽く首を振り、その考えを頭から追い出した。
アルは若くしてブルーティッシュ主力部隊に所属する、ダウドも期待を寄せるルーキーだ。ゆくゆくはネネやトシキのよう
に、チームを支える中心的な存在になる。ダウド達もそれを望んでいるだろう。
「…いい?例えどうでもいい行事でも、サボっちゃダメ。経験できるのは今だけなんだから!」
「分かったっスよ…」
こってり絞られ、しょぼくれているアルに、ユウトはため息をついた。
「まあ、過ぎちゃった事はもう仕方ないけど…」
「悪かったっス…」
二人が本当に姉弟に見えて、タケシはフッと笑う。
「それでユウト、お前はどうするつもりだ?」
「うん?ん〜、兄さんと立ち合って体がなまってるの痛感したし、身体動かしとこうかな?うん。トレーニングにしとくよ」
「ならばアル。暇なようならユウトとトレーニングしたらどうだろうか?俺の帰りは遅くなる。明日は稽古を見てやれないからな」
「ユウトさんとっスか?」
アルは意外そうにタケシとユウトを見比べる。
「俺との稽古は欠点克服に役立つだろうが、お前の長所を伸ばすならば、ユウトと稽古するのも悪くないだろう」
「オレの長所って…」
アルはしばらく考えてから、
「なんスかね?」
と首を傾げ、ユウトを失笑させた。
「パワーとウェイトだ。どちらもお前が得意な近接肉弾戦では大きな武器になる」
タケシはユウトを横目にしながら続けた。
「能力を利用し、どの間合いにも柔軟に対応できるのがユウトの強みだが、真骨頂はやはり近接戦闘…、正面切っての殴り合
いだからな。生粋のブルファイター同士、参考にできる所も多いだろう」
「そういう事なら、お願いしてもいいっスかね?」
「ボクは構わないよ。二人の方が楽しいだろうし」
笑顔で頷いたユウトから視線を外し、タケシはアルの顔を見つめた。
「では、幸運を祈る」
奇妙な言葉に首を傾げたアルが、その意味を理解したのは、翌朝のジョギングが開始された後の事であった。
「ゲボボッ、ゲボォッ!ゲハッ!ガハッ!」
早朝。清々しい朝の空気の中、県道の道路脇では、側溝の所に屈み込んで思いっきり嘔吐している白熊の姿があった。
ユウトは心配そうにその背をさすり、尋ねる。
「大丈夫?ちょっとペース速かったかな?」
明朝5時に事務所を出発してのジョギングは、アルの予想し得る常識の範囲を大きく超えていた。ユウトのジョギングは距
離にして50キロにも及ぶ、フルマラソンをも超えた長距離ジョギングだった。
「うぇっぷ…。だ、大丈夫っス…」
出発前に飲んだ牛乳をすっかり吐き出し、ふらふらと立ち上がったアルの前で、さほど疲れた様子も見えないユウトが、励
ますような口調で言った。
「それじゃあ、事務所まであとたった14キロくらいだから、がんばってこー!」
「…うっス…」
戦士は身体が資本。特にスタミナと足腰の強化は基本中の基本。
幼い頃から父とユウヒにそう教えられ、そして実践してきたユウトのトレーニングメニューは、ブルーティッシュの厳しい
訓練を潜り抜けてきたアルにとっても、想定外にハードなものだった。
ジョギングが終わったら朝食を摂り、少し休憩を取った後は、午前中一杯みっちりウェイトトレーニングと縄跳びが行われ、
昼食後、二度目の休憩の時には、アルはすでにぐったりしていた。
「…これ、休みのときは毎日やってるんスか…?」
「ううん。こういうふうにみっちりは、本当に何にもない日にたまにやるだけ。普段は軽い筋トレと、少しジョギングするくらい」
涼しい顔で応じるユウトには、疲れている様子はほとんど見られない。汗を流し、すっきりした様子ですらある。
「休憩終わったら軽く組み手しようか。そっちのが興味あるでしょ?」
ユウトに頷き返しながら、アルはプルプルいっている自分の足を揉みほぐし始めた。
鳩尾に、下から突き込まれる見事なボディブローを食らい、宙で一回転して床に這い蹲ったアルは、腹を抱えて悶絶する。
「だ、大丈夫?まさかまともに入ると思わなかったから…」
ユウトに助け起こされたアルは、少し乱暴にその手を払いのけた。
「このぐらい平気っス!さ、続けましょう!」
刃を潰した訓練用の斧を握り直しながら、アルは自分の不甲斐なさに憤りを感じていた。
能力も使わず、禁圧解除すらしていないユウトに、アルは全く歯が立たない。振るった斧は全てかわされるか受け流され、
場合によっては受け止められる。
反対に、ユウトの拳は速く、重く、かわすのも難しければ、受け止めようものなら大きく体勢を崩される。まともに食らえ
ば、200キロ近いアルが簡単に宙に浮く。
基礎身体能力が段違いな上に、ユウトとアルには圧倒的な経験差があった。
せめぎ合いが一手、二手と進むにつれて、動作の選択や攻防の判断においてどうしても差が出てくる。
(タケシさんが、肉弾戦じゃ絶対に敵わないって言ってた意味が、良く分かったっス…)
初めこそ良いように捻られっぱなしだったが、アルはユウトの戦い方を見て、少しずつ学び始めていた。
その中で彼が最も注目したのは、ユウトの足捌きである。
攻めの際には大地を震わせるほどの勢いで踏み込まれ、攻撃を受け止める際にはしっかりと踏みしめられ、地面に根が張っ
たようにビクともしない。
反面、間合いを調節したり、攻撃を避ける時などには、風のように速く、滑るようになめらかに、驚くほど軽やかなフット
ワークを見せる。
その足捌きが動き自体に緩急をつけ、攻撃を見切り難く、そして防御し辛くさせている。
そして自覚した。アルの戦闘スタイルもまたユウトと同じく、足捌きが重要である事を。
大戦斧を振るう時は、腕や肩だけで振り回すのではなく、しっかりと足を踏ん張り、全身で振り抜く。
そのためこれまでは、いつでもしっかりと足を踏ん張れるようにベタ足だったが、ステップワークに気をつけるようにする
と、ぎこちないながらも少しは回避しやすく、スムーズに間合いを調節できる事に気付いた。
休憩に入ると、アルの変化に気付いていたユウトは感嘆の声を上げた。
「器用だねぇ。この短時間でスタイルを変えられるなんて」
「オレ、中学の時に柔道やってたんス。最初はリーダーに勧められて嫌々始めたんスけど、これでも個人戦で全国制覇したん
スよ?で、柔道の体移動の足捌きを思い出したら、なんとか使えそうかなぁと思ったんスけど…」
ユウトは感心したように頷いた。
「なるほど、柔道かぁ…。うん。悪くないと思うよ。前に身に付けて土台がしっかりしてるから、すぐにスタイルに馴染むと
思う。ボクもアル君も近距離戦が得意だから、足捌きって重要なんだよねぇ」
アルは頭を掻きながら、
(今さっき、やっと気付いたんスけどね…。やっぱりオレってまだまだっス…)
と、心の中で呟いた。
「それじゃあ、夕食の準備もあるし、次の一本で一度切り上げようか」
「うっス!」
二人は部屋の中央で向かい合い、身構える。
アルの構えは若干変化し、斧を右後方へ大きく引き、右足を後ろに、左足を前に出す、ユウトの構えに酷似したものになっ
ていた。
一撃に重きを置く、パワーファイターが放つ独特の圧力が、修練場に満ちてゆく。
瞬時に間合いを詰めにかかったユウトに、アルも同じく間合いをつめる。
先んじて振るわれた拳を水平に構えた斧の柄で受け止め、踏ん張った足に力を込め、強引に斧を振り抜く。頭を下げたユウ
トの後頭部を掠め、斧が凄まじい速度で通過する。
がら空きになった胴体に放り込まれた左のボディブローに対し、アルは振るった斧の勢いをそのままに、左足を後ろに引き、
身体を開いてかわす。
さらに追撃に移ろうとしたユウトは、不意に伸ばされた手に気付き、上体を反らす。
いつのまにか斧の柄から離れていたアルの右手が、ユウトの襟を掠めていった。
(襟を取りに来た?これってまるで…)
一瞬気を逸らされたユウトは、はっとして足を引いた。そのすねを掠め、足を払おうとしたアルの蹴りが行き過ぎる。
(なるほど、今のは出足払いってヤツだね?取り入れたのは、柔道の足捌きだけじゃないって訳か…)
万が一にも、掴んで引き倒されるか、足を払われて体勢を崩せば、一瞬の隙を突いて本命の大戦斧が叩き込まれる事になる。
ゾクゾクする感覚がユウトを総毛立たせた。
(化けた!この短時間で…!)
ユウトは高揚感が湧き上がるのを感じていた。
タケシのアドバイスは正しかった。アルは自分と同じタイプであるユウトと模擬戦を行う事で、自分が身に付けるべき物を
悟った。さらに、柔道という名のすでに身に付けていた武器を利用し、これを補った。
(ダウド、タケシ、キミ達が期待するだけの事はあるよ。アル君は天才かもしれない!間違いなく、キミ達のような優れた戦
士になる!)
アルは振り切った状態の斧を、柄の中央を握った片手でくるりと反転させ、石突で突いてくる。
それを避けつつ、ユウトは続けて襟を取りに来た腕を払いのける。
アル本来の飲み込みの早さによるものか、これまで両手で武器を扱っていた時とは全く違い、両腕がそれぞれ別の動きを見
せている。
石突で突きを放った斧を再び反転させ、短く握った状態から左手一本で叩き付けるアルに対し、ユウトは握っている手めが
けて素早く脚を振り上げた。
「っくぅっ!?」
したたかに左手を蹴られ、苦鳴と共に斧を手放してしまったアルの眼前に、振り上げられたユウトの踵が落ち掛かる。
鼻先すれすれでピタッと止まった踵を前に、アルはため息を吐き出した。
「…また一撃も入らなかったっス…」
「でも、今のはずいぶん良い線行ってたよ」
脚を下ろしながらそう言うと、ユウトは微笑む。
「焦らず、じっくり煮詰めて行けばいいよ。キミの努力は、間違いなく実ってる」
ユウトの励ましにも、アルは何故か浮かない顔だった。
「どうしたの?」
「…オレ、なんで能力者じゃ無かったんスかね…?」
自分の手を見つめながら、アルが呟いた。
「良い線行ったって言っても、ユウトさんは力も使ってない…。ちょっと本気出されたら、オレじゃ手も足も出ないっス…。
なんで…、なんでオレには、何の力も無いんスかね…?」
「アル君…」
ユウトはアルに歩み寄ると、手を引いてベンチに連れて行く。そして並んで腰掛け、口を開いた。
「能力者でなくとも、一流の戦士は数多く居るよ。ダウドが良い例じゃない」
「だって、リーダーはあの黒剣…、ダインスレイヴが使えるっス。オレはレリックの適性も低いし、リーダーみたいにはなれ
ないっスよ…」
「それじゃあ、ダウドが黒剣じゃなく、例えば…、そう、鍬とか握ってたら、勝てる?」
アルは一瞬考え込み、首を横に振った。頭に思い浮かんだ鍬を担いだダウドの姿は、普段よりむしろ凶悪そうに思えた。
「じゃあ、握ってるのがグラウンド整備用のトンボだったら?道路の速度標識だったら?バス停の看板だったら?」
アルはことごとく首を横に振る。
「ダウドの強さは、あの黒剣にある訳じゃないよ」
「でも、リーダーは天才っス…。オレは平凡で…」
ユウトは少し驚いたように目を丸くした。
(気付いてないんだ、自分の実力がどれ程なのか…。身近にとんでもなく上の存在が居過ぎて、彼らと比較し過ぎて、自分が
無力だと思い込んでるんだ…。だからいつも、なんとなく自信無さそうにしてたんだね…)
そう考えたら急に可笑しくなり、ユウトは小さく笑った。訝しげに自分を見たアルに、ユウトは優しく語りかける。
「キミも天才なんだよ?少なくともボクにはそう見えてる」
「オレが…?…一体どこがっスか…?」
「キミはね、努力の天才。その若さで禁圧解除を会得した。その歳でダウドに前戦を任された。ほんの短い間にタケシに認め
られた。もちろんボクだって、キミの事を信頼できる人物だって認めてる。全部、キミが努力して来た成果だよ」
きょとんとしているアルに、ユウトは続ける。
「キミは、ちょっと上ばかり見すぎてるんだと思う。身近にダウドが居て、タケシに稽古を付けて貰って、たぶんレベル差を
痛感して自信を無くしちゃってるだけ」
そう言うと、ユウトはアルに微笑みかけた。
「アル君は自分より下を見て満足したりしないんだよね。いつも上ばかり見て追いかけてるんだ。…昔のボクと同じだね」
「…ユウトさんと?」
聞き返したアルに、ユウトは笑いながら頷く。
「ボクの場合は、傍にずっと兄さんが居たからね。どうしても比べちゃった」
そう言って苦笑いし、ユウトはアルの頭をグシグシ撫でる。
「背伸びして、上ばかり見て、焦って身に付けた奥義は今でも制御できてない。見上げるばかりで、足下がおろそかになって
たんだね」
「下ばかり見ててもダメ…。上を見すぎてもダメ…。難しいっスよ…」
項垂れたアルの横で、ユウトは立ち上がる。
「だからね、前を見るの!」
顔を上げたアルには、ユウトの微笑みが眩しく見えた。
「しっかり前を向いて、目の前の事を一つ一つやってく!努力すれば必ず報われる訳じゃない。でも努力しなかったらそこま
で。その事をアル君は良く分かってる。諦めずに足掻いてる。だからキミは、努力の天才っ!」
ユウトはアルに背を向け、ドアに向かってゆっくりと歩き出した。
「もっと自信を持って。キミは自分で思い込んでるほど、無力じゃないんだから」
ドアの前で肩越しに振り返り、ユウトはアルに笑いかけた。
「保証するよ。正面きっての殴り合いで、ボクに鳥肌立たせられる相手なんて、この国にはキミを含めても五人しか居ないん
だからね?」
アルはしばらく黙っていたが、やがて、微かな笑みを浮かべて頷いた。
「それじゃあ、夕食の支度ができたら声かけるから、少し休んでて。たっくさん動いたから、お腹ペコペコでしょ?」
「うっス!」
元気な返事を聞いて満足したのか、ユウトは満面の笑顔でトレーニングルームを出て行った。
一人残ったアルは、自分の手を見つめた。
「…努力っスか…」
それから拳を握り込み、頷いた。
「…そうっスね…。どのみちオレには、がむしゃらになって打ち込む事くらいしか、やれる事なんて無いんスからね…。無い
物ねだりしても仕方ないっス。今まで通り、少しでも強くなれるように、できる限りの努力をするだけっス…!」
ユウトの言っていたことを反芻し、さっぱりとした表情を浮かべて、アルは何度も頷いた。